2013年12月31日
20131230 冬季湛水
今年最後の農作業は、冬季湛水のための畔の重ね塗り。土手の高さいっぱいにまで塗り上げるには、下手な鍬使いでは一旦半分まで塗り上げて日にちを措いて固め、その上に上乗せする必要がある。上の写真は塗り上げ翌朝、下は満水状態のもの。
20131222 カリーナちゃん塗装
カリーナちゃんのリア・エンブレム周りの錆が深刻になっていたのだが、忙しくて手当してあげる時間もないほどだったので、応急的に白いスプレーをブシュッとやっといたんだけれども、さすがにこの状態ではかわいそうなので、この晴れ間になんとかすることにした。塗装屋なんて頼むカネないからね。
本来ならば内装パネルを外して、内側からエンブレムを取り外すべきなのだが、外から見てもエンブレムの足は錆び落ちて、辛うじてボディにへばりついてるだけなのがわかるほどだったので、へらでこじて外した。錆によって表面が浮き上がっている部分をそぎ落とし、サンダーで表面を削って地金を出し・・・
てきとーにマスキングして錆び止めスプレーして、シャーシに記載されているカラー・ナンバーと同じ色の塗料を買ってきてブシュッとやったら、まあまあ、前よりはずいぶんとマシになりました。こんぐらいでこらえてな、大金持ちのお坊ちゃんぢゃなかけんのう、すまんのう、許せよ・・・
20131220 ホーム・ギャラリー
好きなようにやってやる。廊下をギャラリーに見立て、写真を展示する。
その対面にコンゴのマーケットで買った仮面を飾る。やっと出番が来て良かったね。ずっとほこりまみれだったもんね。
ミシンの置き方も変えてテーブル風に使う。
玄関も美しく・・・
20131219 アサヒ・ラスタ缶
色はだいぶ飛んでるが、アサヒビールが多分1980年代に発売したラスタカラーの缶ビール。驚くなかれ未開封。ラスタファリズムもレゲエも、まだまだ当時の日本では知られていない存在。売上の低迷する同社が、若者にターゲットを絞り込んで起死回生を図った新デザインだとは思うが、目論見は見事な空振りに終って、たしか1シーズンでもとの何の変哲もないデザインに戻されたと記憶している。我々の周りでは大好評だったけどね・・・そらあかんわな、我々に好かれたら廃れるにきまっとんやから。この数年後、同社は「スーパードライ」を発表したが、当初はこれも暗中模索の苦し紛れという印象だった。しかしその後・・・のことは説明の必要ないよね。
20131230 書きたくないこと
このブログでは、正直いって社会のことや政治のことなんか書きたくないのだけれど、私が何故こういう苦しい生活をしているのかということについて、よく人から訊かれるのでそれを十全に説明しようと思えば、どうしても避けることが出来ないので、全く散漫で結論のない事柄ではあるが、思いつくままに書き留めてみたい。
私は百姓仕事で採れた作物を食べて自給しながら、とあるスーパーで夕方から閉店まで働いて現金収入を得ている。そのスーパーは、20年ほど前までは福祉のしっかりした健全な会社であったと思うが、現在では立派なブラック企業である。営業時間は9時から21時まで、製造に関わる社員は、ほぼ7時には仕事を始める。で、9時になってからタイムカードを通し、17時か18時か、設定された時刻にまた通して21時半のラストまで仕事をしている。休日出勤も頻繁、というか月に2日ほど休むだけで、あとは無償で出勤してくる。これが世に言う「サービス残業」であって、月平均にすると一人140時間強。給与明細を見て驚いた。彼らはこの激務を月15万そこそこの月給でこなしている。ヒラ社員一人当たりの月給を実際の労働時間で割ると、150000÷28÷14.5=369.46…なんと私の時給の半分以下だ。これはあまりにもひどい。食堂には「しないさせないサービス残業」なんてポスターも貼ってあるし、毎月アンケートというか誓約書が回ってきて、「私はサービス残業をしていません」の欄に丸を付けて提出させられている。私は法定最低時給のアルバイトであるし、そういうことにはうるさいと見られているためか、一切サービス残業の要請はないが、部署によってはさせられているところもある。それでも仕事の積み残しは慢性的だ。棚卸しや監査の前には、社員総出で自家用車に都合の悪いものを積み込んで、隣のパチンコ屋の裏の駐車場に車を隠す。そのあと徹夜で掃除をして翌日の監査では、本社の役員がきれいに整頓された売場やバックヤードを満足げに眺めて、全てのショップに丸を付けて帰って行く。棚卸しでも不良在庫は見つからない。コンプライアンスが守られているというポーズをとるためか、食堂には社長への直送便を投函出来るポストがあるので実態を何度か告発したが、該当する社員が飛ばされただけだ。それを目の当たりにすると何も言えなくなる。黙って仕事に戻らざるを得ない。上に向かっては絶対に物が言えない。下に押し付けるだけだ。
生鮮食品売場では、毎日「売り切り」と「廃棄」が生じるが、「売り切り」された商品がレジを通過すると値引き金額が計上されて蓄積される。しかし、閉店後に「廃棄」する商品は管理されていないので、在庫から消えることになる。だから、その日のうちに「廃棄」するとわかっている商品は、売れ行きを見て早くから売り切るようにするのだが、そうすると値引き金額が膨らんで本社から注意される。しかし値引きが膨らむ本当の原因は、店の裁量で発注する以外に本部商談で送り込まれてくるものが多数あって、これらが残るからである。本来ならば、社員は本社と交渉して送り込み量を調整してもらうべきなのだが、そうはせずに「売り切り」シールを貼っているアルバイトに向かってあまり貼らないように指示する。そうすると、値引きしたから売れていたものが売れなくなるので売上が下がる。このようなことを繰り返して行くうちに、やがて全社的な業績不振の一因になりうるものだが、社員は連日の長時間勤務に疲れ切っており、良く考えて冷静に判断することが出来ず、場当たり的短絡的にヒステリックに対応する。結果、職場には投げやり的な空気が蔓延して、本来守られるべき手順や衛生管理などがおろそかになり、商品の表示の間違いや単価の間違い、更には異物混入などが発生してクレームの元となり、その対応に更に手間ひまをとられるという悪循環に陥る。上に向かっては絶対に物が言えない。下に押し付けるだけだからだ。
私が就職した頃には「ブラック企業」なんて言葉はなかったが、「ワンマン社長」という言葉はあった。父が就職した頃には「モーレツ社員」という言葉があった。今も昔も現実はそう変わらない。私が就職した会社は、今から考えれば典型的な「ブラック企業」で、社長独裁の「ワンマン経営」だった。私はほとんど休日もなく、早朝から深夜まで、頻繁に徹夜してまでモーレツに働いた。しかし月給が20万を超えることはなかった。私は果敢にも社長に状況の改善を求めた。社長はワンマンではあったが、心の通った人物だった。私には夢があり、このままの状態を続けて行けば、必ず体を壊すというと、社長は、状況は単純ではない、会社をとるか自分をとるかの二者択一だと言った。私は会社を辞めてフリーの仕事に就いた。しかし、そこにいたほとんどの社員は、全く無批判に無抵抗に無条件に、過酷な状態を抱え込み耐え忍んでいた。25年前の話だ。仕事上の問題があっても、上に向かっては何も言えず下に押し付けるだけ、本質的な解決を試みようとせず場当たり的に対応せざるを得ないのも大して変わらない。情報化社会が進んで、コミュニケーションツールが進化しても、人間の中身は大して変わらない。
このアルバイトだけでは足りないので、他にもいくつか仕事をしている。そのうちのひとつに家庭教師の仕事があって、うまく繋がれば効率が良いのだが、ドツボれば最悪である。これまでに中学生を中心に20人近く見たであろうか、某派遣事務所からのものが大半であるが、実は成功裏に仕事が終了出来たのは、たった2件である。他はいずれも、なんらかの理由で途中解約になった。いろいろと理由はつけられるのであるが、原因はただひとつ、私は勉強する良い方法について教えたりやる気を喚起したりすることは出来るが、勉強するのは本人であるというあたりまえの原則を行動で貫くからである。だから絶対に答えは教えないし、ましてや宿題を代わりにやってやることなんかしない。答えを出すのは、あくまで本人だ。しかしこれが生徒にとってはたいへん困る。たいていの生徒は塾と掛け持ちであるので、塾でわからなかったことを訊いてくるのだが、その全てに規定の時間内で対応することは困難な場合が多く、私が説明し得たとしても生徒が理解出来たかとなると絶望的である。となると塾での成績が落ちてゆき、宿題その他も追いつかず、結果的に家庭教師を雇う意味がなくなる。もちろんそうなる前に、家庭と私の双方から派遣会社に相談するのだが、カウンセリングと称して事務所に呼び出され、受け取るものはお客様からのクレームの書類であって相談も何もなく、善処するようにの一点張りでそこを出てくることになる。ならば電話で済ませてくれ、こっちは農作業で忙しいんや。で、なんどか「クレーム」が重なると、そのたびに呼び出された結果、クビとなる。こういうことを繰り返すうちに、その事務所からは生徒を紹介してもらえなくなるので、事務所を変えることになる。しかし、何社か渡り歩いているうちに名前が横に流れるのか、とうとう派遣登録の際にはじかれてしまって、いまでは家庭教師の仕事はしていない。
仕方がないので、昔とった杵柄で流通業界のフィールド・サービスの単発バイトで糊口を凌ごうとしたのであるが、流通業界の販促のあり方というものが、ここ10年ほどで大きく変わってしまったのか、どうにもまともな感覚の仕事が見当たらない。私が流通業界でフリーランスの営業スタッフとして仕事をしはじめたのは今から30年ほど前のことなのだが、当時メーカーでは末端まで自社商品を落とし込むのに、問屋に頼るしか方法がなかった。そこに目をつけて、メーカー直のフィールド・サービスとして人材をアウトソーシングするという考え方を切り開いたのは、とりもなおさず私たちの仲間であった。本来マーケットを熟知した上でのフィールド専門の知的プロ集団であったはずのものが、小泉改革の時代に派遣労働が緩和されて単なる労働者人材派遣業に転嫁されてしまったときにギャラが暴落し、今では一連の仕事も切り開かれ過ぎて個々の作業に分割され、それぞれに作業単価が設定されて価格競争の波に晒されている。つまり、新商品を出すからそれを問屋や量販店の本部と商談して、その結果を各店舗の売場に落とし込んで行くという一連のつながりが本来の仕事であるのに、店舗へ行って直送されている販促物を売場に設置して写真を撮ることが仕事になる。アウトソーシングとコストダウンと市場開放が行き過ぎて、連続的に見なければ心ある仕事にならないものまで、なにもかもがばらばらだ。これが単発バイトとしてネット上で流通している。
派遣会社では概ね店の規模に応じて作業時間を設定していて、一日何件回れば日当にふさわしい収入になるか判断出来る・・・はずなのだが、実際にはひとつの募集エリアに多くのひとがエントリーするので、都市近郊は取り合いとなって、私のような地方在住者には遠隔地しか残されない。1件1時間の作業で千円の件数仕事なら、7件程度回してもらえれば一日仕事として成立するのだが、行くだけで半日もかかるようなところを虫食いに提示されることになる。それでも我慢して何度か仕事をしたのだが、数ヶ月経ってもギャラが振り込まれてこないので問い合わせてみると、なんとギャラはポイント制になっていて、1万ポイントごとに電子的な商品券と交換されるというのである。そんなことはどこにも書いてなかったと主張したのだが先方が反論していうには、確かに複雑でわかりにくいエントリー・サイトの一頁にそのような記載がある。仕方がないのでポイント交換率の高い楽天スーパーポイントにしたのだが、あと数百ポイントというところで、新しい仕事が回ってこなくなった。1万円にも満たないギャラを回収するのに、かれこれ3ヶ月以上もかかっていることになる。
そんななか、古くから世話になっている派遣会社から、メーカー・セールスと同行する仕事が回ってきた。超有名な一流企業である。しかし彼の営業実態はすさまじいのひとことだった。今では仕事は携帯端末に送信されてくる。効率が良いのは事実なのだが、本社からの指示、担当部署の上司からの指示、総務からの聴取、更に客からのクレームが、ひっきりなしにかかってくる。朝から晩まで一日中、彼は車を運転しながら、歩きながら、商品を積み上げながら、かたときも端末を離す事が出来ない。常に誰かと会話しながら店の担当者と折衝をし、メールを打ちながら私に作業の指示をした。食事中も口の右側で麺類を吸い込みながら左側で喋っている状態であった。誇張ではない。まったくそうなのだ。それでも仕事は終らない。一日の訪店の仕事が終って私を最寄りの駅まで送ったとき、既に彼の端末にはその日の未解決事項が二ケタになっていた。彼は端末を首に挟んだまま私の作業報告書に押印し、端末と話をしながら私に手を振って、車を運転して去って行った。
私は移住について検討を始めたとき、私のような中高年の独身男性が、どこかの田舎の村に入らせてもらおうとしても、受け容れる側にとって私は招かれざる客であるということを思い知った。農業後継者がいないというのが全国共通の悩みなのであれば、農作業が出来る人間は何処へ行っても通用すると思っていたが甘かった。ならば別の切り口でアプローチしようとしたが、限られた物件を漁るに地元の不動産業者の方が早いので、その情報を利用することになるが、到底手持ちが足りない。この現実を克服するためには、どうしてもカネが必要である。そこで私は、この一年を職探しに当てることにしたのだが、この仕事は日本中何処を探しても、俺に任せる以外に選択肢はないはずのものでさえ、エントリーしてもエントリーしても梨の礫であった。私は、転職市場においてさえ、自分が招かれざる客であることを思い知らざるを得なかった。ビジネスの世界に戻ると公言したが、あまりの現実の豹変ぶりに度肝を抜かれて、おめおめと舞い戻ってきたというわけだ。現状維持で耐え忍ぶしか、方法はなさそうだ。私に出る幕はない。
さて、私は農家ではないのだが、地域では農協絡みのお知らせなどが、自治会の回覧板で回ってきたりする。先日驚いたのは、TPPに反対する署名を自治会長が回覧板とともに自ら一戸一戸を回って持ってきたことであった。回覧であるから、誰が署名しなかったかは一目瞭然である。私はTPPの全てについてはよくわからないのでその内容について自治会長の認識を訊ねてみた。しかし彼はTPPは日本の農業を潰すの一点張りで、なぜそうなるのかの合理的説明はなかった。私はTPPに賛成とまでは言えないが反対署名することも出来ない、地域で孤立することは本意ではないが、署名するかどうかは自由意思であることを良く理解して欲しいとお願いした上で署名を拒否した。赤い羽根の共同募金のノリで回ってきたご高齢の自治会長は、まさか反論されるとは予想していなかったのであろう、終始きょとんとした状態で首をかしげながら去って行った。まあここは中途半端な田舎であるから若い人も多く、そんなことで私が孤立することはない。
TPPに賛成か反対か、職場でも友人との間でも話題になることがある。私にとってはどっちでもいいことだ。そもそもひとつの協定が全ての人に支持されることはないし、ひとりの人間がこの複雑な協定の全てにどちらかの態度を採ることは困難だ。だから二者択一を問うことは乱暴だと思う。TPP全体が未だ流動的で複雑過ぎてよくわからない。TPPが日本の農業を潰すといわれればそうかも知れないし、アメリカの財閥の利権を拡張することが本質だといわれればそうかも知れないし、関税を撤廃すればGDPも上昇するといわれればそうかも知れない。最強の発言力を持つアメリカの闇の手が世界をどう引っ張って行こうとしているかなんて私には知る由もないし、知ったところでどうすることも出来ない。出来るのは、その状況に合わせて自分がどう生き延びるか、ということに尽きる。だから私にとってはどっちでもいいことだ。
賛成か反対か・・・特定秘密保護法案もアベノミクスもTPPも農業集約化も原発推進も原発輸出も、もっとたくさんのことも全て密接に関係して、世界を巻き込んで日本は動いている。その中にはもちろん、軍需産業の平和利用の最たるところの、農薬・化学肥料・食品添加物・・・とどの詰まりが石油利権も含まれていて、関連産業を守ることによって、国家あるいはその連合の影響力が温存できるように慎重に進められている。それらは社会構造の奥深くまで浸透していて、それらなしではもはや社会は動かず、その中にいる私たちの生活も立ち行かないほど、複雑に強靭に絡みあってしまっている。だから反対すべき事案は無数にある。しかし反対しても撲滅しても、次から次へと事案は噴出する。到底追いつかない。これでは「社会」が誰の手に握られているのか、考えるだけでばからしくなる。働いたギャラも回収出来ないのに、足許の暮らしでさえおぼつかないのに、雲の上の話に賛成も反対もあるもんか。口を閉ざし、耳を塞ぎ、心を捨て、ひたすら順応し、大樹にしがみついていれば、なんとかなる・・・いや、そうしなければ、どうにもならないのだ現実は。
なぜそうなるのか・・・私は「不安」が根底にあることが全ての原因だと思う。例えば世界の人口は70億、そのうち中国が13億・・・理屈やイデオロギー抜きで、中国はこの人口を食わして行かなければならない。しかし「世界」は、中国を世界のうちのひとつの国に過ぎないと見る。でも現実は違う。中国が、コンプライアンスのなんのと言ってられないほど闇雲に資源確保に奔走するのは由あることであって、これは二国間の国境や防空識別圏の問題ではなく、世界が見据えなければならない現実だと思う。世界全体で中国を受け容れるべきだ。それこそ国境をなくしてでも・・・しかしアメリカも日本もヨーロッパも、出来るだけ現実を思い知るのを先送りし、影響を過小評価しようとする。「不安」だからだ。だから、様々な形で息の掛かった国々を巻き込んで同盟しようとする。そのひとつがTPPだ。中国も、もちろんプライドと不安があるので自分の苦境を世界で共有してくれなんて言わない。すなわち裏庭の東トルキスタンで、チベットで、モンゴル高原や中央アジアで、インドで中東でアフリカで、つまり欧米の監視の目が行き届きにくい世界中の全てのエリアで、独自に極秘裏に着実に資源確保に暗躍している。世界が北朝鮮を見て見ぬふりするのも、シリアの内戦を止められないのも、コンゴの紛争が終らないのも、パレスチナ人とユダヤ人が互いの平和を願いつつ殺し合いを続けるのも、日本の原発を止められないのも、全て「不安」が原因である。先日、私の友人が、日本の放射能汚染を怖れてブラジルへ移住すると言い出した。助言を求められたので、私は彼自身のその「不安」と先ず向き合うべきだと答えた。しかし彼は現地調査に旅立ってしまった。
つまり、みんなカネがなくて腹が減ってて、状況が更に悪化することを怖れて「不安」に駆られている。たとえば、戦争になったら怖いという「不安」がある。しかし、戦争そのものよりも、この「不安」という心理が、さらに「不安」を呼び起こし、連鎖していく。これが本当の「テロリズム」である。しかし歴史を学べば、戦争が避けられないことは明らかで、世界は戦争を中心に動いていると考えて差支えない。第二次世界大戦後の日本が例外だったわけではない。世の中は理不尽である。本当に平和を望むのであれば、先ず70億の人口をどうやってコントロールするかの哲学が必要だ。つまり、自分がどのように食うかの哲学のことである。
私の考えと行動はこうだ。日本の農地は456万ha、つまり4560万反、人力で無農薬無肥料で米や野菜を栽培出来る面積は1人1反、つまり日本の人口1億3千万人のざっと3分の1が手作業で営農すれば耕作放棄地はなくなる。田んぼ1反当たりの米の平均収量を400kgとすると、4560万反で18240000000kg、1人が年間100kg消費するとすると1億8240万人が自給出来ることになる。しかもそこには化石燃料も原子力も必要ない。例えば原子力発電に反対するのであれば、それが必要ない暮らしを実践しなければ反対する資格はないと思う。特定秘密保護法であれTPPであれ、全ては同じこと。30年前に反原発運動の示威活動で豚箱にぶち込まれたときにつくづく思った。示威活動ではなにも変わらない。破壊活動でも変わらない。哲学でしか変わらない・・・が、それが最も困難なことも事実だ。反対であれ賛成であれ、連帯する以前に思想と行動があるべきだ。
2013年12月30日
20131230 迫力を増す !!
今年一年、私は苦しんだ。なにに苦しんだかというと、自分がこういう生き方をしたい、それをするためにこうしてああして・・・という、そのやり方については一通りの要領を得て道筋も見えて、老い先の長くない人生のうちに何処までやり切れるか・・・という段階にまで来たのだが、これを実現するための環境が整わない、ときによってはこれを脅かしかねないことに苦しんだ。
具体的にいうと、私は安全な食を求めて自給的な生活をしたい。手作りで経済あるから現代日本の経済生活との格差が6倍程度あり、これを埋めるためにパートタイム労働に就くことは厭わないし、むしろこれを楽しんでいる。問題は、住み手のなくなった空き農家の家主が「空家にしておくと家が傷むから住んで下さい」と言われたので住み、「農地は自由に使って下さい」と言われたので使い、地域の決めごとを守って溶け込み、「安全な作物」を作るにはどうしたら良いかを考え、考えたことをブログに書き、賛同してくれた友たちとともに農作業を共にし、収穫を或いは分かち合い、或いは加工して貯蔵し、その方法についても友たちと共有することが、農業関連法上、違法行為とされたことである。具体的な事実経過については、このブログに書いてきたことであるので、ここでは繰り返さない。これから私と同じような生き方をしたいと思っている人たちのために、私と同じ轍を踏まないように書き留めるのが目的である。
根本的原因は、私が「農民」でないことにある。私はちっとも知らなかったのだが、日本人には「農民」と「それ以外」があって、農業関連法規がこれを定義づけている。「それ以外」の日本人のほとんどは、恐らくこのことを知らない。いや「農民」も、そのほとんどは、恐らく知らないはずである。農業関連法規はたくさんある。そのうち我々に関係するのは、おそらく「農業基本法」・「農地法」・「食料・農業・農村基本法」の3つ、場合によっては「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」も絡んでくると考えて良い。しかしその条文を読んでも、はっきりいって何が言いたいのかさっぱりわからない。従って、これらをコーディネイトしてもらわなければ法律を守ることが出来ない訳だが、それを司っているのが、各市町村役場にある「農業委員会」という組織である。
農業委員会が言うには、「農民」でない者が、「農家」に居住すること、「農地」を生産手段として使用すること、「農地」をまた貸しすること、「農地」から得た収穫を利用すること、「農地」の維持以外の行動をとることなどは、全て違法行為であるということだ。
これを私の行動に当て嵌めてみると、住み手のなくなった空き農家の家主が何を言ったとしても「農民」でない者が「農家」に居住することは違法であり、農地の所有者が「農地は自由に使って下さい」と言ったとしても「農民」でない者が「農地」を使用することは違法であり、これらの賃貸に金銭を伴う契約があったとしてもその契約自体が無効であり、また、たとえ「安全な作物」を作ることであったとしても「農民」でない者が「農地」を生産手段として使用することは違法であり、たとえ良いことを考えていたとしても「農民」でない者が農法について云々することは「農地」の維持以外の行動をとることになるので違法であり、「農民」でない者が考えたことをブログに書いて賛同者を募る行為はその違法を広めることになるので更に違法であり、「農民」でない者がその賛同者とやらとともに農作業を共にすることは「農地」をまた貸しすることにあたるので違法であり、「農民」でない者が収穫を或いは分かち合い加工して貯蔵することは「農地」から得た収穫を利用することにあたるので違法であり、「農民」でない者がその賛同者とやらとその方法について共有することも前述のごとく「農地」の維持以外の行動をとることになるので違法である、ということになる。これは直接農業委員会に出向いて逐一確認したことであるので間違いない。これらは違法行為である。これを知るきっかけとなったのは、今年の春に行政指導を受けたからである。彼らは「農民」が一番手も足も出ない時期を良く知っている。つまり田植えの前だ。人を募ることを辞め、ブログに記録することも控えたのはそのためである。
私が具体的にどうしたいのかを明確にしておきたい。私が「農民」ではないことが原因で上の全てのことが違法なのであれば、私は「農民」になりたい。これを「農家登録」という。これを正式に取得して、合法的に農家に居住し、農地を使用して収穫を得たい。農法については、あくまで「自然農法」の考え方で栽培したい。収穫物については、基本的に自給目的で利用し、加工出来るものについては貯蔵し、一連の作業について賛同する人たちがあればこれを共有したい。食品の加工については、必要な許可をとり、屋号を名乗り、定期的に販売できる機会をとらえていきたい。しかしあくまでも営利目的ではなく、むしろこのような生き方に賛同する人たちとのつながりを持ちたい。なぜなら手仕事で出来る作業量では、一人一反の農地を使用して収穫を得るのがやっと、それをやりくりして現金に替えるにあたって、いかに手作りであっても食品としての常識的な価格を考えると、前述のように生活に必要な収入の6分の1程度にしかならないからである。市価の6倍の価格設定で販売することは良しと出来ない。
では、私が苦しんだその原因、つまり上のプランを実現するにあたって、どのような障害が現れてきたかをまとめておきたい。まずは「農家登録」である。これには、「営農計画書」・(自治会による)「同意書」・「新規就農にかかる確認書」・「農用地等貸付申出書」・「農用地等借受申出書」が必要である。これら有効にそろえた上で年度末の定められた期日までに農業委員会に提出し、農業委員会が受理すれば農業委員会は一年間その圃場を観察し、「農家登録」を許可しても良いと判断されれば許可される。上の5つの書類のうち、前3つまでは問題なく取得出来た。しかし後2つの書類は農地の地主の許可が必要であり、これが取れなかった。この2つの部分を「農地の利用権の設定」という。
つまり、「農地は自由に使って下さい」と言った地主は、その「農地の利用権の設定」を拒否した。その理由は3つほど思い当たる。その1つは国の農業政策とも絡むことである。農地というものは地主の所有物であるが、にも関わらず地主の自由には出来ない歴史的に複雑なものである。平たく言えば、国が特に許可を与えて、国土の一部を生産手段として利用することを、地主に認めているということになる。だから国の農業政策に農家は振り回される。そのとき貸した農地の借り主が「利用権」を盾に国の農業政策に従わなかったとしても、その責任を問われるのは地主である。そんなわけで耕作する手間は省きたいので「自由に使って」ほしいのだが「利用権」を主張されては困るのである。ところが「自由に使」いたい私としては、農地が継続的に使用出来なければ、長期的展望に立った土作りが出来ない。ここに貸主と借り主の思惑の違いが表面化し、これが耕作放棄地が増え続ける一因にもなっている。
現状、今シーズンはやむを得ず「モグリ営農」状態を黙認されてきた。ところがここに「農法の違い」による軋轢が生まれた。私はプロの農家を目指しているのではなく、自分が安心して食べられるものを作るのが目的であるので「自然農法」に行き着いたわけだが、当初は近隣の農家から奇異の目で見られはしたものの、顔なじみになるにつれて相互理解は深まった。しかし地主は離れた場所に住んでいるので、それとは無関係に、周囲の農地と同じ状態でない、つまり草や虫の多い状態を恥じ、先祖に申し訳ないという気持があるように思われる。「他を聞き入れず、自分たちのゲレンデにされるくらいやったら草ぼうぼうになったほうがマシ」という言葉がそれを表している。これが「農地の利用権の設定」を拒否された2つめの理由であろう。
そして3つめは、これは「農家登録」の件と同時進行で進めてきたものであるが、食品加工の作業場として登録するには、若干台所を手直ししなければならない。もちろん自費でやるのだが、これについても家主に拒否されてしまった。つまり、私にこの話を持ちかけた当初、家主は私が彼の仕事を手伝うものと考えた。しかし私は独自の価値観で独自の道を歩みはじめた。そしてそれは家主の手中に入りきらないほどの流れに沿ったものであった。私の良いようにすると、家主はここでの主導権を脅かされる、と判断したのではないか。東日本大震災の時、事情があって西へ逃れてきた人を一時的に匿ったことがある。急なことだったので独断であったが、家主はこれに難色を示し、やむを得ず知り合いの農家に移ってもらった。しかし自分が決めたことなら、同じことでもやる。つまりこれは物事の是非ではなく、主導権の問題であって、これを脅かす可能性のあることは全て「No」であると判断出来る。実はこの傾向は農業関連法規の殆ど全てにもみられるものであって、これらの実際の目的は農家の既得権益の保護であると判断して差支えない。しかし悪法も法なり、これを守らなければ農地を利用出来ない仕組みができ上がっている。
そこで私は移住することについて検討を始めた。結論から言うと、移住するにはひと財産かかる。カネがなければどこからかなんらかの援助を得る必要があるが、公的な援助には厳しい年齢制限と、農業のやり方に関する細かい規定がある。詳細については煩雑になるので述べないが、要するに「安全な食を求めて自給的な生活をしたい」と考えているひとを援助する仕組みはない。援助には、必ずそれに見合う効果が見込めなければならない。国であれ地方自治体であれ、たとえ限界集落であっても、いや過疎であればあるほど、厳しく営農方法について規定される。要するに、地域の生産者の抜けた穴を埋めることが求められる。これは、自給的な生活とは、全く異なる「田舎暮らし」である。
受入側にも多くの問題があって、農地はいくらでも空いているので再生してもらえるならしてもらいたい、しかし農家の空家は、地域活性化に繋がると期待出来る人を誘致するための貴重なタマであるので、なかなか貸してもらえない。「空いている」農家のほとんどは、その一族の本家であることが多く、盆と正月には親戚一同が集まるので、貸すことも使わせることもならない。手の出る物件のほとんどは、住環境や農作環境が極めて劣悪で、安全な食を求めて自給的な生活をしたいなどと寝言を言うとったんではとっとと寝首を掻かれて葬り去られかねないほどである。まあその方が幸せかも知れないが・・・まあそんなわけで、余程のつながりでもない限り、私にとって移住という選択肢は、限りなくゼロに近い。
八方塞がりである。ではどうするか・・・強引にヤルしかないでしょ。農業委員会が行政指導に来る。これを無視してヤリたいようにヤル。つまり、「農家登録」への道は模索し続けるが、それが出来なくてもこの家に居すわり、だれがなんと言おうと「自然農法」で自給し、農作業の詳細、加工や貯蔵一連の作業についてブログに記録し、「farminhos (ファルミーニョス = 小さな農民たち) 」を名乗って、賛同する人たちがあればこれを共有する。食品の加工については、必要な許可をとり、「cafeminhos」を再び名乗り、定期的に販売できる機会をとらえていいく。営利目的ではなく一人一反を手作業で自給出来るようになれば、原子力発電はおろか、化石燃料でさえ、そんなに必要なくなる生活に至ることが出来るということを行動によって実証していくことが目的である。この意気込みで、来年はレッド・ゾーンを振り切っていきたい。船坂小学校に敬意を表する・・・「迫力を増す !! 」
2013年12月28日
20131228 今シーズン総括
今シーズンの農作業を総括する。昨年の12月に川口さんの主催する「赤目自然農塾」へお邪魔し、その後これについてよく考えて、それまでの私の作り方との違いを検証し、今シーズンは全面的に川口さんの提唱されるやり方に切り替えることにした。その結果について簡単に言えば、米作りはかなり失敗したが、野菜作りはかなり成功した。
米作りについては、切り替え前に種籾の手配を終えていたという事情もあったが、品種による特性について一切考慮しなかったことがおそらく原因で、「良食味米」の代表であるコシヒカリを不耕起栽培して全滅させてしまった。しかし、餅米・黒米・赤米・インディカ米など、より固定種に使い品種のこぼれ種は同じ環境下でも良く育ったので、来シーズンは、より固定種に近い品種に変える。現在のところ「日本晴」で再挑戦したいと考えている。インディカや赤黒の古代米と糯米については、小麦の跡地を耕さずに植え付ける予定である。今シーズンの顛末の詳細については、下記を参照されたい。
http://jakiswede.seesaa.net/article/382215443.html
野菜作りについては、ジャガイモとピーマンの栽培に失敗し、ともに全滅であった。ジャガイモについては、冬野菜が枯れしぼむと予想して、それらを取り除かずに種芋を植え付けたが、アブラナ科や芹などが春から初夏にかけて旺盛に棟立ちし開花結実するに連れ、ジャガイモの葉が黄変し枯死する現象が見られた。跡地には季節外れに芽を出した種芋や子芋が転がり、これらは秋に発芽して一定の収穫を得た。ピーマン、シシトウ、ピリピリなどは、数年前からその兆候はあったが、植え付けた苗の大きさのまま夏を越して秋を迎え、初霜とともに枯れ落ちた。種取りも出来ないほどだった。原因はわからないが、土壌の酸性化と関係があると言われているので、来シーズンは場所を区切って、草木灰を施しつつ検証してみたい。圃場の場所一帯は有馬温泉に近く、元々土壌が酸性傾向にある事や酸性雨の影響があるのかもしれない。また、「塩田」という当地の地名があらわすように、泉源に近い事からくる土壌塩分の高さも原因の一つかもしれない。田にイグサが多く生える事もその影響かもしれない。今後の研究課題である。その他の野菜については、もともとあまり熱心に耕す方ではなかったので、特に例年と変わらず収穫できた。もっとも、自給目的と割り切っているので、収穫量はプロの出荷量とは比較にならない。あくまで野菜を買わずに済むという程度である。ジャガイモの失敗例については、下記を参照されたい。
http://jakiswede.seesaa.net/article/382221608.html
以上の失敗の原因は、自然農法や不耕起が原因というよりは、自然農法や不耕起を実践するにあたって、目的とする作物の周辺の植生について熟知していなかったことによると考えられる。常に循環している多様な植生の中で、どのタイミングで何処にどんな作物を植え付ければ良いかを見極めるには相当な経験が必要になるだろう。要するに、外的要因に強い作物は例年通りの収穫を得たが、弱い作物は淘汰された。自然の中に置いた当然の結果である。
陸上の生物は、その誕生以来、土から生まれたものを摂取して生存している。だから土には全ての生物が必要とするものが過不足なく用意されている、という考え方には一理ある。自然農法ではここに結論を置いて、土をできる限りあるがままの状態に保全しながら、目的とする作物をほんの少し土からおすそ分けいただく、という栽培方法をとる。耕さない、草や虫を敵にしないというポリシーはここから生まれ、納期と物量を指定される農業とは根本的に異なる。私は米と野菜は自給しているが、一年中好きなときに好きな野菜を食べているわけではない。そのとき畑にあるものをやりくりして食べているだけのことだ。特に端境期にあたる春先から梅雨入りにかけては、畑に充分な作物が育っていないので、畔や土手に生えている草のうち食べられるものを食べている。たまに肉や魚の切れっぱしを買ってきて喰う。たぶん主食の米がしっかりしているためか、この食生活でここ7年ほど風邪ひとつ引かない。収穫を目的とした作物が単位面積当たりどの程度収穫出来たかという意味での生産性は、隣近所のプロの農家の畑と比べるまでもなく、見ただけでわかる。ケタ違いに低いと考えて良い。しかし借りることの出来る圃場の単位は一反からであるので、これを適当に転がしながら、男一人が食べている状態である。一反あるので、作物は私の消費量の何倍も余る。一頃はそれを加工して現金化しようとしたが、いろいろあって今は辞めて、作つけを減らして調整している。この程度で推移するのであれば、放任に近いずぼらなやり方でも余程のことがない限り糊口を凌ぐことは可能である。
土を観察してきてわかったことは、ひとことで「土」といってもおそらくその性質は千差万別であって、どれひとつをとってみても同じものはない。それどころか、その差異は驚くほど大きい。ところが、巷で売られている園芸書や、種の袋の裏に書いてある説明によると、土にある程度の肥料を与えて耕して種を蒔いて水をやれば収穫出来ると書いてある。私も初めはその通りにやってみたり、その後は肥料だけを省いてみたり、一度に何通りもの異なる条件で7年間様々な品種を育ててきた。そのうえで感じることは、つまり以下のようなことである。あくまで私の観察から得られた直感であるので、科学的根拠などない。
自然農法のいうように、土には多分、全ての生物が必要とするものが過不足なく用意されているであろう。しかしその分布には大きな偏りがあって、そのときその人が栽培したいと思っている作物に必要なものが手許の土に過不足なく存在しているかどうかはわからない。だから、植物の研究や品種改良などによって、その作物が良く育つための養分がわかるようになると、それを化学的に合成するなどして得ようとしたものが肥料である。土に存在するであろう養分は恐らく大人の食事のようなもの、肥料が持っている養分は子供のお菓子のようなものではないかと思う。作物の根は、吸収しやすいものから吸収するので、手っ取り早く肥料を吸収して市場が喜ぶ大きさや形の作物が良く育つ。しかし土にお菓子をばらまくと虫も寄ってくるのでこれを駆除するために農薬が使われる。肥料は、もともと特定の作物を肥大させるために特化された偏った養分の塊であるので、例えばそれを好む虫の種類も限定されるから、特定の虫が大量に発生する。だから、特定の作物を栽培するために肥料を使う限り、対応する農薬の使用も欠かせないことになる。
肥料や農薬が化学的に合成されたものであった場合、これらのベースとして使われているものは界面活性剤である。これは野菜の表面に付着して安定し、食事によって人体に摂取されるが、その影響については要するに「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」というだけのことである。また、肥料は土壌に与えられ農薬の大半は土に流れ落ちるものだが、これについても、肥料切れが起ったり害虫が舞い戻ってきたり雑草が息を吹き返したりする現象が頻繁に見られることから、それらの現象だけをもって、その影響が悪影響も含めて消失した証拠と判断されることがある。しかし、それはあくまでも、肥料や農薬に人間が期待する効力の消失を表すだけであって、それ以外の土壌への影響についてはほとんど研究されていない。特に、有吉佐和子が「複合汚染」を発表した40年前から、人的影響についても土壌への影響についても、一般的な消費者が関心を持つような意味での「解決」には至っていないのが現状のようである。なぜなら、科学的アプローチの前提として、明らかに確定出来る条件を作るために上のような資財を投入し、特定の環境の中でのデータ化が可能になっものの枠の中で検証する。しかしそれで得られた結論は、確定できた条件下での解明であって、すなわち「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」という以上の包括的な解決を望む一般消費者の希望には直結しない。これは科学である以上致し方のないことだ。
化学的な解明を待ってられない篤農家の危機感から「有機農業」へ模索が始まったのも同じ頃だったと思うが、乱暴な言い方をすると、これは化学肥料を使わずに有機肥料、おもに動植物の亡骸を原料とした肥料を使い、なおかつ農薬を使わない方法ということになる。しかし、例えば私の畑で鶏糞を使うと微量でもかなりの虫が来て、葉物野菜に取りつく虫を退治するのに大変苦労する。もちろん鶏糞以外にもいろいろな有機肥料を試したが、いずれも虫と草に対する手入れが大変で、そのとき肥料というものはどうしても使わなければならないものかという疑問が湧いた。いろいろ調べたり考えたりした結果、化学肥料であろうが有機肥料であろうが、肥料を与えないと作物は収穫出来ないという思い込みがあるのではないかと思い至った。そこで一切外から持込むことを止め、作物も株ごと採らなくて済むものは、食べる分だけをちぎる程度の収穫とし、野菜屑や未調理の残渣は、なるべくそれがあった場所に戻すようにして行くと、数年で虫の大量発生が見られなくなり、作物のほとんどは元の収穫量に戻った・・・もちろんプロとの比較ではないが・・・
さて、「持込まず持ち出さず」の栽培を続けていて、ひとつの圃場の中で畝単位で輪作して行くのだが、それにつれて生える草の種類がだんだん変化して行くことに気がついた。おおまかには、借り受けた当初の畑にはスギナがはびこっていたのだが今では殆ど見かけず、かわりにギシギシとシロツメクサ、タンポポなどが増えている。全体として植生は豊かであり、作物以外の草がにぎやかな畑といえる。もちろんこの状態は、特定の作物を効率的に栽培するには邪魔になる。しかし、作物の邪魔をしない程度に整枝するという手入れのしかたであれば、逆に虫たちはこれらの草の葉を食べたりするので、全体としては虫による食害は拡散されていると思う。おそらく草同士の循環、虫同士の循環が始まっているのではないか。昨年ナス科を栽培した跡地にはマメ科を栽培するのだが、周囲に生える草の種類が変わり、ナス科の周りをシロツメクサ、マメ科の周りをスベリヒユなどが覆う現象が見られる。多種多様な作物を栽培するので、それらのこぼれ種が好きなように発芽する。観察していると、畝回し以外にも、明らかに仲の良い作物が回ってきたときに発芽したと思われるものがあって、それらを放置して栽培し、観察していると、互いに生育が良かったり、一方の天敵を他方が引き寄せたりするなどの共存関係、また反対に共倒れの関係が見られる。前者の例としては、インゲンとキュウリ、ソラマメとゴボウ、サトイモとショウガなど、後者の例としてはジャガイモとセリ、トウガラシと大豆などがある。
私は、常にこぼれ種を守り、彼らから学ぶ必要があると思っている。しかし畑の管理の都合上、作物が入れ替わる時期に土を耕してしまうと、往々にしてこれらを殺してしまうことになる。その頃、となりの農家のひとが、田んぼを見回るとき常に軽トラに乗ることに気がついた。家のすぐ前の田んぼへ行くにもわざわざ車を出してくるので何故かと訊いてみると、「この高さから見た方が良うわかるねん」・・・このとき気がついた。畑を耕して雑草のない畝の上に整然と作物が育っている、あるいは代掻きをした田んぼに青々と稲が伸びてくる・・・生育の状態が一目瞭然であるということは、農家にとってはこれを管理しやすいということであり、官憲にとっては作況を把握しやすいということなのではないか。つまり、耕すということは弱い根が土に入りやすくする、つまり作物のために行うものだと考えられているが、それだけではなく、実は人間の都合で耕すのではないか。それに気がついたとき、耕すことを辞めたらどうなるかと考えるようになった。所詮、私が扱う圃場は一反であり、これだけならば目も手足も行き届く。これ以上増やす気もない。とすれば、わざわざ足腰を痛めて土を耕し、手をぼろぼろにしてまで草を取り、餌を失った虫に作物を食われて腹立たしく思うこの悪循環は、耕さないことで解決するのではないか・・・
これが「持込まず持ち出さず」に「不耕起」を加える気になったきっかけである。今から一年足らず前のことだ。その結果は上に述べた通りであるのでまだまだこれからだ。しかし手応えは充分に感じている。それになにより、田畑がにぎやかになって面白い。いろいろな植物の形態や虫たちの生態を見られることは、なんとも知れず命がときめく思いがする。これは金では買えないものだし、プロの農家には出来ないことだ。しかしストレスがたまるのも事実である。それは特にある作物が生涯を終え、次に代わる作物の種を蒔いたり定植したりするときに感じる。出てくる芽を見逃してはならないし、植え付けた苗の葉の色から目が離せない。全てが連関して、新しい生命もその中から生まれてくるので、人間の私から見て、非常にわかりにくい。つまり管理しにくいからだ。雑草を全て葬り去って、完全に土を露出させ、そこに種を蒔いて純粋培養の状態にした方が、何もかも分かりやすくてストレスもたまらない。さて本当はどちらがよいのだろうか。あるいはどの程度自然に任せるのが、自給的農業にとって現実的なのか。代掻きをしない方がよいのか、少しくらいならした方がよいのか・・・常に周囲とのバランスの中で動いているので、それ自体の状態を見極めにくいことにストレスを感じる。これに慣れるには、少なくともあと10年はかかるであろう。
さて、実は私は上に述べたことにも関わらず、農薬や化学肥料を必ずしも有害だとは思っていない。定められた量を定められた方法で使う限りは、発表されているように「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」であろう。その先のことはわからない。私がこれらを使わない本当の理由は、その有害性に不安があるからではなくて、それらがなくても栽培出来るようになりたいと思うからである。いずれそうせざるを得ない時が来るだろう。同じ考え方にたって、今シーズンは草刈機以外の動力機械を使わなかった。以前、一反の田畑を10日がかりで全部耕したことがあったが、それは農作業に対する体力的な自信に繋がった。今は、「持ち込まず持ち出さず」で自給できる事が私の自信である。そしてこんど耕さずに作物が得られれば、それは農法的な自信に繋がるであろう。そして化石燃料を使わないことは、持続可能な生活のあり方に自信を深めることになる。今シーズンの末期には、田から麦畑への遣り変えですら機械を使わず、作業そのものは数日で目処がついた。これは何よりの自信である。さてこれからどうなるか、冬の間に構想を練って来シーズンに備えるとしよう。
2013年12月18日
20131215 干しいも作り
白サツマイモ「タマユタカ」を干す。まずはこれを4時間ほど蒸す。
手で掴むと崩れるくらいに柔らかくなるので、慎重にすだれに上げて、タコ糸でスライスする。4時間蒸したのにまだ芯が残っている。この白い部分は干すと硬くなる。
20131207 農作業納め
今シーズンの農作業の仕事納め。圃場周囲の土手の草刈を終える・・・終った・・・やっと終った・・・毎年この重圧からの解放感がたまらんのよね、春までの長い農閑期、保存食を作ったり、部屋に引きこもって物思いに耽ったり、ひたすら音楽を聴き狂う毎日、まとまった時間が手に入る。贅沢さえ言わなければ、百姓はこういうメリハリのある生活が出来るから捨てがたい。
手前は「ユメシホウ」を蒔いた麦の圃場。奥の右が不耕起に失敗した後の本田。左が来シーズン返す畑。
おもにその畑である。7年間土作りをしてきたが、所詮なんの権利もないモグリ百姓、「返せ」と言われれば返さなければならぬ。
20131207 冬の畔塗り
2013/11/26 今シーズンの農作業の最後の重労働、冬季湛水のために畔を塗り直す。先ずは畔を切る。
2013/120/01 モグラが地中深くまでトンネルを掘削したのであろう、水が入ると同時に空気が押し出されて、結構長いこと泡を吹いておった珍しい現象。
2013/12/07 水を入れ畔際を充分練り固めたあと、自然水が退くのを待って、後は春の畔作りと同じ作業を、こんな季節にやるのである。またもや周りのお百姓さんたちが怪訝な顔をしながら、犬の散歩にかこつけて偵察に来ては、わざわざ向こうの方まで行って噂話をしている。でも最近では人間関係も良好であるので、温かく見守ってくれているのがよくわかる。まずは県取り。
同日、とりあえず厚めに塗っておいて、固まり次第畔際ぎりぎりの高さまで塗り上げる予定。しかる後に田に水を入れ、圃場を完全に水没させる。つまり不耕起栽培では代掻きをしないので、植え床の土が団粒状に保たれており、代掻きをして泥の層を作る慣行農法よりも、植え床の土の嵩が高いのである。従って不耕起栽培では、水漏れ対策のために慣行農法よりも塗り畔を高くする必要がある。これもやってみるまでわからなかったこと。
20131206 傍示へ
20131205 不耕起ジャガイモ栽培
不耕起栽培ジャガイモ篇。2013/05/13、冬を越して枯れしぼんでいくアブラナ科の間に4月下旬に植え付けたジャガイモは、芽掻きのシーズンを迎えるまでは順調だった。アブラナ科は地上部で結実してゆき、ジャガイモは地下で育っていくので、生育圏が異なるし、入れ替わっていくものと考えたからだ。しかし、これは不用意な判断だった。
05/26 芽掻きしはじめた数日後に、あちこちのジャガイモの葉が黄変、なかには枯れてしまうものもあった。アブラナに混じって、多くのコリアンダーも冬越ししており、これらはセリ科で勢力が強く、ジャガイモと競合したのかも知れない。
06/01 手入れの甲斐なくまさかの全滅・・・畑を観察していると、ジャガイモと入れ替わるであろうと予想したアブラナ科は、高く伸びトウ立ちして開花結実。つまり彼らが生涯を終えるにあたって大きなエネルギーを使ったので、ジャガイモが生長できなかったのかも知れない。
07/13 夏野菜の種蒔きのため畝を整理していると、いくつかの発芽したジャガイモが転がり出た。春に植え付けた種芋なのか、それから結実した子芋なのかはわからない。しかしこの季節に発芽してくるのは、もしかしたら周囲のアブラナ科が枯死するのを待っていたのかも知れない。
09/24 夏野菜の最盛期を過ぎて草取りをしていると、いくつかのジャガイモの芽が顔を出していた。もしかしたら、これで秋じゃがが収穫できるかも知れない。知れない知れないばかりでなにがなんやらだが、ジャガイモに関しては、植え付けからかなり優位においた方が無難なようだ。例年、一畝で一年分食べるに余るほど収穫できるからだ。それにしても全滅とは・・・多様な植生の中で栽培する自然農法はいかに困難なことか・・・
10/31 手前は、なけなしのジャガイモを種芋として植えたもの。間引きと土寄せを終え、気温の低下が早いか芋の肥大が早いかの秒読みを迎えている。一方その奥は、自然発芽した春植えのジャガイモ。白菜やラディッシュに囲まれて「またかよ」って感じやろね。
11/12 霜にそなえてジャガイモを不織布で覆う。
11/14 初霜。周囲の農家の秋ジャガの葉は枯れ落ちたが、不織布の中の私のジャガイモはまだ生きている。
12/01 秋ジャガイモは芯まで枯れてから収穫する・・・ということは知っていたのだが、にわか百姓の哀しさで、春に植えるジャガイモと秋に植えるジャガイモとでは、品種が違うことを知らなかった。春用のメイクインを秋に植えた結果・・・
まあ、少ないながらも採れるには採れた。これは不耕起や自然農法が原因というより、ジャガイモを取り巻く植生を理解せずに植え付けたことによる失敗と見ることが出来る。来年以降は畝回しに注意する。
20131205 冬の畑の観察
枯れ行くピリピリ・・・今年は、種取りにも失敗した。ナス科、とくにピーマンやトウガラシなどが上手く出来ないのは、土壌の酸性化が原因といわれているが、この圃場は土のバランスがとれていると思う。他に原因があるのか、根本的に私が何か間違っているのか、あるいはそもそもこの土がこれらを栽培するのに不適当なのか・・・とにかくこの圃場は、来シーズンは返さなければならなくなったので、新畑にて条件を変えて試験栽培を続けてみる。
菊芋も枯れたので順次収穫、同じ畝に植えていた里芋やショウガも必要に応じて収穫、その跡地に苗の余ったソラマメを植え、オクラの立ち枯れを利用して株元にエンドウを植える。
ニンジンというものは、なかなか面白い形に育つものだが、これは数株あると思って間引きついでに抜いたものが、実は一本だったという例。
一方こちらは赤いラディッシュと交配したのか、でも蒔いた種は自家採種の辛味大根だったはずが、頭をもたげてきたのは巨大赤辛味大根・・・まあいろいろあって楽しい。
大根も根菜であるので、根の先端が硬いものに当たれば、曲がったり分岐したりする。だからプロの農家は、土を深くまでよく耕して、まっすぐな大根を作ろうとする。それにしてもアンタどーしてこーなったんよ ??
三度豆の仲間たるフェイジョアーダ用の黒インゲンも、三度目は流石に気温の低下に対応しきれずに莢付きのまま立ち枯れ、先日の霜で凍りついてしまった。全部とって湯がいてサラダにして食べた。今シーズンのマメ科畝は全部撤去。
夜、柿ジャムを作ろうとしたが、どうもニガテ・・・
20131130 さらば天王町長屋
秋晴れの気持の良い朝、「須磨の風」を主催する中野いち朗氏が永年住まいし事務所としても使ってきた味わい深い長屋を引き払うにあたって、お別れの会を催すから参れと誘われたので、神戸電鉄に乗って行ってきた。写真は道場南口駅にて、まぎらわしいが反対の三田行きホームに旧型車両が来たので撮ってみた。もうだいぶ少なくなってきてしまったが、正しい「電車」というイメージを色濃く残す1100系。
基本3両編成のところへ1070系が増結されて4両固定編成となっている。
2013/05/28に脱線事故が起った有馬口駅で待機中の有馬温泉行き。いろいろあるけど、こういう風情は懐かしい。事故以来、新開地方面から有馬温泉へ直通する電車はなく全て三田方面行きに、有馬温泉へはここで乗り換えるダイヤに組み換えられている。ポイントを見ると、下り線から上り線を越えて有馬方面へ接続するレールが切断されていた。
で、私が乗ってきた電車は、このウルトラマン3000系、なんかこういう電車ってないよね、なにもかも中途半端で洗練されてないデザインが結構好きやねん。標識板も真ん中につけへんとこが、またシビレル。鵯越駅で降りる。
駅前はこういう佇まい・・・と、別のウルトラマンが反対方向へ・・・
ここから南東方向へ降りて行く。烏原 (からすわら) 貯水池へ向かって降りて行く道は、まさに神戸のファベーラの感がある (悪い意味ではない) 。
こういうセンスが、私は好きだ。ここから先は貯水池の周回路になる。もと烏原村、明治の時代に神戸の繁栄と引き換えに水没したという。
http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/waterworks/water/suidou/03_04b.html
ダム対岸の斜面に、まとわりつくように集落が広がる。画面右上の路地を上がって行くと、やがて天王町へたどり着く。位置関係はこのようになっている。六甲山北麓からここへアクセスしようとすると、一旦市街へ出るよりも山道を伝った来た方が早い。
http://www.mapion.co.jp/m/34.688013_135.15841_8
急峻な坂道の路地を上り詰めると、忽然と長屋が姿を現わす。ここが20年以上の長きに亘り「須磨の風」という幸せの時間を創造してきた「One Foundation Kobe」の本拠地である。
http://jakiswede.com/3photos/31works/312fetes/3127sumakaze2007/index.html
http://jakiswede.com/3photos/31works/312fetes/3128sumakaze2007/index.html
ここは山中なのか街中なのか、これぞディープ神戸の醍醐味といえるだろう。
バイトがあるので早々に切り上げて、貯水池の周回路を鵯越駅へ向かう。徒歩約30分。
鈴蘭台までは普通電車の小野行きに乗る。写真は営業休止中の菊水山駅。山道とクロスするだけの、いわゆる「秘境駅」であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/菊水山駅
小野行きも1100系に1070系を増結した4両編成であったが鈴蘭台で三田行きに乗り換え。秋の日の、束の間の癒しであった。
20131126 ソラマメ植付
ソラマメがほど良い状態に育ってきたので、本日植え付け。左のエンドウも巻きひげが出てきたので、近日植え付け。
ここは新畑、前作の人は慣行農法であるので親切にも耕して明け渡してくれた。仕方なく土を露出させて植え付け、後に周囲の草を刈って被せた。
20131124 丹波の黒豆収穫
丹波の黒豆 (品種名: 「丹波黒」) が黒豆としての収穫期を迎えた。この時期、晩稲の田んぼの排水から麦畑への作り替え作業と重なるため、今シーズンは労働力軽減のため作つけを半分に減らした。放任栽培にも関わらず、できそのものは極上。乾燥具合を見ながら年内には脱穀する。
20131124 タマネギの植付
タマネギの苗がほどよく育ってきているので、本日定植。
下から土ごと掘り取って柔らかくほぐす。左は赤タマネギ、サラダの彩りや、赤いシチューのために・・・
新畑の予定地を除草してホーで3列に軽く溝を掘る。だいたい20cm間隔に互い違いに植え付ける。私は根を倒したままでなく、鉛直に起して土寄せをした上で、除草した草をまとわせる。
20131123 谷上マーケット
「谷上マーケット」というのに行ってきた。赤目自然農塾の実践者で、神戸市北区で営農しているという「niufarm」さんが主催するフリーマーケット。有馬街道を有馬から平野へ (西へ) 進んで谷上の駅を越えて坂道を下ると、その先に新神戸トンネルの入口がある。そのちょっと手前に「ヤキタテイ」というパン屋があって、その駐車場の手前がこのようになっている。画面にある軽トラの左手の茅葺き屋根の古民家の庭が会場である・・・表からはちょっとわかりにくい。
http://niufarm.blogspot.jp/p/blog-page_27.html
ううん・・・とょっとツライ空気だが、いろんな考え方があって良いと思うので、出来るだけ協力して行きたい・・・
20131123 道場生市まつり
「道場生市まつり」というものがあるということをネットで知った。歩いてすぐの道場の旧町であるはずなのだが、7年間住んでたのにちっとも知らなかった。しかし、幟は出ているのに、人影がない・・・
捜して捜して、人に訊いてやっとわかった。宿場町の北の外れの愛宕神社というところで、テントがひとつ、甘酒をただで配ってた・・・それだけ・・・この看板、ヤバくない ??
2013年12月14日
20131122 日曜始まりのダイアリー
やっと見つけた日曜日始まりのダイアリー・・・これがありそうでないんよね。無印良品にあった。世の中、わからないことが多すぎる。カレンダーは日曜始まりが大半だが、ダイアリーは月曜始まり。カレンダーに予定を記録したり、ダイアリーに写したりするときなど、みんないちいち一日ずつずらしてやってるのを、誰も不便と思わないのだろうか・・・愛用していた最後の日曜始まりダイアリーが終に販売終了となって以来数年間、仕方なくCampus Noteのフリーダイアリーに、自分で日付を書き込んでいたのだが、これが非常に面倒くさかった。不便なくせに仰々しい商品など何種類もいらないから、こういう当たり前の商品が、当たり前に手に入るようになって欲しい。でも、私に気に入られた商品は、全て売れ行きが悪くなって販売終了に追い込まれるので、この商品もあと何年続くことやら・・・
2013年12月11日
20131118 徒然なるままに
麦蒔きを終えると今シーズンの主な農作業は終り、農閑期に突入する。先が見えてきたことで、急に肉をたらふく食いたくなって、鶏のもも肉一本を焼いた。たまにゃ手抜きもええやろと思て、イタリアで買ってきたプリザーブド・ライス、日本でいう「干飯 (かれいひ) 」で喰ってみた。あんまし旨くない。
インディカの跡地に溝を切ってパン用小麦「ミナミノカオリ」を蒔き、稲藁を敷いた。
かねて種蒔きしたソラマメが発芽している。いつもこれを見てからエンドウの種蒔きをする。
2013年12月09日
20131117 麦蒔き
田んぼから畑への作り替えも終え、表土もほどよくほぐれて乾いてきたので、本日麦蒔きをする。先ずは新畑に「ユメシホウ」を蒔く。
畝幅120cmに4条撒くことを想定してガイドラインを引く。その両側にホーで溝を作る。固まった土くれも多いが、特に問題にせずに大雑把に作る。
ガイドラインの両側に、このように条播きをする。ここの田土は粘着気質なので、麦にとっては発芽しにくい環境にあるようだから、少し多めに撒いている。
このような捩り鎌が使いやすい。尖った方で大きな土の塊は崩し、平たい方で覆土する。
田土は隙間が多く、もうすぐ霜柱の立ち季節に入るので、麦の発根を良くするために籾殻を撒く。
土から取った物は出来るだけ土に戻す。刈り取った稲藁を戻しておく。
20131116 リュックサック・マーケット
続いて「リュックサック・マーケット@摩耶山」へ行ってきた。詳しいことは下のリンクを見てもらえばわかる。
名前の通り、出展者は自分の手で運べる範囲のもので小さな商いをしてもいいよという主旨なのだが、車で乗りつけるのはルール違反だからといって、数百メートル手前の規制スポットまでトラックで乗りつけて公道で堂々と荷物を下ろし、トラックを返しておいて山積みの資材を台車でピストン輸送・・・おいおいちょと待たんかい・・・明らかにプロとわかる屋台も出るなど、主旨とは異なる「店」が多いのが気になった。神戸市が後押ししているが、お役所なので明文化してしまった以上、型通りのルールさえ守っていれば、コンセプトから逸脱しても見て見ぬふりをするしかないのであろう。
よく見て下さい、摩耶山の掬屋台から見下ろした六甲アイランド付近・・・このような絶景に恵まれた場所にふさわしいやり方で提案されたひとつの活性化のはずだったが、「六甲山カフェ」の悪い癖でアフター・フォロウをしないため、行政が絡んで切先が鈍る。唯一、洗練された神戸らしさを醸し出していたのは、何も言わずに黙々と作業するこの人たった一人でした・・・ああ神戸、わがふるさと神戸・・・
20131116 CAP HOUSE
断捨離の一環でね、使わずにおいてあった古い座卓・・・これは実は、現在の「海外移住と文化の交流センター」(以下「移住センター」) 、私にとっては思い入れ深い「CAP HOUSE」にあったものである。このたび部屋を整理するにあたり、古巣に戻してはどうかし思い当たり、「CAP HOUSE」に連絡してみると快諾されたので、ここにお帰り頂くことにした。「CAP HOUSE」が改装されて「移住センター」になる前、おびただしいアンティークな家具調度を廃棄処分するのを手伝ったことがある。しかしあまりにも捨てるにはもったいない頑丈なものばかりだったので、希望者を募って出来るだけ引き取ったのである。それらはあちこちで余生を送っているはずだ。
「CAP HOUSE」が、関西ブラジル人コミュニティや神戸市の肝いりで「移住センター」に改装されることが決まったとき、「CAP HOUSE」に参加していたアーティストや見守ってきた人たちは不安を感じた。なぜなら、それまでこの建物を使っていた神戸海洋気象台が引き上げた後、この建物は解体されることが検討されていた。それをなんとか残そうと努力したのが、現在の「CAP」すなわちNPO法人「芸術と計画会議」だった。しかし日本からブラジルへの移住百周年が近づくにつれ、その拠点となったこの建物に注目して、そこを自分たちの拠点にしたいと関西ブラジル人コミュニティが言い出し、新しい観光名所にもなりうると考えた神戸市がそれを後押しした。一度は、「CAP」は完全に立ち退きという扱いにされかけたが、陳情に陳情を重ねてなんとか部分使用として踏みとどまった。我々が不安を抱いたというのは、もちろんこの建物に愛着があり、ここが「CAP」であることに意義を見いだしていたからであったが、実際に建物を維持管理して存続させた彼らの功績が踏みにじられることが最も我慢ならなかったのである。しかし、全面退去は免れたものの、関西ブラジル人コミュニティや神戸市にとっては目の上のたんこぶのようなものだった。それはこの座卓を譲り受けた当時、残されたものの整理をしているさなかで乗り込んできた市役所の役人や関西ブラジル人コミュニティの関係者の態度を見てもよくわかる。
あれから5年、彼らはうまくやってるのだろうかという心配のもと、恐る恐る訪ねてみた。しかし、受付で誰何され、「CAP」へ行くと言っても何か高圧的な目で見られ、だいたい玄関に役人が座ってるのがそもそもいかんよね、展示物もいかん、展示物というか、その並べ方や見せ方が、もう完全なお役所仕事、公民館の展示室のノリでね、せっかくアーティストと同居してんやし、もうちょっと・・・でも聞く耳もたんのやろな、そーゆーのキライなんやろな、なんかじわじわと伝わってくるわ。ホンマに神戸のこういうところがイヤや。なんも変わってへん。地震で壊滅してもわからんやろな・・・
20131112 水田から麦畑へ
インディカを刈り取った跡地にパン用小麦「ユメシホウ」を蒔く。11月前半には蒔きたいので急いで田んぼに排水溝を切る。溝間はおよそ120cm、これは標準的な稲の背丈であり、鍬の柄の長さでもある。また、田植えの時に株間30cmに取ったとして、田植え枠一枚の幅ともほぼ等しいのでこの値を取った。来シーズンのインディカの米作りは、この上に不耕起で田植えする。まずは、平鍬で一方に土を上げる。私は右利きなので、左に上げる方が楽である。
来シーズンから新しく借りることにした畑の半分に、これもパン用小麦の「ミナミノカオリ」を蒔く。この圃場は水はけが悪く、稲刈り後2週間以上も経つのに泥に近い状態であるので、注意深く溝を切って行って何日か乾かしてみる。
来シーズンも草刈機以外の機械を使わずにやろうと思う。このようにロープで直線を出して、鍬で溝を切る方が、耕耘機を使うよりまっすぐ出来る。そうや。私の根性が曲がっとるんやない。私はまっすぐや。機械を使うから曲がるんや。それを修正しようとするから泥沼に落ちて足を滑らせ、墓穴を掘るんや。幸いなことに満足な手足がまだ残っとるんやから、これでやったらええねん。畑の両端に、だいたい120cmごとに目印をつけて、それに合わせてガイド・ラインを付け替えて行ったら一人で出来る。
圃場は区画整理されているとはいいながら、必ずしも長方形でなく、道路や用水路も平行ではない。従って、どれかの畝、あるいは隣の田畑の畝の延長線を目測して基準線を自分で決める。それに対して直角を出してから120cmずつの寸法をとって行く。直角はこのように出す。直角定規をロープに載せて、一方を固定したら他方をだいたい直角と思われる方向へ伸ばしてみる。するとこのように誤差が出る。
それをロープの先から見てみると修正できる。
今度は、反対を向いて更に溝を掘って土を上げる。
20131109 初冬の一日
「丹波ハピネスマーケット」というのに行ってきた。
R176を三田から柏原までまっすぐ行ったんでは芸がないので、途中から福知山線沿いに谷川まで、つまり篠山川に沿って川代渓谷を加古川に出る直前まで、ゆったりと辿ったのでありました。ここを前に訪れたのはまだ子供の頃、カブスカウトの舎営で、宝塚から国鉄福知山線の普通列車出雲市行きに乗って、えんえんと諸寄まで旅をしたとき、もちろん当時はDF50に小豆色の木造客車の長大編成、途中で急行「だいせん」や特急「まつかぜ」の通過待ちのために数十分も停車するという古き良き時代、篠山口を過ぎて山あいに入るこの渓谷美が何故か忘れられず、いつかは再訪してみたいと思いつつ機会もなく忘れてしまっていた。この遠回りも、出発してから思いついたもので、記憶の中の川代渓谷、いやなかなか子供の頃の記憶は鮮明なもので、その印象と寸分たがわぬものでした。今は単線でも電化されて、一時間に一本は連絡のある路線だけれども、その周囲の風情は50年前の空気を醸し出している。
駅前にたたずむカリーナちゃんも、心なしか風景に溶け込んで見える。
鉄道少年なら堪らん風景。画面右手前から加古川線が大阪方に向かって合流してきて奥が谷川駅。その奥に見える山に囲まれて川代渓谷、大阪から来た福知山線はその渓谷を縫うように谷川駅に到着する。駅を出ると画面左の変電所の左へと進路を変えて福知山を目指す。
柏原は城下町で、今でもその面影が残る。実はここには、阪神淡路大震災のときまで住んでいた夙川の高級アパート「宝山荘」の管理人がその後身を寄せて住んでおられ、震災後一度お邪魔したことがある。あれからまもなく19年、どうしておられるやとうる覚えの街を探し当てたがご不在であった。
http://jakiswede.com/4quake/40quake_fr.html
さてその帰路、国道沿いの喫茶店の名前に思わず記憶が呼び覚まされる。「コンサートカフェ・パオ」・・・実は、私が移住してきたころ、歩いてすぐの田んぼの中の倉庫で、毎月「真夜中のコンサート」という催しを開いておられるNPO法人があった。しかし数年でなくなってしまい、とても残念に思っていた。その法人の名前が「PAO」といったので、もしやと思って入ってみたら大当たり。現在、三田と篠山の中間辺りのこの喫茶店で催しを続けておられる。思い出話と苦労話に花が咲く。上は、そこで注文した遅いランチ。何の変哲もない豚カツ定食に見えるのだが、今では滅多にお目にかかれない、全て手作りの定食であった。切り方盛りつけ方のひとつひとつにまで心が配られていた。
実は、彼らも私と同様、農業関連法規を知らずに田舎暮らしを始め、人のつながりに支えられて芸術活動に寄与しはじめた。自治会も後援しチラシやポスターも常に掲示され、マスコミにも取り上げられていた。しかし名前が知られるようになったことが農業委員会の目に留ることとなり、農地を農業以外の目的に転用できないという「農地法」を極めて厳密に適用されて、結果的に追い出されたという。出し物も良かったし、私もミュージシャンを紹介したり、自身共演に預かったりしたのだが、突然閉鎖されて心配していた。農業委員会が出てくるまでは全てがうまくいっていた。地域住民にも支えられみんなに喜ばれていた。文化事業としての助成金も付いて、設備投資もし、継続的に活動して行ける見込みがたった時点での思わぬ行政指導、事業継続に向けて様々に尽力されたものの、結局賃貸契約を一方的に打ち切られて強制退去となり、投資した内装は神戸市が接収して廃棄・・・全くやりきれん話であった。
せっかく地域が支えた楽しみを潰してまで何を守ろうとするのか、何を拒絶しようとするのか・・・ほんまに農村というところはわからん・・・でも感心したのは、彼らが地主を訴えることなく、高い授業料だったと納得して先へ進んだことである。なぜなら、「訴訟している間に老いるから」だと・・・そうか、私も自分の置かれた苦境を苦しむばかりでなく、なにかひとつずつでも前へ進めるようにしなければ、このままでは埋もれてしまう。考えさせられることの多い一日でした・・・いやいや、これからバイトや。今日は一人勤務の地獄や・・・ (;_;)
2013年12月08日
20131105 循環式精米機
晩稲の脱穀である。先ずは少量なので赤米を足踏み脱穀。
充分に乾いていたとみえ、籾は見事に離れて落ちた。この赤米は長い見事な芒を持つ。
これを籾摺り機にかけると、野木が風選のダクトに詰まって機械が故障するので、このような循環式精米機の出番となる。
この精米機は籾から白米にまで仕上げることが出来るが、構造上、少なくとも10kg程度を入れる必要があり、それを白米にするには数時間かかる。常に少しずつ擦られるので、籾・玄米・白米は混在して高温となり、私の食感では味が落ちる。そこで私はこの機械で芒だけを落とすのである。籾摺り機を動作させて投入口から籾を入れると、籾は画面右から下部へ吸い込まれてゆき、左手に押し出されてあがってくる。
そこには網のついた開口部があって、芒や籾殻やゴミが粉砕されて落ちる。
画面上が機械にかける前、下が後である。この状態であれば、普通の籾と変わらないので、籾摺り機にかけても問題ない。
精米機にかけてしばらく、芒がほどよく取れたら、排出口を開けて籾を排出する。
構造はいたってシンプルである。投入口の上から見たところ、画面右手の口から籾が吸い込まれて行くが、この中にミンサーのような螺旋状の摺り棒が回転していて、それは籾を擦りながら右から左へと送りだす。舌のように見えるスライダーは、レバー操作で吸い込み量を加減できるようになっている。摺られた籾殻や糠やゴミは粉砕されて底の開口部へ落ち、もみは左手の口から投入口へ循環してくる。それで循環式精米機というのである。左手についている押さえ金具は、これもレバー操作で上下に動き、戻ってくる籾の量を加減できる。つまり、金具を押し下げる位置でレバーを固定しておけば、底部で摺られる時間が長くなって、より圧力がかかる。解放すれば弱められる。これで摺り加減を調整する。投入口には、常に摺られる前のものと摺った後のものが混在するので、この機械は、つきっきりで投入口にある籾を撹拌しなければならない。面倒といえば面倒だが、手作業で籾摺をする苦労を思えばありがたいものである。しかも、この機械は動力が外付けになっているので、電気が使えなくなっても、工夫すれば最悪人力で回転させることもできる・・・たぶん・・・
螺旋状の回転する摺り機の部分である。排出口を解放して見ている。
20131104 亦楽園
麦蒔き用の畑を整地しようとして、蘖の稲の切り株を草刈り機で均しはじめたのだが、まだまだ土がぬかるんでいるので、大雑把に排水用の溝だけを切って時期を待つ。夕方からのバイトまでに時間が空いたので、武田尾の「亦楽園」というところまで歩いて行く。これは武田尾駅から旧福知山線の廃線あとをしばらく南下したところから山の中に入る。
http://www.hyogo-green.net/asahi_04.html
紅葉には未だ早く、しんしんとした静けさの中に、先人の遺志の気配を感じる。
道は曲がりくねって険しく登る。
小一時間ほどの精神の散策である。廃線あとを見ると、今にもこの切り通しをDF50に牽引された出雲市行きの客車列車の長大編成が轟音を響かせて飛び出してきそうな錯覚に捕らわれる。
かつての福知山線は、絶景の渓谷美の中を走っていた。車窓から見えるパノラマの美しさは、他に喩えようがないほどだった。
20131103 文化の日 ??
早く部屋を片づけなければならないのだが、稲刈りその他一連の作業に、裏で作る麦まきの段取りを抱えてなかなかその時間がとれない・・・というか、晩稲の刈り取りが終らないと麦を蒔く圃場が空かないので、それから田んぼに溝を切って土を少しでも乾かして今月中旬までには麦を蒔かなければ・・・しかしその段取りが採れずに気持は焦り、そのエネルギーは、やはり創造に振り向けないと収まりがつかないので、こうして机やイスを作っている。
白とイタミーニョス・グリーンに塗装して中庭の空気を一新・・・
いずれも廃材利用のカネのかからん遊びだが、裏庭にも作業机をしつらえて・・・
ウッド・デッキとともに楽しめる空間を・・・そうなのだ。何もかも八方塞がりでうまくいかない。自給自足に軸足を置いた生活を自然農で支えようとしているが、その考えを友達と広めようとしても、農地は地主からの借り物であり、地主は「自分たちのゲレンデにされるくらいなら草ボウボウになった方がマシ」と言って利用権の設定はさせてくれないし、誰が通報したのか農業委員会からは「モグリ営農」者は生産・広報の一切をしてはいけないと行政指導されるし・・・農作業日誌 ?? つけておりますよ、公開しないだけのことです・・・新天地を求めようと出て行くにもカネはないし、カネを稼ごうにも採用してくれる企業はないし、あったとしても50代の独身男性に家や農地を貸してくれる農家もない・・・となれば、誰に何と言われようと自分の思った通りを無理やりにでも実践して形にしていくより他はない。環境が俺を規定するのではない。俺が環境を作るのだ。自分が楽しめなくてなんの未来があろう、なんの魅力があろう、なんのために仕事を捨ててここに7年もがんばっているのか、なんのためにこの時間を作ったのか、まるでわからなくなってしまうではないか。そうだ。今与えられた環境を最大限楽しんで、最大限できることをやるしかないだろう。ヤクザやごろつきの家に間借りしているわけではない。ここには雨漏りしない部屋と、満足な台所と風呂があるし音楽も好きなだけ聴ける。家を自分で建てるといっても、この環境までこぎ着けるのに、どれだけのカネと時間と知識と技術を必要とするか・・・知れば知るほど気が遠くなる。たしかに自分で家を建てるのは夢である。しかし、ほとんどまともな仕事についたこともなく、したい放題三昧をして、世界を放浪し、思うところあって百姓なんぞして気ままに生きている私が、家を建てようなどと・・・夢は夢として置いておいた方がよさそうだ。
というわけで、どうにか塗料も乾いたことだし、意を決して部屋の不用品を片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ片づけるぞ・・・・これは何十年も前にカセットを整理しようとして買った結構しっかりしたお気に入りの収納ケースだったが、既に一千本を超える本数では90本収納できてもめんどくさいだけやし・・・思い切って・・・
これもレトロでお気に入りの学習机用の本立てだが、これも思い切って・・・
想像力を存分に働かし、不用品を徹底的に断捨離したあとで、懸案となっていた台所の改造に取りかかる。水屋の戸を取り払い、食材は食材でまとめて・・・
食器も必要最小限に抑えて、一ヶ所にまとめて収納。非常にすっきりまとまったので、取りあえずこれで実用になるか試運転を重ねて、OKならば決定して各所をきれいに掃除する。その頃には麦蒔きも終っているだろう。
20131014 森のめぐみ
毎年楽しみにしている「フルグラ・森のめぐみ」が今年は発売されなかった。この件についてのプレスリリースはなかったようだが、カルビーのサイトを見ても「森のめぐみ」はないので、どうやら発売中止らしい。「森のめぐみ」は、「フルグラ」の秋から冬にかけて販売される季節商品である・・・いや、であった。季節商品にはこの他に、春から夏にかけて販売される「南国トロピカル」があった。写真のものは今年の春に、「南国トロピカル」が配荷されはじめたときに流通在庫として残っていたものを買い集めたもので、もう賞味期限は切れている。しかし、これが最後の一袋・・・カルビーも早まったものだ。シリアル市場は、今や「グラノラ戦争」と呼ばれ、カルビーは日本の加工食品メーカーとしては、閃光のような商品を開発した。それまで私の味覚に合ったシリアルがなく、カルフールが輸入したフランス製のオーガニックなグラノラが辛うじてユーラシアの麦の香りを届けてくれていたが、この「グラノラ」は、それを遙かに凌駕した。もちろん定番の「フルーツ・グラノラ」は、まだ日本人の舌に阿ったところがある。しかし「森のめぐみ」は、そこへメープル・シロップを加えることで一線を超えた。一方、「南国トロピカル」は、ココナッツ風味を効かせることで、反対方向への一線を超えた。これらの季節商品は、発売当初は表記通り「期間限定」であったが、やがて売れ行きが伸びるとともに、半年ずつどちらかが通年存在するようになった。各社、「グラノラ戦争」に乗り遅れまいと、新商品を投入してきたが、いずれも切先が鈍かったり脇が甘かったり大衆に迎合したりしていて、カルビーの敵ではなかった。この3商品は、シリアルの本家「ケロッグ」なみに高かったが、それでも良く売れた。それは、3種類のバリエイションがあってこその売れ行きだった。今年、たぶんなんの予告もなく、カルビーは商品を一本化した。おそらくはコスト削減のためだろう。しかし主役というものは、名脇役があってこそ引き立つのである。カルビーが「フルグラ」を一本化したことにより、バリエイションを楽しんでいた顧客は失望し、他の商品を試すだろう。しかしそこに満足はない。人は「フルグラ」を食べなければ死ぬわけではないから、彼らは他の味覚を求めて離れていくだろう。また、別の顧客は「フルグラ」だけでは飽きてしまい、やはり他社のものに流れる。そこにはかなりの価格差があって、いわば盲目的習慣的に「フルグラ」に手を伸ばしてきた客は、安いPBを買うようになるだろう。ここに「フルグラ」の孤高の神話は崩れ、価格競争が泥沼化する。やがてカルビーはさらなるコスト削減を迫られて「フルグラ」の品質を落とさざるを得なくなる。そうすると、客の「フルグラ」離れに一層の拍車がかかり、せっかく築き上げた牙城を、自らの手で崩してしまうことになるだろう。食品業界で20年近く新規商品の販促で生きてきた眼から見るとそう見える。
気を取り直して、行く夏来る秋畑の野菜の天ぷら定食でランチ、夕食は豚段バラと豚足たっぷりのこってりフェイジョアへアヘ・・・・
20131013 収穫の秋
稲刈りを終えた田んぼからコシヒカリの蘖・・・たしかに細い。
畑は順調・・・8月末に種蒔きした大根が早くも頭を出してきた。大根作りの秘訣は、ずばり蒔き時と間引きである。
堆肥置き場脇のこぼれ種のトマト・・・酸っぱいが土の味がした。
日本の夏が苦手のピリピリちゃんもようやく結実。
サツマイモ、左がタマユタカ、右が鳴門金時・・・割れないうちに、今年は早めに収穫。
菊芋は初めての栽培。茎の枯れたものから採ると思っていたが、枯れているものは芋も出来ていない。試しに未だ生きている株の根元を掘ってみたら、ショウガに似た小さな芋が出来ていた。
10/31 サツマイモ収穫。例によってタマユタカは暴れ芋で、株元から遠くに結実しているものや、形や大きさがまちまちで、大変個性に富んでいるが、今年は割れは少なかった。早速cafeminhos名物「白サツマイモの竜田揚げバジルソース添」
20131010 地球研IS研究会
2013/10/10 地球研IS研究会「全球的な食リスク回避のための生元素循環管理」平成25年度総合地球環境学研究所インキュベーション研究・・・というものが京都の総合地球環境学研究所で行われ、喚ばれて参加してきた。久しぶりに深泥池の縁を通って・・・
この場所、通称「地球研」・・・野球拳ぢゃないよ・・・初めて行ったが、いやなかなか寛げる学究的空気に満ちあふれとってよろしおすなあ。着いたのが昼過ぎであったので、持参の弁当をどこかで食って良いかと受付で訊ねたら、奥に食堂があるのでごゆっくり、と案内してくれた。そこで昼食を摂って、上の写真に写ってるねーちゃんたちのひとりにここで弁当箱洗うて良いかと訊ねたら、画面右手のキッチンはどなた様もご自由に使ってよろしいんですのよ、と教えてくれた。いや私ね、京都というところでイヤな目ぇに会うたことが一度もない。仕事でもプライベートでも、用があるときも通り過ぎるだけのときも、ほんまにただの一度もないんですわ。よく言われるように京都の人はイケズやなんてウソや。京都には千年の都としてのコスモポリタニズムが定着してる。神戸や芦屋なんて、ほんまに一皮むいたらただの田舎で洗練の「せ」の字もない。よって屢々ムラ社会特有の窮屈で偏狭で陰湿なイジメに遭う。論理のすり替え、欺瞞に満ちた詭弁、独断と偏見・・・まあええ、愚痴はやめとこ。
私は学者ではないので研究発表をする訳でもないのだが、ここへ来たのは、そもそも赤目自然農塾の川口さんに紹介してもらった金子信博教授に誘われたからであって、何故誘われたかというと、自然農に取り組んでその実際について一通りの説明が出来ることと、紹介された当時、仕事を探していて、金子教授の海外プロジェクトに参加しないかというお誘いを受けていたからである。その話は、結局年齢制限があって実現はなかったのだが、上のような研究テーマに取り組んでおられる日本の学者の方々と直にお話できる機会が得られたのは、真に貴重な体験であった。
さてプログラムの概要は、要するに持続可能な農業のあり方をめぐって、農業者・農学者・土壌科学者・地質学者・微生物学者など、それぞれの立場から、上のテーマについての「ざっくばらんな」自由研究を発表する、というものであると理解した。つまり例えば、一定の条件の土を採取して、そこで微生物などを培養するのだが、何かの元素がある場合とない場合とで、その生育にどのような変化が生じるか、という研究を積み重ねて行って「持続可能な農業のあり方」に結びつけよう・・・あるいは、結びつけれるかな、という話である。そのなかに、不耕起栽培による土壌の変化の研究があり、あの有名な「奇跡のリンゴ」の著者による生物多様性の研究もあった。
もちろん議論されていることの大半は学術的な内容であるので、その詳細については理解できなかった。しかし思えば、自然を対象にした科学的究明というものが、果たして可能なのであろうか・・・私の預かっている一反の田畑でさえ、いやそのうちの一畝でさえ、刻々と変化する土の状態を分析し追求し検証し、結果を総合して、科学的に土の状態を究明するには、膨大な時間と労力、瞬発力、経済力を要するように思われる。しかも、分析されたデータが何を示しているかを判断することが、果たして人間に可能なのか、それを農民にどう伝えるのか・・・しかも分析は無限に繰り返されるであろう、そのようにして総合された全体が果たして「自然」であるのか、科学の方法というものが、果たして「自然」を認識するために有効なのか・・・とてつもない絶望感というか、無力感というか、近づこうと思って探求すればするほど、果てしなく遠ざかって行くような、なにか切ない、やるせないものを感じた。
会の主旨はインキュベーション研究であるので、研究のアウトラインだけでとりあえずは良い筈なのだが、議論は白熱し、大半の研究発表では、その検証のしかた、検証結果から結論へと至る過程に、各方面の研究者から疑問が投げ掛けられた。特に若手の研究者がある推論をするのに、同じテーマで何十年も前に獲得された成果を顧慮していない、と熟年の研究者から指摘されて発表を進められなくなったり、まあいろいろあって、発表予定者を消化しきれないうちに時間切れとなった。
そのなかで、農法の歴史を研究しておられる教授の話が実に興味深かった。それは、第二次世界大戦後に今の「慣行農法」が確立する以前、つまり農薬や化学肥料や大型機械のない時代に、どのように農業が行われてきたか、その実際のことについてである。これは、この冬の私の研究テーマとしたい。もちろん江戸時代には農薬も化学肥料も存在しなかった。糞尿を肥料にしたというが、それは江戸や大阪の都市近郊のこと、小魚を肥料としたのも、それらが余って困る漁港周辺の限られた地域で限定的に行われていただけであって、大正時代までは、無肥料無農薬が当たり前だった。第二次世界大戦の軍需産業で開発された化学兵器が、「平和利用」される形で農薬や肥料として大量使用されるまでは、それらは高価過ぎて一般の農家には手が出せなかった。また、牛や馬による動力の利用も、一部の裕福な農家などに限られていた。「耕す」という言葉が「文化」の語源であるように、農業は耕すことが基本と考えられているが、それは現代人がイメージするように、大型機械が地表何十センチも大きくほじくり返して、その状態が均一で平坦に何反も続く、というものではない。せいぜい地表5センチ程度であり、「畝を立てる」という基本動作も、土を寄せて盛り上げるのではなく、排水路を確保するために溝を切るのが目的だったという。「代掻き」の起源は古いが、現在でも代掻きではあまり深くロータリーを入れないようにと特に注意が喚起されているように、表面の極く一部を撹拌するのが目的であり、一反程度の面積であれば、充分人力でこなせる作業であった。要するにそのくらいでないと、諸作業を含めると、農繁期に人力で出来ないのだ。つまり、「慣行農法」と名前があるが、1万年の農業の歴史から見れば、たかだか70年の事を指しているのである。
翌日、「赤目自然農塾」へ皆様をご案内するために近鉄赤目口駅で待ち合わせ。本来ならば桜井市巻向の川口氏ご本人の田んぼを見学するはずだったのが、ご本人の体調不良で急遽中止となり、私が皆様を引率して「赤目自然農塾」をご案内するという大役を仰せつかったのである。私は塾の代表でも何でもないし、何度か見学に行っただけで、赤目塾を皆様にご案内したりご説明できるほどではないのだが、急遽ということなのでやむを得ず引き受けた。私も川口氏の田んぼを見たかったし、学者の立場から質問されることに、川口氏がどうお答えになるかを聞きたかったのだが・・・ここ何回か塾の定例会もお休みになっているというので心配である。
何故塾の実習田ではなく川口氏の田んぼを見たかったかというと、塾の田んぼは極めて小さく区切られていて、月一度の集まりのためのショウ・ケースのようなものになっていて、実用としての自然農の状態を表しているとは言い難い。特に田んぼにおいては、不耕起で稲が稔ることを全員に体験させるために、乾燥に強く根張りの良い糯米が植えられている。しかし日常的に我々が口にするのは粳米であって、私が今シーズン、糯米の赤米は問題なかったのにコシヒカリの不耕起栽培には失敗したことからもわかるように、粳米の不耕起栽培にはコツがいると思われるからである。会の目的は、持続可能な農業のあり方を探求するのであるから、日常の食生活に足るものが不耕起栽培で充分に供給可能であることが実証されていなければ、視察の意味がない。という観点から見ると、これは明らかに空振りであった。いわゆる学者の皆様の反応はそうでもなかったが、農業に携わっている参加者からは深い落胆のため息が聞こえた。
さて私見を述べる。持続可能な農業のあり方について、近ごろの田舎暮らしブームや食の安全ブームで、これらについて考えることは心が豊かになると思われているが、実際に自給的生活を送っている私からすれば、とてもそんな生易しいものではない。自給的とはいっても日銭はある程度必要なので、現金収入は別途手配しなければならない。手作りの農産物では、とても商売に出来るほどの量が確保できないからだ。いきおい、毎日が農作業とバイトの連続となり、季節に追い立てられ、おそらく過労死がかなり近い。最近、力尽きることがよくあって、どうにも作業を続けられなくなり、意識が朦朧として体全体が痙攣しはじめる。こうなると、もうその場にへたり込むしかなく、なんとか体に鞭を打って自室まで這って戻るのである。それでもやらなければならないことは山のように控えている。季節の巡りは待ってくれない。一日遅らせれば二日の過重となってのしかかってくる。しかし、田畑にいると生命の安らぎを感じる。舌癌に陥った地獄の生活には戻れない。でもカネはない。この現実をどうするのか。
歴史をひも解いて、農民が豊かで幸せであった時代というものが、果たしてあったのだろうかと考えることがある。もし自給的生活や自然農で人々が幸せになれるのであれば、数千年の歴史の中で我々はそれをとっくに実現していた筈だし、百姓一揆も革命も歴史に登場しなかっただろう。そもそも民主主義という概念さえ必要なかったはずだ・・・と見てみれば、今の地獄は歴史の必然であり、持続可能な農業のあり方を探求することは、いわばこれに逆行することになる。そう、わたしは敢えて逆行せざるを得ないと思っている。私は学者ではないので直観的に結論を出す。
持続可能な農業のあり方・・・それは、いま目の前にある土がどのバランスで平衡に向かおうとしているのかを関知する直観を養い、それに沿うようにつき合いながら、ほんのちょっと自分の作りたいものを土からおすそ分けしていただくことである。土は千差万別で、人間が採るべき態度はその分析ではなく、バランスの取れた土ならばそれを崩さないように、崩れた土ならばその戻って行こうとする向きに逆らわないように、土からもらったものは土に戻し、多様性を維持しながら必要最小限の作物を栽培する直観を養うこと。不耕起栽培とは、土の原料たる植物の亡骸を移動させないということであって、千差万別である土の状態が望む平衡をそのまま壊さずに栽培するという方法である。逆に耕すという行動は、この平衡よりも人間の判断の方が優位であるという立場に立つことになる。人間はそれほど偉いか ?? 「土」ひとつとして人間は作り得ない。土は千差万別であって、その全てを耕す人が熟知しているとは到底考えられない。したがって、そこにあった土の原料はそこに戻し、つまり耕さず、他から持込まず、他へ持ち出さず、最小限の成果で糊口をしのぐことしか、人間には出来ないのではないか。
地球上の動物は、地球上に現れて以来、全て土から産まれたものを食して現在に至る。従って「土」が人間の生存に必要なものを過不足なく備えてくれていることは明らかである。それで全てであろう。それ以上のエネルギーを現在消費しているから問題になるのであって、人間が自然界の一員として消費して良いのは、自分の手にある土から産れるものだけである。これが持続可能な農業のあり方の全てである。しかし、それを実践すれば、人間にとって幸福が訪れるか、あるいは幸福な社会が実現できるか、これは全く別問題であり、自然農的生活が社会的に実現した暁には、それを搾取する社会構造も同時に実現している、言い方を変えれば、農法も社会も化石燃料を使う以前の状態に戻っているであろうから、結局のところその実践者たる農民は、江戸時代以前と同じ状態、すなわち日々の労働は自然との格闘となり、社会的には搾取の対象とならざるを得ない。それは、現在の田舎暮らしブームや食の安全ブームを希求する人たちの夢とはかけ離れている。
しかし、その時は否応なくやって来る。そこは極めて不衛生な泥沼だ。このまま行けば、人類はイブニングドレスやダークスーツに身を包んだまま、饐えた臭いの立ち上る泥沼にダイビングすることになる。泥を吸い込み目をやられ、怪我をした傷口からは細菌が入り込み、これを恢復する手段も残されていない。私は、既に阪神淡路大震災の時、それを疑似体験した。水の使えなくなった避難所では、流れるようなロングヘアをかき上げながら、てんこ盛りの排泄物の上に身を屈める若い女性、ドブや小川に降りて用を足す女性の姿を日常的に見た。ひと月もすると、それに違和感を感じなくなった。私たちは、自分たちの置かれた状況をよく飲み込めないまま、ある人たちはいずれ良くなると根拠のない希望を抱いたし、ある人たちは最悪の状態を想定した。いずれ良くなる・・・それは、震災以後の悲惨を全て忘れてその前に戻りたいという願いだった。しかし時間を逆に回すことは出来ない。そのことを認めたくない人たちは、なにものかにすがった。カネであったり宗教であったり集団であったり、いろいろだった。そのことを思い知った人たちは、生き方を変えることにした。泥沼へ軟着陸する心構えや方法について、予めよく研究して準備しておけば、泥を飛散させることなく静かにそこに降り立つことが出来るかも知れないからだ。いずれその時が来る。だから、願わくば地球研のこの研究会が継続し、そこに歴史学者や人類学者が合流し、過去に学んで事実を様々な角度から検証し、自然農による自給によって経済が周り、階級も生まれない社会制度が確立するのかどうか、それにみんなが満足する社会が本当に実現するかどうかの研究が、あっても良いと思う・・・ちょっと薄気味悪い気もするが・・・すくなくとも今の状態では、残念ながら私の結論は極めて絶望的だ。
20131009 CDラック製作
部屋の整理をしなければならないのだが、何かを生み出さないことには何かを片づける気になれないのであって、前々からの懸案であったCDを整理するための深い引き出しのついたタンスを、探しても捜しても見つからないので部屋の整理が進まず、えいやあたあで作ってしまおうと思い立った。
やると決まれば行動が早いのが私の長所でもあり短所でもあるのだが、今回は良い方に出た。安いコンパネを買ったついでに寸法に切ってもらって、楽に組み立て。
CDが入ることを確認。
全体のバリを落として、
前に作った基本のカホンとともに塗装。
20131006 切干大根を放置
20131005 晩稲栽培例 (代掻)
06/25 一方、インディカと赤米は晩稲であって、これらは麦の収穫を終えてから急ごしらえで畑を田んぼに変える必要があり、水はけの悪い土質では、その都度畝を崩すことになり、このように代掻きをする結果となる。代掻きといっても、水を入れてレーキで表面を均す程度のことだが、これだけでも全く不耕起とは様子が異なる。収穫は、この約2畝の脇田で50kgと例年通りの実りであった。品種は、インディカは「サリークイーン」、赤米は「紅吉兆」である (たぶん) 。画面奥で干しているのは、この部分から収穫したパン用小麦の「ミナミノカオリ」と「ユメシホウ」。
07/13 晩稲の場合、代掻きの時期が水生雑草の生涯を決める重要な時期に重なるらしく、通常、中稲の田んぼで悩まされるような雑草の繁り具合にはならない。
08/08 一度軽く除草に入っただけで、ほぼ放任に近い状態でここまで来る。楽である。あとは開花を待ち、様子を見守るのみ。
09/13 赤米も順調に開花したので、美しい赤穂を堪能したら、早めに3x3株に区切って支柱を立てる。倒れるからである。
10/22 インディカは全く問題なく稲刈りできた。収量も例年通り。刈り取られた跡を見ても雑草の痕跡がそんなにひどくない。
10/22 赤米は見事に倒れているが、支柱のおかげで水没を免れている。
10/22 こちらも雑草は問題にならない。
20131005 不耕起ウリ科栽培成功
06/08 一方、ウリ科は比較的うまくいった。キュウリやニガウリなどは、蔓が柵を上って葉を一面に繁らせるため、地面に生える草よりも遙かに独占的優位に立てるからであろう。また、地を這うズッキーニも、一旦活着すれば他の草に巻き付きながら大葉を広げて這い進むため、これも優位に立てる。
06/17 活着直後のズッキーニは、未だ周囲の草との競合の名残がある。
07/13 梅雨明けに夏草の勢いを一旦挫いておき、そこへ脱穀を終えた麦わらを敷いてみた。こうすることで実が過湿によって腐ることを防げると思った。この判断は正しかった。
力強く光るこの雄雄しき姿・・・
08/08 麦わらのベッドに乗って地這性のウリ科は良く実った。スイカも採れたし、
メロンも採れた・・・しかし、無肥料で出来るメロンはちっとも甘くないこともわかった。甘くするには油粕をやれば良いのはわかってる。しかしそれをやると虫が集ってくるので手間がかかる。メロンなど腹の足しにはならんから、これは出来たら天に感謝する程度でいいさ。
ブレて申し訳ない。左はトルコの白ズッキーニ、右はバターナッツ、まんなかは多分両者が交配したものであろう、バターナッツ型のズッキーニ。この方が種の処理をせんでええので下ごしらえが楽だ。色さえ気にしなければ、味も歯ごたえもズッキーニ。
大根を蒔いたところに匍匐前進してきたヒョウタンをかっ捌いて抜き取って何日か後に咲いた花。このようにウリ科は勢力が強い。オレ毎日この精力を頂いとるはずやのになんでや ??
20131005 不耕起稲作失敗例
川口さんの提唱するやり方の不耕起・自然農法を本格的にこの春から始めることにした。米作りについては、結果として約4畝で例年120kg程度採れる筈のところ、たった10kgの収穫に終ったので全滅といってよい。最大の敗因はコシヒカリで不耕起栽培をしたことだ。不耕起を決意する前にコシヒカリの種籾を手配してしまっていたからだが、コシヒカリという品種は、資財投入型の農業、すなわち農薬・化学肥料・大型機械を使って、大規模に安定的に、しかも日本人の現代の流行の味覚に合った米を作る目的で改良が重ねられて出来たもので、言い換えれば箱入り娘だ。特に今年2013年は、コシヒカリの登熟期に台風や豪雨が重なって、私の近隣ではほとんどの田んぼでこれが倒伏した。名前に反して極めて腰の弱い品種といえる。これを不耕起の田んぼで栽培しようということは、箱入り娘をジャングルに裸のまま置き去りにするようなものであって、その細い御身足は硬い地面にくずおれ、柔肌は生い茂る他の草に舐め尽くされ、産毛に包まれたデリケートな部分が虫や鳥たちに恣にされた。しかしそれは考えてみれば当然のことだった。
私という人間が、なんぼヤッてみんとわからん性格とはいえ、日頃から中東やコーカサスの紛争を聞いては「美女を無駄遣いすんな」と憤慨してるくせに、きちんと育ててやれば箔も着こうという花を徒に全滅させてしまった過失は真に許しがたい。しかし百聞は一見に如かず、失敗したとはいえそれは結果であって、その結果に行き着くまでのプロセスにおいて、多くの興味深い様子を観察することが出来た。これらはヤッてみないとわからんのであって、足を踏み外すことの出来ないプロの農家のご参考になれば幸いである。具体的に見ていこう。
上は2013/05/23、川口さんの本にあった田んぼの準備の写真を見て用意した田植え前の田んぼの状態である。川口さんのやり方によると、田植え前に代掻きをしないのはもちろんのこと、水管理も圃場を完全に水没させるのではなく、上のように適当な間隔を置いて切った溝に水が満ちる程度の半陸稲状態に置くということである。このやり方で試してみる。しかしこれを決意する以前の、昨シーズン稲刈り後と年明けに一度ずつ、田んぼ全体を鋤いてしまっているので、厳密には不耕起とはいえない。来シーズンのための礎である。画面奥はお隣さんの三反田、水がなみなみと張られてある。
田植え直前の頃、代掻きをしていないので昨シーズンのこぼれ種が発芽している。これがのちのち意外なことを教えてくれる。種降ろしは例年では4月の下旬に温湯消毒をして催芽し、発芽してから苗代に撒くのであるが、今年は自然農的に直接苗代に撒いた。4/22のことである。しかしここでも私は失敗した。川口さんの方法によるのであれば、苗代作りもそれに倣わなければならなかったのだが、ここをぞんざいにしてしまった。実はこの春は天候が安定せず、寒い日が多かった。低温続きで発芽が例年より遅れ、GWには発芽を見るべきものが5月中旬までずれ込んだ。あわてて圃場の隅を切って代掻きをし、急ごしらえで苗代として蒔き直したが、その後急に気温が上昇して苗も急成長した。6月に入ると蒔き直した部分を含めて苗は5葉に育ち、6/02に苗取りをした。このあたふたもコシヒカリにとっては望むところではなかったはずだ。
06/03 ちょっと水の多い畑のような状態のところへ田植えをする。川口さんの田んぼとの違いは、自然農では土が露出せず、土の上におびただしい植物の亡骸やいな藁が積み重なっているのに対し、私の田んぼでは冬までに耕起してしまったのでそれらは土の中に鋤き込まれている点である。代掻きをする一般的な水田では、圃場は泥であって、裸足か地下足袋か、田植え用の足に密着する長靴でないと入れないのだが、不耕起の田んぼは土が硬く、普通の長靴で充分である。田植えも、苗を持って片手でさっさと泥に刺していくわけにはいかず、鎌を持って植える場所の土を切り裂きながら、そこへ苗を差し込んで土で鎮圧していくので、両手を使い大変疲れるし、時間が通常の3倍はかかる。お隣の田んぼは、既に田植えを終えている。大型機械による田植えでは、苗は小さい3葉の状態で植えるので時期は私の田植えより少し早い。しかし種降ろしは標準の暦に従っているので苗そのものの生育はほぼ同じである。コシヒカリは8月の初旬に開花する。成長の状態を測るのはそこからの逆算になるので、田植えの時期よりも種を水に浸けた時期、すなわちそのときとそれからの温度の推移が成長を左右する。
06/08 3日がかりで4畝の田植えを終え、水位を上げる。手前は、急ごしらえの蒔き直し苗代の部分である。残っている苗はインディカと赤米である。これらの田植えは脇田に2週間後を予定していて、本田の田植えも一旦待ちとなる。お隣の三反田の苗は活着して色が濃くなっている。
07/13 畔に丹波の黒豆を植え、それらとともに成長するコシヒカリ。水際には水生雑草が出ているが中の方は様々な草に覆われている。田植えからここまでは、特に周囲の草に巻かれる状態は見られなかったが、念のため全体を除草している。方法は、地面が硬いので普通の長靴で入り、屈みこんで鎌で雑草の根元を切るのである。つまり両手で行うので、代掻きした田んぼよりも遙かに腰にくるし時間もかかる。5畝の除草にのべ10日かかり、それを2回繰り返す。
07/14 一方、これは同じ時期の赤目自然農塾の実習田の状態である。土を覆い尽くしているのは生きた雑草よりも枯れた稲藁など亡骸が多い。品種は赤のもち米であるが、私の作っている品種とは異なるようだ。晩稲であるので写真による単純比較は出来ないが、この時点では大きく外れていなかったものと思われる。
08/08 コシヒカリ例年通り順調に開花。もちろん分蘖は少なく草丈も低い。しかしこれ以後は除草に入ることが出来ないので、ここまでにどれほど雑草を押さえることが出来たかが、この後の彼らの命運を決める。抜けば簡単だが、抜くと不耕起にならないのでそこが我慢のしどころである。
08/08 こちらは蒔き直した急ごしらえの苗代部分 (画面の右半分) 。この部分は、苗代にするためにほんのすこしレーキで掻き均した。晩稲の田植えを終えたあと、その跡地を除草して田植えをしたのだが、それだけのことで、分蘖も草丈も全く異なるのがよくわかる。開花は遅れ気味だが、一部は開きはじめている。ここだけの比較では、あきらかに不耕起よりも代掻きをした田んぼの方が、稲の生育は良い・・・厳密にいえば、大きくなっている。
08/22 穂が垂れはじめる。分蘖が少ないことと、出穂した茎が更に少ないと見られることから、明らかに例年より実りが少ない。除草を絶ってから、暑い夏の日差しを受けて、徐々に雑草が稲を凌いでくるのがわかる。しかし開花後は田に入ることは却って穂を傷めるというので、じっと成り行きを見守るより他にない。コシヒカリと異なる濃い葉の色が所々に散見されると思っていたら・・・
09/05 なんとこれらは、こぼれ種から発芽した赤米であった。例年、晩稲を植える脇田では水田裏作に麦を育てるので、赤米やインディカも、コシヒカリを片づけたあとの本田で干すことにしている。だからこぼれ種は毎年あるはずだ。しかし例年は田植えの前に代掻きをするので、こぼれ種は死に絶えるのである。代掻きをするということは、このように田植えをする苗にとって極めて優遇された状態に置く。逆にいうと代掻きによって、ほとんどの種は死に絶える。極めて除草効果が高いことがわかる。
09/17 お隣の三反田は先日稲刈りを終えられた。こちらも適期を迎えているが、雑草の繁茂がひどい。稲刈りはこの中に屈みこんで入り、コシヒカリの株元だけを見極めて刈り採って集めていくことになる。
09/19 この稲刈りは難航した。なぜなら、場所によっては他の品種の稲や雑草と混在し、このように分蘖した側枝も枯れ落ちて息も絶え絶えに一本だけ稔っているものも多いからである。これらを見分けて刈り取りながら進む。
09/19 同じ条件下で品種による生育の違いを見るために、こぼれ種から発芽した他の品種の稲も等間隔に間引きしておいた。この違いを見よ。
10/10 やれやれ。これだけ集めても10kgの収穫だったが、教訓の多い米作りでした。来シーズンは品種を変えて、陸稲でもいける、兵庫県に適した品種を捜して、更に不耕起栽培を試してみたいと思います。