2014年05月17日

20140515 自転車ランプLED化改造

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 雨の日用の自転車のダイナモが重いので、ヘッド・ライトをLEDに改造してみる。


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 3Vスイッチ付並列接続で、さくっと回線図書いて作業開始。


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 しっかし長いことこんなことしてへんしハンダ付けがヘタんなったなあ・・・眼ぇが悪なったしよけや。


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20140515 ナス科の発芽

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 今年は寒いように思う。気象データとしては、平年より気温が高かったり低かったりだが、最低気温が上がらないように思う。夏野菜の発芽が遅い。韓国のキムチ用のトウガラシとブータンのシシトウは発芽。今後のピリピリちゃんはまだである。


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 トルコのナスも発芽。下は、左がウズベキスタンのトマト、右はトルコ産のドライ・トマトからほじくり出した種を蒔いてみたら発芽したもの。


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20140515 ハッピー・ヒル発根

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 ようやく「ハッピー・ヒル」の発根が確認出来たので苗代に播く。私の誕生日頃に発根すると覚えておこう。


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 同時に浸水した糯米が7日で発根したのに対して、16日もかかっている。稲の種籾は浸水から発根まで、一日の平均水温に日数を掛けた積が100℃になるのを目安としているのだが、この品種はそれどころではない。発根から田植えに適した大きさの苗になるまでに約45日かかる目安なので、田植えは6月末か、ことによると7月になる可能性がある。晩稲の品種で暑い気候のものだから、寒冷地のここではかなり遅くなるのであろうか・・・籾をもらった農家では、一切を自然に任せているので、データなど取っていないというし、まあ、びびりんちょの私としては、やってみんとわからんでしょうな。ゼッタイ鳥が食うので不織布を被せる。鳥に破られてボロボロになったから今年は新調した。


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20140512 多年性キャベツ ???

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 むろんキャベツである。左の方は花がついて、一部種を結びはじめている。右に2株ある・・・ように見えるのだが、実はこれは全体が1株で、ちぎり収穫をしているうちに脇芽が出て、やがてそれが成長して結球してこうなったのである。この株は昨年の秋からある。以前、白菜で同じように冬を越して初夏に結球しはじめたものがあって、それはちぎっては食べちぎっては食べしつつ5年も生き延びた。その種をどんどん畑に播いて行ったら、今年はとうとう硬くて食えぬほどの、青梗菜の化け物のような、珍妙な白菜が採れた。早い話が固定に失敗しただけのことなのだが、旨いんよね、これ。


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 イチゴが収穫期を迎えた。


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 独り占めするのでネットを被せる。近隣では田んぼの準備が盛んである。


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20140511 ウリとマメの定植

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 新畑の観察・・・といっても、今シーズンから借りはじめたので、未だほとんど何も顔を出してないのだが、注目すべきは、画面奥のソラマメやエンドウの回りの草が旺盛に伸びていることであろうか。つまりマメ科は、その周囲にある植物の葉を育てるのである。したがって、豆と葉物野菜を組み合わせて栽培すると良い。


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 その新畑の脇で花を咲かせているパン用小麦の「ミナミノカオリ」


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 かつて田んぼだった土手を崩して畝立てたところへ、フェイジョアーダ用の黒インゲンのポット育苗していたのがほど良く育ったので定植。


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 こちらは長野県からバイト先に入荷した花豆をポット育苗したものを定植。インゲンは、発芽率が極めて良い。


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 こちらは東畑。これは、先日燃やしたアルムリーノの看板などの跡地で生き延びたゴボウである。よくもまあ、あのような猛火の傍らで生き残ったことよ。


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 これは、その猛火の最中の土より芽吹いたウリ科のなにかである。よくもまあ、あの焦熱のなかを生き延びたことよ。


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 ウリ科とも相性が良く、ズッキーニとカボチャが他に先駆けて発芽してぐんぐん成長中。



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20140511 初湯堰

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 初湯堰。画面左奥に見える山は六甲山である。その麓がだいたい有馬温泉にあたり、ここは六甲山の北麓、左上から右下に流れる川が有馬川である。端の下を流れてくる川は、名前は知らないが有馬川の支流であろう。これは阪神流通センターを通ってくる。上流にゴルフ場がある。有馬川も有馬温泉街を抜けてくる川なので、そんなに水質は良くないだろう。ここは平田のちょっと下流にある合流点で、我々の集落の水利組合は、ここで有馬川の一部を堰き止めて左の水色の水門から農業用水をとっている。用水路は平田の集落を通って、塩田の新池に流れ込む。その水を使っているわけである。そんなに清い水とは思われない。しかしこれが現実である。清水を求めて山に入ろうか・・・縁があれば、山暮らしもしてみたい。初湯堰というのは、川に堰を設けて用水路に水を引き込めるようにする作業である。具体的には水利組合の各戸が持ち寄った肥料袋に用水路の掃除と掘り下げを兼ねて土砂を詰めて川へ総出で運ぶ。取りあえず岸辺に置いて水量を見ながらこれを流れに投入する。しかし、大雨で増水すればたちどころに流されてしまい、当然、堰も壊れる。そうすればやりなおしである。こんなことをやっているのだが、今年は初めて「ビニールが散乱するからやり方を変えないか」という話が出た。当然、この肥料袋は、いずれ逃がされて下流を汚染する。その下流には、この水を農業用水に使う人もあるし、ビニールが風化して粉砕されれば、鳥が飲み込んで苦しむかもしれない。しかし、まだまだ百姓の意識は、そのような問題にまで至っていない。組合の作業とはいいながら、これはれっきとした汚染物の投棄であると、私は思う。ともあれシーズンが始まった。これから空きの水止めまでに、都合6回程度、この水門の開閉と水路の点検や清掃の作業が、当番制で回ってくる。



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2014年05月16日

20140510 草刈り草刈り

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 春は2週間もすれば草が腰くらいまで伸びる。草刈り草刈り・・・


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 草刈り草刈り


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 草刈り草刈り


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 草刈り草刈り


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 草刈り草刈り


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 草刈り草刈り・・・農村は田んぼの準備でにぎやかになってくる。




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2014年05月10日

20140509 晴がもったいないその2

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 今日は朝から歯の定期検診のあと、森之宮へ舌癌の経過観察・・・もうあれから10年、10年間再発の兆候がないということで、漸く無罪放免 !! よかった。やれやれや・・・


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 夕方のバイトまで時間があるので、歩きでないと出来ない大阪下街散策・・・森之宮から玉造の戦災で焼けなかった古い街屋の集まる迷路に入り込んで谷九・難波を経て心斎橋へ至る・・・なかなかええ感じのおしゃれ感覚の店がたくさん出来てるね。馴染のドラム専門店で目の保養をさせていただいて、馴染の民族楽器店で懐かしくお話しさせていただいて、馴染のCDショップ3軒もはしごしてたら、あらあら・・・


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 でもやっぱりこーゆー猥雑さがええよな・・・このフシゼンなカップル・・・ぷるぷる・・・昼下がりのひととき、大阪の濃厚な毒気を胸いっぱいに吸い込んで、とてもリラックスした気持で急ぎバイトへ向かったのでありました。


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20140508 古い農具を修理する

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 夏は陽が長い。勢いに任せて納屋から出てきた古い農具を修理する。


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 使いやすい平鍬が欲しかったのだが、現在売られているものは、どれも気に入らぬ。この古い鉄製の鍬の錆を落として再生する。下の形のものがもう作られていないのだ。


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20140508 晴を最大限活用する

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 立夏を過ぎ、つまり穀雨の時期より遅く種を蒔くので晩稲というのであるが、インディカ米「サリー・クイーン」を浸水。中が去年の収穫籾、右が購入籾。左は、未だ発根しない「ハッピー・ヒル」・・・


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 エンドウは白い花が盛んに咲いて、一部は結実している。


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 ソラマメも・・・ああんもうカワイラシイ・・・揺れるハートハートたち(複数ハート)==Эキスマーク.:・'゜☆。


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 イチゴも・・・


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 ニンニクも・・・ここの土は合ってるねえ・・・「土壌に適した品目の生産を目指す」てニンニクやったろか・・・キョーレツな茎やな。


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 ネズミに食われながらも生き残るタマネギ・・・もうちょい持ちこたえてくれ・・・祈るような気持。


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 自然農法では不耕起が基本なんやが、最初だけは作業性を考えて畑の体裁を整えることにしている。耕して砕いて上げて、このあと植え付け前に上を均して出来上がり。この程度なら備中鍬と鋤簾で小一時間もあれば出来るようになった。


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 東畑脇田の「ミナミノカオリ」・・・既に上がりはじめてる。やっぱりあかんかったか・・・


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 その脇の大根は種を結びはじめ、夏野菜との交代が始まる。


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20140507 晴がもったいないその1

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 さて今日は溜まりに溜まった用事を片っ端゜から片づける。先ずは朝飯抜きでメタボ検診・・・俺にとって、この「朝飯抜き」というのんが最も辛いんよね。頭痛なるし機嫌悪なるしもうはよせえや・・・てね、ひとにメイワクがかかる。すぐ帰って飯食って種苗屋で足りなかった種を買って農具専門店で古い鍬の修理用の部品たのんであったん取りに行って市役所で印鑑証明取って父が借りていたという借金が完済済みであることを公的に証明する書類を作って母に届ける・・・

 その途中宝塚を通ったので、気が向いてかつての実家を見に行って見たら、なんとこの家を買ったという人が引越トラックを待っているところに出くわした。今日が引越なのだと・・・束の間、互いの自己紹介など笑顔で交わして世間話などする・・・うむ・・・なかなか乗りの良いいい人だ。すぐにトラックが来たので、連絡先のみ交換して別れ、川西の母を訪ねてこれを報告した。

 家が売れたのだ。新しい生活が始まる。これで名実ともに、宝塚は私たちの故郷ではなくなった。寂しさはない。軽く吹っ切れた感じがする。残る心配は、母と妹のこれからの生活だ。私に金はない。出来るとすれば、理解ある農家が空家と空き農地を格安で貸してくれて、近所に適当な仕事があることだ。ただ、それには母と妹が、本当に農的生活をしたいかどうかの見極めが必要になる。現状のような消費型都市生活では、もういくらも持たないだろう。その現実を彼等がどのように受け止めるか、これは私が口を出すべき問題ではない。私も自分のこれからの暮らしのことで精いっぱいだ。農家登録への道が開けたとはいえ、ここにも長くいられるとは限らない。農家資格が出来る事は移住するにも有利ではあるが・・・などと考えつつ伊丹へ走る。

 免許の更新だ。なんと、ゴールド免許である。ほんまによろしいんですかねえ、こんな奴にゴールド与えて・・・わりと強引な運転やねんけどな・・・普通の更新時講習よりも簡略化されていて、ごくごく形式的に30分で終り。普通の講習では、ほんまに事故はこわいと思わせられるような衝撃的な映像など見さされて、安全運転せな、というくらいの改心はちょっとだけして出てくるもんやが、今回はそれもない。あぶないなあ、ほんまにええんですかねえ。

 ちょっと付近をお散歩。上の写真は、わからんでしょうな、奥に見えるのが伊丹のイオンモール、手前の石垣は有岡城、つまり伊丹城の石垣の遺構すなわちJR伊丹駅前である。ご先祖様は戦国時代からの世間の変わりよう、このぬくぬくとした消費生活の現状をどのようにご覧になっとるであろうか・・・ああ、落ち延びたからここにはおられんとですかね、でもたまには懐かしいなって元の居城を訪ねて来ることもあるやろ。この背後にはAI・Hallちゅうてしょっちゅうジャズのライブもやってるし・・・しかし伊丹はホール多いね。ほで阪急伊丹駅まで足のばしてかつてお世話になった包丁の師匠きたはるかいなんと覗いてみたがおられんかったので引き返して、駐車してるイオンモールで駐車料金のモトとるためにちょい買い物して尼崎へ走る。


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 途中、私が阪神淡路大震災の後3年ほど住んだ「立花のガウディ」跡地に立ち寄ると、新しい家が建っていた。ここでも新しい生活が始まっていた。

 http://jakiswede.com/3photos/31works/314landscapes/3144percaso/index.html


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 あちこちで用を足していると夕刻となり、巨大コーナンで一休み。いやあモノがいっぱいあって楽しいねえ・・・ほそらく日本でも有数の運転の乱暴なエリアの道の狭さ、建て込みの窮屈さ、交通のせわしなさが妙に懐かしく、つくづくこんな時間感覚で生きていたんやなあと実感。そのまま西宮へ走ってカリーナちゃんを車検整備に出す。代車はなんとカローラ・フィールダー。途中、小便がしたくなったんで商業施設の便所に寄ったら、なんと位置の高い便器、これブラジルとかポルトガルでよく見かけるタイプで・・・だからなんやねんちゅーに。


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20140506 糯米発根インゲン発芽

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 白い普通の糯米 (左) ・・・地元で栽培されているもので品種名は知らない・・・が発根したので苗代に移す。4/30に浸水したので、積算温度は未だ70℃程度のはずだが、糯米は発根が早い。


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 タマネギのチュー害が止まぬ。穴を塞ぎ、細い棒にペット・ボトルを挿して地面に音を伝えて警戒させようとしているが、効果は上がっていない。


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 フェイジョアーダ用の黒インゲンが首をもたげている。

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2014年05月05日

20140504 立夏の前

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 苗代の準備に取り掛かる。右手は大雑把に土を上げて乾かしていたもの。それをほぐしてなるべく均一な状態にし、草の根も出来るだけ除去して平坦に均す。


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 湿害の影響か、東畑脇田の「ユメシホウ」の出穂が始まっているが草丈が伸びていない。20cmあるかないかである。明らかに成長が悪く、穂の部分が短いので、収量がぐっと落ちるだろう。原因についてはいくつか考えられる。畔一本で隣接する本田を冬季湛水にしていたため、畔越しに流入した水と、湛水による地下水位の上昇により、過湿を嫌う小麦にとって湿害になったこと、もちろん溝を深く切って排水には気を遣っていたが不十分だったのかもしれない。他には、稲作の裏で無肥料で三年目の栽培になり、地力が落ちてきたかもしれないこと、昨シーズンは播く量が足りなかったのか発芽率が低く結果的に減収になったので、今シーズンは厚めに撒いたが、今度は多過ぎて密植状態になり生育が悪くなってしまったかもしれないこと、そもそも品種が土に合っていないかもしれないこと麦踏みをしたことなど。今シーズンの不作は認めざるを得ない。来シーズンは条件を変えて試してみよう。


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 新畑脇田の「ミナミノカオリ」と比較してみると明らかである。この圃場では今回が初めての栽培であるが、前作の表が稲作であったことは同じ。ただ、今まで裏作をしたことがない。土質としては非常に水はけの悪い場所だが、隣接圃場は畑だけなので、地下水位は問題にならないだろう。日当たりが悪いので、「ユメシホウ」と比べて発芽が非常に遅かった。発芽後も日陰の部分の生育が悪かったのだが、春以降持ち直した。播いた密度は、「ユメシホウ」とほぼ同じ。麦踏みはしなかった。どうみたらいいのかな ??


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 ネギ坊主が出来ているので、また種をいただける。傍らではアスパラが伸びてきている。


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 去年の夏に収穫したジャガイモからもやしのような芽が出て、その先に小さなむかごのようなものが出来ている。か弱く儚く条件が悪くとも生きている。また、下の写真は、道路の側溝から顔を出したジャガイモの葉・・・こういう生命の有り様を見られるのが、この暮らしの魅力。


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2014年05月02日

20140501 Duman: Bal

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20140501 farminhos活動再開

farminhosの活動を再開いたします !!

 ブログの読者の皆様はご存知のように、私の新規就農の申請は受理され、農家登録への道が開かれることになりました。農地の利用権の設定手続も完了し、私は借りている農地で、自由に農産物を栽培して利用出来ることになりました。また、この農地を使って皆様と「農」や「食」についての集まりを開くことも出来るようになりましたので、ここに再びfarminhosとしての活動を再開いたします。現在田んぼの準備を進めておりますが、以前とは少し様子が異なっておりますので、ご無沙汰いたしておりました皆様のために、少しご説明をさせていただきます。「謹慎期間」の間に、私は栽培方法を、無農薬・無肥料・不耕起栽培に変えました。畑は既に3年ほど同様の考えでやっておりましたが、田んぼの不耕起栽培は2年目になります。そのため、田植えの方法がいつもと異なります。詳細はご参加いただける方に直接ご説明申し上げます。田んぼの一部で、裏作にパン用の小麦を栽培しております。晩稲の田植えの前、すなわち6月下旬までにはこれを収穫して、急いで田んぼに変える作業をしなければなりません。ここは、いわば「見もの」です。野菜の栽培は今まで通りの畝回しです。連絡方法は、個別にメールでご案内することは差し控え、このブログをご覧になった方の自発的なご参加を想定しております。なるべく事前にご連絡下さい。ただし、一度にご参加いただけるのは、現在の対応状況から5人程度とさせていただきたく思います。ご相談下さい。場所は以下の通りです。最寄り駅JR道場駅または神鉄道場南口駅まで送迎させていただきます。だいたい毎日何らかの仕事をしてますので、それに合流という形になります。以下に、これからの主な作業予定を書いておきます。作物の生育状況や天候の推移などで、作業内容や予定は大きく変わる可能性がありますので、ご了承下さい。参加表明頂いた方との個別のやり取りになります。どうかこれからも、よろしくお願い申し上げます。


 2014/06前半 田んぼの準備・畔の補修・苗とり・夏野菜の定植

 2014/06中旬 田植え・小麦の刈り取り・晩稲の田んぼの準備・畔豆の植え付け

 2014/06下旬 晩稲の田植え

 2014/07上旬 小麦の脱穀・選別

  畑の方は、順次適時適切な細かい作業があります。


 http://www.mapion.co.jp/m/34.85999231_135.23807175_10/


 farminhosのブログ

 http://jakiswede.seesaa.net/category/10139103-1.html




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20140430 ハッピー・ヒル浸水

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 2014年は穀雨が4/20、立夏が5/05であり、この間に穀物の種を蒔くのが良いとされている。ちょうど昨日まで3日続きのまとまった雨だったので、これをたらいに取っておいて、頂いた「ハッピー・ヒル」と、去年の糯米の種籾を水に浸けることにした。今年は畑も拡張出来たので、夏野菜のポット撒きも多めに作った。残ったら友達と分け合えば良いのだ。いよいよである。


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20140427 わがルバン島の30年戦争

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 小野田さんが亡くなったとき、早速この本を図書館に予約したのが、漸く送られてきた。あっという間に読んでしまったのだが・・・ううむ・・・私はもう、物事を素直に感じ取れなくなっているのかもしれない。この文からは、小野田さんが感じられなかったのだ。小野田さんが亡くなったとき、改めて小野田さんのことを読んでみたり、映像を検索して見てみたりしたのだが、彼が靖国神社に言及するとき以外は、ほとんど全てにおいて共感出来る人物であった。戦後すぐの教育を受けている私にとっては、靖国神社というものを受け容れることが出来ない。逆に、戦争に行った人たちにとっては、靖国神社を抜きにして人生は語れないほどなのは見聞している。この溝は埋めがたい。一方は、靖国神社とは別に追悼施設を建てるべきだというし、他方はそれに反対する。おそらくこれは折り合いがつかないだろう。まあそれは良いとして、事前に得られた情報から期待したものが大き過ぎたのか、私はこの本をあっという間に読んでしまって、ほとんど満足感がなかった。もっとすさまじいものがわきあがると思っていたが、そうでもない。文章が整い過ぎているし、書かれてあることから湯気が立ち上ってこない。もちろん30年のゲリラ戦を戦い抜いた記録であるので、こまごまとしたことにこだわっていたらまとまらないのかもしれないが、ちょっとあっさりしすぎてる、というか、伝わってこなかったんよね、なにも・・・これもゴーストライターが書いたものか、と疑いたくなってしまった。

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20140426 須磨フェス

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 http://sumafes.info/

 田んぼの準備をした後、昼過ぎから「須磨ワールドミュージックフェスティバル」を覗いてみた。この場所は、かつて5月に不定期に催されていた「須磨の風」という幸せなイベントのあった場所だ。しかしそこでのコンサートが神戸市の圧力で中止に追い込まれて7年が過ぎ、今度はその神戸市が「盛り上げるためになんかやってくれ」といってきたらしい。「なにを今さら」というのが率直な思いだが、もうすでに7年も経ち、イベントをやる世代は交代して「須磨の風」など知らない人がほとんどだ。神戸の自然農グループにも声がかかって何組か出店するというので、顔出しに行ってきた。ステージといっても、このような簡単なものだった。それは良いとして、内容がどうもね・・・観客と出演者が近くなったのは良いことだが、こーゆーなれ合いムードが私には辛い。音楽になってないんよね。「こんなことやってますよ」っていうことを見せたい・・・ただそれだけ・・・ただそれだけかよ、それでステージ上がるんかよ君ら。日本人のくせしてアフリカ人の格好してアンサンブルの微塵もないジェンベぱかぱか叩いて、それで「アフリカ音楽やってます」みたいなこと、それでええんかよ君ら・・・・私には非常に辛い。でも、それでお客さん大満足みたいやったから、それはそれでええんかな・・・須磨海岸を流れる風は、今も昔も変わらなかった。

 http://jakiswede.com/3photos/31works/312fetes/3127sumakaze2007/index.html


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posted by jakiswede at 11:26| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140425 アルムリーノ奥出雲へ3

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 事後処理はまだまだ続く。今回の移転は、アルムリーノ起死回生の最後のチャンスである。日本の天然酵母パンの草分け、妥協を知らぬ彼等には、この店舗兼住宅の規模は余りにも大き過ぎ、ランニング・コストがかかり過ぎた。おまけに「自分が法律」の独善的批判主義に就いていけたスタッフはなく、たった二人で膨大な数のパンを毎日焼いては発送していたのだ。


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 その強烈な個性ゆえの社会性と常識の欠如、しかし、だからこそ日本の天然酵母パンの地平を切り開き得たのであり、それだけでなくパン一筋で、なんと1億数千万といわれる借金のほとんどを返済したのである。まったく、常人に出来る仕事ではない。


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 しかし引っ越し作業は難航を極めた。自分の健康を顧みない情熱家であるから、自分たちの住空間さえ満足に省みないのは、考えてみたら当然のことである。その結果分別不可能な雑多なゴミがヤバいほど溜まって明らかにオーバー・ワークである。いくら情熱があっても、見るからにげっそりと痩せ衰えた老体を放置するに忍びなく、いつもの悪い癖で、とにかく奥出雲の店舗のオープンに専念してもらうことにした。


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 なぜなら今回の話は先方からのたってのお招きであって、恐らくこれを逃すと引退以外に道はない。おとなしく引退出来る気性も財産も持ち合わせていないので、この話には乗る以外にないのだ。だから急な話だったのである。このGWを逃すと、島根の山奥の観光地には夏まで人が来ない。後片づけなどしている場合ではないのだ。とにかく店を開けることだ。


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 なぜそこまでするのかというと、やはり私にとって彼等、特にマスターは人生の師匠であり、生き方の手本であるからだ。わざわざ他人のところに出向いてまで、初めから徹頭徹尾批判する態度は流石にいかがなものかとは思うが、その明晰な論理展開は、田んぼの泥に曇った眼を洗い流してくれる。しかも、単なる天然酵母ではなく、いまや自家製糀菌を使って酵母すら自給し、そのノウハウによって、私もこの写真前面に広がる自家製小麦によるパンの自給に成功したといえるからだ。


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 一緒に来ないかというお誘いもあった。行きたい気持はやまやまであったが、折角三年越しの懸案に決着をつけた今、そう易々とここを離れる気にはなれない。なぜなら、ここは大阪平野から最も近い本格的な農村であって、農業を続ける環境が全て整っており、しかも過疎の問題を抱えている。私の目的は、引きこもって農業をするのではなく、都市生活者と農業を結びつけることにある。都市は都市、農村は農村と、まるで消費者と生産者のように二手に分かれて責任をなすりあっているようでは、物事は絶対に解決しないからだ。私は解決を望んでいる。


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 なにより六甲山周辺は私の故郷だ。古くからの友達も多いし、気が向けば訊ねてきてくれる。都市と農村がほど良く混じっていて、悪くいえば中途半端な田舎なのだが、多様な好奇心をまだまだ捨てきれない私にとっては、いくらでも楽しみ方がある。盆地なので、駅へもバイト先へも自転車で行くことが出来るし、殆ど全ての人間関係は極めて良好だ。永年の懸案も解決し、ここまで揃った好条件を捨てて、全くゼロからやり直す気にはなれないのだ。木の灰は土壌の酸性化を中和するという。これが冷えたら撒いてみよう。アルムリーノの再起を天に祈るばかりである。


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posted by jakiswede at 10:48| Comment(0) | 移住計画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140417 Homenaje para GGM

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20140424 小麦出穂

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 初夏の陽気が続いている。働いた後は、このようなデザートが欲しくなる。


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 小麦のために、田んぼの冬季湛水は断念した。塗り畔が乾くと、早速モグラが活動を開始した。これでは折角腰を痛めて塗り上げた苦労も水の泡である。小麦を刈り終るまでは水を入れられないので畔の補修も出来ない。仕事の重なる時期に、またひとつ仕事を増やしてしまった。来年からは冬季湛水は諦めて段取りしよう。


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 小麦に混じって稗が穂を出している。小麦も穂を孕んでいる。


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 夏の糖分補給ために、梅酒の梅を採り出してジャムにしておく。忙しくなる前にやっておかなくてはならないこと・・・タマネギ・ペースト作り、ドライ・ニンニク作り・・・いずれもそろそろ限界であろう。こんなブログ書いてる場合やないで・・・早速醤油を搾っとこか・・・


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20140424 鼠多く私屋根に上る

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 家屋の修繕に左官屋さんが来ておられるので、ちょっとお願いして屋根に上らせてもらった。


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 私の住んでいる離れの天井裏が、ネズミやイタチのスプリント・コースになっているからである。見ると、もともとの瓦屋根の下に、建て増しされた廊下のトタン屋根が突っ込んであり、壁との接合部分が養生されていなかった。つまり、上の写真で陰になっている部分が、丸ごと向こうの端までフリー・パス状態だったのである。しかしここを塞ぐとなると、瓦屋かトタン屋根のどちらかを引きはがさねばならず、大工事になる。我慢するしかない。


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 屋根というものは形が単純なほど長持ちするという。複雑に接合された屋根は、その継ぎ目から傷み出して雨漏りが始まる。または動物が掘る。そういう部分には、このような壁土を用いて補修する。なんとこの左官屋さん、齢84にして背筋もまっすぐ伸び、重い鋼鉄の脚立を担いで梯子を上り下りされるのである。弟子は3人、一目見て補修か所を見抜く穏やかな眼は、次の世代に受け継がれている。


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20140419 NIU Farm

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 「NIU Farm」へ行ってきた。神戸市北区の衝原湖の東に近い六條八幡神社の西北に広がるなだらかな斜面にある。河口さんの「赤目自然農塾」のスタッフもしておられる。今シーズンは、私も田んぼで本格的な稲の不耕起栽培に取り組むため、半陸稲でも栽培出来る根の太い品種で、自然農法の先駆者福岡正信氏が交配して固定することに成功した品種「ハッピー・ヒル (福岡の漢字そのまんま当て英語) 」の種籾をもらいに行ったのである。お返しに私のインディカ米の種籾を差し上げた。ここは田んぼ、現在だいたいこんな感じである。このままの状態で代掻きせずに田植えとなる。「ハッピー・ヒル 」は、「コシヒカリ」よりも2週間程度晩稲になるはずなのだが、穀雨を明日に控えた今日、早くも水に浸けて苗代に播いてしまわれた。選別も消毒も発芽処理もせず、ただ運を天に任せて播いてしまわれたのである。この方が良いのだそうで、穀雨を頂いて健康に育つそうである。インディカもそのまま播いてしまわれた。私は、昨シーズン「コシヒカリ」を4/25に浸水しているので、「ハッピー・ヒル 」は計算上はその2週間後に浸水することになるのだが、少し早めに水に浸けて様子を見ようかと思っている。


 http://niufarm.blogspot.jp/



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20140415 アルムリーノ奥出雲へ2

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 しかし妥協を知らぬマスターは自分が法律。「アルムリーノ」がスタッフとしては誰もついていけなかったのと全く同様に、つるんで走るということの出来ない彼は、私を置いて猛スピードで走り去った。


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 しかたがないので私はのんびり旅行気分でロング・ドライブ・・・カリーナちゃんもこういう風景の中で写真に撮ってやると似合うねえ・・・ホレボレハートたち(複数ハート)


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 こーゆー絶景のレストランで、


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 鯖の煮付け定食が喰えるところが鳥取県の偉大なところだ。


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 紆余曲折を経て、なんとか到着。


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 場所は、道の駅「奥出雲おろちループ」という施設に隣接する観光牧場の一角、このプレハブが店舗である。辺りをもう少し撮影・・・


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 転居先はJR木次線出雲坂根駅に近い国道沿いの一軒家である。


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 と、そこへ頭上から列車の音が降り注いできたので鉄道少年のスイッチが入り、駅へ戻ってみると、なんと日に何本もない木次線の列車が入ってきた。ここは日本で唯一の三段式スイッチ・バックで子供の頃から来てみたかったところだ。

 奥出雲のアルムリーノはGW開業予定。連絡先は0854 52 3006。

 http://www.okuizumo.ne.jp/~oroch_loop/


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2014年05月01日

20140415 アルムリーノ奥出雲へ1

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 パン工房「アルムリーノ」島根県奥出雲町へ移転 !!


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 私のパンの師匠・・・というより人生の師匠・・・その激烈な生き方、妥協のない品質、容赦のない批判・・・その全てが超一流で、唯一無二。


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 パンは旨かった。しかし残念なことに、日本の菓子パン文化のセンスのまま品質を向上させたものだったので、甘い具だくさんのものが多く、ハードなカンパーニュ系が好きな私の口には合わなかった。ヨーロッパや中東、中央アジアの、パンを主食とする味覚に馴染んでいただけたら、もっと買いに行けたのにと思う。


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 マスターとは30年のつき合いになる。妥協を知らぬ理論家で対象を潰すまで突き詰めるタイプである。この人とうまく付き合うには簡単なコツがある。両肩が同じ高さで、しかもこちらに対して正対しているときは、心は平静である。しかし話が進むうちに感情が高ぶってくると、このバランスが崩れてくる。特に、右肩がこちらに向かって突き出されるような態勢になると要注意である。これは戦闘態勢を意味するからだ。一旦火炎瓶に火がついてしまったら、たとえ安田講堂で最後の一人になっても機動隊に火炎瓶を投げ続ける信念の人である。


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 この建物で最も楽しかった思い出は2007年に行われたこのライブであろう。なにかのイベントの流れで、神戸に集結していたConjunto Roda de Choroをそのまま持ってきて、ついでに尼崎でバイトしていたおっさんを呼び出してPili-Pili Showをやったときのことである。このときの写真は彼の2枚目のCDの内スリーブの写真にもなっている。余りの歌のばかばかしさ加減に、呆れて失笑する観客と拍手するマスター・・・


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 凝りに凝った建物は3階建て。居住空間の台所は島型キッチンで、なんともおしゃれなものだった。


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 しかしもはやマスターも齢70にして足腰衰え、豪華な3階建てが裏目に出た。階段の上り下りにさえ難渋する二人を見かねて引っ越しを手伝った。あと20年もすれば、私自身も階段というものが障碍になることを痛感しながら、重いもの、大きいものを運び降ろし、仕分けし、片や処分、片や積み込み、別便を立てて荷造り、そして自分の車も出して出発。


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20140414 春から夏へ・・・

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 さて「清明」の節は過ぎてしまったが、やっと身も心も清明となり、今シーズンは頑張れる。まずは草刈 !! 冬季湛水していた田んぼの水を落としたので、心なしか脇田の小麦の葉色が良くなっている。


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 ジャガイモの葉が出ているので・・・


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 霜除に被覆。右手では白菜の花が満開。まいにち塩もみに天ぷらにと食卓を飾ってくれている。今の時期、取っても取っても咲き続ける。この息吹を頂いて農作業に邁進する。


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 まずは新畑に植えられたサクラのために畝の一本が使えなくなったので、畝を半分ずらして右の土手を崩して畝とする。畔が要らなくなる分を脇田の畔土に回す。かなり大掛かりな土木工事になった。やったるでぇ !!


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 新畑の脇田はこのあとインディカ米の田んぼになる予定なので、それを見越して畔用の土を確保して周囲に配置する。あっちも・・・


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 こっちもやって流石に疲れた。しかしなんと気持ちのよい天気・・・





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20140413 農家への道、開かれる

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 農家への道が開けた。ここへ来るまでに3年も苦しんだ。しかしこれで私の違法状態は解消され、大手を振って農産物を栽培したり利用したり出来る。農家でない都市生活者が自分のやりたいように農業をやるには、いくつか気をつけなければならないことがあるが、職業選択の自由は完全に保証されている。所定の手続さえ踏めば、不当な扱いは受けない。しかし、正しい知識を得ることが、現状非常に難しいことも事実である。そこで、私の体験をもとに、農家でない都市生活者が自分のやりたいように農業をやるには、具体的にどんなことに気をつければ良いかについて総括してみた。あくまで2014年時点でのことである。

 この記事は、食の安全を求めて自分の好きなように自分の農業を実現する意思を持つ人のために書いている。農業を事業化する、過疎地の活性化に貢献する、日本の農業に将来に貢献する、とにかく田舎暮らしをしたい、補助金や支援制度を利用したいなど、別の目的を初めから持っている人には向かない。あくまで自給を基本とし、自分のために安全の食材を得たい、そのために農業が必要で、何をどのように作るかを判断するのはあくまで自分でなければならない、そして最後までやり切る覚悟が出来ている人のために書いている。

 まず農地についての基本的な認識について説明する。農業に関心があるからといって、勝手に農地の所有者から農地を借りて耕作して良いというわけではない。農地は国の食糧生産手段として国が管理している。農地の所有者は、農地を認可された営農計画に従って食糧生産手段として利用する代わりに、固定資産税が低く抑えられるなど様々な優遇措置を受けている。だから農地の所有者といえども、勝手に農地を人に使わせることはできない。その実態を管理しているのは、農林水産省 (国) ・農林水産部 (県) ・農業委員会 (市区町村) であり、その根拠となっている法律は農地法である。農地法は、事実上、国民を農家と非農家に分類しており、非農家が農業をするためには、農業委員会で「新規就農」の手続をする必要がある。これとは別に、農家であれ非農家であれ、農地を利用するには農業委員会で「農地の利用権設定」という届出をする必要がある。これらの手続に際しては審査があるが、不当な差別を受けることはない。農地を利用するに当たり、農地法以外の法律に拘束されることもない。制度としては、非農家は新規就農して農家になり、その上で農地を利用する届けを農業委員会に出す。ただそれだけのことである。これを知らない農家・非農家が非常に多いことが、農業を都市生活者から縁遠いものにしている。しかし本来、所定の手続さえ踏めば、なんの問題もなく誰でも農地を利用出来る。この基本原則をしっかり理解していれば、あらゆる無理解と非協力的態度を乗り越える事が出来るはずだ。

 新規就農と農地利用の手続の具体例については割愛する。なぜなら、これらは地方自治体によって制度が異なるし、訊けばわかることだからである。問い合わせる先は、各市町村に存在する農業委員会の事務局で、「新規就農と農地の利用権設定の件」と言えば通じる。ここでいろいろと難問が浴びせられるであろうが、上の基本認識をしっかり持って、強い意志と淀みない情熱を以て対処すれば、必ず道は開けるはずだ。

 なぜこのように念を押すのかというと、「農地を使う」・「農家になる」ということに関して、世間では実に様々な誤解やデマゴーグが蔓延しているからである。一見、農業への道は閉ざされているように見える。法律を調べても、何が書いてあるのかさっぱり分からない。仕方がないので誰かに相談する。

 一般に農業をしたことのない都市生活者が、農業をしてみたいと思って相談に訪れる窓口は、農協ではないかと思う。では農協が正しい情報を与えてくれるかというと、ほとんどの場合そうではない。なぜなら、農協は既存農家の既得権益を守ることが仕事であって、それを脅かす恐れのある者を事前に排除しようとする意識が働くからである。あるいは自分たちの権益に沿う形で取り込もうとするかもしれない。すなわち予め農協がセットした営農計画に乗れば、安心して農業に取り組み、生活も安定し、地域にも貢献出来るいう筋書きである。食の不安のもとになっている農薬や化学肥料については、国が示したガイドラインに沿って正しく使えば、安全性に「ただちに問題はない」と諭される。しかしこれには、莫大な施設・機械・農薬・肥料の購入と、その使用を前提とした栽培方法を強いられ、それ以外の方法では買い取ってくれないという条件がついている。つまり農協ビジネスの客となって商品を買わされていることになるのである。もちろんこういうことは表に出ない。使えとは言ってない。しかし、使わなければ達成出来ないような高いハードルが設定されてあるので、言いなりにならざるを得ないのである。農業をしたことのない人たちにとっては、聞いただけではそれがどれほどのことか分からない。しかし始めてしまった後では、莫大な借金を背負ってしまって、やめることが出来ない。

 市町村などがやっている「田舎暮らしキャンペーン」も、よくよく話を聞いてみると大同小異である。キャンペーンを行っている自治体は、決まって過疎の集落を抱えている。過疎に困っている集落は、その集落から産出すべき農産物の確保が深刻な問題であるので、そこへ入るということは、離農した農家が担ってきた農産物の物量を穴埋めするということである。過疎であればあるほどその割合は大きく、助け合いのために農事組合が設けられていることが多い。そういうところへ移住するとなると、組合への加入が新規就農の条件とされていることもあり、作る品目や作り方など、恐らく自分では決められない事態になる。要するに、行政が行う支援制度に乗れば、それに見合うかそれ以上の代償を払わされると思った方が良い。そのかわり、煩わしい手続や近隣との利害関係も、全て行政が代行してくれるので、確実に田舎暮らしが出来るし農家にもなれる。ただし自由はない。

 リベラルな新規就農希望者が陥りがちな強硬策は「モグリ営農」である。つまり、農業委員会には届けずに、地主との口約束だけで農地を好きなように使う。しかしこれには危険がつきまとう。まず農地法違反で3年以下の懲役又は300万円以下の罰金の対象(農地法第64条)になる可能性がある。次に、突然の約束反故・・・地主は自分の手の回らない農地を貸してくれるのであって、そこが手入れされて土が甦れば再び自分で栽培しようとする。似た事例としては、代替わりして地主の息子から口約束を反故にされることもある。あるいは、近隣農家から農業委員会への匿名の通報・・・「ムラ」にはどんなことでも新しいことが始まれば潰してやろうとする人が必ず1人はいる。これが最もタチが悪く、そういう人に限って農地法などに精通していて、あらゆる条文を「モグリ営農」者の排除のために曲解して総動員する。そのうえ絶対に表に出ないから根回しも出来ない。通報を受けた農業委員会は、ストーカー犯罪に対処するように、あくまで通報者の側に立って「事件」を処理しようとするので、法律の適用が厳密になる。私の被った状態がこれであったのだが、最も滑稽な適用例をひとつだけ紹介して次に進む。曰く、「非農家である貴方が農家である地主の不在のときに、友人たちが圃場に来てともに農作業することは、農地のまた貸しであり、不適切な農地の利用にあたる」・・・「ムラ」の全ての人と完全に仲良くなる事は不可能であるので、「モグリ営農」という手段は長期的に見た場合、非常に危険である。

 純粋に安全な食を求めて農家でない都市生活者が自分のやりたいように農業をやるにはどうすれば良いか。正面突破しかない。非農家は新規就農して農家になり、その上で農地を利用する届けを農業委員会に出す。初めから機械を使うことを想定している人はないと思うので、鍬や鎌など、人力で扱える農具で取り組むとすれば、広さは1反までと思った方が良い。農地法によると、「農地の利用権設定」ができる要件として、「一定の面積を経営すること(農地法第3条第2項第5号)」という規定があって、これを「下限面積」という。たいていは「5反」など機械がなければ一人では出来ない広さであるのだが、条例などによってこれが「1反」に設定されている地域がある。これは調べれば分かる。そのうえで、その地域内の農地の所有者を農協や農業委員会などで紹介してもらって、地主と使用貸借に合意出来たら、申請手続を進めれば良い。まずは相談に行くべきである。相談にだけは行って、必要な情報さえ得たら、先方の持ちかける「甘い話」は聞き流して退出する。「甘い話」には絶対にウラがある。自由が確保されていなければ、自分の好きなように自分の農業を実現するという意思の切先が鈍るだけである。

 では、その農業委員会が正しい情報を与えてくれるかというと、これも残念なことにほとんどの場合そうではない。だいいち農業委員会という組織自体が非農家には殆ど知られていない。農協は組合だからいざ知らず、農業委員会は行政機関であるにも関わらず、正しい法律の守り方を教えないのである。そればかりか、間違った法律の運用さえやっている。私が3年間苦しんだのは、まさにこのためであった。「農家でなければ農地を利用出来ず、農地を利用出来る者でなければ農家ではない」・「非農家が農家になるためには認定された機関の研修を終了する必要がある」・「農家になるには年齢制限がある」・「農家登録は世襲され、登録済みの空家では新規に登録出来ない」・・・などなど枚挙に暇がない。これらは全て出鱈目である。

 事実、私は「新規就農」の申請書を提出したが、一度は上の理由で書類は不受理となり、各方面調べを尽してこれらが全く事実無根であることを確認した後、一年後に再提出した。そのときも他の理由をつけていろいろ言われたが、私には「正しい知識」に基づく確信があったのでこれらを論破した。書類は一旦受理されたが、地区の農業委員に諮るということになり、その会合に呼び出された。農業委員会という組織は、事務局は公務員であるが、委員そのものは一般の農家である。つまり公務員試験を通過した知識人ではなく、市町村が有力農家にお願いして就いてもらっている「特別職公務員」である。したがってその立場が「公」であるかどうかについて、私ははなはだ疑問を感じている。その場での主なやり取りは、以下のようなものであった。

 曰く、「食糧自給率を上げるには集約的な農地利用が不可欠であるが、機械も使わず手作りするということはこれに反するのではないか ?? 」・・・「食糧自給率が下がったのは、集約的な農地利用を名目に資材を投入して人力を排除したこと、つまり、一人一人が自給しなくても農産物が確保出来る環境を作ったのが最も大きな原因であって、真に自給率を上げたければ、まずは就農を希望する一人一人が自給出来る体制作りから始められなければならない。機械化がどうしても必要ならば、そのとき考える。」・・・提出書類のひとつに「営農計画書」というものがあって、その「農業用施設・機械の保有状況及び導入計画」という欄に「導入予定なし」と書いたことをめぐっての質問。質疑の後、「導入予定なし」の文言を「必要に応じて導入」と書き換えることを求められ、渋々承諾した。

 曰く、「無農薬・無肥料・不耕起栽培とあるが、病気が出たり土地が痩せて農地として利用出来なくなった場合どうするつもりか ?? 」・・・「その心配には根拠がない。収穫することは地力を衰えさせるという前提に立った考えだと思うが、むしろ、自然界とは異なるバランスの肥料を人為的に土に混ぜ、特定の植物の生育を促進を期待した結果、害虫が発生して農薬を使わざるを得なくなる悪循環のことを心配すべきである。耕さずに栽培を続ければ、次第に堆積した有機物が分解して地力が回復していく。私の圃場では年々収穫量が増えているし、歴史的にも農薬・肥料・耕起を基本としたのはここ数十年のことであって、それ以前は一般的ではなかった。にも関わらず農業は一万年も続けられてきた事実にもう一度目を向けるべきである。」・・・同書の「将来的な農業経営の構想」欄に「無農薬・無肥料・不耕起栽培による持続可能な生活の在り方の模索」と書いたことに関連した質問。

 曰く、「農家としては農産物の流通への出荷が求められている。しかしこれらを調理・加工して収益を上げることは農地の私物化に当たると考えられるがどう思うか ?? 」(こいつか)・・・「野菜や穀物を作る本当の目的は食べるためであって売るためではない。食べるということを中心に据えて営農計画を立てず、売ることを主目的とするから単一品目の栽培に傾倒する。農地も自然の一部であって、その多様性が失われると回復が困難になることは、旧ソ連の農業政策を見ても明らかである。新規就農者に最初から出荷量を問うのは無理があって、まずは多様な品目の生態を知り、その圃場の植生に合ったものを見極めていかなければ、持続可能な栽培には繋がらないと考える。」・・・同書同欄に「食品の保存と加工を通じて食の在り方を考える」という表現を使ったことに関連した質問。質疑の後、「土壌に適した品目の生産を目指す」という文言の追加を求められ、渋々承諾した。

 曰く、「1反5畝の営農計画であるが、拡張の予定はあるか ?? 」・・・「私は農産物やその加工品などを、付加価値をつけて高く売りつけたり、増産して規模拡大を目指したりする考えはない。そのかわり、一人でも多くの自給農家が増えてくれることを願っており、そのための一助となればと考えている。」「申請された地区の平均的な農家1戸あたりの農地所有面積は約3町である。そのうちの20分の1しかやらないというのはいかがなものか。残る広大な農地についてはどう思うか ?? 」「地主との話し合いで1反5畝ということになっている。その地主には現在遊ばせている農地はない。私は都市部から移住してきたので、それを見て同じように就農したがっている友達が多い。地主との話し合いがつけば、今後返還されてくる農地を友達と分け合っていくことで農地管理の一助となればと思う。将来的には彼等は独立して住居を確保することが望ましく、市街化調整区域に新しい住居を建てることが出来ない現行の都市計画法の規定が緩和されることを望む。例えば1反の農地ごとに、農業を続けることを確約の上で1軒の住居の新築を認めるという運用がなされれば、農業の後継者や農村の過疎化の問題は解決に向かうであろう。一人で3町もの農地を管理させようとすることに無理があるのであって、日本中の広大な農地を数少ない後継者に押し付けている現在の農業政策の方が間違っていると考える。」

 もっと当たり障りのない答え方はあったであろう。しかし私は敢えて「正面突破」にこだわった。場の空気は険悪を極めた。アタマの硬い理屈屋にねじ込まれて憤懣やる方ないという感じだった。玉砕すれば事実を広く公表して徹底的に糾弾し、農地を放り出してとっとと都会へ戻る覚悟であった。なぜなら特例で認めてもらったり、本音を隠して手続だけを進めたのでは、問題の解決にならないからである。数週間の審議の後、冒頭の写真の通り私を新規就農者として公式に認める書類が届いた。「正面突破」を試みる希望者が続けば、この分厚い壁もいずれ崩壊するであろう。


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20140413 河口正紀著『喜望放浪』

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 河口正紀著『喜望放浪』という本を読んだ。ピリピリ・コレクションにあったものだが、タイトルからして南アフリカか世界一周探検旅行記だろうと思って、読まずに放置してあった。しかし、ウズベキスタンの旅から2年余りが経ち、無性に旅に駆り立てられる衝動を感じて、手近にあったのを読んでみたというわけだ。アジアを旅行してエジプトからケニアに至り当時のザイールに入国、キサンガニまでは陸路、そこからカヌーを漕いでキンシャサへ至った青年旅行者の手記である。彼はそのまま南アフリカへ赴き、喜望峰を目前にマラリアに斃れて帰らぬ人となった。1989年のことで、享年23歳。

 読みはじめてすぐ、彼の観察力・洞察力・文章力・博識に驚かされた。文がまとまっていて読みやすいのである。とても23歳とは、しかも「あの国」を旅行中に書かれたものとは思えない。私の場合、そもそも文が長く、簡潔に書くことが苦手である上に、旅の最中は旅そのものに夢中で、体力と時間の限界まで動き回るから、とても日記など書いていられない。書いたとしても、大学ノートに日付と走り書き程度で、そこに出会った人の連絡先や、彼等との会話で使った図などが混在して、後から見て支離滅裂なものが多い。旅行記としてまとめるのは帰国してからで、帰国後も実生活の建て直しに忙殺されて書く時間などとれず、かなり年月が経ってから漸く全体像が浮かび上がるということになる。旅をしながらリアル・タイムにブログをアップする人もあるが、つくづくすごいなと思う。

 さてこの本には、著者と「カニ」君という2人連れで、ザイール河を2ヶ月近くかけてカヌーで下った話がメイン・イベントとして出てくる。河の旅の終着地キンシャサでは1989/02/24 - 03/09の間滞在していたとある。同じ頃、実は初めての海外旅行で私もキンシャサに滞在していたのだが、私の記憶ではキンシャサでは日本人には一人も会わなかった。しかし当時の日記を読み返すと、なんと2/27日付で「夜、日本人あり遠方より来たる2人。ザイール河を下りキンに至る」と走り書きがあった。その「2人」が著者と「カニ」君なのかはわからない。走り書きはそれだけで、すぐ別の話題に移っているし、当時の日記は阪神淡路大震災で一旦地中に埋もれ、何度かの雨に遭って切れ切れになっている。また日付の繋がらない頁や切れっぱしが挟まっていたりして、正確な事実が分からないからである。読み進めると、おそらくその翌々日に「山本」・「三重野」、一ヶ月後には「宮沢」という日本人旅行者の名前が出てきた。結構遭っているようである。また、「キリマンジャロでドラムを叩くような真似だけはしたくない」とか、「音楽を格闘技と勘違いしてる奴がいる」などという走り書きもあって、これは知る人ぞ知るフリージャズのドラマーで、「のなか悟空」・「弁慶」の2人と知れた。

 著書ではキンシャサで当時のリンガラ・ポップスを広めた日本人として、「ピリピリ」という名前とともに、その本名までが記されている。この著書は河口氏の旅日記をそのまま本にしたはずだから、彼がピリピリの本名を知り得たのはそのときということになる。彼の本名を知る人はそう多くはないので、河口氏が本名を知っていたとすれば、それはかなり高い確率で私が教えた、つまり私は彼等と会っていたということになる。これは私の日記を見返してみても判然としない。

 著書ではさらに、何人かの日本人の名前とともに「木村さん」という人が、コミュニケーションの研究者として登場する。この人は、ごく数年前になって交際が始まった、京大「サル学」研究所の教授だが、25年も前のこのときキンシャサで会っていたようだ。木村氏の証言によると、その全員がほぼ同じ時期にキンシャサにいて、京大筋の学者がよく使う「ゲストハウス」に滞在していたという。そこはNdoloという地区で、空港から都心へアクセスする幹線道路沿い、都心の少し手前でザイール河沿いの倉庫などが建ち並ぶあたりである。空港と都心の両方へのアクセスが良く、またNdoloには国内便が発着する空港があり、学術研究者はここで飛行機をチャーターしたりもするので、そういう向きには便利なところである。しかしエンターテインメントは皆無に近く、他の場所へ繰り出すにはタクシーを雇うか、いったん都心へ出てアプローチせざるを得ない。私には無用の場所だ。同じ街に滞在していても、都心で鉢合わせしない限り出会うチャンスは皆無に近い。

 私が滞在していたのは、ぐっと奥に入った下街のマトンゲであって、しかも私は当時音楽修業中。師匠と崇めたパーカッショニストに直々に弟子入りが許され、毎日朝早くから師匠宅で特訓、昼過ぎに帰って食事をした後、すぐにRumba Rayというバンドのレコーディングに向けたリハーサルに赴き、夜遅くまでセッションした後、週の後半はライブ・バーをはしごして朝帰り・・・という状態で殆どホテルにはいなかった。いたとしても疲れ果てて熟睡しており、レセプシオンのズジさんが全ての客を門前払いしていたはずだ。そんななかをわざわざ噂を聞きつけてか、訊ねてきてくれたと見える。

 Ndoloにいた日本人旅行者たちは、全員ナイロビ発陸路ザイール入国、フェリーやカヌーでザイール河を漕ぎ下ってキンシャサに至るバックパッカー地獄の定番ルート。しかもナイロビでは、日本人バック・パッカーの宿として有名な「リバーハウス」にたむろしていた面々だった。当時の私はそのようなツーリストの流れを、一括して「きたないなりをした」奴らと切り捨てていたので、所詮水と油、交わりようもなく、記憶からもきれいに消え去っていたものとみえる。しかし、この本を読んだおかげで、そうしたツーリストの旅の実際に触れることが出来た。と同時に、忘れてしまって旅行記に収録しなかったエピソードが、まだまだたくさんあることに驚いた。

 特に、その「きたないなりをした」奴らが根城にしていたナイロビの日本人共同宿「リバーハウス」には、私もキンシャサからの帰途に宿泊していたはずだ。なぜそこに泊まったのかは良く覚えていない。もしかしたらキンシャサで遭った日本人旅行者に聞いたのかもしれない。ホームページにある旅行記はキンシャサを発つところで終っているし、当時の日記も、ナイロビの空港を出て「タクシーを捕まえて50kgの荷物ともども200KSで走らせてRiver Sideへ入る」というところで旅全体の記録が終っている。もちろん「River Side」とは「リバーハウス」のことであろう。しかしナイロビで何をしていたか、そこからカラチ経由で成田へ戻ったはずだが、そのプロセスは全く記憶にない。

 ただ覚えているのは、私は行きしなと同じくコム・デ・ギャルソンのスーツに身を固めていた。50kgの荷物とあるように、荷物は倍に増えてスーツ・ケース2個に大きなズタ袋も持っていただろう。「宿」の入口で「レセプションはどこですか ?? 」と居合わせた人に訊ねて怪訝な目つきで睨み返されたことは覚えている。この事実を以てしても、私が如何に当時アフリカを旅するツーリストとはかけ離れた存在であったかがよく分かる。当然、私はそこでの共同生活に嫌悪したが、どうせ数日のトランジットだからと宿替えもしなかった。多分、あまりに濃厚なキンシャサでの体験に疲れ切っていて、一刻も早く帰国したかったに違いない。唯一、大阪から来た同い歳の女性とは話が合って、これからあの地獄の定番ルートへ乗り込むという彼女に、自作のリンガラ語辞書と会話集を貸したことを覚えている。かわりにちゃっかり彼女の余分な荷物を大阪まで運ばさせられたが、そんなことがあった縁で、今でも仲良くつき合っていただいている。

 著者と「カニ」君はここから出発したのだ。そしてケニアからウガンダ経由でキサンガニへ直行している。かなり危ういルートだが最短距離だ。途中、Rwenzoriを頂きとするアフリカの屋根の壮大な景観を見たはずだ。さらに西進すると、道なき道は鬱蒼とした熱帯雨林のなかでどろどろに溶け、やがてそのぬかるみごと「全てを飲み込む河」ザイールに押し出される。私はこの国を愛し音楽を好む。言葉も喋ることが出来る。人も食事も大好きだ。しかしつくづく後悔する事は、この国の自然を見なかったことだ。「あそこだけは別格だ」と、海千山千の旅の強者達が口を揃えて言う。どう別格かは両極端であって、とにかくそれほど自然も人もスケールがでかい。旅をするには、おそらく世界中で最も困難で危険、二度と行きたくない国のひとつといえるだろう。現地の旅行代理店でさえ、そのホームページのトップに「寛ぎを求めるのなら他の国へ行け」と書いてある。しかし、一旦入り込むことに成功すれば、そこは世界にも全く稀に見る地上の楽園である。それは自然の中だけではない。大都会であり巨大な村でもあるキンシャサに於ても同じこと。私が愛した彼等の音楽は、全く以て世界中のどんな音楽ともその在り方が違う。誰がなんと言おうと、彼等の音楽は世界で一番とんでもなくてスケールがでかくて素晴らしい。つまり、それは彼等の「人となり」が世界でも稀に見るほど、群を抜いてとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいからだ。それし、とりもなおさず彼等を育んだあの国の自然が、とんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいということの現れである。しかし、私は2010年の旅でさえ、ピローグで川を遡上し、黒い水の源流を徒歩で山越えしたとはいうものの、そのとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいエッセンスの根源たる「全てを飲み込む」ザイール河を見た瞬間に、飛行機でキンシャサへ舞い戻ってしまったのだ。その旅で私は確かにひとつを掴んだ。しかしひとつを掴み損ねた。あの国、あの人たち、あの音楽、あの言葉、あの味は、著者と「カニ」君がやったような、そんな旅を通して初めて分かるものなのではなかっただろうか。

 私の旅は一点集中し過ぎる。1989年の第一の旅ではキンシャサから一歩も出なかったし、1991年の第二の旅では、南部の余りの渾沌に触れたものの、音楽にこだわって地獄を見、命からがら飛んで帰ってきたものだ。ひとえに音楽の探究・・・それはそれで悔いはない。しかし同じ国を旅しながら、もっと別な旅も可能であったはずだ。しかも、それはとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいなものだったのではないかということが、この本を読めばよく分かる。私はいながらにしてそれらに気付かず、訊ねてきた日本人の話さえまともに覚えていないほど、いや、訊ねてきた事実さえきれいに忘れてしまっているほど、周りを見ていなかったのだ。反省する。いまから彼等と同じ旅をするには、少々私は歳をとり過ぎた。残念である。とにかくそれほど、あの国は在り方が違うのだ。

 さて不幸なことにこの本を読んだのは、世の中がゴーストライターや科学の信憑性の問題で揺れているさなかであった。もちろん河口氏の手記がそのまま本になったわけではないだろう。それにしては、あまりにも文章が整い過ぎているし、現地で聞いたはずの発音とは全く異なる書き言葉の音写が散見されるからだ。編集がどの程度手を加えたのか、彼の文体と編集との整合性など、合理的な疑問点はいくつか残る。しかし、彼はこれを書いていた旅の途上で斃れたのだ。自分の書いたものが書物になっていることはおろか、自分が死んだことさえ、マラリアの強烈な熱と悪寒と頭痛と痙攣で分からなかっただろう。25年も経っていることだ。それをここへ引きずり出すのは死者に対する礼節をわきまえないことだ。枝葉末節はどうでも良い。彼の旅が私の旅とは全く異なる在り方であったからこそ、この著書は今まで私が読んだ旅行記の中で、最も身近に親しみを感じ、気付かなかった多くのことに気付かせてくれた作品である。全く正反対の旅をしながら、両方とも事実である。それがすなわち、あの国でありあの国の人たちであり、あの国の音楽であり食事であり文化であり自然であり・・・それを教えてくれた作品である。あの国に引き寄せられた俺達の直感は、間違っていなかったのだ。







posted by jakiswede at 23:40| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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