2015年02月23日

20150223 Q-3535消灯

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 ううむ・・・せっかくの農閑期レコード三昧カリブ海クルーズとシャレこんでいたのに、Sansui Q-3535が突然消灯した。ヒューズが切れていた。ガラス管内に溶けた線と少しの焦げ跡が見られたものの、異音や異臭はなく、まるで曲がフェイド・アウトしたのかと思うほど自然に音が消えて行った。取りあえず内部を目視する。配線のショートや外れは見られず、真空管に曇りもない。原因が特定出来ないので、ヒューズを交換して電源を入れるわけにはいかない。仕方がない。配線図と突き合わせてひとつずつ導線確認といくか (xx) ・・・設計の理屈もなんもわからんのでね、ふたたび叔父にメールを送ってアドバイスを仰ぐと、取りあえず真空管全部外して、トランスから規定の電圧がでているかどうか確認せよとのこと。というてもね、真空管アンプというものは、電源トランスの出力側には375Vという恐ろしい数字が出ていて、それがプラマイ平衡で出てるから、打ち所が悪かったらその2倍の750Vというキョーレツな電圧が体を走り抜けるのでありますよ。750Vちゅうたら電車が走るような電圧ですからね、ホンマに音楽は命がけですわ。カネもないくせに道楽が過ぎると歳とってからえらいことなりますわなあ・・・というわけで、次のレビューはアンプが直ってからね。生きてたらね。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=Sansui+Q-3535+甦生計画&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_lt3_sa&x=wrt
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20120521 Kompa d'Haiti

 さて、カリブ海の音楽を紹介するのに、順序としてはジャマイカ島を出たら北のキューバ島へ向かうのが普通であろうが、それをやっちゃうと音楽性の関係で、極めて大きなひと括りの音楽的潮流であるところのラテン音楽、すなわちずっと東のプエルト・リコとニューヨークのサルサ等のスペイン語圏の音楽を合わせて紹介せねばならず、そうするとジャズへの言及が不可欠となって、地理的により広範囲で一般的なカリブ音楽の潮流であるところの、フレンチ・カリビアンの国々の音楽の紹介が遅れる。もちろん前者の方が日本ではよりメジャーなのであるが、変態的音楽遍歴を旨とするこのシリーズにおいては、日本では稀少でありながら極めてアクの強い音楽であるところのハイチのコンパを先に紹介したいのである。したがって先ずはジャマイカから東隣のイスパニョーラ島へ渡って、島の西1/3を占めるハイチの音楽を紹介した後、島の東2/3のドミニカ共和国をちょっとだけ浚って、小アンティル諸島を経巡って行こうと思う。しかるのちにキューバ、プエルト・リコヘ戻ってニューヨーク・サルサを皮切りに、アメリカ合衆国とカナダを放浪した後、翻って南米大陸へ赴こうと存ずる。長い年月がかかるであろう。
 カリブ海の音楽を紹介するとはいっても、地理的歴史的経緯に準じて体系的にやる気などさらさらない。そんなことをしても退屈なだけだし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。しかしそれにしても大雑把にカリブの島々の歴史は知っておいた方が良いと思う。非常に古くは18世紀後半にフランスからハイチへもたらされた舞踏用の音楽「Contredance」があるのだが、それはさておき、現代においてカリブ海を席巻した音楽の代表といえば「Calypso」であろう。しかし、これの黄金時代は1940年代であるので、音源も少なく録音状態も良くない。また機材や技術、電源の関係から録音時間が概して短く、長時間楽しむためのダンス・ミュージックとしての魅力を伝えている例がほとんどない。1970年代頃からは、廃棄されたドラム缶をリサイクルした楽器「スティール・パン」を取り入れて、特にトリニダード・トバゴを中心に大流行し、日本でも多く紹介されたが、私は良い音源を持っていないので省略する。ここでは、この「Calypso」が、例えばジャマイカではメント〜スカ〜レゲエへと、ハイチやドミニカ共和国 (「ドミニカ」の名を冠する国はふたつある) では300年近く前にフランスから伝わっていた「Contredance」に刺激を与えて「Kompa」や「Merengue」の成立を促し、マルティニークでは「Beguine」の、キューバでは「Son」の、プエルト・リコでは「Salsa」の、また島国ではないがカリブ海西岸のベリーズの「Garifuna」の成立に多かれ少なかれ影響を及ぼしたことを指摘するに留めたい。これを知っておくと、これらの国々の音楽のかなりの部分に同じ傾向が認められ、それを観賞の軸にすることで、これらの音楽の違いや良さを感じる手助けになるからだ。
 もうひとつ大切なことは、この地域は1492年コロンブスによるイスパニョーラ島上陸、いわゆる「地理上の発見」のあと僅かな年月で、ドミニカ国 (上記のドミニカ共和国とは別) の一部に「保護」された数千人の「カリブ人」を除いて、先住民が絶滅していることである。その後のヨーロッパ各国の植民地争奪戦・労働挑発・搾取・疫病などで、中米と南米大陸では先住民が絶滅またはそれに近い状態に追いやられた。失われた労働力を補給するために、アフリカから膨大な数の奴隷が送り込まれたが、インディヘナにおいて失われた命と文化は回復されなかった。これは「キリストの名において」行われたものではなかったが、先住民からすればキリスト教徒による蛮行と映ったことに間違いはない。いずれにせよ、カリブ海に於ける先住民の伝統音楽というものは現存しない。この点は自分たちの伝統音楽の上に形成されたアフリカン・ポップスとは全く異質な点である。南米大陸に僅かに生き残った先住民と白人や黒人との混血諸民族による、いわゆる「フォルクローレ」は存在するものの、純粋な先住民の伝統音楽が変容してモダン・ポップスに影響を与えた例はなく、主に黒人奴隷がもたらしたアフリカ音楽と、スペインやフランスを主とするヨーロッパからの植民がもたらした西洋音楽との融合が、中南米音楽の主流となる。しかも、一方の要素である黒人音楽は、奴隷として連行される際にコミュニティを破壊されているので、その伝統音楽の連関も破壊されている。したがって、その要素は確かに黒人のものだけれども、切り刻まれた断片同士が異様な繋がり方をして他の音楽と融合して行った。このことについては長くなるので割愛するが、要するにここで言いたいことは、何事につけ正統や純潔を重んじる日本人が、例えばブラジル音楽についてさえ、「純粋なブラジル音楽」ではああだこうだと論議することはナンセンスだということである。
 現在、ハイチとドミニカに二分されているイスパニョーラ島は、1787年に始まったフランス革命に触発されたハイチ人の、近来稀に見る指導者と民衆の英知と実力によって、1804年に全島が統一された。これを「ハイチ革命」とよぶ。この間、内政では民主主義を装いつつも植民地では奴隷制を堅持しようとしたナポレオンの軍を撃破し、ハイチは先進国に初めて決定的な打撃を与えた。ハイチの植民地支配からの独立は、なんとアメリカ合衆国に次いで世界2番目、しかも黒人による共和制国家としては世界初であった。しかしその後のハイチは現在まで混乱を極め、200年以上にわたって同朋による内戦や独裁による恐怖政治、スペインやフランス、更にアメリカによる植民地支配と争奪、その経緯で産まれた島の東のドミニカ共和国との戦争、更にはキューバと共産化を警戒するアメリカによる東西の代理戦争などによって、独立しては占領され、占領されては独立することを繰り返し、そこへ頻繁に自然災害が重なるなど壮絶な歴史を経験することになる。しかしそれでも大衆音楽はいつの時代にも存在し、古くは18世紀後半、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」はカリブ海地方の音楽に絶大な影響を及ぼした。特にこれはジャマイカを挟んで東北隣のキューバ島の「Habanera」の成立に直接的に寄与し、キューバ音楽の歴史がここに始まることになる。それ以降も、19世紀にイスパニョーラ島に発生した「Merengue」(メレンゲ = スペイン語) または「Meringue」(メラング = フランス語) は、その後カリブ海を席巻する「Calypso」など様々な音楽と影響しあいながらも独自のスタイルを醸成、継承し、やがて1950年代に「Kompa」を産む。これが現在のハイチ音楽の基礎となっている。
 ハイチは、ある意味ではアフリカ以上にアフリカ的な国である。ハイチの苦悩の歴史を振り返ってみると、創造性・革新性・芸術的感性など、国民性の高さに驚かされるが、ことあるごとに時の政治的圧力などの歴史的不幸が重なって、彼等の才能は発揮されてこなかった。その国民性はカーニバルに良く現れている。イスパニョーラ島は、アフリカのなかでも奴隷海岸を中心としたヨルバ系の黒人奴隷の中継貿易の拠点だったことが関係し、現在でも中南米諸国のうち最も黒人比率が高い国であるばかりでなく、黒人たちのほとんどがヨルバの伝統を受け継いでいるのである。ヨルバ系が多かったということで、ハイチの祝祭に現れるアフリカ的要素は、他の南米大陸の黒人奴隷たちが伝えた「アフリカ的」なそれに比べて、極めて有機的に核心的にまとまっている。これには「ヴードゥー」というハイチならではの独特の進化を遂げた西アフリカ起源の民間信仰が重要な役割を果たすのだが、これはブラジルのカンドンブレ・トリニダードのシャンゴ・キューバのサンテリアなどの基礎を成すものであった。彼等は「ヴードゥー」を精神的支柱にして、執拗にしかも壊滅的に降りかかる災難を乗り越えた。他の国々でも、多かれ少なかれ地下に潜伏した民間信仰というものは、往々にして伝統文化を保持する役割を果たす。これらの宗教音楽をひとまとめにして聴くことは、アフリカやブラジルやラテン音楽に共在するもののうち、特に黒人による要素のエッセンスを耳で感得するのに非常に役に立つ。

 

 コンパ・・・これだけをとってみても歴史を追うのは大変である。そんなことをしても退屈になるし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。繰り返しになるが、良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。ハイチのコンパは、1970年代終りになってから日本に紹介されるようになった。しかし一握りの熱狂的ファンを確保したものの、これを紹介した著名な音楽評論家やプロデューサーの期待に反して、日本ではほとんど売れなかった。日本で売れないワールド・ミュージックとしては、いわゆる「リンガラ・ポップス」やナイジェリアの「ジュジュ」・「アパラ」・「フジ」などと順位を争うであろう。問屋の不良在庫と思われる未開封のLP盤が、大量に捨て値で流出したことが、更に悪名を高める結果になった。全てのコンパのアルバムを寄せ集めてもそうたいした数にはならないのだが、それでも個人が収集するにはそこそこの数になる。しかも誰にも良く解らない音楽であるのでジャケ買いに走る。と、かなり高い確率で駄作にぶち当たる。まあそういうもんだった。しかも、端正で簡潔をもって美とする日本人的美意識は、ここではまったく裏切られるのだ。なにしろ、アフリカ音楽といいコンパといい、要するに長ければ長いほど良いからだ。これは真実である。しかも、大抵の場合、それは同じフレーズが延々と繰り返される。どんなことが歌われているか、どんな思想が込められているか、そんなことは二の次であって、音楽として楽しめる時間が長いということは、それだけその曲の価値が高いということになる。これは全く価値観の違いであって、カーニバルや夜のコンサートでは一晩中演奏されているのが当たり前の世界、楽しみ・好意・善意というものの程度が、日本人のわきまえを無視して桁違いに大きい。ここは、なんとしてでも慣れていただかないと、世界の音楽のうちのかなりの大きな楽しみを知らずに死んでしまうことになる。
 ハイチのコンパは1950年代にNemours Jean-BaptisteとWebert Sicotという2人の音楽家によって始められた。前者の音楽は、その後発展して「コンパ・ディレクト」として開花する。これは当初「メラング」の発展形として新しかった演奏に、幅広い即興性を持たせたものであって、それはある意味で形式美の破棄であったのだが、メロディとリズムの危険なまでの即興性、更にアレンジの意外性を含むもので、これはその後のコンパの発展の感性的基礎になった。これらの音源も発掘、復刻されているので興味のある方は聴いてみられるが良い。即興性として重要なのはジャズの要素である。ハイチは1915年から20年ちかくアメリカに占領され、その時期にビッグ・バンド・ジャズが流入した。これによって様々に醸成されたコンパのうち、大掛かりなオーケストレイションを脱して、それよりは小編成のコンボによるコンパ・ディレクトを演奏する試みがもてはやされ、これは「ミニ・ジャズ・ムーブメント」と名付けられて1970年代に絶頂期を迎える。日本に紹介されるのはこの頃からであって、ここで紹介したいのも1970年代末から80年代初頭にかけての絶頂期の作品である。もともとハイチの音楽は、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」すなわち社交ダンスが基礎であって、これは滑らかなムード音楽の要素を大切にする。コンパも当初は楽園音楽のようなものだったのだが、やがて様々に変容するにつれ、それを打ち破る傾向に発展する。そしてこれから紹介する作品の多くについては、滑らかなダンス・ミュージックとしての気品を保ちつつも、メロディ・ハーモニー・リズムの極めてアグレッシブな阿鼻叫喚、それだけでなく、流れる演奏の土台さえもひっくり返してしまうような、全く奇想天外なアレンジを、大掛かりなオーケストレイションに裏付けられた卓越した演奏技術でもって、あたかも眉ひとつ動かさずにさらっと演奏してしまう、その醍醐味を味わっていただきたいのである。演奏している大半は黒人である。その濃厚な味は、先述したように日本人の常軌を桁違いに逸している。200年以上に及ぶ破壊的な混乱を耐え忍んできた人々の音楽である。外では砲弾が飛び交い、兵士が吹っ飛んでいる真下で夜会は催され、演奏は続けられたであろう。銃声を聞きながらリハーサルは重ねられたであろう。音楽の現場とはそういうものだ。ハイチの音楽は、アフリカ音楽以上にアフリカ的である。私がハイチの音楽に惚れ込むのは、まさに銃声の中から響き渡るような、あまりにも破天荒なエネルギーの炸裂をそこに感じるからである。コンゴの音楽とは全く異質な、しかし同等かそれ以上の電圧と熱量を、そこに感じるからである。そこに、いかなる苦境にあっても音楽によって救われる自分の魂を感じるからである。そしてなんといっても、美しく面白いからである。総論を終って、次回より各論へ行きましょか・・・

 
 
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20150212 Fethullah Güllen

 今日、久しぶりに来た中東の友人と会って話をすることが出来た。こういうご時世だから、彼の身の安全のために「中東の友人」とまでしか言えないのが残念なところなのだが。さて、ISISによる日本人ジャーナリスト殺害を巡る一連の事件について、以前から率直に違和感を感じていたことについて、少しずつ解ってきたので、説明を試みてみたい。なにしろ、今回の事件では私の知人が残忍な方法で殺されている。払っても払っても垂れ込める暗雲をなんとかしたい。
 違和感とは、まず、なぜ後藤さんはISISの支配地域へ行ったのか。生後間もない子供と妻を残して、あまりにも危険な賭けに、どうして出ざるを得なかったのか。素直に考えれば、彼自身の判断で行ったことになる。最終的にはそうだろう。しかし、その判断に至るまでのプロセスが全く理解出来ないのだ。まあ別にわからせる必要もなかったのかも知れないが、そこに様々な憶測が乱れ飛んでいる。ご本人が亡くなっているので、真相は闇の中だ。しかし善くも悪しくもネット社会、根拠のないデマが膨大に出回り、更に拡散とコピーを繰り返して、冷静な判断に繋がる情報が隠されてしまう。いくら言論が自由であっても、この現状は悪い。
 私は、様々な陰謀説にもかかわらず、彼の慎重な性格にもかかわらず、彼自身の判断で行ったと思っている。日本政府やNHKのお膳立てではなく、直接ISISとコンタクトをとって、その情報を元に行動したと思っている。つまり、ISISへ参加を希望する外国人は全く個人的に直接コンタクトをとって渡航しているし、事実、多くのジャーナリストが実際にISISとの間を往復している。これは友人が話してくれたことだ。別にISISが強硬な集団だからといって、そこに参加するのに特別のコネクションが必要なわけではない。インターネットが繋がれば、誰でも出来る。後藤さんも情報収集の結果、ISISの誰かとコンタクトをとることに成功した。そこでやりとりをし、拘束されている湯川さんを解放したいと目的を説明し、訪問の意図や、取材のことも話題に上ったであろう。日本という国に対する理解も求めたかも知れない。彼はそれを自分でやったと思う。コミュニケーションの結果、一定の合意が形成されて、全てのプランが組み上がり、段取りは完了した。行けるという感触を得たので、彼は出発したのではないか。ジャーナリストとしての使命感というか、血が沸いたというか、それまでのやりとりや積み重ねてきたものを、きちんと形にしたかったのではないか。つまり、ジャーナリズムではなく、実際に日本人を救うという行動である。しかし、これら一連のやり取りは、すべてISISが日本人をおびき寄せるためのワナだった。彼等には次なる標的を日本に定める明確な理由、つまり世界を動揺させるには、中東にとっての親近国である日本人を殺すことが、非常に効果的な宣伝になることを熟知していた。初めからそのつもりだったところに、後藤さんの方からコンタクトをとってきた。残念なことに、彼の中で、功を焦った部分があったのではないか、冷静であれば、それを嗅ぎ取れる人である。そうでなくても、愛する妻があって、しかも出産直後である。いくら仕事とはいえ・・・これ以上はやめておこう。
 たしかに政府の言うことやマスコミの言うことは、ここ数年とくに偏向してきている。安倍が総理大臣になってから特にきな臭い臭いがここまで漂ってくる。だから、彼等の言うことには一定の疑いの目を向ける必要がある。しかし、いくらなんでも自国民を直接騙して死に至らしめるような危険を、法治国家である日本の首相や、マスコミがするには危険が大き過ぎる。陰謀の行く先、つまり日本を米国と手を組んで戦争の出来る国にする、そのことによって内外の経済的な諸問題を外に捨てることが期待出来る。その目論見はあると思う。しかし、そのためにこんな危険な橋を渡ることはない。ISISがあのタイミングで湯川さんを殺し、要求を一変させてヨルダンを巻き込み、後藤さんを効果的に使って自己の存在を世界中にアピールさせ、揚句の果てには殺してしまったのは、日本の出方を冷静に分析した結果である。あの瞬間、日本人は自制心を失った筈だ。彼等は充分に効果を確認した。また、日本政府にとっても、そこにつけこんで日本の再軍備の必要性を国民に植え付ける流れをつくることが出来た。もちろん両者が結託しているわけではない。しかし、テロリストにしても、日本政府にしても、現状打開を戦争に求めていることは同じである。ISISの思う通りには、なかなか行かないだろう。彼等は苦戦を強いられる。安倍首相も、ここまで民主主義の育った国民を簡単に騙せるわけではない。いくらなんでもひど過ぎるやり方には、当然の報いがある筈だ。その流れを認識したうえで、問題は慎重に切り分けられるべきである。私は、後藤さんは自分の判断で行ったと思う。つまり日本人であれば、誰でもよかった筈だ。そういう意味では、その前に湯川さんの救出に向かった中田氏と常岡氏が犠牲になっていた可能性もあるし、他に拘束されている日本人がいるかも知れない。湯川さんに大きな使命がかかっていたから、三人もの日本人が救出を試みたのではない。全く同じ手でおびき寄せられただけのことだと思う。「通訳してくれ」・・・と。
 違和感の二つ目は、何故日本政府はヨルダンに相談を持ちかけたのかということだ。私は報道で聞いた時、実はびっくりした。ISISの支配地域へ入るにはトルコから南下するのが普通だ。さらにトルコはISISに拘束された外交官の解放に成功しているし、トルコはシリアのアサド政権と対立し、反政府勢力を支援している。ISISは、もとはシリアの反政府勢力のひとつが過激化したものだ。ならば当然、解放交渉をトルコと協議するのが普通だと思うのだが、日本政府はヨルダンに拠点を置いた。ヨルダンはシリアの南にあって、ISISの支配地域へ行くには、アサド政権の勢力範囲を越えて行く必要がある。しかもイスラエルの隣であって、またまんの悪いことに、安倍は決定的な声明をイスラエルの国旗をバックにして演説している。まったく日本政府のやることが解らなかった。
 友人は言う。実は、トルコとアメリカの関係が拗れていることが原因とのこと。トルコは政教分離を明記した憲法を持つ国であるが、現在エルドゥアン大統領の独裁的傾向が強まっていて、それは彼の言うイスラム化への道を進んでいる。それとは別に、アメリカに亡命中のフェトゥラー・ギュレンというイスラム宗教指導者がいて、彼はユダヤ人コミュニティと、ひいてはアメリカ政府と深いパイプがあり、その財閥と関係を持ってトルコの様々な教育施設などのインフラ整備に尽力し、ここ10年ほどのトルコの経済成長に貢献した。しかし、国の進むべき路線を巡って首相時代のエルドゥアンと対立し、追放されてしまったのである。その時期とISISが過激化する時期とが偶然一致していて、アメリカはトルコに対して有志連合の一員としてISISへの空爆に参加するよう圧力をかけたのだが、トルコは空爆による攻撃はシリア北部すなわちトルコ国境近辺を荒廃させ不安定化させることになるとして協力しなかった。ある意味、間接的にではあるが、トルコはISISを支援する結果になった。他にもイランとの関係やいろいろややこしいことが重なって、両国の関係は拗れた。日本はまずアメリカに相談したであろうから、その時点でトルコのルートは消え、有志連合の強硬派であるヨルダン経由になった。日本はトルコに相談したくても出来なかったのだ。しかし日本の外交が独自性を発揮してくれていたら、犠牲者を出さずに解決出来たかも知れない。日本政府は、二人の日本人を救出したかっただろうが、アメリカの意向を前にしては、結果的に彼等の命は見捨てざるを得なかった。直接手は下さないまでも、そのくらいのことならやるだろう。
 トルコは、ISISの動向に最も神経を尖らせている国である。しかし現在のところ軍事行動には出ていない。それは、ISISが拠点としている都市を破壊すると、更に難民が増えて国内に困難を抱え込むことになるから、また一千年以上に亘るトルコの歴史を振り返ってみると明らかであるが、彼等は軍事力で物事を解決することの空しさをよく知っているから、つまりトルコ軍にはその能力があるが、目の前の町を攻撃する気はさらさらないからである。一方、アメリカやヨルダンやアラブの国々から見れば、所詮国境を接していない他所の国のことである。言っちゃ悪いが世界が安全になるなら破壊もやむなしと判断する。それが戦争である。ISISはそれに対して、当然人間の盾を使い、町が空爆されれば民間人の死者が出たことについて有志連合を避難し続けるであろう。実際、ISISを攻撃するということは、そこで苦しんできたシリア人を攻撃することであり、問題を複雑にしてしまう。さらに、このエリアに居住する世界最大の国家なき民族であるクルド人の役割と処遇を巡る関係国の対立がこれに拍車をかける。トルコは、これらの問題の全てを引き受けなければならないのである。破壊してしまえば問題が解決すると思っている国とは訳が違う。
 さて日本は、アメリカの言いなりになったがために二人の日本人を見殺しにし、ISISに対して好戦的な態度を表明したがために、中東において最も大切な友人であるトルコを敵に回しかねないのである。問題は一筋縄では行かず、最も複雑に利害関係の入り乱れたところへ、人道支援とは言えアメリカとヨルダンの影をちらつかせて、シリア領内のトルコ国境近くで活動することになる。この事態の及ぼす複雑な影響について、70年も紛争をしてこなかった日本、つまり喧嘩慣れしてない日本にその役割が果たせるのか、しかも明らかにアメリカ依りの言動を持って入っておいて、それまでの平和国家として彼等に喜んでもらえるとは、到底思えない。もし安倍が言うように、本当に人道を考えているのなら、今すぐ態度を撤回すべきで、憲法により絶対に戦争が出来ない国として徹底的に彼等との信頼関係を淀みない心で優先しなければ、血で血を洗う泥沼に巻き込まれる。しかし、もちろん安倍は人道なんて考えていない。戦争に加担しないと、負の連鎖から解放されないから、アメリカとともに戦争の後方支援に回るのである。日本人の大多数も、中東の人たちに喜んでもらうために、自分たちの生活レベルを下げることなど、とんでもないことだと考えているので、日本は戦争をすることになる。私は以上のように考える。さあ、どうやって戦争を止めますか ??



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20150210 Tan Tan

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Eddie "Tan Tan" Thornton : Musical Nostalgia For Today (CD, P-Vine, PCD-24178, 2006, JP)

1. How Long I Got To Wait
2. Tribute To Don Drummond
3. Magic Eyes
4. Theme From A Summer Place
5. Viennese Trot
6. Old Man River
7. Night Train
8. P.S. I Love You
9. Alpha Boss School
10. Princess
11. Ruk-A-Pum Pum
12. Disco Style Reggae

13. Summer Dub
14. Everything I Own
15. Own Your Rock
16. Fleur De Lyss
17. Jumpin

18. Tribute To Don Drummond (Alternate Take)
19. Peace & Love
20. Peace & Dub

 もう偉大過ぎて、私ごときが何かを申し述べるのもおこがましいくらいの世界的トランペッターにして、「全ては神から与えられた贈物であり私はラッキー、感謝する」と全く奢ることのない飄々とした人生。まさに音楽のために我欲を捨てて身を捧げるミュージシャンの鑑・・・参加した録音は数えることが不可能と言われ、その至るところ世界中、超有名なところだけをほんの少し例に出しただけでも、The Beatles・The Rolling Stones・Bob Marley・Jimi Hendrix・・・そして当然、Aswadをはじめブリティッシュ・レゲエのホーン・セクションには必ずといって良いほど名を連ね、ジャマイカ生まれでありながら若くして渡英したため、設備のなかった本国には当時の録音が残されていないという、もうこれまた奏でられた瞬間に消え去る音楽の運命そのまま・・・最近では、日本のスカ・グループ「Cool Wisw Men」と共演するなど、1932年生まれのトランペッターはなおも健在。伴奏録音は星の数ほどあれど、リーダー・アルバムはこれっきり。原盤は1981年にイギリスから出ており、そのジャケットは写真の左側、収録曲は曲目リストの1-12。その後復刻され、Aswadとともに録音された13-17に、2の別バージョンを加えたCDが、日本のQuattroから別ジャケットで出たもののすでに廃盤。現在入手可能なものは、日本のP-Vineから出たこのCDで、ジャケットは写真右側。上記全曲に加えて、日本で活動するSeijimanのベース・トラックをもとに録音された19-20を収録。すでにP-Vineのカタログにないので流通在庫のみと思われる。いやあ、私は究極の音楽は、実はイージー・リスニングであるべきと思っているのだが、この作品は、スカやレゲエのムードでそれを実に穏やかに実現した良質のアルバムといえるでしょう。以下のリンクは是非参照して下さい。彼とともにある日本の若いミュージシャンたちの生の声、私もこのように老いたいものだ。

http://www.galactic-label.jp/news/2013/11/001448.html
http://cwm.jugem.jp/

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20150209 Dub Factor

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Black Uhuru: The Dub Factor (LP, Mango/ Island, MLP9756, 1983, US/ CD, Island, 510 066-2, UK))

Ion Storm
Youth
Big Spliff
Boof 'N' Baff 'N' Biff
Puffed Out

Android Rebellion
Apocalypse
Back Breaker
Sodom
Slaughter

 Black Uhuruを初めて聴いた頃、彼等はブリティッシュ・レゲエのグループだと思っていた。主にイギリスのIslandレーベルからリリースされていたし、音の感じからしてそう思い込んでいたのだが、彼等はれっきとしたジャマイカン・レゲエのグループである。1970年代末から、ジャマイカでは、それまでのメロディアスな歌心あふれるレゲエ・ミュージックよりも、より強力にビートの骨格を前面に出した「Dancehall」や言葉の韻律とメッセージ性に重きを置いた「DJ Stylee」が流行して、いわゆる「歌もの」は影を潜めてしまった。と同時に私自身、レゲエへの興味を徐々に失って、カリブ海やアフリカの音楽に傾きはじめた。その頃、流行に反するようにメロディアスなルーツ・ロック路線を貫いていたのが、このグループである。
 結成は1974年、前身バンドの録音を含め、この「The Dub Factor」までに10枚のLPをリリースしているが、聴くべきはIslandに移籍した1980年から1983年までの作品、「Sinsemilla」・「Red」・「Black Sounds of Freedom」・「Tear it Up Live」・「Chill Out」であろう。その次の「Anthem」も良いが、当時ロンドンを席巻していたGary Numanのシンセ・ポップ風アレンジがどうも好きになれないので除外。それ以降は興味の対象外。それ以前、すなわちジャマイカのTaxiレーベルからリリースされていたLPやシングルは、Island移籍以降の彼等の音とは全く別物と考えて良く、それが本来の彼等の音なのかも知れない。1970年代も後半になると、レゲエの世界全体にプロデューサーの存在感が増し、その手腕次第で音はどうにでも変えられるといっても過言ではないほどになる。つまり、1980年以降の彼等の音は、明らかに作られた音であり、その初期の段階を完結したのが「Chill Out」といえる。来日したのは、「Anthem」リリース直後の1984年の「レゲエ・サンスプラッシュ」千里万博公園「セレクト・ライブ・アンダー・ザ・スカイ」で、打ち込みも多用されたデジタルなビート感の強いステージだったのを記憶している。
 そんな彼等であるので、いっそギミックにダブ・アルバムを推薦する。このレコードは愛聴盤である。両面、ほぼ切れ目のないメドレーとなっていて、彼等のリズム・セクションであるSly & Robbieの作品である。その手法は、当時のレゲエ・ファンの間では賛否両論であったが、特にレゲエと意識せず、レゲエのルーツ性、当時の時代背景から見たポップ性、ダブの実験性のバランスが見事に実現されたダブとして最高傑作に推したい作品である。このダブに飽きたら、Prince Jammyがプロデュースした「Uhuru in Dub (LP, CSA Records, CSLP2, 1982, UK) 」もあり、これも非常に良い。ただし、復刻されたCDはジャケット三種類、曲順も異なるので要チェック。この後の彼等は、ご多分に漏れずポップ路線に転換していくのであるが、そのルーツなメロディを生かしきれずに分裂してしまう。原点に戻って作品を作り続けていたなら、おそらくボブ・マーリー亡き後のレゲエ「歌もの」シーンを充分盛り上げてくれたと思われるだけに、非常に惜しい気がする。



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20150208 Africa must be

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Hugh Mundell: Africa must be free by 1983. (LP, 番号なし, Pablo Music Pro., 1978, Jamaica/ CD, Hugh Mundell/ Augustus Pablo: Africa Must Be Free By 1983/ Africa Dub, Greensleeves Records ,GRELCD 504, 1990, UK)

Let's All Unite
My Mind
Africa Must Be Free By 1983
Why Do Black Man Fuss And Fight

Book Of Life
Run Revolution A Come
Day Of Judgement
Jah Will Provide
Ital Slip

https://www.youtube.com/watch?v=xWNcnqFCf90

 ジャマイカに戻る。1970年代のジャマイカは、ほぼ内戦に近い不安定な状況だった。政治は事実上の二大政党制だったが、政策路線としてはともに中道左派であり、両者の闘争の原因は、要するに勢力争いとしか考えられない。カリブ海を舞台にした覇権争いにからむ米国との関係、その力を取り付けようとする地元勢力同士の抗争、主な外貨獲得資源である鉱物ボーキサイトの利権、それに伴うギャングの暗躍、麻薬密売ルートの確保などである。ともかく、植民地支配から独立を果たした多くの国々が辿る悲惨な運命をジャマイカも辿った。住民はそのほとんどが、スペインの植民地支配の初期に過酷な労働で死に絶えたインディヘナの人たちの代わりに、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちの子孫であるが、もともとジャマイカはそんなに大きな島ではなく地形も複雑なため、生産可能な国土に比べて人口が多い。従って、ご多分に漏れず地方から都市部への人口の流入が続き、首都キングストンには多くの貧民街が産まれた。そのひとつとして名前の知られるトレンチ・タウンは、文字通り下水の排水溝を埋め立てて作られた場所であった。
 さて、ジャマイカのレゲエには、ブリティッシュ・レゲエと違って、この国内の不毛な権力闘争を批判する内容の歌が多い。そこを出発点に、ゴミダメのような土地を捨てて約束の土地へ、世界の黒人は連帯して移住しようという思想、すなわちラスタファリズムを歌うことで、黒人の解放、貧困の解消、差別の撤廃というテーマについて言及していく。「Africa must be free by 1983」・・・Aswadも同年に発売されたシングル「It's not our wish…」のなかで「Africa must be free by the year 1983」と謳っているが、1983年のアフリカに何があった、あるいはあるだろうとしていたのだろうか。Hugh Mundellは1978年当時で16歳、録音された声は未だ声変りしていない。収録された曲は、2曲を除いて彼自身のもの。プロデュースとキーボードはAugustus Pablo (原盤表記はAgustus Pablo) で、当時のジャマイカ随一のスタジオChannel 1と、Lee Perry のBlack Ark Studioで制作されている。これは彼のデビュー作であって、ちょっとかすれた感じの少年のような声と、裏腹なほどはっきりしたメッセージ性がある。曲調は優しくシンプルで、初期のルーツ・ロック・レゲエの良さを充分堪能出来るが、彼の魅力はそれだけにとどまらない冷静な歌心とでもいえる、どこか醒めたような空気感である。当時のジャマイカの録音設備の状態から音質は悪いしミックスも雑、製造技術の問題から盤質も粗くジャケットもそれなりであるが、歌と演奏の良さ、それも凝らずに作った素朴さが愛すべき作品である。彼はその1983年に暗殺されるまでに5枚の作品を残しているが、いずれも繊細な声に印象的なキーボードの絡まるシンプルな曲調の曲を残している。私は個人的には、もし彼が生き存えていたら、そして環境に恵まれ、彼がそれを有効に使えるほどに強ければ、ボブ・マーリーを引き継ぐようなスーパー・スターに育っていたのではないかと思ったほどである。しかし、ジャマイカの現状はそれを許さなかった。ボブ・マーリーは、覇権争いに明け暮れる両党の党首を自分のステージに上げて握手させ、それは歴史的な和解かと思われたのだが、それも束の間の癒しにすぎなかった。再びジャマイカは混乱の歴史を辿り、多くのミュージシャンや文化人が世を去った。上のデータは、原盤LPのものである。この原盤を元にAugustus Pabloが制作したDUBとカップリングでCD化されているが、いずれも入手困難のようである。



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20150207 Cordoue 21

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Sandra Bessis/ Rachid Brahim-Djelloul: Cordoue 21, Sur les traces de Sefarad (CD, May Sol Music/ L'Autre Distribution, MS1854,  2014, FR)

À Grenade, Le dernier soupir du Maure
   1. Romance de la Gran Perdida de Alhama
   2. La Serena
À Cordoue, Les femmes aussi sont poétes
   3. Morena Me Yaman
   4. Ygdal
À Istanbul, Entre musique de cour et chants des rues
   5. Kaminos de Sirkedji (feat. Jasko Ramic)
   6. Bre Sarika Bre
   7. M'ehis Berdemeno
Des Balkans à Salonique, ballades et tavernes
   8. El Rey de Fransia
   9. Yedi Kule
   10. Nani Nani (feat. Arayik Bartikian)
Entre Tunis et Alger, années 40 et 50
   11. Ya Behi el Djamel
   12. Ya Oummi
À Paris aujourd'hui ≪L'homme n'a pas de racines, il a des pieds≫
   13. Aman Minush

 バック・オーダー待ちであったCDが送られてきた。アラブ・アンダルースの音楽に分類されるが、イスラム世界に離散したユダヤ人の伝統音楽復興の試みである。711年にウマイヤ朝イスラム帝国 (首都は現在のシリアのダマスカス) はイベリア半島に上陸し、キリスト教世界が初めてイスラムに占領された。しかしほどなく750年に首都で革命が起き、現在のイラクのバグダッドに首都を置くアッバース朝にとってかわられた。ウマイヤ朝の子孫はイベリア半島に逃れて"Cordoue" (コルドバ) に756年、後ウマイヤ朝を建てた。一方アッバース朝の時代はイスラム帝国が最も繁栄した時代であり、ムスリムであれば民族の別なく全く平等で、「クルアーン」に記されたイスラムの理想が実現されていた。しかしほどなく均衡は破れ、各地の勢力による分裂が始まる。イスラム帝国は、当初その発展の段階で周辺の国々を征服して拡大していったが、異教徒に対して改宗を強制せず、人頭税の支払いを条件に信仰の自由が認められるのが普通であった。ユダヤ人は主に紀元前300年ごろから、つまりギリシアのアレクサンダー大王から約300年のヘレニズム時代に、地中海を舞台に商業的に成功して各地に離散し、当時イベリア半島にも住んでいた。"Sefarad"の場所は特定されていないが、その形容詞または複数形である"Sefaradi"は、半島に居住していたユダヤ人及びその子孫を指す。半島を舞台にイスラム勢力とキリスト教勢力は攻防を繰り返すが、割拠していた複数のキリスト教勢力は異教徒を排斥する傾向にあり、特にユダヤ人は弾圧された。それに対して最後に残ったイスラム国家グラナダ回教国は宗教的に寛容であったため、半島内からムスリムとともにユダヤ人も多く移住して、文化は非常に栄えた。アルハンブラ宮殿が完成したのもこの頃である。キリスト教徒によるイベリア半島の奪還は1492年に完了するが、同時に異端審問によりユダヤ人は追放された。その受け皿となったのが、北アフリカまで勢力を伸ばしていたオスマン・トルコである。このようにして、イベリア半島出身のユダヤ人は、当時のオスマン・トルコ領内、北アフリカから中央アジアにまたがる広い地域に活路を見出して散っていくことになる。
 この作品は、スペインに残るイスラム世界に於けるユダヤ人の音楽の系譜から始まり、チュニジア・バルカン・ギリシア・トルコに残された"Sefaradi"の音楽を、伝承された楽曲を独自のアレンジで、或いは古くから伝わる詩編を許に創造して様々に奏でてみせる。ユダヤ人の音楽とはいいながら、始まりの楽章はどう聴いてもアザーンの朗詠、それが深まるにつれフラメンコのカンタに似てくる。そこへアルメニアのドゥドゥックの物悲しい音色が絡んできたり、トルコのクラシック音楽に、ときにはアゼルバイジャンのマカームの世界に連れていってくれたりもする。歌は、主にスペイン系ユダヤ人の言語であるラディーノ語で謳われ、これはスペイン語・アラビア語・ヘブライ語の特徴を併せ持つ。また伝承された地域によって現地の言葉でも謳われる。アンダルシアであったり、マグレブであったり、サロニクであったり、テュルクであったり・・・しかしそれでもアラブやトルコ、コーカサス地方の保守的な伝統音楽の、型通りの分厚い職人芸には流れない。ウード奏者でありこの作品の総監督であるRachid Brahim-Djelloulのもと、メイン歌手のSandra Bessisの深くて低い声が生かされていて、静かで暗い中に、情熱の一本の筋がしっかりと通っている。これを聴くと、中東に産まれた三つの世界宗教が、各地に様々な文化をもたらし、歴史の中でそれらが混ざり合ったり、離反したり、あるいは熟成された後ぶちまけられたり、音楽的にも様々な流亡があったりして、ひとつの音楽の中に抱えきれない世界が広がっているのを実感する。彼等は変化を受け容れつつも、自分たちの伝統を飲み込んで新たに伝える。伝えるために、壊して創造する。それが生きた音楽になって、こうして聴くことが出来るすばらしさ。もとはひとつであったのだが、今は様々である。しかし、やはりよく聴くと、もとはひとつである。ものすごく良い演奏です。

 

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2015年02月15日

20150215 AT-PEQ3 DC化

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 レコード聴いていたいのに、なんとカートリッジ・イコライザ・アンプが故障した。まあ30年近く使ってきたものだから致し方ない。というので早速ネットで捜してみたのだが、もうないんですね。実は、私の使ってきたプリ・アンプは、SONYのEQ-2というもので、単三乾電池4本で駆動するものである。これに近いものといえば、Audio TechnicaのAT-PEQ3となるが、これは100V電源からアダプタを介して15VのDCを得て駆動するものである。しかも、この小型アンプにはスイッチというものがなく、使うたびにプラグを抜き差ししなければならない。こりゃ不便だ。なぜ乾電池が良いかというと、交流から変換するアダプタと比べてノイズが少なく、プリ・アンプともなれば、その影響が無視しきれないからである。・・・(^^)・・・そこで・・・(^^;・・・エイ・ヤァ・タァァァァ・・・単三電池10本搭載のスイッチ付直流電源ユニットの製作に及んだのでありました。私の敬愛するオーディオ専門家の叔父に言わせると、やはりフォノ・イコライザーのDC化は知る人ぞ知るケモノミチらしく、噂の通り音の分離と透明感が信じられないほど増したのでした。しかし肝心の音源の録音状態がそれほどでもないので、効果もほとんどの場合半減するのですが、まあスイッチ付になっただけでも快適だ。・・・ああそうそう、DCプラグは芯線が「+」で、型番MP205というものが適合します。

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2015年02月05日

20150205 I'm not ABE

 正確には覚えていないのだが、1999年に放送されたNHKスペシャルの「世紀を越えて」というシリーズのひとつに「世界は誰が守るのか」という番組があった。それは世界の紛争を概略的に取り上げて60分に編集したもので、そのなかでルワンダとコンゴ民主共和国も取り上げられた。当時、旧ザイール共和国のモブツ政権がクーデターで倒され、混沌の中でコンゴ民主共和国 (以下「コンゴ」と略する) が誕生した。一方、東の辺境ではルワンダの内戦が終結していたが、政権を握ったツチ人が巨大ツチ帝国の構想をもって、中央権力の行き届かないコンゴの東半分に侵攻し、南からはアンゴラがコンゴの鉱物資源を蹂躙しようとして、コンゴは国家存亡の危機に直面、紛争は周辺国を巻き込んでアフリカ世界大戦の様相を呈していた。一連の紛争での死者は、推計方法にもよるが、10年で500万人にも上るといわれており、これも推計方法にもよるが、何千年も続くユダヤ人とパレスチナ人の紛争の犠牲者をも遙かに上回ったといわれている。当時、世界最大規模の戦争がアフリカで起っていたにもかかわらず国際社会はこれをほぼ黙殺した。ちなみに2015年の秋に予定されているコンゴの大統領選挙で、三選を禁じた憲法を改正して続投を狙うカビラ大統領に対する反政府運動が始まっており、その混乱に乗じる形で東と南からの圧力が顕在化していることが報道された。これは、彼の父が倒したモブツ大統領の引き際と全く同じ構図だ。危機は再び惰眠から目覚めようとしている。コンゴを第二の故郷と考える私は、なんとか当時の実態を伝えようと外電を読み漁って下のようなものをまとめていた。

 「ザイールからコンゴへ」http://jakiswede.com/1congo/18notes/181RDC1998.html

 これを読んだNHKの知人経由で、番組の制作会社から現地取材のコーディネイトの依頼を受けとったのは、たしか1998年の事だった。そのとき、ルワンダの内戦の取材を終えたという後藤健二氏を紹介された記憶がある。私はプロのジャーナリストではなく、単なる音楽バカであるのでコーディネイトの話は断ったが、NHKに首都キンシャサの詳細な地図と、現地語であるリンガラ語について私がまとめたもの、その他コンゴに関連する資料を提供して取材に協力した。番組は完成して1999年に放映された。以後、私は折ある毎に後藤健二氏の報道に触れることがあった。
 「日本の悪夢」は、確かに始まった。さまざまな憶測が流れているが、日本人が囚われたのは、英米人は既に何人も殺したので、宣伝効果を考えて次の標的にされただけのことだ。日本人なら誰でも良かったのだが、後藤健二さんが優れたジャーナリストであっただけに、彼等にとっては殺す価値も高かった。彼等の期待通り、後藤さんを救出しようという世界的な運動は盛り上がった。世界は「イスラム国」に「情」を求めていたが、なぜ世界に恨みを持つ彼等が、その「情」に応えなければならないのかがわかっていなかった。交渉の余地などない。服従するか死か、服従しても、利用価値がなくなれば殺される。殺した方が宣伝になるなら尚更だ。後藤さんがそれを全く知らなかった筈はない。私の認識では、彼はバランス感覚をわきまえた一流のジャーナリストであり、紛争地域に於ける活動に伴う危険を熟知しており、慎重なネゴシエイションの達人であったからだ。しかし、彼は心が優し過ぎた。冷静な報道というより、人の心に触れる柔らかさがあった。それでこその後藤さんであった。しかし、そこにつけ入られた。話せば解ると思ったのかも知れないし、かつて「イスラム国」に接触した人の話を信じ、彼等が急速に変貌したことを知らなかったとしか考えられない。危険は承知していたが、まさか自分が殺されるとは思っていなかったに違いない。
 湯川さんや後藤さんが、何故そこへ行っていたのか、ということに関して、様々な憶測が乱れ飛んでいる。しかし、トルコ航空でイスタンブールからトルコの東部へ、そしてシリア北部に入ることは極めて簡単だ。不安定な地域に絡む国境付近では、様々な人の往来があって、自称他称を問わず、ガイドや通訳を申し出る人がうようよいる。カネになるからだ。しかるべき報酬を払えば潜入取材は可能であり、実際に頻繁に行われている。湯川さんの一度目の渡航は、自由シリア軍系の武装勢力と同行する形で行われ、彼は多くの事実を見聞して無事に日本に戻った。彼のブログを読んでみると、その過程で拘束され、後藤さんに会い、彼に助け出された後は彼とともに行動していたようだ。後藤さんは通常の取材活動の途中だったと思われる。彼等は現地のガイドの意見に従い、慎重に「イスラム国」の支配地域を避けて行動したから無事に戻ることが出来た。刻々と変わる現地の事情は、ジャーナリストよりも現地ガイドが一番良く知っている。それだけに、本当に信頼出来るガイドを見つけることが、渡航の成否の鍵を握る。
 湯川さんの二度目の渡航はフリー・ハンドであった。亡くなった方のことを批判することは申し訳ないのだが、彼にガイドを見分ける「目」があったとは考え難い。彼が行方不明になっていることを、日本政府は把握していたという。しかし、その情報がどこからも漏れてこなかったのは不自然だ。とすれば、彼はトルコ国境で網を張る「イスラム国」のガイドに扮した工作員とともに直接「イスラム国」の支配地域に入って拘束されたと考えられる。というのは、カネになるガイドの世界にもシンジケートがあり、それぞれの勢力争いがある。仮に「イスラム国」直轄のガイドのグループがあれば、その情報は他者に漏れ難い。彼の渡航は、「イスラム国」に対する何らかの工作の任務を帯びていたという情報もあるが、これは全く信用出来ない。外国語をほとんど喋ることの出来ない彼に、どんな工作が出来るだろうか。もしそれが本当だとすれば、依頼者は人選を誤ったとしか考えられない。
 彼を救出するために中田氏と常岡氏が「イスラム国」に入ったが、シリア政府軍の空爆が激しくなって行き違いになったということが本人の口から語られている。話の全体からは、湯川さんを拘束しているグループではなく、別の比較的穏健なグループと接触して戻ってきたという印象だ。この時期から原油価格が暴落し、「イスラム国」内部での資金調達を巡って、過激派の勢いが増したのではないか。中田氏と常岡氏の話から受ける「イスラム国」の印象は、アサド政権と対立する民主化運動の一派で、イスラムの理想の国家形態を模索する武装グループである、という半ば思想的に一貫した主張を持つものであったし、出入りは自由で、実にウェルカムな雰囲気だったと述懐していることからして、現在の「イスラム国」の様子とはずいぶん異なる。つまり、彼等の黎明期のイメージで現在の彼等を語っているのではないか。かつてはそうであったのかも知れないが、この時期から、その性質が大きく過激化していったのではないか。彼等が交渉可能と言っていることにはそんな背景があると思う。
 その後、再び湯川さんの救出を目指して中田氏と常岡氏が「イスラム国」に渡航しようとしたが、その直前に公安に家宅捜索され、関係資料を押収された。これを、国家による陰謀と見る考え方があるが、私には検証する術がない。その考え方によると、政府は湯川さんの拘束を知っていたのでその救出策を練っていたが、中田氏と常岡氏が、独自に「イスラム国」と接触して交渉を進めてしまうと、「テロとの闘い」の一翼を担う政府の方針とのズレが生じる。そのため彼等の動きを封じるために、初めて「私戦予備および陰謀罪」を適用し、かわりに交渉役として白羽の矢を立てられたのが後藤さんというわけだ。実際の渡航プランを練ったのはNHKだという。何故そのような捨て身の策が採られたかというと、不用意な妥協を経て「イスラム国」とパイプが出来てしまうと、それを通じて日本との間でテロリストの行き来が出来るかも知れないので、その管理は国の手に一元化しておきたいとの意向が働いたからだという。それは「テロとの闘い」であり、日本の政策であり、すなわちアメリカの意向でもあるからだ・・・と、こうなると、もう一般国民の検証出来ることではない。どこまでウラ情報に通じれば正しい認識が得られるのか、いまは農閑期だから良いけれども、これが農繁期に発生していたらお手上げだ。
 さて、ブログその他の言及を見る限り、後藤さんの次の渡航は短期決戦であった。全行程で一週間、「イスラム国」支配地域滞在は2泊3日である。それまで慎重に避けてきていた「イスラム国」支配地域に初めて入るにしてはあまりにも短く、「イスラム国」内部での行動も、全て段取りが出来ていたと考えるのが自然だ。それを準備したのは日本政府に操られたNHKだというが、それはわからない。少なくとも、彼はお膳立てに乗った。自由シリア軍の検問所までは、彼と親しい互いに信頼関係のある熟練したガイドの手引きがあったが、そこから先は「危険過ぎる」として拒否された。後藤さんは「イスラム国」の支配地域へ別のガイドとともに消え、後日トルコにいる友人に「裏切られた」と連絡を入れたのを最後に行方が解らなくなった。これが事実なら、お膳立ては成功率の高いものと彼は認識していて、「イスラム国」の対応は全く想定外だったことになる。つまり、おびきよせられたと考えるのが最も自然だ。このような短期決戦には多額の費用がかかる。一介のジャーナリストが自力で手配出来るものではない。これはなんらかの組織的なウラがあって初めて実行に移されたことは確かだ。しかしそれが誰なのかは解らない。だから、少なくとも後藤さんに関しては、いわゆる「自己責任」論はあたらない。いまや「イスラム国」は、中東情勢に詳しい世界中の専門家にも予測出来ないほど急激に、過激になった。後藤さん自身もそれに気がつかなかったし、彼を派遣したとされる誰かも、そこまで認識していなかった。日本政府も交渉の余地があると考えていたが、何ヶ月も具体的な対策を打つことが出来なかった。全ては「裏切られた」のである。
 オレンジ色の服を着せられた後藤さんの目は、不当にも拘束され、全ての言葉が空しく消え、その意思も功績も、イスラムに対する深い愛情も報いられることなく、ただ彼等の宣伝のためだけに、自分は殺されるのだという、言いようのない哀しみと怒りとやるせなさを、ぐっと噛み殺したような目だった。その姿は、日本人の最期として誇らしく思う。そんな感情を持った私自身を意外に思った。「悪夢が始まる」というジョンの言葉と同時に彼は目を閉じた。その表情は「観念」そのものであった。私は一生忘れないであろう。ナイフが喉に当てられた瞬間、画面は暗転し、その後静止画が映し出されたのは、殺害そのものが別に行われたことを示している。他の処刑の場面を見て感じられたのは、自分の頭が切り落とされるというのに、皆意外に冷静だったことだ。つまり、あのナイフでは頚動脈などは切れても、頚骨までは切断出来ない。それにはもっと大きなナタかノコギリが必要である。一連のビデオは、複数のリハーサルのうちのひとつと考えるのが自然で、それらは宣伝効果を考慮して選ばれ、編集され、効果をつけられたものだ。テロリストであるから、恐怖を呼び覚ますことならなんでもやる。それによって他人を自分たちに従わせるためだ。そこには敵も味方もない。自分たちと他者があるのみだ。もはや、彼等は内戦の当事者ではなく、単なる皆殺し集団である。それがいつまでもつか、まわりがいつまでもつか、残念だがそこに落ち着くまで悲劇は繰り返されるだろう。「在庫」は未だあるようだし。
 シリアの内戦は、当初は民主化要求運動であった。それが全土に広がるにつれて、各地の有力者に乗っ取られていったと思われる。というのは、私がコンゴで見聞したり、世界史を繙いたりして概略理解していることは、独裁政権というものは、要するに国内に反乱分子が多数存在していて、それを力で封じ込めているだけだからである。封じ込められた側は、生き残るためにとりあえず鳴りを潜めてはいるが、独裁権力が動揺すれば必ず反撃に出る。場合によっては政権を倒す。倒されまいと真剣に考える政権であれば、徹底した管理を敷くであろう。国民をばらばらにし、骨抜きにしておいて、適当な娯楽と、苦痛のない程度の生活手段を、周到に継続的に調えてさえ置けば、政権の安全度は高まる。独裁政権という書き方をしたが、これは世界中の為政者に共通する。当然、日本もアメリカも同じである。従ってシリアも同じと考えて良い。
 シリアとイラクには政権が存在するが、かつてとは比べ物にならないほど弱体化している。権力の空白域では、地元の有力者が割拠する。現在、所謂「イスラム国」が実効支配している領域では、「イスラム国」による独裁が進んでいると思われるが、支配された地域の勢力は、自分たちが生き残るために彼等に忠誠を誓ったまでであって、完全な一枚岩ではないと見て良い。すなわち、各地各勢力は、自分の得意分野を巧妙に利用して延命を図り、独裁者はそれを利用し得る限り泳がせる。密輸など資金の調達に長けた勢力にはその仕事をさせ、科学者には兵器の製造と研究の場を与え、クリエイティブな仕事をしてきた者には「国策」ビデオの制作をさせる。旧体制の役人には社会的インフラを整備させ、教育や福祉などの行政サービスをそのまま維持させている筈だ。農民には農業を続けさせ、これらが渾然一体となり、最寄の有力者同士が連絡、或いはその上層部に「イスラム国」のエリートが君臨する形で全体を統治していると思われる。内部には、覇権争いや、民族による対立、イデオロギーの違いもある筈だ。だから、極めて過激なテロリスト集団もあれば、イスラムの理想を掲げて国造りをしている集団もあり、それらは緩やかな連合体としての「イスラム国」に利用される形で併存している。しかも、これらの現象は、恐らくここ一、二年の間に、急速に形になってきたのであろう。その時々に様々な側面が国際社会の目に触れる。そして2014年の秋ごろからの数ヶ月で原油相場が急落し、密輸を主な資金源としてきた彼等の財政が緊迫した。苦境に立つと過激に走るのは人の常である。それまで穏健なグループも残っていたのであろうが、ここへきて急速に過激な恐怖政治が幅を利かせる形に変わってきたのではないか。「イスラム国」に接触し、そこから戻ってきた人たちは、おそらく恐怖政治がここまで徹底する以前、または過激なグループに遭遇することなく、イスラムの理想に共感出来る面に触れて戻ってきた可能性が高い。
 さて人類というものは、どんなに富める者でも、どんなに貧しい者でも、地下資源も含めて地球上の資源を消費することによってしか生き存えることが出来ない。資源は有限だが、人類は膨張し続けている。「ノアの方舟」というものがあるとすれば、そこに資源の獲得競争に勝ち残った人類の幾許かが乗船しているであろうが、その中に自分がいる可能性は低い。その可能性を少しでも上げようと思えば、資源を有利に確保する以外に道はない。しかし、勝者があれば、必ずその何倍もの敗者がある。現状として、人類のエネルギー源は専ら化石燃料であり、その大部分を中東に依存している。中東地域というものは、部族社会の影響力が堅固に残る地域であって、そこから利益を得ようとすると、その勢力に何らかの形で取り入ることが不可欠である。その利権を巡って大国の思惑が錯綜する。アメリカとEUはほぼ手を組み、ロシアはEUや中国とバランスを取りながら独自のルートを開拓し、ちょっと遅れたが、中国はこれらの目の届かないところで利権の拡張と影響力の強化に邁進する。世界の陣取りゲームのプレイヤーにとっては、独裁政権の存在は、実は便利でありがたいのだ。
 帝国主義の時代が終って植民地が解放され、その国々が独立した後も、旧宗主国たちが影響力を維持し得るために、巧妙に仕組まれた構造が独裁政権であって、独裁政権は旧宗主国のために、群雄割拠する国内の部族勢力を鎮圧し、旧宗主国に利権を売り渡す見返りに莫大な私腹を肥やす。この植民地時代の主従関係は、世界にたった7つか8つしかない「先進国」と、その他200近い「途上国」の関係に引き継がれ、世界の富の偏在を固定化してきた。この富の偏在の上に先進国の生活は構築され、国民の多くは善悪の判断を保留して、あるいはそうとは知らずにその恩恵にあずかった。だから社会全体をそれ以前に後戻りさせることは非常に難しく、先進国は、自国の民主主義は促進するけれども、途上国での民主主義の伸長は制限しようとする。また、富の偏在は先進国の国内でも貧富の差を広げていて、深刻な社会問題を引き起こす。こうして出来た世界中の貧困層や、制度的差別の犠牲になった人たちは、善悪の判断ではなく、自分が生き延びるために、ある者はテロリズムに走る。イデオロギーに洗脳されて行動する者も一部にはあるだろうが、大半は生活手段としてテロリスト集団に所属して生活の糧を得る。「テロとの闘い」が、現存するテロリストとの闘いで済むのであれば、勝敗はいずれつくであろう。しかしテロリズムは貧富の格差が解消しない限り生まれて育ち、新たなテロリストを生み出して世に蔓延る。市場原理によって、社会の経済発展の速度が加速度的に増すにつれ、取り残される人たちとの格差は埋めがたいものになるので、経済発展がテロリズムを生むことになる。これは市場原理に則った社会の宿命であって、徹底的な富の再分配が行われない限り解消に向かうことはない。しかし、現在既存の富の再分配だけでは問題は解決しない。なぜなら、これらの富はほとんど化石燃料によって作られたものであるので、動力によって得られるエネルギーを前提に社会が回っている限り、その恩恵にあずかることの出来ない人たちとの格差が解消しないからである。
 唯一の完全な解決方法は、全人類が抜けがけなしで悉く地球上から消えることだ。その前に、人類が作った全ての人工物を自然に戻してからではあるが・・・しかしそんなことは不可能だ。人間が採り出した自然界に存在しない物質のひとつであるプルトニウムひとつをとっただけでも、放射能の影響が半減するまでに8万年 (この場合数字を口にするのもナンセンスだが) もかかるからである。では原始時代に戻れるか・・・せめて産業革命前夜に戻すか・・・あるいは第二次世界大戦直後にしておくか・・・「テロとの闘い」を掲げるのであれば、テロリズムが起きない社会へ少しでも近づけるための哲学が必要である。自分たちの生活の水準は下げずに温存しておいて、貧困層にはその境遇に甘んじろと言っても無理だ。世界中の富を世界の人口で割って、一人当たりの年間可処分所得を割り出し、現在の生活水準をそこへ軟着陸させるための勇気を、全人類が共有出来るかが問われている。それを行動で示し得ない限り「テロとの闘い」を掲げることはできない。
 こんな話を真に受けて自給生活を始めた者こそ深刻な貧困に陥ることは、私の生活の現状を見れば明らかである。しかし、全人類が自給生活に少しずつシフトしていけば購買量が減り、あまり金を使わなくなる。これが世界規模で行われれば、資本主義は深刻な打撃を被るであろう。それが私の考える革命だ。しかし当然、世界がそのように動く筈はない。自分たちの生活の水準を温存するために、貧困層を虐げる構造は変わらない。世界は、より一層残忍な殺戮に明け暮れるだろう。テロリズムによる世界転覆は現実的だからだ。なぜならテロリスト予備軍は世界中に潜伏しているし、テロリストを殺してもテロリズムはなくならないからである。世界の覇権争いの攻防の過程で、強大な資金力と軍事力に対抗するために考え出された方法がテロリズムだが、テロリズムにはインフラの整備はほとんど要らず、目的地までの交通費と爆薬、正確な情報さえあれば、戦車も基地も、戦闘機や空母も要らないからだ。費用対効果は絶大なものがある。おまけにテロリズムに走るのは貧乏人だけではなく、社会に恨みを持っていたり、テロリズムを利用して権力を得ようと諮るパトロンも世界中にいる。おまけに彼等は、死んで天国へ行くものだと信じ込んでいる。条件さえ揃えば、テロリズムは雑草のように芽吹き、瞬く間に畑を占領する。農夫は打ちのめされ、生きていれば畑を放棄して難民キャンプへ逃れるしかない。
 テロリズムの基本は、自分たちが伸長しようとする地域を不安定化させてつけ入る糸口を掴み、そこから個別的なテロを積み重ねていって巧妙に拡大し、支配地域の既存勢力を、老若男女を問わず親族の女性も子供も含めて徹底的に根絶やしにすることだ。そのためには、むしろ部族や集落単位の結束を抱き込んでしまうのが効果的である。「イスラム国」は、どこをどう突けば既存政権の体制が揺らぐか、どんな切り口で強さを誇示すれば、世界の覇権争いの犠牲者たちの恨みに響くかを良く知っている。しかも、方法論だけでなく、テロリズムの行き先も明示している。すなわち、彼等はイスラムの原点に立ち戻り、かつて預言者ムハンマドが征服した東トルキスタンからイベリア半島までを、唯一のカリフによって支配されるひとつの国家とすることが理想であるとしているからだ。それ自体は私も同感だ。なぜなら聖クルアーンにはそのように記されているからだ。自分がの後継者を指名し忘れたがために、現代までもイスラム教徒同士が殺し合うことをムハンマドが望んだ筈がない。「イスラム国」は現在のイスラム世界について、本来のイスラムの理想に反して派閥を争い、イスラム教徒が平等に享受すべき利益を背教者に与えることによって私腹を肥やすいくつもの堕落した国家に分断されていると主張する。この論法は、そのまさに堕落した政権の制度的差別、或いはそうとは知らずに出来上がった健康で文化的な社会から落ちこぼれてしまった者の心に希望を与える。理想の社会の国造りに参加しないか・・・これは北朝鮮が日本人を勧誘する時に用いた科白である。
 しかし彼等はそうは思わない。それとこれが同じであることに気づかない。盲目のうちに忠誠を誓ってしまい、その集団は長い物に巻かれていく。それらは権力の狭間に雑草のように根を張り、割れ目を広げて連帯していく。その連鎖は、まさに東トルキスタンからキルギスを経て、ちょっと飛んでアフガニスタンの山間部を通り、「パキスタン・タリバン運動」の援助を得るだろう。そしてカスピ海油田を睨みながらイランの北部辺境に潜伏した後、クルド人を警戒しながら「イスラム国」にたどり着く。その後、シナイ半島を横切って片やリビアからモロッコを目指し、片やスーダンの赤土に車輪をとられながらもニジェール川にたどり着くだろう。そこには「ボコ・ハラム」が笑顔で待っている。もしかしたらその頃には、巨大ツチ帝国がコンゴ盆地の東半分に成立していて、南西のアンゴラと握手してたりなんかするかも知れない。とすれば、東の果ての中国が黙って見ているわけがない。玉門関から西を眺むれば、イスラム教徒が平等に享受すべき利益を背教者に与えることによって私腹を肥やすいくつもの堕落した国家ではなく、「イスラム国」という単一の国家によって、苦労と犠牲の大きかった開発途中のアフリカ、13億の中国人を食わせるための資源の源アフリカ大陸の最深部まで、面倒な手続なしでアクセス可能になるのである。畑の土が、耕され畝を立てられるのを待っているようなものだ。世界人口の5分の1を占める中国と、3分の1を占めるイスラム教徒が、仮に地球上の資源を牛耳るために大同団結したら、世界の覇権争いの形成は、完全に塗り替えられるだろう。これは、そんなに非現実的な話ではない。「西側諸国」とロシアが、最も怖れる事態だ。より広範囲で徹底的な戦争が起るだろう。「イスラム国」は滅亡するかも知れない。しかし、また別のテロ集団が勃興し、或いは同時多発的に連帯するかも知れず、「テロリズム」そのものはメンバー・チェンジを繰り返しながら生き続ける。そしてそれこそ、アフリカ大戦とは比較にならないほどの膨大な犠牲が払われるかも知れない。また、互いに互いを爆破する猛烈なエネルギーの空費によって、地球の温暖化どころか、地球資源の根本的な枯渇を招くかも知れない。
 それに対してどのように対峙するのか、アメリカの態度はシンプルである。テロリストを殲滅すれば「テロとの闘い」は勝利に終る。しかし残念ながら、この勝利は、それによって殺されたテロリストの家族や友人たちの恨みを買い、更なる過激なテロへ彼等を駆り立てるだけである。それはここ数年の歴史を見れば明らかだ。イラクに派遣された兵士が、村に潜伏しているテロリストを捜索するために、結果的に村人を射殺する。村人にとっては、アメリカ兵こそがテロリストである。結果的にテロとの闘いは、テロの連鎖を生み、テロを増殖させるだけであって、そもそも人が人を裁くことが間違っている。テロリストと闘っても意味がない。テロリストが村にやってくれば手を上げて投降するしかない。無抵抗非服従で対応するしか方法はないが、すぐに殺されるだろう。これは、テロを増殖させないための手段であるが、実際には、それが徹底するとは考え難い。おそらくこれからの世界は、殺戮に明け暮れることになる。穏健な態度は、その穏健さゆえに凶暴さの餌食となり、やがて絶滅する。凶暴な態度は、その凶暴さゆえに殺し合い、やがて絶滅する。それによって地球上から人類が減少して、地球は健全な環境に近づく。ノアの方舟はどこかに現れるだろう。ただ、そこに誰が乗船しているかは解らない。心の奥底にテロリズムの種を宿した子供が乗っているかも知れない。しかしそれも神の御意であろう。
 そんな不安を抱えてインターネットでウラ情報を探る。しかしどこまでいっても陰謀とやらの全貌を個人が掴み得るものではない。しかも陰謀も増殖するので、原理的に世界に対する正しい認識を、人間は持ち得ないという結論になる。だから、もうやめよう。そんなことに費やす時間はないはずだ。私は畑を耕し、田んぼを整え、種を蒔いたり苗を植えたりして生きていく。現在、いろんなものに不自由はしているが、命に別状はない。好きな音楽も存分に聴けるし、なにより食材は自分で作っているので体調はすこぶる良い。それで充分ではないのか。繰り返しになるが、人類というものは、どんなに富める者でも、どんなに貧しい者でも、地下資源も含めて地球上の資源を消費することによってしか生き存えることが出来ない。地下資源の枯渇が現実問題となっている今、土から育つものを得ることしか、生き存える持続的な手段はあり得ない。つまり自給的生活を基本にすることにしか、問題の解決はあり得ないではないか。いずれ乱世がやって来て村が襲撃された時、私は闘って死ぬであろう。しかしそれは戦車に丸腰で立ち向かうようなものだ。それでもやるしかない。そしてどんな思想も略奪されて葬り去られる。残念ながら、私の描く未来の社会は絶望的だ。

 ーーただ気にかかるのは、軍人を憎み過ぎたために、彼等をあまり激しく攻撃したために、そして彼等のことを考えすぎたために、連中とまったく同じ人間になってしまったということなんだ。これほどの自己犠牲に値する理想なんて、この世にないと思うんだがね。ーー(銃殺される直前にホセ・ラケル・モンカーダ将軍がアウレリャーノ・ブエンディーア大佐に残した言葉・『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア・マルケス/ 鼓直訳)

 さあ、音楽の話に戻ろう。

posted by jakiswede at 21:56| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20150129 K7 200x8=(;_;)

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 音源を聴いていくと、関連する録音がカセットとして遺されてあることに気がつく。しかし、私のデッキは、既に動作しなくなっていた。プロの酷使に良く耐えてきたが、使われなくなるとだめだねえ・・・

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 カセットはこのように整理してある。約200本入りのケースが8つか・・・

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20150128 米糀

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 米糀を作る。丹波黒大豆の三年味噌の人気が高いので、三年後の拡販を目指して増産する。

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 米糀は、私より遙かに作るのが上手な友人に依頼する。秘密兵器は、この手作りの糀室である。

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20150127 干柿移転小麦わけわけ

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 冬である。食べ物がない。鳥が窓の縁につかまって干柿をつつく。盗られまいとして干柿を窓の内側に吊るす。

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 パン用小麦のごみ取りをする。小麦は玄麦のまま粉に挽くので、石や砂やゴミも一緒に粉になってしまう。だから玄麦の段階で丁寧にゴミを除去する必要がある。粉に挽いて全粒粉を篩にかけると、量は2/3程になる。

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20150126 O.Coleman: Crisis



Ornette Coleman: Crisis (LP, impulse!, AS-9187, 1972)
Broken Shadows
Comme il fault

Song for Chè
Space Jungle*
Trouble in the East*
(*印の2曲については、内ジャケットでは表記が逆転しています)

 注文していて待っていたうちの一枚が送られてきた。永らく幻の名盤であったのだが、探索の成果あって、スペイン盤で2010年に再発されていたものを、現地のトレーダーから中古で入手できた。1969年3月22日にNew York Universityで行われたコンサートのライブ録音。私にとっては、私が聴いたすべてのJazzの録音の中で、1959年に発表された彼の「The Shape of Jazz to come」が最高傑作、そしてこの「Crisis」がそれに次ぐものである。彼の2006年の来日公演では、彼の最初のひと吹きで、私の全身から体液が噴射しそうになったのを思い出す。70歳というご高齢にもかかわらず、ナマで聴く彼のアルト・サックスの音は、澄んでいて複雑で高くて低くて繊細で太かった。要するに美しかった。どんな言葉も不要である。全然関係のないピアノ弾きさえうろちょろせんかったら、コンサートは完全に楽しめるものになったはずだ。
 このアルバム「危機」というタイトルの通り、これはキューバ危機を指すものであろうが、極めて緊迫した空気に満ちている。しかしメロディアスで美しく、どこか哀しげである。正直言ってフリー・ジャズというものは、往々にして無味乾燥で力任せのものが多いのだが、彼のフリー・ジャズは違う。エモーショナルで、極めて力強く、テーマがはっきりしている。おそらく、ひとつにはブルー・ノートや、南アフリカの、つまりZuluやTswanaの音階に忠実だからではないかと思う。しかし、これ以上の言葉は弄するだけ野暮というものである。手に入れ難いが、捜せばなんとかなる。手に入れて是非とも聴かれたし。
 しかし、「書く」といった以上、これで終ってしまっては申し訳ないので、まあつまらんことですが周辺情報などを・・・上記したように、これは2010年にスペインで再発されたもので、オリジナル・ジャケットではあるが、オリジナル盤ではない。番号は同じ。観音開きになっていて、ジャケット内側はライナー・ノーツである。購入の際はそれを確認した方が良い。バーソネルは、Ornette Coleman, Don Cherry, Dewey Redman, Charlie Haden, Ornette D Colemanである。最後の人はOrnetteの息子、当時弱冠12歳、現在も父をサポートするDenardo Colemanである。
 表ジャケットの写真は、アメリカの「権利章典」が燃やされている図。1960年代のアメリカは、未だ激動の時代であり、特に公民権運動が社会を二分していた。つまり、ほんの50年ほど前までは、アメリカの黒人には公民権がなかったのである。黒人もアメリカ国民として社会に生き、働いて経済活動もしていたし、兵役にも就いていた。芸術家は芸術活動をしていたし、それを売るプロモーターも存在した。つまり、なんら白人と変わることなく社会的義務を共有していたのに、公民権もなく、公共の場所などでは、黒人は白人から隔離されていた。なぜ白人社会と有色人社会が衝突するかというと、このような全く馬鹿馬鹿しい差別が存続するからにほかならない。「権利章典」を燃やしたくなる気持は理解出来る。
 公民権法が制定されたのは1964年の事だ。しかし、保守的な白人の、有色人種に対する差別意識は非常に根強く、これは現在に至るも解消されたとはとてもいえない。ジャズが最盛期を迎えたのは、まさにそんな時代だった。公民権運動は、白人の暴力に対しても、概ね平和裏に行われた非暴力運動だったのだが、キング牧師が暗殺されたのを期に、過激化するグループが出る。彼等は、被差別の解消しない現実に失望し、マルカムXの思想に触発され、社会主義が標榜する平等を実現しようとして共産主義に近づいた。おりしもキューバ危機、米ソの対立はかつてないほどに緊迫し、レッド・パージの嵐が吹き荒れた時代でもある。一方、ベトナムでは南下するベトコンに手を焼いていた南ベトナムの軍事作戦に、アメリカが引きずり込まれる。国内では民主主義を謳うくせに、東アジアの戦争で現地人を殺害する自国政府の二枚舌に国民は怒り、広範な反戦運動が沸き起こって世界に波及した。それは世界中に様々な歌を生み、日本でもフォークからニュー・ミュージックへの進展を及ぼした。
 "Song for Chè"は、もちろんアルゼンチン出身でキューバのゲリラ指導者であったErnesto Chè Guevarraのことを指しているが、曲のモチフは、Carlos Puebraの作曲でキューバの国家的名曲である"Hasta Siempre"のメロディに触発されている。ベースのCharlie Hadenの曲だが、Ornette Colemanが他人の曲を主体的に吹くことは珍しい。この曲は、「Crisis」と同じ1969年に録音され、1970年に発表された「Charlie Haden: Liberation Music Orchestra (LP, impulse!, A-9183, 1970) 」でも取り上げられているが、演奏のエモーションはOrnette Colemanの方が圧倒的に強く、戦争を憂う情感は冷徹なものがある。同じ曲を扱いながら平和協調路線を行くLiberation Music Orchestraの演奏とは全く対極的である。実は、「Crisis」に参加しているOrnette Coleman QuintetのDon Cherry, Dewey Redman, Charlie HadenはLiberation Music Orchestraにも参加しており、同じ曲でソロを採っている。Coleman親子がいるかいないかだけの違いで全く異なる演奏になってしまうのがジャズの面白さでもあり、怖さでもある。ちなみにCharlie Hadenは、このLiberation Music Orchestraが彼のリーダーとして最初の音楽活動であり、フリー・ジャズを中心に活動を続け、2014年11月に亡くなった。
 "Trouble in the East"は、ベトナム戦争を指しているのであろう。この戦争は、フランスから解放されたベトナムが、今度は共産主義と資本主義のイデオロギーの対立に巻き込まれた東西代理戦争であった。自国に直接関係のない「東方の紛糾」で自国民が傷つき、ベトナム人を苦しめ、多大な戦費が浪費される現状を憂う反戦平和運動が巻き起こって、後に世界に波及した。当時のアメリカは、国内においては公民権運動の一部が共産化し、国外においては共産主義と対峙する代理戦争に手を染めはじめていた。民主主義を標榜するアメリカの、国内と国外に於けるこの矛盾と混沌、それに対する激しい怒りが、この曲のテーマになっているような気がする。ちなみに、この最後の2曲、裏ジャケットの表記と、内ジャケットのそれとが入れ替わっている。表記が入れ替わっているのか、曲の収録順位が入れ替わっているのかは解らない。しかし聴いた感じからすれば、B2の方が激しく盛り上がるのに対して、B3の方は宇宙的な効果音が多く、前者が"Trouble in the East"、後者が"Space Jungle"ではないかと思う。
 歴史は戦争を繰り返す。白人の有色人種に対する差別意識は、恐らく根絶出来ない。彼等の優越感は、いわば本能的なものであり、それが遺憾なく発揮されてこそ、彼等は解放と幸福を感じるようだ。しかし世界には様々な人種があるので、その本能を理性でコントロールしている。有色人種はそれを鋭く嗅ぎ取ってしまう。だから、それがある限り、つまり未来永劫、人種差別はなくならない。これは、あらゆる差別に共通する。差別がある限り、それを解消しようとする理念が求められる。理念が生じると、それを認めるかどうかでひとは争う。それが錯綜して戦争になる。では逆に、そのような紛争のない社会というものは、あり得るのだろうか。もし人類の全てが心平らかであれば、欲というものがなく、それによって争うこともない。しかし、それによってひとが向上することもないだろう。つまり、それは死だ。良いとこ採りの出来る人はある。しかし出来ない人が地球上には圧倒的に多いので、不幸は繰り返され、消えることはない。







posted by jakiswede at 21:46| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20140125 Maya Acoustic...


音楽を愛する人のための、月一回のゆるーいイベント・・・
「摩耶アコースティック・ピクニック」参加への非公式なお誘い
2015/03/21より毎月第三土曜: 摩耶山上掬屋台にて・・・

http://www.mayasan.jp/rucksack/

 音源を紹介ばかりしているような受け身な冬を過ごしていてはいかん。ミュージシャンたるもの演奏してなんぼや。そこで、私は別に主催者でもなんでもないんやが、こんなおもろい企画を少ない参加者に独占させておいてはいかんと思って、是非、楽器の出来る人も、ちょっとだけ出来る人も、歌の歌える人も、音楽について語りたい人も、要するに誰でもええから、音楽教室やとか、バンド結成やとか、メンバー募集やとか、そんな堅ッ苦しいことはどーでもええから、とりあえず摩耶山の上に集うて、ゆっくり音楽を楽しむためのゆるーいつながりをもちたいと思うねん。
 で、例えばこんなことをイメージしてる。どんなジャンルの人が来ても良い。出来れば事前にFBなどで連絡を取り合って、ひとつ曲を決める。たとえば「テキーラ !! 」・・・で、来た人のジャンルに応じて、もちろんラテンの人が来たらラテン、ブラジルの人が来たらブラジル、ロックの人が来たらロック (アコースティックやけど) 、ジャズの・・・ブルースの・・・あるいはベリーダンスの伴奏になっても良いやんか。「テキーラ !! 」というキメの前後のテーマだけ決めといて、その間は順次、ラテン、「テキーラ !! 」、ブラジル、「テキーラ !! 」、ロック、「テキーラ !! 」、ジャズ、「テキーラ !! 」、ブルース、「テキーラ !! 」、ベリーダンス、「テキーラ !! 」、・・・という具合に、演奏していって、途中で絶対やめたらあかん、ひたすらアイディアが涸れ尽くすまで演奏する・・・というのはどうやろう ??
 このアイディアは、トルコ航空のこのPV見ていて思いつき、実際にIstanbulとKinshasaとRio de Janeiroの友達を結んで実現しかけててんけど、まあいろいろあって自然消滅した。それをここでやってみたいと思う。どや ?? 面白うないか ?? 面白がってくれる人や、そんな人を知ってる人にシェアを希望します。音楽は、人を救う。


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20150124 薬念醤漬込

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 farminhosより、2015/02/14 (土) or 02/15 (日) 10:00-15:00 の予定で「キムチ用薬念醤作り」やります !! 参加ご希望の方はお早めにご連絡下さい。
 説明します。上の写真は、鰯の塩漬けです。鰯は、同量の塩で一ヶ月漬込み、塩漬けになった鰯を粉砕してペーストにし、モチ米粥の中にアミエビやニンニク、粗びきトウガラシなどの調味料を混ぜ込み、これを粉末トウガラシで硬く練り上げて、一年間寝かせます。一年後に、塩漬白菜その他にこれを挟んで漬込み、最低3ヶ月熟成させるとキムチの出来上がりとなります。来年用の薬念醤漬込み作業と、去年漬込んだ薬念醤を使って白菜キムチを仕込む作業をします。
 参加条件: 見学無料。または、原料持込みで作りたい場合、薬念醤作り用には塩漬鰯を、白菜漬込み用には、白菜を数日塩漬けにして水を上げたものを、浸け汁とともにお持ち下さい。必ずご予約下さい。他の材料はこちらで用意しますが、実費をご負担頂きます。1kg漬込みでも数百円です。限定4名様。JRまたは神鉄道場駅送迎可。人数と日時は、希望者と調整の上、ご連絡申し上げます。

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20150123 Je suis Charlie

 僕は「Je suis Charlie」という言葉の動詞「suis (英語のbe動詞) 」を「étre」の一人称単数現在ではなく、全く同形に活用する「suivre (従う・ついていくetc) 」の一人称単数現在ではないかと思い、フランス在住の複数の友人に確かめてみたところ、このスローガンが流布する前に、一時的に「Nous sommes Charlies」という言葉もあったので、あきらかに英語のbe動詞だという。フランス人は言葉遊びが好きだから、それにsuivreの意味を持たせたとしても不思議はないと・・・僕は率直に、多くの人が「私はシャルリだ」と宣言していることに違和感を覚える、というと、フランスでの空気としては、まさに「テロとの闘い」に高揚している、つまり、私を殺してもシャルリはフランス中に無数にいて殺し尽くすことなど出来ないぞ、という意思表示であって全くその通りだという。話をしていて、「私はシャルリだ」と言いきれないところが日本人らしいが、今は対決の時だというのだ。宗教批判が不適切かどうかということは、彼等にとって問題ではないらしい。というのは、私が「私はシャルリだ」と宣言していることに違和感を覚えるといったのは、宗教批判は信仰の自由を侵しているかも知れないのに、信者の崇拝の対象を風刺することまで表現の自由だとすることには違和感を覚えるからだと言うと、答えは、ならばそこから議論すれば良いではないか、という反応で一致していた。私は言葉を返すことが出来なかった。重ねて、多くの人が「私はシャルリだ」と宣言したとしたら、それは不適切な宗教批判に賛同する側に立つというメッセージを対外的に送ることになると思うが、それについてはどう思うかと訊いたところ、そのとおりだ、それでいいじゃないかという返事だったので、更に言葉を失った。フランス在住の友人は、日本人2人、移民2人(1人はムスリマ)、いずれも音楽を通しての友であるので、音楽の力で融和が図られたら良いのにねとフォロウしたのだが、だからさ、それで出来ないから対決せざるを得んのでしょうよって・・・確かにね、フランスはそういう長い歴史を経て今に至るわけだけど、ちょっと置き忘れてる物があるんちゃうかと思うてね、それをはっきり指摘できひんねんけどね・・・
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20150122 Cien Años de Soledad

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 肉を薫製にすると本当に日もちがする。スープにしたりジャーマン・ポテトに添えたりして、買い物に行く必要がないので、松の内の引きこもり生活は充実。ポタージュはソラマメ・・・最高 !!

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 夏に取れたジャガイモはそろそろ限界。小さいものは堆肥に回して、残りを温存。少しずつ日が射すようになった廊下で読書・・・もう何十回も読み返したガルシア・マルケスの『百年の孤独』・・・読めば読むほど、細かいエピソードに涙する・・・ああ、終らないでくれ、この長大な詩の世界を永遠に・・・

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 とりあえず今回買い集めたLPやCDの紹介を終えた・・・実は、未だ到着してないのが3点あるのだが、それはいつになるか解らんし、とりあえず終ったことにして、「Motion」から始めたから、Aswadを初めとしてブリティッシュ・レゲエ、そのあとジャマイカへ飛んで・・・というても、もともとレゲエのコレクションは多くないし、そのへんのは阪神淡路大震災でごっそりヤラれてるもんやから、まあそこそこにしといてハイチへまず行こか・・・これはちょっと聞き応えあんで。楽しみにしときや・・・ほなの。
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20150121 Bass drum beaters

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 かつて大活躍したバスドラム用フットペダルのビーターも、いまや肩凝り解消用のツボ押しボールになりさがってしまった。シャフトを手探りしてツボを得やすいのだが、こんなことではいかん・・・
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20150120 The Upsetters ch.1

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The Upsetters: Scratch and the Company, Chapter 1 (LP, Clock Tower Records, LPCT 0114, 1981, USA)

The Upsetters: Scratch The Dub Organizer
Johnny Lover & The Towerchanters: Who You Gonna Run To
Lee Perry & The Blue Bell: Tighten Up
Val Bennett & The Upsetters: Serious Joke
Brad Osbourne & The Towerchanters: Little Flute Chant

Devon Irons: When Jah Comes   
The Upsetters: Stratch Walking
Lee Perry & The Black Arks: The Come Along
Bunny & Ricky: Bush Weed Corn Trash
The Upsetters: Curly Dub

 レゲエの母国ジャマイカですわ。ジャマイカのレゲエもレコードほとんど失ってしまってるんで、紹介出来るのはごく数枚になりますが、初めはLee Perryです。写真のどこを見ても「Lee Perry」とは書いてないんやが、これはLee Perryの作品。真ん中の青い帽子被ってるおっさんがそれで、まあ要するに面白がりで変態で酒とドラッグが好きでカネ勘定はどうでもよくて、奇想天外で猪突猛進で・・・まあご機嫌な今はじいさん。
 本来ジャマイカのレゲエを紹介するならば、当然Bob Marlyについて語らなければならない筈なのだが、正直言って、私は世間が評価するほど彼の音楽が好きでない。ライブは確かにすごかった。歌の内容も共感した。しかし、音楽の情感がどうも合わなかったので、彼の作品はほとんど持っていない。そのかわり良く聴いたのがダブだった。
 Lee Perry・・・King Koba, King Scratch, Lee Scratch Perry, Rainford Perry, The Upsetter・・・などなどクレジット表記はたくさんあり過ぎて、果たして自分で名義の管理が出来てたのかどうか、まあ恐らくそんなことが原因で金銭トラブルも絶えず、レーベルともめて出ていったり、メンバーともめて脱退したり、自宅に建設したスタジオが全焼したり・・・しかし何を隠そう、ボブ・マーリーをこの道に引きずり込んでウェイラーズを結成させた仕掛け人こそ彼自身。つまり彼がいなかったらボブ・マーリーも、いやレゲエ・ミュージックも、こんなに世界に認知されることはなかった・・・ことはないと思うけれども、彼はそんなことはどこ吹く風で飄々と生きる。しかし全焼した彼のスタジオから生み出されたミックスやダブは、大手のレコード会社の巨大なシステムを使って放り出されたどんなうんこよりも芳香を放っていたという伝説は確かだった。たった4トラックのシステムでここまで作り上げられたのを見て、いや聴いて、われわれは当時普及の端緒についたばかりのカセットによる4トラック・マルチ・レコーダーを購入して、果敢にも、自分たちにも出来る筈だと信じて、ひたすら誰に聞かせるでもない演奏を録音し、ミックスし、加工し、その音楽風景とはほど遠い、障子の破れた四畳半に閉じ籠っていたのであった。システムは大差ないものだから、確かに音は悪い。しかも明らかなミス・フェイドがあって音がクリップして飛ぶところが沢山あるけれども、やはり彼の音作りのセンスは突出している。この作品と、ゴリラのジャケットの「The Upsetters: Super Ape (LP, Island, ILPS 9417, 1976, US」がオススメ。


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20150119 Madness: One Step...

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Madness: One Step Beyond... (LP, Stiff Records, SEEZ 17, 1979, UK)

One Step Beyond...
My Girl
Night Boat To Cairo
Believe Me
Land Of Hope & Glory
The Prince
Tarzan's Nuts

In The Middle Of The Night
Bed & Breakfast
Razor Blade Alley
Swan Lake
Rockin' In Ab
Mummy's Boy
Madness
Chipmunks Are Go!

 Madnessをブリティッシュ・レゲエの文脈で語ることが適当かどうかは解らない。なぜなら、人脈も民族的にも、音楽の系譜からしてもレゲエ・ミュージックとは流れが全く異なるからだ。しかし1970年代末の当時のロンドンでは、モッズのリバイバル、パンク・ムーブメントとともに、ルード・ロックが動き始めていた。その前はといえば、全く古き良き懐かしき平和なハード・ロックとプログレの全盛期だったのだ。過剰装飾の豪華絢爛精神礼賛音楽の絵に描いた餅がバンクしてからは、しばらく音楽シーンは空虚だった。そこへ彗星のごとくSex Pistolsが現れて瞬く間に消えていった。パンクは1970年代の終りを、つまりなんとなくぼんやりと前途が明るいような気がしていた世の中の風潮が虚構だったことを、白日のストリートに引きずり出した。Sex Pistolsが短命で消えたのと同じように、モッズの復活の気運とやらもすぐに消え、髪はどんどん短くなって終に剃りあげられ、スキンヘッズになった。また別の一部の若者はルード・ボーイズと呼ばれた。そのなかでパンクは大きく世界に広がった。これら4つのムーブメントは、ほぼ同時に発生して、ロンドンに新しいサブ・カルチャーを生んだ。またこの頃から、ムーブメントの回転が早くなる。彼等は貧しい家庭に育った者が多く、それぞれにそれとわかるファッションをし、アメリカのソウルやブルース、ファンクなど、そしてジャマイカのスカやレゲエを愛聴した。一部は互いに反目し、或いは政治活動に近づく者もあった。そのうちルーディーズと呼ばれたグループのミュージシャンたちは、ロンドンの旧英領カリブ海出身者のコミュニティとは別に、少し北のWest Midlands州を拠点に音楽活動を始めた。2 tone recordsというレーベルである。ここからThe Specials・Madness・The Selecterという3つのスカ・バンドが生まれ、明らかにパンクとは異なる次の大きな潮流が生まれた。
 したがって彼等はレゲエが精神的ルーツとするラスタファリズムやスカの生まれたジャマイカとはなんの関係もない。むしろパンクや、その後の潮流となるオルタナ系の音楽に近接している。共通していたのは、それが人種差別であるにしろ、経済格差であるにしろ、不当な抑圧に対する反抗という精神性である。つまり、ロックが置き忘れてしまったものだった。しかし状況は1980年代、彼等は当然ロンドンのジャマイカ人たちに共感したであろう。スカを模倣し、自分たちのスタイルとして身につけ、その後に起ったレゲエ・ムーブメントを同時体験して、やがてダブの手法まで取り入れることになる。
 これらは1980年代前半に、一斉に世界中に起った。日本でも、やや遅れてこれらの音楽が紹介されて火がついた。私のバンド活動が外に向けて始まったのもこの頃であり、数年遅れでとはいえ、彼等と同じものを聴いて育ち、バンドを組み、表現し、やがて外へ出て行くことになる。レゲエもやったしスカもやったしオルタナ的な音も出してみた。それは、努力すれば報われるなどという1970年代的惰眠から人々をたたき起こし、多くの場合努力しても報われず、そのエネルギーは一部の既得権益が効率的に搾取出来るように、社会は巧みに仕組まれているのだということを解らせようと試みるものだった。社会に漠然とあった不安は具体的な危機感となり、一部はそこから逃げ切るために社会にバブルを仕掛けた。社会は全く理由の解らぬ狂乱に陥って、誰もが振り落とされまいとしがみつかざるを得なかった。奈落の底は我々の下に大きく大きく口を開けていた。我々は落ちる早さよりも早く駆け上がらなければならなかった。下を見なかったのはそのためだ。しかし現実は、バブルがはじけた後にはっきりと見えた。今は底へ落ちていく途中である。
 Madnessの音は、それまでのハード・ロックとプログレの過剰装飾豪華絢爛精神礼賛音楽と全く反対に、たった2分でスカっと終る。実にパワフルで単純明快で痛快というやつだ。これを聴いてプログレのくびきに繋がれていた私はその鎖を噛みきった。しかしやはりMadnessをここで語るならば、本来ならばSex Pistolsについて、従って当然P.I.L.の"Metal Box"について、また波及効果に言及するならば、当然King Sunny Adeについて語らなければならなくなる。そうなるともはや複雑過ぎて支離滅裂になり、しかしそれこそまさにポップ・ミュージックのポップ・ミュージックたる所以なのだが、ブリティッシュ・レゲエについて書きたいことは山ほどあるが、Matumbi・Steel Pulse・Black Slate・Prince Hammer・・・いろいろエエのん持ってたんやけどね、そのあたりはごっそり震災でヤラれてしもてるんで正しいデータを提示出来ひんから、一思いに絶ち切ってジャマイカへ飛ぼう。


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20150118 LKJ: Blood Beat an'...

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Linton Kwesi Johnson: Dread Beat an'Blood (LP, Frontline, FL 1017, 1978, UK/ LP, Virgin/ Heartbat Records 01, 1981, US)

Dread Beat An' Blood
Five Nights Of Bleeding
Doun Di Road
Song Of Blood

It Dread Inna Inglan (For George Lindo)
Come Wi Goh Dung Deh
Man Free (For Darcus Howe)
All Wi Doin Is Defendin

 http://www.lintonkwesijohnson.com/

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 1978年に発表されたLinton Kwesi Johnsonのデビュー盤「Dread Beat an'Blood」である。写真1枚目はアメリカ盤ジャケットで、オリジナル盤の表は写真2枚目の真ん中の絵で、警察署前で演説するLKJの写真は裏のこの位置に扱われていた。一緒に写っているのは、1984年の「Black Music」誌と、彼の第2作「Forces of Victory」のジャケットをあしらった1997年来日ツアーのパンフレット、そのツアー記念Tシャツである。このライブは強烈な印象を残した。ステージが始まるや、Denis Bovelが奇声とともに飛び出してベースを弾きはじめ、その音は砕けたガラスのように空中に飛び散っていく。そこへ彼のDub Bandの演奏がからみ、度肝を抜く生のダブをぶちまけてる最中に、スーツに身を包み中折れ帽を被ったLKJが、つかつかとセンター・マイクの前に現れ、いきなり、ほとんど表情を変えることなく、直立したまま淡々とDub Bandの演奏の上に詩を乗せていく。始まっては終り、始まっては終り、ほとんど息もつかぬほど矢継ぎ早に詩を謳い、全てが終ると、右手を軽く挙げて聴衆に会釈し、つかつかと去っていったのである。それを見送るように再びDub Bandがあとを盛り上げ、アンコールの渦も彼等がそれを引き取った。感動した。ライブというものはこうあるべきだと思った。
 LKJはあまりにも有名なブリティッシュ・レゲエのダブ・ポエットであるので、プロフィールその他は情報が豊富にある。現在も活動中で、彼の全てのアルバムは入手可能である。シングルはわからん。彼の詩はジャマイカン・クレオールで語られているが、基本的に英語であるので聞き取りはそう難しくない。内容は、非常に過激・暴力的・闘争的・挑発的である。なぜそうなるか・・・を、ここで書きはじめると、話が詩的音楽的でなくなってしまうので、LKJに敬意を表してそれは差し控えたい。ただ、第二次世界大戦が終ったあと、敗戦国として負うべきだった義務を、西側陣営すなわちアメリカへの協力を名目にかなり帳消しにされた結果、経済発展を恣にし現在に至るまで平時が保たれている日本と、戦勝国でありながら旧植民地からの移民の流入をコントロール出来ずに国内に最も深刻な矛盾を貯め込んで、それがガス爆発をくり返す旧大英帝国とでは、国民の常識に違いがあり過ぎるとだけは言いたい。支配した側と支配された側の戦闘状態を自国に、つまり市街地に持込んでしまったがために、彼等は今でも常に戦時の感覚で生きている。どちらもそんなことは望んでいない。しかしこれが簡単に解決して平和が訪れるとは、とても信じ難いのが現実だ。解決しようと思えば、歴史を逆に遡り、こんがらがった糸目を、当事者の優柔不断や独断を、ひとつほぐすたびにまた世界中で戦争をやり直さなければならなくなるだろう。そうすれば、また別な矛盾を世界に撒き散らすだけだ。自分たちだけではどうにもならないことが、双方とも解っているから、なんとかそれを封じ込めて時をやり過ごす。しかし時にはガスが充満して爆発を起す。そのたびに、またぞろ理想論がもてはやされて麻薬の脱力に酔いしれる。歴史はそれを繰り返す・・・とまあ、簡単に言えばそういうことだと思うんだが・・・
 勝手なことを書いてしまって申し訳ない。LKJの最も共感出来ることは、彼が「Jah Rastafari !! 」と叫ばなかった (たぶん) ことである。彼はレゲエのアーティストとして認識されてはいるが、ラスタファリズムとは一線を画しているように思う。第一、ドレッド・ロックのLKJて想像出来ないもんね。

 https://www.youtube.com/watch?x-yt-cl=84359240&v=ZYG5J4s0D_s&x-yt-ts=1421782837
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20150117 Aswad: Live & Direct

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Aswad: Live and Direct (LP, Island, IMA6, 1983)

Not Guilty
Not Satisfied
Your Recipe
Roots Rocking
Drum & Bass Line

African Children
Soca Rumba
Rocker's Medley
 Ease Up
 Your Love's Gotta Hold On Me
 Revolution
 Water Pumping
Love Fire

 AswadとしてLP通算6作目、1983年に行われたNotting Hill Carnivalにおけるライブである。オリジナル・メンバーは3人に減り、ゴージャスなサポート・メンバーがバックを盛り上げている。なかでも世界中のミュージシャンに愛された名トランペット奏者、Eddie "Tantan" Thorntonの参加が目を引く。さてAswadはこれまでの間に4枚のアルバムをリリースしている。

Aswad: Showcase (LP, Island, ASWAD1, 1981
Aswad: New Chapter (LP, CBS, 85336, 1981)
Aswad: New Chapter of Dub (LP, Island, ILPS-9711, 1982)
Aswad: Not Satisfied (LP, CBS, 32564, 1982)

 このうち「Showcase」は1976-80年にかけて録音されたもののアウト・テイク集、「New Chapter of Dub」は前作「New Chapter」のそっくりそのままダブ・バージョンであるので、純然たる新作は、「New Chapter」と「Not Satisfied」の2作である。この2作こそが、初期Aswadの絶頂期であり、そのほとんどがヒット・チューンであるといって良い。この時期より、Aswadはホーン・セクションが参加するようになり、音はルーツながらも全体がゴージャスになる。また、歌詞の内容も直截的な表現が和らぎ、歌の調子もポップになっていく。もっとも聴きやすい、古き良きAswadといえる。2枚とも素晴らしい作品であり、CD化されているので入手もたやすい。いずれも4曲のボーナス・トラックを収録しているが、「New Chapter」のCDにはアルバム未収録の名曲 "Finger Gun Style" が、そのダブ・バージョンとともに収録されている。ぜひ聴かれるべきである。ひとつ気になるのがクレジットであるが、この2作にはパーカッションとして「Levi」の名がある。未確認だが、それはGeorge Obanのニック・ネーム「Ras Levi」の省略ともとれるので、もしかしたら彼も参加していたのかも知れない。コミュニティ内のグループの離合集散では良くあることである。
 さて、その2作を敢えて飛ばしてライブ盤の方を推薦する理由は、彼等の演奏は、冷徹なトーンを基調としていながら、それが熱を帯びると、俄然まぶしく黒光りするからである。"Soca Rumba" は、旧英領カリブ海出身者が集まるコミュニティならではのトロピカルな演奏、そして"Rocker's Medley" は、すでに本国ではメイン・ストリームになっていた「Dancehall Style」のメドレー、それ以外は、全て歴史的名曲である。そのライブ演奏たるや、スタジオ録音の比ではない。会場は彼等のまさに本拠地、コミュニティのど真ん中で毎年行われているカーニバルである。観客の反応と、それに呼応するステージが全くすごい。よくぞ録音を遺してくれたことである。Aswadのライブ盤は、公式にはこれを含めて2枚しかないので、是非こちらを聴かれると良い。
 このあとリリースされた彼等の作品については、実は私はあまり関心が持てない。私の手から離れていったって感じがする。「Aswad: Rebel Souls (LP, Island, ILPS-9780, 1984) 」には全く「Rebel Souls」が感じられなかったことや、その後、私の興味がラテンやアフリカへ移っていったことなどで、彼等に対する熱狂は冷めてしまった。いまでも時々インターネットで彼等の音に出会うが、まあポップにならはってよろしおまんなあちゅーとこですかね。ライオンも黒くなくなったしね、次はLKJいきましょか・・・



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20150116 Aswad: It's not...

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Aswad: It's not our wish (that we should fight)/ Stranger (12' single, Grove Music, GMDM9, 1978)

 https://www.youtube.com/watch?v=5a9XAVFUs1E
 AswadのLP1作目と2作目の間に発売されたシングルである。これ以前に彼等は2枚のシングル「Aswad: Back to Africa/ Africa, 12' single, Island, WIP6312, 1976」と「Aswad: Three Babylon/ Ire Woman, 12' single, Island, WIP6338, 1976」を発表しており、この時点で"Three Babylon" は未発表、他は1作目の収録曲と、そのダブ・バージョンである。シングル3作目のこの作品は、Grove Musicのジャケット色と同じ緑の半透明盤で、2曲ともこの時点では未発表、のちに"It's not our wish (that we should fight)" は、前作"Three Babylon" とともに「Aswad: Showcase, LP, Island, ASWAD1, 1981」に収録される。ただしMixと尺は異なる。一方、B面の"Stranger"の方は2014年現在復刻されておらず、幻の名盤である。さて特筆したいのは、B面の"Stranger"という曲。私は、彼等のアルバムとしては「Hulet」が最も好きであるが、1曲選ぶとなると、迷わずこれを選ぶ。いや、全レゲエの曲のなかで最も好きだと言い切る。人生を左右したかと問われればちょっと躊躇するが、間違いなく私のドラミングに多大な影響を与えた。いまでもレゲエを叩けと言われれば、必ずこうなる。曲はドラムから始まる。その入り方は恐らく今まで聴いたどんなドラム・イントロよりもシンプルで力強く、ぞくぞくさせられる・・・(もののうちのひとつだ) 。曲調は、まさにブリティッシュ・レゲエの冷徹な乗りの真骨頂で、鉄の鎖を引きずり回すようなドラム・アンド・ベースラインの上に通奏されるシンプルなギター・カッティング、作曲者Donald Griffithsのブルージーで華麗なギター・フレーズとヴォーカル (たぶん) 、そしてあまりにも救いようのない歌詞・・・それが歌い切られないうちにダブのなかに解体されて散らばっていく・・・この頃のレゲエの曲は、アルバムで歌を出して、シングルでそのダブ・バージョンを出したり、リミックス・バージョンで歌の後半をダブにすることが流行った・・・残念ながら上のYouTube音源は途中でフェイド・アウトされているが、このダブは、さながらピカソのゲルニカを見るようである。人は時として憑かれたように人を虐げる。手足は切り落とされ、胴体も頭もばらばらにされ投げ捨てられた人が、それでも人が正気に返る時を信じて、自分にほんの少し残された最後の人間性を確かめるように、通りに散らばった自分の断片を集めて回るのだ。次作「Hulet」でも"Can't Walk The Streets"と歌うことになるDonald Griffiths独特の音世界は、George Obanのフュージョン感覚とともに、創世期Aswadの音楽性を豊かなものにしていたはずだ。しかし全く残念なことに、彼等は相前後してグループを去ることになる。今聴くと確かにこれらの音は、あまりにも過激過ぎてアルバムへの収録に漏れ、その後のAswadの、より本流のレゲエ、ポップで世界的に通用するレゲエへと発展させていく販売戦略とも相容れなかったのであろうと想像される。ここで創世期のAswadのメンバーの在籍期間について記しておこう。
 Aswad:
Angus Gaye (Drummie Zeb, dr., vo.,1975-present)
Tony Robinson (Gad, b., key., v.,1976-present)
Brindslay Forde (Dan, Chaka B, v., g.,1975-1996, 2009)
George Oban (Ras Levi, b.,1975-1980)
Donald Griffiths (Dee, g., 1975-1980)
Courtney Hemmings (Khaki, key.,1975-1976)

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20150115 Aswad: Hullet

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Aswad: Hulet (LP, Island, ILPS-9611, 1979)

Behold
Sons Of Criminals
Judgement Day
Not Guilty

Can't Walk The Streets
Corruption
Playing Games
Hulet

 Aswadのアルバム2作目、私は個人的には、この作品が彼等の最高傑作だと思っている。それは、前作よりもぐっと演奏表現の幅、とくにドラムとベース・ラインの安定と深みが増し、アレンジの細やかさと歌唱力が断然良くなってきたからだ。しかも前作同様、曲のコンセプトは非常にメッセージ色が強く、ブリティッシュ・ジャマイカンの置かれた状況をストレートに歌う芯の強さがあって、それらが両立しているからだ。特にドラムは4拍子の全てにキックが入る「steppers」というリズム・パターンが基本となり、「one drop」とは根本的にフレージングが変わった。以後これがDrummie Zebの、ひいてはAswadのサウンドの基本になる。曲調は、太いベース・ラインの反復と安定したドラム・フレーズが醸し出す透徹したリズムの流れが基本となって、非常に醒めた目で自分たちの境遇を歌い込んでいるように聞こえる。全体の印象が冷徹でありながら、アレンジの作り込まれたリード楽器の演奏が華やかに冴えて、のちの彼等のポップ・グループとしての本領が、既に芽生えているようだ。いずれにせよ、未だポップスにはなり切っていない、コミュニティの仲間内バンドの臭いがプンプンしていて、内側から迸る様々な音楽的方向性を内包しつつ、それが大きく開花しようとする躍動感が秘められた作品、そのミス・マッチともいえる混沌が魅力的なので、私はこのアルバムが一番好きなのである。A-1曲目の「Behold」にその姿が凝縮されている。Aswadはアルバムに収録された曲のDub Versionをシングルとしてリリースしているが、この1曲目ではフレージングとしてDub化されることを想定したアレンジを随所に施している。そしてなによりこのアルバムを他のものと大きく隔てているのは、B面最後の2曲である。「Playing Games」は、従前の彼等の演奏を踏襲しつつも、甘いというか、幻想的なメロディとコード展開をもつ曲、ほとんど間髪入れずに始まるラスト曲のタイトル・チューン「Hulet」に至っては、なんとインストゥルメンタルで、しかもレゲエのギター・カッティングやドラム・アンド・ベース・ラインを持ってはいるものの、音は既にレゲエではなく、完全にフュージョンである。レゲエのエッセンスを骨の髄まで貫きつつ、ここまでジャズ的に洗練された演奏は聴いたことがない。作曲者はベースのGeorge Oban、浮いているといえば浮いている。しかしメンバーそれぞれの多様性が内包され、爆発する寸前の波乱含みの音こそ、生きた音楽だと思うのだが、やはり別れ行く運命、彼はこれを最後にグループを去り、1981年に「Motion」を発表する。その音世界は、「Hulet」を更に推し進めたものとなり、レゲエ史上全く異色の傑作となった。
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20150114 Aswad: Aswad

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Aswad: Aswad (LP, Island, ILPS-9399, 1976)

I A Rebel Soul
Can't Stand The Pressure
Ethiopian Rhapsody
Natural Progression

Back To Africa
Red Up
Ire Woman
Concrete Slaveship

 Aswadは、1975年にロンドンのジャマイカ人コミュニティを拠点に結成されたグループ。このデビュー・アルバムは、のちの彼等の演奏とは全く異なり極めて素朴。声も演奏も初々しく、仲間内でバンド始めました・・・という空気がありあり。リズムは「one drop」といって、1拍目にアクセントのないもので、創世記のレゲエ、ウェィラーズの初期の頃を彷彿とさせるものである。私にとってはこのリズム感こそが、レゲエとの鮮烈な出会いであった。タイトルも歌詞の内容も非常にメッセージ性が高く、ストレートな表現であるので、そのままつなげばレゲエのおおよそが理解出来るほどである。まったくこなれていない分、気持が直接伝わってくる名盤といえるだろう。CDで常に復刻されているようなので、入手は簡単。黎明期のブリティッシュ・レゲエとしては、是非聴いて欲しい一枚である。
 私ごときがレゲエを解説するのもなんだが、ごく簡潔に試みてみよう。事実誤認があれば、ご指摘頂きたい。レゲエが生まれた要因は、本国ジャマイカがイギリス統治から独立したあとの、いわゆる先進国との経済的格差が深刻化して社会問題になり、被差別意識を、全世界の黒人は解放されてアフリカに帰るべきだという思想によって解消しようとしたことにあり、それを音楽で表現したものが「レゲエ」であるといえる。ジャマイカがイギリスから独立する前後、今日に至るまで世界中にジャマイカ人は移住していったが、特にロンドンにおいては強いコミュニティが生まれ、それがブリティッシュ・レゲエの基礎を築いた。彼等はジャマイカのレゲエと連動して広がっていくが、旧宗主国に移住したことが原因で、差別意識のただ中で居住することとなり、独特の緊迫した曲調を生んだ。
 レゲエの思想的背景に「ラスタファリズム」があり、これは、ジャマイカの国民的英雄であり黒人解放運動の指導者であったMarcus Garvey (1887-1940) の予言にあった黒人の救世主について、その後エチオピアに現れた皇帝Haile Selassie 1世をそれと見做し、全世界の黒人は連帯してエチオピアに帰国しようとする運動のことである。Haile Selassie 1世の諸侯時代の名をRas (諸侯) Tafari Makkonenといい、これがRastafarismの語源となった。よくレゲエの歌詞の中にイスラエルへの連帯が謳われているが、これは現実の国家としてのイスラエルを指しているのではなく、ジャマイカやロンドンを堕落の象徴「バビロン」と見做し、約束の土地「ザイオン (Zion) 」へ回帰するというシナリオが、旧約聖書「出エジプト記」以降にある、モーゼが虐げられたユダヤ人を救出してイスラエルに到達せずに果てたこと、に基づいて生まれたことによる。従って、ユダヤ人がいうところの「シオニズム (Zionism) 」とは全く関係がない。レゲエで言うところの「約束の土地」は、あくまでエチオピアであるので、それを信じてエチオピアに移住したジャマイカ人も少数ある。しかしレゲエが生まれた当時、まだまだ世界は広くて情報がなかったため、ジャマイカ人たちは自らの苦痛を、架空のエチオピアに帰還するというシナリオを信じることによって和らげたものと思われる。彼等の唱える「Jah-Rastafar-I」は、神=エチオピア皇帝=私を直接結合するものであり、Haile Selassie 1世を神と見做し、そこへ至る道のひとつとして、マリファナによる幻覚作用が採られたことなどから、「ラスタファリズム」は一種の宗教的性格を帯びるようになるが、全体としては思想運動と考えられる。このような大雑把な理解を踏んだうえで曲名リストを見てもらえれば、少し彼等に近づけるような気もする。




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20150113 Sting: If on a Winter...

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Sting: If on a Winter's Night (CD/DVD Deluxe Edition, Deutsche Grammophon, DG7582/ B0013330-00 GH, 2009)

CD:  If on a Winter's Night
Gabriel's Message
Soul Cake
There Is No Rose of Such Virtue
The Snow It Melts the Soonest
Christmas at Sea
Lo, How a Rose E'er Blooming
Cold Song
The Burning Babe
Now Winter Comes Slowly
The Hounds of Winter
Balulalow
Cherry Tree Carol
Lullaby for an Anxious Child
The Hurdy-Gurdy Man
You Only Cross My Mind in Winter
Bethlehem Down [Bonus track available on limited/deluxe editions, & iTunes]
Blake's Cradle Song [Bonus track available on limited/deluxe editions]
The Coventry Carol [Bonus track available on Japanese release]
   
DVD: The Genesis of "If on a Winter's Night" in 6 chapters
Mystery and Storytelling
A Primal Memory
Shaping the Repertoire
Inviting Chaos
Outside their Comfort Zone
Slowly Coalescing

 説明の必要のないStingの、2009年の作品である。彼は2006年に「Songs from the Labyrinth (CD, Deutsche Grammophon, 0007220-02, 2006) 」というJohn Dowland (1563-1626) の曲集を発表しているが、その次の作品となる。私の場合、中学生の頃に芽生えた英欧のクラシック音楽への興味のきっかけとなった作曲家がJohn Dowlandの名曲「Lachrimae」、日本での通称「涙のパヴァーヌ」であった。これを初めて聴いた時、生きることが精神的に困難だったあの頃の硬い心が、すーーっと溶けていくのを感じたものだ。心ばかりか体からも力が抜けて、脱力状態に導かれたことを覚えている。FM放送をテープに録音したもので、作曲者も曲名も演奏者も書き止めていなかった。そのテープは繰り返しその部分だけが再生されたために、ワカメのように伸び切ってしまい、その後、曲名を探り当てて、様々な演奏家の録音を手に入れたが、今となっては、そのとき聴いたものが、果たして誰の演奏だったのかは見当もつかない。なぜあのような深い憂いに満ちた静かで穏やかな音楽が、イングランドに現れたのか、その伝統を今に引き継ぐ様々な演奏家たちも、恐らくその謎を溶こうとして、ひたすら音を掘り下げているに違いない。
 「Lachrimae」はインストゥルメンタルとしても声楽曲としても演奏されているが、クラシックの声楽家の声が基本的に好きではないので、ロック・ミュージシャンのStingの歌を聴いてみたいと思ったのがきっかけだった。それは大いに当たり、そのアルバムは愛聴盤となった。この作品「If on a Winter's Night」は、その延長上にあるといえるだろう。しかし、ギターとリュートだけを伴奏にした前作と異なり、今回は7人のミュージシャンをコア・メンバーに、多くのミュージシャンが参加している。前作から引き続き、Edin Karamazovや、驚くなかれジャズの名ドラマーJack DeJohnetteも参加している。
 演奏内容は、編成の多様さとも相まって、非常にバラエティに富んでいる。ほとんどの曲は、作曲者不肖の古楽やトラッド・Michael Praetrius・Henry Purcell・Franz Schubert・J.S.Bachなどの曲を、知らなければ全くそれと気付かないほど異なるアレンジで奏でられている。比較的原曲のイメージに忠実に演奏されているものもあれば、どこからどう聴いてもロックとしか言いようのないものもある。しかしそれらがアルバムの中に並んで全く違和感がないところが流石Sting。その姿勢は、前作「Songs from the Labyrinth」がクラシック音楽の臭いから大きく解き放たれた作品であったのと全く同様に、目指すところはクラシックもロックもトラッドもワールドミュージックも越えたところにある自由奔放な音楽といえ。
 ジャケットがブックレットになっており、多くの写真とともに、このアルバムの着想を得た経緯や、ミュージシャンとの出会いが綴られている。録音は、イタリアのタスカニーにある彼の広大な別荘で、冬のある日、暖炉を囲んで談笑するミュージシャンたち、録音前のリハーサルの様子、熟練したミュージシャンたちが、和やかな空気の中で互いの奏でる音を聞きながら自分の音を重ねていく、眼で合図を送り、身振りで展開を伝え、互いにうなずき合い、他の人に渡す・・・そうして練り上げられていく様子を垣間見ることが出来る。ミュージシャンであれば誰もが憧れて止まない理想的な世界が映し出されている。DVD付のバージョンではその様子を高画質で見ることが出来るが、YouTubeでも一部抄録が公開されている。そのスタジオはその頃まで彼が自宅として使っていたが、現在イタリアのワイン・メーカーであるChiantiが経営するホテルになっているようだ。

 https://www.youtube.com/watch?v=4oBBYl0m0uc
 http://www.tuscandream.com/chianti/sting-villa-in-tuscany-il-palagio/

 さてこのアルバムには、いくつかのバージョンがあって、それぞれ収録曲が異なる。CDのみの現地盤は上記リストのうち下3曲が収録されておらず、日本版は下3曲のうち上2曲が収録されていない。DVD付のもののうち「limited/deluxe editions」には最後の曲が収録されておらず、Amazonの「Limited Edition」には下3曲のうち1曲目と3曲目が収録されていない。「iTunes」では全曲配信されている。また、このアルバムのライブも実に良く出来ている。

 https://www.youtube.com/watch?v=HTQgKBPQkf0

 冬のある日、暖炉を囲んでじっくりと心落ち着けて聴きたいアルバムである。




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20150112 Waed Bouhassoun

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Waed Bouhassoun: L'âme Du Luth (CD, Buda Musique, Musique Du Monde, 3792908, 2014, France)

Angoisse
Ana Man Ahwa
Loin De Ma Patrie
Ya Man
Deception
A Damas
Fatigue
Basmeh
Je Passe
Abadan
Je Crois En La Religion De L'amour

http://www.waedbouhassoun.com
http://www.budamusique.com/product.php?id_product=637
http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=14349
 前回に引き続き、最終的にジャケット写真の胸元に惹かれて購入したことを認めます。タイトルは「L'âme Du Luth (リュートの魂) 」とあるが、シリアの女性歌手によるÓud (Ûd ウード) のソロ弾き歌いである。全曲彼女自身の作曲であることが、このアルバム最大の特徴といえるだろう。なぜならアラブ世界の伝統音楽にあって、オリジナル曲で作品が発表されたという例は非常に珍しく、ましてや女性単独でのリーダー・アルバムはなおさらのことだからだ。自分自身の曲を自分で歌った伝統音楽 (とはいえないのかも知れないが) であるからこそ、伝統音楽でありながらまっすぐに心に突き刺さってくる。ウードの持つ低く豊かな音と彼女の繊細で深い歌声が、心に染み渡る良い作品だ。なによりソロであることが、このアルバムの静寂性を徹底させている。通常であれば、前奏で音世界が提示されるとテーマを重奏的に膨らませていくものだが、そのような展開はなく、ひたすらテーマについて掘り下げていくような演奏なのである。全曲そのような静謐な音世界の中に張りつめた緊張を帯びた内省的な曲調でありながら、演奏の細部、声の彩に至るまで、多彩な変化に富んでいて、全く飽きさせることがない。
 Waed Bouhassoun・・・シリア出身で、現在はフランスを拠点にしている。音楽愛好家の家庭に生まれ、7歳の時に父から子供用のウードを贈られたのがきっかけ。全曲伴奏はオリジナルだが、歌はペルシャやシリアの古典詩や現代詩に彼女自身が曲をつけたもので、報われぬ恋に気が狂って砂漠に死んだ7世紀の伝説の詩人Qays Ibn Al-Mulawwahの物語や、12世紀の神秘主義哲学者Sohrawardiの言葉、13世紀アラブ・アンダルースのスーフィー詩人Ibn Arabiの詩、1930年生まれのシリア出身で現代アラブ世界を代表する詩人Adonis (Ali Ahmad Said Esber) の詩編などが扱われている。ウードのソロも2 曲ある。本作より前に、「A Voice for Love」というアルバムと、Jordi SavallのHesperion XXと共演したものが紹介されている。前者は、何人かの伴奏者が参加してはいるものの控えめなサポートで、ほとんどの曲はソロで演奏しており、全体としてはシンプルな仕上がりになっている。後者は、逆にオーケストラの一員としての共演であり、彼女の声とウードがフィーチャーされた曲が数曲ある。
 ウードという楽器・・・起源は古代突厥帝国にまで遡る。突厥碑文に「コムズ」として現れる涙滴型で長棹の撥弦楽器がそれであるという説があり、非常に大雑把にいうと、中央アジアを源に、西に伝わったものがリュート、南に伝わったものがシタール、東に伝わったものが琵琶となる。それぞれの楽器は、伝わっていく過程で中継地に多くの子孫を残しており、そのひとつが西アジアから北アフリカに残るウードという楽器である。中央アジアにあった当初のウードにはフレットがあったが、13世紀頃に消失した。これはペルシャ・アラブ・トルコ系の音楽に於ける「マカーム」(広義な意味での音階の体系) で1/4音などの微分音階を弾き分ける必要に対応したものという。一方、西に伝わったテオルボやアーチリュートは絃やフレットの数や機能が複雑化する方に発展し、南へ渡ったシタールもまた絃やフレットの数や共鳴装置などが複雑化したが、日本に伝わった琵琶は全く逆に絃数フレット数ともに極端に切り詰められた。ちなみに「リュート」の語源はアラビア語の「al-ʿūd」であり、英語の「木」(wood) の語源でもある。ウードという楽器、実物の音色を聴くと良く解ることだが、ギターよりも遙かに音が小さくくぐもっていて、扱いが難しく現代的で効率的な楽器とはいえないが、その名の通り、木の音の深みが感じられて、地味ながら好きな楽器である。
 シリア・・・内戦が始まる前、ましてや「イスラム国」が擡頭する前のシリアは、「地球の歩き方」があるほど安全に観光出来る国だった。宝石のつまったおもちゃ箱をぶちまけたようだと喩えられるほど、ダマスクスの町は活気に満ちていて魅力的だったはずだ。トルコからシリアへ、レバノンとヨルダンへも、特に問題のない観光ルートだったのだが、いまやそんなことは望みうべくもない。もちろん圧政に苦しんだ人たちもあったと思う。しかし内戦のために状況は更に悪化している。困難なエリアは、恐らく拡大するであろう。シリアの人々の暮しはどうなっていくのだろうかと思う。イスラムを騙って人を苦しめる勢力は、世界中の矛盾の受け皿となって、これからも拡大するだろう。周辺国への波及も時間の問題と思われる。新日国で最も旅行しやすくて美しいトルコも例外ではない。あらゆる宗教の本質は、慈悲と寛容であるはずなのだが、世界は今、排他と分断に傾いているようだ。この傾向は、宗教であれ、イデオロギーであれ、その求める方向性と真っ向から対立する。私は「神の実在」を信じないけれども、神があるとすれば、地球上の全ての生命の上にあって、それらを生かすものであろう。同時に私は「表現の自由」も信じないけれども、それがあるとすれば、自由によって人類は生かされる筈だ。人が人として尊重するものを、別の人が辱めれば、そこに対立が産まれるのは当然であり、それを「表現の自由」の名の許に守ろうと主張することには違和感を感じる。逆に、そこに連帯することが価値であるとアピールすることは、却って対立を煽ることになるだろう。価値観の違いを認めず、善悪二元論に民衆を煽動することは、なお一層の悲劇を生む。中東の歴史は重層的な混沌の歴史である。そこへ現代の武器や技術や情報力を以て対立を煽ることは、あまりにも危険が大き過ぎる。だから百歩譲って、私は「Je suis Charlie.」という言葉を「être」ではなく「suivre」の意味で捉えたい。私はテロリズムにもCharlieにも賛成出来ない。そればかりか、このような誤解を生むような表現が敢えて選ばれたことに危機感すら覚える。こんなに美しい音楽の生まれた国をこれ以上こわさんといて。


posted by jakiswede at 21:11| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする