2015年03月20日

20150522 Ortiz Consort 26

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Ortiz Consort 26回定期演奏会「ガンバ 夜明け前」〜楽弓からガンバコンソートまで〜

 2015/05/22 (金) 19:00 \3,000/ 3,500

 カトリック奈良教会 (近鉄奈良駅1番出口北へ徒歩2分)


 いつもながら感謝の気持に堪えないのですが、私のような全く専門教育など受けてこなかったどこの物ともわからん馬の骨を、日本を代表する古楽演奏家の大先生達が、今年もこのように重く使って下さるという。今回の趣向は「ガンバの夜明け前」と題して、擦弦楽器のルーツを探る旅である。全ての弦楽器の源は楽弓といって、まさに弓と矢であったのだが、もともと狩に出た夫を待つ間の寂しさを紛らわすためのもので、女が使うものだとコンゴの奥地への旅で教えられたことがある。湧き上がる想いを直に口にするのははばかられるので、弓の端に口を当てて絃を矢で叩き、言葉を擬音化したのである。その後、口を使うことからヒョウタンを装備するように改良され、奴隷貿易とともに大西洋を渡った一部は、ブラジル北東部に残ってカポエイラの伴奏に使われるビリンバウになった。私がコンゴ奥地の旅で直に見たのは、大西洋を渡る前の姿であった。村の女性が自分の乳房にヒョウタンを当てたり放したりして哀しげなメロディを謳っていた。男を待つ云々という話は彼女から訊いたのである。今回の演奏会では、その楽弓の実演から始めて、打弦から擦弦の可能性に言及し、アラブ世界に於ける擦弦楽器とその伴奏を取り上げ、それがヨーロッパに伝わってViola da Gambaになるまでの軌跡を追うという趣向である。私が担当するのは、その前半第一部の原初からアラブとヨーロッパ中世の音楽的混沌の時期の古曲の伴奏になる。私の出演時間は短いのですが、もしご興味のある方がおられればチケットを押さえておきます。なお毎回早い時期に完売になりますので、お早めにご連絡下さい。

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2015年03月19日

20150322 惜別 阪急2300系

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 http://www.hankyu.co.jp/railfan/topics/150209_2300.html

 自分の産まれた年に産まれた電車が廃車になる、しかもその系列が廃止になるということに特別な感慨がある。2015/03/22 (日) 限りを以て阪急の最も旧い系列である2300系の最後の編成が廃止となる。阪急沿線に産まれて育ち、その色や音やにおいに慣れ親しんだ私にとっては、年を追う毎に懐かしい車両が世を去って行くことが辛くて寂しい。54年も走り続けた電車なんて、なかなかお目にかかれるもんでない。しかもこの2300系というのは、兄貴分にあたる神戸線や宝塚線に登場した2000系や2100系などが早くから改造されて原形美を失ってしまったのに対して、顔形を大幅に損なうような改造をせずに済んだことが大変良かったと思う。上の写真ではわかりにくいが、なんといっても特徴的なのは電気機関車顔負けの大型パンタグラフを二挺振りかざして走る姿であろう。これが木造車から脱皮した頃の阪急の新しい姿だった。それはとりもなおさず、戦後から復興して交通手段までもが清潔になって行く象徴であって、そのころまでは舗装された道路など珍しく、そこらじゅう工事だらけで移動すれば砂ぼこりにまみれるのは当たり前だった。こどもが電車で座っていたらぶん殴られた。この洗練された顔立ちの車両が入ってくると気分も和やかになったものである。上の写真は数年前に撮影した2300系の初期ロットで、文字通り1960年生まれである。これを撮っておいて良かったと思う。原形に近い2300系の写真は、私にはこれしかない。美しい鉄道写真を見ると、私も作品をモノにしてみたいと思うのだが、なかなかそんなことをしている時間がない。例えば阪急京都線なら、各駅停車でも片道1時間なので、撮影スポットをひとつ決めれば2時間ちょいあれば必ずモノにできるはずなんだが、その忍耐が私にはない。きょうも、たまたま電車で大阪に出るチャンスがあったので、もしや最後の姿でも見られるかと期待して十三駅に一時間ほど頑張ってんけどね、とちゅうでアホらしなってやめました。この次は、万博の頃に大量投入された3000・3100・3300系の廃車の波が来る筈なので、見慣れたこの姿も今や貴重品・・・

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20150317 初農作業

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 春は名のみの風の寒さや、肥料なくても花は咲く。ここからがコイツらすごいねんで、いっぱいトウ立ちして沢山の花をつける。種族保存の本能やわなあ・・・==Э.:・'゜☆。

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 風寒けれど春は来る、人の敷地にフキノトウ。あんまり早よとったら絶滅しよるんで、もうちょい待ってから盗ったんねん。

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 ニンニクの周りくらい除草しといたろか、2015年初の農作業や・・・あ・・・やってもた・・・

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20150316 復活した永遠なるQ3535

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 ようやく愛機Q-3535が治ってきた。現在調整中。いやあしかしハンダ付けの美しさが違いますなあ・・・あたりまえか・・・↑後↓前ね(^^;

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 やっぱりもともとの配線が設計とは違っていたようで、誤配線が複数あったそうです。そら私にはわかりませんわ現物合わせでいったんやから・・・で、当時の設計では配慮されていなかった、出力管の保護回路を新たに組み込んで、真空管さえ交換すれば、ケミカル・コンデンサの劣化がない限り永年使える状態にしてくれました。安心ですわ。ところで音ですが、もう全然前と違います。前の音も良いと思ったのだが、今度のは全然違う。音が襲いかかってくる、というかね・・・まあ人に襲いかかってくるような音楽聞いてるから余計なんやが、とにかく立体感がすごい。私は音楽の良さには五月蝿いけれども、音質の良さにはそんなにこだわりはなかった。でもそれは、ただ単に良い音響設備で音を聞いたことがなかっただけのことだということがわかった。と同時に、このような設備で聞いてしまうと、音源そのものの質も厳しく問われ、レコード盤の状態だけでなく、そもそもの録音やプレスの状態までがより忠実に、つまり劣悪なものは更に劣悪に再現されてしまうこともわかった。ということは、劣悪な環境で録音された音源がほとんどである私のコレクションを聞き続けるということは今までのような楽しみではなくなり、これが却って苦痛にさえなり得るということもわかった・・・なんということでせう・・・でもまあ良いわ。どうせ今生一度限り。ひとつずつ聞いて記録にとどめ、順番にオークションにかけて行くまでのことよ。楽しもう。


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20150312 干し焼き芋

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雨が続くので、貯蔵してあるサツマイモを干し芋に出来ないから焼いてみた。けっこうイケる。



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2015年03月13日

20150311 日本の独立について考える

 20年前から冬が辛いという宿病を負ってしまった。12月に入るとその兆候が始まり、1/17にピークに達する。私はあの轟音と振動と、生き埋めになった苦しみから逃れることは出来ないだろう。4年前からは、それに3/11という日付が加わった。春に向かって恢復しつつある精神状態が、再びどん底に突き落とされ、砂ぼこりの記憶に触発された花粉症がそれに追い討ちをかける。今年からは、2/01beheadされる錯覚が私を責めさいなむだろう。もうだめだ。冬がもたない。どんどん生き辛くなっていく。無音状態の中で、否応なしに農閑期の自分と正面対決させられる。

 アンプは未だ直らない。折角の農閑期を音楽三昧で過ごそうとの企みは頓挫したまま春を迎えつつある。その間にレコードやCDの整理をしていて驚愕した。なんと、棚の奥の方に押しやられたそれらは、深刻なカビに侵されている。なかにはジャケットがどろどろに蝕まれてしまったものもある。ここは田んぼだから湿気がすごいのだ。特に冬場の湿気は、暖房の結露と相まって、窓や壁をびしょぬれにしてしまう。やれやれ、おかげで毎日、これらの清掃をし、諦めるべきは処分し、気分は最悪だ。つまり、もうこれらは耐用年数を過ぎているのだ。これらを全て聞き終えるのに、たぶん5-6年はかかるだろう。ということは、大半は二度と聞かれないということだ。ならば、もうコレクションを温存するという考えは捨てて、自分にとって大切なものだけを残し、他は全て社会的存在にする方が現実的だ。

 アンプの修理に4万、先日、自転車が2台とも同時に深刻なダメージを受けた。その修理に2万。これで私の月収が飛ぶ。おかげでバイト先へは毎日歩きだ。おまけにバイト先は立派なブラック企業であって、4時間の契約時間でおよそなしうる作業量の2倍程度の作業を強いられる。当然達成出来ないので勤務評定は下がり続け、先日、終に次回の契約更新は諦めるようにといわれた。たかが時給780円、しかし見せかけだけで出来たことにするのも、嘘の報告を上げるのも嫌だ。仕事を探さねばならない。求人情報にエントリーしても30分後には不採用通知が来る。それが深夜であっても、どこへ出しても文面は同じなので、自動的にはじかれていることが解る。最近この古いパソコンも調子が悪い。2007年製のIntell Core DuoではMacOS10.6.8から上げられない。現在かろうじて乗っかるアプリケーションと周辺機器でどうにか凌いでいるが、Facebookでさえ表示に障害を来している。iCloudに頼らずに自己完結出来る最後のモデルだから温存しているが、これをやり替えるとなると50万仕事だ。唯一の遠方移動手段である愛車カリーナちゃんも既に30歳で累積走行距離は63万キロに近づいている。こいつが故障したら、もう部品はない。廃車費用だけでも残しておかなければならん。これで手持ちは完全に底をつく。要するに、私のスロー・ライフの現実はこんなものだということだ。脱ネット・脱クルマ生活を決断し、コレクションをオークションにかけて当座を生き延びるか。それは、とりもなおさず、還暦を迎えるにあたって、自分が死ぬための準備を始めておくということのようにも思われる。

 さて生き辛くなってきたのは何も経済的に困窮しているからばかりではない。私の身の周りに起ることは、恐らくすべからく世界で起っていることと同じ、と考えて良さそうだ。ということは、世界中が生き辛くなっているのだろうか。いまこれを書いている動機は、辛い冬を終りにして、春に向けて地面を蹴りたいからだ。1995117日に体験したことは、建造物の直撃や圧迫による死からの奇跡的な生還だった。そこで私の世界観はすっかり変わってしまった。形のあるものは必ず壊れる。それに例外はない。自治体も国もジャーナリズムも事実が見えない。信用出来るのは自分の脳みそだけであり、それは誰にも干渉出来ない。2011311日の昼過ぎ、私はイカナゴの釘煮を作っていた。その前年に世界一周旅行をしたのだが、その写真展を東京にいる友人が企画してくれていて、翌日に私は上京してトーク・セッションに参加することになっていた。釘煮は来場者へのお土産にするつもりだった。その時刻には私は何も感じなかった。釘煮を完成させ、荷造りをし、畑に出て夕食のための野菜をとった。現実を知ったのはラジオをつけてからだった。

 まだ大学生の頃、反原発運動に関わった。1980年の事だ。たしか扇町公園から大阪城公園へとデモ行進している最中、大川を渡っている時に一部のデモ隊が暴れた。原因は解らなかったが、収拾するのに時間がかかった。隊列は崩れて一部が河川敷の公園に散った。背後から警官隊が押し寄せてきて、整然と行進していた我々を引きずり倒し、それに抗議した者を連行した。私は数人の仲間とともに留置場へ入れられた。そのとき感じたことは、これはなにかが違うんだという違和感だった。つまり、反対運動などしても、所詮我々の自己満足に過ぎず、我々の希望は到底かなえられないと、そのとき確信した。

 当時はスリーマイル島の原発事故の記憶が生々しく残っていた。チェルノブイリは6年後だ。日本の反原発運動は非常に白熱していたが、推進派との議論はかみ合わなかった。なぜなら、学者たちは様々なデータを持ち出して、原発の有効性や安全性や経済性を主張するのだが、そのデータを検証する手段がなかったからだ。だから、漁民が奇形の魚を見たと言った時、学者は放射能と奇形との因果関係を証明しろと漁民に迫った。我々は黙り込むしかなかった。反論の根拠が用意出来ていなかったからだ。

 私がそのとき言いたかったことは極めてシンプルだ。核分裂を起す前の状態では核物質は安定している。核分裂が始まるとそれが不安定化して、猛烈なエネルギーを放出する。それを制御して湯を沸かすのが原子力発電の仕組みだが、一旦不安定化させてしまった核物質は、さまざまな核物質を作り出しながら複雑な連鎖反応を続け、全体が安全な程度に終息するまでには数万年という年月がかかる。核燃料が核分裂を始めてから使用済核燃料になるまで、使用済核燃料が安全な程度に終息するまでは、人類が責任を持って自然環境からこれを絶対に隔離・密閉・冷却し続けなくてはならない。しかし、そんなことは当然不可能だ。だから、原発の安全性という議論は、それそのものが無意味だ。これが35年前の私の認識だった。しかしそれが今もって有効であることを知って、却って驚いた。資源エネルギー庁自体が、使用済核燃料の処分方法が決まらないまま原発事業を進めていることを認めているからだ。

 4年前と今とでは、世の中の空気が大きく異なる。世の中に、本当はない方が良いのだけれども、なくすことのできないものに囲まれて、我々は暮らしている。だから、私はこんなに生き辛いのではないかと、思うのである。原発が世の中にない方が良いことは、原発推進派の人たちも、たぶんわかってると思う。当然、安倍もわかってる。しかし、なぜかやらざるを得ない。そこにはどうしても抗いがたい特別な事情があるようだ。それについては様々な論説があるが、そこに深入りしたくない。しかしなにかある。だから、反原発運動をいくら理論武装しても、恐らく効果はない。彼等はわかっててやってるのだから・・・35年前に感じた違和感の正体は、恐らくこれだ。だから矛先は、その特別な事情の方にこそ向けられなければならない。私には、原発推進派も原発反対派も、その特別な事情の主催者によって対立させられ、国民の関心をそちらにそらせることによって、事情の本質に目を向けないように仕向けられているように見える。国の方針と市民運動が対立しているということは、それを見ている勢力は国外にいると考えるのが最も自然だ。

 ここ数年で顕在化してきていることは、要するにエネルギー資源の争奪戦が、いよいよ深刻な局面に至っているということだ。そのなかにあって日本は、結局のところアメリカの属州に過ぎず、完全な主権国家としての独立を果たしていないということだ。日本はその立場に甘んじることと引き換えに、アメリカの影響力の許に、安全保障や、エネルギー資源や、経済発展を享受してきたと考えられるのではないか。特別な事情とは、すくなくともそのような二国間関係を互いに承認するような、なんらかの密約が交わされていて、国民にはそれを知らせないようにすることが合意されているのではないか。とすれば、反原発運動の矛先は、2018年に失効する日米原子力協定にむけられるべきではないか。

 ドイツのメルケル首相の忠告に耳を貸さず、原発再稼働を公言した背景にあるものと、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定、特定秘密保護法の成立、そして近い将来懸念されている憲法改正は、実は日本はアメリカの属州であったと解釈すれば充分説明出来る。だから、もうお互いにお芝居は終りにしたらどうかと。日本は、自由も民主主義も、一応保証されてる国だから、話しあえるものなら話しあってみたい。

 私は、日本は完全に独立して当然だと思う。日本にしか出来ない役割と、独自の哲学を持って、自然に振る舞うべきだ。アメリカの属州たるべしとされるなんらかの取り決めが存在するならば、それは断固破棄すべきだ。そういう点では55年前に日米安保闘争を闘った先人たちの行動と哲学は正しかった。まずはそこを再評価して日米安保条約を破棄し、脱原発へ向けて、どのように日本経済を軟着陸させて行くかを、冷静に議論すべきだと思う。そのうえで、唯一の被爆国である日本にしか出来ない仕事、つまり放射能が人体や生物、自然界に及ぼす影響の徹底的な疫学調査、チェルノブイリや核実験場周辺に於ける同様の調査によって、既に得られている筈の知見に基づいた福島第一原発事故の事後処理をすべきで、もしかしたらそれには首都東京の深刻な汚染を認めざるを得なくなるかも知れない。しかしそれでもやる必要がある。集団的自衛権・特定秘密保護法・憲法改正という名目で現在議論されていることは、その内実は、アメリカの属州として、その影響力の行使の片棒を担ぐことを意味しているので、これを白紙に戻し、エネルギー利権に絡む帝国主義的な影響力の行使の構図から撤退する。同時に、アメリカが言うところの「テロとの闘い」には加担しない。あらゆる対立の構図に中立的な立場で臨むべき。日本は独自の立場であって良い。対立の一方に加担する必要はない。対立している両者ともに、本来は救われるべきであって、その方法を提案出来るのは、日本のような、利害の外にあって賢明な判断を下し得る独立した国家であると思うし、そのような国になって欲しい。

 しかしこれを実現するためには、非常に厳しい大きな苦痛を耐え忍ばなければならないだろう。要するに、化石燃料のほとんどの供給が断たれるであろうから、一次産業による自給体制を中心にした、現在の何十分の一という経済規模に向かって、全ての国民が生活レベルを下げる必要に迫られる。プラスが多ければ多いほど、実はマイナスも多かった筈なのである。それを覆い隠してプラスだけを追い求めた結果が現在の日本であるので、その現実を見つめ直すということは、マイナスの連鎖を断ち切る勇気を持つということである。しかもそれを、例えば江戸時代の約4倍の現在の人口で実現しなければならない。しかも治安を維持しながら、しかも発展ではなく、後退して行くことの困難さから来る矛盾の全てを、外的要因にすり替えず、自国で処理しきらなければならない。独立を完全なものにする事と、外国を侵略することとは、全く別の問題だからである。もちろんこれは極論である。実現出来るとは思っていない。しかし、すくなくとも発展の速度を緩め、やがて後進をかける勇気を持つ哲学というものが、まったくないということは、どう考えても不自然だ。まずは三年後の日米原子力協定の継続阻止、これがさしあたっての具体的な目標となるであろう。













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2015年03月11日

20150310 味噌作り

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 手作り糀が派生したので、鶴の子大豆で味噌を仕込む。分量は、大豆 : 糀 : 塩 = 1 : 1 : 0.5である。これは、それぞれが水分を含む前の重量比なので、糀は厳密には仕込む米の浸水前の重さである。米糀は次のように仕込む。米を洗って一昼夜水に浸け、水を切る。この水切りが結果を左右する。ザルにあけて大雑把に水切りしたあと、蒸し布に広げて干し、表面から水が消える程度まで干す。これを蒸す。蒸し加減は芯が辛うじて残らない程度。蒸し過ぎるとおじやのような糀になる。これはこれで塩糀として使えんことはない。蒸し上がったら、必ず人肌にまで冷ましてから、糀の種 (いわゆる「もやし」) を振りかけて種付けをする。その割合は糀菌によって異なるので、入手先で訊く。自家糀菌の場合は経験を積む。冷ますのは、これより高温だと糀菌が死ぬからである。

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 大豆を蒸す。事前に一昼夜水に浸け、これを蒸す。蒸し加減は、指先で潰れる程度。これらを必ず人肌に冷ましてから、大豆の蒸し汁を少し入れて米糀をふやかす。しんなりしたら上の割合で全体を混合する。全部混ぜたら、みそすり器にかけて終了。

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 みそすり器は、筒の周囲に摺りきれずに多く残る。これらは摺り上がったものとは別に保存しておき、次回のみそすり時に最後の掃除に使う。写真の手に持っているのは、前回丹波黒大豆の仕込時にみそすり器の中に残ったものである。これを使って、今回摺りきれなかったものを押し出す。

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 手前は摺り上がりの鶴の子大豆味噌、後はみそすり器の中に残ったもの同士のブレンド味噌である。粒は残るが、これはこれで立派な味噌になる。まあ一服しよか・・・

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2015年03月10日

20150302 米糀の仕込

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 米糀を仕込む。米を一昼夜水に浸け、水を切る。これを芯が辛うじて残らない程度にまで蒸して、人肌に冷ます。

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 糀菌を振りかけたら、さらし木綿の袋などに入れて保温する。

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 私はモノクロ写真をやっていたので、現像液の保温ヒーターを持っている。これを上手く活用してスチロール・ケースの中で養生する。

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20150226 イカナゴ漁解禁

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 イカナゴ新子漁解禁、早速購入して炊いてみました。既に大きくなっています。体長4-5cm、私はもっと小さいのが良いのですが、禁漁期間があるので致し方がありません。\1,680/ kg、ここ数年イカナゴは高値安定傾向です。一応レシピを紹介しておきましょう。

イカナゴ新子1kgに対して、
こいくち醤油200cc
酒100cc
味醂100cc
ザラメ250g
しょうが100gなどお好みで副材料
アルミ箔を鍋の直径より僅かに小さく切って、真ん中に指で穴を開けた落とし蓋

 あくまで目安です。お好みで加減して下さい。今年の新子はしっかりしているので、味醂を半減しても大丈夫そうです。また、今日は一日雨でしたので、川から泥水が流れ込み、これを飲んで生きている新子の味が落ちますから、次回炊くのは数日後が良いでしょう。今日の新子はそんなに汚れていませんでした。
 下準備として、新子を洗います。大きなボウルに水を張り、ザルを沈め、そこへ新子を入れます。これは新香を傷めないための配慮です。雨の影響が心配だったので、これを三回繰り返しました。

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 炊き方ですが、ショウガ以外の材料を全て鍋に入れ、先ずは弱火でザラメを完全に溶かし、強火にして吹き上がる程度に煮立てます。そこへ副材料のショウガや、お好みで実山椒、桂皮などを入れます。にたったら新子を一気に入れます。煮汁の温度が急激に下がりますので、素手で軽く混ぜて熱の伝播を良くし、周りから吹き上がってくるタイミングでアクを取ります。こうすれば、アクが一時に出るので、効率よく除去できるのですが、イカナゴを少しずつ入れた場合、アクが出るタイミングもバラバラになるので、これをきれいに除去する事が難しいのです。これをしたのとしないのとでは、仕上がりのすっきり感が全く違います。アク取りが終って再び全体が吹き上がってきたら、アルミ箔の落とし蓋をします。

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 吹きこぼれない程度に火加減をして煮続けます。落とし蓋が踊っている間は触らず、煮汁が減って落とし蓋が沈んで行ったら良く観察し、鍋を持って煮汁を全体に回しかけながら煮あげ、煮汁が無くなる直前に火を止めてザルにあけます。コツは一貫して強火、そして箸を絶対入れないことです。

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 今日はついでに醤油絞りも並行してやりました。見えているのはマイク・スタンドです。布袋に入れてねじり、洗濯ばさみで止めています。未だ色が浅いので、もう一年寝かせようと思います。もうすぐ今年の丹波黒大豆醤油の仕込です。

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posted by jakiswede at 00:39| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2015 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする