2015年04月04日

20150404 It's not my wish...

 ...that I should fight.・・・20年前に部屋がブッ壊れて以来、私はテレビを持っていないので、リアル・タイムで放送を見ることはないのだが、インターネット上でも、古賀さんの言動について、例の番組を降ろされたのなんのというしょーもない話題を目にしない日はなく、どうにも気になったので、先日YouTubeで番組自体を検索して視聴した。

 全体を見て率直に思ったことは、とても大切なことを率直に語っているということだ。しかも、単なる「反対」ではなくて、きちんと行くべき先を提示している。話として良く解った。もちろん古賀さんは出演者だから、番組の主導権は放送局側にあるだろう。前半と最後の一部でそこを逸脱したことは否定出来ないし、逸脱するには大き過ぎる内容であるので、どうせなら、もっと視聴者が判断出来る材料や裏付けをとって、そこから推測出来る事態や、様々な立場からの主張が整理して提示されるべきだった。しかしそうなると、別の番組を組むに足るボリュームになるだろう。あの場であのような形で話を持ち出し、古館さんにあのような反論をさせ、ネット上で様々な流言飛語や誹謗中傷が飛び交い、見たい音楽番組を探し当てるのに時間がかかるほどの事態を招いたことは、たしかに不用意だったのかも知れない。しかし、それは当事者の平穏な信頼関係が、既に崩壊していることを意味する。あるいはそのおかげで、事の重要性と緊急性を世に知らしめたのもまた事実だ。なぜなら菅官房長官が放送法まで持ち出して恫喝したからである。これも少し性急に過ぎただろう。まだコクミンは、そこまで政府の言い分に慣れていないからだ。

 主にネットで騒いでいる人たちは、この放送事故をめぐるルール違反を批判しているだけで、古賀さんが言った内容に耳を傾けていない。これも誰が言ったか忘れてしまったのだが、「民衆というものは、小さな嘘にはなかなか騙されないが、大きな嘘にはころっと騙される」という主旨の言葉があった。いま最も危険な状態で日々着実に進行している大きな嘘に、決して騙されることなく、自分たち日本人がどういう在り方を望んでいるのか、自分がどういう生き方を目指していくのかを、いま常に意識しておかないと、どんどんこの大きな嘘に巻き込まれていって、気がついた時には自分自身がその大嘘をつき続けなければ生きていけないことになってしまうと、彼は警告している。それは第二次世界大戦に社会全体が流れ込んでいった歴史を見ても明らかだし、ブラジルやコンゴ、エジプトやトルコの私の友人たちからも言われることである。日本にいると気がつきにくいが、彼等から見ても、ここ数年で日本は大きく変わろうとしているようだ。私は今までに中国や韓国やロシアの友人を作ってこなかったことを後悔している。そして学生時代にクサいメシを食わされて以来、社会的な示威活動とは関わってこなかったことをも後悔しているが、今は春眠から目覚めざるを得ないのかも知れない。ひとつの番組などめちゃくちゃになっても構わないし、プロデューサーが乱入して乱闘しても構わないから、進みつつある危機に対して話題を喚起することは、ジャーナリズムの当然の役割だ。それをキャスターが果たさないのなら、コメンテイターが果たすべきであって、両者ともに黙ってしまったら、一体我々はどこから事実を知れば良いのかさえ解らなくなる。放送事故をめぐるルール違反を批判している人たちは、事の重大性を矮小化することで論点をすり替えようとしているだけだ。彼等はいずれそんなルールなど跡形もなく消えるかも知れないという危機意識すら持っていない。

 何故私がこんなことを言い出すのかというと、古賀さんが言ったこと、すなわち誰もが政権を怖れて口をつぐんでしまうというこの構図は、独裁政権やブラック企業だけでなく、私の環境にも直接的に全く同じことが見られるからである。つまりこれは日本中で、世界中で起っていることだと考えて良い。具体的に書こう。ある日私は売切りをしていて、刺身のパックの表示にある賞味期限が、製造日から3日もあることに気がついた。刺身というものは製造当日が賞味期限である。不思議に思って上司に報告すると、なんとそれは本社のデータ上の間違いで、それは現場で常に修正することにしているそうなのだ。私が見つけたものは修正漏れだという。そもそも一日中店にいてそれに気付かない社員も社員だが、その間違いを本社に指摘して、データを修正してもらうのかと思いきや、そうではないという。百何十もの店舗で毎日出されるこの商品を、ひとつひとつ手作業で修正する無駄を考えるだけでも気が遠くなる。会社全体のことを本当に考えるならば、そして何よりお客様の安全を考えるならば、早急にデータを修正して間違いが起らなくするのが当然であって、それで膨大な無駄も解消出来るのだが、それをするためには、まず商品データが商品部と販促企画部で別々に管理されていて、それぞれが個別に店にデータを送っている実態にメスを入れなければならないが、本社の派閥争いに一社員が言及することなどタブー。せめて間違いを減らすためにデータを入力するアルバイトを増員しなければならないが、これも予算的に無理、仕方がないので、限られた社員がカラ残業で対応しているものの充分な管理が出来ないので、文字入力の省力化を図るために自動的にコピペする機能を導入したのだが、それが裏目に出て間違いに気付きにくくなった、本来やるべき校正作業も、複数人での読み合わせはおろか、入力件数が多過ぎて見直しすらしていない、それがわかっているから、本社の担当にこれ以上の負担はかけられないというのである。日本人の心の優しさというべきか、このような無駄を自ら進んで引き受けて誰も文句を言わず、自分で自分の首を絞め、不都合をひた隠しに隠し通して上層部に報告すれば、会社が行き先を見誤るのも当然である。日本が行き先を見誤る構図と同じではないか。

 もうひとつ書いておこう。例の万引き未遂事件その後、わかってきたことは、その人は私の勤務する店の入る商業施設に土地を貸している地主と懇意であって、その事件の後もやって来ては、「誰のおかげで商売できる思とんじゃあ」と暴言を吐き散らかしとる。本社もビビってしもてとにかくトラブルだけは回避するようにという、抽象的な表現でスタッフに圧力をかける。事件に直接関わった社員には、本社から注意があったらしいが、私はお咎めなしである。こいつは私の住んでいるの集落の前の農会長と同級生で、自治会での発言力が絶大であることは経験済である。ただでさえ村八分同然の身、これ以上のトラブルは直接私の生存に関わる。村の人間は、じっと黙して動かない。日本が行き先を見誤るとき、懐柔してその既得権益が守られるのは有力者である。生きていくためには、ますます彼等にすり寄っておかなければならなくなるだろう。田舎というものはそういうものである。では私はどうするか。ひしひしと身の危険を感じている。それでも言うべきことは言い、これまでの無関心な態度を改めて、集落に対してもバイト先に対しても、上司や組織の枠を飛び越えて、要求すべきことは要求していくのか。古賀さんの発言によって知らされた、ガンジーの次の言葉は、私に重くのしかかる。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」



posted by jakiswede at 13:50| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

20150404 変態的音楽遍歴のススメ

 「アフリカ音楽だから良い」のか、「良い音楽がアフリカに多い」のか、「アフリカ人のように演奏するのが良い」のか、「良い演奏を心がけていたらアフリカ音楽みたいになってた」のか、これは非常に重要な問題だと思うのです。

 私は1960年生まれ、ロックに飽きてしまったのが1978年頃で18歳、そこからいろんな国の音楽に興味をもったが、それらはあくまでポピュラー音楽であって、決して民族音楽ではなかった。幸運なことに、ちょうどその頃から欧米以外の国々でポピュラー音楽の録音が多くなる。

 それ以前、民族音楽は、いわばその国のポピュラー音楽に関する理解を深める助けにはなっても、興味の対象にはなる事は殆どなかった。当時のポピュラー音楽は、多かれ少なかれロックやジャズやキューバ音楽などの影響を受けている。つまり多くの場合、彼等はそれらの音楽を聴いて、自己表現として演奏しはじめたものだ。

 顕著な例が、コンゴ人が普通にロックをやった結果が「リンガラ・ポップス」だという事実である。つまり、彼等は「アフリカ音楽」を演奏しているのではなく、ロックをやっているのだ。私が20年前までやっていた「カーリー・ショッケール」も同じである。この価値観の共有があったからこそ、私は彼等と深く交友することが出来た。

 従って、私は「アフリカ音楽だから良い」と思ったことはない。良い音楽は、アフリカに「も」多いし、ブラジルに「も」多いし、ペルーにも、アルゼンチンにも、ベネスエラにも、アンゴラにも、トルコにも、アルメニアにも、アゼルバイジャンにも、シリアにも多い。世界は多様な音楽に満たされているからこそ楽しいのであって、その楽しさに夢中になって様々な音楽を聞き込んでいくうちに、その広大さを意識して演奏を心がけるようになり、自然にアフリカ音楽みたいになってたこともあり、ブラジル音楽みたいになってたこともあるというわけだ。決して「アフリカ人のように演奏するのが良い」などと思ったことはない。「脱国境音楽」という言葉を使って、この音楽性を表した私の心の師匠がいるのだが、この言葉は非常に良くこの気持を代弁している。音楽が湧き上がってくるのは、あくまで自分の内側からであり、決して他者ではない。

 しかしこれは音楽へのアプローチのひとつの姿であって、現実には全く別のアプローチもある。ひとつは伝統を「習いに」入るという行き方で、そこに自己表現の介入する隙間はない。上のような在り方とは全く逆だ。例えば、ギニアのジェンベを習っているグループがあって、彼等はよく現地へ行くそうなのだが、「Bembeya Jazz National」という、ギニアが世界に誇る、有名なオルケストルの名前を知らない。これは、実は全く驚くべき、というか呆れる事態で、この、ギニアの伝統美の上に、キューバ音楽の影響を受けた、全く独自の美しい音楽を彼等は知らないどころか、ギニアのジェンベに専念するためにそれに耳を傾けようとはしないのである。彼等の価値観では、「アフリカ人のように演奏するのが良い」のは自明であり、「良い音楽がアフリカにも多い」などという考え方は、師匠に対する冒涜になるらしい。それは彼等の師匠の周囲だけに通用する、ごく狭い価値観といわざるを得ず、私には彼等が何故そう判断するのかが、さっぱりわからない。

 いまひとつは、国際交流や慈善事業の一環で例えばアフリカに興味をもって、その音楽も演奏するようになったという例である。この場合もともと音楽に関心が強かったわけではないので、「世界は多様な音楽に満たされている」といってもピンとこない。むしろ自分の関わっている事業など、音楽以外の要素との連関の上に音楽が位置づけられていればそれで良いのだ。彼等の場合、「アフリカ人のように演奏する」ことは、現地の人たちとの関係を良好にするというメリットがある。それで充分なのだ。しかし日本人である彼等が、慈善事業として「上から目線」でアフリカに関わり、現地人たちがそれを「外国人にしてはよくできた」と褒める。それで認められたと錯覚して「社交界的」なコミュニケーションに満足する。私には到底受け容れられないことだ。ここでもやはり、「良い音楽がアフリカにも多い」などという考え方は全く埒外である。

 要するにこれは価値観の問題で、当人が良ければそれで良い。それをとやかく言う気はない。ただ私は、それを公の場で演奏するということに率直な違和感がある。しかも先日のイベントでは、「それで良い」当人たちで満たされていて、あれほど多くのアフリカ音楽に関心または関わりのある人たちが集まっていながら、自分の内側から沸き起こる歌や演奏に出会えなかった。「カーリー・ショッケール」活動期に頻繁に催されたこのてのイベントでは、自己表現としての「脱国境音楽」を演奏する様々なグループの、強烈な個性のぶつかり合いの場であって、それが当たり前のことだった。そもそも「習う」とか「慈善」なんて言葉は我々の辞書にはなく、間違っていようが独断と偏見であろうが、思うがままを音楽にしたはずである。今は、現地の音楽が多く紹介されるようになった代わりに、それに捕らわれてしまった人も多く、それがそのままの状態で公に出てくることも多くなった。それらは「習う」人にとっても「慈善」の人にとっても、「守ってあげるべきひ弱な存在」だから、当たり障りのない表面的な優しさで繋がってしまうのではないか、参加者の殆どがそんな笑顔を全ての人が浮かべているような空気に、私は自分の理解を越えたどうしようもない違和感を禁じ得なかったのである。誰が言ったか忘れてしまったが、「カバーとは、すなわち原曲に対する仁義なきケンカである」という言葉があって、これは名言だと思う。こんな話にもう少し付き合ってみようと思う人は、下をクリックしてみて下さい。ずいぶん前に書いたものだけど・・・


 http://jakiswede.com/2music/21acts/213karly/2130karly_fr.html


posted by jakiswede at 01:10| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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