2014年10月15日
2014年10月14日
20141008 eclipse lunar
皆既月食を観察した。暑くもなく寒くもなく、空は澄みきって冴え渡り、体長も気分もすこぶる良かったので、ベランダにビーチ・チェアを持ち出して、背もたれに首を載せて、だらっと延びきった格好で、ぽかんと口まで開けて月を見ていた。見ながらぼんやり考えた。欠けていくときは疑問に思わなかったのだが、満ちていくとき、なぜ月は西 (右) に動いているのに、東側から満ちていくのだろう・・・と。皆既食の間は、月の上半分がぼんやりと明るかった。これはおそらく、地球の影が月よりも大きいので、月は地球の影の上の方に偏って通過しているものであろう・・・だんだん月の左側が明るくなってきて影から抜ける。しかし、月は西 (右) に動いているのに。本来ならば、右へ動いているものならば、右から抜けていきそうなものだが・・・あ・・・そうか・・・月が西へ動くのは地球が自転しているからであって、地球の自転と月食は関係ないわな・・・とすると・・・などと、月を見ながらいろいろ考え込んでしまったのだ。
太陽と地球と月が、ほぼ一直線に並ぶので月食は起る。たまたまその日の日本は夜だったので月食が観測出来た。地球は太陽の周りを北極側から見て反時計回りに公転しているのだが、約365日かけて一周するのに対して、月は、定義の仕方にもよるが、地球の周りを反時計回りに27-28日くらいで公転している。つまり角速度にすると月の方が遙かに速いから、地球から見て地球の影からその左側が先に出てくる。
としても、欠けてくる角度と満ちていく角度が大きく違うように見えるのはなぜだろう・・・月は、斜め左下から欠けてゆき、真右から満ちて来るように見えた。本来ならば、水平線と並行に満ち欠けが起るだろうに・・・これも考えた。もし、そのとき私が月を真上に見る場所にいたとしたら・・・つまり、日本から遙か南東の赤道直下のとある場所にいたなら、地球の影は、地平線と並行に動くのが観測出来たであろう。しかし、それを差し引いても、わずかに角度が違う。もしかしたら、それは地球の自転軸が、公転軌道に対して23度ほど傾いているからではないか。つまり、月食の起っている数時間の間に、地球は公転軌道に沿って、反時計回りに僅かに動くはずだ。しかし月は、地球の公転軌道面に対して斜め下に動く事になるので、欠けるときと満ちるときの角度が違って見えたのではないか・・・もちろんこれは月を見ながらぼーっと考えた事である。
さらに、そもそもなぜ月食は毎月起らないのか・・・地軸が傾いていて、月は地球の赤道とほぼ同心円上を自転しているのだから、太陽、地球、月がほぼ一直線に並ぶためには、月の公転軌道と地球の公転軌道面との接点が、太陽と地球の延長線上に非常に近くなる満月の時、すなわち春分か秋分に近い満月の時にしか起り得ないからではないか・・・・いやいや、真夏や真冬に月食が起って、観測しようとしても蚊や寒さに耐えきれずにやめてしまった事が多い・・・ということは、月の公転軌道は、地球の赤道ではなく、黄道の同心円に近いのではないか、しかしそれからも僅かにずれているので起ったり起らなかったりするのではないか。もし、月の位置に巨大なスクリーンがあれば、月食は毎月起るはずだ。
などとつらつら考えているうちに、地球の影が円く実体をもって月の表面に現れた。そしてそれは右へずれていく。その影の見えている辺りはアメリカだろうかブラジルだろうか・・・などと考える。月は斜めに動いていく。地球の地軸はずれている。自分はその北半球のある場所にいて、月を斜め上に見上げているのだが、実はそうではなく、自分の背後に、巨大な水平の輪、すなわち地球の公転軌道の輪があって・・・自分はその上の地球の斜め上にいてその軌道の外側を見ているのであって、公転軌道からすれば斜めになった地面から斜めに身を横たえて左足の下から上がってきた月を眺めている・・・そう思った瞬間の事である。ほんの一瞬の事だが、地球の公転軌道と太陽の位置、地球の自転と月の位置を、理論ではなく感覚として、三次元的に瞬時にイメージする事が出来た。しかしその次の瞬間、太陽系自体も銀河系の中で公転しているわけだから、地球の公転軌道自体も天の川に対してずれている・・・と思いが至った瞬間、そのイメージがはじけ飛んでしまったのである。直観とはこのような感覚の事をいうのであろうか・・・
http://www.youtube.com/watch?v=R_wlgHKe0Q4
2014年10月13日
20141008 patlıcan salatası
patlıcan salatası (パトルジャン・サラタシュ) というトルコのナス料理である。トルコを旅行中によく食べたのだが、なにせ貧乏旅行ゆえ、ちゃんとしたレストランでメニューを見ながら料理を注文した事はなく、男達が押し寄せる下街の大衆食堂で、陳列保温ケースの中の様々な料理を大皿に自分で適当に盛りつけて、量り売りで食する「ロカンタ」というセルフの食堂である。料理の名前など解らないので、当時はナスのシチューだと思っていた。しかし親友のトルコ航空のチーフ・アテンダントに訊いてみると、ナスのサラダだといって、瓶詰めで売られているものを買ってきてくれた。なるほどそういわれればそうである。食べてみると確かにその味だ。なんとなくスモークされた香りが特徴であったので、彼女に調理法を訊いてみると、なんと焼きナスだという。そこで自分でも焼きナスを作って、似せた料理に挑戦してきたのだが、どうもあの感じが出ない。そこで今日は、野菜の出荷のついでに、芦屋にあるトルコ料理店に出向いて、トルコ原産のナスを持っていくからpatlıcan salatasıを作ってくれないかと頼んだわけである。さすが、やっぱり頼むべき人に頼むと、こんなにも旨い料理が出てくるのだ。焼きナスであるというのは当たり。しかし日本の焼きナスと違って、水の中で皮を剥く事をしない。それをやると、あの独特のスモーキーな風味が流れてしまうからで、焦げた皮の混入を嫌う日本料理と、多少皮の破片が混じっても風味を大切にするトルコ料理の美的感覚の違いがここに出るのであろう。私は後者をとる。味付けは比較的自由であって、主に塩・レモン果汁・オリーブオイル・ニンニクなどが使われる。そこまでわかれば、あとは自分でエロエロ・・・失礼、いろいろ試すのみ。
まあそんなわけで、久しぶりに味覚の精神が解放されて、農作業をほっぽりだしてパスタ・ソース作りに勤しんでしまった・・・でも、旨い・・・
22140928 新畑の野菜の観察
土手際の黒インゲン。おそらく夏以降にこぼれ種から発芽した数株が青い実をつけていて、他は大量の収穫をもたらしてくれた後、力尽きて枯れ落ちた。
その手前で成熟していくサツマイモ、白いイズミと紅の鳴門金時。
左から赤花豆・白菜の予定地・生育中の青首大根。
赤花豆は、文字通り鮮やかな赤い花をつけるのだが、実はほとんど出来ていない。なお観察する。
左から、イチゴの収穫後放置してある畝・キュウリの柵を撤去後ニンニクを植える予定地・生き残るニガウリ。
ニガウリは、葉を枯らしつつも実をつけ続けている。
ナス科3畝、ナス・トマト・春作のジャガイモの跡地。
トルコのナスは日本の米ナスとほぼ同じ。快調とは言えないものの、食べるには充分な実をつけてくれている。
トルコのエーゲ海地方原産のシシトウだが、肥料をやらないので辛味がある。
収穫期の終ったトマト、残りの実を採ったら整地する予定。
草に埋もれてわかりにくいが、秋ジャガ出島・日常アブラナ野菜各種・ワサビ大根。
秋ジャガ出島も成長中。
直播きのアブラナ科野菜各種も間引を終えてこれから成長するだろう・・・か・・・??
番外というには失礼なほど立派に生長しているサトイモ。間にショウガがあるが、これはあまり調子が良さそうでない。
2014年10月12日
20140928 東畑の野菜の観察
東畑の野菜の観察。まずはスウィート・バジル、すでに125g入り10本を生産してあるが、もっぱついけそう。1本\500で売ったとして、1万円・・・高いか安いか・・・
左よりウリ科2本とイチゴの跡地。今年は長雨と風と日照不足で、ズッキーやカボチャは散々だった。イチゴはその前に収穫期があるのでまあまあだった。ここは冬の日常野菜などに使う予定。
トルコの白ズッキー (kabak) も、10株程度苗作りをしたのだが、収穫出来るほどになったものは数株、しかも実際に収穫出来たのは3個程度だった。これは最後の実だが、まだら模様がおかしい。
イチゴの隣、左から青首大根・ワサビ大根・オクラ。
大根はいずれも間引き収穫中。間引き菜というものは百姓ならではの醍醐味であって、特に大根は、若々しい根と葉の甘味と柔らかさが絶品なのである。間引き終れば、あとは肥大成長していくので、逞しくなる代わりに、この初々しい味覚を味わう事が出来なくなる。オクラもまだまだ毎日収穫出来る。
糯米「大金持」を干しているが、その下左から、別に育苗中の白菜の定植予定地・秋ジャガ (ニシユタカ・農林1号・メイクイン) ・イチゴの定植予定地。
秋ジャガが育っている。霜降までの短期決戦なので、実ってくれる事を祈るばかり。
その隣、左から、シシトウやトウガラシ類・インゲンとツルムラサキ・キクイモとサトイモとショウガ。
シシトウ類は秋になって調子を上げてきた。これは韓国のキムチ用に使われるまろやかなトウガラシ「고추 (コチュ) 」
ネパール原産の三尺豇豆 (cow peas) も少しずつではあるが採れている。湯がいて良し、炒めて良し、天ぷらにしても旨い。筋がないので重宝する。
初夏に種を蒔いて秋に収穫する七夕豆。筋が硬く薄皮も強いので鞘ごと食べる事は出来ない。熟成させて白い豆を採る貯蔵用。
葉をむしられても腋芽を切られてもどんどん生長するツルムラサキ。葉物野菜の減る夏場に大活躍。粘り気が喉を潤す。
生きてはいるのだが成長する気配のないショウガ。葉ショウガとしては収穫出来なかった。
20140928 東畑の田んぼの観察
さて気を取り直して現実に戻ろう。東畑本田の観察から始める。左は「豊里」、右は「ハッピー・ヒル」である。秋の光を受けてゆっくりと熟成している。稲刈は11月初旬。
いつも草に負けてしまう部分も、今年は除草をタイミング良く出来たので、稲の生育状態が良い。
早くに刈り取った糯米「コガネモチ」の空地・・・名前が気に入らんので私はこれを「大金持」と命名する。
その隣の自家発芽の「サリー・クイーン」・・・いもち病を克服して逃げ切ったようだ。稲刈は10月下旬。
脇田の「サリー・クイーン」こちらも同様の順調な生育を見せている。間にチラホラ見える赤い穂は、こぼれ種から発芽した赤米。
赤米は観賞用としては最盛期を迎えている。濃い緑と紫のコントラストが実に美しい。これから先、茎は色が淡くなり、草丈も伸びて倒れ込むようになるので、柵で取り囲んで稲刈を待つ。こちらも稲刈は10月下旬。
20140926 西へ西へ・・・西へ西へ
たとえ4日間という短い旅であっても、旅の終りは必ずやって来る。2010年に世界一周旅行を終えて、イスタンブールから帰国の途についたとき、1989年に初めての海外旅行を終えて、ナイロビから帰国の途についたとき、全ての手続を終え、ボーディング・パスを持って待合室に向かうとき、その一歩一歩が、確実に旅を終らせる歩みである事を、否応なく実感させられた。今回の旅は、自ら車を駆って帰らなければならぬ旅である。自分で運転して自分で旅を終らせなければならない。いつまでも旅を続けていたい。しかしそうはいかない。現実に戻らなければならない。これは、非常に辛く哀しく切ない事だ。たとえ4日間といえども、予定を立てずに行うものは、「旅行」ではなく「旅」と呼びたい。日常生活では起り得ない事態の組み合わせ、その時々で対処し、その仕方によって、後の旅の在り方が様々に変わる。これが旅の醍醐味だ。
赤碕という漁村は、旅の最後を飾るにふさわしい強烈な印象を残した。はからずも旅の初日に予定していたものが狂って、旅路としては非効率なルートになってしまったのだが、もともと行き当たりばったりの旅でもあるし、結果的に良い締めくくりになったと思っている。台風の余韻であろうか、常に潮騒が耳につき、それは今もこびりついたように取れない。海は、何故か常にその中に吸い込まれて行く滅びの感覚とともにある。とくに漁村というものは、集落の在り方、家の建ちかた、その造作や普請に至るまで、滅び行く何かを常に予感させる儚さがある。波音は途切れない。一定の間隔を置いて反復される。そして永遠に続く。その音を聞いていると、漁村が滅びても、つまり人間が住まなくなっても、或いは人類が滅びても、未来永劫、延々と繰り返される音である事を痛感する。不毛でもあり、完全な安らぎでもあり、身を投げてしまいたいほどの誘惑に満ちている。特にここ、赤碕の漁村は、その崩壊感覚が色濃く息づいている。
塩谷定好という写真家は、いわば日本のピクトリアリズム写真の草分けといえるだろう。セレクティブ・フォーカス、ソフト・フォーカス、ベス単のフード外しなどの撮影技法と、ブロム・オイル、ゴム印画などのプリント技法を駆使した芸術写真を多く生み出した。その成果は、国内よりも海外において高く評価され、日本の写真界に大きな足跡を残した。絵画的表現を好む写真愛好家であれば、大抵その名を知っているはずだ。彼の作品展が開かれたことを聞いた事がないし、写真も印刷物でしか見た事がなかった。それが今春、彼の故郷である赤碕にその作品や資料を収集した記念館がオープンしたことを知ったので、旅の最後であっても是非訪れたかったわけである。
塩谷定好写真記念館は、赤碕の漁村の狭い通り沿いにある。車で行くには、国道9号の「道の駅ポート赤碕」から西へ漁村に入っていって、しばらく行った右手に広がる漁港の駐車場に車を止めると歩いてすぐである。廻船問屋であった実家は、贅の限りを尽した古民家で、そこを奇麗に改装して、ギャラリーとカフェが営まれている。おそらく地域のボランティアの人たちで運営それているのであろう、写真家自身とこの建物、そして赤碕の事についてガイドしてくれた・・・そうなのだ、彼の評価は日本国内よりも海外で高かったという事実は今も受け継がれていて、彼の作品を継承する記念館でありながら、彼の写真の表現技法の内容については、彼の記念館ですら継承されていない。ガイドしてくれた内容は、写真に写っているこの人は今も存命でどこそこに住んでいるとか、この漁港の岸壁の形がこうだからいつごろに撮影されたものだとか、建物の細部に施された装飾の事とか・・・そういう内容だった。私はそれを楽しく訊き流した。プリントが見られさえすれば、それで良かったのだから。
記念館を出たあと、暮れなずむ赤碕の町を少しだけ散策した。漁港の裏手は、すぐ高台になっている。急な階段を上がるとそこに小さな公園があって、そこから日本海を見渡せる。すとんと切り落とされたような芝生の台地の下に延びる漁村、その彼方に広がる日本海。空と海との境界が灰色の靄の中に溶け合っている。もはや、繰り返し打ち寄せる波の彼方がどこなのか、波がどこから来るのかもわからない。私の旅が、どこから来てどこで終るのかも、しばし靄の中に吸い込まれていきそうな感覚に陥る。塩谷定好が、山陰という日本の景観の宝庫を愛し続けたことに、少しだけ近づけたような気がした。
2014年10月10日
20140926 西へ西へ西へ・・・西へ
カリーナちゃんとの旅も今日が最終日。30年近く乗り続けているこの車、外観は満身創痍の弩迫力、しかし中身はほとんど更新されて新品同様、まだまだ走り続けてくれそう。カリーナちゃんの中で過ごす夜は、不思議なほどに安らぐ。海辺に止めた車の中で聞く潮騒の音、夢の中に擬人化されたカリーナちゃんが現れて、私を遠い海の波間に連れていってくれる。それは、永遠に時を止めてくれそうなほど無機的で完璧な反復・・・大いなる安らぎ・・・そして目覚めたたびの最終日は、台風一過の抜けるような青空であった。
牛丼の特盛りかと思うたが、「こっとい」と読む。
断崖絶壁を競り合うように伸びたこの鉄路を、かつては大阪発福知山線山陰本線経由博多行き特急「まつかぜ1号」が毎日駆け抜けたと思うと、実に感慨無量。
帰途につかなければならぬ。本州最西端の道の駅で休憩したあと、下関まで南下。そして中国道に乗り、行きしなに寄り損なった赤碕へ向けてひた走る。ときおり現れる中国地方の山村風景を記憶に留め、休憩も取らずにひた走る。なぜなら、赤碕の塩谷定好写真記念館は16時に閉まるからである。
三次東から松江道を北上する。途中、疲れたので「雲南吉田」という道の駅で遅いランチを摂る。・・・セルフ・サービスのうどんのトレイにイラストマップを印刷した紙が敷いてある。・・・吉田 ?? ・・・実は「カーリー・ショッケール」のリーダーの福丸和久とその兄の故郷は吉田村といって、島根の山奥の、冬は雪に閉ざされ、夏は蝉ばかり五月蝿い、隣の村からは竹下もと総理大臣が出たくらいで、他にはなんにもないところだと聞いていた。ボロクソである。食器を返すとき、私はおばちゃんに訊ねた。「この地図にある吉田というのは、旧の吉田村の事ですか ?? 」「そうですが」「そこはここから車でどのくらいですか ?? 」「5分とかかりません」「地元の方ですか ?? 」「そうですが」「ではそこに福丸デンキという店はありますか ?? 」「ありますよ、もう閉めてはりますけど・・・」・・・Go !!
福丸兄弟がボロカスに言うてた吉田村は、こんなに静かで気品に満ちて落ち着いていて美しい村だった。旧の福丸デンキは中心部の川沿いにあって、今ではカフェに改装されていた。思いっきり宣伝しとこ・・・この村とっても良いですよ、お洒落に鄙びた旅館もあるし・・・こじんまりとした風情は越中八尾にも勝る智男と欄、空家も適度にあるし、ここに住もうかな・・・カフェのねーちゃん奇麗やし・・・いやホンマ、年に2回は確実にリンガラ・セッションも出来る事やし・・・
https://www.facebook.com/chaya.hatsuhana
そしてなんと、福丸兄弟のお母様とご対面 !! 私は敢えて日本全国に発信する。「リンガラ・ポップス」と呼ばれたコンゴの音楽を世界に伝えた大いなる日本の発進地がこの家である。私は世界を旅して、コンゴの音楽はその在り方からしてが根本的に違うと書いた。何がどう違うかを言葉で説明するのは難しい。それは生きかたであるからだ。彼等福丸兄弟の生き方は、それそのものがリンガラであった。だからこそ「カーリー・ショッケール」はあり得た。彼等がいなかったら、あのバンドは実在しなかったし、もしかしたらPapa Wembaが日本に来る事もなかったかも、極言すればピリピリがキンシャサを訪れる事もなく、コンゴの音楽が世界に発信される事も、ひょっとしたらなかったかも知れない。それほど生きかたの根幹に関わるものであるからだ。だから説明しにくい。しかしこのお母様の鋭い眼差しを見よ。これが全てを物語っている。このお母様から彼等兄弟が生まれ、その精神はこの地で育まれた。ここは、日本に於けるコンゴ音楽研究の精神の源である。
2014年10月09日
20140925 西へ西へ西へ・・西へ
津和野に後ろ髪を引かれる思いを振り切って山を下りる。
途中、今年の水害の爪痕をいくつも目にする。
海に出る。西へ西へ西へ・・・西へと旅を続ける。
萩から海岸沿いにこだわって県道に入り込むと、このような細道となり、断崖絶壁をJR山陰本線と取り合うように進む・・・が・・・やがて倒木に立ちふさがれ、やむなく萩に戻って国道へ迂回。
私の人生はどちらへ進むのだらうか・・・
そしてようやく到着。当初の最終目的地であった、その名もなんと、「ムカツク半島」・・・!!・・・おっといきなり出迎えてくれたのは、これは見紛う方なき不耕起栽培の田んぼ。
山と海と農地がこんなに近接して共存する景観は、すくなくとも北陸以西の日本海側では、なかった。
これですよ・・・もう言葉もありません。
突然の訪問にも関わらず半島内をあちこちご案内頂きまして、皆様本当ありがとうございました。
20140925 西へ西へ西へ・西へ
もしかしたらこんな風景に出会えるかなと思ってこの場所を予め調べておいたのであるが、あいにく気象条件が合わず目論見は失敗した。
http://www.tsuwano.net/www/contents/1374467843868/index.html
https://www.facebook.com/pages/津和野時間-T-time/204024466277582?fref=ts
気を取り直して車内の空気を入れ替える。ちなみに左端にちょっとだけ見えている黄色い車の主は、これまた車中泊一人旅の美女であった。
津和野は谷あいの街であるが、盆地は結構広くて平坦である。観光地であり、隠れキリシタン縁の地であり、また人口減に悩む町である。山の斜面がやや緩やかなところは棚田が広がり、随所から町を見下ろす事が出来る。実に美しい景観だ。町へ降りると、旅行者を受け容れてきた歴史の息づく独特の解放感と安心感が漂っている。ムラ特有の排他的な緊張感はない。
まだ朝早く町は「支度中」状態なので、先に城跡に登る。登り口の公園の脇にあった住宅、このような質素な住まいが良い。
街と森が近い。しかも、街には気品と格調があり文化が息づいている。森は城跡である。歴史が肌を通して染み込んでくる。
なにより、このようなセンスが巷に成り立っている事、「津和野時間」という冊子を作った人たちのセンスが、行政によってバック・アップ出来る環境が、素晴らしいと思う。なぜなら、プロジェクトというものは、一人の力によっては成し得ないが、才能ある一人のセンスによって研ぎ澄まされていなければ、訴求力が落ちてしまうからである。行政がそこに口出ししない事こそが、公たるものの嗜みといえないだろうか、この街はそれが実現されているのか・・・
旧の代官所を保存した町役場で移住について担当者にお時間を頂く。この街の自由な空気は、行政の姿勢にも現れていた。津和野町も人口の減少が深刻であるが、例えば農業での移住希望者に「後継者」としての役割を求めていないことが、非常に大きな特色である。過疎に悩む自治体では、どこも手厚い優遇策を以て移住希望者を迎えてくれるのだが、ほぼ共通するのが、担い手を求めているという姿勢である。たとえば水菜の生産地であれば、空き農家を紹介する代わりに、その農家が担ってきた水菜の栽培を継承する事が条件になる。しかし移住者は、必ずしも水菜を栽培したくて移住してくるわけではない。そこに両者のギャップが生じ、やがてそれは抜き差しならぬほどに広がって、終には移住者が村を去る。私も数多く見てきた事である。だから、津和野町はそういう意味での担い手は求めないのだという。自由にやってもらって、出来たものをどうするかを考えるのが、行政の仕事だと・・・これですよ。津和野町は移住候補地として良いと思います。
2014年10月08日
20140924 西へ西へ西へ西へ
今日は、ひたすら日本海を右手に見て西へ西へ西へ西へとぶらぶらぶらぶら風景を見て走る旅である。カーオーディオが壊れているので、ポータブルCD-MP3ラジオに気に入った音楽を入れてかけながらのんぴり走る。
海が似合わん奴と言われているのに、海が好きなのである。しかも、断崖絶壁に打ち寄せる荒波、地の果てる海岸線、壊れやすきもの海風に滅ぶ感覚というのが、たまらんほど好きなのである。
そうして最果て感は、浜田を過ぎ、益田を過ぎた辺りから非常に濃くなってくる。台風がそこにいるのであろう、ひときわ空が暗くなり、海が荒れる。私の心も揺さぶられ、あちこちで朽ち果てた感のある殺風景を楽しみ、心を海風に託す・・・
またまたのんびりしすぎて日本海の最果てまで行く予定が暗くなり過ぎたので、急遽目的地を津和野に変更。宵のうちに到着し、温泉付の道の駅で疲れを癒して、とある場所へ向かい車中泊。
2014年10月05日
20140924 西へ西へ西へ
蒜山から日野街道へ出て、備後落合を経由して南から奥出雲おろちループに到着したのが夜半前。アルムリーノの店先に車を乗り入れて寝て待てば未明には開店準備のためにやって来るはず・・・とまー相手の都合完全無視の現れかたにも関わらず、「おおおっおおおおおっ」と大喜びで受け容れてくれるところが、ケタ外れに強烈な個性ゆえに常識などぶっとんだ人生を送ってきた師匠の包容力である。
奥出雲、みるみる谷から雲が湧いてくる。斜面に見えるのはJR木次線の線路。左手が松江方面で出雲坂根駅。二段式スイッチ・バックを上がって更に二つの山を巻くようにして高度を稼いでいく。残念ながら一日数本の列車にまみえる事はなかった。
奥出雲アルムリーノ健在 !! しかしここは冬季には数メートルの雪に閉ざされ道の駅も閉鎖、国道さえ通行止めとなる環境であるので、もう少し里の方へ再移転されるそうである。ファンの方は出発前に要チェック !! 懐かしきかなわが人生の師匠・・・
出雲の道を日本海目指して降りる。近畿ではハザ掛け、ここではハゼ掛けとかハデ掛けとかいうらしいが、なぜこのような大掛かりなものを立てるのであろうか、風の抵抗を受けやすいではないかと思いつつ、なにか理由があるものかはと地元の人に訊いたり調べたりしてみたが・・・わからん。
海へ出た。台風が来ている。車の窓越しに自分撮りをしてみる。くっきりわからなくて良い。
2014年10月04日
20140923 西へ
バイト先で4連休が取れたので、もし移住するのなら西かな・・・と漠然とイメージして、山陰方面ぶらぶら見て歩き旅、カリーナちゃんにサクッとセットしてGo !!!
台風が近づいているのも気にせず、秋晴れの中、中国道を西進し佐用から鳥取道を北上。たぶん粟倉あたりのSAにて・・・ちゃうかな ??
大好きな湖山池。20年以上前、鳥取在住の物静かで奥ゆかしい出戻り娘との短く儚かった恋を思い出す。そん時もこの車で通ったっけ・・・
三朝方面へ西進。高原地帯を抜け、理想に近い情景を記憶に留める。なんせ日本を旅した事があんまりないんよね。
本日の第一目的地「三徳山投げやり堂」・・・投げやりな人生を象徴するかのような、投げやりな旅の始まりにふさわしく、ここでかなりの時間を費やす。物心ついた頃の私の家は斜面にあったので、なぜか斜面や断崖絶壁に身を置くと心が落ち着く。とすれば、ここは私にとって究極の癒しの場でしょう・・・という単純明快な動機。
三徳とは、不徳・背徳・欲得・利得・買得・奇特・冒涜・隠匿をいうのであって、なんや数がえらい多やないかと思われるかもしれんが、「三」という数字は、文字通りの数を意味する他に、完全・完璧・限界・そこまで、などという意味があって、たとえば「三拍子揃った」とか「三度目の正直」とか「仏の顔も三度まで」とか、ライカもM3を完璧なカメラの最終型と位置づけているくらいなので、多くてもかまわんのである。残念な事に、このお堂に入る事は許されていないが、是非とも一生に一度は、ここで霞を食って暮らしてみたい。ここまで来るには一人では許されず、誰かをナンパして登ってこなければならないので、このような若いカップルの恋の道行きのお邪魔をして・・・