2014年09月03日

20140823 Okwess International

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 どうも私は音楽というものを素直に楽しめなくなってしまったようだ。「カーリー」解散以来、自分に言い聞かせるように、努めて音楽を楽しむように楽しむように努力してきたつもりなのだが、どこか冷めきってしまった自分がいる。決定的になったのは、2010年に数ヶ月を費やした旅の途中、N.Y.で、Rioで、Salvadorで、Recifeで、そしてJNBで経験した音楽的絶望の数々である。とくにSalvadorでは、CandombleやMarakatuなどのなかに、雑多に押し込められた様々なアフリカ音楽の伝統の断片が発する悲鳴を聞いて、突然激しい哀しみに襲われた。それは救いようのない、ぞっとするような、真っ暗な渕のような哀しみだった。それらは明らかに、自分が繋がるべき次のフレーズを、前のフレーズを探し求めて悲嘆に暮れていた。また別のフレーズも同じ、そしてそのまた次のフレーズも同じだった。それらは、本来そこにあるべきでない隣人とともに繋がれていた。奴隷制度は終わったが、囚われの状態は、音楽の形式の中に刷り込まれることによって、永遠に伝承され続けるのである。Recifeのcarnavalでは、演奏されている楽曲の持つフレーズのひとつひとつが、切り苛まれてばらまかれ、他の要素と一緒くたにされてごちゃ混ぜにされた上に、たんにみんなで演奏しやすいという短絡的な基準にてらして、あるものは捨てられあるものは簡略化されて、辛うじてその残り滓の風化した残骸が、かつての芳香の名残を留めている様を見た。私はその残り香を追い求めた。しかし追い求めれば追い求めるほど哀しくなるばかりであった。これはまさに混血音楽の宿命である。音楽は混血してしまっているし、それを演奏している奏者たちも混血している。これをいまさら元に戻すことなど絶対に出来ない。しかし混じった血のそれぞれの遺伝子は、あるいはコンゴを目指し、あるいはアンゴラを目指し、あるいはガボンを、カメルーンを、ナイジェリアを、ガーナ、コート・ジ・ヴォワール・・・をそれぞれ目指して夜泣きするのに、それを手に入れることは出来ないのである。がんじがらめで不自由で息苦しい。その苦しみは、開放的で寛容なブラジル音楽の表面的な明るさとは全く裏腹に、音楽形式の繊維の奥の奥にまで色濃く刷り込まれてしまっていて容易に溶け出すことがない。音楽は、自らを束縛し尽くすほど自由なのだ。そして人類は、この繁栄と引き換えに、全く取り返しのつかない事をやってしまった。Kinshasaに降り立った翌日、再会した師匠に連れられて見に行ったあるバンドの2軍3軍のオーディションの伴奏の、cadenceからsebeneになだれ込むほんの一瞬の閃光は、N.Y.で、Rioで、Salvadorで、Recifeで、そしてJNBでの全ての音楽的体験を鼻息ひとつで吹き飛ばすほど強烈だった。それでももはや、Kinshasaでさえ音楽の都ではなくなっていた。世界とはこんなにも狭いものだったのか、繁栄とはこれほどまでに荒廃を導くものだったのか、それを目の当たりにしてから、私の心は、いわば貝のように堅く閉ざされてしまったかに思われる。


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 思えば私は・・・そして恩師ピリピリに導かれたさ迷える小羊たちは、余りにも強烈な音楽的体験をしてしまったのである。1980年代後半は、まだKinshasaは鬱蒼たる熱帯雨林の奥深くに息づく知られざる地上の楽園であった。文化は隔絶されていた。行って見なければわからなかった。そこは別世界だった。我々は毎晩のようにライブハウスをはしごし、疲れたらそこらのバーで寛いだ。翌日は昼過ぎから国民的スターが自分たちのリハーサルを見に来てくれるようにと使いをよこした。我々はその中に入って、彼等の音楽的手法や情熱をつぶさに学ぶことができた。連日連夜そのような事を繰り返して飽く事がなく、夜通し徒歩で街をぶらついても危険な目ひとつ会わなかった。そこは天国であり、同時に地獄への入口だった。それがいまではどうだ。日本にいながらにしてKinshasaのVictoire広場のライブ映像が見られるというのに、そこにあった音楽の殿堂Vis-a-visはなんとゲーム・センターだ。30年でKinshasaの音楽は世界に共有されたが、現地の音楽文化はめちゃめちゃに壊されてしまった。しかしそれでも、切り苛まれてばらまかれ泥だらけになったボロ雑巾でさえ、おそらく世界で最も輝かしい音楽的閃光を放っているのは一体どういう事だ。音楽というものの在り方が根本的に違うのだ。


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 乾ききったボロ雑巾を絞ってでもかつての残り香に酔いたいと思って、私は車を駆って富山へ向かったのである。しかしそこで見たものは、フェスティバルに熱狂する一部の人々が、全く無関係な日常生活を送る大多数の人々から自らを囲い込んでいる、あまりに大きな隔絶だった。おそらくその日で一番盛り上がったのはパレードであろう。しかしそれでさえ、出発地点のステージに客は皆無だった。内容は、地元に伝わる伝統的な提灯行列やサンバ・チームであったが、メイン会場前の沿道には、カメラを手に我が子や友人を撮影する人たちで一瞬賑わった。しかしパレードが通り過ぎると、彼等の多くは和やかに家路についたのである。村人にとっての催しはそれで終了だった。これは、日本人が一般に楽しいと感じる祭 (祀) と、音楽を中心にした複合的な楽しみの在り方としてのフェスティバルとが、全く別の存在である事を印象づけた。日本人は、こういう楽しみをしてこなかったのだ。


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 夕刻になって目的のステージが始まった。内容は地元のスティール・パンのグループ、アフリカ音楽を演奏する日本人のプロのデュオ、そしてメイン・アクトはコンゴ民主共和国直送のJupiter Bokondji & Okwess Internationalの演奏であった。たしか、私はサカキ・マンゴーのプロ・デビュー前にこのイベントにドラマーとして参加したとき、このスティール・パンのグループを見ている。その頃に比べたら彼等は格段の出来だ。素晴らしい演奏だった。しかしそれは、日本の地方都市の素人グループが、スティール・パンという遙か中米の楽器の習熟を目指して研鑽し、その成果を発表するという、学芸会のような、実に日本的な音楽の提示のしかたであり受容のされかたであった。それはそれで良い。ほほ笑ましい限りだ。


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 しかしプロとなれば話は違う。特に外国の音楽を披露しようとする場合、日本人でありながら、まるでその国の人が演奏しているかのように演奏出来ました、という態度を私は最も嫌悪する。どこそこの国のなんちゃらという民族の歌です・・・て、そんなことアンタらに出来るわけないやん、嘘が透けて見えるんよね。だからこーゆーの聞かされるのは、いやそれ以前に日本人がアフリカ人の格好して出てくるの見さされるんが嫌。演奏の向こうに何も見えない音楽というものは、救いようなく不毛だ。アフリカでもブラジルでも良い、あなたがその音楽を聴いてどんな魅力を感じ、それを伝えるためにどのように演奏しているか、オリジナルの力を一旦自分の身体に叩き込み、そこから滲み出るようにその力が演奏に出てこなければ、いくら上手に演奏出来てても駄目、音楽としては全く無意味・・・失礼、私は嫌。


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 さて、日本人によるアフリカ伝統音楽へ摺り寄ろうとして寄り切れない演奏の後は、コンゴ人によるアフリカ伝統音楽から離脱しようとして脱し切れない演奏であったことは興味深い。Jupiter Bokondji & Okwess International・・・なぜ今ここで彼等なのか、実は全く不明なのだが、とにかく彼等はここにいた。2007年に発表された彼等のドキュメンタリーは素晴らしい出来であった。それは一言で言えば、おそらく世界で最も輝かしい音楽的閃光を育み続けているKinshasaという混沌とは何なのかをえぐり出し得たものだ。その中での音楽的在り方のひとつとして、Jupiter Bokondji & Okwess Internationalは存在意義を持っていた。しかし、しかし、残念ながらその日私の目の前で展開された彼等の演奏は、全く異質なものだった・・・などと書くのも空しいのだ実は・・・Konono No.1・Kasai Allstars・Staffe Mbenda Bililiと繋がるキンシャサ音楽サクセス・ストーリーのone of them・・・要するに、売れんがための、ウケんがための、たったそれだけの演奏だった。そこには、アフリカ伝統音楽の深い重みや複雑な混沌や呪術性もなければ、1940年代から築き上げられたコンゴのルンバの豊かなまろやかさや穏やかな幸福感もなく、ルンバ・ロックの持つ怒濤のエネルギーの放出もなかった・・・ほんの一瞬だけ、飛びそうにはなったが・・・。あったのは、形ばかりの音圧の分厚さと、速過ぎるテンポに頼った破壊力だけだった。まさにアフリカ以外の土地で売れんがための、ウケんがための、たったそれだけの演奏・・・これを彼は「Tradi-Moderne」と表現したが、そんなものは30年も前から提唱され、模索され、実践され、様々な作品が生まれてきた。どこにも新しさはなかった。私にはコケ脅しとしか思われない。聞くところによると、今回彼等は単独で招聘されたようである。つまり、例によってのヨーロッパ大手のプロモーター・シンジケートの横流しイベントでなく、「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールト」の単独招聘だという。それはすごい。道理であの互いに反目しあってばかりいる東京のコンゴ人ミュージシャン組織の影がちらつかなかったわけだ。関係者の皆様ご苦労様、ギャラの支払いでもめないようにね。彼等は帰国してどうするであろう ?? Konono No.1・Kasai Allstars・Staffe Mbenda Bilili・・・彼等は確かに世界にKinshasaの音楽を発信し得たのだが、その後どうであるかというと、なにも変わらないのである。サクセス・ストーリーに見えた空騒ぎが終ってみれば、プロモーターを儲けさせただけのこと、一部はご褒美にきれいなマンションの一室を貰ったみたいだが、彼等もそのone of them・・・いつまでやるんだこんなことを ?? 彼等もそのone of them・・・そうなんだ、いくらでもいるんだKinshasaには、だから、なぜ今ここで彼等なのか、私には全くわからない。彼等もそのone of them・・・次は何だ ?? ・・・私ならSwede Swedeを選ぶかな・・・ ?? これもたくさんいるよ。でもウケないだろうな・・・


posted by jakiswede at 22:17| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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