2012/06/16のお昼のニュースを、私は田んぼで苗とりをしながら聞いていた。折から雨で、合羽の上下とその中にトレーナーを一枚着込んで泥の上にかがみ込んでいた。6/08に近畿地方が梅雨入りしたあと清明のときは過ぎ去ってしまったが、かといって重く垂れ込めた暗雲が泣き出すわけでもなく、時折雲間から辻斬りのように差し込んで来る強い陽射しが夏至の近い事を教えてくれる。そんな日々が続いたが今日は、昨日までの曇天が遂にその堪忍袋の緒を切って、あたりに恵みの雨をまき散らしてくれるという予報であって、これから先一週間程度は雨続き、つまり本格的な梅雨の始まりというわけだ。昨夜から今日未明にかけてはここらも大荒れの天気で、早々に今日の田植えの予定中止を仲間に連絡した後、あとの段取りを考えていたのだが、頃合いもわきまえずに台風が直進して来る。こいつをやりすごしてからなんて考えてたら暴れ梅雨に田植えの時機を逃して全滅なんてことになりかねないので、一か八か明日にかけて今日は一人泥に手足を浸している訳である。特に寒いということはない。風も適度に吹くし、雨もそう激しい訳ではない。
腹も減ったが、とりあえず良い苗の見極めの感覚だけは掴んでおきたいと頑張っていた頃に正午になった。やはり・・・奇跡は起きなかった。福井県の西川知事は、関西電力大飯原子力発電所3号機と4号機の再稼働について、非常に重要な8つの「前提条件」を付けて容認する意向を表明した。これによって、野田総理大臣は政府として再び原発再稼働へと舵を切った。8つの前提条件については、「真摯に受け止める」と答えただけだった。それでは「前提」にならない。しかし西川知事は、「確約が得られた」として「同意」した。1年半前には考えられなかった事だ。「この夏の電力不足」をキャッチ・フレーズにした、政府と電力業界とマスコミがしっかり手を組んだキャンペーンで、「原発の危険性」の問題はエネルギー受給の問題にすり替えられ、「現実的」・「合理的」見地から「感情的反対論」は分断され外堀を埋められ、ガラス固化されて地中処分された感がある。いつのまにか・・・そう、いつのまにか「安心」・「安全」の声は聞かれなくなり、「15%以上の節電要請」に怖じ気づいた経済界からの猛烈な圧力の前に、倒閣までぶち揚げて反対論を展開して来た橋下市長でさえ「敗北」した。こうして完全に囲い込まれた最後の関門が、「地元」だった。「地元」とは何か、という議論も「立地自治体」という言葉に置き換えて限定し、結局のところ全ての刃を研ぎすませて西川知事個人に突きつけた。このやり口は勿論ヤクザの常套手段だ。その瞬間、日本のエネルギー政策の1ページは彼ひとりに委ねられた。史上ワースト2の原発事故を起こした日本が「脱原発」に踏み出すのか、それとも「原発異存」に戻るのか、世界中が固唾を飲んで見守る中、「国民の皆様の生活を守る事も大切ですが、私は立地自治体の首長として、皆様の生命を守る義務がある。原発と生命は共存出来ない。だから再稼働については、これを認めることは出来ません。」と、きっぱり言ってほしかった。それこそが勇気ある「現実的」で「合理的」で「科学的」な判断というものだ。しかし・・・奇跡は起きなかった。
2012/05/06から1ヶ月とちょっと、日本は「原発ゼロ」の状態だった。これはこのエネルギー消費大国にとって全く希有のみならず、原発について国民全体がよく考えてみる絶好のチャンスだったはずだ。「推進」でも「反対」でもない、ニュートラルな立場からよく考える。国民一人一人がそうであっただけでなく、国としても本当にこの問題を国民的問題と考えるのなら、国民が公平に考えて判断出来るだけのお膳立てをしても良かったはずだ。きちんとした情報公開、素朴な疑問であっても自由にやり取り出来る情報交換の場、様々な意見や考え方の蓄積と集約、これらを提供する仕組みがあって初めて、国民は「知る」ことができ、民主的に「決める」事が出来る。しかし実際には言論は封殺され情報は統制され、隠蔽と恫喝、囲い込みと煽動によって物事が決められ、直接請求の手段も重機で粉砕された。手法としては日本もシリアや北朝鮮と全く変わらない。日本に民主主義など存在しない。国民の生存に関わる大問題を民主的に決める事すら出来ないのだから。物事は力づくで決まる。これは歴史が証明して来た事であり、現代の日本が特別な訳ではなく、あの原発事故の教訓を生かせずに元の木阿弥に溺れ込んだからといって、誰を責めることもできない。いつものことだ。ただひとつだけ異なるのは、扱っているものが地球をいくつも滅ぼしてしまうかもしれない物質であるという事だけだ。
さて、では「ニュートラルな立場」とはどんなものか。「原発ゼロ」の状態は、図らずもそれを実現してくれていた。つまり、それまでは「進める」ことしかできなかったのが、「進めない」という選択肢も生まれたからだ。いやそれでも「進める」という立場の成り行きについては、改めて説明の必要もなかろうから、ここでは「進めない」事についてニュートラルに考えてみたいと思う。関西電力の言う通り、この夏の電力不足は深刻で総量で15%以上の節電を要する、とする。本当にそうなら、福島第一原発の事故によって突如電源を失った東京電力と違い、この事態は1年半以上前から予測出来たはずだから、どの部分にどれだけの節電を割り振りして、全体として15%以上の節電を実現するかという真剣な議論がなされるべきである。つまり、関東地方で行われたエリアごとに一括した「計画停電」ではなく、病院・警察・消防・公共機関・福祉施設など、インフラ弱者が収容されている施設に優先的に送電あるいは自家発電設備などの代替電源を配備し、我が家のような反社会的思想の持ち主のところはたちどころにカットして、次に娯楽施設・商業施設・オフィスビルなどの事務系の組織が入る建造物の照明設備などに対してはより高い節電目標を課する、などという個別の検討や、送電設備の振替などが真剣に検討されるべきだった。1年半も時間があったのだから、高い技術大国の日本であれば、それは可能であったはずだ。少なくとも、「原発ゼロ」でいかに乗り切るかの議論は行われたはずである。しかし、それは行われなかった。「進めない」道を選べば、相対的に電力は不足する。それは、火力や水力などで補わざるを得ないから、それらの調達コストが上昇して一時的に電気料金も上昇する。これについて具体的に検討して踏み込んだ発言をした橋下市長は勇気があると思う。「大飯原発の再稼働がなければ月額2,000円程度の節電税を徴収する」という試算に基づいた方法論に言及したからだ。それはあくまでも提案にとどまるものだったが、「進めない」道を選んだ場合の負担について意識づけることになった。そして最終的には、「進めない」道を選んだ場合、「脱原発」社会に軟着陸する道筋について、きちんとしたプランを指し示す事が大切である。それは何十年も先のことになるかもしれないが、日本が生き残るに必要十分な、身の丈にあったエネルギー消費量の総量を計算して、現在の消費量との差分について、具体的に何処からどのように削っていくかの、「現実的」・「合理的」検証が行われてしかるべきである。そうなって初めて、「原発のない日本」に生活する権利も保障される。これこそが「ニュートラルな立場」というものだろう。
実際はそうはならなかった。「進めない」という選択肢を採用するわけにはいかない特段の事情がある事は想像に難くない。文学部哲学科を卒業した私にも、長い人生裏街道を一匹狼で渡る間にバランス・シートを身につける余裕はあった。原発関連資産の極端に多い関西電力が、これを全廃してしまえばどうなるかくらいは理解出来るし、そこに原発再稼働を急ぐ本当の理由があることもわかる。それが原発を推進したい経済界などの圧力や対応に苦慮して来た政府の利害と一致した事も想像に難くない。しかし私のブログに、そのような穢らわしいテーマについて、いちいち検証して文言を並べる余地はないので、端的に現状についての私の考えのみを書き残しておきたい。政府は「進める」事に舵を切った。「安心」・「安全」についての議論を封殺して「この夏の電力不足」の議論にすり替え、経済界の不安を煽って政治家を動かし、「生活を守るために」電源は必要だという世論を形成して反対勢力を分断し、「立地自治体」を追いつめて止めを刺す事に成功した。とにかく「原発ゼロ」の状態から一刻も早く脱却させるために、大飯原発再稼働で風穴を開ける必要があった。だから全ての議論は形式だけ執り行って、中身については「進める」筋書きに従ってストーリーを整えて骨抜きにした。これをもって「公式見解」として、大飯原発再稼働は「正式決定」された。
しかしだからといって悲観することはない。なぜならこの夏われわれは電力不足を乗り切れるからだ。大飯原発3号機と4号機が動けば15%の節電をしなくても計算上は電力不足には陥らない、と関西電力自身が暴露している。数字にはトリックがあるのでここにデータを出しても反論の機会を与えるだけだからやめとくけれども、このことは15%の逼迫というシナリオ自体にトリックがあることを示唆している。少なくとも、原発は2機程度で充分であることを我々は身を以て実証するのであり、それが最も有力な「武器」になる。関西電力の50%近い「依存」率の裏事情を明るみに出す好機になる。更に大飯原発3号機と4号機は「この夏の電力不足」を満たすために再稼働するのであって、そのほかの原発を順次稼働させて行くには別の理由が必要になる。なぜならその時点では、日本は「この夏の電力不足」を乗り切ったからである。我々は「進める」立場の人たちがどのような手段で「進める」のかをつぶさに見て取った。その手法は大したことではない。勿論テクニカル・ディテイルに踏み込めば、踏み込むほどに泥沼に飲まれて行くのであるが、それは彼らの思うつぼである。だから、われわれは技術的なテーマに巻き込まれてはいけない。絶対にいけないのだ。つまり、「きれいな海を返せ」・「きれいな空気を返せ」・「安全な食物を返せ」と声高に叫ぶことができるし、それが我々に取って最も真っ当な主張だからである。「原発2機」の状態は、これまで非現実的に聞こえたこれらの主張が、我々に近くなった事を教えてくれるはずだ。つまり、「原発ゼロ」も「原発2機」も、大した違いではない。彼らはことさらに風穴にこだわり過ぎ、騒ぎすぎた。だから我々は彼らのヒステリックなやり口、非「現実的」・非「合理的」な方法論についてつぶさに見ることができた。秋以降が正念場である。
最後に、私の考えについて簡単にまとめておきたいと思う。私は、根本的に人類に核を扱う能力はないと考えている。仮に幻の「プルサーマル」が実現したとしても、使用済み核燃料や高レベル廃棄物を最終処分する確実な方法を、人類は持っていないからである。最も安全とされている地下数百メートルへの埋設でさえ、地殻変動の影響を免れ得ないし、そもそも数万年という単位でそれらを冷やし続ける能力が人類にあるはずがないからである。福島原発事故にかかる賠償に国が乗り出さざるを得ない事を見ただけでも、原発が低コストであるという議論が全くのでたらめである事は明らかだし、二酸化炭素を排出しないというのも「発電所」に限定した話であって、ウランの採掘から精製、中間貯蔵つまり冷却し続ける事や、まだ決まらない最終処分には無限の管理が必要なことも考え合わせると、原子炉の安全性に関する技術的論議以前に、人類に扱える代物でない事だけは確実である。だから私は原子力発電はいうにおよばず、現代人のエネルギー消費のあり方について、価値観を大幅に見直さなければ未来はないと考えている。だからこうして、一本一本苗を選り分けて田植えに備える。この一本が一合の飯になり、ネコの額ほどのこの田んぼと畑で、だいたい大人3人が一年食べていけるだけの収穫が上がるのである。それを人力でやるのに、だいたい健康な男ひとりが一年中ほぼ毎日労働する必要があって、しかし知恵を絞ってそれらを金に換えたとしても、年間に「数十万円程度にしか」ならないのである。これを「数十万円程度にしか」とみるか、「数十万円程度にも」とみるかによって価値観は大きく異なる。いまの日本は「数十万円程度にしか」ならない社会であるが、国民が消費するエネルギーが何十分の一かになれば、「数十万円程度にも」なる社会が実現する。そうなれば原発どころか、化石燃料もそんなに必要のない社会になるであろう。もちろんそれまでには乱世の時代があって、私なんぞは理屈をほざいとる間に暴漢に鍬でめった打ちにされて用水路へ放り込まれ、作物も持ち物も全て奪われて消え去るのが先であろうが・・・