2014年02月05日

20140205 補足説明その2

 皆様より様々なご提案、アドバイス、励ましのお言葉を頂き、心より感謝いたしております。先のシェアは農林水産省への問い合わせで、フォーム入力に字数制限がありましたので、要約して書かせていただいたものですが、お寄せ頂いた疑問に答えるには、もう少し補足説明が必要と思われますので、加筆させていただきます。

 私が現住所に移ったのは2007年のことで、その5年前にここに住まわれていた地主のおばあさんが亡くなり、空家になっておりました。私は当時西宮市の都市部に住んでいて、主に食品業界で営業をしておりました。2002年頃に地主と知りあい、通いで農地3畝程を借りて野菜作りを始めましたが、やがて心安くなって、空家の管理に手が回らない地主と、田畑を耕作して自給的な生活をしたかった私の思いが通じて、この屋敷への移住が実現しました。

 私は正式な賃貸契約書を用意しましたが、地主の事情で書面での契約は出来ませんでした。それは、この家は地主家の本家にあたり、親族は売却にも賃貸にも反対、しかし管理は筆頭者である地主に迫ってくるという事情で、それを打開するために「住み込みの管理人」を置くという形を執ったからです。私は当時、田畑を貸してもらえるなら身分などどうでも良かったし、それまでにも何件か農家を貸してもらえる話があったのですが、どれも話を詰めていく段階で無理難題や難色が示されたりした経験があったので、この話に乗りました。今から考えれば迂闊だったと思いますが、当時としては農的生活を始めるにはそうするより仕方がなかった。

 数年貸農園に通って、それを耕作出来たからとはいえ、地主にとって、私がどれほど農作業出来るか、定着出来るかは未知数だったと思います。都市から農村に憧れを持って通って来たり移住してくる人たちを何人も見ましたが、そのほとんどは結果的に途中で投げ出して去っていきましたので、地主の気持は理解出来ます。だから手始めとして、彼は自分の農作業や少なくとも農地の管理を手伝ってほしいと期待したのでしょう。しかし、私は自給的生活に基礎を置いて、そこから持続的な生活のあり方をこの農地で考えたいと思っていたので、自分の好きなものを、自分なりのやり方で試行錯誤したいと思っていた。もちろん、屋敷や農地の管理はする前提の上でのことです。

 初めは、地主と同じような作り方をしていたが、だんだん独自のやり方を身に付けていった。農薬は当初から使わなかったが、牛糞などの有機肥料は使っていたし、除草は手作業でまめにやったし、土も良く耕した。しかし、やがてこのやり方に疑問を持つようになり、まず肥料を施すのを止め、次に除草を最低限とし、最後には耕すことも止めた。なぜなら、肥料を施した方が良いと考えるのは、自分の判断の方が自然の摂理よりも勝っていると考えることであり、除草を加減したのは、草があるおかげで土は乾燥せず、土を舞台として様々な生命の連関が見られ、その方が良いと思ったからであり、耕すことを止めたのは、こぼれ種に蒔き時を教えてもらうチャンスを失うからで、これらの総合体を「自然農法」ということは、後から知った。

 こうしている間に、私が農的生活を始めたことを伝え知った友人たちや、日々の作業を綴ったブログを見た人たちが集まってくるようになり、自然発生的にグループが出来た。私はこれを「farminhos (ファルミーニョス=小さな農夫たち??) 」と名付けて、決まった連絡方法をとることにした。リスト・メンバーの数は、最も多いときで百人近くにもなり、私の田畑での作業だけでなく、地主や友人の農家を手伝ったり、近隣農家の田植えや稲刈りを、事実上無償で請け負う形になったこともある。農家は金を払うと言ってくれたが、みんなボランティアで喜んで来てくれたのだから、交通費と昼食だけにしてもらった。この活動は、懇意にしてくれた近隣農家数軒に対し、3年間続けた。活動は、自治会の会報や地域の新聞に、新しい草の根の取り組みとして掲載された。私は、大阪からほど近いこの静かな農村が、このようにして後継者不足を解消出来て、それが食の安全に寄与することになれば、そんなに良いことはないと思った。こうして一件ずつ賛同者を増やしていきたいという思いで、仲間とも話しあったし、仲良くしてくれている近隣農家の人たちとも話し合っていた。「おかげで今年は農協にカネ払わんで済んだわ」と言われたが、「ウチも頼む」と言われたのを、段取りが確約出来ないので断ったこともある。

 しかし、グループ活動の維持は簡単ではなかった。鎌や鍬を持ったこともないくせに農法について対立が起ったりした。私はグループでの農地利用のあり方を考えざるを得なくなった。共同作業にすると分け前でもめる。自由参加にすると収穫時にしか来ない。貸農園にすると手入れしない人が出る。体験農園にすると自由がなくなる。こうした模索が本格化し試行錯誤が進み、farminhosとして拡張を望みはじめた頃から、地主の顔色が悪くなった。私の頭越しに直接メンバーに強い調子で言葉が投げ掛けられたりした。やがてそれは、彼がここでのリーダー・シップを侵されると感じはじめたことの現れではないかと気がついた。私はもちろんそんなつもりはない。地主の元に返されてくる農地の作り手を養成することは、直接彼の利益になるはずだし、そのための相談も怠りなく大筋では合意出来ていたはずだ。しかし、確かに我が物顔で母屋を使い、彼の活動とは別個に盛り上がっている状態は、彼にとって自分の屋敷にいづらくなることには違いなかった。結果的に、私はfarminhosを活動休止にし、現在は一人で出来ることだけをやる規模に縮小している。

 一方地主も、持て余す農地の管理をするために、地元の有志や学校と連携して、農作業や野外活動を体験するNPO法人を運営している。ただ、その本拠はこの屋敷ではなく、都市計画区域内の彼の自宅である。野菜作りでは、畑の脇に肥料を山のように積み上げて、野菜を作るにはこれだけの養分が必要だと説き、除草・整地・畝立を美しく仕上げ、畑のあるべき姿を教えている。しかしその横で、私は肥料も与えず、除草もそこそこ、耕すことすらしないで、友達と畑ごっこをして遊んでいる。作物が採れなかった当初はそれで良かったのだが、やがて自然の循環が回りはじめると着実に収量が上がり、やがて地主の田畑を凌駕する程になった。今では私には農夫のプライドというものがよくわかる。私は自分なりのやり方で、全てを自分で判断して穀物や野菜を栽培し、それを加工して貯蔵し、着実に農的生活を実現していく、そしてそこに人が集まってくる・・・このことが、彼のプライドをいたく傷つけているのではないかと想像する。しかし後戻りは出来ない。

 そのかわりと言ってはなんだが、共有部分の手入れや交渉は、彼の分も私が引き受けている。自分のところだけでなく、地主の田畑の周囲も、殆ど全て私が草刈りしているし、地主に代わって隣保組合・自治会・水利組合の用事も全て引き受けている。特に水利関係は、私も水を使わせてもらっているし、地区は高齢者が殆どであることから、台風や大雨の後には、水路の点検や掃除を、当番でなくても自発的にやっている。これは当然のことと思っているが、あるとき組合の人から「君にないのは権利だけやなあ」と言われた。話を良く聞いてみると、私は組合員が負うべき義務以上のことをやっているが、農家登録がないので組合員になれないということだった。そのとき初めて農家と非農家というものがあると知った。

 農業委員会から行政指導されたと書いたが、詳しく言うと、2012年の田植えの直前、農会長を名乗る人が来て地主に伝言を頼まれたのである。地主は普段はここに居ないからだ。内容は「無許可で農地を使っている実態を改善するように」ということで、農会長はそれだけを言い残して帰っていった。つまり彼は、私が当事者であることを知らない。当時、地主と私の関係は非常に険悪な状態だったので、この件は直接伝えず、自分で調べて「無許可で農地を使っている実態を改善する」には、私が農家になる以外道がないことを理解した。そこで、彼の機嫌の良いときを見計らって、農家になるためにはどうしたら良いかという一般論を訊く形で、彼に農地の利用権の設定について打診してみた。すると、だいたいの法的要因について説明してくれた後、法律上、私は彼の手伝いという立場になっていることがわかった。私が農家になろうと思えば、彼の農地を継続的に利用することの証明がいる。しかしそれを渡してしまえば、その分の国からの保証金がもらえなくなるので不利になるという話であった。だから利用権の設定は出来ないのだと。しかし調べてわかったことは、それは当時、年間1万いくらかのことなので、その分を補填するからと申し出たが、今度は別の理由をつけて断られた。要するに嫌なのである。関係をこじらせたくないので、それ以上は追求しなかった。私は自治会長に相談して、取りあえず事情を農会長経由で農業委員会に伝えてもらうことにした。だから、その時点でそれが行政指導であったかどうかは不明である。

 その年の冬、地主に重篤な病気がある事がわかって、とても農作業を続けられないというので相談を受けたとき、私一人で彼の農地を切り盛りする事などとても不可能だから、友人たちを集めて先ずは3反、うまくいけば1丁程度をなんとか出来るよう努力しよう、ただし、一切を私に任せてくださるのならば・・・と申し上げた。その際に返ってきた返事に私は耳を疑った。「他を受け容れず、自分たちのゲレンデにされるくらいなら、草ぼうぼうになった方がマシ」・・・しかし後継者のいない近隣農家から、庄屋である彼の許へは、前年の秋から続々と農地が返されてきた。それを後継者のある別の農家に作ってもらうように頼みに行ったり、彼のNPOで使う農地を拡張したりして凌いだ。もちろんその作業も手伝った。もめている間に草ぼうぼうになるからだ。

 翌2013年の田植え直前、別の農会長を名乗る人が来て、地主に対して同じ主旨の伝言を残していった。「農会長」は輪番制らしい。農繁期に入って忙しかったが、仕方なく私は農業委員会へ出向いて、事実を確認しようとした。しかし農業委員会が言うには、私には農家登録がないのでお答え出来ないということだ。非農民は行政指導の対象にならない、行政指導の対象者は地主であって、本人からの問い合わせがあれば、本人にはお答え出来る、とのことだった。そこで一般論として相談に乗ってもらおうと、農業関連法規が何をどのように規定しているのかを、私がしてきたことややろうとしていることに則して訊いてみたのだが、どうにも話がかみ合わない。例えば、安全な食を求めて移住した私のところへ友人たちが農作業を体験しにやって来るというと、それはまずいと言う。ではどこがどう違法なのかと訊いているのに、隣近所の田畑の畔に車を止めたら苦情が出るとか、夜中まで騒いだことはないかとか、無関係な話にばかりすり替えて、何度も問い質して漸く次の言質を得た。農民でない私が農地を触る場合、農民である地主の手伝いという立場でなら黙認出来るが、地主が現場にいない状態で農民でない私とその友人たちとが勝手に農地を触っているとすれば違法である、なぜなら農地のまた貸しにあたるからである、ということだ。安全な食を求めて実体験を通じて試行錯誤することが、なぜ農地のまた貸しにあたるのか、そうしなければ農民でない者が安全な食について知り得ないではないか、と問うたが、そういう話は貸農園でやってくれとばかりにパンフレットをくれたのだ。では一反の田んぼを貸してくれる貸農園があるのかと問うと、ご自分でお探し下さいという。あるはずがないのだ。貸農園などには別の法律があって、広さや料金について細かい規制がある。一反もの田んぼを貸農園として一括で解放すると、近隣農家と利害が対立しかねないので許可されるわけがないし、できたとしても賃貸料が高額になり過ぎる。わかっててこういうことを言うのだ。ひととおり辛酸なめて舌まで切っとんやこっちは・・・早よ全部吐かんかいやコラ!! 長時間かかったが、そこで農業委員会の一般的見解として確認出来たことは、「農民」でない者が、「農家」に居住すること、「農地」を生産手段として使用すること、「農地」をまた貸しすること、「農地」から得た収穫を利用すること、「農地」の維持以外の行動をとることなどは、全て違法行為であるということだ。そういうことがあれば、借り主ではなく、貸している地主に対して行政指導が行われると。私は重ねて問うた。では、その根拠となる法律の条文を示せと、答えは、これは法律の解釈であるので総合判断であると。では地主に対して文書で通達せよと申し上げたが、本人からの要求がなければ出来ないと・・・。

 先に「私は正式な賃貸契約書を用意したが、地主の事情で書面での契約は出来なかった」と書いたが、真実は農家登録の問題があったからだと思う。制度では、農家登録というものは住民票の所在地で登録され、代々世襲されていくものである。この屋敷は地主家の本家であるので、農家登録がある。私は本格的に農業を始めようとしていた。いずれ農家になりたいと言い出すだろうが、その時期は本当に出来るかどうかを見極めてからで良い。長期的展望ではない、その頃には風向きが変わっているかも知れないから。農家はそういう考え方をすることが多い。だから、あらかじめ農家登録に言及することは避けて、親族の意向ということにしておいたのではないか。農家登録は、たとえ空家になっていても登録自体は残り、同じ住所地で別の家系の者が農家登録することは出来ない。これは農業委員会で確認したことである。とすれば、耕作放棄地や空き農家はこれからどんどん増えるのに、新たに農家登録出来る空家はほとんどなくなり、新規に就農したくてもますます困難な事になる。

 どれだけの法律が、農業や農民や非農民を規定しているのか、私にはわからない。だいたい農業委員会という組織が先ずわからんし、農協・農会・農事組合・・・いろいろ団体があって更にわからん。それに行政指導というものがわからんし、これを守らなかったらどうなるかもわからん。本当に行政指導3回で行政処分なのか、そもそも法的根拠が全くわからん。日本は法治国家であるので、法を犯せば罰せられるであろう。そして、いくつかの法律を総合的に判断すれば上のような解釈が成り立つというのであれば、私のやっていることは違法行為になりうる。しかし、私のやろうとしていることは全く当然の正当なことであり、犯罪などではない。しかも、私は法律を守りたいから、守り方を教えてくれと頼みに行ったのだ。それに対する答えが上のようであっては、守りたくても守る術が無く、守っているつもりでも、いつどのような解釈で罰せられるかわからない。私は上のような解釈は詭弁だと思う。これがまかり通るというのであれば、法律など為政者の都合の良いように、どうにでも変えられるであろう。改正なんて面倒な手続きもいらない。もしそうであるというのなら、私の行動を違法とした解釈について、それを確定し、ひとつひとつ突き崩していく以外に方法はない。だから私は真実を知りたい。その上で対策を考える。さらには、日本の農業の持続的な生き延び方について、真剣に提案したいと思っている。

 もちろん、こうなってしまったことの直接の原因は、だいたい察しがつく。それはいくつかの要因が重なっている。ひとつは、キレイな農地を以て良しとし、雑草のある農地を嫌う人がどこかに居て、その人が通報した。または、たった数件とはいえ、farminhosの援農活動に仕事を奪われた農協が通報した。あるいは、私のところに都会から人が集まってきたり、楽しそうにいろんなことをやっている実態を悪く思う人が通報した。なぜなら、農業委員会でこうも言われたからだ。「米や野菜を作って、小麦を栽培してパンも焼いて、ハーブやスパイスを使った料理まで作って、いろんなことを実現出来てるじゃないですか、贅沢ですよ。ほとんどの農家はね、農薬に目をやられて化学肥料に手があれて、機械のローンに苦しんでるんですよ、それでも喰えないから働きに出て休みの日に農作業して、その横で楽しげにされたらどう思いますかねえ。」これが行政機関の言うことか ?? 日本の農業をそんな風にしたのはお前らではないか。それに、私は自分の欲得でこれをやっているのではない。持続可能な生活様式を提案しているのだ。農業委員会に何を訊いても無駄である。そのような目でものを見ていったら全てに疑いの目を向けなければならなくなる。farminhosに参加して意見の対立から去っていった人たちや、地主との軋轢・・・それを個人的な個別事情と捉えるのではなく、そこに農村・農家・農民という精神的風土が滲みだしているから、私はシェアしたのだ。それが結局自分の首を絞めていることに気付かないばかりか、それを農家の既得権益と履き違えて守ろうとする。明日のために何が出来るかを考える姿勢はなく、明日を考える者の素朴な疑問を煙に巻く。これが農村に蔓延しているからシェアしたのだ。これが行政機関の言うことか ?? もちろん私にはわかってる。この屋敷に住んでいて、この圃場を使っている人間を知っているのは、極く限られた人たちだけだから。可能な対策はここを去ることだということもわかってる。しかし、それでは何も解決しない。次の人がまた同じ目に合う。だから問題を突き詰め、結局のところ農水省に問い合わせた3点に絞り込んだというわけだ。すなわち・・・

 

1. 第一種農地において、肥育管理を農地利用の条件から外してほしい。

   この考えが農法の多様性を排除する。多様性のない種は滅亡する。これは科学が証明している。


2. 効率的で集約的な農地利用を推進する余り、個人の自給的な農業のあり方を排除しないでほしい。

   化石燃料は枯渇する。人力で出来る農業は従事者の約5倍の食が賄えるが、熟練には年数がかかる。

 

3. 農家登録の必要条件を緩和してほしい。

   農業を放棄した農家が資格を占有し、農業を志す無資格者が入れない矛盾を解決すべきである。


 農水省がまともな組織であれば、私の言っている意味がわかるはずである。農業委員会には上から行政指導してもらわなわからんやろ。気遣ってくれた皆様、ありがとうございます。だいたいこんなわけです。

posted by jakiswede at 23:50| Comment(0) | farminhos | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140203 Praktiflex FX

 

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 Praktiflex FX Nr.79528


 一眼レフカメラは、「カメラ・オブスキュラ」というものが原理である。これは、レンズを通ってきた光をミラーで直角に進路を変え、その先に設置されたすりガラスなどに画像を映し出して観察するもので、おもにデッサンに使われた。ミラーの中心点からスクリーンまでの距離と同位置に感材 (すなわちフィルム)を置き、その直前に開閉できる遮光板 (すなわちシャッター) を配置し、ミラーの退避、シャッターの開閉を制御できるようにすれば、感光材に適切な画像が得られる。ミラーを置くのは、感材に投影された像を直接観察する事が難しい、なぜなら感光してしまうからであって、感材とは別に観察用のスクリーンを置く事で、画像をゆっくり観察できるようにするためである。このカメラは、そういうシステムを、35mmロール・フィルムという小さな画面で精密に小型化したものといえる。


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 それまでのカメラは、撮影レンズを通る光路と、被写体を観察する光路は別になっているものが主流であった。箱形で、撮影レンズの上部にいくつかの窓が並んでいるのはそういうカメラである。撮影者は、ファインダーを通してそのいくつかの窓から被写体を見て、フレーミングしたりピントを合わせたりする。そして合点がいったらシャッターを切るのだが、このシャッターは、撮影者が見ている光路とは別の撮影用のレンズに装備されている。しかしフレーミングするにしてもピントを合わせるにしても、撮影光路と観察光路が別になっていたのでは、原理的に両者は合致しない。この差の事をパララックスという。特に近接撮影ではその差は大きくなり、見ている位置が違うので映っている範囲がずれる。ちょうど、右目だけ、左目だけで、近くのものを見ると、両者の見え方が違うのと同じである。またピント合わせは、三角測量の原理を応用して二カ所から見た像を合致させるやり方が主流であるが、その装置とレンズの繰り出し量を検知する装置の工作精度や連動精度が、ピント精度を直接左右する。つまり靴の上から足を掻いているようなものである。一眼レフが生まれる前は、このようなレンジ・ファインダー式のカメラが主流であった。


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 映画用35mmロール・フィルムのカメラへの普及が進むにつれ、写真は様々な場面に使われるようになった。おそらく写真撮影の現場で最も厳しい精度が要求されたのは、接写・複写・顕微鏡写真の分野であっただろう。これらの世界では、撮影光路と観察光路が別になっていたのではほとんど用をなさない。そこで、見たままを撮影できる機材が当然の要求となった。これに最初に答えることができたのは、おそらくExaktaというカメラであろう。これは、スタンドに取り付けてレンズを下に向け、下に置いた原稿を複写するのに好都合であった。真下からレンズに入った光は、ミラーによって水平方向に向かい、撮影者はこれを自然な態勢で観察することが出来る。撮影するには右手でシャッターをレリーズして、右手で巻き上げレバーを巻く。Exaktaは、このように主として複写用に用いられた。しかし、このカメラを外に持ち出して風景を撮影しようとすると、ちょっと困ったことになる。スタンドに取り付けてレンズを下に向ける使い方では、シャッター・ボタンも巻き上げレバーも右手で操作出来るのだが、これを手に持って上から覗き込む使い方では、ふたつとも左手側に来るからである。なぜExaktaがこれに対応しなかったのかは謎である。


 おそらく普及型としては35mm一眼レフの最初はこのExaktaで1936年、実はその前年の1935年に旧ソ連でСпормという35mm一眼レフが開発されているが、普及には至らなかった。その2年後の1938年に東ドイツでPraktiflexが発売され、Bolsey、Alpa、Duflexはあるけれども、主なものとしてはContax Sが1949年に発売されて、35mm一眼レフ黎明期の役者は出そろった。その後各社改良を重ね、1952年にPraktica FXと、上位機種であるPraktina FXが発売される。Praktiflex FXは前者のアメリカ向け輸出モデルであり同一のカメラである。当時Leicaは未だバルナック型のIIIfの時代で、大勢としてはレンジ・ファインダー式のカメラが主流であったが、ExaktaはVarex Vに、ContaxはD型に進化しており、同年に日本では、国産初の一眼レフであるアサヒフレックスが発売されている。

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 さてPraktiflex FX、これは上から覗き込んで写真を撮るカメラである。この姿勢で撮影することをウェスト・レベルという。携帯時はスクリーンは折畳フードに覆われているが、背面のボタンを押すと、ワンタッチでフードが組み上がる。撮影者は、ミラーによってはね上げられた画像を、カメラの背後からスクリーンの裏側を覗いている格好になるので、天地は正像だが左右は逆像になる。スクリーンはコンデンサー・レンズのついたすりガラスで、少しディストーションがあるが快適にピント合わせが出来る。背面側のフードにはレンズが格納されていて、小さなレバーで引き上げることが出来る。このような緻密な工作が、持っていて楽しいカメラである。シャッター・ボタンは前面にあって、水平に押し込む。使い慣れると、あうんの呼吸でピント合わせが出来、カメラを目の前に構え (アイ・レベル) ないので、場の空気を壊しにくい。また、目線が低くなることから、少し日常の印象とは異なる作品が出来ることが多い。


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 前面フードを写真のようにはね上げ、背面フードのレンズでこれを支えると素通しのフレームが組み上がる。もちろんフレーミングやピント合わせは出来ないが、左右逆像の動きに悪酔い中に撮影を迫られたときなどに良い。これをスポーツ・ファインダーという。しかしアイ・レベルでこのシャッター・ボタンは使いにくい。


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 フィルムを入れる。カメラを構えた状態で左側面に↑のついたスライド・ボタンがあって、これを上げると裏ぶたが右へ開く・・・と見せかけて実は外れてしまう。


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 フィルム装填は巻き上げスプールの切り込みにフィルムの先端を入れる。市販されているフィルムの先端の幅に合っているが、スリットは軸を貫通していないので、確実にフィルムをくわえ込んだかどうかを確認する必要がある。


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 フィルム送り側は、バネになった押さえ金具があって、フィルム給送は安定している。


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 シャッター・スピードの設定は、ダイヤルの外輪をつまみ上げて、希望する数字のところへ落とす。内輪の矢印を基部の黒い矢印に合わせてあるときは高速側で、1/25・1/50・1/100・1/200・1/500秒、赤い矢印に合わせてあるときは低速側で、B・1/2・1/5・1/10秒である。フィルムの巻き戻しは、シャッター・ダイヤル手前の小さなバーを押し込んで、フィルム送り側のノブを右に回して巻き戻す。巻き戻している間中、バーを押し込んでいなければならないが、フィルム先端が巻き上げスプールを外れる感触が指先に伝わるので、先端をパトローネから出した状態で止めることも出来る。まあ自家現像する人は希少なので、こんな話してもわからんよね。


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posted by jakiswede at 23:45| Comment(0) | もちものじまん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140128 米糀仕込み失敗

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 ようやく落ち着いてきたので、丹波の黒豆を使って味噌仕込み・・・でも今年はどうも糀の仕込みがうまくいかず、諸般の段取りの都合で乾燥糀を購入。


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 これが初めに仕込んだ糀の出来損ない・・・なんでこんなに水分を含んでしまったのだろうか・・・アルコール醗酵が始まっているようなので、取りあえず冷蔵して別の使い道を考える。


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 これは、先の失敗を予感してから慌てて仕込んだ第二弾、下のものと同じ蒸し器で同時に作ったのに、こちらはべとべとのおこわ状態・・・


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 こちらは粒状性は良いのだが、肝心のカビがちっとも生えてこず、臭いも発熱もない・・・xxx

posted by jakiswede at 23:24| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2014 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140128 Karadeniz Kemençe

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 なんと、ヤフオクにカラデニズ・ケメンチェというトルコの黒海地方に伝わる伝統的なバイオリンがキョーレツな安値で出ていたのでゲット。いやあ・・・良く鳴ります。



posted by jakiswede at 23:15| Comment(0) | もちものじまん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140119 初積雪

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 20140118 やけに空が赤いなと訝っていたら、


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 翌日は案の定・・・今冬は寒いという予報だったが、凍りつくほどの寒さは初めてかな・・・


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 ・・・と、不安を感じてサツマイモ・・・やっぱりサツマイモの貯蔵は、ここの気候には向いてないんかな・・・


 

posted by jakiswede at 23:09| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2014 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする