台風は去って天候は回復し、農業用水の点検も終って全ての無事を確認したので、「摩耶アコースティック・ピクニック」へ行こうと思って調べてみたら、摩耶山へアクセス出来る道路が通行止め、休日が天から降ってきたようなものなので、ここで先日の「強行採決」について自分の考えをまとめてみたいと思う。
結論から言うと、私は安倍政権になってから矢継ぎ早に出された法案や政策、特定秘密保護法・消費税増税・原発再稼働・労働者派遣法改正・憲法解釈の変更と集団的自衛権の容認の全てに明確に反対する。ただ、ひとつひとつの事案に対して、誰が、どのような立場から、どのような理由でそれに賛成、あるいは反対し、その向こうに何があるのか、複雑過ぎてさっぱりわからない状態で、賛成や反対を言っても理解は広がらない。例えば私は原発の再稼働には反対だが、反原発運動は無責任だという意見には一部条件付きで賛成する。なぜなら、日本人は今立派な建物の屋根に上がって更に上を見ているのに、突然梯子を外して屋根から飛び降りろと言っても無理だからだ。もっとも深刻なのは、ことあるごとに賛成や反対を唱えて対立し合うことである。私は軍事専門家でも国際関係の学者でもないので、詳しいデータや機密情報などは知り得ない。したがって彼等が力説する内容を検証出来ない。しかし現象として現れている事実を良く検討してみるだけでも、ある程度の真実に近づくことは出来る筈だ。だから、すくなくとも一般人だけでも、冷静に落ち着いて、互いに罵りあうことなく、普通に話し合ってみませんか。お互い知らないことだらけなんだし、なにも知ったかぶって高揚する必要もない。不安に煽られて、互いを非難し合うことの方が、よっぽど怖いことで、そうやって国民を分断することこそ、誰かの思うつぼなのかも知れないのだから。
さて、なにから話そうか、私の悪いクセとして、物事を原理原則から時系列に従って説き起こさなければ気が済まないところがある。だから、先ずは私の立場から説明する方が、私にとってはやりやすい。ただ話がどうしても硬くなるので、読んでていやになった場合は、やめる前に「X」から「X」までの段落を飛ばしてもらって、その後で「X」段落を読んでいただくと、幾分抵抗が少ないかと思う。
私は、このままの比率で世界中が経済成長を続けていけば、人類も地球も破滅するしか道はないと思っている。例えば化石燃料、もしかしたら核燃料の原料でさえ、その枯渇あるいは高騰は、恐らく数十年後には現実になる。遅かれ早かれ、人類はエネルギー資源を失って、産業革命以前の自給的生活に戻らざるを得なくなる。だから、少々強引でも成長の度合いを減速させて、今の便利で物質的に豊かな生活を、いかに自給的生活に軟着陸させるかを模索しなければならない。人類同士で内輪もめしてる場合ではない。人類全体を救うために、その具体的なロードマップを検討しはじめなければならないと考えている。私の今の生活は、それを実践するための私なりの実験だ。もちろんこれは私見であって極論であることは承知している。しかし逆に全く検討されていないとすれば、それは大変恐ろしいことといわざるを得ない。
日本が集団的自衛権を口実に、アメリカとともに世界の資源獲得競争に乗り出して、戦争に手を染めることに絶対反対する。しかし、この反対の代償として、アメリカによって守られてきたエネルギー資源をはじめとする様々な恩恵に浴することを諦め、最悪の場合産業革命以前の自給的生活に戻ることを覚悟する。そのかわり、日本は武力による紛争の解決は破壊しかもたらさないことを世界に知らしめるため、徹底的に武力によらない丸腰の仲裁者としての役割を演じる国に進んで欲しいと思う。なぜなら日本は、世界に唯一の主旨を持つ憲法を70年間維持した国であって、複雑に絡み合った世界の紛争当事国から、絶対に自分たちに銃を向けることのない仲裁者として信頼され得る立場にあるからである。こんなことができるのは世界中で日本だけである。結論から言う。私は、日本は日米同盟を破棄して個別的自衛権のみを有する永世中立国家を目指し、世界から武器を減らす行動を採ることによって国際貢献を果たす国家となるべきと考える。少々不便な国になったとしても、道は開かれる筈だ。以下にその判断に至った現状認識と、その理由について述べる。
「X」
世界は、そのエネルギー資源をいかに取り込むかを巡って、主に中東の石油資源とアフリカの鉱物資源とインドの開発をターゲットに、EU・アメリカ・ロシア・中国などの間で勢力争いをしていると見ることが出来る。上記以外の国や団体や勢力は、その多くがそのうちのどれかの勢力に取り込まれることによって延命を図ろうとしている。日本はアメリカとその同盟国の連合に参加している。これは、第二次世界大戦で敗北して以来、一貫して日本が採ってきた国際政治上のスタンスだ。だから、そのグループに属する限り、日本はアメリカの意向に大きく依存せねばならず、その見返りとしてエネルギー資源獲得上の安全が、ある程度保障されている。
こういう世界の力関係の基礎が出来たのは、第二次世界大戦で日本が連合国に対して無条件降伏したとき (1945) からである。当時、ソ連はスターリンの恐怖政治で疲弊していたため軍事的な拡張主義は採らず、むしろ日・独・伊の枢軸同盟を鎮圧するために、主にヨーロッパで連合国側に手を貸した。東ヨーロッパではソ連はドイツからの解放者として歓迎されたが、結局事実上ソ連に占領されて鉄のカーテンの向こうに見えなくなり、ソ連本国を富ませることとなる。終戦直前にソ連は日本に宣戦布告し、中国や朝鮮半島の大日本帝国や傀儡政権の領土を占領したが、それも連合国と協議の上での軍事行動だった。このように、終戦当時、既に共産主義勢力は対外勢力としての実態を持ちはじめていたが、連合国にとってはファシズムを根絶することの方が喫緊の課題であったので、その状況を反映して制定・施行 (1947) された日本国憲法は、その文面を素直に読めば、日本を武装解除して完全な非武装中立国家にすることを目的としている。
その数年後 (1950) に朝鮮戦争が勃発したが、その当時は日本に軍隊はなかったので、当時制定された旧日米安保条約 (1950) は、日本国憲法に従って連合国により軍事力を解体された日本が、日本の防衛を在日米軍に求めたことになっている。しかし在日米軍を朝鮮半島に動員させることになったため、その後の日本の自衛力の空白を埋めるために、GHQは日本に警察予備隊の編成を命じ、これが現在の自衛隊のもとになった。さらにベトナム戦争の勃発 (1960) で米ソの対立が表面化したことによって、アメリカは在日米軍を反共の砦と位置づけることになり、在日米軍基地の固定化が始まった。その状況を反映して締結された新日米安保条約 (60年安保) の内容を素直に読むと、旧条約がアメリカが日本を守るとされているのに対して、日米相互防衛すなわち集団的自衛権の容認と解釈出来る表現になっている。
私見としては、日本国憲法の主旨は非武装中立であり、自衛力を含むいかなる武力の所持も認めていない。一方で日米安保条約に於ては既に集団的自衛権が前提となっており、これを締結した時点でそれは容認されている。このふたつは明らかに矛盾していて、戦後70年間日本の武力行使がなかったがために、その矛盾が表面化しなかっただけのことと思われる。
朝鮮戦争やベトナム戦争は、米ソが直接戦火を交えることのない東西代理戦争であったが、それは、両国がその影響下にある第三国やその勢力の隣接する対立国や勢力との紛争などに乗じて、互いの影響力を誇示し合うものであった。そこには武器弾薬の供与を含むあらゆる兵站、日本政府が言うところの「後方支援」や、軍事訓練などが含まれ、さらに最新兵器の性能実験も行われた。最も恐ろしい例は、米軍がベトナム戦争で使った「枯葉剤」であろう。代理戦争という、大国が直接手を汚さない形での紛争の拡散は、当然のごとく武器そのものの拡散を招き、最新兵器の導入は旧式兵器の下部組織への分散を招く。
米ソが直接核弾頭を交える寸前まで行ったキューバ危機を機に始まった米ソによる緊張緩和が行われるまでは、両国は軍事力やそれを支える科学の分野において互いに競争した。抑止力という考え方がこの頃産まれた。これは要するに相手より強い武力を持てば、相手は攻撃してこないだろうという予測に基づく考え方だ。1970年代に緊張緩和が始まった頃、米ソに蓄積されていた核爆弾は威力にして地球を数十回壊滅させられるほどのものだったという。そしてさらにアメリカは、核先制抑止論という病的な戦略を推進していくことになるが、地球は一回壊されれば人類が滅亡するのだから、抑止力を理由に集団的自衛権を語ることがいかにナンセンスかがわかる。ここで言いたいことは、要するにアメリカの軍需産業とそれにまつわる利権というものは、膨張するに歯止めが効かないということである。
その後、ソ連の崩壊によって、世界は、事実上イデオロギーの対立による勢力版図の二色刷りではなく、おもに民族と宗教による対立に細分化された。東西冷戦の構造が続いていた時代に米ソによる間接統治の手先として温存されていた独裁政権も次々と滅ぼされ、その版図は分裂して抗争を繰り返し、それまである程度集中管理されていた武器が、紛争地域の隅々にまで流れ込むようになった。需要があれば供給されるのが市場経済である。性能が向上して命中精度が高まれば、使用する武器を減らすことが出来るという名目で、更に新しい武器の開発が進む。しかし廃棄された筈の武器は横流しされて紛争地帯に流れ込み、誤射や誤爆を頻発させる。それを抑えるという名目で更に武器は製造される。つまり、世界が混沌とすればするほど武器は売れるのである。
私は、人類が戦争をやめられない本当の理由だと思う。立場や見解や主張の異なる相手と交渉するのは時間と根気が要る。しかし武器を使えば一瞬で解決すると、ひとは思いがちである。そのときは人を殺そうとは思っていない。血を見ることは想像もしていない。しかし引き金を引いてしまうと、内蔵が飛び散り血が噴き出すのである。引かないまでも相手は黙る。しかしそのときは黙ってしまうが、相手に対する恨みはより一層体内に燃える。そして横流しされた武器を手に取って反撃に転じる。その連鎖を止められなくなっているのが、今の紛争地域である。
さて、日本は不景気である。多くの企業がブラック化していて、社員は深い絶望の中で不毛な長時間労働を強いられている。上司は上層部に気に入られることだけを念頭に行動し、それ以外の尻拭いは全て部下に押し付ける。部下はそれがどんなに理不尽で馬鹿げたことであっても従わなければならない。業務の効率化のために流れを改善しようと提案することは、それを考案した本社の担当の無能を明るみに出すことになるので、迂闊に質問すら出来ない。現場たたき上げの上司が現場を活性化してくれるとの期待はたちどころに粉砕される。なぜなら現場のどこを叩けば自分を脅かすかも知れない後続が這い上がってこられなくなるか、良くわきまえているからである。リストラは極限に達し、もはやぱりぱりの雑巾を絞ってバケツに水を溜めようとしているようなものだ。競争は過激さを増し、まさに匕首を喉元に突きつけ合うようなものだ。単位当たりの営業実績は下がり続け、それを規模拡大などでカバーしている有り様である。つまり、拡張を続けなければ回転出来ず、拡張すればするほど内実が空疎になる。車輪からナットが外れるのは時間の問題だ。私は何十年にもわたっていくつもの会社を経験してきたが、バブル崩壊以降、大手企業を含め、どこも同じようなものであって、ということは日本という国家も同じであると見ることが出来る。
戦争というものは、現代においては多くの場合、経済的な動機をもって行われる。きっかけはなんでも良い。宗教的な衝突であったり、民族的な紛争であったり、本当の目的ときっかけは別の方が良い。というのは、そのほうが民衆を動員しやすいからである。とにかくそれを始める首謀者は大抵「やむをえず」と言う。開戦の責任は相手側にあると言って始めるのが常である。つまり、国民は当局によって合理化された理由しか知らされず、そこには厳重な言論の統制がある。つまり、内部に潜在する問題を明らかにすると、体制が揺らぐことになるので、それを隠して不満を外部に向ける。もっともらしい理由付さえあれば、苦しむ庶民は熱狂的にそれを支持する。攻撃対象の不当性が共有されれば、略奪は正当化される。しかし実際の侵略戦争では、富は支配層の一部にしか分配されない。敵と味方に関わらず、戦闘員と非戦闘員の区別なく、国民の大半は戦争によって失うものの方が遙かに多い。それを我々は歴史を学ぶことによっていやというほど知っている筈である。しかし地球上から戦争はなくならない。深い絶望の中で、不毛で理不尽でどんなにばかげたことにも従わなければならない者にとっては、戦争は刺激的である。なにより新しい制服が貰えるし武器が配給される。銃口を向ければ人は自分にひれ伏すのである。毎日を絶望の中で過ごすよりは、恋人や家族のために闘って死んだ方がましというものである。経済を牛耳る者にとっても状況は同じである。構造的な不況は、もはや自助努力ではどうにもならない。メスを入れるには身を切らねばならない。であれば、身に危険の及ばないところで戦争が発生してどちらかの勢力を援助するか、戦争を煽動して国民を闘わせることが有効な手段である。
つまり、特定秘密保護法・消費税増税・原発再稼働・労働者派遣法改正・憲法解釈の変更と集団的自衛権の容認の全ては、日本の閉塞した現状を一気に解決する切り札である。言論の自由の基礎になる知る権利を先ず制限した上でアメリカと連合する機密情報を秘匿し、所得ではなく消費に対して増税することで確実に国に金が入るようにし、平和利用と抑止力に名を借りたアメリカの核先制攻撃の確実性を担保するために原発を維持し、労働者は物言わず適宜適切に配置出来るモルモットたるべしという経済界の要請に応え、アメリカのエネルギー安全保障の恩恵に浴し続けるために憲法解釈を変更して自衛隊を海外へ送りだす。そうすれば、昔の侵略戦争ほどではないにしろ、とにかくある程度継続的な収入が期待出来るのである。この複雑な事情を説明するには、大変微妙で立ち入れない問題を含んでいるから、明確には答弁出来ないのである。これらのひとつでも放棄することは、行動の一貫性が損なわれ、日本は今までのような豊かな暮しが出来無くなるのである。だから反対することは許されない。そうして得られる利益の配分は、当然為政者の手にゆだねられねばならない。以上が、だいたいの日本の政治経済に関する私の現状認識である。
「X」
→さて、いくつかの重要な問題については補足説明が必要と思われるので、簡単に付け足す。
日本国憲法と日米安保条約は、先述したように二律背反の関係にある。法理論上は、日本国憲法を厳密に解釈するならば自衛隊の存在は違憲となり、また日米安保条約の締結も違憲である。一方、日米安保条約を遵守するならば、法理論上は、日米同盟の一翼を担うために憲法を改正しなければならない。しかし現実には、自国を防衛することは憲法以前の自明の権利であるという解釈によって、自衛権及び自衛隊を合憲とし、そのかわり自衛隊を軍といわず、仮に国外で活動する時も、イラク戦争の兵站を担当した以外は、平和維持活動に限定された。
日本国憲法がGHQに押し付けられた憲法だから改正すべきという、いわゆる自主憲法制定論の殆どは、論拠が成立過程の形式的要因に偏り過ぎ、現行の憲法が持つ国際的意味を内容から理解したものではないと思う。もちろん完璧な憲法は存在しないとは思うが、法理論上自衛隊の存在を合憲と出来るのであれば、憲法改正の必要は全く感じない。それが出来ないのであれば、自衛隊の存在の根拠を明文化した条文を、憲法に追加すれば良いだけである。改憲論議が起きるのは、それだけでは我慢出来ず、更に拡張して得られる利権を貪りたいという欲に駆られてのことといわざるを得ない。
日米安保条約は破棄を含めた検討を求める。最高裁がこれを判断の外に置いたように、これは日本人の意のままにならないからである。アメリカが日本を守るために米軍が日本に駐留しているという言論があるが、私は、米軍はアメリカの世界戦略上、東アジアに存在を誇示するために日本に駐留していると考えている。つまりアメリカの国益のため、古くは共産主義勢力との対峙、現在は中国を牽制するためである。アメリカは、日本と韓国と東南アジアの国々にインドやオーストラリアを交えた12カ国で中国を包囲するための新しい軍事同盟を結成しようとしている。イランの核疑惑に関する衝突は回避されたが、シーレーンの防衛は残った。しかしこれらも日本の存立とは直接関係のない、エネルギー資源の確保という経済活動の一環としてそこを利用する世界の国々に共通の問題であって、日本の自衛の問題ではない。「存立危機事態」という概念を新設したのは、世界共通の経済問題を日本の自衛問題にすり替えるための口実にするために過ぎない。
仮にその口実を使って日本の自衛隊が武装して紛争地帯へ乗り込んだとしよう。武装している以上、銃口を誰かに向けるのである。一体、誰に向けるのであろうか、誰に向けろと誰が指示するのであろうか、外交センスの全くない安倍総理が指示するのか、それとも米軍の現地の司令官が指示するのか、いずれにしろ絶望である。しかも自衛隊は地上での実戦経験が全くない。さらに今まで日本の自衛隊は絶対に自分たちに銃を向けないと思ってきた人たちに向かって、結果的に銃を向けることになる。現地の武装勢力の対立関係は複雑きわまりない。対立している勢力と対立している勢力が、その対立している勢力と必ずしも協調しているわけではない。その中に、彼等とはなんの利害関係もない自衛隊が武装して乗り込んで発砲したら、誰に命中しても紛争を更に複雑にするだけのことである。自衛隊員が紛争に巻き込まれるからではなく、紛争を複雑化してしまうから、日本の自衛隊は出るべきではないと考える。
私は何度かの海外旅行で紛争の危機にある国々を訪れたことがあるが、そこを無事に通過出来たのは、日本という国、日本人という人は、絶対に侵略目的で他国を蹂躙しないという認識が、そんな国々にまでも行き渡っていたからだ。「日本人を傷つけるな」という空気は、皮膚感覚として先ず間違いない。そういう意味で尊敬される日本人であることを、私は誇りに思った。だから私は日本人として、武力によってしか解決出来ない紛争を、平和裏に解決するための説得力を持つことは、日本人に最も適した国際貢献だと思う。それに逆行する憲法解釈の変更と集団的自衛権の容認に、私は明確に反対する。
安倍政権に外交センスが全くないことは、ISISに拘束されていた2人の日本人を救えなかったことで明らかになった。テロリストと条件交渉をしないということと、外交ルートを使って説得することとは、全く話が別である。安倍政権は、仲介者としてISISと完全に対立するヨルダンを選んだことで、2人の命を見捨てた。本当に人命を最優先に考えていたとしたら、トルコ政府に相談した筈である。しかしトルコとアメリカは、当時トラブルを抱えており、それは日米同盟のスポンサーと関わるものであった。これにより、安倍政権は日本人の命よりも、日米同盟から得られる利権の方が大切だという事が証明された。だから政府のいうままに自衛隊を出す事は出来ないのである。なぜなら、彼等は安倍政権の軍隊ではなく、我々の自衛隊なのだから。
日米安保条約とは直接の関係はないが、日米間の協定として日米原子力協定というものがあり、これが日本の原子力政策を決定している。すなわち、日本はアメリカから濃縮ウランを借りて原子力発電をし、使用済核燃料をアメリカに返還するというものである。その主旨は核拡散防止条約に基づくものであるが、それは表向きであって、裏向きにはアメリカの核兵器産業を常に回しておくことによって戦略核兵器の性能を維持しておくという狙いがあるという。それが本当であれば、この協定がある限り、日本は日本の意思で原子力発電をやめる事が出来ないことになる。この点について突込んだ論議が国会で交わされたのを聞いたことがない。現在の協定は1988年に締結され、2018年に失効するので、原発を止めたければ、そこを狙うべきだと思う。お知り合いに反原発派の国会議員がおられれば次のように質問することをお願いしていただきたい。この協定の存在の有無と、日本の原子力政策との関係、それがアメリカの核兵器産業と関わっていることを日本政府が認識しているかどうか、両国の利権関係を調査したうえで、偽証罪をちらつかせながら糺していただきたいものだ。あと3年しか猶予はなく、それを逃せば次の更新は30年後である。国会議員と学者が協力すれば、調べはつく筈だ。
私は原発再稼働に明確に反対する。私は大学在籍時に反原発運動に関わったことがあるが、その当時私が論点にしたことはたったひとつだけであった。それは使用済核燃料の最終処分方法が決まっていないのに、何故原発を推進するのか、という疑問だった。あれから30年以上経つがこの問題は解決していない。当時は、原発推進を唱える人たちとの議論に出くわすと、原子物理学の専門用語が頻発して泡を食ってしまったものだが、今では問題点ははっきりしている。核物質というものは、すべて崩壊しはじめると放射線を放出しながら他の核物質に変化してゆき、それぞれの核物質の放射線量が半減するまでに膨大な年数がかかる。その年数の間、人類がそれらを完全に封じ込めて冷却し続ける事は不可能であり、仮に可能であったとしても冷却に膨大なエネルギーを要する。再稼働したいのなら、この問題を片付けてからにすべきである。このような問いを向けると、科学者はそれまでの科学的答弁をやめて、「それは技術の進歩で必ず乗り越える」とか「どんな技術にも完璧という物はない」とかいう精神論で逃げる。私は学者でも技術者でもないが、原子力発電が危険な装置である事には変わりなく、ならば問題を乗り越えてから、完璧を期してから欠陥について議論してもらいたい、ということくらいは解る。その論理破綻をきちんと追求してくれる国会議員に改めてこの質問を突きつけてもらいたいものだ。原子力規制委員会が認めたのは、原子力発電「所」が一定の基準を満たしたというだけの事であって、燃料の製造から廃棄までを含めた「原子力発電」全体の安全性を承認した訳ではない。再稼働は、それが承認されてからにすべきであると考えるがどうか。それができないのなら、出来るだけ早期にすべての原子炉を廃炉にし、使用済み核燃料を最終処分する具体的方法について検討を始めるべきだと考えるがどうか。上の協定の関係で、日本では最終処分できないからやらないことは、なんとなくわかってるのだが・・・
つまり、すべては一連の動きである。要するに、いわば日本はアメリカの属州であって真の独立国家ではない。戦後70年間、日本はアメリカのおかげで平和に暮らせたと思い込まされてきた。しかし実はそれがアメリカに阿ることによって甘い汁を吸おうとする極く一部の人たちによる作り話であった可能性がある。その甘い汁は余程官能的であるらしく、歴代政権は、政党が変わろうともそれを吸うのをやめなかった。今の政権が信用ではないのは、法案そのものの文面やお題目は立派だが、上に挙げた素朴な疑問に正面から答えないからである。国民の理解に関わらず粛々と進めるという態度が一貫して見られ、それが非情に危険な方向へ向かっており、それについての質問には答えずにはぐらかすからである。いまは無防備な終戦直後ではない。国民はバカではない。日本の内実は、技術も経済力もあって良識を備えた有能な国民が居住する立派な国である。アメリカの頸城の全てを断ち切るための具体的な行動を、冷静に、平和裏に、粘り強く交渉によって勝ち取っていく方向に、日本は向かうべきだと思う。
繰り返しになるが、私は、遅かれ早かれ人類はエネルギー資源を失って産業革命以前の自給的生活に戻らざるを得なくなると思う。だから、今の便利で物質的に豊かな生活を、いかに自給的生活に軟着陸させるかを模索しなければならない。そのような立場から、私は安倍政権の退陣を望む。
最後に、知り合いに自民党の国会議員のおられる方にお願いしたい。強行採決された法案は、所謂「60日ルール」で衆議院で採決され、出席議員の2/3の賛成で可決されるはずである。いまいちど、党議拘束や政治生命を賭けてでも、この議案に反対してもらえないだろうか。そのような拡散は不可能だろうか。自民党の議員にこの際お願いするしかない。また、お知り合いに野党の国会議員のおられる方にお願いしたい。自民党を引きずり下ろすために大同団結して欲しい。選挙協力と政治生命を賭けて、自民党の暴走をなんとか食い止めて欲しい。いまのうちにやるべきだ。真剣に考える機会を与えてくれた総理に心から感謝する。