2013年04月18日
2013年04月14日
20130403 京丹波町瑞穂
移住先の検討である。今日は、縁あって京丹波町を訪ねた。地元で役場とともに新規就農者の定着を図っている先生とともに、現在空き家になっている物件を見せてもらった。この家は非常にきれいな状態で大きさも手ごろで良いのだが、なんとこの真裏を京都縦貫道が通る。
この家は、高台にあって非常に魅力的なのだが、目の前を京都縦貫道が横切る。集落のど真ん中を京都縦貫道が貫通するのである。現在工事中で周辺の山をどんどん崩してる。つまり、高速道路が村人を追い出していくので、新規に定住する人ならどんな人でも問わないという状態。実は、私の実家は中国道の宝塚東トンネルの上にあり、この工事によって、幼なじみのほとんどと遊び場を立ち退きによって失い、「地区」は団地と統合されて、「団地っ子」達の執拗ないじめに遭うきっかけとなった。中国道が開通すると、大型トラックが継ぎ目を通過する重低音と振動が夜通し家を揺さぶり、眠れない夜が続いた。1995年には震災の恐怖と悪夢、疎開先がJR線路の真横で夜通しの貨物列車の振動に悩まされた。今の住まいの近くを、新名神高速が通る・・・そして京都縦貫道・・・これはなんぼなんでも厭や。もっと普通の場所に住みたい。担当者は高速道路の苦痛を知らんので理解出来ないようだったが・・・
ただ、収穫もあった。実は、ここを訪れたのにはつてがあって、まだログハウス建設の夢を抱いていた頃、篠山から亀岡へ集落を見て歩いていた途中に、地元の木材を使ってログハウスを建設している会社の展示場があった。併設されたカフェで茶を飲んでいると社長が入ってきて話し込むうちに、いろいろと意気投合する部分があったというわけだ。その建設会社の社長は、割と手広くログハウス建設を手がけているようで、確かに周辺の街道や集落に物件が散見される。建築中や予定の物件も多く、人手が足りないのでバイトでも良いから手伝ってくれないかという。ここから一時間強なので、取りあえず関西スーパーのバイトが休みの日に週一回ペースで大工見習いに行こうかと思う。そうすれば、家の建て方もわかるだろうし、自分の家を建てるときでもコスト削減に繋がる。京丹波町役場の担当者は、なんと先月京都の新規就農説明会で、具体的な説明をしてくれたその人だったというおまけもついた。「京都」て、わりとうまくつながるんよね、神戸や芦屋と違って・・・
20130330 菜の花の季節
イカナゴ漁もまもなく終わり、釘煮納めに大きくなった新子を買い求め、生で酢醤油 (良い子はマネしちゃダメよ) ・天ぷら・釘煮とイカナゴ三昧のランチであります。
菜の花の季節になりました。畑を見ておりますと、このような面白い状態をみつけました。何が面白いといって、草の株が等間隔に並んでおります。早よ除草せなと思うのですが、なぜこのように等間隔に並んでいるのかと思いを巡らしましたところ、つまり秋にレタスの苗を定植したのだが、その根に雑草が絡みついて成育し、ついにはレタスを枯らしてしまったというわけです。この事態をどう解釈するかで、実はその人の農法が正反対に展開して行く。けしからん雑草めという事で今後はもっと早めに手を打とうと考える・・・これが真当な百姓のあり方というものですが、最近の私はちと違う。レタスを植えた跡に別の草が取って代わったという事は、レタスの根が成育する事によって、土壌中に新陳代謝が起き、それにこの草の種なり根っこが反応してレタスの根に巻き付いたがために、ついにはレタスを枯らしてその草がレタスの植え跡を占領した・・・つまり、レタスの根がこの草を育てた・・・根が育つところに養分が発生する・・・ということは、植物の根が生きているところに生命が宿るのである。そこを見る必要があるのですな。だから、「雑草」を憎んで懲らしめるのではなく、でもやっぱりレタスには成長して欲しいので、ほかの草には悪いけれども生かさず殺さずに打ち負かされておいて、レタスを依怙贔屓に育てようという、根を絶やさずに地上部分を挫く事によって、目的の作物に有利な状態を作るという除草の方法論がここに成り立つ。つまり全体を壊さない自然農法の手法のひとつになるというわけです。まあこんな3株の「雑草」でも、身を挺して私にエロエロと・・・失礼、いろいろと教えてくれるわけですな。
まァそんなわけで、春のサラダ・・・
20120314 Кызылкум
結果的に、Boss (中央) を信じて良かった。Madina & Ilyosは、今回の旅行で最高の宿であった。Khivaへ発つにあたって、またもやBossは例の白人ツーリスト2人とシェアしてKhivaまで行ってくれるタクシーを見つけてきた。車はNexiaという韓国の大宇 (Daewoo) グループの、しっかりした造りの新しい車である。これで一人55,000Cуm・・・これは現地価格といえる。BuxoroからKhiva間での移動距離は約500km、ドア・トゥ・ドアで一人約USD20。
Buxoro近郊は麦畑、土の様子は日本と余り変わらない。
しかし・・・
だんだん・・・
小便がしたくなんのよね。
ひたすら・・・
でも、後半は工事区間が多く、並走するダートに降りる。それはもうコンゴの奥地の世界で、泥のない変わりに轍を踏み外すと砂に埋もれてスタックする。ひたすらノロノロ運転。
構造物を見るとホッとする。
でも不都合な真実もある。
Urgench (Урганч) 到着。ここは幹線道路上のKhivaへの入口である。トロリー・バスの感じが、これまた東欧的でよろしおまんな・・・
Khiva (Хива) 到着。ほぼ一日かけてのロング・ドライブであった。白人2人は、Bossに紹介された城の西門前のHotel Alibekに投宿。私たちは、ウズベキスタン最後の夜なのでちょっと奮発して城内 (Itchan Kala) に宿を取る事にした。しかしシーズン・オフで、調べてきた宿は全て準備中、ちょっと高いがMalika系列のB&B Kheivakに決めた (USD65/ 2人) 。上の写真は、西門前の食堂での夕食、Khivaのナンの生地はパイのように薄い。しかしこれが肉やシチューと良く合って、結局ウズベキスタンで最も美味い食事となった。
20120313 Madina & Ilyos
Buxoroでの宿を紹介しておこう。今回のウズベキスタンの旅行で、最も快適だった宿である。その敏腕の女将の切り盛りする宿は「Madina & Ilyos」という。非常にわかりにくいので、行き方から説明する。Buxoroの中心にある池Lyabi Khauzのあるエリアから西へ外れて行く。地図で「Mehtar Anber通 (Ko'chasi) 」を捜すと、上のような風景が目に入るであろう。何の変哲もない路地である。これを5分ほど進む。
左に注意していると、上のような表示が出ているので、その細い路地を入る。れんが造りの壁に挟まれるが臆せず中に入ると、左手に大きな扉があって、その中が目指す宿である。「Madina & Ilyos」で検索されると、いくつかの情報が得られると思う。
私たちが泊まったのは一番手前の窓の部屋で、シャワー・トイレと朝食付きで一人USD10であった。
中はこのようになっている。「滞在登録」も出る。
これがウズベキスタンで一般的に見られる暖房である。中はたこ焼き器のコンロのようになっていて、つけっぱなしである。
このような階段があって、屋上へ出ることができる。
観光エリアから近いが、充分に庶民生活の中という感じがあって寛げます。周りの住人たちも英語が普通にしゃべれるし・・・
屋上からの風景・・・隣の家のねーちゃんが隣の屋上にあがってきて洗濯物を干したりもします。
朝食・・・これにナンがどっさりつくので、貧乏旅行者としては充分すぎる。
この日の夜は、例の白人ツーリストたちと、宿の主人によるディナー・・・といってもプロフとナンにサラダという極々普通の食事にワインが付いただけ・・・でも楽しかったらそれでええねん。
20120313 Тоги
朝食後、今日は土井ちゃんを放置して単独行動。Buxoroの観光エリアの路地には、辻を利用した小さなドーム付きバザール「tagi」があって、いつもその周囲を掃除している老人がいる。見ると、時折通行人が彼にお金を渡して感謝の気持ちを伝えている。彼は、宿と池の間にあるtagiにいつもたたずんでいる老人。ごく小学を渡して気持ちを伝えると、ドームの片隅に礼拝できる窪みのようなところがあって、そこで祝福してくれた・・・たぶん。私は郊外を目指す。
Buxoroの観光エリアから外れると、このような風景である。ウズベキスタン屈指の都会であるから当然の事だ。ここは地元の人たちが「vogkzal」・・・「駅」と呼び習わしている交差点である。撮影している私の背後の交差点を東に少し行ったところに、かつての鉄道駅の建物が残っている。ついでに交通関係の情報を少し・・・あくまで2012年のデータです。現在の駅「Kagan (Когон) 」との往復には68番のミニバスの他に、「Kagan-Bukhara (Когон-Бухарa)」などと表示された大型バスが頻発。また長距離バス・ターミナルへは61, 100番、南方へ向かうSharq (Шарк)バス・ターミナルへは70, 73, 87, 100番、しかしこの道の緩やかな左カーブを曲がるとイズミヤがありそうな錯覚に陥るのは私だけでしょうか ?? ・・・でしょうね。東の郊外にある聖地Bakhawuddin (Бахоуддин) 」へは60, 125番、北の郊外にある「夏の宮殿 (Sitоrаi Mоhi ХоssаあるいはСитораи Мохи Хосса) へは70番のバスで往復できるが、かならずしもここが終点ではないので、逆向きの車に乗らないように、急ぎの場合は場所を大声で確認すべし。ウズベキ人は親切なので、こちらの意図はわかってくれる。まあ逆向きの車に乗ったら、どんな村へ連れて行かれるか楽しみではあるけどね・・・
「vogkzal」から大通りを少し南下すると大きなバザールがあって、ここは非常に楽しい。食料品や医療、日用雑貨はもちろんの事、百姓魂の揺さぶられる種苗店があったりする。写真は、ロシア製の一般的な自転車。日本ではほとんど見かけなくなった、トップ・チューブが水平なタイプのダイヤモンド・フレームだ。価格は6千円程度で、バラして持ち帰る事も出来そうだ。ただ、日本でいうブレーキ装置がついて。これはコースター・ブレーキといって、ペダルを逆に回転させるとブレーキがかかるもので、日本の道路交通法上もブレーキとして認められている。・・・そんなこんなで小一時間ほど買い物を楽しみ、紅茶や色とりどりのチョコレートなど、買い物を楽しんだ後、70番のバスに乗って「夏の宮殿」を目指す。
「夏の宮殿」とあって、冬は閑散としていた・・・
客が一人来れば、どこかからおばちゃんが出てきて開けてくれる。「博物館」には古い陶器や敷物などが飾られている。
しかし、観光地に来ても「観光」せずに裏庭や路地に迷い込んでしまうのが私の悪い癖である。
適当に和んだ後、vogkzalに戻って軽くランチを摂り、125番のバスに乗って、東の郊外にある聖地「バハウッディーン」を目指す。「バハウッディーン」と書いたが、正式には、「Бахоуддин Накшбанди」といい、中央アジアにおけるメッカに次ぐ聖地といわれている。上の写真は廟の前のバス発着地。
このような門前で座ってお祈りをしてもらえる。
聖地に来たというのに、やはり裏庭の方に興味があって、どこへ続くかとも知れぬ踏み跡をひたすら辿るのが私の悪い癖である。Buxoroの写真はこちらへどうぞ。
http://jakiswede.com/3photos/31works/313voyages/3138bukhara/index.html
20120313 Ляби-хауза
明けきらぬうちから早朝散歩。シーズン前で閑散としているBuxoro観光の中心地Lyabi Khauz。
放浪癖が溢れ出し、路地という路地を無闇に歩く。
人の集まっている気配があったので行ってみると、小さな市が立っている。あきらかに朝の食卓を調えるためのものである。
何台か物資を積んだトラックがやってきて荷物を降ろして行った。左手の廃墟となった建物はモスクの名残であろうか・・・
20120312 Бухара
列車内では、土井ちゃんは白人のツーリストのグループに捕まって酒を飲まされていた。私はこういう八釜しい奴らが嫌いなのと、彼女にとって旅の良い経験になると思ったので放置して別の空いている席へ移り、砂漠の風景に想いを馳せた。車内では、天井に取り付けられたテレビが、なんとも救いようのないドラマを放映しており、飛行機のように座席のイヤホンで音声を聞く事が出来る。
さて、Buxoroの駅に到着し、念のためUrgenchへ鉄道で行けるかどうかを確かめていたら、「I am the Boss」なんてバッヂをつけた年配の女性に声をかけられた。私は警戒した。執拗に「私を信じろ」と言う。その言葉からして怪しい。BuxoroからUrgenchへ行くツーリスト列車は水曜日にしか運行されておらず、在来便ではNavoyという駅で乗り換えてUrgenchへ行く事も出来るが、短期の旅行で、事情のわからない国で、道連れを伴ってのこの種の冒険は現実的でなかった。この事を確認している間も、女性は傍らにいた。無視して駅前広場に出、Buxoroの街中に出るミニバスを探していると、その女性はツーリスト相場の10分の1でタクシーを捕まえてきた。のみならず、同じ列車で到着した数人のツーリストを引き連れ、既にタクシーに分乗させて我々二人を待っていた。土井ちゃんは、列車から白人とともにウオッカを飲み続けでぐでんぐでんの状態だったので、めんどくさいからそのタクシーに乗った。
タクシーはBuxoroの街を目指した。鉄道駅はBoxoroと名前がついているが、実はKaganという隣町にあり、両者は車で20分程度の距離である。女性はタクシーを自分の家の前に止めさせ、全員を中に導いた。明らかにモグリ営業とわかる民泊である。「私を信用して。荷物を部屋に置いて鍵を締めてね。さあみんなでホテルを探しに行きましょう。そっちの方が良ければ、また帰ってきて荷物を持っていけばいいわ、おカネは要らないから。」ここでも彼女は「Boss」ぶりを発揮し一切を采配し、「客」の全員の希望を聞きながら一軒ずつ見て回った。上の写真はそのうちのひとつ、中世の本物の隊商宿 (caravanserai) をリノベーションしたホテルである。Buxoroの街は、歴史的景観保全地区とそれ以外に分かれており、保全地区は囲い込まれてテーマ・パークのようになっている。その中に、このような歴史的建造物を活用したホテルやレストランや博物館などが至る所にある。しかし、そのいくつかを見せてもらったが、料金が高い割に狭苦しく、話のタネ程度の価値しかない。結局、「客」・・・既に我々は彼女の客になっていた・・・は、全員彼女の民泊に泊まる事にした。「滞在登録」つきでUSD10。安い !! Buxoroはまだシーズン前、立ち寄る観光客なんて、我々を含めて列車から降りた十数人だろう、そのほとんどを自分の宿に引き入れてしまった彼女の手腕は、天晴というより他はない。
暮れなずむBuxoroを散策する。このような壁がたまらん。
夕刻になると人がいなくなる。宿の前の通りを中心部へ向かう。やがて日が落ちる。夜の帳が迫って来る。
さてBuxoroの観光の中心部は小一時間もあれば回ることができる。腹が減ったので、勧められたレストランで飯にする。と、そこに日本人の旅行者が2人いたので同席させてもらった・・・しかし、彼らは何やら憮然としておられるので、いかがなされた ?? と訊いてみると、なんでもいろいろ観光しておすすめの場所へ行ったり買い物をしたりしてみたが不満であると宣う。食い物はまずいし、なにもかも無駄にでかいし、おもしろいものがなにもない、つまらん国だ・・・こいつら私が心に閉じ込め閉じ込め旅を続けておるというのに、言うてはならん事を言うてまいよった。同感よ、たしかに不満や。でもな、それはしゃあないで、こうなったら無理にでも楽しむしかない。
20120312 Шарк
Samarkand最後の日、土井ちゃんはBu-Nyok氏の家へナンの作り方を習いに行き、私は単独で街を散策する。こういう壁や建物を見ながらあてどなくさまようのが、またええんよね。
雪に足を取られ、決して快適ではないが、行き交う人々と目で対話する一瞬の間も、これまたええんよね。
地図も見ず、ひたすら自分のアンテナの切先だけを研ぎ澄まし、
路地から路地へ、通りから通りへ、
現地の人か異邦人か、自分自身区別がつかなくなるまで、
疲れても疲れても、ひたすら歩く。
Buxoro行き「Sharq」号に乗車、車窓風景のひとつ・・・
車掌、というか、アテンダント (男) が各車両に一人ずついて、ときどきチャイを勧めに来る。このような給湯器で、熱々を入れてくれる。
Buxoroに近づくと、風景はひたすら砂漠・・・
20130328 ピリピリ・コレクション
ピリピリ・コレクションとのお別れ。整理を全て終え、寄贈していただいたものを選り分けて返送、必要なものはコピーを取って保全、残りは全て箱詰めして御実家へお返しする事になり、本日親族の方が取りに来られた。これらは全て処分される事になる。世の中とは不思議なもので、全くの無駄、無意味な事を決定して、何がどうあっても変えない人がある。ピリピリが持っていたレコード・CD・現地録音・音響機材・楽器・資料や文献などは、彼と半生を供にし、その遍歴を理解している者によってこそ生かされるのであって、それがたとえ奥田家の所有であったとしても、彼らにとってはタダのがらくたであり意味不明の長物にすぎない。にもかかわらずその有効活用に、一旦は合意しておきながら掌を返し、要らぬ二度手間を踏ませてまで執拗に返還を要求、わざわざ返させておいて処分するとは全くの意味不明、このコレクションが有効に活用される事をピリピリ本人が望み、音楽の博物館行きを何よりも嫌った彼にとって、博物館行きどころか密閉され処分されてしまう事の無念を思うと・・・まあ、これでひとつ懸案に切りがついて肩の荷が下りたのは事実だが、このような理不尽に振り回される事の多かった今日この頃・・・この家の事もそうだし、「チームなんちゃら」のこともそうだし、空き家があってもいろいろ制限を設けて貸してくれない制度もそうだし・・・まあね、世の中理不尽でも男一匹の暮らしぐらいなるようになるでしょ・・・しかしもったいないねえ、特に「たまご」と書いた段ボールは、ほとんどが現地録音の記録やからねえ・・・これをきちんと分類してライブラリにしたら、学術的にも資料価値は高いものなんやが、理解できんひとが持ってもしゃあないと思うんやがねえ・・・いや処分しはるのんか・・・ようわからん・・・やりきれんよ全く・・・そうそう、「ピリピリ・ホームページ」も閉鎖するようにとの事なので、近日中に削除する作業をします。見たい人は今のうちやで。
http://jakiswede.com/2music/21acts/219pilipili/Pili-Pili_iWeb/Profile.html
20130325 丹波黒豆味噌仕込み
米糀が破生したので豆を一晩水に浸ける。このくらい大きくなる。
糀は極めて理想的な状態である。濡れ布巾が落ちないように渡してあった菜箸にもうっすらとコウジカビが付着している。
丹波の黒豆を蒸す。目安は指先で軽く潰れる程度。これを人肌程度にまで放熱する。
米糀は水分を与えてふやかしておく。豆を蒸すときに使った水 (豆蔵) を使う。必ず人肌程度にまで放熱する。
蒸した豆・ふやかした糀・塩を混ぜてミンサーにかける。混ぜる割合は、豆は水に浸ける前、糀は仕込む前の米の重さ、つまり乾燥した状態で、豆 : 糀 : 塩 = 2 : 2 : 1 である。豆蔵をとっておいて、ミンサーにかけたときに硬ければ少しふやかす。
摺り終わると、必ず摺り残しが出るので、これは別に保存する。つまり、大量に仕込めば仕込むほど効率が良くなる。何度かに分けて仕込むなら、次回はこの別保存したものを先に入れれば良い。
仕込み時つまり乾燥した状態で、豆 : 糀 : 塩 = 2 : 2 : 1 (kg) の材料で約8リットルの保存瓶にこの程度の量が仕上がる。上部にラップ・フィルムを密着させて、できるだけ嫌気的状態を作る。1ヶ月に1度全体を混ぜ、3ヶ月経ったら冷暗所に保存する。
20120311 Жахонгир
Samarkandで延泊。荷物を移す。宿は、帝国の後継者と見なされつつも父より早くに亡くなったTemurの息子の名を頂く。出発前に調べていた段階では改装中だったが、まさに改装オープン直後で、写真のように、手すりにはまだ養生のビニルが残っていた。実に美しい状態で、部屋も快適であった。階下に見える扉が食堂であり、朝食を摂っていると、テレビが日本の震災から一年経つ事をニュースで伝えていた。
今日の前半は、先ずはウルグット・バザール見学である。Bu-Nyok君はFurkat氏という先輩のプロのガイドを連れてきた。日本人にも分かりやすい軽妙なカタカナ英語を操って快活にしゃべる男で、中央アジアの歴史の概略が頭に入っていたので、話し相手にはちょうどよかった。現地人と、日本人の私の持っている歴史認識が、ほとんど同じだったという事は、ある意味驚きではあったが・・・大雪であった。非常に寒く、靴も凍るばかりで大変だった。写真は、バザールの一角で売られていたサモサ。土をこねて作った大きなタンドールに貼り付けて焼くのである。
ランチは彼らの案内でイラン系の料理店で、プロフ (ウズベキ風焼き飯) が美味いことで有名という店にて。価格交渉するBu-Nyok君とFurkat氏。ちなみにイラン系とは、ここではタジク人を現わし、中国でこれを恩赦して「大食 (タージー) 」と書いたにもあるごとく、非ッ常に大盛りで食べきれなかった。しかも焼き飯・・・・
食後の腹ごなしに、旅の段取りを進めておく。明日Buxoroへ行く列車の切符の手配と、一日延泊するのでUrgenchからの帰りは飛ぶ事にする。駅と空港を回った後、雪の中ではあったが、郊外の霊廟である「Al-Buxari (Aль-Бухари) 」を訪れる。ここはSamarkandに着いたらぜひ訪れてみたいと思っていたのだが、あまりの寒さと雪のためにやる気が失せていたのを、思わぬ事で実現したのであった。写真は、下記リンクにあり。
http://jakiswede.com/3photos/31works/313voyages/3137samarkand/index.html
2013年04月10日
20130324 和歌山県那智勝浦町色川
限界集落、ということは、価値観を逆転させてみれば最先端を集落として生きている事になる。いずれ現在の虚栄の生活は崩壊する。必要なものは自分で作り出しながら生きていかざるを得ない。その状況は、おそらく数十年後にはやって来る。それまでに、できる限りのノウハウを身に付け、持続可能な生活のあり方を試行錯誤しておかなければならない。私が今住んでいるところは、例えば大阪市内に住んでいる人から見れば田舎であろうが、駅やスーパーまで自転車で5分、駅から大阪まで45分・・・なんて、こんなもん田舎とちゃうやろ。現在の私が一人暮らし出来ているのは、あくまで都市生活的なインフラが身の回りに整っているからであって、私に百姓仕事が出来るからではない。私はそれをよく知っている。今は全てが整っている。買い物も簡単、バイトも出来るし、そこでの人間関係も実に良好、たまには都会へ出て気楽に遊ぶ事も出来る。もちろん百姓仕事も出来て、友達が時々訪ねてくる。しかも、基本的には大好きな一人暮らしが出来ている。誰にも邪魔されずも気兼ねも要らない。こんな理想的な環境を捨てて、何故不便な田舎暮らしを志しているのだろうか。本当に移住が必要なのか。家主と折り合える道はないのだろうか、時々自分がわからなくなる。
私の住んでいるところは都市近郊の中途半端な田舎町で、ちょっと不便なだけで一時間程度で大阪に通えるから、周囲の農家は確かに後継者はいないものの、今後は子供たちが金を稼いで、農協や農業法人が農地を守るというパターンで延命を図るだろう。そういう点では存続に不安を感じている人は少ない。だからこそ危機感がない。しかし、それがいつまで通用するかは、全く不透明である。過疎の村へ行けば状況が深刻な分、新規就農者の誘致には積極的であり、国の支援策が拡充されて就農希望者が増えている今、この近辺よりも積極的な動きが見られる。「新農業人フェア」では、そんな就農希望者で会場は熱気に溢れていた。神戸市北区道場町は、この生存競争に敗北するだろう。そのなかに私は残るのか ?? 一人暮らしが続けられるのか ??
確実にいえる事は、都市近郊のインフラはいずれ崩壊する。これが崩壊したとき、私の一人暮らしは立ち行かなくなる。しかし私は更に何十年も生きるだろう。私が生き残るために、人と協力する。その人も生き残るために、私と協力する。協力し合わなければ、生きていけない時代が必ずやって来る。必要なものは自分で作り出す。限界集落は、集落として自給自足が成り立たなければやって行けないので、持続可能な生活様式を既に実践しつつある事になる。さういう意味で最先端といえる。
たとえば色川は、ほぼ陸の孤島といって良い。和歌山市でさえ3時間、大阪へは5時間、私の今の暮らしに必要なもののそろう神戸まで6時間・・・こんなことを考えているから、都市生活を色川に持ち込もうとしていると思われてしまうのだ。もし色川に定住するのなら、村の人が言ったように、自分に何が出来るのかという考えではなく、そこに生まれ育った人間であるというくらいの、過去の自分の捨て、生まれ変わり、無我の境地が必要である。なぜなら日本人とは元来そういうものだから。
農業を続けるために移住先を捜すという事は、多かれ少なかれ、日本の伝統的な集落の暮らしの中に身を置く事を意味するだろう。現在の日本の社会が、「プライヴァシー」という概念のもと個人個人に分断されて、競争社会として存在するのだとすれば、私のやっている事の方向性は、それに対するアンチ・テーゼになる。しかし、そのアンチ・テーゼの行き着く先は、つまるところ伝統的なムラ社会の中に「自分」を捨てて生まれ変わる事にほかならないのではないか ?? となると、より一層の自由を求めて移住するというあり方とは完全に矛盾する。
色川で出会った人たちは優しく誠実であった。真っ正面から私の言うことを受け止めてくれ、色川が私を受け容れるとするならば、どのような状態である事が必要かを、的確に伝えてくれたと思う。ボールは投げ返された。私はどうすれば良い ??
那智滝という聖地のそばに住み、森にさまよい、極限状態に身を置くことに強い関心はあった。しかし私は怖じ気づいたのだ。大所高所から持続可能な生活のあり方を論ずる事は、実はたやすい。テスト・ケースとして自給的生活を試みる事もたやすかった。自給的生活と文化的生活との間には6倍もの格差があると打ち出しておいて、足りない部分はバイトで埋める生活が持続していけるかどうかでさえ、かなり危ういものである事を知っている。色川で暮らすという事は、その6倍の格差を自分で吸収するという事だ。バイトなど、ない。しかし色川がいかに限界集落であっても、ガス代電気代燃料代は文化的生活水準でかかってくる。それを一体どうやって埋めるのか ?? イベントに参加した地域の若者、色川に移住を希望する何人かの参加者とも話し合ったが、彼らに共通する純粋な熱意を目の当たりにして、私は自分の心がまだ汚れている事を思い知った。私は彼らよりもずっと年上であるけれども、心は彼らのように澄んではおらず、欲にまみれている。音楽・写真・さまざまな芸術活動・・・やりたいことは山ほどある。しかし色川が目指すものは、もっと過酷で現実的な、生存をかけた闘いである。村人の面構えが、それを如実に物語っている。それでも彼らのうちで「食えてる」人間は一部という現実・・・実際には、若い者は貯金を取り崩したり親に支援してもらっていたり、中高年者は年金の受給まであと何年と指折り数えている状態だ。私は本当にそのようになりたいのだろうか ??
音楽の話をしても反応がない。米や野菜の栽培の話は通じるが、それをさまざまな料理に生かす話には乗ってこない。食品加工についても同様、なんなのだろう、この硬さは ?? これらはすべて、人が生きるためのものを総合的に捉えたもののはずだ。私は、何か特定の作物を生産する農家という意味での百姓になりたいわけではない。集落の産物を生産する担い手になりたいわけではない。自分が食べたいと思ったものを自由に作って料理し、それを食しつつさまざまな刺激を受けて豊かな生活を実現したいと思っているだけだ。それが、なにかここでは違うのだ。村人の話には、生き延びるための方法論、苦しさを乗り越えるための鍛練、集ってきた若者の話には、限界に挑戦する事の意義に対する異常なまでの執着、極限状態に身を置く事による自虐的ともとれる快感・・・そのようなものを感じてしまうのである。もちろん、村人の全員がそうではないだろう。しかし新規定住受け容れの担当者がああ言った以上、また定住を念頭に仮住まいしている若者の表情が、あのように険しいものであるのをみると、それを受け容れてもなお余りある何か、それでも色川に住みたいという、自分の内から湧き上がるもの、かき立てられるもの、止むに止まれずどうしてもという衝動が不可欠だろう。
私は、今の生活を捨てて、そこまで自分を追いつめる事を望んでいるのだろうか ?? 私にとっての定住は、果たしてこういう事なのだろうか ?? 現実は厳しい。かなりあちこちを回ったり話を聞いたりして、自分が移住出来る先の事を検討してみたが、現実には、私の培ってきたもののかなりを捨て去らなければ、そして2年ほど魂を悪魔に譲り渡してでもカネを作らねば、とても移住なんて出来ない。その実情からみて、結局のところ色川が最もハードルが低かったのだが、そのかわり全く別の人間にならなければ、色川ではとてもやっていけそうにないのだった。実情からみて色川を最後の砦と位置づけていたが、確かに砦にレコードやCDは不要。楽器など邪魔である。それで良いのか私は・・・
帰路、そんなことばかりを考えていた。2011年9月の台風による豪雨災害は、那智滝周辺にも大きな被害を及ぼしていた。滝壺にあたる鬱蒼とした森は押し流されて、下流は完全に開けてしまっていた。「神秘」は、無残にも明るみに出されていた。山肌には至るところに土砂崩れの爪痕があり、川筋の集落には、とってつけたような舗装道路と新築住宅が建ち並んでいた。過酷な自然である。気候は、これからますますその牙を鋭く剥くだろう。崩れやすい斜面に貼り付くように建つ集落、鉄砲水が集中しそうな川筋に細々と連なる集落・・・一千年の集落というが、これからどうなる ?? 穏やかな自然条件の兵庫県から、なぜわざわざこんなに過酷な状況に身を置こうとするのか、余りにも極端ではないか。判断は間違っていないか。
串本町には、明治時代に日本を訪問したオスマン・トルコの軍艦Ertuğrul号が、その帰路に座礁した岬に記念館が建っている。1890年9月の事だ。船は沈没し、多くのトルコ人が殉職したが、地元の人たちが命がけで彼らを救助した。このことは現在のトルコ人の親日感情に繋がっていて、1985年の第一次湾岸戦争の際、テヘランに取り残されていた日本人のために、トルコ政府が自国民救出のための航空機を増便して脱出させたという出来事にも繋がったという。打ち沈む心を休めるために岬に立ち寄った。何故か、私はトルコ系の人々に血の底から親近感が湧き上がる。そうなんだ。湧き上がるもの・・・色川は素晴らしいところだと思うし、人々は優しく、私を正面から受け容れようとしてくれた。しかし、湧き上がるものが、実は感じられないのである。何を措いてもそこに住みたいという衝動が、色川に感じられなかったのは事実。ううむ・・・色川がダメならどこへ行く・・・
「岬めぐりのバスは走る、僕はどうして生きていこう・・・」
こんな歌詞を思い出してしまい、まったく意外な事に涙が出てしまった。決断を迫られ時間の余裕がないのに、自分の態度が決まらない。「岬めぐりのバスは走る、僕はどうして生きていこう・・・」「砕ける波のあの激しさで、貴女をもっと愛したかった」「僕はどうして生きていこう・・・」
海辺の断崖に、こんな小さな家を持てたらいいな・・・夢を見るのはタダだ。
2013年04月07日
20130323 和歌山県那智勝浦町色川
和歌山県那智勝浦町色川地区というところへ行ってきた。なぜそんな遠いところまで行ってきたのかというと、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けようと思ったら、余程の物好きをくわえこむのでない限り、農家登録までのハードルの限りなく低い場所を・・・それはもう書いたっけ・・・新規就農者を呼び込んで地域の活性化を図ろうとする、全国の自治体の担当者や農業法人などが集まって、2月に大阪で行われた「新農業人フェア」というイベントで、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けられる可能性について質問をしていると、和歌山県の担当者が興味をもって紹介してくれたのが、この色川地区というところである。
ここは、このたび移住先として検討したなかで最も過酷で特殊な環境にある。とにかく遠い。大阪からでさえ片道5時間、ここからは6時間以上かかる。強烈な紀伊山地の山奥で、南から見ると「那智滝」の更に奥である。「下界」であり、買い物出来る街であるJR那智駅近辺まで車で小一時間、しっかりしたスーパー・マーケットのある新宮市まで一時間半、しかも、アクセスは行き違いも時として困難な細い林道。医者はいない、金融機関もない、車は必須だがガソリン・スタンドがない。どこかへ抜ける道の途中ではないので通過交通はない。水害の危険に晒されている。陸の孤島、最果てである。
しかし、このとおりの美しい環境であって、それに憧れて移住を希望する若者が後を絶たない。電気とプロパン・ガスはある。水は川の水がそのまま飲める。集落が山に取り囲まれており、山の幸が豊かであるばかりか、那智滝にも近く熊野連山の中にあり、きわめて霊的な存在である。物質や経済的な便利さがないからこそ、全く違った生きる喜びが得られる。価値観の逆転は起こる。過疎に苦しみ、インフラを絶たれ、限界に追いつめられて、力を合わせなければ生きていけない、最も取り残されたかに見える状況というものは、逆の視点に立ってみれば、最も先進的な状況である。近い将来、現在の安楽な生活を維持するに欠かせないさまざまな要素が崩壊する。そのとき、希少化していく資源を奪い合っていては、必ず共倒れになる。その中を生きていけるのは、自ら生きるために必要なものを生み出していける想像力と行動力、ノウハウを持っている者だけだ。それは明白な事だ。ここには、それに近い生活がある。ここで自分を試す事が出来たら、それは今後の生き残りに必ず直結する。移住先候補の現実的なひとつとして、これから定期的にお邪魔する事になるだろう。
移住希望者は、個々別々に訪れるよりも、地区のイベントが行われるのに合わせて訪問する方が良いと勧められた。なぜなら、何人か希望者が集まった状態であれば、地区の窓口、町の窓口担当者もそれに合わせて動きやすいからだ。今日は、那智勝浦町の老舗の工務店が、地元の木材を使って色川地区に体験者滞在用の小さな家を一から建てるというワークショップであったので、それに合わせて訪れたというわけだ。
http://www.furusato-irokawa.com/
本日のイベントの模様は、下記リンクに掲載されている。
http://www.furusato-irokawa.com/modules/blog/index.php?content_id=312
イベント終了後、地区の担当者と町の担当者を交えて聞き取り調査があるというので、日のあるうちに地区を見ておこうと思って林道を走り回ってみた。下の写真は、2011年9月の台風12号の際の豪雨災害の爪痕である。地区の各所にこのような爪痕が残されており、現場に立つと、土石流が森を爪楊枝の束みたいに押し流した威力をまざまざと感じ取る事が出来る。自然の力の恐ろしさを体感したのは、阪神淡路大震災以来の事だ。実際、集落の中にも爪痕がいくつか見られる。一瞬にして、全てを破壊し尽くし、押し流したに違いない。災害の体験者には、それが直感的にわかるのである。ううむ・・・
さて宿舎に戻ると、担当者の皆さんが既に集まっておられた。私は自分の置かれた状況を包み隠さず話して相談した。ここでの対応は、すなわち受け容れ担当が農業委員であるから、兵庫県のような細かい審査基準が決められているわけではない。ただ、集落として私を受け容れられるかどうかは、あくまで集落が決める事なので、やる気があってみんなが良いと認めれば、それで良い事になる。で、実際どのようにして暮らしを立てていくかという話になったので、私はこれまでやってきた活動の事を紹介したのだが、「それは都会でやってきた事を、ここに充て嵌めようとする事だ。それでは全くここでは生きていけないと思う。先ずはここに来て、仮住居で地域の人たちに知ってもらって、我々とともにいろいろな仕事をしてみて、あなたがやっていけるか、村人達が受け容れるかを見極める他にない。」ううむ・・・
残念ながら私には手持ちがない。担当者は、できる限り受け容れられるよう取り計らってくれるだろう。制度としては柔軟な運用がされるという事である。ここではそれは問題にならない。しかし、受け容れられ仮住まいを始めたところで、おそらくすぐに手持ちは消える。大所高所からえらそうな事を論じてはみたものの、明日のガス代電気代が払えなくなったのではどうしようもない。ガス欠では車も動かない。その後、イベントに参加した人たちや、移住者を交えた質素な交流会があって、そこでもいろいろな話を聞かせてもらった。印象としては、まずは集落の生き残りが最重要課題なのだ。この極めて条件の厳しい舞台で、自分が思う存分に活動した結果が、ロスなく集落のために貢献している事が重要かつ必要条件なのである。ううむ・・・「ちょっと考えさせてください・・・」「残念ながら、お手伝い出来る事は何もありませんな」
2013年04月06日
20120310 Шахслар ва Жамият
土井ちゃんを放置して神秘の世界に遊んだあと、裏口からバザールへ戻る。
囲われたバザール、それを取り巻く塀と無闇に広い空間、中の喧騒とは対極的なまでに静かだ。
バザールの屋台で飯にする。挽き肉団子のシチューとナンのセット。
Registonへ戻りしな、広大な庭園が垣間見えるBibi-Xonimのモスクを通りかかった。遠目にのぞき込んでいると、なかからおばちゃんが「入れ入れ」と手招きする。拝観料がえらい高かったので渋っていると、ただでさえどぎつい目をさらに見開きながら「すっぺっしゃるでぃすかうんと・ふぉるろゆぅぅぅっ」てお前な、拝観料にディスカウントがあるんかいや・・・笑い転げていると、日本語の出来るウズベキ人に声をかけられた。Bu-Nyok君といい、外国語大学で日本語を勉強してるらしい。話し込むうちに意気投合し、今日Buxoroへ出発予定だったのを一日延ばして、今日の後半と明日一日、彼にガイドを頼む事にする。これも旅のアクシデントとして一興だ。
サマルカンドの中心部レギスタン広場というのは、だいたいこんな感じである。ここで2年に1度「世界東洋音楽祭 (Sharq Taronalari) 」という大きな音楽祭が行われるが、かつて眺めていたその映像と、目の前の広場を比較してみるに、このお祭りは政府お抱えの御用イベントで市民のものではないなと直感した。上の写真で我々が立っているのは、広場に面した大通りの歩道である。ステージは、広場全体を使って展開されるので、おそらく祭り関係者や政府の役人、もしかしたら大統領とその家族、VIPなどの特別席がしつらえられ、物々しい警備の中、厳粛に執り行われるに違いない。そんなニオイがプンプンするのだこの町・・・いやこの国には・・・
Bu-Nyok君は、次々と名所を案内してくれる。ここは国の英雄Amir Temurの墓 (Guri Amir) の内部であるが、ウズベキ人のBu-Nyok君にとっては、母国の建設の英雄であるとの立場を崩さない。しかしウズベキスタンの直接の祖先であるシェイバニー朝は、ティムール帝国を倒してここに建国した歴史が有る・・・
が、まあそんなことはどーでも良い。私にはこんな下街を訳もなくそぞろ歩く方が似合ってる。
その後、ちょっと郊外にある製紙工場を見学し、サマルカンドの人たちに人気の結構贅沢なレストランで食事 (あきらかに彼はこれを狙っていたとみたが、まあかわいいもんやし奢ったろ) 、その後その店がダンスホールに早変わりして、まあまあそのなんやねえという感じやったんで、私は客の男達と水タバコを嗜んだのでした。
20130322 ジャガイモの植え付け
暑さ寒さも彼岸まで、どうやら春が訪れたようなので、ジャガイモを植え付けておこう。これは去年採れたものの食べ残しである。2回ほど芽を掻いたが、既に3回目の芽がこのように「早よ植えんかいこのダボなにボヤボヤしとんぢゃ」と八釜しい。
小さいもので良い。芽が多いものは掻き取っておくと、成長してから芽かきをする手間が省ける。
おっ・・・「ええケツしとりまんなあ」のキミ生きとったんか・・・
前から見たら・・・オレもさあ、お前みたいに逞しいもん何本も持ってたらなあ、一本しかないからねえ、なかなか間に合わんでねえ・・・(^^)
ここらは八十八夜の別れ霜の頃までは凍てつく事があるので、少し深く植える。
自然農法では全体を耕す事なく、植え穴だけを掘って植え跡は復元し、植えるために刈り取った草を被せておく。その周囲では、昨年から生き残りのベンリナやニンジンが少しずつ育っている。
20130319 畑の観察
畑の観察。右から、薹立ちの白菜・ニンニクとタマネギ・さらにタマネギである。タマネギは、ほんの数日前に除草したのであるが、早くも生き生きと形を現わしている。
右からソラマメ・エンドウ・夏野菜の跡地でジャガイモの予定地。
ソラマメの両側には早蒔きの日常野菜を種蒔きした。ソラマメは、小さく冬越しして大きく育てるのがコツというが、私は彼らとの相性が良いのか、失敗した事がない。
エンドウには巻きひげが出ているので、そろそろ支柱を仕立てる。
大根の跡地・去年のナス科の跡地・去年のウリ科の跡地である。ここはまだ何もしていない。
イチゴ・小麦2畝である。イチゴは「まだまだ」と言って稲藁の下で惰眠を貪っている。小麦は、草に紛れてよくわからない。近日中に観察して手入れをするつもり。
20130318 カホンの基本
バイト先の店長がカホンの手作りにご執心で、いろいろ工夫して凝ったものをお作りになるのだが、日本人の悪い癖で、初めから仕掛けや構造に興味が行くものだから、作れば作るほど、どんどん複雑怪奇なものになって収拾がつかぬ。それで、わざわざ作業場にまで相談に来られるので、手を休めるものだから作業に支障を来すようになったので、ここはひとつカホンの初心に帰っていただこうと思う。私にとって最も難儀な課題は、カホンの裏面のサウンド・ホールの加工であった。もちろん量産するのならサークル・カッターを買えば済む事なのだが、なんせ高い。そこで、適当な木切れにカッターの刃を固定して、ぐるぐる回して少しずつ切る事を思いついた。木切れには、裏から釘を打って中心を出している。
少しずつ丁寧に切り進めて行くと、2時間程度できれいな穴が空く。もちろん刃の角度や深さの調整は、そのつど必要になるので、木切れに固定したねじの位置をずらして行う。切先が鈍れば、刃もカットしていかざるを得ない。刃がたわんで円周から外れた軌道を描かないように、刃先をしっかり木切れに固定してゆっくりと回していく。
今回のカホンは最もシンプルなものである。大きさはワインの木箱を踏襲していて、材質はシナ合板、打面は3mm、その他は全て9mmの厚さである。接合部には支柱を使わず、あえて直接貼り合わせ、釘で打ってある。打面も、ねじ止めをやめて敢えて釘打ちである。下の方はしっかり密に打つ。上の方は、やや間を空ける。このようにすると、下の方で低音、上の方で板がたわんで指先でバズル音が出る。これを手先で叩き分けていくのが、カホンの基本的な奏法であり、中に仕掛けをするのは、あくまでも補助的な追加である。叩き込むほどに、板が馴染んで、音が枯れていく。
20120310 Шахи Зинда
私が「西域」に興味を抱いたのは、まだ中学生のころだった。1970年代前半である。そのきっかけは、おそらく世界史で習った「ゲルマン民族の大移動」、特にその原因になったとされる中国北方騎馬民族「匈奴」の分裂と西進であっただろう。学問的に両者の関係については未だ解明されていないが、子供の幻想をかき立てるには十分だ。なぜなら、当時の中学生の、いやおそらく当時の日本の世界観というものは、圧倒的にアメリカ中心で、中国なんて「東側」のよくわからない国のひとつに過ぎず、ましてやその向こうの事なんて、全く思いもよらない事だった。なんだかよくわからない広大な砂漠の向こうに、忽然とヨーロッパが在る。今から考えればずいぶん滑稽なことだが、当時の日本人の多くは、おそらく世界の半分が空白のままの地球上に暮らし、それを不自然ともなんとも思わなかった。そんなことより日本の経済発展、目の前のカネ儲けが先だった。なんといっても「日本列島改造論」の時代だったのだから。そんな世界観だった。
「兼高かおる世界の旅」というすばらしい番組があった。あるとき、アフガニスタンか中央アジアの国が紹介された回があって、砂埃の中で男たちが憩っている。カメラはその顔を映し出す。目が青い。つまり彼らは、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」のときのマケドニア人の末裔だという。そのときの台詞を良く覚えている。「なんと、ブルー・アイズでございますのよ」これは日本人が、「青い目」は白人の証であって、それが欧米ではなくアジアの人たちにみられたのを意外に感じていたこと、その「意外」は、白人への劣等感の現れであった事を如実に示すものである。しかし、当時のインド、アフガニスタンやイランに興味を持つことは、すなわちヒッピー文化に対する憧れと受け取られ、これに子供が興味を持つなど、全くもって困った事なのであった。しかし、ユーラシア大陸という広大な舞台に繰り広げられた民族の歴史に目が開いたのはこの頃だったと思う。
子供が興味を持ってはいけなかった国々の北には、もっと興味を持ってはいけない国があった。日本からみて中国の向こう側で、ヨーロッパよりもこっち側、世界地図を広げてみても、そこには「ソ連」という広大な「空白域」が広がっているだけで、それを含む「東側」のことなんて、話題にすること自体まだまだタブー視されていた。しかし小学校の頃、「大阪万博」で「ソ連館」に入ったとき、赤と白のコントラスト、前衛的な建物の形、入館が夜になった事によるきらびやかな光、そしてウソみたいに真っ白な美しいおねーちゃん・・・すべてが力に満ちあふれていて圧倒された事、そして学校ではソ連館など「東側」のパビリオンへ行ったかどうかの調査が行われていたことを思い出す。なぜオトナというものは、普通に興味を持つことについてとやかく口出しするのだろうか、それをダイレクトに表現すれば、激烈な暴力で報いられる事は、幼少の頃より骨身に沁みているので、あえて口にはしなかったけれども、そこにはなにかがある・・・こんなことも、「空白域」について漠然とした興味を持つ事に影響していたのかもしれない。
高校へ進学すると理科と社会は選択制となり、受験対策をかねて、興味のあった哲学と外国の歴史を学ぶべく、選択は「倫理・社会」と「世界史」に絞り込んだ。そこで、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」に始まり、「匈奴」の分裂と西進・「突厥」に代表されるトルコ系遊牧騎馬民族の活躍・「セルチューク」に代表されるトルコ系イスラームの時代・「チンギス・ハーン」の侵略とモンゴル帝国の時代・ティムールとオスマンの相次ぐトルコ帝国の時代・ロシアによる征服と革命・「清」による侵略・「ソ連」のアフガン侵攻・・・と続く苦難と激動の歴史を食い入るように学んだ。この偏重のおかげで受験には見事に失敗したが・・・
その後、世の中もいくらかマシになって、私も少しはオトナになったころに「シルクロード」が脚光を浴びるブームがやってきた。1980年から始まった「NHK特集シルクロード」だ。NHK取材班は、西側世界で初めて中国とソ連にカメラを持ち込んだ。実にそれまでは、西側世界にとって本当の秘境だった。映し出される人々の様子、街や村の建物や景色、食べ物や音楽、そしてイスラーム・・・すべてが目新しく、惹きつけられて止まないものだった。大学の4年間は、単位が重複する事を承知で、毎年この地域の歴史の講義を受講した。
主に興味を持ったのは、イスラーム化される前後の中世の歴史であったが、時を同じくして韓国で発生した「光州事件」をきっかけに、我々と同時代の民族差別にも関心が向かい、チベットやウイグルの状態を知ったのもこの頃である。スリーマイル島で原発事故が発生し、成田空港は開港したが「三里塚闘争」は続いていた。その頃には当然、世界を二分するもう一つの勢力について、かなり客観的に、人によっては狂信的に知られるようにもなっていた。そんな時代だった。NHKが演出するロマンティックなイメージ戦略に嘘臭さを感じながらも、中世のユーラシアへの憧憬は止む事なく、「千夜一夜物語」や「ルバイヤート」を読みふけったりしていた。そうした一切のものが、私にとっては基本的に「謎」だった。まさしくヴァーミリオンの砂に覆い尽くされていた感がある。全てを取り巻いて覆い尽くしてしまうものは、ただ「砂」だけだ・・・それは理論や知識としてではなく、直感として、広大なタクラマカン砂漠の向こうに沈む夕陽を、ラクダの背にまたがっていつまでも眺めている自分を夢想する事によって、なおもいっそうかき立てられるのだった。
その中央アジアへ、あこがれのシルクロードへ、世界で初めて西側のテレビが入った秘境中の秘境へ、まさか旅が出来るとは思わなかった。旅立ち前の期待は、40年近くのあこがれの蓄積が沸き立ってとどまるところを知らず、旅行情報を調べ尽くした。Tashkentはまあしゃあないとして、段取り不足でアフガニスタンとの国境の町Termezへ行けなかった残念の気を取り直して訪れたBoysunそしてSamarkand二日目にして、ほぼ私の期待はかなえられない事を悟った。まずTashkentで最初に食べたナンに強烈なドライ・イーストの匂いがした事で、もはや現実の「ナン」は、ガイドブックに書かれてあるように、イーストを使わずに醗酵させたものでない事がわかった。つまり、「ナン」とは本来そういうものだという一般論を、読む側が勝手に希望的解釈をするわけである。ウズベキスタンの全てとはいわないが、かなりの部分は、おそらくロシアに征服されて以降、共産主義革命を経て社会主義的生産体制のパーツとしてモノカルチャーに陥れられて以降、二千年に亘る歴史の積み重ねによる文化の多様性は失われてしまったようだ。食文化しかり、音楽しかり、イスラームとて例外ではない。結局のところ、残された遺跡を観光資源として守る事、せいぜいあと数十年が寿命の化石燃料を、今のうちに高く売り捌いておく事で延命したい・・・独裁政権が考える事なんて、どの国もだいたい似たようなもんだ。
2013年04月03日
20130316 困った困った

高知県に理想的な物件を見つけたので連絡してみた・・・が・・・タッチの差で売れていた (;_;)
なぜ高知にまで触手を伸ばしているかというと、カネも身分もない単なる馬の骨が百姓を続けようと思ったら、余程の物好きをくわえこむのでない限り、農家登録までのハードルの限りなく低い場所を狙わざるを得ないからである。移住先を探す過程で、今の自分が置かれている状況がよくわかってきたので、ここにそれをまとめておこうと思う。これから百姓になりたいと思う人、百姓を始めてみたが再起をかけたいと思っている人の参考になれば幸いである。
まず、私の立場は、百姓でもなんでもなく、百姓家の空き家を住み込みで管理させてもらっている居候である。空き家は人が住まないと荒れるので、それを防ぐ事が家主のメリットであり、私の方は、格安の家賃で広大な屋敷に悠然と住まうことが出来、そして百姓と同じ借り賃で田畑を借りることができる。しかし、これはあくまでも家主との口約束であって、農地法上は所謂「モグリ営農」であり、厳密には違法行為である。家主も私もそれを納得の上なので、いかなる書面も取り交わさず、私はいかなる権利も主張せず、家主はいつでも私に退去を要求でき、私は遅滞なく無条件にそれに応じなければならない。
さて、このような条件で百姓を始めてしまった場合、両者の関係が良好である限りにおいては、特に心配もなく、お互いにとって大変有利な取引である。しかし、何らかの事情でその関係が崩れる事がある。それは、両者の人間関係であったり、一方にやんごとなき事態が発生したり、または家主が亡くなった後の遺族がこれを破棄した場合などである。たとえば限界集落に空き家を持つ家主との間でこのような約束が取り交わされた場合、ほとんどの場合は問題なく約束は履行されると思われる。「赤目自然農塾」も農地は地主から三年契約で借りていて、それは放棄された棚田であり、地主はこれを何とかしようという気がないので、今は安泰である。しかし「自然農法」の価値が全国規模で認識された場合、その実践地である農地を、地主がそれまで通り放任し続ける保障はない。価値が上がるからだ。つまり、「赤目自然農塾」は、自分たちの理解者が増えれば増えるほど、その存在基盤が危うくなるという葛藤に陥る。ま、「自然農法」というのは人間の生き方の現れですから、実際には危うくはならないのですが・・・ものの喩えとして。
少し飛躍するが、現在の日本の農地のほとんどは、農薬と化学肥料に汚染され、地力が極端に落ちた状態であると考えて良い。これを回復させていくのには、おそらく数十年程度かかるであろう。しかし、打ち捨てられた耕作放棄地は、堆積する植物の亡骸で地力がかなり戻っていると思われる。つまり、現在耕作されている土地のほとんどには地力が少なく、地力の多い土地は耕作されていないという逆転現象が起こっている。農薬と化学肥料と大型機械というものは、化石燃料がないと存在あるいは機能し得ない。化石燃料は、もしかしたら数十年後には、今のように安易に手に入る状態でなくなる可能性が高い。現代社会のほとんどを構成しているといっても過言ではないこの原料がなくなってしまった場合、「逆転」は「正常」に戻らざるを得ない。しかし、それには長い年月が必要である。放射能の除染とどちらが早いのか、それもわからない。ただいえることは、その過程において、農地としての資産価値も「逆転」する。つまり、耕作放棄地として見向きもされなかった土地の利用価値が飛躍的に高まる。なぜなら、それまで化学物質漬けにされ重機で練り潰された土地には「雑草」も生えないからだ。農薬と化学肥料と大型機械がなければ取り扱う事も出来ない土になってしまっているからだ。それを私は身近に見ている。そうなったとき、それは数十年後には訪れるだろうが、「口約束」だけで自給的生活を送っている人たち、とくに耕作放棄地を開墾して稔りを得ている自然農法家は生活基盤を失いかねない。法律は既得権益を守るためにある。権原のない者にはなんの主張も出来ないのが法治国家である。だから、我々は権原を確保した上で農業を始めなければならない。そういう意味において、我々は「農家」にならなければならない。
「農家」にならなければならないもう一つの大切な理由として、資金調達が可能になるという要素がある。今の私には全く借金が出来ない。「農家」でないので「安定した職業」に就いていないことになるからだ。ここへ移り住む前には、自営業としてきちんと納税していたし、一定の業務委託先に永年勤務していたので貯えもあり、カネを借りる事も出来た。しかし今ではカネもないし、そんな身分保障も何もない。この状態で上のような「口約束」を前提に生活するという事は、非常に危険な事だと今更のように気がついたわけだ。いくら事業計画など出しても、ダメなものは全くダメ。金融機関としては、情熱や企画など問題ではない。保障だけが問題なのだ。当たり前の事だが・・・
さて、現行の農地法において、百姓を合法的に続けるには「農家登録」をする以外にない。明確な定義は却って話を複雑にするのでここでは措くとして、「農家」とは、「農地」を生産手段として利用する権利を有する家系の事と考えて良い。農地を所有していなくてもよく、賃借していなくても良い。「利用権」が設定されていれば良い。つまり、買わなくてもよく、借りなくてもよく、「利用権の設定」が書面として整っていれば良い。「利用権の設定」とは、文字通り農地を利用して収益を上げても良い権利、いわば営業権のようなものであって、農地法上、「農家」と地域の「農会」及び「農業委員会」の合意の上で行われる手続きである。ところが、農地の利用権を設定出来るのは「農家」だけであり、先にも述べた通り「農家」とは、農地の「利用権」を有する者の事である。わかりますか ?? 制度が閉じているのだ。「農家」でない者は「農地」の利用権を設定出来ないから、「農家」にはなれない。ましてや、「農家」でない者は、「農地」を買う事も借りる事も出来ない。「農地」は「農家」の私有財産であるはずだが、「農家」が自由に売ることは出来ない。ここらへんが、自由に職業を選び、自由に住宅を確保出来る都市生活とは根本的に異なる点である。2009年に「農地法」が改正される前までは、基本的にこのような構造であったので、いくら「田舎暮らし」だ「スロウライフ」だ「半農半X」だなどとほざいてみても、制度として農家でない家の者が百姓になる道は、事実上閉ざされていた。
時代の要請によって、このガチガチの仕組みが緩められた。現在、農家でない者が農家になる道はふたつある。ひとつは、都道府県が指定する研修機関を終了するか農業法人に就職するなどして、一定の実務経験と能力を体得したと認められる事、もうひとつは、「農家」のもとで一定期間の実務経験があり、その「農家」と地域の「農会」及び「農業委員会」によって、一定の能力を体得したと認められる事である。その状態で、先に述べた「農地の利用権を設定出来る」資格が得られ、設定しようとする「農地」が確保されれば、その農地を一年間正しく管理出来るかどうかを農業委員会が観察し、彼らが認めれば、晴れて「農家登録」の手続きが為され、「農家」になりうる。
私の場合、現在住んでいる場所の農地を借りておよそ10年、ここへ移住して7年になる。農薬・化学肥料・大型機械を使わずに、1反の農地から、通常収穫出来ると見込まれる量以上の稔りを得ている。つまり、実務経験は充分と自負したのである。だから、私は農業委員会へ出向いて必要書類を取りそろえ、家主に協力してもらおうと考えた。一方、家主の方は、私を空き家の管理人として居候を認めたまでで、空いている農地をどう使おうと関知しなかった・・・というか、トカイモンが百姓仕事などできるハズがない、と踏んでいたのである。家主は近くに住んでいるので、時々来ては田畑を作っている。「慣行農法」と「有機農法」の中間を行くようなやり方である。おそらく「慣行農法」の刷り込みが土台にあるので、そこから離れる事に躊躇するのであろう、田には牛糞、畑には肥料をかなり多く施し、畝立てと除草はきちんと、ここらの言葉で言う「きれいにしとってです」状態を以て良しとする感覚である。だから彼としては当然、私は彼を見習うべき存在だったはずだ。ところが食品の裏側を舐め尽くし、その舌が患った癌の恐怖から這い上がってきた私には、躊躇すべきものは何もない。加えて生来の天邪鬼である。「こういう風にしたらようできる」というせっかくのアドバイスも馬耳東風、ひたすら自分の思った通りにしかせず、「そういう風にせんほうがようできる」ことの証明に躍起になって田畑は草や虫だらけ、家主を手伝うどころか、ややもすればその手に噛みつく狂犬ぶり。あっさり断られてしまった。それもそうやな、自分が困ったときだけ協力してもらおうなんて、確かに私は虫が良過ぎました。反省してます。まあそんなわけで道のひとつは閉ざされた。
そこで再び農業委員会を訊ねて事情を説明すると、もう一つの道、兵庫県内にあるいくつかの団体を紹介してくれた。そこで、そのうちのひとつと連絡を取り、「就職」という形を経て独立出来るかどうかを問うてみた。もちろん就職は可能である。研修機関ならば受け容れも問題ない。しかしそこでわかった事は、またしても年齢の問題であった。国の支援制度については別の記事で既に述べた。私は歳を取り過ぎていて支援は受けられない。ところが今度わかった事は、「農家登録」にも事実上の年齢制限があって、「概ね55歳未満」とされているという事だ。これは明文化されていない「慣例」で、私は今年2013/05/15で53歳になるから、仮に4月に就職しても、資格取得が見込まれる2年後には55歳になっており、これに抵触する。私は、みたび農業委員会を訪ね、このような「慣例」があるのは事実かと問うてみた。すると、「事実」とまではいえないが、要するにそういう事もありうるという。つまり、「農家登録」を認めるのは「農業委員会」であって、農業委員は「地区」から選出されている。「農家登録」をしようとする時点で「利用権」を設定する農地は確定されているはずだから、その農地が存在する「地区」がどのような人を「農家」として受け容れるかは個別判断である。実態として、空いている「農地」はたくさんあるが、「空き農家」は非常に少ない。空き家になっていても、親族が年に一度墓参りするためにだけ置いてある農家がほとんどだ。ということは、その「地区」において「空き農家」は、「地区」に有利な新規就農者を誘致するための貴重な資源だという事になる。若くて、ある程度の財えがあって、これから子供を作って「地域」を支えてくれる人と、55歳を過ぎてまもなく年金生活者に入るどこの馬の骨ともわからん独り者と、どちらに貴重な資源を譲り渡すのが有利か・・・これは明らかだ。つまりここで、既に「逆転」は「正常」に戻りつつある。しかし俺には不利なんよねメイワクなんよね、今すなっちゅうねん (`へ'っ・・さらに行政側としては、「農家登録」を認めるにあたって、それは生産手段を供与する事を意味するから、まもなく年金生活に入る年齢の人と、まだまだ自力で稼いで生きていかねばならない人を、同じ条件で遇しては公平性を欠くという事だった。そんなとこばっかりスジ通しやがって他にスジ通さんなんこといっぱいあるやろ (`へ'っ・・・「お気の毒です」わかったよ、もうたのまへん、年齢を告げて話を始めなかった私にも原因はあった。反省してます。まあそんなわけでもう一つの道も閉ざされた。
しかし、流石に落胆する私を見かねたのか、奥から偉い人が出てきて、兵庫県以外の地方では、独自の施策によって「農家登録」の条件を緩和している例もあると聞くと話してくれた。なぜなら「農家登録」の条件は、農業委員会が決めるからだ。要するに彼らが「良い」といえば、それで「良い」のである。具体的にはわからなかったものの、そこで紹介されたのが、信越以北と和歌山・高知・九州の各県である。まだ情報収集の段階であるが、かなり極端な話、「農業やります」という意思表示だけで全て段取りしてくれるような夢の国もあるらしいが、まあそんなこと期待せんとこ・・・
えらい話が長ごなりましたが、それが高知の物件に触手を伸ばしている、というその理由なのでした。おしまい。
2013年04月02日
20130316 春の畑観察
おっ・・・すっかり諦めていたのだが、椎茸が出ているではないか !!
用水路の土手には蕗の薹・・・
ネギも青みを増し・・・
ニンニクは草に巻かれようとしている。
ニンニクは既に充分育っているので、草は抜かずに表面だけを刈り取る。刈り取った亡骸は株元に伏せる。
タマネギの方は、散々の霜に苛まれてようやく一息つきかけたものあり、春を待ちきれずに事切れたものあり・・・
タマネギを取り巻く草は抜く。よく観察すると、タマネギの根を取り巻くように草の根が絡んでいる。川口氏の仰るように、根が育つところに生命力が集まるからであろう。事切れたタマネギの植え跡には、別に養生しておいた補修用の苗を植え付ける。
小麦もようやく青く茂ってきた。少しなら収穫出来るかも・・・
2013年04月01日
20130315 キムチの仕込み
20130314 ピリピリ・コレクション
ピリピリ・コレクションの整理である。ご覧の通りの状態のものを、ひとつひとつ検証する。
重要な記録の残されたものを選別し、必要に応じてコピーを取る。
そのまま返してしまって良いものは、箱詰めして積み上げる。