2014/09/27 (土) 谷上マーケットに出店します。
ランチは「赤と緑のアフリカン・シチュー」・・・写真はラタトゥイユに鶏の唐揚げですが、当日はコンゴ風の豆トマトシチューを作ります。緑のシチューは、本来キャッサバイモの葉を搗いて川魚とピーナッツ・オイルで煮込むのですが、サツマイモの葉とオクラに塩鯖と無添加ピーナッツ・ペーストで代用しています。今回に限り500円 x 8食売切れごめんですんでよろしく。ほかは来てからのお楽しみってことで・・・夕方からバイトなので、16時頃撤収します。
2014/09/27 (土) 谷上マーケットに出店します。
ランチは「赤と緑のアフリカン・シチュー」・・・写真はラタトゥイユに鶏の唐揚げですが、当日はコンゴ風の豆トマトシチューを作ります。緑のシチューは、本来キャッサバイモの葉を搗いて川魚とピーナッツ・オイルで煮込むのですが、サツマイモの葉とオクラに塩鯖と無添加ピーナッツ・ペーストで代用しています。今回に限り500円 x 8食売切れごめんですんでよろしく。ほかは来てからのお楽しみってことで・・・夕方からバイトなので、16時頃撤収します。
4日間、山陰へ車中泊しながら移住好適地捜しの旅に出ます。台風に向かってGo !!!
「摩耶山リュックサック・マーケット」と同時開催の「アコースティック・ピクニック」という、音楽の好きな人たちがユルーく集う催しに行ってきた。ペダル・カホンにハイハットとシンバルをセットして待つ事しばし、これは目を引くようで、何人かのミュージシャンたちが集まってきて、とりあえず持ち歌を披露し合いつつ音合わせ、やがてそれを聞きつけたミュージシャンが集まってきて輪が広がり、気がつけば様々な楽器を持った様々なジャンルの音楽をやる人たち、しかも全員ほとんど初対面、互いに顔を見合わせ、「次どーすんねん」と不安と緊張感に包まれながらも演奏を止めるわけには行かず、歌なのか即興なのか、ルールがあるのかないのか、曲が始まったときに何人いて終ったときに何人残っていたのかも、よくわからない、しかし非常に幸せなセッション大会になったのでありました。もちろん失敗もある。コケた演奏もある。脱線したソロもある。しかし稀には全員の呼吸がぴったり合って、ぐぐぐぐっとギアが噛みあってシフトする悦び、それぞれの反応の違いを探り合う面白さ、なにがおこるかわからない恐怖、互いの音を聞きあい、尊敬し、サポートし、引っ張っていく、音楽を奏でるという根源的な悦びを分かち合い、聴衆と溶け合う感覚・・・実に素晴らしい時間でありました。
バンドを初めて組んだ頃、演奏というものがこんなにも困難であやふやなものとは知らず、生演奏というものを初めて聞いた頃、完成された作品を見るのではなく、生きて蠢く生き物に触れるがごとく音楽はあるものだと知り、また発せられた瞬間に消滅する儚さにおののいたことを思い出す。初めて文化の異なる外国人の演奏を聴いたのはボブ・マーリーの来日公演であったのだが、レゲエなんてほとんど知られていない頃、一体何が始まるのか解らない聴衆の不安と期待、こいつらにホンマにこれ聞かせるん ?? というウェイラーズの戸惑い・・・どうなるか誰にも解らん混沌とした人の群れの中で、音は発せられて響きあってエネルギーとなって発散されたり、逆に誰にも解らずに沈んで消えてしまう事もあった。だれにもどうなるかわからないものだったはずだ。だから面白かったし、わくわくしたし、夢中になれた。いま、私が音楽に感動しにくくなっているのは、おそらく大抵の事を知ってしまったからという事もあるかも知れないが、演る側も聞く側も、予め結果についての予測がついてしまっているからではないか。演る側は失敗する事を怖れるあまり、失敗しないマニュアルを熟知して演奏に望んでくるし、聞く側も聞き所や感動のツボを予め予習してくるので、決まったところで決まった反応が出るのではないか。もう演り飽きたし聞き飽きたしどうでもよくなった。それに慣らされてきたのではないか。
上手い下手ではない。いや下手な方が、互いの音を聞き合おうとする、つまり音に対して真摯に向き合うので、合奏したときに様々な変化と融合が生まれる。聴衆も、音楽を聴いているのではなく、演奏者を見ているのだから、演奏がどう展開するのか、目の前で起っている事態にハラハラドキドキする。芸術的価値なんてどうでも良い。そこに演奏があって、それが自分たちのものであるという実感があって、しかも聴衆とともに共有される時間があれば、そんな贅沢な事はない。それがコラボレイションではないだろうか。集まった人、上の写真の白髪の人はブルース、バイオリン弾いてる人は英国に留学中のクラシック演奏家、下の写真左から登山と演奏を強引に合体させた音楽活動をしているシンガー・ソングライター、沖縄の三線奏者、モンゴルなどアジア音楽を趣味にする人、そして手前にラテンの人・・・まったくパラパラ・・・それでもとりあえず一曲を決めて演奏する。全くやった事のないジャンルの音楽の進行に、耳だけで音を合わせていく・・・初めはうまくいかないが、やがて溶け合ってくる。聴衆が引き込まれる。そして乗ってくる・・・気がつけば、クラシックしか知らなかった英才教育中のバイオリニストが、泥臭いブルースの歌の間の手に実に美しく艶やかなソロを響かせる。これが音楽というものだ。応援します。このイベント・・・
稲刈りを一週間延期した事でちょっと時間が空いた。叔父からの依頼で、ひざに乗せて使えるカホンを作ってくれないかとかねてから頼まれていたので、製作開始。ひざの上に乗せるという事は、打面が上を向く、サウンド・ホールは通常のカホンの底面に開ける・・・とりあえずざっくり決めて、エイ・ヤア・タア・・・
ととと、途中でサンダーが・・・これまたエイ・ヤア・タアとバラして炭素ブラシを交換しようと見てみたが、配線が直付けになってて「さわんなこのダボ」と言うてはるんで、しれっともどしてホームセンターに修理を依頼。ペーパー掛けは手作業に変更して続行。
こんな感じですかね、股に挟むとより音が締まってよろしおまんな。素人さんですさかいダブル・ストロークなど怖らくお出来にならないであろうから、基本的に右手でバス、左手でアタックと考えて、倍のパッサージュは両手でアクセントつけてもらうように、ざらつき音出し兼用のリベットを互い違いの配置にしたら、これがデザイン上の良いアクセントになった。
今日は、カリーナちゃんのオイル交換をかねて夙川で開店しているYamsaiさんへ野菜を届ける。とあるジャム専門店の店先に軽トラを横付けして、そこで営業中・・・と、あとからあとから、来るわ来るわお客さんの列 !! みんな、なんかにこにこしながらYamsai君と会話を交わして野菜を選び、カゴをいっぱいにしている。2千円、3千円、と、結構な金額になるのに、喜んで買っていく。八百屋やスーパーに並ぶような野菜はむしろ少ない。サツマイモの蔓、ニンジンの間引き・・・百姓が農作業がてら刈り採って料理の付け合わせにするような物・・・たしかに都市生活では得られない物が、どんどん売れていく。売れていくばかりではない。お客さんはYamsai君との会話を楽しんで行く。その野菜の採れた農園の事、食べ方の事、種を蒔いた野菜の事・・・「そこらで売ってる野菜とは全然違います」と彼等は言う。野菜を買わなくなった私が、もう何年も前に忘れてしまった感覚だ。かれらは、都市生活者でありながら、農村を体験しようとしている。売られているのは野菜であるが、実は、生命のある食を共有する場になっている。それも、みんなにこにこして、楽しんで・・・私は何故、こんなにも苦しんでいるのだろう・・・私の出荷した野菜を食べて、彼等は美味しいと言ったではないか・・・かれらがにこにこしてそう言うのに、なぜ私は難しい顔をして、毎日苦しんでいるのだろう・・・そもそも、なにが苦しいのだろうか。そんなことさえ、いまはよくわからなくなってきた。
なんの脈略もないのですが、「デング熱撲滅キャンペーンTシャツ」・・・たしか2010年にRecifeの旧市街の安売り店で買ったもの。こんな物が役に立つときが来ようとは・・・
せっかくなので、もう一発 !! Yamちゃんよ、気に入ったぜ・・・
「タイの香り米」・・・いかにも長い粒・・・
植え間違いの中生種・・・去年のコシヒカリと同じ道を辿っている。つまり、出穂期までは周囲の草に対して優勢であるが、稔りはじめると周囲の草に負けて急に細りはじめ、粒が白く空虚になる。これを教訓に、未だ出穂しきっていない晩稲の周囲を除草しておく。
本来、開花期の除草は禁物であるが、去年と同じ轍を踏みたくない。草に負ける部分は、田んぼの南縁の10列程度であり、その程度ならば限定的に除草に入っても良かろう。迷ったが、都合4回目の除草。
品種を分ける緩衝帯は、踏み倒し除草を試してみる・・・得意 (^^)
赤米出穂。隣家コシヒカリの稲刈り。大型機械で反当たり約15分・・・昼食後一服している間に済んでしまった。
ここに住み続けるか移住するのかで真剣に悩んでいる。私にとって、もはやこの集落は安住の地ではなくなった。しかし、ここを出て行くにもカネがない。どんなところへ出て行こうと、日本の集落なるものは、どこも同じようなものであろうので、行った先でまた同じ事を繰り返すくらいなら、集落でないところに住む事を考えた方が良さそうだ。誰か、山の中の一軒家で、割と近くに田んぼのあるところを、ただでくれるような奇特なお人はおられぬか ??
ここが何故安住の地ではなくなったか ?? しかしそれを書こうと思えば、話の具体性から場所や個人が特定され、いまなおここに住まざるを得ない私にとっては危険である。しかし一般論から類推してもらう事は出来る。
法律問題が解決した事は既に書いた。私は今ではここで合法的に営農している。しかし問題は終らなかった。法的要件を整えるのに三年もかかった事は、すなわち私の存在を合法化されたくない暗黙の力が働いていた事を意味する。私はそれに気付かなかった。結論から言うと、この集落は、自治会の意向として、新規入植者を受け容れたくない。しかし法的根拠がないので、自治会の持つ影響力を行使して、その合法化を阻止しようしたのであり、それは今も続いている。
農地を利用するには農業委員会の許可が必要である。農業委員会は公的な行政機関でありながら、個々の農業委員は公務員でも何でもない一般の農家であり、自治会では上位に当たる人物である事が多い。したがって、新規就農者の農地利用を認可したり、集落への入植を認めたりする際に、自治会は暗黙の許認可権を行使する事が出来る。農業委員会へ提出する書類のうち、自治会の承諾書に判を押さなければ良い。これは、自治会長が交替するまで変わらない。
法的要件をクリアしても、新規就農者には農地を有効に利用しているかどうかの審査があるので、そこへ圧力をかければ農地の利用権の継続を不利にする事が出来る。例えば、周囲との農法の違いを理由に、農業委員会に行政指導するよう働き掛け、それに従わなければ、それを理由に圧力をかける。すなわち、今年は水害の年であったのだが、いわゆる慣行農法通りの農地の管理のしかたをしていなければ、たとえば農地の法面が侵食されても保険はおりないので、慣行農法を徹底するようにと迫る。また、病虫害が周囲へ蔓延した場合に発生する補償問題も、その費用を負担出来ないのであれば慣行農法を徹底するようにと迫る。しかし残念な事に、新規就農を目指す人たちは慣行農法によって生産された農産物に不安を持っているからこそ、自分で作りたいと思っているわけである。そのような行政指導に従わずに自己の信念を曲げなかった場合、農法の如何ではなく、行政指導に従わなかったという事実を根拠にして、農地の利用権の継続を認めないという圧力をかける。これは、そのような意向を持つ人間が世代交替するまで変わらない。
結局のところ、農家出身でなく、集落の出身でない者が農業することは、巷で「田舎暮らし」ブームが騒がれているにも関わらず、集落の現場では時期尚早である。識者やマスコミが、農業の将来について、不安をあおり立てているだけで、集落では誰も困っていないからだ。しかしお題目を唱えて行政は動く。集落では表立って反対する事は出来ないので、とりあえず様子を見る。心の中では「ウチには来てくれるな」と思ってる。しかし入ってくる奴がいる。しばらく泳がしておいて集落に溶け込んでくれればそれで良し。しかし波風立てるような事をしたらタダでは済まさぬのである。
なぜそうなるのか。農村を構成している住民のほとんどは高齢者である。彼等は国の手厚い保護を受けてきたので、まだ貯えがある。しかも、彼等はずいぶん楽に暮らしてきたので、経済の逼迫について実感出来ない。従って現状を全く変えられたくないと考えがちである。
また、歴史的に為政者というものは、農民にものを考えさせないように仕向けてきた。生かさず殺さず物を言わせず飼いならしてきた。また、ほとんどの農民もそれを受け容れてきたので、老若男女を問わず主体的に物事を考える習慣がない。他方、農的生活を目指すのは非農業者であって、彼等は主体的に食の在り方について考えた結果、農的生活を志向した。つまり、一方は持てる物の使い方を知らず、他方は無い物ねだりをしている。両者は価値観が全く異なるのである。農村集落というものは運命共同体であって、共同するには互いの信頼関係が前提になる。これを常に確認するために始終親密なコミュニケーションが保たれていなければならず、往々にしてこれがプライバシーの垣根を越えて、個人の価値観にまで干渉する。そこまでいかないと互いの信頼が得られないのである。いざというときに共同出来ないのである。しかし他方は価値観にまで踏み込まれたくないと思っている。波風が立つのは時間の問題であって、集落では、そのような問題を起す人物とは共存出来ないという裁定が下されて、これを排除しようとする。
農村集落で生きるという事は、以上のような現状を耐え忍ばなければならないという事である。切先の鈍りきったなまくら包丁を振り回してもロクな料理は出来ぬ。いっそのこと全き自由を得て思う存分やりたいものである。狭い日本とはいえ、私の個性を存分に生かせる場所はあるはずだ。
急ぎ旅から戻ってみると、厳しい現実が私を待っていた。「やっぱりな」・・・集落から少し離れたところに住む、普段から仲良くしてもらっている農家の人が、農機具の展示即売会場を訪れたときの事、休憩室の中は、言わば自治会の寄り合いのような状態になっていて、主立ったメンバーが顔を揃えていたという。そこでの話題は主にふたつ・・・と、まあ、これを明らかにしてしまうと、私もここで生活している以上、いろいろとまずい事があるので、これ以上具体的な事は書けない。
以前、このブログに、隣家の息子が帰ってきて家業を継ぐというのに、地域住民がそれに反対しているという話を書いた。集落内の農地にわりと大きな施設を建設する事に対する反対運動である。そのなかで、私にも一緒になって反対せよという理不尽な圧力がかかって、私はそれを受け容れずに中立的立場をとったのだが、集落住民の大勢から言えば、それは隣家の息子に手を貸した事になる。何度かもたれた寄合の席でも、またその後でも、有象無象の圧力がかかっている事は意識していた。まあ、図らずも先日の農機具展示会の場で、私の懇意にしている人が、集落で持ち切りになっている一連の話題について、忌憚なく話しあっている様子をつぶさに聞いてしまったというわけだ。
要するにこういう事である。私はここに農業をしたくて移住してきたのであるが、正式に農地を耕作する権利が得られない状態が続いた。それは全く理不尽な処遇だったのだが、法律を知らなかった私には為す術もなかった。このとき、頑強に私の農家登録を妨害したのは、すぐ近くに住む農家の人で、去年まで農業委員を務めていた人物である。しかも、私はそんなことを露程も知らなかったので、ご高齢の彼が三反田に牛糞を撒く重労働を毎年見かねて手伝ってきたのである。感謝の言葉も受け、時々野菜を分けて下さるなど、関係は良好だと信じていた。しかし、彼は実に強硬な排外主義者だという事である。とにかく集落に外部の人間を入れる事には絶対反対、入ってきた場合には徹底的に妨害する、というのが彼の信条のようだ。もちろん、それは彼に限った話ではなく、集落の、およそ6割程度が同じような意識を持っているという。
私は農地の利用権の設定が出来ずに3年間も苦しんだ挙句、農水省に問い合わせて法律の規定の詳細を知り得た。それをもって農業委員会と掛け合ってこの春に新規就農者としての仮の資格が得られたのであるが、このことが彼にとっては面白くない。そこへ、今回の施設建設の話が持ち上がった。集落の現状を変える事には、いかなる事にも反対するというのが彼の立場であり、それはおそらく集落の半数以上、隣保に至ってはほとんど全員が反対の立場であった。専門知識のない村民が、わからんことをわからん者どうしであーだこーだ言ってるのを見かねて、私は客観的な解決方法を提案したのだが、これが彼の逆鱗に触れてしまったようである。私は直接自分と関係のない反対運動のどちらに与する事も出来ないとして、自治会長に事情を説明して協議から抜けた。まあいろいろと嫌がらせもあって、協議は物別れに終ったらしいのだが、今度は燻った非難の矛先が私の方に向いて火を噴いたという事である。
農地の利用権設定は3年ごとに更新されるのだが、新規就農者の場合は、初回更新までの間は毎年審査を受けなければならない。最終的には自治会が農地の利用計画を承認しなければ、審査にも通らないし更新も出来ない仕組みになっている。彼はここに目をつけて、自治会が私の農地の利用計画を承認しないように働きかけるという事だ。実はこの展示即売会場は農協の敷地の中にあって、なんとその一角に農業委員会もある。つまり、農民・農協・行政はいっしょくたに癒着しているわけだ。本来、自治会というものは任意団体であり、その決定にはなんの法的拘束力もない。しかし、行政がその許認可業務の一部を自治会という任意団体に委託している実態があって、自治会が許認可権を持ってしまっているのである。ちょうど風致地区の町内会の承認が得られなければ、家の壁の色すら決められないのと同じことだ。その自治会の半数以上が「何も変えて欲しくない」と思っているのであれば、口先でいくら日本の農業を守れ救えと言ったところで、要するに「他の村でやってくれ」と言っているようなものである。
この実態は、おそらく日本中のどの集落へ行っても同じであろう。なぜなら、農村人口の大半を占める老人の農業者は、実に手厚い保護政策に守られて、自分たちの生活にはなんの心配もないからである。この集落でも、地元の農民は、ほとんどのひとが本当になにもしないのだ。大半が米農家であるが、田植えも稲刈りもほとんどが農協か業者が来てやっている。本人は、後ろ手に手を組んでそれを見ているだけだ。それで日本の食糧生産に寄与しているわけだから、国から生活が保証され、実態はそれ以上の所得を得ている。そういう人生を送ってきた人に、時代が変わったと言っても、なんのことかわからんであろう。農業をカネで保護する時代はとっくに終っているのだ。これから農業をやる人は、徹底的に価格破壊された農産物で日本の経済レベルに対抗しなければならない。それはとてつもないことだ。農薬・肥料・機械・施設・・・あらゆる手段を駆使しないとそれだけの所得に届かない。具体的には、もうコメ農家は食っていけないので、大規模な施設園芸に賭けざるを得ない。しかし、そんなことを想像も出来ない老人たちにとっては、施設建設は環境破壊と行き過ぎたカネ儲けとしか映らない。老人たちの価値基準は護送船団横並び平等だから、独り勝ちは許さんという判断に行き着く。いくら国の方針通りだ環境基準だと言ってもダメなものはダメ、それでもやるなら徹底的に妨害する。
私に対しても同じだ。習わしも知らずにのこのこやってきて田んぼや畑は草ぼうぼう、それを恥じるどころか自慢気に吹聴して商売に結びつけようとする。ともすれば集落の方針に反対して、若造のくせに教科書に書いてあるような正論を吐く。泊だけでなく実行して法的権原まで手に入れてしまった。こういう人間に入ってこられると困る・・・と、だいたいが展示会場で話されていた事らしい。もちろん私に面と向かっては言わないから、私としては確かめようがない。しかし、実際に田植え以降、既に農業委員会から近隣のクレームとしての忠告が3回、自治会の回覧物の不配もチラホラ、挨拶の無視、ヒソヒソ話など・・・事実上の村八分状態と思われる。まあね、自治会に所属しても得るところはないんでね、それはむしろありがたい限りなんやが、問題は農地の利用権と新規就農審査やな。ここだけは石にかじりついてでもやらんと、これまでの苦労が水の泡や。いやもう、どうしても物別れというんやったら、ホンマに山の中の一軒家で野人と化すしかないんかな・・・俺の安住の場所は、どこにあんねん・・・
二百十日をすぎて本来ならば「風の盆」へ行くはずのところだが、今年は先日富山へ行ったばかりなので、自宅で謹慎している。
8月末に種蒔きした大根が芽吹いている。写真に撮り忘れたが、盆明けに白菜もポット蒔きしている。
春ジャガ2シーズンと秋ジャガ1シーズンを全滅させてしまったので、やり方を変える。一旦、慣行農法的基本に立ち返り、畝を耕して苦土石灰と草木灰を入れて良く混ぜ、畝を立ててから均して踏み固め、種芋を並べて植え付けていく。なぜなら、枯れた芋の直下にはモグラのトンネルが通っており、枯れた原因はそのトンネルを通ってきたネズミが食害したと思われるからである。畑の畝にはモグラのトンネルは付き物である。農薬を使わなければミミズが増え、ミミズを狙ってモグラが暗躍するので当然の結果だ。不耕起でこのまま植えると、既存のトンネルを温存する事になり、また同じ結果をもたらす。ここは自然農法の掟に反して、私の胃袋のために耕しきって植え付けようと思う。今年は既に秋が深まりはじめているので、短期決戦の秋ジャガは植え付けを早めた。
「タイの香り米」と「黒米」の穂が出ている。
田んぼである。まずは新畑脇田の、これは「タイの香り米」として種籾を貰ったものであるが、ひときわ背が高い。株元に草は生えているものの、ほとんど問題にならないほど強い。
その隣は、田植え時に見つけて移植したこぼれ種の黒米。こちらも極めて良い状態に育っている。その隣に「サリー・クイーン」があるが、これは既に穂が出はじめている。
一方こちらは東畑本田の「ハッピー・ヒル」・・・画面手前の部分が、昨年も成長が著しく悪かった部分で、帯状に同じ症状が診られるので、土質の問題かと思われる。
既に穂も出はじめているが、ひときわ気の早い株の逞しさは格別。
こちらは品種を良く確かめずに植えた中生の糯米。この調子で行くと、この部分だけ9月中旬に稲刈りとなるであろう。
本田の余り部分に植えた「サリー・クイーン」が出穂しはじめている。
こちらは脇田の「サリー・クイーン」・・・これも出穂しはじめている。
画面左は赤米で、例年通りであれば、出穂は9月中旬である。右は黒のこぼれ種移植だが、こちらは分蘖が良くない。出穂は始まっている。
今日は晴れたので、早速今シーズン後半の作業をスタート。先ずは新畑の観察。赤花豆は、花は咲くものの実が出来とらん。やっぱり難しいんかな・・・
相変わらずキュウリは元気ないねえ・・・
そのかわりニガウリは次から次から実ってくる。
トルコナスも元気。
エーゲ海のシシトウもようやく出来はじめた。日本の夏は、特に今年のような夏は、彼等には辛かろう。
サトイモは良く育っているのだが、間に植えたショウガが思わしくない。
サツマイモは順調、その奥フェイジョアーダ用黒インゲンは生き残った者と死に絶えた者の明暗が分かれている。
相変わらずの雨続き、あちこちで水害も出ている。身近なところでも、小規模な土砂崩れや道路の通行止めが頻発する。豪雨が続いていた間は片づけておいたんだが、もう良かろうと思って出しておいたら、これしきの雨でコワレンノカヨォコノオンボロタープ !! オレの夏は終った・・・
昨夜は駅前の銭湯に入った後、Okwessのミュージシャンとともにセッションに及び、疲れて夜半に車中泊。朝6時に目が覚めて、駐車場に隣接するコンビニでパンと缶コーヒーを買って朝食・・・さすが「オ・モ・テ・ナ・シ」の国、おしぼりがつくとは・・・
今日は、朝から「Jupiter's Dance」DVD観賞会と、その後にJupiter Bokondjiを囲んでのインタビューに誘われていたのだが、昨日、別アーティストの同様のインタビューを見に行って、司会者と通訳を見、同じ面子で今日も行われるという事もあり、また事情通なら東京から何人か来ているので、彼等が参加するなら別に私は出いでも良かろうと勝手に結論づけて、お誘いをすっぽかして早々に出発。夕方からバイトやし・・・
富山の富山らしい山間部は、かつて通い詰めた越中八尾への道であるので、裏庭のように頭に入っている。今日は本来の目的、北陸方面の移住好適地捜しである。
越中から加賀へ・・・山を抜けると金沢である。ここから南下して福井までは、白山連峰の西麓に広がる大穀倉地帯が延々と続く。
越前海岸に至る。ようやく海を望む斜面に集落の点在する好適地がチラホラ・・・
しかし、なかなか農地が隣接する環境には出会わなかった。
たった一ヶ所、ここだけはいける。その風景を脳裏に焼き付けて更に南下し、敦賀を越える。
舞鶴への途上、やたらピザが食いたくなって量販店の菓子パンのようなピザを食って後悔する。
まだ8月だというのに、夏を追い立てるように彼岸花が咲いている。三方五湖を観光して、今回の急ぎ旅を締めくくる。
どうも私は音楽というものを素直に楽しめなくなってしまったようだ。「カーリー」解散以来、自分に言い聞かせるように、努めて音楽を楽しむように楽しむように努力してきたつもりなのだが、どこか冷めきってしまった自分がいる。決定的になったのは、2010年に数ヶ月を費やした旅の途中、N.Y.で、Rioで、Salvadorで、Recifeで、そしてJNBで経験した音楽的絶望の数々である。とくにSalvadorでは、CandombleやMarakatuなどのなかに、雑多に押し込められた様々なアフリカ音楽の伝統の断片が発する悲鳴を聞いて、突然激しい哀しみに襲われた。それは救いようのない、ぞっとするような、真っ暗な渕のような哀しみだった。それらは明らかに、自分が繋がるべき次のフレーズを、前のフレーズを探し求めて悲嘆に暮れていた。また別のフレーズも同じ、そしてそのまた次のフレーズも同じだった。それらは、本来そこにあるべきでない隣人とともに繋がれていた。奴隷制度は終わったが、囚われの状態は、音楽の形式の中に刷り込まれることによって、永遠に伝承され続けるのである。Recifeのcarnavalでは、演奏されている楽曲の持つフレーズのひとつひとつが、切り苛まれてばらまかれ、他の要素と一緒くたにされてごちゃ混ぜにされた上に、たんにみんなで演奏しやすいという短絡的な基準にてらして、あるものは捨てられあるものは簡略化されて、辛うじてその残り滓の風化した残骸が、かつての芳香の名残を留めている様を見た。私はその残り香を追い求めた。しかし追い求めれば追い求めるほど哀しくなるばかりであった。これはまさに混血音楽の宿命である。音楽は混血してしまっているし、それを演奏している奏者たちも混血している。これをいまさら元に戻すことなど絶対に出来ない。しかし混じった血のそれぞれの遺伝子は、あるいはコンゴを目指し、あるいはアンゴラを目指し、あるいはガボンを、カメルーンを、ナイジェリアを、ガーナ、コート・ジ・ヴォワール・・・をそれぞれ目指して夜泣きするのに、それを手に入れることは出来ないのである。がんじがらめで不自由で息苦しい。その苦しみは、開放的で寛容なブラジル音楽の表面的な明るさとは全く裏腹に、音楽形式の繊維の奥の奥にまで色濃く刷り込まれてしまっていて容易に溶け出すことがない。音楽は、自らを束縛し尽くすほど自由なのだ。そして人類は、この繁栄と引き換えに、全く取り返しのつかない事をやってしまった。Kinshasaに降り立った翌日、再会した師匠に連れられて見に行ったあるバンドの2軍3軍のオーディションの伴奏の、cadenceからsebeneになだれ込むほんの一瞬の閃光は、N.Y.で、Rioで、Salvadorで、Recifeで、そしてJNBでの全ての音楽的体験を鼻息ひとつで吹き飛ばすほど強烈だった。それでももはや、Kinshasaでさえ音楽の都ではなくなっていた。世界とはこんなにも狭いものだったのか、繁栄とはこれほどまでに荒廃を導くものだったのか、それを目の当たりにしてから、私の心は、いわば貝のように堅く閉ざされてしまったかに思われる。
思えば私は・・・そして恩師ピリピリに導かれたさ迷える小羊たちは、余りにも強烈な音楽的体験をしてしまったのである。1980年代後半は、まだKinshasaは鬱蒼たる熱帯雨林の奥深くに息づく知られざる地上の楽園であった。文化は隔絶されていた。行って見なければわからなかった。そこは別世界だった。我々は毎晩のようにライブハウスをはしごし、疲れたらそこらのバーで寛いだ。翌日は昼過ぎから国民的スターが自分たちのリハーサルを見に来てくれるようにと使いをよこした。我々はその中に入って、彼等の音楽的手法や情熱をつぶさに学ぶことができた。連日連夜そのような事を繰り返して飽く事がなく、夜通し徒歩で街をぶらついても危険な目ひとつ会わなかった。そこは天国であり、同時に地獄への入口だった。それがいまではどうだ。日本にいながらにしてKinshasaのVictoire広場のライブ映像が見られるというのに、そこにあった音楽の殿堂Vis-a-visはなんとゲーム・センターだ。30年でKinshasaの音楽は世界に共有されたが、現地の音楽文化はめちゃめちゃに壊されてしまった。しかしそれでも、切り苛まれてばらまかれ泥だらけになったボロ雑巾でさえ、おそらく世界で最も輝かしい音楽的閃光を放っているのは一体どういう事だ。音楽というものの在り方が根本的に違うのだ。
乾ききったボロ雑巾を絞ってでもかつての残り香に酔いたいと思って、私は車を駆って富山へ向かったのである。しかしそこで見たものは、フェスティバルに熱狂する一部の人々が、全く無関係な日常生活を送る大多数の人々から自らを囲い込んでいる、あまりに大きな隔絶だった。おそらくその日で一番盛り上がったのはパレードであろう。しかしそれでさえ、出発地点のステージに客は皆無だった。内容は、地元に伝わる伝統的な提灯行列やサンバ・チームであったが、メイン会場前の沿道には、カメラを手に我が子や友人を撮影する人たちで一瞬賑わった。しかしパレードが通り過ぎると、彼等の多くは和やかに家路についたのである。村人にとっての催しはそれで終了だった。これは、日本人が一般に楽しいと感じる祭 (祀) と、音楽を中心にした複合的な楽しみの在り方としてのフェスティバルとが、全く別の存在である事を印象づけた。日本人は、こういう楽しみをしてこなかったのだ。
夕刻になって目的のステージが始まった。内容は地元のスティール・パンのグループ、アフリカ音楽を演奏する日本人のプロのデュオ、そしてメイン・アクトはコンゴ民主共和国直送のJupiter Bokondji & Okwess Internationalの演奏であった。たしか、私はサカキ・マンゴーのプロ・デビュー前にこのイベントにドラマーとして参加したとき、このスティール・パンのグループを見ている。その頃に比べたら彼等は格段の出来だ。素晴らしい演奏だった。しかしそれは、日本の地方都市の素人グループが、スティール・パンという遙か中米の楽器の習熟を目指して研鑽し、その成果を発表するという、学芸会のような、実に日本的な音楽の提示のしかたであり受容のされかたであった。それはそれで良い。ほほ笑ましい限りだ。
しかしプロとなれば話は違う。特に外国の音楽を披露しようとする場合、日本人でありながら、まるでその国の人が演奏しているかのように演奏出来ました、という態度を私は最も嫌悪する。どこそこの国のなんちゃらという民族の歌です・・・て、そんなことアンタらに出来るわけないやん、嘘が透けて見えるんよね。だからこーゆーの聞かされるのは、いやそれ以前に日本人がアフリカ人の格好して出てくるの見さされるんが嫌。演奏の向こうに何も見えない音楽というものは、救いようなく不毛だ。アフリカでもブラジルでも良い、あなたがその音楽を聴いてどんな魅力を感じ、それを伝えるためにどのように演奏しているか、オリジナルの力を一旦自分の身体に叩き込み、そこから滲み出るようにその力が演奏に出てこなければ、いくら上手に演奏出来てても駄目、音楽としては全く無意味・・・失礼、私は嫌。
さて、日本人によるアフリカ伝統音楽へ摺り寄ろうとして寄り切れない演奏の後は、コンゴ人によるアフリカ伝統音楽から離脱しようとして脱し切れない演奏であったことは興味深い。Jupiter Bokondji & Okwess International・・・なぜ今ここで彼等なのか、実は全く不明なのだが、とにかく彼等はここにいた。2007年に発表された彼等のドキュメンタリーは素晴らしい出来であった。それは一言で言えば、おそらく世界で最も輝かしい音楽的閃光を育み続けているKinshasaという混沌とは何なのかをえぐり出し得たものだ。その中での音楽的在り方のひとつとして、Jupiter Bokondji & Okwess Internationalは存在意義を持っていた。しかし、しかし、残念ながらその日私の目の前で展開された彼等の演奏は、全く異質なものだった・・・などと書くのも空しいのだ実は・・・Konono No.1・Kasai Allstars・Staffe Mbenda Bililiと繋がるキンシャサ音楽サクセス・ストーリーのone of them・・・要するに、売れんがための、ウケんがための、たったそれだけの演奏だった。そこには、アフリカ伝統音楽の深い重みや複雑な混沌や呪術性もなければ、1940年代から築き上げられたコンゴのルンバの豊かなまろやかさや穏やかな幸福感もなく、ルンバ・ロックの持つ怒濤のエネルギーの放出もなかった・・・ほんの一瞬だけ、飛びそうにはなったが・・・。あったのは、形ばかりの音圧の分厚さと、速過ぎるテンポに頼った破壊力だけだった。まさにアフリカ以外の土地で売れんがための、ウケんがための、たったそれだけの演奏・・・これを彼は「Tradi-Moderne」と表現したが、そんなものは30年も前から提唱され、模索され、実践され、様々な作品が生まれてきた。どこにも新しさはなかった。私にはコケ脅しとしか思われない。聞くところによると、今回彼等は単独で招聘されたようである。つまり、例によってのヨーロッパ大手のプロモーター・シンジケートの横流しイベントでなく、「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールト」の単独招聘だという。それはすごい。道理であの互いに反目しあってばかりいる東京のコンゴ人ミュージシャン組織の影がちらつかなかったわけだ。関係者の皆様ご苦労様、ギャラの支払いでもめないようにね。彼等は帰国してどうするであろう ?? Konono No.1・Kasai Allstars・Staffe Mbenda Bilili・・・彼等は確かに世界にKinshasaの音楽を発信し得たのだが、その後どうであるかというと、なにも変わらないのである。サクセス・ストーリーに見えた空騒ぎが終ってみれば、プロモーターを儲けさせただけのこと、一部はご褒美にきれいなマンションの一室を貰ったみたいだが、彼等もそのone of them・・・いつまでやるんだこんなことを ?? 彼等もそのone of them・・・そうなんだ、いくらでもいるんだKinshasaには、だから、なぜ今ここで彼等なのか、私には全くわからない。彼等もそのone of them・・・次は何だ ?? ・・・私ならSwede Swedeを選ぶかな・・・ ?? これもたくさんいるよ。でもウケないだろうな・・・
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