2015年05月31日

20150522 Ortiz Consort 26

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 「オルティス・コンソート」第26回定期演奏会に客演させていただいた。今回の演し物は「ガンバ夜明け前・楽弓からガンバコンソートまで」と題して、前半では、非常に原始的な弦楽器の例として「楽弓 (musical bow) 」を採り上げ、民族楽器などを交えながら、現代のバイオリンに繋がる擦弦楽器の変遷を手短に実演するという趣向のものであった。後半は、かなりマニアックなガンバ・コンソートで、私はそんなことはできないから、前半とアンコールのみの担当である。まずは会場が暗転した中、私とバンマスが、それぞれ楽弓の弦を指で撥きながら入場、非常に小さな音なので聴衆の注意力を喚起する狙いもあった。ステージ板付きにて私がこれを細い棒で叩いている間に、バンマスがこれにひょうたんを取りつけて打弦、私はその音にディトゥンバで呼応し、バンマスは弓を取り出してビリンバウの弦を擦弦・・・つまり撥弦→打弦→擦弦を同じ楽器によって展開する、しかもビリンバウがまるで胡弓のように唸りだす状態が、明らかに聴衆の驚きを誘った。その後、マセンコやラバーブなど素朴な造りの擦弦楽器に私が各種打楽器で即興的に合わせていく演奏は、会場を埋めたクラシック音楽ファンにとってはかなり強いインパクトであったようだ。

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 後半はガンバ・コンソートである。スペイン・イタリア・イギリスの15-17世紀のガンバ・コンソートの変遷を辿る趣 向である。12曲が演奏された。なかでもVincenzo Ruffo (c.1508-1587) の、その名も "La Gamba in Basso e Soprano" と、Orland Gibbons (1583-1625) の "In Nomine" の演奏が素晴らしかった。
  前者は、非常に不安定で不協和音に聞こえるような二つの単純なコードで始まり、何種類かの短い定旋律の変奏の組み合わせが繰り返されていく形を取っている のだが、いわば4声の通奏音の状態から徐々に複雑な装飾音が付加されていく。和音が重層的に響き合うほどに音は表情を変え、初めの二つの単純なコードを 保ったまま、4声のソロの全ての組み合わせが終るまで変奏され続ける。Vincenzo RuffoはVeronaに産まれ、故郷やMilanoで大聖堂の楽長を務め、Claudio Monteverdi (1567-1642) を孫弟子に持つ宗教音楽家である。本日演奏された "La Gamba in Basso e Soprano" は、1564年に発表された "Capricci in musica a tre voci" という曲集に収録されている。「Capriccio (カプリッチョ) 」は、イタリア語でもともと「きまぐれ」を意味するラフな言葉なのだが、この言葉を音楽に対して使ったのは彼が最初といわれている。後にこの言葉は、音楽 様式やムードを表現するために使われ、「狂想曲」などという日本語訳も与えられたが、特に形式上の特長はない。そんなことより驚かされるのは、宗教音楽が 厳格なものであったかどうかは別として、すくなくとも当時のキリスト教信者たちにあっては、神に近づくためのありとあらゆる方法が試された痕跡をここに聴 くことが出来るような気がすることである。ルネサンス期に宮廷音楽がグロテスクなまでに発展し腐乱していく以前には、典礼音楽にも世俗音楽にも、まだまだ 純粋で素朴な音楽に対する不思議さ、憧れ、実験的な野心というものが随所にあって、それに強く心惹かれるのである。
 後者は、聖歌「なんじ聖三位 一体に栄光あれ (Gloria Tibi Trinitas) 」の一部「神の御名において (In Nomine Domini) 」の歌い出しの部分を定旋律として変奏されていった、あまりにも有名な器楽合奏曲のひとつで、16-17世紀のイングランドで成立したといわれている。多 くの作曲家が採り上げているが、私はOrland Gibbonsのものに親しみを覚える。それは、歌い出しの和音から立ち上る紛れもなきイングランドの香りであり、他に喩えようもないほど紛れもないその 独特な芳香は、バロック時代以降は地下に潜ってフォーク・ソングに受け継がれ、その後ビートルズにも、そしてあまたのブリティッシュ・ロックにも、あきら かに脈打っているからだろう。"In Nomine"を初めて聴いたのは、たしか14歳の頃の某FM音楽番組で、それは中世から現代音楽までを広く俯瞰して「反復」という手法の持つ様々な効果 を検証しようとしたものだったが、John Dowlandeの "Lachrimae (涙のパヴァーヌ) " やGavin Bryarsの名曲 "The Sinking of the Titanic" の抜粋を初めて聴いたのもこの番組でだった。これをきっかけに、私は「クラシック臭くない」ヨーロッパのクラシック音楽というものがこの世にあって、それ にのめりこんでいくことになる。さて、このOrland Gibbonsの "In Nomine" も、やはり単純な定旋律を変奏していく過程で様々に発生する偶発的な和音や、音とタイミングのズレを楽しむかのような曲構成など、明らかに実験的と思われ る曲構成を持ちながら、不思議なまでに穏やかな安らぎ感が全体を覆っている。このような安らぎの表現にたどり着くためには、きっととてつもない強烈なプ レッシャーがあって、そこからの離脱の経験がなければならないと思うのだが、この時代のイングランドに何があったのか、何故彼等はこのような音を好むの か、そして彼等の民族に刷り込まれたかのように、Sex Pistolsにさえも、そうした種類の憂いが感じられるのは何故なのか、そして、そうしたものを音の中に感得し、それにわずか14歳の私が引き寄せられ たのは何故なのか・・・一切が謎であり、謎ゆえに今でも引き込まれてしまうのだろう。

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 音楽とはなんだろう。演奏会が終って関係者のかたがたと食事をする好機を得て、学識豊かな一流のクラシック演奏家の皆様と、その周囲に おられるかたがた、そしてクラシック音楽の愛好家の人たちに訊いてみた。つまり、私は全く専門教育を受けてこなかったがために楽譜の読み書きは出来ない が、音が流れはじめれば、奏者とともに演奏としてそこへ入っていくことは出来る。もちろん、音楽へのアプローチの仕方は無数にあるので、その都度奏者のか たがたの感覚に合わせていくことになる。それを私は楽しくさせてもらっているのだが、永年、音楽のために多くを投資し、学問・研究・訓練に勤しんでこられ た演奏家の皆様とは、おのずから感覚が違う。楽譜も何もなしに感覚のみで演奏する私を、彼等は言葉を尽して褒めて下さるのだが、私は自分の感覚以外のこと は出来ない。たとえば、ある小節から次の小節に移る際にテンポが変更になるとする。それは楽譜に明記されていて、♪=108から♪=132へなんて書いて ある。♪=90と♪=100と♪=110なら感覚で叩き分けることが出来るが、90未満は全然ムリ、120以上なんてついていけないほど、私は打楽器奏者 で有りながら許容範囲が狭い。しかし彼等は訓練を受けているので、♪=132を出せるのである。私はそれに追随するしかない。私は、自分の好む音楽を自分 のものとして演奏することしか出来ないし、それが音楽だと思っている。しかし世に言う音楽とは、もっと広いものを指していて、そうしたものを具体化してい くためには、全ての場面に対応出来る能力が要求される。それは途方もなく多様で困難で複雑なものであり、なかなかものにならない。演奏者がどうしたいか、 という問題は訓練のあとでしか聞いてもらえない。それまで希望の火がもつかどうか、そのうえで彼等の研究と想像力によって、ひとつの音楽世界が現出される ということは、なんと素晴らしい、しかしなんと困難なことか・・・


 
posted by jakiswede at 02:17| Comment(0) | 音楽活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする