2015年01月12日
20150111 Szalóki Ági
Szalóki Ági: A Vágy Muzsikál "Karády Dalok", FolkEurópa, 2008/ Beans Records, BNSCD-8861, Japan)
Miért szeretlek
Mindig az a perc
Száz panasz ég a dalomban
Szomjas a szám
Ma éjjel
Hamvadó cigarettavég
Holnap, ki tudja, holnap (szóló)
Holnap, ki tudja, holnap
A szívemben titokban
Lement a nap
A két szemed
Ne kérdezd, ki voltam
Nincs kegyelem
Egyszer csak mindennek vége lesz majd
http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=7769
いやヤッちゃいました。私の悪いクセです。LPレコードを買いあさっていた頃、よく「ジャケ買い」といって、内容も来歴も知らない作品を、レコード・ジャケットの絵を見ただけで買う買い方をしたものですが、まあ当たりがあったり外れがあったりで、でもこのジャケット見たら、オトコなら買うでしょ。ほんまに私の悪いクセで、これは祖父の隔世遺伝となすりつけておきますが、美女にはコロッと・・・特に陰や憂いがあって、細くて髪が長くて、頬骨が高くて面長で、鎖骨と首筋が出ていて、肩甲骨から天使の羽根が生えてる・・・まあ要するに魅せ方のプロ、というかクロウトさんにはつい・・・こんな眼で見つめられたら・・・
https://www.youtube.com/watch?v=hMfxeieBQg0&index=3&list=PLCD44B88D3A7FB5BA
内容はハンガリーのジャズです。第二次世界大戦中に活躍したハンガリーの国民的映画女優であり歌手のKarády Katalinの歌集で、全体のセンスはこのジャケット写真の空気感がそのまま音になってます。東欧世界の暗さと陰があって、非常に良いです。アタリです。プロデュースはギタリストのBacsó Kristóf、センスが随所に光ってます。また、ピアノはハンガリーのジャズ界では有名で、日本でも澤野商会から作品が出ているSzakcsi Lakatos Róbertが、これも細部に亘って奇麗な音を入れてはります。ハンガリーの音楽・・・というか、ジプシーの音楽とそれに影響された、或いは影響した、バルカン半島からコーカサスにかけては魅力的な音楽の宝庫であって、まだまだ知らないものが多すぎる。ツィンバロムとヴァイオリンと管楽器を中心とした激しいダンス・ミュージックが代表的なテイストのフォークになるけれども、当然そこからジャズが生まれ、アメリカのジャズとは全く異質のユーロ・ジャズが発展してきた。これがまた面白いのですが、私のような音楽ばかり喰らうやせこけた水飲み百姓には、到底その全容など窺い知るべくもないのですが、性懲りもなく悪いクセを発揮して集めてみることにしましょう。ちなみにハンガリー人の名前の表記は、現地では性・名の順なので、この記事ではそれに従っております。
2015年01月11日
20150110 Jadranka Stojaković
Jadranka Stojaković: Svitanje (LP, Diskoton, LP-8018, 1981, Yugoslavia)
Što Te Nema
Osjećam Da Neko Dolazi
Ako Me Ikada Nađeš
O Tom Potom
Predosjećanje
Kad Nisi Znao Ništa Bolje
Davor
Čarobnjaci
https://www.youtube.com/watch?v=X1hG3Yy-pwk
今回買い集めたもののうち、最も欲しかったもの、最も入手の難しかったレコードである。旧ユーゴスラヴィア・・・ティトー率いるパルティザンによってドイツの占領からソ連の支援を受けずに独立し、独自の社会主義路線と東西両側に対して非同盟という外交を貫き、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ1つの国家」は奇跡的な平和を永きわたって維持した。もちろんタブーがなかったとはいえまい。その後、ユーゴスラヴィアは長い内戦に突入し「6つの共和国」は全て独立した。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア (コソボ自治州を含む) ・・・ティトーが夢見た理想的な連邦国家は彼一代で終った。1960年生まれの私にとって、ティトー大統領という英雄の名と、その後のユーゴスラヴィアが辿った激動の歴史は、重苦しくやるせないものだった。アドリア海の対岸で起ったこの激動を、イタリア人たちはどんな気持で見守ったのだろうか。結局のところ、理想主義は一過性の発熱のようなもので長続きせず、熱が冷めると人間というものは保身に憂き身をやつし、抗い難い濁流となって紛争へ流れ落ちてしまう。底を打った時に、多くの人は目が覚めて、自分たちがしてしまったことのおぞましさに嫌悪する。そしてそこから這い上がろうとして、再び理想を求めるようになる。歴史はそんなことの繰り返しだ。
同じことは個人に対しても起る。考え方の違い、住んでいる地域の違い、外見の違い・・・それらによって人は人を排除したり憎んだり蔑んだり攻撃したりする。あるいは排除されまいとして長いものに巻かれていく。排除された者は生死の狭間を彷徨う。辛くも命ばかりは助かっても、そこから先は全く一人で生きていかなくてはならない。全て自己判断、自己責任、感覚を研ぎ澄まし、人にも制度にも頼らず、世間の不条理と闘い続けなければ生きては行けない。私自身も子供の時からうんざりするほど経験した。友達同士で、大人と子供で、親子で・・・帰る家などない、そこは私の家ではない、なにものにも侵されない自分を守るために、壁を高く厚くし、爪と牙を研ぐ毎日。息絶えた者への思い、喪失感、ひとりの人間がいなくなると、その人を中心に出来上がっていたネットワークが、一人の力では到底出来ないほどの大きな可能性が失われ、破壊され、それは復元することが出来なくなる。その可能性は、もしかしたら人類を救うほどのものだったかもしれない。しかし、やはり抗い難い濁流によって跡形なく破壊される運命にあったのかもしれない。かけがえのないものが無数に破壊される。歴史はそんなことの繰り返しだ。
同じことは民族に対しても起る。バレスティナ人とユダヤ人は何千年も戦争している。無数の愛も生まれ、引き裂かれている。コンゴは、アフガンは、シリアは、クルドは、トルコは、チベットは、東トルキスタンは、北朝鮮は、いったいどないなっとんねん ?? 私も内戦直前のキンシャサで市街戦を突破した経験がある。コントロールが効かなくなった社会というものは・・・恐怖しか存在しない。ライフルの音はおもちゃの機関銃のように乾いていて軽い。ラタタタタタ・・・突然、通行人がものすごい血しぶきを上げて転がりながら死んでいく。どこから、誰が狙ってるかわからない恐怖・・・中国は、日本は、韓国は・・・もうええかげんにせいや。わかるやろ、憎悪を繰り返していったら民族浄化にまで行ってしまう。よう見たら解るやろ、内政が行き詰まってきたら国民の不満をそらすために戦争してきたのが人類の歴史や。
それは個人にもあてはまる。自分の限界に負けそうになったら人を攻撃する。世界は不条理と矛盾に満ちあふれてる。それは無数にあるのに、なぜあんたが彼等を攻撃する ?? 何故、あんたというかけがえのない人間が、世界中に無数にある矛盾のなかから、取り立てて彼等のことを攻撃せねばならないのか、答えはあんた自身がわかってるはずや。しかし社会が住みにくくなっていく中で、誰かをスケープ・ゴートに仕立てた方が社会がまとまりやすい。だからみんなそうする。そっちへ流れる。見て見ぬふりを続けていると無神経になる。それがあたりまえになる。しかし、その贖罪の山羊は生贄として死んでしまうんやで。やりたいこともあったやろ、幸せにもなりたかったやろに、不本意なことに、むりやり殺される。痛いやろな・・・だから、もうこんなことやめよ。
「Što Te Nema」というのは、ボスニア語で「何故あなたはここに居ないのか ?? 」という意味である。ティトー大統領が亡くなったのは1980年、彼の事を指しているとは言わない。誰にも、そういうべき人があるだろう。なぜ、私は政治的に不安定な国の音楽に引かれるのであろうか ?? 追いつめられ、退路を断たれ、打ちのめされて、路上に転がる。しかし、それでもあなたを信じて微笑みかける。その気持が歌に出ているからだろう。ちょうど、クロアティアからこのレコードを送ってくれた、丁寧な梱包と美しい字を書く見知らぬ人のように・・・ぼちぼちキムチを漬ける季節や。俺のキムチは鰯とアミエビと塩以外は全部自分で栽培したものを使って仕込む。これをまた自分の田んぼで採れた米でご飯炊いて食べる。うまいで。今から楽しみや。
https://www.youtube.com/watch?v=8Pk7w0wknII
2015年01月10日
20150109 Izukaitz:Otsoa...
Izukaitz: Otsoa Dantzan (LP, Xoxoa, 1980/ Guerssen, Guess017, re-issued in 2003/ CD, Lost Vinyl, L.V.-14, re-isued in 1994)
Ingurutxu | |
Katu Beltza. Txalopin Txalo | |
Ni Hiltzen Naizanean | |
Karrakan Trakatan | |
Prakamanen Itsasoan | |
Ilhun-Nabarrez | |
Ariniketan Arin | |
Hilbehera |
先のMalicorneと同じ興味をもって漂っているうちに見つけた作品である。スペインのバスク地方を本拠とする、トラッド〜フォーク的な演奏が持ち味のグループ。アルバムとしては、グループ名をタイトルにした「Izukaitz: Izukaitz (LP, Xoxoa, X-11.103, 1978/ Guerssen, Guess006, re-issued in 2002/ CD, Lost Vinyl, L.V.-15, re-isued in 1995)」と、この「Otsoa Dantzan」の2作が知られており、いずれもLPとCDで復刻されている。バスク地方は、スペインとフランスの北大西洋ビスケー湾に面した国境付近に、両国にまたがって存在する。独自の文化と言語を持ち、しばしば民族独立を掲げた政治運動が伝えられるが、Izukaitzの音楽は、それをまったく連想させないほど牧歌的で素朴で穏やかである。表記も歌もバスク語と一部スペイン語なので、ほとんど歌の意味は解らない。また、フラメンコの要素はまったく感じられない。むしろ南フランスやイタリアのトラッド・フォークの感触に近く、1970年代のプログレッシヴ・ロックらしい感覚で音の実験が試みられているが、宇宙的をイメージしたものではない。バスクの伝統楽器も使われているようで、トラッドや古楽に基礎を置きながらも現代的な自由なアレンジで自分たちの演奏をしたという感じ。
1作目「Izukaitz: Izukaitz」は、自分たちのレパートリーをさくっと録音したという感じで、音質は今でいう「宅録」に近い。しかし1978年の事であるから、よほどの資金援助と設備がなければメジャーに肩を並べるほどの音質は望めなかったはず。様々な困難を乗り越えて作品を作り終えた痕跡が残る。演奏はシンプルで、上のような限界があったことを許せるならば、内容は非常に良い。作り込まれていない分、初々しさ、意気込み、爽やかさが身近に感じられる。心が自然に笑顔になる、ヨーロッパのトラッド音楽特有の、臭い、光、幸福感を持った良い作品といえる。この1作目については、こちらに詳しく紹介されているのでご参照下さい。
http://cottonwoodhill.web.fc2.com/music/1970/Izukaitz.html
このたび手に入れたのは彼等の2作目である。前作より演奏表現の幅が大きく広がっていて、録音もミックスも細かいところまで作り込まれていて、充分な聞き応えがあるので、こちらを掲載することにした。音世界は、トラッドを基本としながらも、より古楽への傾倒が感じられる。フォーク色は薄まって、多彩な楽器による重層的な演奏に、より力が注ぎ込まれたようである。かといって重過ぎることはない。独特の明るさ、軽さがあって、南ヨーロッパの土の香りがする。彼等の演奏は、聴いていて心が安まる。体がほぐれてくる。音楽の力は計り知れない。
音を残してくれただけでも有難いのだが、こういう音楽は、是非、ライブでありながらもそれぞれの音が奇麗に分離して録音されたものを聴いてみたい。全員せーので一発録りをして、ファースト・テイクでOKになることが理想。しかし現実は厳しい。録音とは、常に、忍耐と技術と経済状況の妥協の産物で、このような電気電子楽器とアコースティック楽器の混成録音ほど難しい。1970年当時を想像してみると修羅場であったことが想像される。一度に録音出来るトラック数に限界があって、メロディや歌を仮録しながらベーシック・トラックを入れ、それをとり合えずミックスしておいて、聴きながら他の楽器を重ねていくという作業になったであろう。ライブなどで聴くと違和感ない場合が多いが、いざ録音となると、楽器の音量の違いがただならぬ障碍になる。音の分離を良くしようとして音源を隔離したり、電気を使う楽器をライン録りしたりすると、それらの音のバランスが狂ったり聞こえ難かったりして、合奏そのものの出来に影響する。リテイクが繰り替えされると、技術的な諸問題もさることながら、演奏者のモチュベーションが低下する。戸惑いを乗り越え、経験を積んでいくしかない。恥ずかしい思いを耐え忍び、仕上がりに満足行かなくても妥協しなければならない。そしてなにより、駄作が世に出て独り歩きしていくことを思うと気が狂いそうになる。オーバー・ダビングなんてさせられた日にゃ悪夢ですからね。最も厳しかった経験は、出来上がったトラックにドラムを入れろという要請だったことを思い出す。あのね、それってドレス・アップの完成した人形に、手を触れずに骨格を入れろと言うてるようなもんですよ、やりましたけど・・・そんな修羅場の傷跡もそのままに、スタジオの外を走る車の音も入ってるのはご愛嬌、多彩で生き生きした音を聞いて涙が出る・・・ほとんど個人的な思い入れだが、でもこれ、良い作品です。
20150108 Malicorne

Malicorne: Malicorne (LP, Editions Hexagone, No.883 004, 1975/ CD, Hexagone, No.193.652, re-issued)
Le Mariage Anglais
Le Garçon Jardinier
La Fille Aux Chansons (Marion S'Y Promène)
J'ai Vu Le Loup, Le Renard Et La Belette
Cortège De Noce
Branle / La Péronnelle
Le Galant Indiscret
Marions Les Roses (Chant De Quête)
Suite: Bourrée / Scottish-Valse
Le Bouvier
https://www.youtube.com/watch?v=_B2aMcbSrj8#t=38
ヨーロッパのトラディショナル音楽や、クラシック音楽のうちルネサンス初期までの古楽への関心は、私の場合中学生の頃に芽生えた。いまから考えれば情報のない当時、どんな経緯でそれらを知るに至ったかはまったく不明だが、当時、音楽を手分けして聴き合っていた友達からの影響で、イギリスやヨーロッパの所謂「プログレッシヴ・ロック」に深く傾倒していった時期があって、そんな音世界を育んだ土壌はどんなものだったのかという興味から、これらのジャンルにも親しむようになったのであろう。関心を深めていくうちに、日本にも古楽の演奏家たちが居られること、しかも、私の故郷にほど近い西宮市に本拠を置く「ダンスリー・ルネサンス合奏団」の存在を知ったのもその頃だった。コンサートに費やすカネはなかったので、なんとか友人を説き伏せてレコードを買わせ、それをテープにコピーしてもらって聴いていた。そのころは友人たちで集まって共同購入して、テープで回し聴きしていたものである。そんなテープが未だ私の手許にごまんとある。古くからの友人との間で良く話題になるのだが、その頃、つまり1970年代はレコード文化の絶頂期で、こんにち世紀の名盤と言われるアルバムが毎週のように発売されていたので、当然ひとりの子供の小遣いでどうなるものでもなかったからだ。
Malicorneはフランスのトラッド音楽のグループである。イギリスやドイツのプログレにはまっていた頃、フランス・スペイン・イタリアという国々のロックも紹介されていた。フランスもののなかにAngeというグループがあって、これがなかなかトラッドな演奏で印象深かった。その関心からMalicorneも我々の探索の俎上には上っていて、時々取り沙汰されていた。しかし輸入する手段が、当時は覚つかずに忘れ去ってしまったのである。ふたたびMalicorneを知るようになったのは、ぐっと近年になって古楽復興の機運が高まり様々な作品が世に出されるなかで、私はEnsemble Les Fin'Amoureusesというグループの「Marions les Roses」というアルバムを手にした。それは16世紀、最も隆盛を極めたオスマン・トルコに伝わっていったフランスの音楽を発掘して集めた作品集だったのだが、そのタイトル・チューンのメロディが頭を離れず、ちょうどその頃、とあるコンサートで知り合った奈良の「坂本古楽コンソート」の主催者、すなわち「ダンスリー・ルネサンス合奏団」の創立メンバーの一人に誘われて、彼等の演奏に客演する中で、資料とした渡された楽譜の中に偶然このタイトルを見つけた。すなわちトルコに残されていたフランスの16世紀の楽曲が、フランスでも残っていて、古楽の資料として日本にも来ていたことになる。ところが、この曲は何故か、クラシック畠から古楽をアプローチしてくる人の注意は惹かないらしく、演奏された例がなかった。Malicorneの名は知っていたが、この曲を演奏しているとは知らなかったし、そもそも1975年にレコードが出ただけで復刻もされていなかった。まあそんなわけで手に入れたいが忘れてしまったり、リストに上げてあるだけで探索を怠ったりして、聴きたいけれども知らない音源というものが、まだまだ手許に資料としてあって、これもそのうちの1曲、「坂本古楽コンソート」に客演するために家でリハーサルしていたとき、音源探索中にYouTubeを掛けっぱなしにしていて、聞き覚えのあるメロディが流れたことでつきとめたというわけである。さまざまな偶然が重なり、近づいたり離れたり、手をすり抜けていったり思わず降りかかってきたり、そんなことで見識も広がるし楽しみも増える。
さて肝心の音の方だが、古楽器も使われているが、電気も使われていて、そういう意味ではトラッドに属する。古い楽曲をテーマにとっているが、現代の身近な楽器で自分たちなりの表現をする、実に自然な演奏であるので、大変親しみやすい。コーラスに魂を揺さぶられる。しかしクラシック音楽にありがちな臭いはなく、特にバッキングはほぼロックである。クラシック的な美声ではないが、安定した、存在感のある、味わい深い声の重なり、それをサポートする、アコースティック楽器や電気、電子楽器、自由に絡まるパーカッション・・・古楽というジャンルは、何百年もの時を越えた名曲を、まったく自由に楽しむ贅沢がある。「プログレッシヴ・ロック」の世界から見た「トラッド」の世界に遊んだ人たちは、何十年も前にこんなにも生き生きとした演奏を残してくれていた。
20150108 松の内はのんびり
松の内はのんびり喰っちゃ寝ぇ喰っちゃ寝ぇして引きこもり生活を楽しんだんねん。それでも夕方からはバイトに行かんなんのは生活上しゃあないんやけどとにかく体が疲れを流しきってリラックスするまでは休養や。上の写真は干し芋と蒸し黒豆と桂皮を常温放置したらどないなるかと思て年末から置いたあるもんで両端は乾涸びてしもたのに黒豆には麹菌がたっぷりついとって塩水で割ったら醤油ができそうや。
子供の頃からあった急須が割れて茶ぁ飲むのんに難儀しとったんやが急須を買いに行く間がなかった。で、エロエロ調べて上のような形の物がよろしいんではないんでしょうかとゆー結論に立ち至りこれを捜すもなかなかみつからず漸く今日、三田の古びた瀬戸物屋で見つけた。下のように注ぎ口の内側が丸く出っ張ってて穴をたくさんあけてある。茶を濾す部分が金属製のかごになってたり網を貼っ付けたあったりするのんとちゃう。右が難儀してた急須で、持つとこないから熱いお茶のとき持たれへんし注ぎ口の内側が出っ張ってへんから茶葉がすぐ詰まって茶を出し切られへんかった。おまけに尻漏りはひどいし蓋はずれやすいし難儀しとったんや。ええ茶も買うてきたしこれで隠遁生活も楽しみが増えた。
20150105 メープルシロップ味
カルビーのフルグラに「メープルシロップ味」・・・食べてみたが、ちょっと食感が日本人向けになったものの、実質的には廃盤になった「森のめぐみ」の復活。せやし言うたったんや。
http://jakiswede.seesaa.net/article/382217688.html
20150104 Ortiz Consort
奈良を拠点に活動されている坂本古楽コンソートの新年初合わせの会に今年もお招き頂いて、恐れ多くもともに食事をさせていただき、コンソートを生で観賞出来る光栄に預りました。ご自宅は奈良町にあって伝統的建造物に指定されており、このほど通りに面した部分の改装を終えてのお披露目をかねて、ざっくばらんに音合わせをしようという会である。新年からまことに優雅なことですわ。
コンソートというのはひらたくいえば合奏という意味だが、合奏する人数あるいはパート数に応じて、二声・三声・・・六声などという。今回はガンバのみのコンソートであったので、音域の異なる複数のガンバを使った曲を各自持ち寄っての合奏、つまり各自がいろいろ聴いてきた中で、今度この曲をやってみたいとか、これを六声で合わせたらどうなるかとか、そういうセッションの場であった。もちろん良く知られた曲もあれば、ほとんど知られていない曲もあり、奏者にとっては楽譜を初見で合わせることもある。流石この道のプロの面々であって、ほとんど初見であるにもかかわらず、だいたいぴたりと合う。こうした合奏の中から、次回のコンサートに持っていけるものを選んでゆき、取り上げられた曲はリハーサルを重ねて仕上げていく。「楽譜の読み方を復習しておくように」とご指示があったので、今年は出番があるやも・・・
http://www.adnanatalay.com/kantemiroglu%20yazisi.htm
http://www.alia-vox.com/cataleg.php?id=83
20150103 Motion/ G.Oban
Motion: Motion (LP, Double D Records, DDLP4, 1979/ CD, Creole Stream Music, CSMCD-028, 2014 re-issued in Japan)
Walk On By (Bart Bacharach and Hal David)
Rainbow (George Oban)
No Man is an Island (Alex Kramer, Joan Whitney)
Basshoven (George Oban)
I'm Coming Home (Thom Bell, Linda Creed)
Love Uprising (Eugene Record)
Let Go (George Oban)
Crazy Beat (George Oban)
You Love Me Only (Patrice Rushen)
Hawian Hi! (George Oban)
百姓をしていると、早春から初冬まで農作業に忙殺されて、じっくり音楽など聴く暇がない。夜間にバイトなどしていてはなおさらのことである。聞いている間に寝てしまうので、レコードはまずかけられない。しかし私は痩せても枯れてもミュージシャンの端くれ。ミュージシャンの食い物は良い音楽作品である。そう信じて貯め込んでしまった音源は膨大になり、それを農閑期に整理したり観賞したりする。いわば音楽のための贅沢な長期休暇が毎年4ヶ月程度あるのが百姓生活の良いところだ。しかし貯め込んだ音源を毎日5つずつ聞いていっても1年で終らないことが分かってがく然とした。だが世界を広く旅して素晴らしい音楽に出会ってそれを集めてきたのであるから、もっと多くの人たちに知らせるべきだと思う。コレクターは音源を死蔵する事なかれ、何らかの形で衆目に晒すべし。ここに紹介していくものは、正真正銘、聴くに値する音楽であることに間違いない。これを辿ってゆけば、音楽的に心が救われるであろう。気が向いたら応援してちょうだい。
今シーズンの農作業を終えた自分へのご褒美に、以前から興味のあった音源で入手出来ていなかったものを、良く調べて選んで買い集めることにした。禁欲生活の解禁である。その過程で、とんでもない音源が復刻されているのを見つけたので紹介したい。ひとの人生を変えてしまうような音楽作品というものは、現実に存在する。私にとってこの作品は間違いなくそのひとつである。これは、現在も活動を続けるブリティッシュ・レゲエの代表的なバンドであるAswadの創立メンバーの一人であり、ベーシストであったGeorge Obanがものした、Motionというユニットの唯一のアルバムである。1981年にLPで発表されて以来 (オリジナルLPのラベル表記はAriola Records Ltd.,1979) 、まったく簡易な別ジャケットで1985年に一度復刻されたが、それ以来市場から姿を消し、ブリティッシュ・レゲエやAswadのファンの間ですら、ほとんどその存在が知られていなかった。それが、なんと世界初のCD化、本格的な復刻が日本で実現したのである。やはり知る人は知っていて、聞く人は聞いているものだ。蛇の道はへび、進む人生裏街道、抑圧と閉塞、そこから生まれる楽園への夢、しかしイバラや草に覆われた足許は危険で空虚なケモノ道・・・
http://creolestream.com/
ブリティッシュ・レゲエを簡単に説明すると、第二次大戦後に英欧の植民地が解放されていく歴史の中で、旧宗主国は旧植民地からの移民を受け容れていくのだが、それは旧宗主国の社会にとって様々な問題を引き起こすことになる。イギリスでは、世界中の旧英領植民地からの移民が流入し、LondonのNotting Hill地区には旧英領カリブ海からの移民がコミュニティを持つに至った。世界中のいわゆる先進国で同じようなことが起るのだが、旧宗主国民である白人と旧植民地出身者である有色人種が対立し、しばしば衝突する。Notting Hillでは1958年に大規模な暴動が起り、その反省から、民族融和を目的とした恐らく英欧では最大規模のcarnavalが行われている。この地区を支えるコミュニティには、このようにエネルギーを音楽に転嫁していく土壌があったと思われる。そのなかにJamaica人のコミュニティもあり、それが本国Jamaicaと連動しつつも異なるレゲエを育てていくことになる。その違いははっきりと音に出ている。本国Jamaicaはいわゆる途上国として取り残され様々に押し付けられた形の矛盾が社会に蔓延り、それを打破しようとして社会運動が起り、音楽もそれとともに生まれてくるのだが、あくまで気候はカリブ海、脅威は海の向こうに間接的に存在するので、音楽の感触は緊迫しながらも、どこか牧歌的でトロピカルである。しかしロンドンは寒く、曇っていて、コンクリートに囲まれたシチュエイションにある。脅威は具体的に直接的に、地区の通りを挟んだ向こうに存在する。何かが起れば銃口は目の前で火を噴くかも知れない。その張りつめた冷たい緊張感がブリティッシュ・レゲエの背後に顕在する。本国Jamaicaで早くからスタジオでの実験の中で生み出されていたダブの手法も、緊迫したその状況をより効果的に表現するのに役立ったし、またそれとはまったく逆に、のんびりした美しいラヴァーズ・ロックなども産まれた。
AswadはJamaica移民2世のグループで、このような状況の中で、コミュニティをベースとしたグループとして始まった。結成は1975年とされており、1976年にグループ名を冠したデビュー・アルバム、1978年に「Hulet」、1981年に「New Chapter」と、1976-80年の音源6曲を集めた「Showcase」というLPを発表している。特にGeorge Obanの在籍した初期Aswadの2枚半の録音には、厳しいルーツ・ロック的な音世界とは対照的な、ジャズやフュージョンに影響を受けたイージー・リスニング・ミュージックを追い求めたかのような実験的トラックや楽章が多く聞かれる。なかでも「Hulet」のタイトル・チューンはその白眉であって、アルバムの他の曲とは、まったく一線を画している。それまでのAswadは様々な音楽性を内包していたが、ここへ来てひとつの要素を切り離すことになる。Aswadはその後も活動を続け、1983年ごろまでは、コミュニティに根ざした硬質なレゲエを演奏し、何度か来日もしていたが、徐々にポップな路線に変化してゆき、通算21枚ものアルバムを発表して現在も活動中ときく。
「Motion」は、オリジナルLPのラベル表記が1979年となっていること、AswadからAngus Gaye (Drummie Zeb) を初めとした「Aswad Friends」の何人かが参加していること、LPの裏ジャケにある言葉 (CDにはインナー・スリーブに収録されている) 「・・・George Obanは、2枚のAswadのアルバムに参加したあと、新しい音楽の道を求め、彼自身のアイディアを追求すべくグループを去った・・・」から判断して、1978年の「Hulet」発表後、翌年にAswadのコミュニティとの関係は維持しながらも、それとは別に録音され、アルバムが完成して発売にこぎ着けた1981年までに脱退したことになる。音の感触は、ルーツ・ロック・レゲエを基礎にしながらも、それとはまったく異なるフュージョン・ミュージックで、イージー・リスニングに近い。1曲目にバート・バカラックの名曲を持ってくるところにその意思が見える。しかし聞き込むうちに、なんのためのイージー・リスニング・ミュージックなのか、肥えた白豚のための慰みなのか、何故この音を求めたのかがはっきりと解ってくる。緊張に押しつぶされそうになりながらも、必死で気が変にならずに済むように、自分自身を守るために、藁をも掴む思いで、楽園を夢見る。その夢の表現こそが究極のイージー・リスニング・ミュージックたり得る。地獄を知らぬ者に天国の見えるはずがない。ダブの手法にしても、往々にしてリズム・ハーモニー・メロディという音楽の融和を完全に壊してしまうことによって、まるで砲撃で手足をふっ飛ばされた人がそれでも立ち上がり歩き出そうとするかのような状況の厳しさを暗示させるものだが、その手法でさえここではきらめく流れ星のように美しく配置されている。まったく奇跡としか言いようがない。音楽は楽園である、ということをなにより音を以て教えてくれた作品、だからこそこの作品は私にとって生涯忘れ得ぬものになった。もとはLPを所有していた友達に頼んでカセットにコピーされたものを聴いていた。そのカセットは、生きることの困難であった若き日の私を精神的に支えた。1989年と1991年に当時のザイールを旅したときにも持っていった。さらに2010年の第三の旅にもmp3に落として携行した。これは苦難と悦楽の交錯する三つの旅の最中でも、泥沼の中にめげてしまいそうな私をすがすがしく支えてくれた命の恩人である。光あるうちに光を浴びて下さい。
2015年01月09日
20150101 望郷散歩
正月。バイトも休みなので、のんびり電車に乗って清荒神から子供の頃遊び慣れた路地を散策する。まずは清荒神の参道を上がり、鷹尾味噌で糀の花を買って、しばらく行くと途中の広場でイベントをやっていた。いやーなんとまあ、先日谷上マーケットで会ったばかりの「シチニア食堂」と今田町の「カフェ・ココロノツキ」ほか自然農の野菜を売る店まであった。ここにも仲間が・・・清荒神を面白くする火付け役は、たぶん「シチニア食堂」。
幸先の良い新年の幕開けで天気も良く散策を続ける。この路地は、左へ行くときよしガ丘という私の子供の頃の新興住宅地で、右へ行くと細道が延々と続いて売布小学校が出来る前のため池の縁を通って売布神社の鳥居前に出る。清荒神から売布神社を短絡する有馬街道の裏道である。この裏道からいわゆる巡礼街道へかけてが子供の頃の主な遊び場であったのだが、そこへ直接出る路地というのが、途中で民家の塀になり、その上を伝ってその家の門の植え込みを飛び降りて道に出る。それが正式の通路になっていて、結構通行人もあり、家の人も笑って見ていたりしたものである。そんな家も今はなく、鉄柵で囲われた空地が点在するのみであった。道路が接していないので民家を新築出来ないのであろう。
その路地を南へ下って出るこの池を長池という。本来ならば写真に見える赤白の鉄塔はうさぎ山という山に建っていたのだが、その山は崩されて宅地になっている。私の原風景はここにもない。私の実家は、画面右上端あたりの斜面にあった。
巡礼街道へ出て東に進むと、昔ながらの風情の残る一角があって、そこに「シチニア食堂」はある。
そのすぐ東に、これも昔からある謎の三角広場、広場というには狭過ぎて遊ぶことも出来ない、非常に中途半端な空地が、昔のまま残っている。
売布神社。学問の神であり私にとっては心の故郷である。元日で少し参拝者が多いが、なんとものんびりした風情は今も変わらない。
電車に乗って、母と妹の住む川西能勢口で降りる。そこへ能勢電車が入ってきた。1501は、もと阪急2103であって、1962年の製造であるから、私の2つ年下つまり52歳、おそらくは日本でも最高齢の車両に属するのではないか。窓枠の感じ、モーターの音など、昔の阪急電車の風情を良く残している。
http://noseden.hankyu.co.jp/illumination/