2013年01月31日

20130131 せやからいうてるやんか

愛ちゃんかむばっくとぅみぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ (;_;)
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2013年01月30日

20130129 せやからいうてるやんか

 天は吾に試練を与えたもうた。しかしなんびとも吾をひとところに留め置くこと能わず。要するにねえ、事実をきちんと見据える事ですよ。あのアタマの腐りきったインテリヤクザの口車に乗るな、目を覚ませ、それは間違ってる、いい加減にしろ。きみらみんな洗脳されてる。彼は自分の手は決して汚さずに、人をうまく操って動かす事にかけては天下一品なんや。私の父もそうやったから、私は幼少の頃からそういうやり方を見てきた。インテリちゅうもんは、どれもだいたいおんなしようなもんや。口が上手いから気をつけろ。ちょっと聞いたら、「あっそうか・・・」と思ってしまう。ほんでついうっかり「チーム六甲山カフェ」なんてなにげなく黒板に書く。「なんでもやっていいんや」と思ってしまう。「違うんや」と、なんぼ私が言うても全然聞こえない。「話し合いのすえ決まった事」と思い込んでしまう。でも、それは絶対に違うんや。よく考えろ。今回の彼の行動が良い例や。それはみんな見ててわかってるはずや。彼が僕らを守ってくれたか ?? 半年も姿を現さんかったやないか ?? その間、役所や警察と対峙してきたんは誰や ?? 次になんか起こったら、裏切られるのはきみらやで。それがわからんか ?? それだけやない。責任は「大谷茶屋」にかかるんや。彼は同じ論法で逃げる。そのための準備は怠りない。アタマがええんや、きみらに太刀打ちなんかできるもんやない。だから、反論があるんやったら膨大なメール送り付けてこんと、堂々とブログ上でやったらどうや ?? 

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2013年01月26日

20130123 せやからいうてるやんか

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 さて、私が「六甲山カフェ」で何をしたかったかということについて、少し触れておきましょう。ご承知のように、私は六甲山の北麓である神戸市北区道場町で農業をしております。ひとりで、ほとんど「自然農法」に近いやり方で、農薬や化学肥料はもとより機械も使わず、放任栽培に近いやり方で作っておりますので、収穫物の均一性と収量は全く安定しません。従って、農産物を出荷して換金することによって生計を立てることは出来ません。しかしこの米や野菜たちは、立派に育っていて、きちんと調理すれば大変おいしい。農作業の手順も見極めもほぼ身に付いたし、そろそろ外へ出ていろいろ試したいと思っていたので、前々から打診のあったこの話に乗ったわけです。月に何度かの営業ですから、その程度ならば野菜や穀物を販売できるし、「指導」があるまではキムチ・味噌・バジルぺースト・赤シソドリンクなども販売していました。カレーやシチューに入れる野菜やスパイスはほとんど全て自家製、最近ではパンの小麦も自家製です。これは、私の身の丈に合った商売であると同時に、まあまあ健康な男一匹が、一生懸命働いて得られる作物を、最大限利用して換金出来るのがせいぜいこのくらいだということを、身をもって示すことになるのです。大切な事は、口先だけでなく、本当にやってる人間の姿を見せる事、話をしたり聞いたりするのが好きな人は多いけれども、また聞きではなく、やってる人間だからこそ直接出てくる会話の中身が大切だという事です。自分のためにベストを尽くす、それが人のためになる筈です。そこには、微塵も嘘があってはいけない。


 自分の作ったものを店に出してお客様に食べて頂いて対価を得る、「六甲山カフェ」から得られる現金収入は、月額にして合計3万円程度です。それに畑から採れたものを出来るだけ無駄なく使って料理を出したり加工食品を作ったりしてものをあわせても、所詮手作りでは物量が知れておりまして、年間50万円程度にしかなりません。これを日本国憲法第25条1項において定めているところの「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」に照らして、それを行使するに足る金額が単身世帯の場合年間300万円であるとすれば、なんとその6分の1ということになります。これは「誤差」ではなく「格差」であって、このケタ違いの格差で現代社会を生きている私という人間を、芦屋という土地柄の「六甲山カフェ」という場で目の当たりにして考えてほしかった。


 つまり、都会の雑踏を離れて山に登る人たちは、生活に「経済性」を持ち込みすぎることの歪みに気付いているであろう。現代の日本社会が、他国との経済格差の上にあぐらをかいて、化石燃料の相場に支えられて成立している事に、薄々気付いているはずだ。或いは「スロー・ライフ」や「田舎暮らし」にあこがれる気質があるかも知れない。しかし、それをどのように、どの程度、実際の自分の生活に取り入れるかは、極めて慎重に判断しなければならない。なぜなら6倍の格差があるからです。不用意に田舎暮らしなんて始めてしまうと、生活水準が6分の1に転落するからです。これを個人の努力で吸収することは容易ではない。しかし、持続可能な生活様式を探求するためには避けて通れないテーマであって、誰もが薄々感じている関心事であると思います。もちろん押し付けはしない。しかし私のパンや料理を食べてもらえれば、コーヒーの淹れ方だけでも見ていただければ、心ある人ならば自ずから感じるものがあるでしょう。それを切り口に話の進んだお客様も多く、その中には私の料理を食べて関心を持ち、私のところへ畑仕事をしに来た人達もある。そして一緒に味噌作りなどをする。このような考え方や行動をシェアしたい。私が「六甲山カフェ」で伝えたかったことはそういうことです。その意味で的中率は極めて高かった。


 この試みは、「六甲山カフェ」のなかで、かなり特殊ではあったかも知れないが、うまく機能していたように思います。毎週の早朝朝市では野菜は完売するようになり、山に来る人ばかりでなく、近所の散歩の人や、わざわざ街から買い物に来たり飲みに来たりする客もありました。中には小麦にアレルギーがあると思い込んでいたのに、私のパンを食べても反応が出ないので、よくよく調べてみたら、アレルゲンは小麦ではなく食品添加物だった事がわかった人もいた。ちなみに、私もおそらくそれが原因で舌癌となり、舌の一部を切除しています。アフリカ・ブラジル・中東の料理を舌でまねた料理が多く、母国の人たちに褒められたこともあります。ムスリムの人たちにも安心して食事をしていただけるように、完全にハラールな材料だけでランチを出し、その筋に情報を流したらインドネシア人を中心に来客が増え、彼らが山登りをするようになった。これこそ「六甲山カフェ」による国際貢献だったと思います。そして忘れて欲しくないのは、毎月テーマを決めて選曲したBGMです。音楽こそは「カフェ」に必須のものだからです。しかし、「銀シャリ」を正しい日本のご飯と思っている人に、私のシチューやインディカご飯をたたき返されたことや、パンというとふわふわの食パンが正しいものと考える人が、私のパンを犬にやってしまったこと、滝の音の邪魔になるといって静かなBGMでさえ消さなければならなかった事もあります。なにか新しい事を始めると、反発を食らうのは慣れっこなので、それなりにそつなく対応してきましたが、多くのお客様にとってみれば「面白い存在」だったのではないか。私の試みは、「山」そのものには直接関係ないけれども、このプロジェクトの趣旨を広い意味で捉えれば、充分馴染んで余りあるものだったはずです。


 2012/04/01より、「六甲山カフェ」の代表を私が務めることになりました。それを機に、私は、店内の衛生状態を改善するために徹底的に清掃し、恒常的な湿気から電化製品を守るためにそれらの保管方法を変更したり、漏電事故や感電から運営スタッフを守るためにアース設置工事をしたりするなどの改善に乗り出しました。排水が芦屋川に垂れ流しになっていることから合成洗剤の使用をやめて石鹸に切り替えたり、排水を浄化するための手作りの装置を考案しているグループと会合を持ったり、代表と運営スタッフ間の金銭の流れを見えるようにして、税務調査が入っても困らないようにバランス・シートを作ったり、コーヒーやワインの仕入れ先を変えて、それらの楽しみ方を提案できる情報をお客様と共有できるようにしたり、「大谷茶屋」の古くからのお客様と一緒に「高座の滝」周辺の文化的な価値を残そうとして資料を集めたり、興味を持つ人たちに開かれたホームページ作りを計画したりしてきました。「六甲山カフェ」を単なる飲食店とせず、お客様に安心して過ごしていただきたい、運営スタッフを事故から守りたい、家主様である「大谷茶屋」に迷惑をかけたくない、そして「文化」を守りたい、個人的には上に述べたような私のコンセプトを共有できる場として活用したい、しかし「山にカフェを持ち込む」事によって起こるあらゆる影響について、善悪の別を問わずにみんなで考えていきたいという気持から出た行動でした。善悪を問わずに考える事、都合の悪い事にも平等に目を向けなければならないと思ってきました。


 芦屋保健所から呼び出しがあって「行政指導」を受けたのは、手作りの排水浄化装置の設置に着手しようとしていた矢先のことでした。「やられた」と思いました。私には、それまで事故もなく「六甲山カフェ」が営業できてきた事の方が不思議でした。だから、代表を務める限り、急いでいろんなことを改善したかった。それに手を付けはじめたばかりだった。気がついたものから始めていたので、まさか「名義」について問われるとは思ってもみなかった。しかし逃げるのは嫌だったので、それについて調べはじめたら、いろいろな点で、私たちが「六甲山カフェ」を名乗る事は困難である事に気がついた。それで、わかった事をみんなに知らせて、ともに考えようと働きかけたが、結果的に全てはその時点で止まり、全く予想もしていなかった事だが、私が全面的に撤退する事になってしまったのは、別の記事で述べた通りです。

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2013年01月21日

20130113 せやからいうてるやんか

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、怒りは心頭に達して流れ出でるべき道を知らない。やりきれない思いでいっぱいだ。一部の方は既にご承知のように、私は「六甲山カフェ」から全面的に撤退しました。私を支えてくださった皆様に、これについてご説明申し上げておく事は最低の礼儀と思い、これをしたためております。上の写真は、私が辞める事を決めたミーティングの次の営業日に、「六甲山カフェ」の創始者が、たまたまその日手伝いに来ていた事情を知らぬ元メンバーに書かせ、店内に掲示して写真に撮り、自分のブログに公開したものです。私は当時、代表を務めておりましたが、このような表現によって我々の置かれていた難局を曲解し、根本的な解決から逃げる事に反対しておりました。にも関わらず私の在任中に店内にこのような掲示をする事は、いくら創始者でも、余りにも人の気持を無視した排他的な行為と言わざるを得ません。まして写真に撮ってブログに公開するなど言語道断、降りかかった火の粉は払わねばならず、このような「自分たちさえ楽しければ良い」という、他を省みない自己中心的な「チーム」意識こそが、「六甲山カフェ」の活動を狭め、クレームが相次ぐようになった原因であるとの思いで、この記事を書かせていただきました。


 私の言っている事は極めてシンプルで当然な事です。すなわち、「六甲山カフェ」は飲食店です。万人に開かれた店です。飲食店として営業するには、食品衛生法の規制を受け、食品を製造・販売するには、それに応じた各種許可が必要であり、その範囲内でしか営業できません。それが最低限のルールです。しかし「六甲山カフェ」をスタートさせた人たちは、そのことに全く無頓着だった。なんでもやって良いと思った。たとえば菓子製造業の資格がないのに、パンやサンドイッチ、クッキーやデザートなどを製造販売した。しかも衛生管理がずさんで目に余るものがあったので、市民の通報があって保健所から行政指導が入った。私は当然の報いだと思ったが、彼らはそうは思わなかった。私は世の中の仕組みが我々の思い通りになっていない事がわかったのだから、どうすれば問題なく我々の思いを実現出来るかを、みんなで考えようと提案した。しかし彼らは通報されたという被害妄想にとらわれ、全く欺瞞に満ちた詭弁を振り回して私を攻撃した。ここに、私と、私以外のメンバーとの間に修復不可能な亀裂が入り、ほかにもいくつかの問題を抱えていた私は、もうこれ以上彼らを束ねていく力が私にはないと判断して、全く不本意ながら撤退を決意した。以上がことのあらましです。


 指導の内容は大きく分けてふたつありました。ひとつは「六甲山カフェ」という呼称の事。すなわち飲食店営業許可を受けている主体は「大谷茶屋」であって、それとは別の呼称を持つなど、個別の活動をしていると認定される全ての表現を用いることは許されないということです。具体的には、「六甲山カフェ」・「ATEYA」・「どいぱん」・「cafeminhos」などの呼称を用いること、「日替りマスター制」という責任の所在を曖昧にする表現、営業日・営業時間・連絡先・メニューなどについての独自の告知をしないようにということでした。


 もうひとつは販売品目の事。すなわち「大谷茶屋」の営業許可の内容は「おでんやうどん」であって、直前に最終加熱されたものと、製造許可を受けた業者が製造し密封したものを、その場で小分けしたもの以外については本来販売出来ません。つまり、パンやサンドイッチ、クッキーやデザートなど、今風の「カフェ」を演出する殆ど全ての要素は販売してはいけないものだったのです。


 この「指導」に対して、私はその内容については妥当と判断してそれを受け容れ、「六甲山カフェ」を屋号として使っている表示の全てを撤去し、運営メンバーに自分の考えを次のように説明しました。保健所の指導は、確かに市民の通報がきっかけになったものだが、指導の内容そのものは受け容れる以外に存続の道はない。まず通報されたという事実に対して、特定の人の理解が得られないような行動があったから発生したのであって、自分たちのプロジェクトが社会的に正当なものであれば、それを根気よくわかりやすく説明する機会を増やすことによって、理解が得られる事を目指すべき。まずは自分たちの行動を反省して、やりたい事の正当性をきちんと伝える仕組みを作る。具体的には、たとえば、飲食物の製造販売を伴う行動を取っている我々が原因で健康被害が出た場合、その責任は、食品衛生法によって、家主である「大谷茶屋」の食品衛生管理責任者にかかることになるので、我々が食品衛生管理責任者の資格を取得し、自分たちで責任を負えるようにする。たとえばこういうことが最低限の社会的責任である。その上でやりたい事が出来る具体的な方策を考えるべきである。


 次に「六甲山カフェ」という呼称について、「六甲山カフェ」はプロジェクトの名称である。しかし現実には常設の飲食店として存在し、店舗の名前であると一般には認識されている。だから、当初のプロジェクトでの定義づけがどうであれ、状況に応じて臨機応変にその解釈は広げていくべきである。対外的には「六甲山カフェ」を店舗名として位置づけ、あらゆる責任を自己完結できる仕組みを作った上で、各マスターが個性的なメニューで時空間を演出していった方が、より多くの賛同が得られるし、プロジェクトそのものの可能性が広がる。


 最後に販売品目について、自由に好きなものを製造販売しようと思うのなら、調理や販売に携わる各「マスター」が、必要な製造許可を取得して「大谷茶屋」に納品し、納品された「商品」の販売に携わるという意味合いで「大谷茶屋」に入れば良い。その際、納入業者として正式に「屋号」を名乗れば、「大谷茶屋」の中に各「屋号」が存在し、各自が元の呼称を名乗ることが出来て、呼称の問題も解決する。同時に、各「マスター」は製造業者すなわちメーカーなので、製造物責任法により事故があった時は自分に責任がかかるから、責任も自己完結する。これらの事がきちんと実現されてこそ、「六甲山カフェ」は堂々たる店舗として、またプロジェクトとして活動していける。解決策としてはそれが良いのではないかと、私はこのように説明しました。なぜなら、当時の状況では、逸脱行為が多岐にわたり、販売品目のみならず、マナーや社会性を疑われる事実まで、かなりの数のクレームが発生していたからです。そしての運営メンバーの合意を取り付け、態勢を立て直した上で、今後の事について、創立者を含めた全体でミーティングする事を呼びかけました。しかしそれは、半年以上も実現しなかった。


 当初はこの方針に沿って進みはじめたように見えたのですが、やがてこれに不協和音が響きはじめ、最終的にはそれが全体の意向になっていきました。昨年末になって漸くミーティングが開かれました。ここで話された事について整理して申し上げます。まず通報されたという事実に対して、運営メンバーの間で取り沙汰されたのは「犯人探し」でした。ヤリ玉に上がったのは、店にたまに来るエライさん風の人で、彼が女性マスターの一人の体に触ったのを彼女が邪険にしたことに対する報復だから、そいつを探し出して黙らせてしまえば問題はないというのです。しかしこれにはなんの証拠がなく、むしろ、自分たちの不始末も含めて全てのクレームを彼ひとりになすりつける事によって、その議論を封じ込めようとする意図が感じられます。


 次に「六甲山カフェ」という呼称について、これは屋号ではなくチーム名であるということでした。つまり、チーム名であるから、保健所がどう解釈しようとチームにはなんの関係もないということです。ここから、上の写真にある「チーム六甲山カフェ」という表現が出てきます。「六甲山カフェ」は店の名前ではなくチームの名前である。だから食品衛生法の規制など受けない。こんな欺瞞に満ちた詭弁に、私は賛成する事が出来ませんでした。なぜなら、我々が「六甲山カフェ」にどういう意味付けを与えようが、通りかかった一般のお客様には関係のない事であり、我々が飲食物を製造して提供している事は明らかな事実だからです。


 最後に販売品目について、これに対する彼らの答えは次のようなものでした。「六甲山カフェ」は飲食業をやりたいわけではなく、情報発信をしたいのだ、その「場」として茶や茶菓子があった方が良いのであって、その旨は家主である「大谷茶屋」に予め伝えてある。営業許可の内容の詳細については「大谷茶屋」が関知することであって、企画を提案する我々の仕事ではない。「大谷茶屋」は営業許可内容を熟知した上で我々の企画に乗ったわけだから、今回の件は、そこを見落とした「大谷茶屋」に責任があるというのです。これは完全にコンプライアンス精神に反しています。かたや存続の危ぶまれる茶屋、かたや「山ブーム」の新しい風を吹き込もうとする若者、「おでんさえ守ってくれるのなら」という弱みにつけ込んだ強弁以外の何ものでもない。


 よしわかった。百歩譲って「指導」の件はそうであったとしよう、しかし関係法令など社会の仕組みが我々の思い通りになっていないとわかった今、それに合わせて我々は軌道修正するべきではないのかと、私は問いました。これに対する答えは、何度も繰り返し言うようだが「六甲山カフェ」は店舗ではない。場所を借りている「大谷茶屋」は、それ自身が食品衛生法の施行より遙か以前から営業してきた老舗であって、超法規的措置で存続している。その軒下で営業する我々もそれに帰属するのだから、「六甲山カフェ」に対してだけ法令が厳密に適用されるのはおかしい。そのような場所であったからこそ、「六甲山カフェ」を展開したのであって、これはかねてからの主張であるが、感性や身体よりもルールや決め事を優先させる社会が、決して良い社会だとは思われない。「六甲山カフェ」を守るためには、より高い次元の理想を社会が共有することが必要だと考える。つまり「六甲山カフェ」はそのためのテスト・ケースであって、私の質問は、その理念を理解していないことによる迷妄だというのです。反社会的な行動によるクレームまで発生させておきながら、「より高い次元の理想」もないもんだと呆れてしまいました。


 よしわかった。千歩譲ってそうだとしよう、しかし私が提案した『調理や販売に携わる各「マスター」が、必要な製造許可を取得して正式に「屋号」を名乗る』という案は、それが受け容れられれば法的要件も万全に満たし、このような議論も必要なくなるのではないか、と問うた。これに対する答えは、やはりこれも何度も言ってきたことだが、各自がどんな名前で互いを呼びあおうと自由であって、それは誰に規制されるものでもない。もちろん、各自が自分の意思で資格を取って屋号を名乗ることを妨げるものでもない。むしろ逆に、特定の「案」を受け容れるように求めたことによって各自の行動は萎縮した。それによって店に面白味がなくなり、客足が遠のいたことの方が深刻な問題であって、その「案」は現状の一側面しか見ていない。以上によって、全てを保健所の指導以前の状態に戻し、失われた信用を取り戻すことは、なんら問題のないことと考える。このとき全員から同意のため息が漏れた。私はもはや呆れて開いた口がふさがらず、返す言葉さえ見当たらなかった。


 「六甲山カフェ」のコンセプトについて、媒体などで公表されている企画の趣旨や内容などについては、それを言葉通りに受け取るならば賛同できるものばかりである。しかし、それはあくまでも独り歩きした「言葉」であって、単なる字面である。去年は確かに「六甲山カフェ」にとって多難の年であった。それは、字面でなく行動を問われたからである。その行動を反省して盤石なものにしなければ、プロジェクトというものは社会的に存立しない。上に述べたように、私はそのための方策を具体的に提案したが、彼らは呆れるばかりの詭弁を弄してそれを回避した。私は、各自が現実と正面から向き合い、俗説や感情にとらわれず、愚かで空虚なプライドを捨て、正しい知識を得るために自ら努力し、その成果を分けあい、常に自らを検証し、修正する勇気を持ち、逆風が吹けばむしろこれを自分を高めるチャンスと捉えて進んでいかれることを望む。こんなことは、社会からドロップ・アウトして百姓をしてる私なんぞから、立派な社会人に向けて申し上げる言葉ではない。社会的に存立しないものは、ただの「ままごと」だ・・・


 と、ここまで書いてきて、ふと気がついた。もしかしたら、彼らはこのプロジェクトを「ままごと」にしておきたいのではないか、「ままごとがしたいんです」なんて、ええ歳こいて言えんから、あのような屁理屈をひり出したのか・・・反対される気遣いのないゆりかごの中で、自分たちだけのものとして、限られた小さな楽園の温かみを、出来るだけ長く、しかも波風が立たない状態で、でもリスクは最小限に抑えたい、援助も欲しい・・・要するに、ただのええとこ取りチーム・・・だとしたら、「ままごと」は所詮「ままごと」として、それとは別に私は自分のやるべき事をやり続ける道もあったわけだ。しかし、もう遅い。


 このようにして、私は全面的に撤退する事を表明した。「六甲山カフェ」は1月と2月を冬季休業とし、3月より問題を解決しないまま再開される事になった。全てをもとに戻す・・・いや実は殆ど元に戻っていたのだ。私に見えないところで、許可されていないものが恒常的に売られていた事実を私はつかんでいる。しかし、もうそんなことに悩まされる日々は終わった。辞めてから半月近く経って重圧から解放された今、つくづく思う事があります。秋以降の私の日常は、農作業とアルバイトの両立に加えて、彼らにルールを守ってもらう事を説得するやり取りに忙殺されておりました。実に瑣末な、細かい行動にまで判断を求められ、私はそれについて調べ上げた上で返事をしなければならなかった。ほとんど毎日のようにメールによる議論の応酬が続き、何かが起こるたびに八方調べ尽くして対応し、対応したらしたで全員の了承がないと批判され、しなかったらしなかったで無責任だと批判されました。しかし、いずれにせよ彼らは別の理由をつけて自分の好きなようにやるのです。私はその理由の不当性を立証しなければならなくなり、再び八方調べ尽くして対応するのだが、またしても対応したらしたで全員の了承がないと批判され、しなかったらしなかったで無責任だと批判されるということを延々と繰り返しておりました。年が明けてそのような瑣事から解放された今、要するにこれは、私の申し上げた内容に対する直接的な批判なのではなく、申し上げたのが私であったという不幸な事実に対する拒絶反応だったのではないかと思います。つまり、別の人が言えばすんなり通った話かも・・・と。まあ言っても仕方のない事です。私は辞めた人間だし、辞めたおかげで、私には自分の収穫物のさまざまな保存や活用について調べたり、これからの事を考える時間が戻ってきたのですから。自分の店だったわけではない。人と共同して物事を為そうとした私が甘かった。今年は、自分の収穫物を最大限活用して、私自身の食事のクオリティを上げる事に、もっと取り組みたいと思います。「六甲山カフェ」については、その実態は上のようなものであるという事を指摘したうえで、私が「六甲山カフェ」でやってきた事、やろうとしていた事を、別の機会に述べようと思います。

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2013年01月20日

20130110 せやからいうてるやんか

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、悲しみは深い。「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画は、ご家族の同意が得られないまま無駄に年月が流れ、私の住まいしておりますお屋敷の管理主体も変わる事となり、そのためにお借りしていた部屋もお返ししなければならなくなりました。残されていた荷物を運び出してご実家へお送りする事になりましたが、現在ご実家には、既にあるピリピリの遺品に混じって、計画に賛同してお寄せ頂いた資料や、共同購入してまだまだ使える機材などが残されており、計画が頓挫してしまった今、これらの返却をご家族に求めていく事になります。そこまでが、私がピリピリに出来る供養の限界です。彼の遺志とは逆の展開に至ってしまった事は、全く不徳の致す処と痛感しております。まことに残念な事です。全く無意味な事です。何故このような事になってしまったのか、そのいきさつについて忘れないうちに書き留めておくとしましょう。


 ピリピリ (1951-2008) が亡くなったとき、彼の住んでいたアパートの部屋には膨大な遺品が残されていた。それはあまりにも膨大で足の踏み場もないほどであり、全く整理整頓されていない状態だったが、その中身はわれわれ彼とともに行動してきたものにとっては分身のようなものだった。レコードやCD、書籍や雑誌のコレクションは言うに及ばず、カセットや写真、書き溜められたノートや散財する資料など、これらの全てはピリピリを、つまりは関西のアフリカ・ポピュラー音楽探究の歴史の証人であるばかりか、彼の音楽活動の中でつながってきた人脈、すなわち関西のサブ・カルチャーの歴史の記録である。より専門的には、バントゥー系アフリカ中部の音楽の、これほどまとまったコレクションは国内において例がなく、少なくともこれらを分かりやすいように整理して展示し、これに興味を持つ人がいつでも閲覧して鑑賞できる環境を整える事は、音楽芸術に大きく寄与するはずである。また、よりサブ・カルチャー的には、「ウルフルズ」を今のプロデューサーに紹介したのは実は彼であり、この事は関西のサブ・カルチャーのみならず、日本のJ-POPシーンに与えた最も大きな功績のひとつであろう。もちろん彼らは才能のあるバンドであったので、ピリピリがやらなくても成功を収めたに違いない。しかし、まだわれわれとともに互いに対バンでライブを打っていた頃、いち早く彼らの将来性に気付き、こちらが鬱陶しくなるほど彼らの可能性を力説したのは、ピリピリであった。その声はついに今のプロデューサーの耳に届いたのである。彼の残した遺品に中には、それにまつわる資料も多く含まれている。


 死因は喉頭癌であった。2008年4月に声を失ってからは、筆談でのやり取りであった。最後の入院生活は11/29にはじまり、1ヶ月足らずで終わったが、毎日のようにメモが飛んできてこき使われたものである。彼は、声を失う直前に録音された2枚目のアルバムの発売を待ちきれずに旅立ってしまった。厳密に言うならば、私が最終原稿をそろえて出稿したまさにその時、彼は入院先で亡くなったのである。12/22の午後の事だった。もちろん駆けずり回っていた関係者は誰一人それを知らず、結局、全ての仕事が完了した事を告げに病院に戻った私が、今度は彼の死を知らせるために方々へ連絡を取らなければならなかった。受領書にサインをもらうために、冥土への道を追いかけて行こうとする私を、CDジャケットをデザインした友人が身を挺して止めた。


 私は、彼の部屋の合鍵を託され、彼の手足のような状態で奔走していた。で、上に書いたような「価値ある資料」を、死後どう処分したらよいかということも相談していた。われわれの気持としては、これらがゴミとして廃棄されてしまうことは堪え難く、何らかの形で社会的存在になる事を望んだ。それがもし可能になるならばという一縷の望みを託す形で、私は家主に部屋のひとつを貸してくれるように頼んだ。それが上の写真の部屋である。ピリピリのお母様は、彼の部屋の有り様を見て、そのガラクタの山に値打ちがあるとはとても思わなかったが、それでも「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画によって、息子がいつでも好きなときに甦るのだと言って喜んでいた。


 部屋は早急に明け渡す必要があったので、私はとりあえず片っ端から部屋の中身を段ボールに詰め込み、何往復もして今住んでいる空き農家の広間へ運び込んだ。そして、「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画の実現に向けて、これらの整理をしはじめた。賛同者から、多くの文物資料が寄せられた。これらは、順次ジャンル分けされたそれぞれの収まるべき流れの中に収まって、連続的な資料の一部となるはずだった。先ず手始めに、彼が撮りためた膨大な写真から着手した。これらはネガと突き合わせ、ひとつひとつに番号を振って、ほぼ全体を時系列に並べて記録した上で、それらをテーマごとに分けて見ごたえのあるアルバムに編集した。当時、悲嘆に暮れていたお母様の心の慰めになればと思って、先ずはこれらの写真をご実家へお持ちした。このときお母様からは感謝の言葉と同時に、いかにご自分が息子の事を知らなかったかについて切々と訴えられた。そこで私は、現在整理中の遺品は、整理できたものから順番に、先ずはお母様にご覧頂いた上で、いろいろと彼についてのお話をさせていただく事が供養になると思いついた。


 一方、彼の膨大なレコード・コレクションは、事情があって生前彼が懇意にしていたレコード店に預けられていた。これもまた別の事情があって回収に大変手間取ったのだが、どうにかそのレコード店との間で精算の道筋をつけ、残ったものはお母様の許へ運んでいただいた。レコードが戻ってくると、彼の位牌の安置してある仏間はどんと狭くなった。しかし、まだ未整理の文書や資料の山がその何倍もあるのだ。整理すればある程度の嵩には収まるだろうが、お母様の慰めになればと思って始めた事も、度が過ぎれば迷惑であるので、そのあたりの事を訊いてみた。「もう野ざらしにするよりほかにないですね。」確かに仏間に置き場所はなかった。


 次に着手したのはカセットなどの録音である。これには大変多くの現地録音や、われわれの演奏、友人たちの練習風景なども録音されている。これらの音源資料に、賛同者から寄せられたものなどを合わせ、これもテーマに分けて整理した上でご実家へお持ちした。翌年の9月の事である。整理をしはじめてから9ヶ月も経っていた。持参したカセット・プレイヤーで、彼の往年の声などをお聞き頂き、お母様には喜んでいただけたと思う。


 実は、ピリピリは事情があって30年ほど実家とは連絡を絶っていた。お母様と再会したのは病状がかなり進んでからの事である。従って、お母様の中で、30年もの間、息子に何もしてやれず、再会してほどなく亡くなってしまったことへの後悔の念が高まってきた。亡くなった当初、かなり頻繁に私に電話をかけてきた。どうしようもない繰り言ばかりだが、ご心情を察してこれにつき合った。夏の間しばらくはそれも収まっていたが、カセットをお持ちした秋以降、再び頻繁にかかってくるようになった。


 「息子のものは全部一旦お返しください。」あるときお母様は仰った。カセットの整理を終え、膨大な文書の整理が進行中だった。私は驚いて、何度も聞き返したのだが、お母様は、頑として全部返すようにと仰った。心情は察して余りある。しかし全部という事になると、仏間が彼のアパートのように足の踏み場もないほどの状態になってしまう量である。しかも、お母様には到底扱えない楽器や音響機材なども多く含まれているし、ピリピリの部屋の後片づけ、遺品の保全と整理、運搬にかかるレンタカーや燃料代などの費用は、賛同者からの寄付で賄われてしまっているし、賛同者から寄せられた資料は、既に一部はピリピリの資料と混在してしまっている。それをもう一度仕分けして戻す事など、およそ無理というものだった。彼の命日が近づくにつれ、電話は三日と開けずにかかってくるようになり、次第には毎日、早朝深夜時を選ばずに鳴り続ける状態になった。長い繰り言につき合った揚句、その電話を切ったと思ったらまた鳴った。


 そもそも私がやっている整理は、「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画を実現する、すなわち彼の遺品を社会的存在にするためであって、お母様が仏間でため息をつくためではない。もともとはお母様も「ゴミの山」だと言い、計画の実現に賛同し、部屋も見に来られた程である。そもそもお母様が自分のために残したいと思っていたのなら、それはお母様が段取りなさる事であり、私がわざわざ動く事ではない。廃棄すると決まっていたから、それならば引き取らせてくださいと申し上げてスタートした事である。その辺の事情をお忘れになっている。私は事情を説明して、何とか思いとどまってくれるようにと頼んだが、聞き入れられず、電話は鳴り続けた。私は、お母様が息子の命日が近づいて情緒が不安定になっていると思い、とりあえず楽器や音響機材を除いた資料だけを、段ボールに詰めてお返しする事にした。「一旦」だから、そのうち邪魔になって、また引き取ってくれと言い出すだろうと思っていた。それでもこれらの荷物は軽トラック2台分となり、仏間の中央に通路のような空間を残しただけで、その両側にうずたかく積み上げられる事になった。


 その後、「一旦」は「しばらく」となり「当分」に延長されて「私の目の黒いうちは返さん」となって、いまでは「こちらで処分させていただきます」と言い出す始末である。まったくなんの意味もない行動としか思われないのだが、現物が向こうにある以上、手が出せない。全く無明であった。働かせるだけ働かされて、成果は全部巻き上げられたようなものである。しかし事がそれだけなら「目の黒い」状態でなくなれば取り戻す算段をすれば良いのだが、そこへ降って沸いたように、去年の秋になって、この空き農家と農地全体の管理が、某NPO法人に委託される事が決まり、場合によっては私がここを退去せざるを得ない可能性が出てきた。そうなると、少なくとも賛同者から寄せられた資料や、私の現地録音や研究資料だけを選り出して、残りはお母様にお返しする事になる。「メモリアム・ルーム」どころではない。とにかく仕分けできる場所があるうちに何とかしなければと思っているところへ、追い討ちをかけるように母屋からの完全退去を求められ、私は離れの狭い空間に、膨大な機材類と同居せざるを得ない状況に追いやられてしまった。とにかく今の私に出来る事は、一旦仏間にあるものを全てこちらへ引き取り、寄贈されたものをとり出して、必要があれば賛同者にお返しすることである。これらはお母様の負担によって為されるべきだが、交渉は難航するだろう。

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20121209 せやからいうてるやんか

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、憤りは激しい。サツマイモというものは、ここらでは11月に入ってから収穫するのだが、収穫して良く乾かして、保存しはじめるとすぐに厳しい冷え込みがやって来る。サツマイモは、10℃くらいが保存に適した温度の下限で、5℃以下になると腐りはじめる。私は、納屋の大きな貯米庫の裏が適当な条件だったので、ずっとそこで保管してきたのだが、先日、そこを明け渡すように言われた。大きな納屋なので、なにもそこだけを明け渡せもないとは思うのだが、衝突を避けるために、仕方なく台所へ持ち込んだ。しかしそれから連日氷点下の冷え込みが続き、室内でも-3℃の朝が数日続いた。はっと思って芋を調べてみたらこれである。既に凍結して全体がふにゃふにゃになったものもあり、半分ほどを捨てた。白サツマイモは割れたものが多いので、状態はより深刻であった。まあ、いろいろな形でプレッシャーをかけてきますな。


 さて「農地法第3条第2項」により、土地利用の下限面積が満たされていないことと、農地利用集積円滑化団体が農地を集約的に利用することの妨げになること、権原が地主・某NPO法人を経てのまた貸しにあたり中間搾取を禁じた法の理念に反することなどによって、私は単独では合法的にはここの田畑を使う事が出来なくなったわけだが、話し合いの結果、その団体の職員という身分となり、その団体の活動とは別に15aの田畑を自由にするという事で取りあえず合意されたのである。それまでには「市民」の「苦情」とやらによる農業委員会の行政指導、私の住居部分への勝手な踏み込みや居座り、更に見知らぬ者の畑への侵入など、さまざまな嫌がらせが相次いだのであった。そういう事をすれば私が音を上げるだろうと思ったのかも知れないが、なかなか私はそれほどヤワではない。


 すると今度は、彼らは自分たちが「JAS有機」の認定業者だから、農産物の生産と出荷を一緒にやらんかと持ちかけてきた。しかし彼らがこれから使う農地は、昨シーズン限りで前の農家から家主に返還されたもので、ごく最近まで農薬や化学肥料がふんだんに使われていた土壌である。そこから採れた作物は検査にかければ当然失格するのだが、これらに「JAS有機」の認定業者のシールを貼る事は、現行の「農林物資の規格化及び品質表示の 適正化に関する法律」では制度的に検証する仕組みがない。農家の中にはこれを積極的に活用して、慣行農法で生産した作物のうち、規格外のものを「有機で出す」事が横行している。これに加担しないかというのである。「個人で販売ルートもなしでどないすんねや」要するにヤやこしい人たちである。彼らと否応なしに共存を強いられる。しかも日常的に彼らはやってくる。彼らの目的は、屋敷ごと自分たちの拠点にする事だ。彼らは先見の明がある。なぜなら、これからは近郊農業が発展するからだ。大規模に経営しようと思えば、まとまった農地と広い空き農家が必要になる。それを取得するには、各種法令による複雑な規制があって、事実上個人で手作りで好きな事をして百姓になりたいという者は手が出せない。のみならず、それらをクリアしてきた法人が土地所有者と契約した場合、それを妨げる事になる要件、つまり私のような者は合法的に排除できる。


 しかしまだ、彼らはその権利を行使するつもりはないようだ。私も、それを先取りして移住先を探すという事には消極的である。なぜなら、さきに「赤目自然農塾」へ行ったのだが、そこで川口氏と話しをしていて自分の心が既に挫けている事に気がついたからだ。土は、私がここに来るはるか以前からここに存在し、私が死んだ後も未来永劫ここに存在し続ける。人は移り行くものである。人に動かされるのか、土を信じるのか、と問われて気がついた。いかに法的根拠があっても、私の生存権までは脅かされない。また、新天地を求めに出たところで、ここ以上の好条件が得られる可能性は極めて低い。更に、家主にはまだ他にも農地があって、彼らがそれを全て管理できるかどうかは全く未知数、言い換えれば私が存続する余地があるからである。ここには、永年かけて集めてきた手作業で収穫物を加工できる道具が残っている。どれも私が手入れしてきたものばかりだ。これらを捨てて出るとなると、また7年ほど全てをやり直さなければならなくなる。以上の事を総合的に判断すると、消極的かつ緊張状態を孕んだ共存の可能性を模索する事が得策と判断したわけである。


 何度かこのブログでも書いた事だが、「田舎暮らし」といって都会人が田舎に住んで農業をしようとする。総論とすればそれは正しいし夢のある事だし、いろいろな束縛から解放されるかも知れないし、地球に優しいのかも知れないと、まあ普通は期待するわけであるが、いざ各論となると非常に困難だ。「ぜひいらっしゃい」などと言われて農村に移り住もうとしても、たいてい具体的な話になった時点で頓挫する。市町村を上げて新規就農者誘致作戦を展開しているところなどは特に要注意で、よくよく話を聞いてみると、田舎で暮らせるからといって自分の好きなようにやって良いという事にはなっていない。どの農村も、たいていその地域の産物というものがあって、新規就農ということは、欠けた生産者に代わってその産物を生産する担い手になるという事を意味している。全ては農協が取り仕切っていて、就農計画・生産計画・栽培方法・買取価格・機械や農薬などのローン・・・と、全てパックされた「商品」を買わされる事になる。あとはひたすら歯車。これが夢だといえますか。貸農園を借りるとしても、公共団体や法人がやってるバカ高いものなら、それを収益の柱と位置づけているから「お客様」に滅多な事はしないだろうが、個人の農家が親切に貸してくれるという話は気をつけた方が良い。私自身何度も経験している事だが、たいていそうやって貸してくれるところは条件の悪いところである。しかし貸してもらった方は、それでもないよりはましなのでそこで一生懸命にがんばる。土というものは健気なもので、手をかければかけるほど良い結果を出してくれるから、数年で稔りの良い畑になるのである。すると、それを見ていた地主が突然「返せ」と言う。あーもすーもないうちに重機が入って更地になり、やがて田んぼになるだろう。そんな例は、この近所でも枚挙に暇がない。


 それに比べれば、ここは安穏なものであった。空き農家の古屋敷とはいえ、補修する必要のない状態であったし、家主は別に家を構えているから、ここに住む事は出来ない。かつて家主の祖父母が住んでいたというが、お亡くなりになってから何年も放置されたままであった。家屋敷というものは、人が住まなければ荒れる。荒れる前にという事で、当時貸農園に通って来ていた私に話があったのである。農業をやってみたいという私と、屋敷が荒れる前に手を打っておきたい家主の思惑が一致して、私はここに住む事になった。


 当初の数年は楽しく過ぎた。家主は、別に子供たち相手のNPO法人もやっているから、野外活動なども多く、それを手伝ったり、収穫期には知り合いのミュージシャンを招いて小さなコンサートをやったりもした。しかし、ある事が原因で蜜月状態は破綻する。家主が、倫理的にいかがなものかという状態になったのを私が諌めた。決定的な状態に陥る前だったので、家庭の崩壊は免れた。しかし私は飼い主の手を噛んだ事には間違いなく、それ以後はほぼ完全にコミュニケーションの途絶えた状態になった。以来数年、私は自分なりの農法を確立し、ひとりで全てを段取りできるようになった。しかしそれは、家主のやり方とはずいぶん違ったものだった。家主が肥料を堆く積み上げて、「野菜を作るにはこれだけのものが必要です」と説明している真横で、肥料など一切使わない自然農法を実践しはじめた。田んぼの「初期一発除草剤は農薬ではない」などという詭弁を弄する真横で、私は死にそうな顔をして田んぼに屈みこんでいた。そして収穫は、家主と遜色ないか、むしろ良いくらいだったのである。つまり、家主は私が彼の仕事を手伝ってくれると期待した。しかし私は自分の好きなようにやりはじめ、まかり間違えばその手を噛むのである。アレアレ。家主にとって私は鬱陶しい存在になった。出来ればなきものにしたいが、そうなったらなったで農地の管理や、屋敷の保安に不安が残る。痛し痒し。目の上のたんこぶだが致し方がない、という状態が続いてきたといえる。


 母屋は、ときおりNPO活動で子供たちが使う以外は、ほとんど使われない状態だった。以前は、雨さえ降っていなければ、必ず窓やガラス戸を全開にして空気を通していたものだが、アレ以来、特に用のない限りは立ち入らないようにした。その母屋の活用については何度か話があった。とあるアーティスト団体がアトリエとして使いたいとか、老人ホームにしたいとか、いろいろ話があっては立ち消えた。東日本大震災の後、放射能の営業を恐れた人が、人づてに訪ねてきてしばらく滞在した事もあるが、家主の難色で退去する羽目になった。そのくせ、東北へ送るための物資を集めたり、実際自分でキャラバンを仕立てて訪問はするのだった。その翌年の暮れ、家主に重い病気が発覚した。それがために野外活動などの一切にドクター・ストップがかかった。くわえて、隣の農家へ小作に出していた農地が、高齢化で返却される事になり、まずは3反程度の農地をどうするかという、現実的な悩みがそれに加わった。そこへ、某NPO法人が登場した。隣接する町で、既に農業法人として実績を上げている。事業の拡大を目指して、農地と空き農家を探している過程で、家主と出会った。家主にとっては願ってもない話だった。返却されてくる農地、屋敷の管理、狂犬の始末、病身の自分には出来ない事を全て片づけてくれる上に、金まで払ってくれるのだ。こんな話に飛びつかない人はない。


 その団体が、先ず手始めに、この屋敷の旧管理人として居座り続けている私に揺さぶりをかけた。冒頭に書いたような顛末である。私は当初、行く末を儚んで移住を考えた。それに応じて、友人達から多数の候補地が寄せられた。本当にありがたい限りである。しかしながら、この場所の立地の良さ、土地に対する愛着、実家に近い事など上のような理由で、実力行使でも行われない限り、移住計画は情報収集の範囲にとどめておく事にした。田舎暮らしを検討している人たちに告ぐ。農地法を良く検討されたし。かなりの農作業労働力を供給できるのでなければ、農家と農地を問題なく確保して好きなようにやる事は、必ずしも保障されてはいない。

posted by jakiswede at 22:27| Comment(0) | farminhos | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20130109 昨年の総括

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、自戒の念は深い。昨シーズンの総括も出来ないまま、早くも今年の反省である。小麦の発芽が遅い遅いと思っていたが、原因がわかった。ここには「ミナミノカオリ」という品種の種まきを昨年の11/21にしたのだが、その際、ある自然農法家の助言に従って、46℃の温湯に8-10時間浸けるという種子消毒法をとった。ところがたねまきをして3週間経っても一向に発芽しないので、12/13に、画面左手前の畝に手持ちの「ミナミノカオリ」の玄麦を消毒せずに蒔いてみた。それがこの写真である。後から蒔いた芽が青々と育っている。消毒の方法以外の条件は等しいので、そこに問題があった事がわかる。今シーズンの麦の収穫は、ほぼ諦めた方がよさそうだ。


 さて、昨シーズンの農作業の総括をしておかなければならない。まず、もっとも反省すべきは米作りであった。種まきの時期を天候の予測を謝って遅らせた事によって、開花までに充分な分蘖が得られず、あるべき収量から7割程度の減収になった。稲は南方の生き物である。基本的に日本で栽培するのは簡単ではない。従って、最低気温の上がるGW以降に種を水に浸すのではなく、4月下旬には浸水して保温に努め、GWには苗代への種まきを終えておくようにしたい。その後の管理については、特に問題はなかった。次に畑である。苦手とするナス科の、ナス・トマト・ピーマン・シシトウ・トウガラシについては、注意深く世話したにも関わらず、今年はついに夏には間に合わなかった。しかし諦めずに観察を続けていると、ようやく秋口になって収穫できはじめた。今回は、ナスとトマトも種からの栽培であって、いずれも初めて成功したのだが、その性徴・・・失礼、成長の様子を見ていて思う事は、まずトマトは日本の気候風土に合っていないから、基本的に栽培は難しいという事だ。だからハウス栽培が中心になる。自然栽培に近づけようとするには、少なくとも4月下旬頃には種まきをして、簡易温室を作るなどして保温し、5月中には定植したい。ほかのものについては、問題な臭い倍できたが、唯一ニガウリの稔りが極端に悪かった。これも南方の野菜である。しかし例年なら8月には稔りはじめて、最盛期には毎日食べ過ぎるほど採れて、それを漬物にしたり、刻んで乾かして茶にしたりするほどだったが、今年は、何日かにひとつ採れるか採れないかというペースだった。自家採種したものなので、もしかしたら先祖返りなどの障害が出たのかも知れない。サツマイモは、依然として収穫した後の保存に問題を残したが、来シーズンからは植え付け量を半分以下に落として、無理なく消費できるようにしたい。


 残る深刻な問題は、果たしてこの圃場をいつまで使えるか、そもそも私がここにいつまで住み続けられるか、という問題だ。しかしこれについては、今からああだこうだと心配しても始まらない。ただし、新天地を求める情報収集だけは、怠りなくやっておく事になるだろう。


 

posted by jakiswede at 14:25| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月19日

20121208 新畑の観察

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 新畑の観察。大根、アブラナ科の日常野菜はいつでも収穫できます。


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 タカキビは結実したものの倒れはじめたので、すべて刈り取ってマルチングにしました。


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 ソラマメとエンドウは越冬体勢に入っています。


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 ウリ科の跡地は手つかずです。


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 タマネギとニンニクは健全に越冬体勢に入っています。


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 マメ科の跡地は手つかずです。


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 サツマイモの跡地も、蔓を片付けられないままに放置されています。このまま一冬置けば、硬い蔓も風化するものなのか、見てみたいと思います。

posted by jakiswede at 12:01| Comment(1) | 農作業食品加工日誌2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20130106 スモークサーモン

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 旭川に住む中学からの親友が、塩鮭のでかいやつを一本丸ごと送ってくれた。ひとりで捌くのもなんだし、たまたまトルコ航空のアテンダントの美女が、関空へのフライトで2日ほど大阪に滞在するというので、彼女ともうひとり親友のNY女史を誘って、これを捌いて切り身にしたり薫製にしたりする作業を一緒にする事にした。実は愛用のデジカメが故障して修理不能、予備の一台に電源を入れて撮影したのだが、日付の再設定を忘れてしまったので、写り込んでるデータが間違ってます。しかし思えば8年近くも撮影してなかったんよね。


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 三枚に下ろして、適当に切り身にして、一部を薫製機にかけ、残りは焼き鮭用、アラを使ってその場で大根やハクサイを煮込んで鍋にしてランチ、ハラスは竜田揚げにして、中骨は圧力鍋で煮込んでサラダのトッピングに・・・鮭は捨てるところがない。


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2013年01月18日

20130105 Ortiz Consort新年会

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 奈良を拠点に活動する「Ortiz Consort」新年会である。流通業に従事してからというもの、年末年始というものは多忙を極めるので、正月らしい事をした試しがないのであるが、なんと今年は、気軽なバイトシフトの関係で、正月三が日がお休み !! ならば日本人たる者、正月らしい事をして祝うかといえば、ひたすら食っちゃ寝、食っちゃ寝の脱力三昧でした。ワインにチーズ・フォンデュに、和風お節の、なかなか「らしい」組み合わせに感動。


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 われわれの「新年会」は酒を飲むばかりではない。ちゃんと定期演奏会に向けての下合わせ、楽譜の読みと音の響きや強さの突き合わせも厳しく、奏でられる音のハーモニーに酔うことしばし・・・しかしなんと、ことしは新たなミッションを突きつけられてしまった。太鼓しかよーたたかんというのに、下のダルシマーという楽器、これをマスターして本番に備えよと仰るのである。あんたまたそないな無理難題・・・わかりましたよ師匠、やりますよやりゃいいんでしょ・・・


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posted by jakiswede at 15:07| Comment(0) | 音楽活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20130117 JAKI's Homepage再開

各位

 このたび「JAKI's homepage」を「http://homepage.mac.com/jakiswede」から「http://jakiswede.com/」に移転して再開させていただく事に致しました。ファイル構成は従来と同じです。「ホームページ」の扉から入られますと、上下のバーに挟まれたフレームに、進行中のブログが表示されます。下のバーのリンクをクリックされますと、それぞれのメイン・カテゴリに参ります。各メイン・カテゴリで上のバーのリンクをクリックされますと、それぞれのサブ・カテゴリに参ります。サブ・カテゴリで左のリンクをクリックされますと、それぞれの本文の内容が表示される仕組みです。
 実は、まだ「photo」のカテゴリと「2007-2009のブログ」の再構築が完了しておりません事と、各ページの本文内のリンク切れについての検証が終わっておりませんので、一部のページの表示と機能に不具合が生じます。しかし、再開のご要請の多かった音楽・コンゴ旅行記・リンガラ語についてのページなどは、問題なく表示されますので、どうぞご覧になってください。
 また、これと同時に私のメール・アドレスを「jakiswede@mac.com」に戻します。かつてこのアカウントは使えなくなる旨、Apple Computerより説明を受けていたので、皆様にはご面倒ながらアドレスの変更をお願いしたのですが、細かい説明は省きますが、要するに今度は逆にこのアカウントでないと、管理上いろいろな不都合が生じる事になるのです。御手元に私のアドレスを保存されてある場合には、まことにご面倒ながら、再びこれに戻していただけますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。全くApple Computerには振り回されるばかりですが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
 本来リニュアル・オープンというものは、以前より良くなった上で為されるべきものですが、なにぶん力不足で、以前よりも不完全な形での再開となってしまいました。不束ではございますがこれからもよろしくお願い申し上げます。皆様から、多数の激励と再開のご要請を頂き、本当に嬉しく心強く感じました。心から感謝を申し上げます。(2013.01.17)


伊丹 正典
Itami Masanori
please reply to: jakiswede@mac.com

posted by jakiswede at 14:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20121207 丹波の黒豆の脱穀

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 丹波の黒豆の脱穀。このような足踏み脱穀機が威力を発揮する。


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 とはいってもこの状態。豆と殻が一緒くたになるので、これを分けるのが大変。


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 まずは全体をばさばさとかき混ぜていくと、重い豆が下に降り、軽い殻は浮き上がってくるので、先ずはその上っ面をはねる。


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 取りあえず集めた豆を唐箕にかける。そしてさらに上っ面をはねて豆を集めては唐箕にかける。


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 気長に音楽でも聴きながらこれを繰り返していくと、どうにか豆が集まってくるのである。


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20121206 傍示へ

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 私の父の誕生日であるこの日は、年に一度「傍示」の伊丹家が集まる日でもある。集落の八葉蓮華寺の仏像が、縁の者だけに開帳される。


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 集落最古の家は築百数十年、来年には早々に潰すという。研究家とか建築家とか教育委員会に知られたら「保存」の話が出てややこしなるから、とっとと潰してしまいたいというのが家主の本音である。


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 実はこれ新天地を求める遍歴の旅第二弾、先祖を辿れば同じ血筋、農業を継いでくれるのであればというご好意に甘えて諸条件を検討中・・・字は違うけど読みかた一緒やしええんちゃうん ??


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posted by jakiswede at 00:06| Comment(0) | 写真散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月17日

20121206 curio@ashiya

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 もうあんまり紹介する人もなくなってきたようなので・・・このリンクの「Amagasaki Meets Art」というとこにありますわ。


 http://www.amaken.jp/nambu/11/


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 あの建物が解体されて何年になるんやろ ?? いまは芦屋の山の手に移転。


 http://curio-live-design.com/


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posted by jakiswede at 00:29| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月16日

20121205 梨の礫

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 あのなあ・・・かなり出費して菌打ちしたんよ、それがたった3つの収穫で終わりかいや・・・ちょっと手ごわいな、農作業全体の量を減らして、もうちょいいろんなことに取り組む余裕を造り出さなあかん・・・ほんまにあかん。

posted by jakiswede at 11:25| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月15日

20130102 新名神 道場町生野

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 「新名神高速道路」建設予定地。JR道場駅から武庫川下流に向けて、東へ山ひとつを越えた川の曲折部に武庫川上流浄化センターがあって、道路はその脇をかすめるように川を越えて東進し、JRの線路 (トンネル) を越えて、川下川ダムへ至る。


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 武庫川は、左奥が上流で三田側、右 (東) へ流れ下る。


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 武庫川右岸より東を望む。


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 そのJR福知山線は、かつては単線の非電化路線で、今のルートとは違って武庫川沿いを這うように通っていた。これは武庫川右岸に残る踏切跡。


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 地元の道はこの後左岸に渡って、福知山線の廃線跡の石垣を右手に見ながら下流に向かって東進する。「新名神高速道路」は、撮影している私の背後の山を通るはずである。


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 ふりかえると、かつて何かを補給したものであろうか、或いは貨物列車に木材でも積み込んだのであろうか、廃虚となった施設が見える。JR福知山線の旧線跡地は、道場駅から武田尾駅までは、「新名神高速道路」建設のためのアクセス道路として立ち入り禁止になっている。武田尾駅から生瀬駅までの区間は、非公式ではあるがハイキング・コースになっている。特に照明設備のないトンネルはトーチ必須で迫力がある。


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 さて左岸の道路は川筋を離れ、宝塚市の水源になっている川下川ダムに向かって登る。「新名神高速道路」は、そのダムの鼻先を高架で跨ぎ越える。


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20121204 新畑の排水

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 雨後の朝。効果てきめん。


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 ほんの数時間の降雨でこの状態では、来シーズンの麦はあきらめなしゃあないかなあ・・・それにしても発芽が遅い。


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 反対側の水路に向けても排水溝を切る。肥料を与えずに麦を作ろうというのである。排水だけは充分にしておきたい。

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2013年01月14日

20121203 新畑の観察

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 冬本番を迎えつつある氷点下の朝である。


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 新畑の観察。今シーズンの栽培は、うまくいったものもあればいかなかったものもあり、その原因は土の状態に作物に対する適不適がバラついたことと、途中で大半の仲間がリタイヤしてしまったことがあげられる。私には力量不足なのだ。しかし近い将来に向けて、農地だけは確保しておかなければならない。来シーズンは1.5反をフルに使うことにする。しかし、とにもかくにも新畑は、もと田んぼだけに水はけが悪すぎる。周囲の水路の高さぎりぎりまで溝を掘り下げる。明日は雨だ。


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 新畑に隣接する麦の区画であるが、少し鍬を入れただけでこのように泥が染み出すようでは、麦の種が腐る。かといって溝を切ることも全く容易でない。

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2013年01月13日

20130101 私の年越しは・・・


 ほんで私の年越しはどーよって、大晦日は早朝からcafeminhosの営業して、店片づけて掃除してからバイト行って、22時過ぎに帰ってから、西梅田の「Switch」というクラブのカウント・ダウン・パーティーへ・・・なんとなればトルコ航空のアテンダントの美女たちを待たせてあったのでね・・・ (^^)

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http://switch-life.com/

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 まあそんなわけで、実に久しぶりに、華やかでにぎやかな年越しでした・・・ことしもよろしく・・・
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2013年01月12日

20121201 赤目自然農塾訪問記

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 新天地を求める遍歴の旅第一弾、先ずは「赤目自然農塾」へ行ってきた。なぜというに、私がここで農業のまね事を始めてから、日々のことをブログに書きつけているだけで、割とあちこちから反響があってここを訪れる人があるのだが、そんな人の口から「自然農」という考え方があることを知り、私のまね事がどうやらそれに近いものらしいということに感づいたからである。私のところへは来る人もあり去っていく人もあって、そのなかには少なからずここ「赤目自然農塾」から来たという人があって、彼らは一様に「土は耕すな」「草は抜くな」と言って私の農作業の邪魔をし、独りよがりな持論を展開した揚げ句、「あなたは本物ではない」と言い捨てて去っていくのである。なんのために来たのかようわからんのだが、彼らが一致して口にするのが「赤目自然農塾」の名であったので、彼らの言うことの真偽は、やはりここに来て当人から話を聞かないとわからんと思うたわけである。下のしゃがんではる人が、その当人、川口由一氏・・・なんか全然カリスマっぽくない。「赤目自然農塾」は、近鉄赤目口駅の南西 (感覚的には北) の斜面にあった棚田を借り受けて運営されているとのことで、山中に田畑を求めざるを得なかった背景には、氏が「自然農」を始められた当初は、今と違ってそのような考え方はなく、科 (化) 学万能と利益効率最優先で突っ走っていた時代なので、周囲の農家との軋轢が深く、到底落ち着いて作物と対話できる環境になかったからだという。まあね、確かに「日本列島改造論」「所得倍増計画」の時代やったからね。これらのいきさつは、いずれゆっくり著書でも拝見するとして・・・私は当初、私のところを訪れては暴言を吐いて回る、モノカルチャーに洗脳された哀れな自然農法難民どもの「何年も無収穫ですがこれも神のおぼしめしと考えて自然農法を続けます」などとほざきよるバカタレの言葉から、「自然農法」の畑は相当に荒れ果てた感じのもので、そこに狂信的な薄気味悪いやつらが蠢いている光景を想像したのであったが、見よこの正しい土のエロ・・・失礼、色。


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 さて私は、ここを訪れて最初に川口氏に挨拶をし、自己紹介した後で、自分の農作業の考え方と手順について、ひととおり手短に申し上げた。対話の中で浮かび上がってきたことは、私のやっていることは、農薬や化学肥料を多用する、いわゆる「慣行農法」の手順に従いつつ、農薬や化学肥料を省略して栽培しているということだ。つまり、農薬や化学肥料に頼る前提での栽培品種や栽培方法をとりながら、その農薬や化学肥料を省いているという矛盾である。「しんどいでしょ ?? 」そりゃしんどいですよ、農繁期には朝早くから泥と汗にまみれて作業をし、昼飯も簡単に済ませて熱中症とにらみ合いながら日の傾きに焦り、早すぎる夕飯を掻き込んでバイト先に駆け込んで全力疾走で仕事を片づけ、戻ってきて一息ついたら倒れ込むように寝てしまう毎日・・・仕事を一切拒絶していた一昨年までとは全然違って、同時に何種類も並行して進む農作業、種を蒔き、世話をし、育て、収穫する手順と対応に追われて楽しむことが出来ない。つまりジャガイモを収穫したらポタージュにしたりビシソワーズにしたりして楽しみたいのに、とりあえず収穫して取り込んでおいて次の作業、また来る日も別の作業に追われてるうちに夏が過ぎて、うっかりしてたら芽が出たりカビが生えたり・・・ソラマメやエンドウも、取り込んだはいいけど真夏に常温で放置してしまったがために虫が湧いて、豆ご飯やパテを楽しむ余裕も出来ないままに全滅、栽培はうまくいったのに保存を油断しただけでこのありさまでは、一体なんのために百姓をしてんだかわからん。氏の一言で、一気に思い知らされるわがていたらく・・・


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 この、ひとつひとつに区切られた区画が、塾生に貸し出されている「実習畑」である。川口氏より教えられた考え方について、この小さな区画で自分なりに実習してみるわけである。周囲は、水はけを確保するために排水路が掘られている。確かに、土は耕されてはいない。耕す、すなわち耕運する、耕転する、あるいは耕起するとは、作物なり雑草なりの亡骸を土の中に鋤込む作業をいう。本来の自然界にあっては、土の上に上にそうした有機物が重なって堆積するものであるのに、耕すことによって、これらを人為的に土の中へ中へと入れていくことになる。これをなんのためにやるのかというと、ひとつは除草した廃棄物を土の中で腐熟させて、効率的に肥料分にすること、もうひとつは土を露出させることによって作物を視認しやすくし、作物の競合相手を減らし、間引き、土寄せ、中耕、施肥など、人間が行う管理をしやすくすることを目的にしたと考えられる。川口氏は、これを「やる必要のないことだ」とおっしゃるのである。注意すべきは、「してはいけない」と言っているわけではないということだ。自然界では、土の上に植物の亡骸が積み重なっていって、下から順番に土に分解していく。新しい植物が種を降ろすと、根は亡骸をかき分けて伸びていって土に達し、分解された養分を吸い取って育っていくのであるから、当然、その場所ごとの状態によって、同時に撒かれた同種の種でも成育に違いが出る。これを、一時に一定の収量を上げようとするから、土を均質化する、つまり混ぜる、そして耕すという行為に結びついていく。これは、農業に何を求めるのかという価値観の問題である。生計を立てるために、必ず一定の収益が一定期間中に上がるように計画するのであれば、究極的にはいわゆる「慣行農法」へ行き着かざるを得ない。「自然農法」というものは、種を蒔いて育てて、出来てきたものがあれば、それをありがたく頂戴するという生き方であるから、「やる必要のないことだ」ということになる。しかしそれでは当然、収量もわずかで安定もしないから、増産し安定供給に向かおうとすると、自然に対する人間の介入の度合いが変わる。そういう意味で「してはいけない」と言っているわけではないということだ。このことは、もう一つの示唆を与えてくれる。「自然農法」というものが、自然を壊さないとか、地球に優しいというキーワードで語られることが多いが、もちろん大型機械を使って大規模に農場経営をすることに比べたら、自然破壊の度合いは小さいものなのだけれども、あくまで農業というものは、人間が自然に対して直接手を下す、収奪のひとつだということである。自然界において多種多様に生長してくる植物のうち、人間の食用に適した一部の植物を、優先的に育てて収穫することは、自然破壊以外の何ものでもない。だから、「耕さない」「草を抜かない」という言葉のみを取り上げて、「自然農法」というものを、自然に手を加えずに行うものと短絡することは危険である。また、「肥料」を施さないという記述が一部にあるが、「おぎない」と言い方を変えて、実際には米ぬかや菜種油の粕など、伝統的な肥料は施されている。だから「自然農法」というものは、実際にはその言葉の持つ意味合いを若干補填して言うならば、「人力以上の力を頼んで必要以上に自然環境を変えようとしない」という程の意味に解釈すれば、おおむね正しかろう。


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 また自然農法について、「耕さなくても良い」という表現が散見されるのだが、これを「耕す作業は辛いことだ」出来ればやりたくない、そこへ「耕さなくても良い」という考え方が現れた、という文脈で捉えると大きな誤解を招く。農作業は辛い仕事である。人間が生きる糧を得ていくための、自然相手の精子・・・失礼、生死をかけた戦いなのだから当然のことだ。しかし、その辛い仕事をやらなくても良い、辛い思いをしなくても農業は出来るという期待が「耕さなくても良い」という言葉に込められると、これは全く違った意味を持ってしまう。だから厳密には、川口氏が上に述べられた意味での「耕さなくても良い」というのは、「耕す必要がない」という意味であって、当然、耕す度合いに応じて自然破壊の度合いと期待される収量が増減するというバランスの上で語られるべきである。このことはまた、「自然農塾」に対しても多くの示唆を与えることになるだろう。すなわちここでは、川口氏の考え方を各自がこの小さな区画で実践するのであるが、ほとんどの「塾生」は、都心より毎週のようにここに通って来て、この小さな区画の手入れをし、いくばくかの収穫を得て帰っていく。月に一度は、川口氏が来られて、直接指導を受けることも出来る。しかしそれがうまくいったからといって、言葉は悪いが所詮「ままごと」である。この小さな区画で米や野菜を育てるといっても、それはあまりにも小さすぎて「手入れ」が行き届いて当たり前、しかしそれで糊口をしのぐにはあまりにも少ないのである。男一匹が一年に人力で管理できる農地は一反そこそこ、ここの数平米の実習畑でおこなわれていることを、一反すなわち一千平米に体感をもって拡大することは極めて困難だ。それは、実際に一千平米の土地に立ち向かってこそ体得できるものであって、それを鍬をもって全て耕す労力とその影響や効果を知っているものが、「しなくても良い」ということと、「それは辛い仕事だ」と想像するものが「しなくても良い」ということとは、全く次元の異なる話である。残念なことに、ここの「塾生」を見ていて感じられることは、この数平米を何とかすることが「自然農」だと勘違いしているのではないか、これは単なる入口に過ぎないことに気がついていないのではないかと思われることである。そうして、この入口を通過してきたものの一部が私の田畑を訪れて、私の一千平米の状態を見て「あなたは本物ではない」などとほざきよるのかと思い当たるのである。さて下の写真は稲刈りが終わって麦を蒔き、それが発芽してしばらくの状態の田んぼである。稲藁がばらまかれてある。この高さが田んぼの表面であるから、満水時には、これより20cm程度高いところまで水が張られることになる。土の上に蓄積された植物の亡骸の層は5cm以上になる。これが、上から下へ行くに従って、形あるものから形ないものへと、崩れゆく見事なグラデーションをなしている。種はそこに抱かれて、やがて水分を得て芽吹くであろう。そして下へ下へと土を求めて根は伸びていく。私はこれを見たとき、これなら育つと直感した。「自然農法」についてのさまざまな噂に反して、この状態は、きわめて健全で人を和ませるものがある。この土に触れる人間が心和ませ得るということは、ほとんど全ての生物にとっても心を和ませるものだろう。これは持続可能な農法である。私は来シーズンより、全面的かつ徹底的に「自然農法」に移行する。


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 さて毎月一回の集まりは土日に設定されていて、土曜日は共同作業と各自の実習に川口氏が指導されることがある。共同作業には、それぞれその時期に必要な作業がいくつかあって、私は、いずれ自分も農地を獲得した暁には、このように山中に安住の地を求めることになるやもしれんと思うたので、獣よけの柵を補修する男らしい共同作業に参加した。なんとなれば、参加者の大半は女性か子供であるからだ。山中で農業を営むには、いかに自然を敵にしないといえども、獣害を防ぐことは必須である。農場全体が、このような波板で強固に囲われており、にも関わらずあちこちでこれらが破壊されているのである。「赤目自然農塾」は、運営に当たって塾生や参加者に何かを課したり求めたりということがない。もっと知りたいと思う人は毎月通って来るし、更に深めたいと思う人は区画を借りて毎週通って来る。そのうち長く関わる人は勝手がわかってくるので得意分野に力を発揮するから、おのずから指導的役割を受け持つことになる。このようにして、例えば柵の補修に長じる人、川で石を動かすのが得意な人、もちろん大勢の参加者であるから、その食事を賄う人などができてくる。まあそこから先は人間社会だからエロエロ・・・失礼、いろいろあるだろう。そのような新陳代謝を繰り返しながら、「塾」は組織化されることなく数十年も続いてきた。川口氏いわく、「組織化」するために形を整えるつもりはない、参加者から金を取る気もない、自分が何か特別な考えを持っていて、それを広めようという気もない、みんなが集まってきて自発的に運営できていればそれで良い、回らなくなれば辞めるまでのことだ、と。さてその日は夕刻に全体の作業は終わり、宿泊を希望した参加者は近所の温泉施設で全員入浴のあと、車に分乗して離れたところにある「山荘」へ向かう。「自然農塾」であるから、入浴も自然農的かと思いきや、まったくありきたりの郊外型温泉施設で、ボディ・ソープやリンス・イン・シャンプーでべたべたになっての宿泊であった。「山荘」に宿泊して夕食・朝食・昼食と三食を希望するには1,500円の料金が必要である。しかし受付も管理もされていない。ただ箱に入れ、おつりの必要な人はその分を箱からとるだけである。全てが「信用」と「善意」の上で運営されている。「山荘」とは、「自然農塾」の趣旨に賛同した、とある会社の保養所である。本日の参加者は、シーズン・オフとあって85名ということであったが、農繁期には400名を越えることもあるという。夕食は、極めて質素な具だくさんの汁物とご飯、当然すべて農場からの収穫物である。夕食後は「ことばによるまなびの時間」といって、川口氏が毎回テーマを決めて、それについて話しあう時間である。下の写真は、農園にいくつかある物置兼休憩所のひとつ。


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 今夜のテーマは「宗教について」ということであった。大きく出たもんやね。私が思うに、ここ「赤目自然農塾」へ来てみようと思う大半の人たちは、現代の都市生活の現実にうまく対応できずに、或いはそれとは別の価値観を探しに、平たく言えば精神的な何かを求めて、ありていに言えば「さびしんぼ」、それが数年来のコミュニケーション・ツールの発展に後押しされて、自我の胎内で充分考えが熟成されないままに行動に移り得るから、来てしまうのではないか。つまり心の隙間を埋めてくれるひとつのツールとして農業があって、それに取り組む人たちと「つながれる」と期待することによって、心の安定など、何らかの解決を期待するのではないか。逆に言えば、農業が辛いものだとわかれば、もはや見向きもしないだろう、と思われる腰抜けが大半を占めていたということだ。「ことばによるまなびの時間」は、そのような心情に、図らずも見事に応えてくれる。川口氏は哲学者である。ただし、市井の学者らしく扱われる術語の意味する範囲は独特である。たとえば「宗教」という言葉を使うにあたって、それが「信じる」という個人の心の状態のことを指しているのか、「仏教」や「キリスト教」のように特定の宗教を指しているのか、またはその宗教が社会的存在となった「宗教団体」のことを指しているのか、初めから定義づけがあいまいに聞こえるのみならず、話の文脈中で往々にしてそれらが交錯する。また、「科学」という言葉を対峙して使われることがあるが、これについても、「科学」とは「物質」の現象について研究するものであるのに、川口氏の使われ方を黙って聞いていると、それが物質でないものにまで適用されて、「真の科学は物質世界の現象を越える」という話になってくる。科学的に「真」であるか「偽」であるかは、論理展開に飛躍や矛盾がないかに依拠するものと考えられるが、使われた言葉の一つ一つの管轄する意味が曖昧であれば、考える手段として共有されるべき論理的な厳密性というものが確保されにくくなり、「考えて」いるのか「信じて」いるのかがわからなくなってくる。そのような状態で持論を展開するということは、「宇宙」で起こっている事象を恣意的につなげて論理を展開していくことになり、ある意味では個性的な「世界観」が構築されるのかも知れないが、往々にして「絵に描いた餅」に堕することになる。「世界」というものは複雑で不条理なものである。従って簡単に説明できるものではない。しかしそこに、独特の視点から明快な説明がなされてしまうと、複雑さや不条理さに挫けそうになった心は、それにすがりつくのである。このようにして、先の「さびしんぼ」たちは飛びつく。現代の少なからぬ人たちが「再生可能エネルギー」に漠然とした可能性を期待するのと同じように、また1970年代の我々が「プログレッシヴ・ロック」に漠然とした可能性を期待したのと同じように、「赤目自然農塾」の「ことばによるまなびの時間」は「参加者」の心の癒しの時間となる。場の全体が、ほんわかとした陶酔の空気に包まれたのは言うまでもない。しかしこの空気の中で、私に黙ってそこに座っておれというのは、これは無理な相談である。「質問コーナー」があったので、何人かの他愛のない質問をスルーしたあと、よせばいいのに「ほかになにかお訊きになりたいことがあれば・・・」などと司会者がほざきよるので、せっかくだから使われた言葉の定義について上のような厳密性を問うてみた。たちまち場の空気が敵対的なものに一変し、それまで温かなオレンジ色の視線に満たされていたものが、たちどころにシルバー・ブルーの光線となって私に集中放射された。言葉の厳密性をひとつひとつ解きほぐしていけば、使われた文脈の中で巧妙に折り込まれた意味のあいまいさが明らかとなり、化けの皮のはがされた陶酔は雨散霧消する。要するに、「科学」の守備範囲を「心の現象」にまで広げてしまう事から来るあいまいさが、「希望に満ちた個性的な世界観」の土台を形作っているに過ぎないという私の主張と、川口氏の主張は平行線を辿り続け、折り合いのつかないままあいまいなところに互いの矛を収めて、何となくその場は就寝の時間となった。ちょっとした余興だ。ここで折り合いがつかないからといって「自然農法」が間違っているなどというつもりはない。ただ、ここに集まっている大半の人たちの「思惑」が明るみに出たことは事実である。


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 さて翌日は、川口氏が主体となって、その季節ごとに必要となる手入れについて、具体的な作業の指導があった。12月であるのでほとんど作業というものもないのだが、稲の脱穀や籾摺の遅れている人たちのものを使ってその作業の解説があり、脱穀については足踏み脱穀機で人力で出来るのだが、籾摺は電気籾摺り機が使われている。やはりこの工程は「自然農法」でも電気を使うのである。ほかに麦の状態の観察、ソラマメの手入れ、エンドウの種まきなどがあった。ここではっきりと川口氏は、種を蒔くとき、幼苗が生長するまでの間は、周りの草を抜けと明言しておられる。あたりまえのことだ。さらに里芋の冬越しにあたっては、枯れ草だけでは冬の北風に飛ばされてしまうので、周囲を耕して土を確保し、土寄せするようにと明言されていた。これもあたりまえのことである。これらを栽培したことがあれば、その育っていく状態を見て、それに応じた手入れをするのはあたりまえのことであって、そんなことは農法の別を問わない。言葉の独り歩きは、やったことのない人たちが、たまたま別の場面で言われた言葉を鵜呑みにして、全体に解釈を広げてしまうことに起因することがはっきりした。やったことのない人たちは、さまざまに素朴な疑問を発するのであるが、それらに対する川口氏の答えは、「自然農法」だから特別なことをやっているわけではなく、手順としては殆ど「慣行農法」と同じである。ただ「耕転しない」事だけが異なる。これについては、私は来シーズンから実践してみる価値があると思っている。さてこの日は、私は夕刻からバイトあであるので、午前中の指導を見学したあと、午後からは各畑を見学させてもらって川口氏にお礼を述べ、早々に引き上げた。その頃には参加者は200人近くに増え、斜面を覆い尽くすほどであった。川口氏の作業指導は、当然その手許で行われるわけだから、斜面を埋め尽くした大半の人たちには見えない。やったことのない人たちには、話の内容すら殆どわからないであろう。だから、これをもって何かが成し遂げられるわけではない。実習畑で何かが得られるのでもない。千平米と先ずは対峙して、そこから米と野菜を自給することによって初めて、「自然農法」が体得できるのである。


 http://iwazumi.nsf.jp/


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 さて実は、私がここへ来たもう一つの目的は、私の住まいする場所の置かれている状況について、赤目へ来れば自然農法を実践する仲間があって、田畑付の適当に空き農家でも紹介してもらえるのではないかと、甘い期待を抱いてきたことである。よく考えてみれば、私も「さびしんぼ」とあんまり変わらんかったわけだ。しかし川口氏から発せられた応えは、「土を信じなさい」という一言だった。最初は戸惑ったので、私はその真意を問うた。すると仰るには、土は、私がここへ来るずっと前からここにあって、私が死んでも更にずっとここにあり続けるであろう。その長い土の一生のうちの、ほんの一瞬を私が貸していただくわけである。「地主」などといってもそれは所詮人間同士で決めたことである。その「地主」とやらが、どこの馬の骨ともわからん団体に土地を貸したからといって、なぜ先回りして移住する段取りを考える必要があろうか。私はその時点で、私の心が既に「挫けている」事を知った。「何故我々が山中に農地を求めたか、考えてみられるが良い」なるほど、私はわかった。私を追い出そうとする人があれば、その心と対峙してそれを変えさせる、ほんの何人かの心すら変えられないようでは、「自然農法」に転換することも危うい。日本の農地のほとんどが、そのように管理されていくことに対して、本当の食の安全を求めて、手作りで自給的生活を目指そうというのに、ごく何人かの不当な圧力に負けて、いや負ける前から山に逃げ込むことを考えているようでは、何事も達成することは危うい。「彼ら」は、手を変え品を変え、力を傘に着ていびり出そうとするだろう。しかし私を止めることは出来ない。


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posted by jakiswede at 00:30| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2012 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20130112 旅先の新年どんなんかな


またまた新年とは関係ないのですが、トルコの印象は私にとってはまさにコレなのですよ、ずっと前に紹介した「ラク」というきつい酒のCMの別バージョン。

http://www.youtube.com/watch?v=4tVLME1-574
posted by jakiswede at 00:17| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月11日

20130111 旅先の新年どんなんかな


全然新年ちゃうんですけど面白かったから・・・PortugalのÓbidosという村の中世の祭りです。
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2013年01月10日

20130110 旅先の新年どんなんかな

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2013年01月09日

20130109 旅先の新年どんなんかな


コンゴ民主共和国赤道州の州都Mbandakaです。新年とはなんの関係もありませんが、あまりにも良いのでつい・・・ (^^)
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2013年01月08日

20130108 旅先の新年どんなんかな

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2013年01月07日

20130107 旅先の新年どんなんかな


去年のものですが・・・
posted by jakiswede at 12:22| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月06日

20130106 旅先の新年どんなんかな

posted by jakiswede at 00:58| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月05日

20130105 旅先の新年どんなんかな



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2013年01月04日

20130104 旅先の新年どんなんかな


いやあやっぱりこいつら能天気やゎ。
posted by jakiswede at 00:14| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月03日

20130103 旅先の新年どんなんかな


こんなんやったかも・・・
posted by jakiswede at 23:36| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20130103 de Pétion-Ville

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2013年01月02日

20130102 O Caribe


カリブ海クルーズに出るあなたに贈る。
posted by jakiswede at 21:35| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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