2015年02月23日

20150223 Q-3535消灯

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 ううむ・・・せっかくの農閑期レコード三昧カリブ海クルーズとシャレこんでいたのに、Sansui Q-3535が突然消灯した。ヒューズが切れていた。ガラス管内に溶けた線と少しの焦げ跡が見られたものの、異音や異臭はなく、まるで曲がフェイド・アウトしたのかと思うほど自然に音が消えて行った。取りあえず内部を目視する。配線のショートや外れは見られず、真空管に曇りもない。原因が特定出来ないので、ヒューズを交換して電源を入れるわけにはいかない。仕方がない。配線図と突き合わせてひとつずつ導線確認といくか (xx) ・・・設計の理屈もなんもわからんのでね、ふたたび叔父にメールを送ってアドバイスを仰ぐと、取りあえず真空管全部外して、トランスから規定の電圧がでているかどうか確認せよとのこと。というてもね、真空管アンプというものは、電源トランスの出力側には375Vという恐ろしい数字が出ていて、それがプラマイ平衡で出てるから、打ち所が悪かったらその2倍の750Vというキョーレツな電圧が体を走り抜けるのでありますよ。750Vちゅうたら電車が走るような電圧ですからね、ホンマに音楽は命がけですわ。カネもないくせに道楽が過ぎると歳とってからえらいことなりますわなあ・・・というわけで、次のレビューはアンプが直ってからね。生きてたらね。

http://search.yahoo.co.jp/search?p=Sansui+Q-3535+甦生計画&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_lt3_sa&x=wrt
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20120521 Kompa d'Haiti

 さて、カリブ海の音楽を紹介するのに、順序としてはジャマイカ島を出たら北のキューバ島へ向かうのが普通であろうが、それをやっちゃうと音楽性の関係で、極めて大きなひと括りの音楽的潮流であるところのラテン音楽、すなわちずっと東のプエルト・リコとニューヨークのサルサ等のスペイン語圏の音楽を合わせて紹介せねばならず、そうするとジャズへの言及が不可欠となって、地理的により広範囲で一般的なカリブ音楽の潮流であるところの、フレンチ・カリビアンの国々の音楽の紹介が遅れる。もちろん前者の方が日本ではよりメジャーなのであるが、変態的音楽遍歴を旨とするこのシリーズにおいては、日本では稀少でありながら極めてアクの強い音楽であるところのハイチのコンパを先に紹介したいのである。したがって先ずはジャマイカから東隣のイスパニョーラ島へ渡って、島の西1/3を占めるハイチの音楽を紹介した後、島の東2/3のドミニカ共和国をちょっとだけ浚って、小アンティル諸島を経巡って行こうと思う。しかるのちにキューバ、プエルト・リコヘ戻ってニューヨーク・サルサを皮切りに、アメリカ合衆国とカナダを放浪した後、翻って南米大陸へ赴こうと存ずる。長い年月がかかるであろう。
 カリブ海の音楽を紹介するとはいっても、地理的歴史的経緯に準じて体系的にやる気などさらさらない。そんなことをしても退屈なだけだし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。しかしそれにしても大雑把にカリブの島々の歴史は知っておいた方が良いと思う。非常に古くは18世紀後半にフランスからハイチへもたらされた舞踏用の音楽「Contredance」があるのだが、それはさておき、現代においてカリブ海を席巻した音楽の代表といえば「Calypso」であろう。しかし、これの黄金時代は1940年代であるので、音源も少なく録音状態も良くない。また機材や技術、電源の関係から録音時間が概して短く、長時間楽しむためのダンス・ミュージックとしての魅力を伝えている例がほとんどない。1970年代頃からは、廃棄されたドラム缶をリサイクルした楽器「スティール・パン」を取り入れて、特にトリニダード・トバゴを中心に大流行し、日本でも多く紹介されたが、私は良い音源を持っていないので省略する。ここでは、この「Calypso」が、例えばジャマイカではメント〜スカ〜レゲエへと、ハイチやドミニカ共和国 (「ドミニカ」の名を冠する国はふたつある) では300年近く前にフランスから伝わっていた「Contredance」に刺激を与えて「Kompa」や「Merengue」の成立を促し、マルティニークでは「Beguine」の、キューバでは「Son」の、プエルト・リコでは「Salsa」の、また島国ではないがカリブ海西岸のベリーズの「Garifuna」の成立に多かれ少なかれ影響を及ぼしたことを指摘するに留めたい。これを知っておくと、これらの国々の音楽のかなりの部分に同じ傾向が認められ、それを観賞の軸にすることで、これらの音楽の違いや良さを感じる手助けになるからだ。
 もうひとつ大切なことは、この地域は1492年コロンブスによるイスパニョーラ島上陸、いわゆる「地理上の発見」のあと僅かな年月で、ドミニカ国 (上記のドミニカ共和国とは別) の一部に「保護」された数千人の「カリブ人」を除いて、先住民が絶滅していることである。その後のヨーロッパ各国の植民地争奪戦・労働挑発・搾取・疫病などで、中米と南米大陸では先住民が絶滅またはそれに近い状態に追いやられた。失われた労働力を補給するために、アフリカから膨大な数の奴隷が送り込まれたが、インディヘナにおいて失われた命と文化は回復されなかった。これは「キリストの名において」行われたものではなかったが、先住民からすればキリスト教徒による蛮行と映ったことに間違いはない。いずれにせよ、カリブ海に於ける先住民の伝統音楽というものは現存しない。この点は自分たちの伝統音楽の上に形成されたアフリカン・ポップスとは全く異質な点である。南米大陸に僅かに生き残った先住民と白人や黒人との混血諸民族による、いわゆる「フォルクローレ」は存在するものの、純粋な先住民の伝統音楽が変容してモダン・ポップスに影響を与えた例はなく、主に黒人奴隷がもたらしたアフリカ音楽と、スペインやフランスを主とするヨーロッパからの植民がもたらした西洋音楽との融合が、中南米音楽の主流となる。しかも、一方の要素である黒人音楽は、奴隷として連行される際にコミュニティを破壊されているので、その伝統音楽の連関も破壊されている。したがって、その要素は確かに黒人のものだけれども、切り刻まれた断片同士が異様な繋がり方をして他の音楽と融合して行った。このことについては長くなるので割愛するが、要するにここで言いたいことは、何事につけ正統や純潔を重んじる日本人が、例えばブラジル音楽についてさえ、「純粋なブラジル音楽」ではああだこうだと論議することはナンセンスだということである。
 現在、ハイチとドミニカに二分されているイスパニョーラ島は、1787年に始まったフランス革命に触発されたハイチ人の、近来稀に見る指導者と民衆の英知と実力によって、1804年に全島が統一された。これを「ハイチ革命」とよぶ。この間、内政では民主主義を装いつつも植民地では奴隷制を堅持しようとしたナポレオンの軍を撃破し、ハイチは先進国に初めて決定的な打撃を与えた。ハイチの植民地支配からの独立は、なんとアメリカ合衆国に次いで世界2番目、しかも黒人による共和制国家としては世界初であった。しかしその後のハイチは現在まで混乱を極め、200年以上にわたって同朋による内戦や独裁による恐怖政治、スペインやフランス、更にアメリカによる植民地支配と争奪、その経緯で産まれた島の東のドミニカ共和国との戦争、更にはキューバと共産化を警戒するアメリカによる東西の代理戦争などによって、独立しては占領され、占領されては独立することを繰り返し、そこへ頻繁に自然災害が重なるなど壮絶な歴史を経験することになる。しかしそれでも大衆音楽はいつの時代にも存在し、古くは18世紀後半、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」はカリブ海地方の音楽に絶大な影響を及ぼした。特にこれはジャマイカを挟んで東北隣のキューバ島の「Habanera」の成立に直接的に寄与し、キューバ音楽の歴史がここに始まることになる。それ以降も、19世紀にイスパニョーラ島に発生した「Merengue」(メレンゲ = スペイン語) または「Meringue」(メラング = フランス語) は、その後カリブ海を席巻する「Calypso」など様々な音楽と影響しあいながらも独自のスタイルを醸成、継承し、やがて1950年代に「Kompa」を産む。これが現在のハイチ音楽の基礎となっている。
 ハイチは、ある意味ではアフリカ以上にアフリカ的な国である。ハイチの苦悩の歴史を振り返ってみると、創造性・革新性・芸術的感性など、国民性の高さに驚かされるが、ことあるごとに時の政治的圧力などの歴史的不幸が重なって、彼等の才能は発揮されてこなかった。その国民性はカーニバルに良く現れている。イスパニョーラ島は、アフリカのなかでも奴隷海岸を中心としたヨルバ系の黒人奴隷の中継貿易の拠点だったことが関係し、現在でも中南米諸国のうち最も黒人比率が高い国であるばかりでなく、黒人たちのほとんどがヨルバの伝統を受け継いでいるのである。ヨルバ系が多かったということで、ハイチの祝祭に現れるアフリカ的要素は、他の南米大陸の黒人奴隷たちが伝えた「アフリカ的」なそれに比べて、極めて有機的に核心的にまとまっている。これには「ヴードゥー」というハイチならではの独特の進化を遂げた西アフリカ起源の民間信仰が重要な役割を果たすのだが、これはブラジルのカンドンブレ・トリニダードのシャンゴ・キューバのサンテリアなどの基礎を成すものであった。彼等は「ヴードゥー」を精神的支柱にして、執拗にしかも壊滅的に降りかかる災難を乗り越えた。他の国々でも、多かれ少なかれ地下に潜伏した民間信仰というものは、往々にして伝統文化を保持する役割を果たす。これらの宗教音楽をひとまとめにして聴くことは、アフリカやブラジルやラテン音楽に共在するもののうち、特に黒人による要素のエッセンスを耳で感得するのに非常に役に立つ。

 

 コンパ・・・これだけをとってみても歴史を追うのは大変である。そんなことをしても退屈になるし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。繰り返しになるが、良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。ハイチのコンパは、1970年代終りになってから日本に紹介されるようになった。しかし一握りの熱狂的ファンを確保したものの、これを紹介した著名な音楽評論家やプロデューサーの期待に反して、日本ではほとんど売れなかった。日本で売れないワールド・ミュージックとしては、いわゆる「リンガラ・ポップス」やナイジェリアの「ジュジュ」・「アパラ」・「フジ」などと順位を争うであろう。問屋の不良在庫と思われる未開封のLP盤が、大量に捨て値で流出したことが、更に悪名を高める結果になった。全てのコンパのアルバムを寄せ集めてもそうたいした数にはならないのだが、それでも個人が収集するにはそこそこの数になる。しかも誰にも良く解らない音楽であるのでジャケ買いに走る。と、かなり高い確率で駄作にぶち当たる。まあそういうもんだった。しかも、端正で簡潔をもって美とする日本人的美意識は、ここではまったく裏切られるのだ。なにしろ、アフリカ音楽といいコンパといい、要するに長ければ長いほど良いからだ。これは真実である。しかも、大抵の場合、それは同じフレーズが延々と繰り返される。どんなことが歌われているか、どんな思想が込められているか、そんなことは二の次であって、音楽として楽しめる時間が長いということは、それだけその曲の価値が高いということになる。これは全く価値観の違いであって、カーニバルや夜のコンサートでは一晩中演奏されているのが当たり前の世界、楽しみ・好意・善意というものの程度が、日本人のわきまえを無視して桁違いに大きい。ここは、なんとしてでも慣れていただかないと、世界の音楽のうちのかなりの大きな楽しみを知らずに死んでしまうことになる。
 ハイチのコンパは1950年代にNemours Jean-BaptisteとWebert Sicotという2人の音楽家によって始められた。前者の音楽は、その後発展して「コンパ・ディレクト」として開花する。これは当初「メラング」の発展形として新しかった演奏に、幅広い即興性を持たせたものであって、それはある意味で形式美の破棄であったのだが、メロディとリズムの危険なまでの即興性、更にアレンジの意外性を含むもので、これはその後のコンパの発展の感性的基礎になった。これらの音源も発掘、復刻されているので興味のある方は聴いてみられるが良い。即興性として重要なのはジャズの要素である。ハイチは1915年から20年ちかくアメリカに占領され、その時期にビッグ・バンド・ジャズが流入した。これによって様々に醸成されたコンパのうち、大掛かりなオーケストレイションを脱して、それよりは小編成のコンボによるコンパ・ディレクトを演奏する試みがもてはやされ、これは「ミニ・ジャズ・ムーブメント」と名付けられて1970年代に絶頂期を迎える。日本に紹介されるのはこの頃からであって、ここで紹介したいのも1970年代末から80年代初頭にかけての絶頂期の作品である。もともとハイチの音楽は、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」すなわち社交ダンスが基礎であって、これは滑らかなムード音楽の要素を大切にする。コンパも当初は楽園音楽のようなものだったのだが、やがて様々に変容するにつれ、それを打ち破る傾向に発展する。そしてこれから紹介する作品の多くについては、滑らかなダンス・ミュージックとしての気品を保ちつつも、メロディ・ハーモニー・リズムの極めてアグレッシブな阿鼻叫喚、それだけでなく、流れる演奏の土台さえもひっくり返してしまうような、全く奇想天外なアレンジを、大掛かりなオーケストレイションに裏付けられた卓越した演奏技術でもって、あたかも眉ひとつ動かさずにさらっと演奏してしまう、その醍醐味を味わっていただきたいのである。演奏している大半は黒人である。その濃厚な味は、先述したように日本人の常軌を桁違いに逸している。200年以上に及ぶ破壊的な混乱を耐え忍んできた人々の音楽である。外では砲弾が飛び交い、兵士が吹っ飛んでいる真下で夜会は催され、演奏は続けられたであろう。銃声を聞きながらリハーサルは重ねられたであろう。音楽の現場とはそういうものだ。ハイチの音楽は、アフリカ音楽以上にアフリカ的である。私がハイチの音楽に惚れ込むのは、まさに銃声の中から響き渡るような、あまりにも破天荒なエネルギーの炸裂をそこに感じるからである。コンゴの音楽とは全く異質な、しかし同等かそれ以上の電圧と熱量を、そこに感じるからである。そこに、いかなる苦境にあっても音楽によって救われる自分の魂を感じるからである。そしてなんといっても、美しく面白いからである。総論を終って、次回より各論へ行きましょか・・・

 
 
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20150212 Fethullah Güllen

 今日、久しぶりに来た中東の友人と会って話をすることが出来た。こういうご時世だから、彼の身の安全のために「中東の友人」とまでしか言えないのが残念なところなのだが。さて、ISISによる日本人ジャーナリスト殺害を巡る一連の事件について、以前から率直に違和感を感じていたことについて、少しずつ解ってきたので、説明を試みてみたい。なにしろ、今回の事件では私の知人が残忍な方法で殺されている。払っても払っても垂れ込める暗雲をなんとかしたい。
 違和感とは、まず、なぜ後藤さんはISISの支配地域へ行ったのか。生後間もない子供と妻を残して、あまりにも危険な賭けに、どうして出ざるを得なかったのか。素直に考えれば、彼自身の判断で行ったことになる。最終的にはそうだろう。しかし、その判断に至るまでのプロセスが全く理解出来ないのだ。まあ別にわからせる必要もなかったのかも知れないが、そこに様々な憶測が乱れ飛んでいる。ご本人が亡くなっているので、真相は闇の中だ。しかし善くも悪しくもネット社会、根拠のないデマが膨大に出回り、更に拡散とコピーを繰り返して、冷静な判断に繋がる情報が隠されてしまう。いくら言論が自由であっても、この現状は悪い。
 私は、様々な陰謀説にもかかわらず、彼の慎重な性格にもかかわらず、彼自身の判断で行ったと思っている。日本政府やNHKのお膳立てではなく、直接ISISとコンタクトをとって、その情報を元に行動したと思っている。つまり、ISISへ参加を希望する外国人は全く個人的に直接コンタクトをとって渡航しているし、事実、多くのジャーナリストが実際にISISとの間を往復している。これは友人が話してくれたことだ。別にISISが強硬な集団だからといって、そこに参加するのに特別のコネクションが必要なわけではない。インターネットが繋がれば、誰でも出来る。後藤さんも情報収集の結果、ISISの誰かとコンタクトをとることに成功した。そこでやりとりをし、拘束されている湯川さんを解放したいと目的を説明し、訪問の意図や、取材のことも話題に上ったであろう。日本という国に対する理解も求めたかも知れない。彼はそれを自分でやったと思う。コミュニケーションの結果、一定の合意が形成されて、全てのプランが組み上がり、段取りは完了した。行けるという感触を得たので、彼は出発したのではないか。ジャーナリストとしての使命感というか、血が沸いたというか、それまでのやりとりや積み重ねてきたものを、きちんと形にしたかったのではないか。つまり、ジャーナリズムではなく、実際に日本人を救うという行動である。しかし、これら一連のやり取りは、すべてISISが日本人をおびき寄せるためのワナだった。彼等には次なる標的を日本に定める明確な理由、つまり世界を動揺させるには、中東にとっての親近国である日本人を殺すことが、非常に効果的な宣伝になることを熟知していた。初めからそのつもりだったところに、後藤さんの方からコンタクトをとってきた。残念なことに、彼の中で、功を焦った部分があったのではないか、冷静であれば、それを嗅ぎ取れる人である。そうでなくても、愛する妻があって、しかも出産直後である。いくら仕事とはいえ・・・これ以上はやめておこう。
 たしかに政府の言うことやマスコミの言うことは、ここ数年とくに偏向してきている。安倍が総理大臣になってから特にきな臭い臭いがここまで漂ってくる。だから、彼等の言うことには一定の疑いの目を向ける必要がある。しかし、いくらなんでも自国民を直接騙して死に至らしめるような危険を、法治国家である日本の首相や、マスコミがするには危険が大き過ぎる。陰謀の行く先、つまり日本を米国と手を組んで戦争の出来る国にする、そのことによって内外の経済的な諸問題を外に捨てることが期待出来る。その目論見はあると思う。しかし、そのためにこんな危険な橋を渡ることはない。ISISがあのタイミングで湯川さんを殺し、要求を一変させてヨルダンを巻き込み、後藤さんを効果的に使って自己の存在を世界中にアピールさせ、揚句の果てには殺してしまったのは、日本の出方を冷静に分析した結果である。あの瞬間、日本人は自制心を失った筈だ。彼等は充分に効果を確認した。また、日本政府にとっても、そこにつけこんで日本の再軍備の必要性を国民に植え付ける流れをつくることが出来た。もちろん両者が結託しているわけではない。しかし、テロリストにしても、日本政府にしても、現状打開を戦争に求めていることは同じである。ISISの思う通りには、なかなか行かないだろう。彼等は苦戦を強いられる。安倍首相も、ここまで民主主義の育った国民を簡単に騙せるわけではない。いくらなんでもひど過ぎるやり方には、当然の報いがある筈だ。その流れを認識したうえで、問題は慎重に切り分けられるべきである。私は、後藤さんは自分の判断で行ったと思う。つまり日本人であれば、誰でもよかった筈だ。そういう意味では、その前に湯川さんの救出に向かった中田氏と常岡氏が犠牲になっていた可能性もあるし、他に拘束されている日本人がいるかも知れない。湯川さんに大きな使命がかかっていたから、三人もの日本人が救出を試みたのではない。全く同じ手でおびき寄せられただけのことだと思う。「通訳してくれ」・・・と。
 違和感の二つ目は、何故日本政府はヨルダンに相談を持ちかけたのかということだ。私は報道で聞いた時、実はびっくりした。ISISの支配地域へ入るにはトルコから南下するのが普通だ。さらにトルコはISISに拘束された外交官の解放に成功しているし、トルコはシリアのアサド政権と対立し、反政府勢力を支援している。ISISは、もとはシリアの反政府勢力のひとつが過激化したものだ。ならば当然、解放交渉をトルコと協議するのが普通だと思うのだが、日本政府はヨルダンに拠点を置いた。ヨルダンはシリアの南にあって、ISISの支配地域へ行くには、アサド政権の勢力範囲を越えて行く必要がある。しかもイスラエルの隣であって、またまんの悪いことに、安倍は決定的な声明をイスラエルの国旗をバックにして演説している。まったく日本政府のやることが解らなかった。
 友人は言う。実は、トルコとアメリカの関係が拗れていることが原因とのこと。トルコは政教分離を明記した憲法を持つ国であるが、現在エルドゥアン大統領の独裁的傾向が強まっていて、それは彼の言うイスラム化への道を進んでいる。それとは別に、アメリカに亡命中のフェトゥラー・ギュレンというイスラム宗教指導者がいて、彼はユダヤ人コミュニティと、ひいてはアメリカ政府と深いパイプがあり、その財閥と関係を持ってトルコの様々な教育施設などのインフラ整備に尽力し、ここ10年ほどのトルコの経済成長に貢献した。しかし、国の進むべき路線を巡って首相時代のエルドゥアンと対立し、追放されてしまったのである。その時期とISISが過激化する時期とが偶然一致していて、アメリカはトルコに対して有志連合の一員としてISISへの空爆に参加するよう圧力をかけたのだが、トルコは空爆による攻撃はシリア北部すなわちトルコ国境近辺を荒廃させ不安定化させることになるとして協力しなかった。ある意味、間接的にではあるが、トルコはISISを支援する結果になった。他にもイランとの関係やいろいろややこしいことが重なって、両国の関係は拗れた。日本はまずアメリカに相談したであろうから、その時点でトルコのルートは消え、有志連合の強硬派であるヨルダン経由になった。日本はトルコに相談したくても出来なかったのだ。しかし日本の外交が独自性を発揮してくれていたら、犠牲者を出さずに解決出来たかも知れない。日本政府は、二人の日本人を救出したかっただろうが、アメリカの意向を前にしては、結果的に彼等の命は見捨てざるを得なかった。直接手は下さないまでも、そのくらいのことならやるだろう。
 トルコは、ISISの動向に最も神経を尖らせている国である。しかし現在のところ軍事行動には出ていない。それは、ISISが拠点としている都市を破壊すると、更に難民が増えて国内に困難を抱え込むことになるから、また一千年以上に亘るトルコの歴史を振り返ってみると明らかであるが、彼等は軍事力で物事を解決することの空しさをよく知っているから、つまりトルコ軍にはその能力があるが、目の前の町を攻撃する気はさらさらないからである。一方、アメリカやヨルダンやアラブの国々から見れば、所詮国境を接していない他所の国のことである。言っちゃ悪いが世界が安全になるなら破壊もやむなしと判断する。それが戦争である。ISISはそれに対して、当然人間の盾を使い、町が空爆されれば民間人の死者が出たことについて有志連合を避難し続けるであろう。実際、ISISを攻撃するということは、そこで苦しんできたシリア人を攻撃することであり、問題を複雑にしてしまう。さらに、このエリアに居住する世界最大の国家なき民族であるクルド人の役割と処遇を巡る関係国の対立がこれに拍車をかける。トルコは、これらの問題の全てを引き受けなければならないのである。破壊してしまえば問題が解決すると思っている国とは訳が違う。
 さて日本は、アメリカの言いなりになったがために二人の日本人を見殺しにし、ISISに対して好戦的な態度を表明したがために、中東において最も大切な友人であるトルコを敵に回しかねないのである。問題は一筋縄では行かず、最も複雑に利害関係の入り乱れたところへ、人道支援とは言えアメリカとヨルダンの影をちらつかせて、シリア領内のトルコ国境近くで活動することになる。この事態の及ぼす複雑な影響について、70年も紛争をしてこなかった日本、つまり喧嘩慣れしてない日本にその役割が果たせるのか、しかも明らかにアメリカ依りの言動を持って入っておいて、それまでの平和国家として彼等に喜んでもらえるとは、到底思えない。もし安倍が言うように、本当に人道を考えているのなら、今すぐ態度を撤回すべきで、憲法により絶対に戦争が出来ない国として徹底的に彼等との信頼関係を淀みない心で優先しなければ、血で血を洗う泥沼に巻き込まれる。しかし、もちろん安倍は人道なんて考えていない。戦争に加担しないと、負の連鎖から解放されないから、アメリカとともに戦争の後方支援に回るのである。日本人の大多数も、中東の人たちに喜んでもらうために、自分たちの生活レベルを下げることなど、とんでもないことだと考えているので、日本は戦争をすることになる。私は以上のように考える。さあ、どうやって戦争を止めますか ??



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20150210 Tan Tan

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Eddie "Tan Tan" Thornton : Musical Nostalgia For Today (CD, P-Vine, PCD-24178, 2006, JP)

1. How Long I Got To Wait
2. Tribute To Don Drummond
3. Magic Eyes
4. Theme From A Summer Place
5. Viennese Trot
6. Old Man River
7. Night Train
8. P.S. I Love You
9. Alpha Boss School
10. Princess
11. Ruk-A-Pum Pum
12. Disco Style Reggae

13. Summer Dub
14. Everything I Own
15. Own Your Rock
16. Fleur De Lyss
17. Jumpin

18. Tribute To Don Drummond (Alternate Take)
19. Peace & Love
20. Peace & Dub

 もう偉大過ぎて、私ごときが何かを申し述べるのもおこがましいくらいの世界的トランペッターにして、「全ては神から与えられた贈物であり私はラッキー、感謝する」と全く奢ることのない飄々とした人生。まさに音楽のために我欲を捨てて身を捧げるミュージシャンの鑑・・・参加した録音は数えることが不可能と言われ、その至るところ世界中、超有名なところだけをほんの少し例に出しただけでも、The Beatles・The Rolling Stones・Bob Marley・Jimi Hendrix・・・そして当然、Aswadをはじめブリティッシュ・レゲエのホーン・セクションには必ずといって良いほど名を連ね、ジャマイカ生まれでありながら若くして渡英したため、設備のなかった本国には当時の録音が残されていないという、もうこれまた奏でられた瞬間に消え去る音楽の運命そのまま・・・最近では、日本のスカ・グループ「Cool Wisw Men」と共演するなど、1932年生まれのトランペッターはなおも健在。伴奏録音は星の数ほどあれど、リーダー・アルバムはこれっきり。原盤は1981年にイギリスから出ており、そのジャケットは写真の左側、収録曲は曲目リストの1-12。その後復刻され、Aswadとともに録音された13-17に、2の別バージョンを加えたCDが、日本のQuattroから別ジャケットで出たもののすでに廃盤。現在入手可能なものは、日本のP-Vineから出たこのCDで、ジャケットは写真右側。上記全曲に加えて、日本で活動するSeijimanのベース・トラックをもとに録音された19-20を収録。すでにP-Vineのカタログにないので流通在庫のみと思われる。いやあ、私は究極の音楽は、実はイージー・リスニングであるべきと思っているのだが、この作品は、スカやレゲエのムードでそれを実に穏やかに実現した良質のアルバムといえるでしょう。以下のリンクは是非参照して下さい。彼とともにある日本の若いミュージシャンたちの生の声、私もこのように老いたいものだ。

http://www.galactic-label.jp/news/2013/11/001448.html
http://cwm.jugem.jp/

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20150209 Dub Factor

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Black Uhuru: The Dub Factor (LP, Mango/ Island, MLP9756, 1983, US/ CD, Island, 510 066-2, UK))

Ion Storm
Youth
Big Spliff
Boof 'N' Baff 'N' Biff
Puffed Out

Android Rebellion
Apocalypse
Back Breaker
Sodom
Slaughter

 Black Uhuruを初めて聴いた頃、彼等はブリティッシュ・レゲエのグループだと思っていた。主にイギリスのIslandレーベルからリリースされていたし、音の感じからしてそう思い込んでいたのだが、彼等はれっきとしたジャマイカン・レゲエのグループである。1970年代末から、ジャマイカでは、それまでのメロディアスな歌心あふれるレゲエ・ミュージックよりも、より強力にビートの骨格を前面に出した「Dancehall」や言葉の韻律とメッセージ性に重きを置いた「DJ Stylee」が流行して、いわゆる「歌もの」は影を潜めてしまった。と同時に私自身、レゲエへの興味を徐々に失って、カリブ海やアフリカの音楽に傾きはじめた。その頃、流行に反するようにメロディアスなルーツ・ロック路線を貫いていたのが、このグループである。
 結成は1974年、前身バンドの録音を含め、この「The Dub Factor」までに10枚のLPをリリースしているが、聴くべきはIslandに移籍した1980年から1983年までの作品、「Sinsemilla」・「Red」・「Black Sounds of Freedom」・「Tear it Up Live」・「Chill Out」であろう。その次の「Anthem」も良いが、当時ロンドンを席巻していたGary Numanのシンセ・ポップ風アレンジがどうも好きになれないので除外。それ以降は興味の対象外。それ以前、すなわちジャマイカのTaxiレーベルからリリースされていたLPやシングルは、Island移籍以降の彼等の音とは全く別物と考えて良く、それが本来の彼等の音なのかも知れない。1970年代も後半になると、レゲエの世界全体にプロデューサーの存在感が増し、その手腕次第で音はどうにでも変えられるといっても過言ではないほどになる。つまり、1980年以降の彼等の音は、明らかに作られた音であり、その初期の段階を完結したのが「Chill Out」といえる。来日したのは、「Anthem」リリース直後の1984年の「レゲエ・サンスプラッシュ」千里万博公園「セレクト・ライブ・アンダー・ザ・スカイ」で、打ち込みも多用されたデジタルなビート感の強いステージだったのを記憶している。
 そんな彼等であるので、いっそギミックにダブ・アルバムを推薦する。このレコードは愛聴盤である。両面、ほぼ切れ目のないメドレーとなっていて、彼等のリズム・セクションであるSly & Robbieの作品である。その手法は、当時のレゲエ・ファンの間では賛否両論であったが、特にレゲエと意識せず、レゲエのルーツ性、当時の時代背景から見たポップ性、ダブの実験性のバランスが見事に実現されたダブとして最高傑作に推したい作品である。このダブに飽きたら、Prince Jammyがプロデュースした「Uhuru in Dub (LP, CSA Records, CSLP2, 1982, UK) 」もあり、これも非常に良い。ただし、復刻されたCDはジャケット三種類、曲順も異なるので要チェック。この後の彼等は、ご多分に漏れずポップ路線に転換していくのであるが、そのルーツなメロディを生かしきれずに分裂してしまう。原点に戻って作品を作り続けていたなら、おそらくボブ・マーリー亡き後のレゲエ「歌もの」シーンを充分盛り上げてくれたと思われるだけに、非常に惜しい気がする。



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20150208 Africa must be

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Hugh Mundell: Africa must be free by 1983. (LP, 番号なし, Pablo Music Pro., 1978, Jamaica/ CD, Hugh Mundell/ Augustus Pablo: Africa Must Be Free By 1983/ Africa Dub, Greensleeves Records ,GRELCD 504, 1990, UK)

Let's All Unite
My Mind
Africa Must Be Free By 1983
Why Do Black Man Fuss And Fight

Book Of Life
Run Revolution A Come
Day Of Judgement
Jah Will Provide
Ital Slip

https://www.youtube.com/watch?v=xWNcnqFCf90

 ジャマイカに戻る。1970年代のジャマイカは、ほぼ内戦に近い不安定な状況だった。政治は事実上の二大政党制だったが、政策路線としてはともに中道左派であり、両者の闘争の原因は、要するに勢力争いとしか考えられない。カリブ海を舞台にした覇権争いにからむ米国との関係、その力を取り付けようとする地元勢力同士の抗争、主な外貨獲得資源である鉱物ボーキサイトの利権、それに伴うギャングの暗躍、麻薬密売ルートの確保などである。ともかく、植民地支配から独立を果たした多くの国々が辿る悲惨な運命をジャマイカも辿った。住民はそのほとんどが、スペインの植民地支配の初期に過酷な労働で死に絶えたインディヘナの人たちの代わりに、アフリカから連れてこられた黒人奴隷たちの子孫であるが、もともとジャマイカはそんなに大きな島ではなく地形も複雑なため、生産可能な国土に比べて人口が多い。従って、ご多分に漏れず地方から都市部への人口の流入が続き、首都キングストンには多くの貧民街が産まれた。そのひとつとして名前の知られるトレンチ・タウンは、文字通り下水の排水溝を埋め立てて作られた場所であった。
 さて、ジャマイカのレゲエには、ブリティッシュ・レゲエと違って、この国内の不毛な権力闘争を批判する内容の歌が多い。そこを出発点に、ゴミダメのような土地を捨てて約束の土地へ、世界の黒人は連帯して移住しようという思想、すなわちラスタファリズムを歌うことで、黒人の解放、貧困の解消、差別の撤廃というテーマについて言及していく。「Africa must be free by 1983」・・・Aswadも同年に発売されたシングル「It's not our wish…」のなかで「Africa must be free by the year 1983」と謳っているが、1983年のアフリカに何があった、あるいはあるだろうとしていたのだろうか。Hugh Mundellは1978年当時で16歳、録音された声は未だ声変りしていない。収録された曲は、2曲を除いて彼自身のもの。プロデュースとキーボードはAugustus Pablo (原盤表記はAgustus Pablo) で、当時のジャマイカ随一のスタジオChannel 1と、Lee Perry のBlack Ark Studioで制作されている。これは彼のデビュー作であって、ちょっとかすれた感じの少年のような声と、裏腹なほどはっきりしたメッセージ性がある。曲調は優しくシンプルで、初期のルーツ・ロック・レゲエの良さを充分堪能出来るが、彼の魅力はそれだけにとどまらない冷静な歌心とでもいえる、どこか醒めたような空気感である。当時のジャマイカの録音設備の状態から音質は悪いしミックスも雑、製造技術の問題から盤質も粗くジャケットもそれなりであるが、歌と演奏の良さ、それも凝らずに作った素朴さが愛すべき作品である。彼はその1983年に暗殺されるまでに5枚の作品を残しているが、いずれも繊細な声に印象的なキーボードの絡まるシンプルな曲調の曲を残している。私は個人的には、もし彼が生き存えていたら、そして環境に恵まれ、彼がそれを有効に使えるほどに強ければ、ボブ・マーリーを引き継ぐようなスーパー・スターに育っていたのではないかと思ったほどである。しかし、ジャマイカの現状はそれを許さなかった。ボブ・マーリーは、覇権争いに明け暮れる両党の党首を自分のステージに上げて握手させ、それは歴史的な和解かと思われたのだが、それも束の間の癒しにすぎなかった。再びジャマイカは混乱の歴史を辿り、多くのミュージシャンや文化人が世を去った。上のデータは、原盤LPのものである。この原盤を元にAugustus Pabloが制作したDUBとカップリングでCD化されているが、いずれも入手困難のようである。



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20150207 Cordoue 21

cordoue21.jpg

Sandra Bessis/ Rachid Brahim-Djelloul: Cordoue 21, Sur les traces de Sefarad (CD, May Sol Music/ L'Autre Distribution, MS1854,  2014, FR)

À Grenade, Le dernier soupir du Maure
   1. Romance de la Gran Perdida de Alhama
   2. La Serena
À Cordoue, Les femmes aussi sont poétes
   3. Morena Me Yaman
   4. Ygdal
À Istanbul, Entre musique de cour et chants des rues
   5. Kaminos de Sirkedji (feat. Jasko Ramic)
   6. Bre Sarika Bre
   7. M'ehis Berdemeno
Des Balkans à Salonique, ballades et tavernes
   8. El Rey de Fransia
   9. Yedi Kule
   10. Nani Nani (feat. Arayik Bartikian)
Entre Tunis et Alger, années 40 et 50
   11. Ya Behi el Djamel
   12. Ya Oummi
À Paris aujourd'hui ≪L'homme n'a pas de racines, il a des pieds≫
   13. Aman Minush

 バック・オーダー待ちであったCDが送られてきた。アラブ・アンダルースの音楽に分類されるが、イスラム世界に離散したユダヤ人の伝統音楽復興の試みである。711年にウマイヤ朝イスラム帝国 (首都は現在のシリアのダマスカス) はイベリア半島に上陸し、キリスト教世界が初めてイスラムに占領された。しかしほどなく750年に首都で革命が起き、現在のイラクのバグダッドに首都を置くアッバース朝にとってかわられた。ウマイヤ朝の子孫はイベリア半島に逃れて"Cordoue" (コルドバ) に756年、後ウマイヤ朝を建てた。一方アッバース朝の時代はイスラム帝国が最も繁栄した時代であり、ムスリムであれば民族の別なく全く平等で、「クルアーン」に記されたイスラムの理想が実現されていた。しかしほどなく均衡は破れ、各地の勢力による分裂が始まる。イスラム帝国は、当初その発展の段階で周辺の国々を征服して拡大していったが、異教徒に対して改宗を強制せず、人頭税の支払いを条件に信仰の自由が認められるのが普通であった。ユダヤ人は主に紀元前300年ごろから、つまりギリシアのアレクサンダー大王から約300年のヘレニズム時代に、地中海を舞台に商業的に成功して各地に離散し、当時イベリア半島にも住んでいた。"Sefarad"の場所は特定されていないが、その形容詞または複数形である"Sefaradi"は、半島に居住していたユダヤ人及びその子孫を指す。半島を舞台にイスラム勢力とキリスト教勢力は攻防を繰り返すが、割拠していた複数のキリスト教勢力は異教徒を排斥する傾向にあり、特にユダヤ人は弾圧された。それに対して最後に残ったイスラム国家グラナダ回教国は宗教的に寛容であったため、半島内からムスリムとともにユダヤ人も多く移住して、文化は非常に栄えた。アルハンブラ宮殿が完成したのもこの頃である。キリスト教徒によるイベリア半島の奪還は1492年に完了するが、同時に異端審問によりユダヤ人は追放された。その受け皿となったのが、北アフリカまで勢力を伸ばしていたオスマン・トルコである。このようにして、イベリア半島出身のユダヤ人は、当時のオスマン・トルコ領内、北アフリカから中央アジアにまたがる広い地域に活路を見出して散っていくことになる。
 この作品は、スペインに残るイスラム世界に於けるユダヤ人の音楽の系譜から始まり、チュニジア・バルカン・ギリシア・トルコに残された"Sefaradi"の音楽を、伝承された楽曲を独自のアレンジで、或いは古くから伝わる詩編を許に創造して様々に奏でてみせる。ユダヤ人の音楽とはいいながら、始まりの楽章はどう聴いてもアザーンの朗詠、それが深まるにつれフラメンコのカンタに似てくる。そこへアルメニアのドゥドゥックの物悲しい音色が絡んできたり、トルコのクラシック音楽に、ときにはアゼルバイジャンのマカームの世界に連れていってくれたりもする。歌は、主にスペイン系ユダヤ人の言語であるラディーノ語で謳われ、これはスペイン語・アラビア語・ヘブライ語の特徴を併せ持つ。また伝承された地域によって現地の言葉でも謳われる。アンダルシアであったり、マグレブであったり、サロニクであったり、テュルクであったり・・・しかしそれでもアラブやトルコ、コーカサス地方の保守的な伝統音楽の、型通りの分厚い職人芸には流れない。ウード奏者でありこの作品の総監督であるRachid Brahim-Djelloulのもと、メイン歌手のSandra Bessisの深くて低い声が生かされていて、静かで暗い中に、情熱の一本の筋がしっかりと通っている。これを聴くと、中東に産まれた三つの世界宗教が、各地に様々な文化をもたらし、歴史の中でそれらが混ざり合ったり、離反したり、あるいは熟成された後ぶちまけられたり、音楽的にも様々な流亡があったりして、ひとつの音楽の中に抱えきれない世界が広がっているのを実感する。彼等は変化を受け容れつつも、自分たちの伝統を飲み込んで新たに伝える。伝えるために、壊して創造する。それが生きた音楽になって、こうして聴くことが出来るすばらしさ。もとはひとつであったのだが、今は様々である。しかし、やはりよく聴くと、もとはひとつである。ものすごく良い演奏です。

 

posted by jakiswede at 14:40| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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