さてと、ぼちぼちやっか・・・畝1本30分、東畑に12本あるから、諸条件を考えなければ単純計算で、都合6時間か、まあそんなもんやろ・・・ではシーズンに入りますので、以後Facebookへは、特にお知らせしたいことのない限り、農作業食品加工関係の投稿は差し控えさせていただきます。ご興味のある方は下のリンクをどうぞ。
http://jakiswede.seesaa.net/category/25409985-1.html
さてと、ぼちぼちやっか・・・畝1本30分、東畑に12本あるから、諸条件を考えなければ単純計算で、都合6時間か、まあそんなもんやろ・・・ではシーズンに入りますので、以後Facebookへは、特にお知らせしたいことのない限り、農作業食品加工関係の投稿は差し控えさせていただきます。ご興味のある方は下のリンクをどうぞ。
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米麹仕込み3日目。状態は非常に良い。米粒は適度に乾いて、強飯よりちょっと硬いくらい。表面に白いカビが生えて、幾分内部にもそれが伝わり、菌糸が絡み合って米粒が塊になっている。この状態が来たら、「手入れ」といって、この菌糸を全体に行き渡らせるようなイメージで、例えば表面にあるものは内側へ、密に生えている部分は疎な部分へと、行き渡らせる感じでほぐして混ぜる。空気を入れる意味もある。自家発熱しはじめるので、加熱の度合いを下げるか、あるいは熱を切って保温状態にする。糀の非常に良い香りが部屋全体に立ち込めている。
さて、このような手順と見極めをどうやって覚えるか、ということが実は大変重要なことである。ここに、様々な文献を当たって総合した手順をチャートにしたものを記す。糀作りには様々な方法と考え方があり、わかりやすく一貫して書かれた資料は少ない。それは種の菌の種類によって、反応がまちまちだからである。下記のチャートは、資料から得られた考え方を、その時に使った種に合わせてまとめたものである。その種は「三日糀」の一種で反応が早い。しかし私の現在使っている糀菌は、宝塚の清荒神の老舗の味噌屋に伝わるものであって、使いはじめた当初、このチャート通りに進まないことを疑問に思って、その味噌屋へ問い合わせてみた。へんじはこうであった。「そんなもん、よその糀とウチのんはちゃいます。ウチのんは『五日糀』というて、ゆっくり発酵しますよってええにおいがしてきたら、それを保つように気をつけてやさしく扱いなはれ。」
ま、いずれにせよ手順を守ることが目的ではない。手順を忠実に守って作業を進めながら、原料がどのように変化していくかを注意深く観察する。色・匂い・手触りなど、それを頭に叩き込んでそれを再現するイメージで、別の条件下に挑むのである。下のデータはあくまで「三日糀」の仕込みの一例であるが、その考え方は十分に参考になる。私の使っている「五日糀」は、まだデータ化できていない。下のチャートの左端の数字は経過時間を表す。
00 米の精白・洗浄・浸水
01 吸水 15℃ 8時間・5℃ 15時間
16 水切り 表面から水がなくなる程度 24時間
40 蒸煮 芯がかろうじてなくなる程度 30分
41 放冷 麹菌の接種 25-30℃ 培養
59 手入れ 35-40℃
69 手入れ
79 手入れ
89 出糀
米麹で味噌を仕込む場合は、逆算して大豆を用意する。
65 大豆の浸水
89 蒸煮 指先で軽く潰れる程度
90 混合 比率はいずれも乾燥状態の重さで 2:2:1
米麹で醤油を仕込むことはあまりないのだが、もしやるのならあらかじめ玄米の重さを測っておく。
玄米1合 = 白米150g = 吸水後175g
出糀の重さを測り、最終的な醪の塩分比率が17%程度になるように調整する。醤油は通常、麦糀で仕込むので全く別の手順となる。詳しくは醤油を仕込む時に投稿します。
http://jakiswede.seesaa.net/article/418964586.html
昨シーズン丹波黒大豆はほぼ全滅に終わったので、今年の味噌作りは一昨年の豆を使って仕込む。まずは米麹作りから。米は栄養価の観点からすると玄米でも良さそうなのだが、麹菌の繁殖を考えると精米した方が良い。米を一昼夜十分に浸水し、これを一昼夜かけて十分に水切りする。ここが大変重要。
水切りが不十分だと、おじやのような糀になり使い物にならなくなる。最悪の場合、麹菌醸成中の温度管理に失敗して、つまり水分が多いと温度が上がりにくく、それを補うために加熱しすぎて部分的に温度が上がり、納豆菌が繁殖して腐敗したり、乾燥して麹菌が死滅したり、過熱を抑えるために温度を下げようとして下がりすぎて菌が醸成する前に腐敗が進んでしまうなどである。いずれも経験済み。あとで蒸すのだから水切りは適当で良いと考えがちだが、それは大きな間違いである。触っても手につかないほどになるまで水切りする。足りない場合は、袋に入れて洗濯機の脱水機にかけたり、大きく広げて清潔な布で水気を取ったりする。
これを蒸す。蒸し加減は、ようやく芯がなくなる程度。火力や蒸し器の大きさにもよるが、30-45分くらいである。
これを手早く冷ます。ここが重要。できることなら木製のお櫃が良い。ステンレスのバットでは底に水が付いて蒸し米につくので、その水気をとる工夫が必要になる。手早くしないと水分が必要以上に吸い込まれる。数分で人肌程度に戻ることを目指して、仰いだりバットを振ったりして急冷する。
糀の種をまく。麹菌は40℃以上で死滅すると言われているので、くれぐれも人肌以下を厳守する。ここが大変重要。また、糀の種は非常に軽い微細粉なので、この時温度が高いと湯気に巻き上げられて飛散する。人肌以下で作業するか、室温が低くて飛散を免れない場合は、バットを覆ってその中に手を突っ込んで撒くなどの工夫が必要。
これを晒し木綿の袋に入れて平らに伸ばし、厳密に温度管理しながら加熱と保温を調整する。私は写真の暗室作業用の現像液保温ヒーターを使っている。微妙な温度管理がつまみひとつでできるので大変重宝、大雑把にはコタツでも代用できる。麹菌の種類にもよるが、私の使っている麹菌は「五日糀」とよばれているものなので、仕込み時の温度30℃前後、発酵が始まる頃35℃前後、自己発熱が始まった頃に過熱をやめて保温に転じ、様子を見ながら30℃今日を保つように努力すると、五日程度で派生する。その頃に味噌摺りをしますので、やってみたい人は連絡を頂戴。今年はお分けできる豆がありませんので、参加者はすべて原料は調達してきてください。その代わり無料です。見学ももちろん無料。する作業だけを共にやり、その前後の諸作業について詳しく説明します。
すぐ近所の耕作放棄地の草刈りが終わった。ここは戦後の農地改革で圃場整備がされて以降、持ち主の相続の関係で権利関係が複雑化し、誰も管理しない状態で放置されてきた。何年かに一度、こうやって自治会で草刈りをするのだが、ただただ荒れ放題で、真ん中には木の切り株まである。私も何度かここを借りられないかと方々に打診したのだが、様々な障碍があって果たせない。個人の資格で利用権を設定するのは、たぶん不可能だ。そこで最近、ふとしたきっかけで思いついたことがある。
神戸市北区淡河町には、「くさかんむり」という茅ぶき屋根保存会がある。近隣の茅ぶき屋根は、順次彼等の手によって葺き替えられている。昨秋、近所の葺き替え済みの農家でイベントがあったときに、メンバーと知り合いになり、話すうちに、茅の調達もさることながら、葺き替えで出た古茅の処分にも困っているという。私の田畑は借り物ではあるが、2年続きの不作であり、何らかの手段で地力を少し助ける必要性を感じていた。そこで今シーズンより減反し、二年一作の運用でいくことを考えた。休ませている間は草刈りのみをして、枯れ草を積み、それが土に戻って土を肥やす。そこで考え付いたのは、両者を安直に結びつけることであった。
茅については全く無知である。これを育てるには、早春に株分けをして、初冬の刈り取りまでは手を入れない。それを刈り取って彼等に供給し、彼等のところで出た古茅を田畑に戻して肥料にできないものか。これは、二年一作かそれ以上でなければできず、毎年肥培管理をする普通の農家には無理だが、私にはできる。両者の思惑は、大筋では一致した。そこで先日、彼等の仕事場を見せてもらうことにした。茅は2メートル以上になることもあり、根は大きく強い。そして、大きな家一軒の葺き替えで出る茅は、1畝弱の圃場に積み上がり、それが風化して土に戻るのに二年ほどかかる。
私の借りている圃場と、管理している土手部分、ここでそれをやるとどうなるか、地主や近隣農家、水利組合・農業委員会はどう考えるのか。慎重に打診してみたところ、次のような返事が得られた。まず地主は「現状に戻せるのならば良い」、近隣農家は「害虫や害獣の住処にならないのなら良い」、水利組合は「土手が崩れなければ良い」、農業委員会は「茅は農作物ではないが、肥培管理の一環として栽培することは問題ない」・・・物事をストレートに表現してしまう私と違って、彼等の表現には「節度」というものが含まれている。これらをありていに言うならば、「現状に戻せないからダメだ」・「害虫や害獣の住処になるからダメだ」・「土手が崩れるからダメだ」・・・ということになりそうだ。
ほんとうにそうなのだろうか・・・と考えてしまうのが私の悪い癖で、仮に真実を究明した結果、茅を栽培することによって、「現状に戻すことができる」・「害虫や害獣の住処になはならない」・「土手はむしろ補強される」ことが立証されたとすればどうだろう。彼等がそれを受け入れるだろうか、いや、彼等はまた別の理由を持ち出してこれに反対するだろう。それにもおそらく「節度」が多分にまとわりついていて、論点をはっきりさせるだけでもかなりかかりそうだ。では、さらに私がそれらを論破してしまった場合どうなるだろう。果たして広範な支持が得られるだろうか。支持が得られないまま、私が信念を通し、正面を強行突破するとどうなるか・・・
私一人でこれを解決しようとするのは、少なくとも得策ではない。二年一作の自然農法で茅を栽培して保存会に供給し、処分に困った古茅を田畑に戻して肥料とする。これはおそらく痩せ地においても非常に有効な循環農法のあり方である。化学肥料や農薬によって「草一本生えていない美しい景観」、「虫も獣も来ない安全で安心な田畑」をもって良しとする慣行農家の感覚と折り合っていくには、彼等の意識がもう少し寛大になる必要がある。その捨て石になるために個人が一生を捧げなければならないのか、あるいは、それまで自然農法しかありえなかった昔、初めて農薬や化学肥料を、恐る恐る使うことになった農家が、「あそこも使ってうまいことやりよったからウチも・・・」という意識の変化と同じような変化を、社会的な共通の課題として広がることのために努力するのか、とりあえず、何も供給できるめどが立たないのに、もらうことが先走って恐縮なのだが、近日中に古茅を頂いて圃場に敷き詰めることにしよう。そのあと、例の耕作放棄地を自治会としてどうするかという難問についての、一つのアプローチとして、茅場にすることを提案してみることにする。
白菜キムチ本漬けと薬念醤作り
日時: 2016/03/02 (水) 14:00-17:00
場所: ボングー宝塚
https://www.facebook.com/pages/ボングー宝塚/871375719548661?fref=ts
参加費: 無料 (希望者にはボングー・ランチ\1,000あり)
伊丹が用意するもの:
白菜キムチ本漬け用
白菜・薬念醤・ボウル・保存瓶
薬念醤作り用
原材料・ミキサー・ボウル・保存容器
試食用出来上がり白菜キムチ
以上は、伊丹が個人的に製造するものを実演して見せるもので、お持ち帰りはできません。販売もいたしません。
お客様のうち、ご自分で当日お作りになりたい方は、以下のものをご用意願います。
白菜キムチ本漬け用
塩漬け白菜・薬念醤 (市販のものでOK) ・お好みで風味材料適宜
薬念醤作り用
餅米粥・カタクチイワシの塩漬・アミエビの塩漬・にんにく・しょうが・松の実・キムチ用唐辛子粗挽き・同極細挽き
分量については諸説ありますので指定はいたしません。各自お調べになってご用意願います。
キムチ作りワークショップの前に、本場の薬念醤を調達しておく。正面奥の「神戸商会」が永年の師匠。
例年、古漬用薬念醤の原料としては、生のカタクチイワシの塩漬けを作り、オキアミの塩漬けを購入するのだが、これらは入手が難しく高価なので、今年はこれらを乾物で代用することにした。
Malo: The Best of Malo (CD, Compilation, GNP Crescendo, GNPD 2205, 1991, US) Nena Suavecito Pana Everlasting Night Chevere Love Will Survive Cafe Oye Mama I'm For Real Latin Woman Moving Away Close To Me Dance To My Mambo Merengue Latin Bugaloo Suavecito (Radio Edit Version) 「Santana」を出したついでといってはなんだが、Carlos Santanaの弟Jorge Santanaが加入していたラテン・ロック・バンドで、音楽性はいわゆる「The Old Santana Band」とほとんど同じ。よりBoogalooやSalsaをも忠実に取り入れ、そのまま形式にのっとってやっている曲もある。主に1972-74が活動最盛期で、選曲もこの時期にリリースされた4枚のアルバムからのものが多い。時代背景からか、サイケデリックなラテンの雰囲気に満ちている。聞いていて懐かしくも楽しい音楽である。 |
Santana: Lotus (2CDs, Columbia, C2K 46764, re-issued, US/ Originally released in 1974)
CD-1
Meditation
Going Home
A-1 Funk
Every Step Of The Way
Black Magic Woman
Gypsy Queen
Oye Como Va
Yours Is The Light
Batuka*
Xibaba (She-Ba-Ba)
Stone Flower (Introduction)
Waiting
Castillos De Arena, Part 1 (Sand Castle)
Free Angela
Samba De Sausalito
CD-2
Mantra
Kyoto
Castillos De Arena, Part 2 (Sand Castle)
Incident At Neshabur**
Se A Cabo
Samba Pa Ti
Savor***
Toussaint L'Overture
*“Batukada”という表記もある。
** オリジナル3LPsではF面 (LP-3のB面) に単独収録されている。
*** 日本盤では”Mr. Udo”に差し替えられている。これは招聘元となったウドー音楽事務所に敬意を表してのこととされている。
ジャズへ行く前に「Santana」を書いておきたくなった。というのは、ちょうど彼らの結成時期のアメリカではBoogalooが盛んに行われており、これがキューバ人からプエルト・リコ人へと手渡された”Son”が、ジャズやブルーズなどと混血していくなかで過渡的に通過したスタイルであり、それが一方ではSalsaへと、他方では「Santana」のようなラテン・ロックともいうべき系譜へと繋がっていくからである。事実、彼らが取り上げてきた曲にTito Puenteの名曲を含むラテン音楽が多く取り入れられているし、そもそもCarlos Santanaの弟Jorgé SantanaはFania Allstarsに随行して「Zaïre ’74」に参加しているのだから、人脈としてはここに入れるのが適当だと思う。
「Santana」は、もはやロック殿堂入りを果たした世界的ミュージシャンなので、私が何かを解説する必要などない。私にとって「Santana」のベスト・アルバムは、この「Lotus」につきる。これはまさに私の人生を左右したものである。1973年7月、大阪厚生年金会館で2日間にわたって行われたライブからの編集録音である。当時、私はまだ中学一年、日本の世の中は高度経済成長の真っ只中とはいえ、いたるところに「戦後」を引きずっていた。世の中の大人の多くは戦前の教育を受けていたので、学校で民主主義は教わっていたけれども、実際の世の中は戦前の価値観が色濃く残っていた。社会がそうであるから、家庭の内側に至ってはなおさらである。教育とは子供を勉強机に縛り付けておくことであると信じて疑わない風潮が蔓延し、思い込みの強い親の元では絶対服従しか生き延びる術のないほど過酷な牢獄であった。しかし、束縛が強ければ強いほど外の世界に対する関心も高く、圧力が大きければ大きいほど反発も強い。どこでどうして手に入れていたのかは私にも具に思い出せないが、私はアメリカのポップスやロックを知っていたばかりか、「Santana」の来日を知っていた。もちろん、「Santana」のアルバムも4作目の「Caravanserai」までは聞いていた。そのアルバムは私にとって非常に大きな衝撃だった。音楽というと、「歌」かクラシックの演奏しか知らなかったので、インストゥルメンタルでロックに使われる楽器類で宇宙的なイメージを奏でる音楽の世界などあるとは思ってもみなかったからだ。しかもなんという熱い音だろう。コンガやボンゴの音を聞くのも初めてだったし、ラテン的なコードや展開を聞くのも初めてだった。なにしろ、まだほんの13歳の子供である。何もかもが衝撃だった。思うに、当時まだ本当に珍しかったアメリカ衣料の専門店が宝塚にあって、何かのついでに通ることがあるたびに、用もないのにそこへ入り込んでいた覚えがある。おそらくそこのにいちゃんか誰かが聞かせてくれたか、ラジオで聞き覚えたものであろう。やがて、落ちているラジオなどを修理してベッドの下に仕込み、イヤホンで深夜放送を聞くようになった。当時センセーションを巻き起こしていたバンドだったから、かなり頻繁に曲がかかったはずである。イヤホンで耳が痛くなるのも構わず、朝どうしても起きなくてはならない刻限まで粘っていた。ハンダ付けなどできないので銅線をセロテープで貼り付けただけの修理であったため、接点が過熱してマットを焦がしたこともある。しかし何事も隠密に済ませなければならなかった。ジーンズを履いてきただけで親が呼び出され、みんなの前で履き替えさせられるような時代だった。ちょっとでもそんな音楽のことを話しでもしようものなら、誰に告げ口されて誰の耳に入り、そのあとどんな目にあわされるかわからない。電車でほんの30分そこそこで行われているライブのことを、知っていながら行くことができない悔しさを、今でもありありと思い出すことができる。
「Santana」は1966年結成のSantana Blues Bandに端を発し、1969年に「Santana」と改称してデビュー・アルバムを発売、第二作「Abraxas」で評価を不動のものとする。そのなかに彼らの代表曲”Black Magic Woman”・”Oye Como Va”・”Incident at Neshabur” が含まれる。その次の「Santana III」までは、便宜上「The Old Santana Band」と呼ばれる。この三作の内容はBlues Bandを引きずっていて、1970年前後のカリフォルニアのサブ・カルチャーの匂いがプンプンし、実に自由爛漫で多様な曲があり、要するにサイケデリック、演奏も勢い一発のものから、単なる曲想のデッサンそのままという感じのものもある。土臭くラテンくさくBoogalooも多く取り入れられている。のちのCarlos Santanaに比べて、バンド内での彼自身の役割も、バンドの一ギタリストとしてのバランスが保たれていて、メンバー同士の演奏の駆け引きも対等で闊達で面白い。この三作は、彼独特の、ディストーションとハーモニックスを極端に強調した、あの「泣き」のフレーズこそ際立っていないが、その後の彼らの演奏を象徴するアイディアがすでに散見されて聞きごたえがある。
しかし彼はその状態に満足できなかったようだ。「Santana III」発表後、彼はバンドを再編成し、「The New Santana Band」と称するようになる。そのいきさつにはいろいろあった模様だが、結果的に彼は宗教色と独裁色を強めていくことになる。第4作「Caravanserai」はインド哲学に題材をとった瞑想と宇宙に関するロック的アプローチを試みており、これは当然その頃ロック界を席巻していたプログレッシブ・ロックの流れに影響されたものである。次作「Welcome」では宗教色がさらに推し進められ、音楽は宗教的境地に達した者から見える平和や安楽や天国を表現したものになる。ちょうどこのアルバムが制作された後に行われたのがこの日本公演であって、オープニングは「Welcome」のそれである。自由気ままな「The Old Santana Band」とは異なり、コンセプトの明確なプロ集団としての「The New Santana Band」は、彼の宗教色を音楽的な核として、彼の独裁が全体を引き締める、統制された場における表現の自由ではあったが、結果的に演奏能力や技術、表現の豊かさは、格段に向上することになる。それをライブという場で凝縮しえたのが、この「Lotus」であり、もうはっきりいって、どこをどう切り取っても文句なし。緻密なアレンジ、演奏のディテールの細やかさ、音の美しさ、音圧のダイナミクス・・・1970年代、まだまだ暗い世の中、日本中が、何か新しい価値観を求めてさまよっていた。どんなに苦しくても、努力すれば必ず報われるという、何の根拠もない希望を持ち得た。そこへ全く新しい世界がまばゆいばかりの光と音を放って、猛然たる迫力で迫ってきたのである。全編ハッタリとコケオドカシとド派手なパフォーマンスと陶酔したフリで埋め尽くされているが、それを「ああ本当にそうだ」と信じてやってる側と、「ああ本当にその通りだ」と思って聞いている側が、一つの空間で貴重な体験を共にしたことは間違いない。圧倒的な音圧が、実は単なる電圧の高さだけのことであったとしても、当時の日本人は、そんな音を聞いたことがなかったのである。その場に居合わせなければ体験できなかったのである。エンターテインメントとは、そういうものである。
全体としての音量バランスは、極端にCarlos Santanaのリード・ギターに集中している。ほとんどメドレー形式で矢継ぎ早に繰り出される長尺の曲を、ほぼ全編休むことなく7人のメンバーが緻密なアレンジに従って、その枠内で実に生き生きと演奏し掛け合う様子は、全く音楽の楽しさを見事に体現している。ギターとメロディを交代するキーボートセの音色の美しさ、そのストーリー・テリングの見事さ、ブリッジに入れるアクションの巧みさ、ラテンならではの雰囲気を強調するコンガやティンバレスのアレンジの見事さ、そしてなにより、音楽の屋台骨を支え、平常時はじっと縁の下でバランスを取っているだけだが、節々の決めるべきところにシャープなフィルを決めてくるドラミングの見事さ。外に向かっては熱狂を発し、ステージの中ではクールそのもの・・・音楽のアンサンブルの全てを、この作品から学んだと言っても過言ではない。ライブとして、これほど何度も聞き返したアルバムはない。オリジナルのLPは3枚組で、横尾忠則の豪華22面ジャケット、それも複雑に組み合わされたポップ・アップ・ジャケットの幾つかの場所にレコード盤が入っているという凝った造りのものだった。もちろんそんなものを買うカネはなかったので、友達に借りてカセットに録音したものを今でも持っている。
さて、この後「Santana」は、「Borboletta」という、宗教的な穏やかさを残しつつ、幾分ポップなアルバムを発表した後、天下に悪名高き「哀愁のヨーロッパ」を含むアルバム「Amigos」を発表して墜落、その頃には肝胆相照らす仲であったはずの多くのミュージシャンがその元を去り、カネだけが目的の阿諛追従の輩ばかりが残って、もはやなんの空想的無限性も音楽的意外性もない、ただドギツイだけのつまらんバンドに成り下がってしまった。思えば「Lotus」の頃が、結成当初からの情熱に裏付けられた勢いと、独裁を始めた頃のコンセプトの明確化が、うまくバランスが取れて良い結果を生み出したものと思われる。合掌。
干し柿は日向で干すものとされているが、天邪鬼な私は、半分を日陰で干してみた。結果は同じである。無理に日向で干してハエに群がられるよりも、日陰に確保しておいたほうが安全だ。
ウリやカボチャの類がそろそろ限界にきたようだ。いよいよ貯蔵がなくなってきた。
小麦を脱穀したものを玄麦という。これを製粉機にかけると小麦粉になるのだが、表面の薄皮も粉砕されて混じるので、目の細かいふるいでこれを取り除く。しかし完全に取り除くことはできず、しかも家庭用の小型製粉機では、市販の小麦粉のように細かく製粉できない。結果として、目の粗い小麦粉7割と薄皮の粉である麩3割ができる。この3割の麩の活用法について、最近はまっているのが、そのまま薄く伸ばして焼くクッキーである。
だいたい麩1合に小麦粉1割程度を混ぜ、2割程度の水で練る。粉を混ぜるのは、麩だけではどうにも繋がらないからである。水は少ないので、かなり混ぜるのに根気がいる。それをまな板にのせて、少しずつ麺棒で伸ばして限界に挑戦する。カードで割るときの筋を軽く入れておく。
180℃で表裏10分ずつ焼く。粗熱が取れたら、筋に沿って割る。
パン生地をこねて発酵させている間に上の作業は何回かできる。目の粗い小麦粉でも、なんとかこの程度には膨らむ。生地300g、酵母は去年の醤油酵母や味噌酵母の統合された、なんやようわからん半液体を薄めて粉で繋いだ種で、それを中種にして混ぜ込んで、スチロールの箱にコタツを入れて一晩寝かせるのである。私は上手いと思ってこれを毎日食っている。けっこういける。
Glen Vargas: So Much in Love (LP, W.G. International, WG 017, 1991, US)
Amiga
Siento
Esta Noche
So Much in Love
Este amor que hay que callar
Aunque tu
Never gonna let you go
1990年代にもなると、黎明期にはあれほど混沌として、ヤバくて毒気を放っていた音楽が、これほどまでに骨抜きされてしまうのかと思わせるほど、無難、というか、無防備でこっちが心配になる程あっけらかんとした、演歌よりももっと甘い甘いラテン歌謡サルサである。性感帯にじわっとくる和音やフレーズなんて、一曲に一箇所あれば足りるのに、それを繰り返すばかりか、何度もコードを変えてまで同じフレーズを持ち出し、最後にダメ押しまでつけてくる。同じ成金趣味のジャケットでも、Willie Colonとは真逆の価値観で迫ってくる。またそれが良い。ここまでやってくれるのなら、これはこれとして認めた上なら、夏の終わりのドライブのお供に、ちょっとラテンなカクテルでも試してみたくなった時のBGMに、これほど気分の盛り上がる音楽もない、ということで、これにて早くもサルサを終わりにして、Jazzへいきましょか・・・
老化のためか不摂生のためか、体の調子が万全でない。私のような蒲柳の輩は体格に余裕がないからちょっとした異変が不調につながる。ただでさえ腹が減るだけで機嫌が悪くなる。肉体と同じく精神にも神経にも全く余裕というものがないので、体調不良はダイレクトに精神状態に直結して周囲に迷惑をかける。これではいかん。穏やかにものを考えることのできる間に自分のあらゆるところをメンテしておこうと思い立ち、エロエロ・・・失礼、いろいろ紆余曲折を経て漢方に行き着いた。きになる症状を書き出して、漢方の専門医に相談したところ、煎じ薬が処方されたので、その内容と体調の変化を記録しておくことにする。
私は体の右半分が良くない。目の視力差は著しく、右目が強烈に悪い。近視と老眼が併発してしまって、遠くがぼやける上に手元の小さな字はほとんど読めない。最近、右の耳の圧力が高まっているらしく、拍動に合わせてジンジンと鳴る。ごく小さな音だが、静まり返った部屋ではちょっと気になる。粘膜が良くない。鼻づまりは右がひどい。鼻血も右が多い。虫歯も右が多い。舌癌も右だった。鼻から喉にかけてトラブルが多く、咳喘息が長引く。喉に詰まったような圧迫を感じることが多い。空気の変化、例えば湯気などで咳き込むことが多い。30年ほど前に十二指腸潰瘍をやったがピロリ除菌で完治した。しかしここ数年、その痛みの前兆のような違和感が続いている。胃腸と内分泌の臓器のいずれかが良くないのか、火照ったような痛みを左の肩甲骨の内側に感じる。筋肉痛とは種類が異なるような気がする。フィジカルな痛み関係では、子供の頃から全身の骨を鳴らして喜んでいたのがいけなかったのであろう、すべての関節を自分で外すことができる。しかしそのために頸椎の下半分の痛みが取れず、腕がしびれることもある。
花粉症の症状はほとんどない。食物アレルギーもない。毎日楽しくおいしく食事をして排便も好調である。たまには好調すぎることもあるが、許容範囲であろう。体力は強くない。むしろ弱いので絶対無理しない、というか出来ないから大きな故障をしない。肉体労働の連続にもかかわらず腰痛はない。メタボ検診の結果は異常なく、むしろ問診で医者に「もっと油とか塩分とか糖分を摂った方が良い」といわれる。170cmx56kgという体格は14歳の頃から全く変わらない。体脂肪率8.8%という数字を見て当初、私は「高級アイスクリームぐらいドロドロなのか」と嘆いたが、イチロー並みの筋肉質と聞いて驚いた。百姓を始める前から見てくれている整体師の先生は、「どんどんアスリートの体に近くなってきている」と言う。精神的なストレスは、ないとはいえないが、あまり気にしていない。というか、ストレスに弱い自分を知っているので、ストレスに身をさらさない生き方を選んできた。それが現在といえる。総じて、上に記したような漠然とした不調以外、数値にも所見にも、何の不調の兆しもない。ただ、この好調は規則正しい生活を送っているから維持できているのであって、それが何かの要因で崩れたとき、たとえば朝食を採れないほど早朝から行動しなければならないときなど、周囲が驚くほど動きが悪くなる。つまり万事、余裕がないのである。それが老いとともにますます顕著になるのではないかと心配する。まあ贅沢な悩みかもしれんが・・・
という話を医者にした上で、舌を見せ、腹部の触診をしてもらった上で、幾つかの質問に答えた結果、処方されたのが以下の薬である。これは特に所望して、エキスではなく煎じ薬で出してもらった。のみはじめて一週間程度経つ。量目はいずれも1日分である。
トウキ 3g
シャクヤク 3g
ビャクジュツ 3g
ブクリョウ 3g
チンピ 3g
チモ 3g
コウブシ 3g
ジコッピ 3g
バクモンドウ 3g
バイモ 3g
ハッカ 1g
サイコ 3g
カンゾウ 1g
キキョウ 3g
のみはじめた当初、喉に圧迫感が出たが数日で解消した。胃腸の違和感は軽減された。ただ、排便が少し硬くなった。
Tito Valentin Y El Grupo Aji Bravo: Tierra Musica Y Sentimiento (LP, Nuestra Records, LP105, 1979, US)
En Mi Tierra
Jibaro
Anhelante
Pepe Juan
Voy A Cantar
No Me Toques, Sara
Fiesta En Naranjito
Cosas Del Campo
もっぱつJibaro系いきましょか、Batacumbeleと同じ頃ニューヨーク・サルサの本流から離れてプエルト・リコの伝統音楽の中に身を沈めていた時に出会ったレコードである。なんとも物悲しいメロディとハーモニー、不器用なまでに牧歌的な情感がなんとも知れぬ良い味を醸し出していて、言葉でなんと説明したら良いのか、名作名演という話も聞かないし、他にアルバム数枚出してるだけなのだが、それらは普通のサルサだし、このアルバムだけがなんとも形容しがたい「なにか」を秘めていて、常に愛聴盤の箱に入っていたので震災を生き延びたのです。Jibaro・Guajira・Plenaという、非ルンバ系でほとんどナイジェリアはヨルバからカリブ海に伝播した音楽スタイルの良い歌を聴くことができます。まったく隠れた名作。
Batacumbele: Con Un Poco de Songo (LP, Tierrazo Records, TLP 008, 1981, Puerto Rico)
Se Le Ve (Cumbele)
La Jibarita (Jibaro Funk)
A La I Olé (Songo)
Yerbabuena (Cumbele)
La Piyé (Batacumba)
Danzaón Don Vázquez (Danzaón)
Batacumbele (Batacumbele)
地味な色調、ナイジェリア起源の両面太鼓バタ・ドラムをあしらった地味なジャケット、裏を返すとナットで締めるモダン・タイプではなく、ロープで締めるナイジェリア・スタイルのバタを膝に乗せたうちのひつりの顔つきが日系と思わせる、まんなかの一人のかぶった帽子の上にオウムがとまっている、視覚的なイメージからして音楽の内容を想像すると、ナイジェリアからキューバに伝わったアフリカ起源の伝統的な宗教音楽を基にした、素朴なフォルクロールの一種かと思いきや、その予想は完全に裏切られる。冒頭に現れる曲は、イントロこそ打楽器とコーラスを中心にしたシンプルなものだが、ブレイクからの展開で世界が一変する。極めてモダンで、転調の多い、ベースが柔軟に曲調を操り、フルートが舞いピアノが踊る、スピード感あふれるSongoの世界。めまぐるしく展開する楽章のブリッジにキメとして効果的に使われるバタ・ドラム、アディショナルで現れるドラム・セットのリズムもバタのそれを踏襲して、やがて気がつくと分厚いグルーヴに巻き込まれている。全編、これ変化とスピード、意外性と迫力の連続、隠れた名作です。
上のリストで曲名の次はリズム名、四国の半分ほどの小さな島に、数え切れないほどの音楽スタイル、プエルト・リコは音楽の宝庫である。Batacumbeleは大まかに「Songo」とくくれば良いとは思うのだが、そんな枠のことはこの際どうでも良い。バタのリズムからサルサの新しい展開に寄与してできた「Songo」という新しい感覚のリズムは、その後のサルサの味わいにまたひとつキレと核と、絶妙なタイミングで入る重みをもたらした。ニューヨークという最先端にありながら、常にプエルト・リコとの間でセッションが繰り返されてきたおかげで、その伝統が洗練のなかで新風を吹き込む結果となった。Bata・Cumbele・Jivaro・Songo・Plena・・・これらはニューヨークという最先端の都会にあってはなんとも田舎くさいものなのに、それが有能なミュージシャンの手で料理されると、なんというノリだろう、このまま天国へ昇っていけそうだ。
https://www.youtube.com/watch?v=E-_YwWwdDSQ
Rubén Blades: Diblo Filo (LP, Fania Records, JM 645, 1987, US)
No Hay Chance
Mi Jibarita
Sin Fe
Privilegio
Chana
El Cantante
Duele
Rubén Bladesのディスコグラフィを概観すると、1977年にWilly Colónとの共作「Metiendo Mano ! (LP, Fania Records, SLP 00500, 1977, US) 」でデビューし、翌年にやはりWilly Colónとの共作にして最高傑作「Siembra (LP, Fania Records, JM 00537, 1978, US) 」を発表、1980年の「Maestra Vida」二部作の発表の後、少々燃え尽き感の漂うアルバムを数枚出した後、1984年にそれまで在籍したFania RecordsからElektraへ移籍する。それに従うかのように「公式な ?? 」ディスコグラフィもElektraから発売されたもので構成されるようになり、それ以降Seis del Solar、Son del Solarという彼の理想を追求したグループを率いて大作を連発していくのことになる。しかし、その作品はすでにサルサの域を越えて世界を見据えたものになって、もちろんそれはそれで素晴らしいのだが、心の中では、私は場末の酒場で酔っ払ったしわがれ声でクダを巻く、万巻の書を読み尽くした穏やかな微笑みをたたえたインテリヤクザまがいの彼のサルサが好きなのである。1987年、Faniaに残った最後の約束を果たすようにして発表されたこのアルバムは、移籍後の陰に隠れて殆ど知られておらず、裏ジャケットには曲名の記載だけでミュージシャンの記載もなく、演奏も録音状態も、いささかぞんざいな感じは否めない。1987年といえば、もうサルサは体質が変わってしまって10年前のハングリー精神を失ってしまっていた。それを彼がどう見ていたのかはうかがい知れないが、少なくとも当時、Faniaの名歌手Héctor LaVoeがドラッグに溺れ、それでも歌手とした再起しようともがいていた頃、はからずも10年前にHéctorに提供した名曲”El Cantante”を、自演であらためて取り上げているのは意味するところがあるのだろう。おそらくは長い間に書き溜められ、温められてきた曲を集めたかのような、珠玉の歌ものサルサ短編集、普段着のRubén Bladesが堪能できる愛聴盤である。ニューヨークに出てきた頃にはFania Recordsの郵便物仕分けのアルバイト、書き溜めた曲が認められたことからミュージシャン、そして俳優という華やかな人生に漕ぎ出し、今や彼は故国パナマの国務大臣、彼所縁の多くのミュージシャンが早死にしていくなかにあって、まったく不思議な人物である。私は彼の声をこよなく愛する。あのダレっとしたしわがれ声で、さらりとゴージャスなサルサを、また歌ってほしいものである。
Willie Colón Canta Héctor Lavoe: Crime Pays (LP, compilation, Fania, SLP 00406, 1972, US)
Che Che Cole
El Malo
Guisando
Jazzy
Juana Peña
Guajiron
El Titan
Que Lio
Eso Se Baila Asi
サルサ界でAngel Canales、Rubén Bladesに次いで好きな歌手がHéctor LaVoe (1946-1993) である。この人の魅力を一言で言うならば、「色気」・・・これに尽きる。張りのある高美声、独特の節回し、ダーティーなオーラ、繊細な美貌などが醸し出す全体の、中性的な、破天荒な、耽美的な、そして壊れやすい雰囲気、これぞまさに「サルサ」の美学を地でいく歌手、1970年台前半には押しも押されもせぬサルサ界のスーパー・スターに躍り出て、持って生まれた才能と勢いある素質、それにFania Allstarsという鉄壁のバック・アップに恵まれて、これでもかこれでもかと連発される名曲名演、頂点に上り詰めた頃にはその繊細な魂を維持するために手を出してしまったドラッグで心身ともにボロボロ、カリブの小さな島から打ち上げられた美しき花火はなすすべもなく散っていくのである。注射器の使い回しによるHIVで、46歳の若さで亡くなった。
私見だが彼の活動歴は、ほぼ三つの時期に分けられると思う。彼はPuerto Rico生まれで現地の音楽学校を卒業し、地元のグループで歌いはじめたのだが、ニューヨークにやってきたのは17歳である。そして早くも1965年にはLa Orquesta New Yorkerの歌手として録音を残している。その歌声にはまだ少年っぽさが残り、Jackson Five時代のMichael Jacksonを彷彿とさせる。第1期は、ニューヨークに来て(1963?) から Willie Colónのオルケスタの歌手を勤めた (1967-1974) 時期である。Fania Recordsに属していたため、Fania Allstarsの歌手としても活躍している。したがって、ディスコグラフィを追うには、これらの名義のアルバムの中から彼の名を見出さなければならない。サルサという音楽は、実に大雑把にいえば、キューバの「Son」がアメリカで様々な音楽とフュージョンしていって練り上がったものである。したがって、ひとことで「サルサ」とはいうけれども、そのなかにはキューバ・アフリカ・ジャズ・ソウル・ロック・南米各国の黒人またはインディオ、さらにはヨーロッパのクラシック音楽や、たどればインドからイベリア半島に及ぶジプシーの音楽など、実に多様な音楽的要素を秘めている。曲によって様々な演奏表現が試みられており、器楽合奏を中心としたバラエティに富んだ音楽形式の上に、歌が乗るかたちをとってきた。特に1970年代のサルサは、デスカルガという果てしない即興演奏の積み重ねによって、これら様々な血の流れる民俗音楽の混血を醸成してきたのであり、それはまさにその場で組み上がっては消えていく一瞬の火花であって、その上に乗る歌も、もちろん録音に残す場合には整理されアレンジされて整えられるのだが、ライブでは果てしない間奏が即興的に展開されることが多い。合奏だけでなく、歌も掛け合いやソロ回し、日本でいう音頭に似た言葉の葛織が聞かれる。その即興の有り様は、ときにジャズ的であったりロック的であったり、これもまた様々であった。そのような、どんな枠にも収まりきらない可塑体としての音楽がサルサの醍醐味であり、高い音の通る彼の歌は、その激しくも儚い不安に満ちた声質とあいまって、まさにサルサを性感帯で感じることのできる絶好の特質を持っていたと思う。その好例として、1974年のキンシャサにおけるFania Allstars、Héctor LaVoeがボーカルをとった”Mi Gente”を見てみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=QBuueYkmYVI
この、歌とバッキングの動的な融合がサルサの魅力である。彼の場合、この第1期の時代にそれは十分に発揮されたと言えるだろう。その時代の彼の録音はすべて彼の名義ではないのだが、その時期の良い歌を集めたものが上のコンピレイションLP「Crime Pays」である。実はこれを買ったときは何も資料がなかったので、これがベスト盤とは知らなかったのだが、ジャケットから醸し出されるどうしようもなく下品な成金趣味に惹かれてしまったのである。収録されている曲も1970年代のニューヨークのアンダーグラウンドな雰囲気 (もちろん体験はない) に満ちて、そのダークな味わいに虜になり、その後彼らの作品を手当たり次第に聞いて行った覚えがある。この時期の演唱は、どれをとっても素晴らしい。Willie ColónとHéctor Lavoeのコンビによる作品は、その他の中南米音楽のレコードとともに幾つかのダンボールに入っていたのだが、残念なことに1995年の阪神淡路大震災で帰らぬものとなった。Héctor Lavoeの作品は、わずか数枚が手元に残る。ではこの時期で最も好きな曲、そのダーテイーな危うさと陰鬱さを秘めた “Que Lio” を紹介しよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IW3L3YW4rW8
第2期は、Willie Colónのバンド歌手という立場から独立してソロ活動に入り、HIVに倒れるまで (1975-1981) の時期で、独立したとはいうもののWillie Colónと袂を分かったのではなく、互いの音楽性を尊重した結果、活動のやり方を整理した様子であって、その後もWillie Colónはプロデューサーとして彼のほとんどすべての作品に関り、1983年には共作「Vigilante」を残している。ちなみにWillie Colónは、1978年のRubén Bladesデビュー以降は、彼とコンビを組んだ作品を多く残し、その関係は彼がElektraに移籍する1984年まで続いた。Héctor LaVoeのこの時期は、歌手としての彼の魅力が最大限に発揮される時期である。バッキングの演奏は、器楽合奏の醍醐味を追求した以前の姿から形を変えて、あくまでもボーカルを立てるための伴奏に徹している。従って収録されている曲はボレーロが多い。それでもやはりサルサはサルサである。いたるところにダンサブルな即興が飛び出して、ラテン的な明るさと、陰影のあるラティーノの血のコンプレックスが、たまらない情感を醸し出している。上の事情によりいずれも手元にないのであるが、La Voz・De Ti Depende・Comedia・Recordando a Felipe Pirelaの4作品は、彼の魅力が凝縮された、まるでアラブのケーキのように、砂糖粒が生クリームからはみ出すほどのこってりとした甘い甘いボレーロの世界が堪能できる。ものすごい集中力、鬼気迫る歌唱力、それでいて演歌に堕することのないサルサの気品・・・たまりません。しかしレコードであれCDであれ、流通しているものすべて中古品で希少価値がつき、盤としての常識的な価格をはるかに超えてしまって手の届かないものになっている。あくまで私見だが、この時期を代表する、Rubén Bladesの名曲 “El Cantante” 。
https://www.youtube.com/watch?v=BNo0vkEYWRc
第3期は、病から復活して活動を再開するも夢叶わず、ふたたび倒れてしまう時期(1985-1993) である。もはや時代は彼を必要としなくなっており、それでも歌うしかない、自分は歌手だと心に言い聞かせ、虚勢を張って声をはりあげるも体力がなくなっているので、持ち前の高音が伸びず、その高音を活かすためにあるメロディを変えてごまかしてしまうそのうしろめたさ、それでもやはり歌う、マイクにしがみつくように歌う。なんというか切ないまでの執念が伝わって来る。たしかに彼の歌ではあるが、全盛期をほぼ遅れずに追体験してきた私の耳には、あまりにも痛々しくて聞いていられない。
彼の人生は、「El Cantante (邦題: 情熱のサルサ) 」として2006年、Mark AnthonyとJenifer Lopezの主演によって映画化された。たしか翌年に日本にも回ってきたので、私も見に行った。当時は日本でサルサ・ブームが起きていた。しかしその頃すでにサルサの主流は、とっくに演歌歌謡の量産で息をつなぐ状態だった。映画では、彼の美貌、ステージのフリ、所作などがよく表現されている。ただ声がね、それはしゃーないね。Willie Colón・Johnny Pacheco・Ray Baretto・Jerry MasucciなどFaniaの重要人物のそっくりさんが面白い。特に、タイトルである”El Cantante”を持ち歌として披露するRuben Blades役のVíctor Manuelle・・・それを見てHéctorが失意から立ち直る・・・ええとこ持って行きまっせこのスケベにいちゃん。涙が出ましたね私、単細胞なので。Yomo Toroよう似てるなと思たらご本人やったりね。まあ、サルサの、ニューヨークのプエルト・リコ人たちの集まったところの匂い、ヤバい雰囲気がビンビン伝わって来る映画ですので、ぜひ見てください。
気を取り直して、とりあえず真空管を購入した先へ、恥を忍んで訊いてみた。なにしろこっちはシロウトなんだから。幸いにして、バイアスの過電圧程度では、ヒューズは飛ぶものの、回路も真空管も破損することはほとんどないが、ねんのため真空管を全部外してから、電源を入れてみて、何か変な匂い、音がするかしないかを見る。修理記録と回路図を出してきて、電源側から順に所定の電圧が出ているかをチェクする。トランスが逝かれているか、逝かれていないかは、2次側が所定の電圧に近いかどうかで判断。B電圧は高いし、電流値も大きいので、感電しないように充分に注意、悪くすりゃ一発であの世行き、まあ間違っても天国には行かんやろけどな、真空管が刺さっていないぶん高めに出るから衝撃も強烈やろ。次に、入力管というか、電圧増幅管だけを差してみて、点灯するか、また所定の電圧であるかを見る。匂い、音も要チェック。それから、出力管を差してみて、点灯するか否か。少し時間をかけると赤熱するようであれば、過電圧がかかっているのかも。命をすり減らす思いで、ほぼ1日がかりで全回路のチェックは終えた。とりあえず現状では大丈夫そうや。
で、あらためてバイアス調整ボリュームを右に回しきってから、例の部分の測定を始めた。バイアスを最大にかけた状態では、プレート電流検出用の抵抗器の両端には電圧はほとんど現れない。徐々に左に回していくと、わずかずつ電圧が測定されたが、約45°あたりの狭い範囲で0.1V〜1Vへと急上昇する。0.5Vに合わせるのが非常に難しい。また、時間が経つと値も変わるので、さらに難しくなる。なんとか適正なポイントを見つけ出して暫定的に良しとし、入力をつないで音を出してみた。いや実に素晴らしい音であった。先のロシア製の真空管とは比べ物にならない。とりあえず音が出たことを報告し、各部の電圧確認の結果も良しとした。破損に至らないダメージはあり得る、それが徐々に広がる可能性を否定できない。いつ飛ぶかとひやひやしながら音楽を聴く状態は変わらない、やっぱりやめときゃよかった・・・
結論としては、真空管アンプの基礎を学ぶしかない。それは大変困難なことであろうが、別に全てのアンプを修理できるようになるのではない。このアンプをメンテできれば良いのである。何も知らないでは済まされない。右か左かの間違いに、「そんなこともわからないのですか」と言われるのを恐れ、真空管のフィラメントの明るさにばらつきがあるというと、「そんなもんです」と言われて唖然とし、「各部の電圧は、だいたい一割くらい多めに出るものです。大雑把なものです」と言われながらその気でいたら、0.5Vの調整が指の震えで大きくブレるほど繊細なものと知る。その脇を流れる400Vの高圧を針先でショートさせればあの世行き、調整用ボリュームの可動範囲だと思ってタカをくくっていると、最大値ではパーツを破損させることもありうる、という設計になっている・・・もう、なにがなんだかわからない。これではいかんのだ。落ち着いて取り組むしかない。
とりあえず今回の経験での教訓、右か左かわからない場合は、真空管を全て外し、そのボリュームのアース側と真ん中から出ている端子との間を測って、どちらへ回せば電圧が上がるか下がるかを確認する事である。というのは、可変抵抗器というものにはX・Y・Zの3本の端子があって、X-Z間は固定抵抗で、その中間をYが移動する事により、X-Y間とY-Z間の抵抗値が変えられる。これを通常、X(入力側)・Y(出力側)・Z(アース) とする事によって、Y点がZ点に最も近い位置でX-Y間の抵抗値最大、X点に最も近い位置で抵抗値最小になる。これを通常のプラス電源では、左から右に回す事によって、すなわちYがZからY点がZ点に最も近い位置からX点に最も近い位置へ移動する事によって、電圧が最小から最大へ変化するように作られている。例えば音量調整ならば、右に回すと音が大きくなる。従って同じ配線にマイナス電圧をかけた場合、抵抗値が大きければ大きいほど、つまり左に回せば回すほど、マイナス電圧が抑えられる、つまり電圧は高くなる。逆に右に回せば抵抗値は低くなるので、マイナス電圧が最大限かかり、相対的に電圧は低くなる。バイアス調整は、プレート電流をどこまで流すのが適切かを制御するものであるから、右に回しきって左へ戻しながら電圧を測るのが正しい。ただし、配線が逆になっていれば操作も逆になる。だから真空管を外して、バイアス調整用のボリュームのアース側と真ん中から出ている端子との間を測って、どちらへ回せば電圧が上がるか下がるかを確認するのである。Q-3535の場合、右へ回しきった状態で-70V前後であった。
これは三年前に仕込んだ薬念醤で一昨年収穫した白菜を漬け込んだキムチの古漬けである。強烈なので人に食べてもらったことはないのだが、友達が来たときに出してみたら「うまい」というので、おそるおそる出荷してみた。完全に食品衛生法違反なので絶対誰にも言うたらいかんよ。
大根にそろそろスが入りはじめるので、野放図に育ったやつは収穫して売るなり食うなり漬けるなりするのである。
白菜も結球しなかったやつは千切り収穫していくのだが、もう彼らは春なので真ん中に花芽ができている。暖かい日があるとこれが成長して芯が硬くなり、葉が落ちていくので、こいつらも食うなり漬けるなりする、売れんので。
毎年恒例のキムチの漬け込みである。鶴橋の専門店で習った古漬けの方法である。立派な白菜は大抵カネにかえてしまうので、私が食うなり漬けるなりするのは、あんまり良い葉っぱではない。しかしキムチにすれば大変美味い。葉をちぎって、その重量の約15%の塩を用意する。葉はよく洗った方が良い。塩を擦り込むのだが、なるべく均等に分けて、芯から擦り込んで葉を重ねていった方が良い。これが重要。
甕なり壺なりガラス瓶なりに入れて重石をする。これで約2kgである。1日も経てば嵩は1/4位になる。市販の大きな白菜は、実は大抵水ぶくれであって、塩漬けするともっと小さくなる。
さらにもう2kg塩漬けにする。
こいつらを統合して瓶に入れてさらに重石をする。
だいたい三日ほど塩漬けにするとたっぷり水が上がるので、その塩水は取っておいて料理に使う。白菜の方は数時間塩抜きをする。
塩抜きをしたら必ず重石をして、できるだけ水分を切る。これが重要。
薬念醤を用意する。これは1年前に仕込んだものである。なければ鶴橋や韓国食材の専門店で買えば良い。「ヤンニャムジャン」あるいは「ヤンニャム」という。油粘土のように非常に硬い。
大根や人参、ニラなど、好きな副材料を入れて薬念醤を細かく千切っては混ぜ、白菜とともによく揉み込んでいく。韓国のお母さんは、よく「指から味が出るのよ」というが、それほど良く揉み込まないと、硬い薬念醤はうまくほぐれてくれない。これをサボって塩水でふやかそうとすると失敗する。少なくとも古漬けにならない。一気にやらず、少しずつ確実に、材料の水分だけでふやかしていくことである。ほどよく練りこまれたら、全体を大きく混ぜて甕なり壺なりガラス瓶なりに入れて重石をする。蓋は密閉してはならない。これが重要。
なぜなら、これから醗酵しはじめるからである。ガラスの貯蔵便の場合は、口にラップをして、蓋を軽く締める程度にする。様子を見て一ヶ月後くらいから数回天地返しをして、ダマになった薬念醤があればほぐして混ぜる。三ヶ月後くらいから美味しくなるが、春以降は冷蔵庫に入れて1年後に開けるのが良い。古漬けである。近日中に来年用の薬念醤を仕込むので、やってみたい人は連絡ちょうだい。
暑い !! 春一番はまるで風炎現象、逆六甲おろしは暑い !! で、Apple Careの電話サポートに長時間待たされてようやく繋がったのだが、まあなんというか、技術者との対話は、なんでこう要領が得られないのか、まあ私のコチコチの文系アタマが最新技術を理解できひんのはしゃあないとして、「空のフォルダをバックアップし続けておられます」「いやそんなことはない、事実中身を見て整理してきたんやから」議論は平行線を辿り続け、これ以上水を掛け合っても時間の無駄と悟らざるをえず泣き寝入りや。真空管アンプといいパソコンといい、いくら生活の質を向上させてくれるとはいえ、モノに頼ってはいかんよね。
というわけで気を取り直し、昨夜からの大雨を利用して苗代の冬季湛水を完成させた。一番上の写真がビフォア、土が乾いているうちに表層を剥いで中を耕して均一に均して雨を待つ。雨は均等に水をまいてくれるのでありがたい。しかも強烈にまとまった雨だったので、これを長靴で練り込んではバラかし、それを繰り返してさらに水を足す。あとは全体を代掻きすれば、小さな田んぼの出来上がり。・・・と考えれば、誰にでもできることなんよね、百姓はやたら能書き垂れよるけど。
「処分します」と宣言しておきながら、やっぱりコレ見てるとつい愛着が湧いてきて、最後に一度だけ、自分で修理してみようと思い立った。物を大切にするのは確かに良いことなのだが、それには当然カネがかかる。ほぼ無職風情で所持金の底がくっきり見えているというのに、またしても万単位の散財、本当に悪い癖だと思う。もちろん家電量販店で新品のアンプも物色した。アナログ音源が綺麗に再生できないものは問題外。録音済みのテープと小型カセットデッキに、RCAラインケーブルを持ち込んで、サンプル機のLine Inに接続して音を聞く。しかし手の出る常識的な価格のものは、もう全然お話にならない音だ。結局、大阪へ出たついでに日本橋の試聴室付きの専門店でも話し合ったのだが、やはり数十万規模の出費でないと、アナログ音源のまともな再生は望めないという結論に達した。もちろん数十年前なら話は違う。しかし数十年前の機材は、ほとんどケミカルがヤラれているので修理前提となる。という堂々巡りで、結局コイツを修理するのがもっとも安上がりで、最も贅沢な選択肢だという助言を得て、意を決して新品の真空管を購入した。
今回の故障は原因が出力管に特定されているので、要するにこれを交換すれば良いのだが、真空管アンプの場合、「バイアス調整」という作業を要し、これに専門知識が必要なのである。単に差し替えるだけでは良い状態を保てない。真空管アンプの調整は、アウトプットを接続して負荷を規定通りにかけた状態で行う。配線はシャーシの裏側、バイアス調整用の可変抵抗器は表にあるので、重い電源トランスを下にして、本体側面を立てる。ハンダ仕事でなくテスターだけの作業なので負担は軽い。とはいうものの、刺し違えれば800Vという高電圧に感電する可能性がある。800Vといえば電車を走らせるような電圧であり、一歩間違えばこの屋敷が全焼、あるいは私自身が全焼する可能性も排除できない。良い音を聴くのは、本当に命がけだ。
回路図と、抵抗器のカラーコードと首っ引゜きで配線を確認する。幾つか変更箇所もあるので細心の注意を要する。読み慣れてくると、案外スラスラと解けていくものだ。
このアンプに使われている出力菅は6CA7といい、現行ではEL34などが代替品となる。今回購入した真空管はスロバキア製JJ社のE34Lである。動作環境を整えるために、特性の揃った4本を丸ごと交換する。テクニカル・ディテイルはあまりよく理解できていないが、要するにバイアス調整とは、真空管のグリッドにかかる電圧を調整して、プレートからカソードへ流れる電流を制御することである。従って、その電流値が適正か、いくらなら適正なのかを知っておく必要がある。これは専門家に訊かなければわからない。なぜそうなるのかは今後の課題として、今はプレート電流を50mAに調整することとする。しかし電流を測ることは、その区間の配線を外して直接テスターを入れなければならないので現実的ではない。そこで、前回の修理時に、その区間に電流測定用の抵抗が挿入されており、その両端の電圧を測って抵抗値で割れば、オームの法則によりその区間を流れる電流の値が求められるということになる。回路図上では理解した。
では実際の配線でどことどこの間を測るのかを示したのが上の写真である。真空管E34Lのピン番号で1 (アース) と8 (カソード) の間を測る。このアンプは、5極管である6CA7を三極管として使用する接続になっているので、カソードと第三グリッドを接続してある。そこに抵抗を割り込ませてあって、その両端を測っていることになる。適正電流が50mAだから、逆算してその10倍、500mV=0.5Vになるように、バイアス調整用ボリュームを回せば良い。そこまでは理解した。
で、その時のバイアス電圧を計測して確認しておくのである。バイアスはマイナス電圧で、いわゆるC電源を整流して、+/-を逆にして第一グリッドに送り込まれている。それが写真で指している左の先、すなわちピン番号でいうと5番になる。そこと1番のアースの間を測れば良い。テスターの+/-も逆にする。ちなみに右隣の6番にも配線があるが、6CA7 (EL34) の6番は空きなので、ソケットのピンをラグ端子代わりに使っているのである。で、1と5の電圧はだいたい-40V程度であるという。これも専門家に聞いた話。よし、どこをどうすればよいかは、だいたいわかった。
さて、真空管を挿して電源を入れようとして手が止まった。バイアス・ボリュームはどうするのか ?? ボリュームをどちらかに回しきった上で、徐々に戻して電圧を測定するはずである。右に回し切るのか、左か ?? それを調べはじめて、さまざまに錯綜する相矛盾する情報に戸惑ってしまった。幾つかの信頼できそうな情報源での表現は微妙である。「回し切る」とは書いてあるものの、右に回し切るのか、左に回し切るのかが書いてないのだ。バイアスはマイナス電圧であるから、ボリュームを右に回すとマイナス値が増え、電圧が下がるはずである。だから右に回し切ると思っていた。通常の音量調整とは逆である。しかし別の情報では、「バイアスをかける」というように、マイナス電圧をかけて真空管を効率よく作動させるということなので、バイアスをかけるということは、動作を促進させる方向に働き、調整はその逆で、動作を抑制する方向から徐々に上げていかなければならないとある。いくつかの情報では「左に回し切る」との表現があった。「バイアスを抑える」という表現もあった。「バイアスが深い」とか「浅い」という表現もあった。私は判断に迷ってしまった。そしてさらに調べた上で、やはりバイアスをかけない状態から徐々にかける電圧を調整するという表現を見て、どうせ調整なんだから全体としては微々たるもんだろうくらいに考えて、左に回し切った。
電源スイッチを入れた数秒後に、「ボン」と音がしてヒューズが飛んだ。やっちまったのである。なぜ専門家に三たび訊ねなかったのであろうかと、つくづく後悔する。「そんなこともわからんのか」と言われそうで怖かったのだ。訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥。大枚の散財を、たった数秒で灰にしてしまったのだろうか。とにかくヒューズが飛んだということは、どこかに過電流が流れた結果であって、どこに流れたか、パーツの破損はないかを特定しなければならない。注意一秒、怪我一生。素直に4万円払っときゃ問題なく済んだものを、カネをケチったばっかりに、これを修理してさらに交換と調整にそれ以上のカネがかかる。安物買いの銭失い。
やれやれ全く、弱り目に祟り目、なにもかもがこのように自分に刃向かってくると、思わず武器をとって反撃に転じたくなる。しかし衝動に任せて行動すれば、必ず傷口が広がる。これは致し方のないことだ。ぐっと耐えて頭を冷やし、落ち着いてどうすれば良いのかを思い巡らし、原因を落としこんで最悪の事態に備える。あるいは昼寝したり、散歩に出るのも良い。子供の頃からそうして生きてきたじゃないか、気にするないつものことだ、そんなこんなのone of themだ。必ず打開できる。と、自分に言い聞かせて寝る。
過去のデータのオリジナルは、もはや復元できない事が判明した。そりゃそうだわ。完全に整理し終えた後でバックアップをとって、作業で酷使したディスクを丸一日かけて完全かつ安全に消去したんやから。これでデータが復元できたらむしろセキュリティ問題や。しかしそのバックアップ・フォルダが全部からっぽとはどういう症状なんや ?? 今日は祝日でおやすみやし明日きいてみよ。過去のデータは、とりあえずホームページやブログの記事などでウェブサイトに上げてあるやつをアーカイブ保存する形で落とし込んだ。もうこれでええわ、もちろんオリジナルは、完成した時点で全てCDに焼いてあるから、いざとなればそこから復元できる。膨大な原稿になった「地震をめぐる空想」や、旅行記「ザイール・ヤ・バココ」のオリジナル・バージョンと全ての改訂版、ホームページ本体にアップするつもりで書き溜めてきた写真や楽器についての原稿の全て、それに去年までの全ての写真、その中には当然全ての旅行での写真や。そのディスクだけでも100枚近くあるし、時系列のままやから分類されてない。なかにはMOやフロッピーのままのもある。こんなもんもっぺん整理し直すなんて、毎日朝から晩までやったとしても数ヶ月はかかるで。だいいち外付けのディクドライブがもう動かへん。もうええやろ、これはきっと過去にとらわれず前を向いて進めという神様の思し召しや。
幸い思し召しにふさわしく今日は絶好の農作業ことはじめ日和や。冬枯れの田畑を記録して春からの方針を立てよ。一番はじめの写真は、今年はここに苗代をする場所や。備中鍬でちょいちょいと耕して周囲に仮畔作って、土壌消毒と雑草の種を葬るために冬季湛水や。ちょいちょいと小一時間で片付けたった。冬眠中で体ナマッとるわりにはちょろいもんや。その次は冬越し中のパン用小麦・・・たぶん「ユメシホウ」やったと思う。もう忘れた。最近あかんな、30年前のことは克明に覚えてるのに、ついこないだのことが全然思い出されへん。
ほいで次は隣接する畑部分やがほとんど食いつくして育ち遅れた野菜が黄色なっとる。でもまあ集めたら食える。それもなくなった頃には畦や土手に春の雑草が芽生えてくるからそれ食うといたらええ。
次はわかりにくいやろけど不冬越し中のタマネギや。
次は小麦のこぼれ種発芽に囲まれてるがニンニクや。春になったら小麦と競合するさかい小麦は撲滅せなあかん。
こっちは東畑や。完全に食い尽くしたった。軽く除草して今シーズンは計画休耕や。
それに隣接する田んぼ部分や。約160cm田植え枠一枚分の畝幅の両端で冬越し中のソラマメとウスイエンドウ、真ん中に二列にパン用小麦の「ミナミナノカオリ」と「ユキチカラ」、この部分も春から計画休耕や。
隣接するこの2畝は仮畦切ってfarminhosのヒット商品「三色モチ米Mix」用の田んぼ、その下は「サリー・クイーン」用の田んぼ。まあ要するに今シーズンは、約2/3に減反や。フルに1反5畝はもうしんどいし、遊ばれへん。ちょっと軸足を現金収入の確保と音楽活動に充てたい。まあそーゆー微調整が出来るのんも百姓ならではやな。感謝せなあかん。過去のデータはもうええわ。
Ruben Blades: Crossover Dreams (LP, Elektra, 9 640470-1-E, 1986, US)
Elegua
Good For Baby
Rudy's Theme (Chase)
Todos Vuelven (Apt.)
Todos Vuelven
Liz's Theme
Goodby El Barrio
Llora Timbero
Sin Fe
Ecue-Yambo-O
Ban-Con-Tim
Otro Dia Otro Amor
El Down
Todos Vuelven (Rooftop)
Reprise
Rudy's Theme (Credits)
1985年に公開された同名の映画のサウンド・トラック編集盤である。日本に回ってきた時に映画を見に行って買ったレコード。ストーリーは若くて夢のあるラティノ・アメリカンの歌手が、ニューヨークの音楽シーンの中で、ラティーノに対する様々な圧力に耐えながら、自身のルーツを疑い、探し求め、新しい音楽スタイルを確立していくというもので、Ruban Bladesの半生や信条と重なる部分もある。しかし作品を通じて特筆すべきは音楽の内容であって、物語の中で、主人公を演じるRuben Bladesが自身の音楽的ルーツを探し求める過程で出会うVirgilio Martiとその音楽が大きく取り上げられていることに尽きると思う。
Virgilio Martiは、1919年CubaのHavanaに生まれ、1995年にNew Yorkで亡くなった歌手、パーカッショニスト、作曲家である。作品は多くない。このレビューのキューバ音楽のコーナーで紹介した「Grupo Folklorico」の代表曲”Cuba Linda”の作曲者として有名、リーダー・アルバムは「Saludando A Los Rumberos (LP, Caiman Records, CLP 9006, 1984, US)」と、ほかにPatatoとの共作「Patato & Totico (LP, Verve Records, V6-5037, 1967, US)」があるが、これはアルバムタイトルにクレジットされていない。いずれもコンガの深い音色を中心に、打楽器とシンプルな弦楽器の上にコーラスを絡めた彼の美声が乗る、典型的なRumbaのスタイルで演奏される作品で、形式はSonやGuaguancoが中心である。
この作品”Crossover Dreams”では、ヴォーカルのほとんどをVirgilio Martiが担当し、あたかも彼の作品のようであるが、アルバム・タイトルに見えないので、なんだかかわいそうである。特筆すべきは”Todos Vuelven”という曲であり、私がこのアルバムをお勧めするのは、まさにこの一曲に尽きる。どこにも書かれていないがこの曲がこの作品のテーマ曲である。
”Todos Vuelven”は、もともとValse Peruano、ペルーの都市部に起こった黒人奴隷たちによる三拍子のワルツで、張り詰めた音色のギターを掻き鳴らし、乾いた音色のカホン (cajon) で伴奏する、緊張感あふれる歌ものの名曲である。カホンは、すっかり日本でもおなじみになったが、もともとは太鼓の皮を取り上げられた打楽器奏者が木箱を叩いてリズムをとったことが起源で、決して高級な楽器ではない。
”Todos Vuelven”は、César Miró作詞、Alcides Carreño作曲による1943年の作品で、この曲の誕生によって、クリオーリャの音楽に一つの核ができたと言われるほど重要な作品であり、多くの演奏家によって歌い継がれているスタンダード的な名曲である。その一例を聴いてみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=kKd4BmdNd_k
Virgilio Martiは、この曲をGuaguancoのなかに取り入れてレパートリーにしていたが、実はこれはとんでもないことであって、何がとんでもないかというと、そもそも三拍子のワルツを四拍子のルンバの中に置き換えていくことが非常に難しい。もちろん楽譜の上では造作もなかろうし、両者の音楽スタイルには親和性があって曲やフレーズの往来は幾つかあるものの、原曲の情感を移し替え、しかもGuaguancoのグルーヴに生かすとなると困難である。しかし彼はそれに成功した。そのヴァージョンは、1984年にまとめられた上記のリーダー・アルバムに収録されている。その曲はこの作品”Crossover Dreams”でも取り上げられ、それは主人公が自身のルーツを探して、伝統的な音楽の歌手であるVirgilio Martiを訪ねる場面に現れる。自分の考案した新しい感覚の曲を披露して、逆に伝統に一旦立ち還れ、その上で俺はこの曲をものにしたんだと諭される (たぶん) 場面である。そのカットを見てみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=Xc0rcn7gvCQ
映画では、主人公は教えられたGuaguancoのヴァージョンをさらに発展させて、現代的な自分の感覚に仕上げていく。ちょうどその時期、サルサは爛熟期に入って久しく、正直言って作品はマンネリズムに陥ったものが多かった。かつての熱気溢れたデスカルガは、当時のニューヨーク感覚からしてすでに厚ぼったい重く暑苦しいものとして疎まれた。都会的で軽い恋愛ものを歌にした曲がもてはやされ、それらはまるで日本の演歌そのものだった。それに不満を抱く音楽ファンは、きっと多かったに違いない。より激しいリズムのメレンゲのニューヨーク・スタイルが流行ったり、ラテン・ジャズへ刺激を求めたりする動きもあった。そこへ発表されたRuben Bladesアレンジの”Todos Vuelven”は、往年の名曲のカバーでありながら、Virgilio Martiの感性とも全く異なる都会的なセンスを放っていた。最も大きな違いは、それまでサルサにはあまり用いられてこなかったドラム・セットが、リズムの根幹を担ったところである。ドラム・セットは、ジャズ的またはロック的に時間を刻んでいく、つまり直線的なリズムには向いているが、ラテン音楽によくある、らせん状に回転していくリズムの表現には向いていない。ドラムを取り入れたサルサもなくはなかったが、大抵その重さがサルサの軽快さを損ねてダサさが際立つ結果となる。せいぜいティンバレス奏者が、アクセントを入れるためにシンバルとともに踏む程度が適当と考えられていた。ところがRuben Bladesのアレンジは、そのロック的な感覚をラテンの美学の中に見事に散りばめることに成功している。この曲はVirgilio Martiに次いで、二度もラテン音楽の金字塔に返り咲いたのである。そのヴァージョンを聞いてみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=KlVa5nK6ETw
このようにして、映画は主人公の音楽的遍歴をなぞりながら、当時のラテン音楽の現状を、様々なジャンルとのクロス・オーヴァーによって乗り越えていく有様を全体像として描き切っている。その象徴としてペルーの古曲”Todos Vuelven”が取り上げられ、二度の換骨奪胎を経て「Crossover Dreams」の実現に繋がるストーリーが、この作品の味わいどころである。名作名演。
マイナンバーの件その後、会社への提出期限直前になっても未提出なのは、ついに私だけとなり、不思議なことに私には直接のアプローチがなにもないまま、なぜか上司が本社から問い詰められているらしい。マイナンバーの通知書は、年明け早々に郵便局に厳に留め置いてもらうよう念押しした上で受け取りに行った。会社には、複数のルートを通じて前述の要望を伝えてあるが、依然として返事はない。そんなことより驚かされたのは、結局のところ6千人を超える従業員全員が、なんの疑問や意見を表明することなく、一人残らず昨年末までに個人番号の提出を完了したということだ。誰一人として、何らかの行動を起こした者はいない。国の制度がどう、会社の対応がどう、というより、このことが一番の驚きだった。職場で提出を見合わせていた何人かの仲間に訊いてみると、全員が直接提出を促されて、特段意思表示もしないままに応じたという。不安を感じていたはずなのに、何も確認しなかったのだ。「そこまでやる勇気がなかった」と茶を濁しよる。そんなに勇気のいることか ?? そんなに会社が恐いのか ?? 彼らは、一体何に怯えているのだろう ?? そして、私にはなぜ直接何も言ってこないのだろう ?? 上司は、この件で随分疲れてしまっているようだ。なぜ彼が疲れなければならないのだろう ?? なぜ彼は、本社の問題であるにもかかわらず、それを自分で解決しようとするのだろう ?? 提出期限を数日後に控えたある日、私は上司に訊ねてみた。「質問したのに回答がないが、このまま期限を過ぎたらどうすんですか ?? 」「わからない」おまえなあ、わからんじゃないだろうよ、問いあわせろよと思ったが、そんな勇気はないみたいだ。仕方がないので、横のつながりを通じて総務に訊いてもらったところ、なんと、提出期限を過ぎた従業員への対処方法は、何も決まっていないそうだ。つまり、期限より前に提出された者のデータだけでシステムが構築される。そこに漏れた者は、たかだかどこの馬の骨ともわからん頑固で初老のバイト一匹だけだ。次の契約更新で落としてしまえばそれも消える。そうして会社は動く。まったく残念だが仕方がない。本社から何の回答もないまま、私は個人番号の提出書類に、件の要望書を添えて、一式を提出した。上司の安堵の表情が印象深かった。なんと従順な仔羊め。
番号を提出しなければ次回の契約更新はできないと伝えられていた。それに対して私は、番号の提出いかんを理由とした雇い止めは、労働基準法に抵触する可能性があるから、しかるべき機関に相談すると答えておいた。このようなケースにおける雇用者側の一般的な戦略は、争点をずらすことである。つまり、雇い止めの原因は、番号の提出いかんではなく、職能や勤務態度その他総合的判断によるという人事上の秘密に持ち込むことだ。私は実際、そんなことはどうでも良い。給料をもらって仕事をしている以上、私は契約時間内は一生懸命働いて皆様のお役に立っているはずだ。それは誰もが認めている。賃金以上の働きをしているはずだ。私はそのことをむしろ喜んでいる。ひとり農作業の多い私にとって、社会性を維持するための貴重な時間だからだ。契約とは、双方の条件が折り合わなければ成立しない。だから折り合えないものは折り合えないと言えば良いのだ。そこに恣意的な判断や、論理のすり替えを持ち込むから腹が立つ。私は、できることをできないと言ったり、できないことをできると言ったことは一度もない。できることは全てやったし、できないことはできないとはっきり述べている。それが不満なら、双方協議のうえ改善を図り、それでも不調に終わるのならば破談も仕方がない。それが社会というものだと、引きこもりで一人百姓で頑固で初老で変態で独身でどこの馬の骨ともわからんヒト科のオスの一匹に過ぎない私でも理解できる。ところが、何と先日本社から労働契約の更新手続書類が送られてきた。上司に訊くと、「なんでもええからハンコついて送り返してまえ」と言うんでそうした。総務と人事で横の情報共有ができてないのだ。流石ブラック企業。これで程なく消えるはずの私の存在は、あと半年延命されることになる。
さらに驚くべきことに、個人番号提出書類に同封した要望書の返事が、直接私のところへ郵送されてきた。内容を見ると、かなり率直に私の要望を取り入れてある。私の提出した疑問点や要望については、幾つか答えられており、幾つか答えられていない。答えられたのは、マイナンバーの目的 (税・社会保障・災害) 外使用禁止の徹底が約束されたことと、マイナンバーの管理場所を明確化 (運用開始前も含めて) し、電磁的だけでなく物理的に遮断すること、このなかには新しい内容も含まれる。それは、本社に届いた個人番号は、入力作業と同時に暗号化されるので、番号がそのまま漏れる心配はないという記述だ。だとすれば、世の中で漏れたという個人情報には、そのような処置が施されていなかったことになり、そこに合理的な疑問は残る。答えられていないものは、「特定個人情報の適正な取扱に関するガイドライン」の完全遵守の具体的な方法の説明と、管理責任者の氏名の公開である。これらは対応しないということで、そこを突っ込んだとしても、のらりくらりと逃げられるのがオチだ。ただ、この件に関する問い合わせ窓口というものが設置されていて、その連絡先ももらった。そんなことは初耳である。で、就業規則に取り込むことについては言及がなく、安全管理体制について全従業員に周知徹底することは実施済みとある。しかし職場の誰一人として説明できなかったことは、その記述に反する。おそらく周知させるための何らかの方策は取られたのであろう。やっていないのにやったと文書に書けば、私のような執念深い人間が突っ込んでくる恐れがあるからだ。本社はやったに違いない。しかしそれがどこかで消えたか、末端まで来たものの顧みられなかったかだ。だから上司も説明を受けたはずだ。しかし詳細までは理解できなかった。だから私に質問されても答えられず、「とにかく」の連発となった。
こういう対応は、日常業務においては枚挙にいとまがない。本来あってはならないことが指示されてくる。そんなことをすればこうなりますよ、だからやらないほうが良いと言っても、「とにかく」やれ、となる。問答無用である。案の定、問題が起こる。すると今度は「とにかく」してはいけない、となる。会社で生きるには、どんな馬鹿げた命令にも従わなければならない。破綻するとわかっていても、黙って従う。破綻すれば、たまには会社はそれを是正するので、その馬鹿げたことは、しなくても良くなる (たぶん) 。先走ってものを言ってはいけない。会社に所属する6千人以上の従業員は、私を除いて一人残らずそういう「場の空気」を読んで行動したのである。さあ、その良識がいつまで通用するのだろうか。黙り込んで理不尽に順応することに慣れきった人間が、その理不尽を打ち破ることができるのだろうか。意思を理解できない人間が、その意思を貫徹しているつもりで横暴に振舞う。その人が自分の行動の意味を知ることは難しい。とすれば、その上に立つ人は、その人を恣意的に扱うことができるようになる。それを正す手段を、我々はどのように確保すれば良いのだろうか。
私は、今回の件では、折れたことには違いない。使用する側もされる側も、全くの混沌の中で、制度に対応することだけに忙殺される状況では、まともな議論など望めない。しかし重要な変化のあるときは大抵混乱の中で物事が決まってしまうことを考えると、疎まれながらも物言う変態アルバイトであり続けるしかないのかも。とりあえず半年は猶予された (たぶん) 。
Rubén Blades: Maestra Vida, Segunda Parte (LP, Fania Records/ Sonodisc, JM577 Series 0798, 1980, FR)
Epílogo
Manuela, Despues... (La Doña)
Carmelo, Despues... (El Viejo DaSilva)
El Velorio
El Entierro
Maestra Vida
Hay Que Vivir
Angel Canalesに次いでサルサ界で好きなアーティストがRubén Bladesである。これは1980年に発表されたLP2枚シリーズの一大音楽詩「Maestra Vida」の後編、前編も持っていたはずだが見当たらないところを見ると、阪神淡路大震災で埋没してしまったようだ。レゲエを含む中南米の箱がことごとくやられてしまったのだから仕方がない。一部の愛聴盤だけが別棚にあって難を免れた。
さてこの”Maestra Vida”第一集は、同じ絵柄のジャケットで色合いが異なり、空はオレンジからイエローへのグラデーションになっていて色調は明るい。この第二集はピンクからグレーへと暗い色調になっている。このことからも想像できるように、この作品の前半は喜劇的、後半は悲劇的な内容になっている。ところが、サルサ界屈指の名盤として知られている割には資料が少なく、おそらく信用と重要性に足る情報は下記のリンク程度だろう。昔持っていたラテン音楽の専門書にはアルバムの内容が詳しく出ていたはずなのだが、その本も震災で失ってしまった。当時の記憶やリンク先の資料を総合して判断すると、だいたい次のようなものだったと思う。
作品は、Rubén Bladesの故郷Panamáのとある街の二人の若者ManuelaとCarmeloの出会いと死、一人息子のRamilloの出奔と帰郷を歌うことを通じて、当時のラテン・アメリカ人の置かれた苦境や悲劇を描き出す。1枚目が二人の出会いから息子が生まれるまでで、時代背景は1920年代、打って変わって2枚目は1970年代、1曲目が”Epilogo”・・・すなわちManuelaの死から始まり、失ってしまった妻の幻を追い続けるCarmeloの心中、そして息子の経験する不条理・・・しかしそれらは直接的に語られることはなく、歌は時間の流れのごく一部を切り取って描写され、しかも歌詞の内容は言葉遊びなどに置き換えられているので、事情を知らない私などにはその真に意味するところはわからない。同時代を生きた現地の人には、それとわかる符牒のようなものなのかもしれない。
この作品に惹かれたのは、それまでに接したサルサのほとんどが、いわば享楽的で現実肯定的なものだったのに対して、抜きん出てシリアスで、実に洗練された印象だったからである。そしてRubén Bladesの作品に興味を持ち、いくつかを聞いた。そこには、言葉がわからないながらも、非常に強いメッセージ性と、精悍な音楽スタイルが感じられた。それもそのはず、彼はもともと政治家志望で、ミュージシャンののち俳優や映画監督を経て、現在故国の官公庁大臣を務める政治家である。
1980年といえば、その前年末にソ連のアフガン侵攻があり、年が明けて来日したポール・マッカートニーが大麻所持で成田空港から強制送還され、モスクワ・オリンピックを日本その他西側諸国がこれをボイコットし、韓国では光州事件があった。そして音楽活動を再開させていたジョン・レノンが射殺された事件で幕を閉じた。米国は、着実に中米を自国の聖域にしつつあり、あちこちの国で反米レジスタンスが起こり、米国の傀儡勢力による軍事クーデターがそれを覆したりした。いまのことばでいえば、レジスタンスは「米国によるテロ」との戦いそのものだった。一方で米国内の経済発展は凄まじく、世界中から政治的経済的理由によって移住してくる移民たちにも門戸が開かれていた。中米からの移住者もその例外ではなく、米国はその旗印である自由・平等・民主主義がいかにも実現されているかのように見えた。サルサという音楽を見てみれば、1970年代初頭に隆盛を極めたのも、そこから多種多様な音楽と融合して様々な発展を見せたのも、確かに米国の自由・平等・民主主義の賜物だった。しかしすぐ南の国外では、全く異なる窮状が繰り広げられていた。例えばRubén Bladesの故国Panamáの有名な運河の利権は米国が握っている。このたった一例をとっただけでも米国の民主主義は、常に国内外でダブル・スタンダードであることがわかる。Panamáの社会的現実は、沖縄の現状に象徴される日米地位協定と全く同じように、米国の「すり替えられた帝国主義」のもとにひれ伏すことによって、国民に甚大な苦痛と憂鬱を被らせているのではないか。
世界の不条理に敏感に反応していた20歳前後の私にとって、そのプレッシャーの中で奏で続けられる音楽に、次第に引き寄せられていった時期である。なぜこのように世界は狂っていくのだろう。視野が広がるにつれて深まる疑問、移り変わる世相、越えられない壁・・・そんな心境のなかでこの”Maestra Vida”後編は、トータルに彼一流の洗練を感じさせてくれる愛聴盤となった。
http://www.beats21.com/ar/A06120402.html
サイト名はMaestra Vidaだが、実質的にはRubén Bladesをトータルに紹介するオフィシャル・サイトのようなもので、特に1997年にPanamáで上演された実劇には英語の翻訳が付いており、これは非常に貴重な資料である。
https://www.youtube.com/watch?v=GcUBkLVyMOQ
言葉だけでは足りるまいから、おそらくPanamáで上演された当時の音楽ステージの模様、シビレます。
またしても真空管アンプQ-3535がトラブル。ちょうどライブのために大阪へ降りる予定だったので、「豊中オーディオ」へ連絡して車に積み込む。症状はフューズ切れ。おそらく真空管が原因と思われるが、過電流の原因には幾つかあるので、この歴史的名機を壊さないためにも専門業者に見てもらう。ああまたカネがかかる。前回修理してから1年も経っていない。旧い機材なので、こんなペースで故障するのなら、思い切って処分することも考える。現在の私は臨時の出費がほとんどできない状態で、例えば昨年末のように10万円規模の支出があと数回重なれば破産する。近い将来予測される臨時の出費は、このカリーナちゃんの故障 (危ない箇所が3箇所ある)・冷蔵庫の故障・修理に出しているカメラの修理代、自転車のメンテナンス代、MacBookの代替機購入費・・・ざっと見積もって50万円、破産するには十分である・・・と、ここまで考えて、今日ライブに行くのは、先日亡くなったドラムの師匠の追悼のためだったことを思い出した。御多分に洩れず、師匠は結局不摂生のために亡くなった。自分の体を顧みなかった。私はどうか ?? 自分の持ち物を修理したり維持するためには、こんなに迅速に対応するのに、体の不調をいくつも放置しているのではないか ?? 老眼・耳鳴り・咳喘息・歯 (3箇所)・胃の痛み・足の爪・・・今後まだ出るだろう。老いによる体調の衰えは予想外に早くて深刻、20年前のことは明確に覚えているのに3分前のことを思い出せない。体のメンテには、いくら金がかかるかもわからない。しかし現金収入を増やすには、農作業を減らすしか道はなく、別の仕事にエントリーできない現状から見て、手持ちのカネメのものを順次処分していくか、思い切って百姓をやめるしかないだろう。生活の向上を目指して取り組んだ農業のために、生活を脅かされることになろうとは・・・ま、しばらく音楽が聴けないことが当面の苦痛だ。
Fania All Stars: Our Latin Thing (2LPs, Sonodisc/ Fania Records, SLP 04311/12, 1972, FR)
A1 Introduction (Cocinando) 4:48
A2 Quitate Tu 10:30
B1 Anacaona
Vocals – Cheo Feliciano 6:50
B2 Ponte Duro 10:10
C1 Abran Paso (Part 1) / Abran Paso (Part II)
Vocals – Ismael Miranda 2:20
C2 Lamento De Un Guajiro
Vocals – Ismael Miranda 5:35
C3 Descarga Fania
Vocals – Adalberto Santiago 8:40
D1 Aora Vengo Yo
Vocals – Bobby Cruz 4:58
D2 Estrellas De Fania 8:35
D3 Closing Of Movie (Introduction Theme)
Fania All Starsとは、サルサの中心的なレーベルFania Recordsに所属するアーティストから選抜された、プロモーション用のバンドというべきものである。従って、メンバーはそれぞれ自分のバンドを或いは所属するバンドを持っている。また、レーベル所属のミュージシャンが混成して、レーベルが売り出す歌手のバッキングをして発表された作品も多く、完全に固定されたメンバー構成を持っているわけではない。主要メンバーはだいたい決まっていて、創設者であるJohnny Pacheco以下、歌手としてはCelia Cruz, Hector Lavoe, Ismael Miranda, Cheo Feliciano, Ismael Quintana、Santos Colonなど、私の職業柄、打楽器陣としては、コンガのRay Barretto、ティンバレスのNickie Marrerro、ボンゴのRobereto Roena・・・ホーン・セクションまで書いてられへんし大好きなトレス・クァトロ奏者のYomo Torro・・・すみません以下割愛。
Fania All Stars単独のアルバムというものは少なく、看板歌手のバッキング・オーケストラとしての作品が多い。しかしそれらも布陣が実質的にほぼFania All Starsであっても、名義はミュージシャン個々の名前になっていることが多い。従ってFania All Starsそのものを紹介できる作品は限られてくる。
結成は1971年である。Fania Recordsの創立が1963年であるから、約8年の間に練り上げられたサルサ・ソースが一大オーケストラとして開花したものといえよう。創立者はレーベルの創立者と同じくフルート奏者のJohnny Pacheco、総合プロデューサーもレーベル創立者のJerry Masucciである。結成の翌年に”Live at the Cheeter”・”Our Latin Thing”・”Live at the REd Garter”というライブ盤それぞれ2枚ずつ合計6発の祝砲を上げている。結成いきなりアクセル全開で、いずれもその凄まじい熱気というか、暑苦しさがモロに伝わってくる。Fania All Starsを紹介するなら、やはりこの三部作に尽きるだろう。
キューバ音楽の最後の方でも触れたことだが、サルサは、キューバに革命が起こって、その後アメリカとの関係が悪化したために、在米キューバ人が帰国せざるを得なくなったことによって、アメリカに根付きつつあったキューバ音楽の形式「Son」を演奏できるミュージシャンが不足したことから、音楽的に近かったPuerto RicoのミュージシャンたちがSonを演奏しはじめたことが起源である。その後、Sonを演奏するPuerto Rico人たちと、多くはSoul・Blues・Jazzなどアメリカ黒人たちの音楽、それにRockやクラシック音楽などとの接触があって、10年ほどの間にそれらが融合して独特のソースが出来上がった。それをスペイン語で「Salsa」というわけである。
このような成り立ちを持っているので、Salsaという音楽は、基本的に即興ないし「descarga」と呼ばれるセッションに重きを置いている。従って上記三部作の内容のほとんどは、特定の楽曲の体裁を有しない即興演奏にタイトルをつけたものであって、いわゆる「歌もの」のサルサが盛んになるのはもう少し後になってからになる。ここでは、あるテーマやモード、或いはコード展開に基づき、それを繰り返しながら、リード楽器や歌手、或いは打楽器などがパフォーマンスしていく合奏の妙味が味わいどころとなる。そうした遊びから曲が生まれ、その集大成として「看板歌手 + ファニア・オールスターズ」という企画ものアルバムが量産される結果となった。実際、ここに紹介する”Our Latin Thing”でも、LP2枚中、曲らしい曲は、”Anacaona”と”Abran Paso”の2曲くらいのもので、ほかはほとんど即興演奏または即興詩の世界となる。きちんと整った緻密なアレンジで演奏される美しいサルサは、このような果てしない即興遊びの積み重ねの上に成り立った。
さて、三部作のうち紹介したいのが、この”Our Latin Thing”なのだが、これは同タイトルのドキュメンタリー映画のサウンド・トラックを編集したものであって、当時はそのフィルムを拝むことができなかったから音だけ聞いていたのである。これは是非、本編を見てもらいたい。私は、もう映像のない音だけの世界で、ご多聞にもれずソーゾーというか妄想を膨らませてしまったので、映像とのギャップにただただ途方にくれるだけなのだが、免疫のない方は是非映像を見て当時のニューヨークの喧騒を味わってもらいたいと思う。
Zaïre 74は、アフリカの音楽にとって大きな出来事だっただけでなく、アメリカ在住のアフリカ系の人々 (African-Americanと呼ばれることに違和感を感じる人もあるが) にとって、文字通りアフリカへ回帰して演奏するという大きな意味を持っていた。大西洋を越えて旅行することが今ほど一般的でなかった当時としては、それはリアリティがある。いまほど情報はない。行く側も迎える側も、驚きと発見の連続であったはずだ。その手探りの末に遭遇する驚きや喜びが、映像に記録されている。
このイベントの噂は、私が南の国の音楽に興味を持ち始めた当初から耳にしていたが、全貌はわからなかった。Fania All StarsとJames Brownの動画を、ごく短いものを何かのイベントで垣間見た程度だ。Faniaのデスカルガの模様を含めたドキュメンタリーがVHSで出たのが1995年の確か数年前、同じコンサートでCelia CruzをメインにFaniaのバッキング、ゲストにJorge Santanaというライブ映像がDVDで出たのが1998年、しかしこのDVDにはAfricaに関する記述はなく、装丁からしてもなんとなく流出モノくさかった。James Brownの映像も細切れに流出していた
Zaïre 74は、アフリカの音楽にとって大きな出来事だっただけでなく、アメリカ在住のアフリカ系の人々 (African-Americanと呼ばれることに違和感を感じる人もあるが) にとって、文字通りアフリカへ回帰して演奏するという大きな意味を持っていた。大西洋を越えて旅行することが今ほど一般的でなかった当時としては、それはリアリティがある。いまほど情報はない。行く側も迎える側も、驚きと発見の連続であったはずだ。その手探りの末に遭遇する驚きや喜びが、映像に記録されている。
このイベントの噂は、私が南の国の音楽に興味を持ち始めた当初から耳にしていたが、全貌はわからなかった。Fania All StarsとJames Brownの動画を、ごく短いものを何かのイベントで垣間見た程度だ。Faniaのデスカルガの模様を含めたドキュメンタリーがVHSで出たのが1995年の確か数年前、同じコンサートでCelia CruzをメインにFaniaのバッキング、ゲストにJorge Santanaというライブ映像がDVDで出たのが1998年、しかしこのDVDにはAfricaに関する記述はなく、装丁からしてもなんとなく流出モノくさかった。James Brownの映像も細切れに流出していたと思う。しかし正式にこのイベントと出演者の映像が公開されたのは2008年である。そこで初めて、我々はアメリカ・アフリカの全出演者をはじめ、日程やイベントの企画から開催までの詳細を知ることになる。
いまでは、「Soul Power」と題されたコンサート全体のダイジェスト版と、Faniaに関する上記2つの記録は、「Fania All Stars in Africa」として2枚組のDVDで発売されている。
アメリカからJames Brown, The Spinners, The Crusaders, Fania All Stars, Celia Cruz, Danny Ray, Sister Sledge, Bill Withers, B.B. King、現地ザイールからFranco et le T.P.O.K. Jazz, Tabou Lay et l’Afrisa International, Pembe Dance Troupと、クレジットはないが、映像からFaniaを迎える面々の中で歌っているTrio MadjesiとL'orchestre Sosolisoの姿が確認できる。また南アフリカからMyriam Makeba, Hugh Masekela,、カメルーン人だが当時Dr. NicoのAfrican Fiestaに参加して多分キンシャサにいたManu Dibango・・・
コンサート日程は1974.09.22-24、Muhammad AliとGeorge Foremannの試合が1974.10.30、当時のモブツ大統領はイベントの開催を了承したが、すくなくともコンサート部分については、たしかイタリアの某実業家が私費を投じたと言われている。調べたはずだが記録を取り出せない。
と思う。しかし正式にこのイベントと出演者の映像が公開されたのは2008年である。そこで初めて、我々はアメリカ・アフリカの全出演者をはじめ、日程やイベントの企画から開催までの詳細を知ることになる。
いまでは、「Soul Power」と題されたコンサート全体のダイジェスト版と、Faniaに関する上記2つの記録は、「Fania All Stars in Africa」として2枚組のDVDで発売されている。
アメリカからJames Brown, The Spinners, The Crusaders, Fania All Stars, Celia Cruz, Danny Ray, Sister Sledge, Bill Withers, B.B. King、現地ザイールからFranco et le T.P.O.K. Jazz, Tabou Lay et l’Afrisa International, Pembe Dance Troupと、クレジットはないが、映像からFaniaを迎える面々の中で歌っているTrio MadjesiとL'orchestre Sosolisoの姿が確認できる。また南アフリカからMyriam Makeba, Hugh Masekela,、カメルーン人だが当時Dr. NicoのAfrican Fiestaに参加して多分キンシャサにいたManu Dibango・・・
コンサート日程は1974.09.22-24、Muhammad AliとGeorge Foremannの試合が1974.10.30、当時のモブツ大統領はイベントの開催を了承したが、すくなくともコンサート部分については、たしかイタリアの某実業家が私費を投じたと言われている。調べたはずだが記録を取り出せない。
すごいものを見つけてしまった。1973年、サンタナ・バンド来日公演におけるMichael Schrieveのドラムソロ「Kyoto」である。1973年というと私は中一、大阪厚生年金会館に来ることは知っていたが、「行きたい」などと言おうものなら鼻が折れるほど殴られたであろう、その後テレビでも放映されたが、「見たい」などと言おうものなら歯が折れるほど殴られたであろう家庭環境、また社会もそれを当然とみる風潮があった。当然、家庭用ビデオ録画機なんてない時代だ。その後、日本公演の模様は編集されてLP3枚組にまとめられ、「ロータスの伝説」として発売された。「ほしい」などとは口が裂けても言えなかった。LP3枚だからなにしろ高い。何年か経って、ようやく学校の友達同士の中で音楽の話ができるようになると、少ない小遣いを削り合うようにして、共同で欲しいレコードを買い、回し聞きをしていたものだ。誰だったかは忘れてしまったが、この3枚組をぽんと買ったやつがいた。我が家にはレコード・プレイヤーもなかったので、これを友達の家で聞かせてもらい、同時にカセットに録音した。それを親に隠れてベッドの下に仕込んだカセット・プレイヤーでこっそり聞くのである。ものすごい演奏だった。変幻自在、ロックとラテンという、全く聞いたことのない取り合わせの躍動的な感触、聞けば聞くほど、遠くない過去にすぐそこまで来ていたバンドを見に行かなかったこと、テレビでさえ見られなかったことを、悔やみに悔やんだ。映像のない、音だけの世界は、想像力を無限大に開放する。誰が、何を、どのように演奏してるかなんて、皆目見当もつかないほど複雑に絡み合った音の奔流、魔術としか言いようのない陶酔、こんな世界が、自分の住んでいる外には広がっているのか・・・子供ごころに海の彼方への憧憬は狂おしく悶えるしかなかった。
情報を制限することによって、確かに想像力は育まれるだろう。音楽なんてその最たるもんだ。音楽の現場を「見る」ことができなかったが故に、われわれはどれほどの好意的な勘違いと、ありもしない意味づけを音楽に与えてきたか計り知れない。そして妄想に肥大した想念を持って音を紡ぎ出してきた。それこそ何十年もたゆむことなく。その結果、我々は人からどのように評価されようが、とにもかくにも「俺の音はこうである」と言い得るだけの演奏をものすことができるようになったのだ。それは素晴らしい勘違いでありながら、実は大変重要なことだと考える。私はMichael Schrieveを見たことがなかったが故に、彼の「構え」を知らずにドラムを叩いてきた。その結果、いまでは日本に二人といない、コンゴ風のルンバを叩きこなせるパーカッショニストになった。お呼びがかからんだけだ。
「ロータスの伝説」は、まさに先刻まで私にとって音だけの世界だった。インターネットとはありがたいもので、夢にまで見た公演の映像が検索したら出てきたのだ。全編通しではなく、何曲かに限られているけれど、謎の演奏はいくつも見ることができた。実は、Michael Schrieveは、私にとってJaki Liebezeitの次に尊敬するドラマーである。なにがといって、とにかく音が綺麗で粒立ちが揃っている。スネアの音色なんてお手本中のお手本だ。この映像、3分過ぎから上下に画面が分割されて、ステージ真上に設置された別カメラの映像と同時進行する、当時としては離れ業に近い編集が施されている。43年前だから、当然画像は粗い。しかしスティック捌きはよく見えるし、頭上カメラはハイハットとキックの動きを克明に捉えている。就中、スネアをロールしながらストレイナーのスイッチを切り替える離れ業まで捉えられている。永年の奏法の謎が、いくつも氷解した。これは、そんじょそこらのドラム教則ビデオよりも、はるかに優れたお手本だ。これを見れば、誰でもはっきりわかるはずだ。本物のドラマーはテクニックではない、エモーションだということを。アップになった若き日のMichael Schrieveの表情、それだけで十分だ。
映像をもっと早い時期に見ていたら、あるいはリアルにライブを見ていたら、すくなくともテレビを見ていたら、私の人生は変わっていたかもしれない。大げさではなく、私にとって「ロータスの伝説」はそれほどの値打ちがある。もちろん音楽はコケ嚇かしで商業主義でまやかしに満ちている。そんなことはどうでもよい。エンターテインメントなんてそういうものだから。そのウソの世界を、これほど勢いに満ちて、全力で、和気藹々と、満面の笑みで、真剣に、希望を持って演奏することこそが音楽の本質であり、そのありようは若いうちによく見ておく方が良いからである。無駄な遠回りをしなくて済む。この映像、クリップして生涯の家宝にさせていただきます。見てよかった。
ジャガイモは生きている。去年7月に収穫した芋は秋の深まりとともに発芽しはじめ、しわくちゃになりながらも生き続けて春を待つ。これを植えれば4ヶ月ほどでその子孫を収穫できる。もちろん芽をちぎって厚く皮をむいて、大半は食っちまうんだけど・・・
神戸ノルデスチの地にも氷点下二桁の季節がやってきた。夜間、水道の止水栓を止めて敷地内の全ての蛇口を開放する。水を出しっぱなしなしても、ここでは氷柱が下まで繋がって、結局水道管内部で破裂するからだ。開放しておけば、凍りはじめると徐々に蛇口側へ膨張して、破裂は免れる。北海道在住の友に習った北国のやり方。葉物野菜が欠乏する季節、根菜と豆を中心にした山羊のシチューで寒さを乗り切る。
コンゴの「キヴ」というコーヒー豆がUCCから発売されている。「キヴ」はコンゴ民主共和国の東のウガンダとの国境付近、「アフリカのスイス」と呼ばれるほど、非常に風光明媚な場所である。行ったことはないが友達はいる。ウガンダの一つ南の国、ルワンダの内戦で難民キャンプが設置された地域に近い。
イオンモールで見つけたので買ってみた。\400/ 100g程度なので、わりと高級品の部類になる。豆の状態は、まあまあ選別されているという感じ、ローストは浅い。キャッチ・コピーには「酸味、甘味、コクのバランスが良く、柑橘系のキレイな酸味が特徴」と書いてある。ネルドリップで淹れてみた。たしかに酸っぱい部類である。同じ東アフリカのキリマンジャロに似ている。ボディはほとんどない。あまり私好みの味ではない。次は試しに手持ちのイタリアン・ローストに少量混ぜてみよう。この豆を買うことで、少しはキヴの農民にカネが落ちるのだろうか。
最近、パンに混ぜ物をして楽しんでいる。サンプルのドライフルーツや雑穀などが手に入るので、これを混ぜてみる。副原料は二次醗酵の前に入れよと「アルムリーノ」のお師匠さんから学んだ。
David Bowie: Low (LP, RCA Victor, PL 12030, 1977, UK)
Speed Of Life
Breaking Glass
What In The World
Sound And Vision
Always Crashing In The Same Car
Be My Wife
A New Career In A New Town
Warszawa
Art Decade
Weeping Wall
Subterraneans
David Bowieといえば、私にとってはこの作品。それまでの彼の作風とは全く異なる音に世界が驚愕したものである。1977年といえば、ロンドン・パンクがまさに爆発しはじめた頃、日本にも情報は入っていたが流行りだすのは1-2年後、やりだしたのはもうちょい後という感じで、私は17歳の高校生、まだ重厚なプログレ交響曲の霧の中を泳いでおり、精神状態は出口の見えないトンネルの中。世界の音楽シーン、世相は、そろそろそんな夢物語にも飽きて、厳しい現実から目をそらすことができなくなってきた頃、あるものはパンクに憧れ、それとは別にさまざまな可能性を模索して、たくさんの動きがあった。そのひとつに、このアルバムをプロデュースしたBrian 中略 Enoが関心を寄せてきたエレクトロニクスを駆使した様々な試みがあり、それがプログレ嗜好の音楽ファンの感性に受け入れられ、パンクとは別の流れとなって、のちのニュー・ウェイブやオルタナへ、あるいはミニマル・ミュージックへの発展に結びついていく。David Bowieは、言わずと知れたグラム・ロックの花形、Enoが初期に所属したRoxy Musicも似たような傾向を持つ華やかでアーティスティックなバンドであった。Enoがそこを去って、ミニマル・ミュージックの先駆となるObscure Recordsを設立するのが1975年、ちなみにこの年、プログレ最後の名盤「幻惑のブロードウェイ」を残してPeter GabrielがGenesisを去っている。またGary Newmanがポスト・パンク、オルタナ的な世界観を予感させるTubeway Armyを結成している。一つの時代が終わり、新しい胎動が始まって、様々な価値観が交錯して、シーンは混沌としていた。
このアルバム「Low」は、そのB面が「ワルシャワ」という曲で始まる独特な雰囲気を持つことから、当時ジャーマン・ロックに影響されたプログレへの遅咲きの回帰などといわれたが少し違う。David Bowieの、というよりは、Enoの率いるシンセ・ポップ路線とミニマル・ミュージックの可能性を、古巣のテイストであるグラム・ロック出身の音世界の中でどう聞こえるかを、バンドで面白く真面目にやってみたという作品ではないかと思う。David Bowieがこのテイストを気に入ったのかどうかはわからないが、その後「ベルリン三部作」と俗称されるアルバムを発表した後、肩が凝ってしまったのか、1983年に大ヒットしたディスコ・ミュージック「Let’s Dance (EP, EMI, 12 EA 152, 1983, UK) 」を発表して、またもや世界を驚かせるのである。その頃には、時代はとっくにバブルの匂いがプンプンしていたのを思い出す。
農作業終了から着実に引きこもって音楽を聴いたりファイルの整理など内省的平和な日々を送っていると、さすがに体がなまる、というか、あちこち痛くなってきて、やもたてもたまらず発散したくなる。近くの山に登ろう、と思ってすぐに山に入れるのがここの良いところだ。が、新名神の工事が進んでいる。上の写真はたしか1年前、それがこんなことになっていて、山道の周回コースは分断されて往復するしかない。
まあ良い。この谷を下って向こうの山に登ると、百丈岩という奇岩の名所があって、その高台の奥に綺麗な池がある。そこまで行こう。
百丈岩を横から見たところ、垂直面が地上から山頂まで貫かれていて、その屹立する姿を拝むとなんかいいことありそう。ロック・クライミング上級者コースだが、ときどき滑落死している。
その頂上から来た道を振り返ったところ、目の前を新名神が横切るのはなんとも鬱陶しい。
岩の背後は台地になっていて、平坦で快適な散策道、しばらく行くと、その先に静ヶ池という池がある。水辺を一回りできて、ちょっと広いところもあるので、冬の陽射しを浴びながらぼんやりするのも良い。
バイトがあるので、陽のあるうちに戻ってきた。隣の田んぼではおばあちゃんが三反の田んぼを鍬で耕している。「まあ冬はすることもないし長いですからなあ」・・・アタマが下がります。半日の山歩きで体調は戻り、気分も軽くなった。しかしなんやねえ、一週間や十日ひきこもったくらいで体がなまったやの節々が痛いやのと根性のない、本物の引きこもりいうたら5年10年、いや近所には30年以上も引きこもってる人もあるというから、いや私なんかまだまだ修行が足りん、なにごとにも中途半端でアタマが下がりますわ。
私がやりたいと思ってきた写真の作風のことを「ピクトリアリズム」ということを知ったのはずいぶん最近になってからのことだったが、このキーワードをたよって色々と写真を見て歩いているうちに、様々な作品と出会うことになった。最初に心酔したのは福原信三で、彼は言わずと知れた資生堂の初代社長である。しかしなんやねえ、社長が芸術写真家なんて、いまでは考えられんね。人の上に立つ人は、そういう秀でた素質を持っといてほしいもんや。まあええ、ないものねだりはやめよ。ほいでその弟に福原路草というひとがいて、これがその芸名の通り、どうせ社長は兄貴がやるんだろ、俺は一生路草食ってやるってんで写真撮りまくるんですが、その作品が実に良い。兄貴の精緻な作風とは全く異なって、直観的でぞんざいでその軽さが世を拗ねた諦観というか諸行無常の響きを感じるわけだ。
明治から大正にかけては、そんな作風の流れがかなりあって、いろんな写真家が出た。そのなかで最も感銘を受けたのは黒川翠山という京都の写真家で、作品を初めて見たのは、岩波書店の「日本の写真家 2 ・田本研造と明治の写真家たち」の最後に収録された図版である。1906年頃に撮影された題名不詳の写真で、霧のかかった山道を、笠を被り蓑をまとった男が、天秤棒に荷物をくくりつけ、杖をつきながら歩いて行く後ろ姿を追ったものである。ピクトリアリズムを扱った写真集には、かなりの確率で収録され、同テーマの写真展にも出展される作品で、彼の作品で知られているほぼ唯一のものと言って良い。その情感があまりにも素晴らしかったので、彼のことを調べはじめたのだが、作品集は一冊も発表していない。
作品が集約されているのは、京都府立総合資料館というところに「京都北山アーカイブス」というのがあって、そこに「黒川翠山撮影写真資料」があるのみ。そこへ行って、その作品のオリジナル・プリントを見せてもらえるかと訊ねたところ、写真資料は番号や撮影場所、撮影日時で分類されているので、図案を示されても検索できないという。仕方がないので片ッ端゜からデジタル化されたデータベースを捜していく。全部見た。が、目的の作品はおろか、およそ絵画的な写真には一枚も出会わなかった。全てが、街や世相の記録写真であって、ピクトリアリズムどころか、リアリズムそのものであった。そうなのだ。彼は芸術写真を目指したわけではない。たまたま撮ったものが絵画的傑作として世に知られた。逆説すれば、その頃の日本は、どこを撮っても絵画的であったということだ。
その後、2011年になって東京写真美術館で「芸術写真の精華・日本のピクトリアリズム珠玉の名品展」という企画展が行われることになり、ちょうどその頃、私の2010年の旅行の写真展も東京の友達の店でやってもらえることになった。トークライブのために上京するついでにその企画展も見に行こうと思って、店に来てくれるお客さんのお土産用のいかなごの釘煮を炊いている時、あれが起こったのである。2011.03.11のちょうど昼過ぎで、静かにいかなごの鍋にかぶせたアルミホイルの落し蓋を眺めていた。なんの異変もなかった。私は阪神淡路大震災以来、ほぼ確実に地震の前兆を予知できるようになった。しかし人に知らせる間もなく揺れが来るので実用的ではない。「緊急地震速報」よりも数十秒早い程度だ。その私が、なんの異変も感じることなくいかなごの釘煮を仕上げ、ほぼ来場者数に見合うだけの小袋に分け、翌日の出発の準備を終え、就寝前にメールのチェックでもしようとインターネットに繋いで初めて事実を知ったのだた。後日、その規格店の図録を東京写真美術館に注文した。その図録の最初のページに、くだんの黒川翠山の写真があった。見れば見るほど、そのオリジナル・プリントを見たくなった。しかし東京での企画展は、震災の影響で中止になった。
その企画展は、ほぼ同じ内容で京都で再開されることを知り、それを見に行った。展示の最初にその写真があった。写真展の展示としては、55x40cmと小さな作品だった。しかしゼラチン・シルバー・プリントのそれは、セピア色に少し変色し、独特の風合いと立体感、柔らかな中にも引き締まった輪郭があった。素晴らしかった。データを見ると、東京写真美術館所蔵とある。京都で探してもなかったわけだ。そして今回オークションで手に入れたのは、その美術館が1992年に開催した同じテーマの企画展の図録で、「日本のピクトリアリズム・風景へのまなざし」というものである。それにはまだ見たことのないピクトリアリスティックな彼の作品が4つ収録されているはずだった。そのうち2つが写真である。印刷を通してさえ、彼が写真表現の中で、霧や靄をうまく使っていることがよくわかる。さりげなく風景を捉えただけのようにも見えるが、霧に隠れる淡色によって、手前にくる主題を見事に浮かび上がらせている。これは全くブレッソンの数々の光の使い方をも凌駕するもので、日本の古い風景の中に生きてこそ成し遂げられる描写である。レンズや技術ではない。その光をとらえる決定的瞬間に、万全の態勢でその場に居合わせることができるかどうか、写真はそれに尽きる。
Angel Canales: El Differente (LP, Selanac, LP-8881, 1981, US)
Bomba Caram Bomba
Cuando Se Quiere, Se Quiere
En Ti
Esta Es La Manera De Espresar Mi Sentimiento
Saraguay Santoja
La Vida Es Una Caja De Sorpresas
Dolphin
Angel Canales、これも捨てがたい。豪華絢爛重厚華美、エグさゴリ押し勢い余ってこれでもかこれでもかと、ティンバレス奏者のVictor Perezがシンコペーションのたびに踏みまくるキックに打ちのめされる。ひたすら際疾いAngel Canalesの世界。しかし不思議なことに品位が落ちない。これは極めて緻密で丁寧なバックの演奏の基にフロントとリードと打楽器軍が暴れまわるのだが、そのバック・ミュージシャンの人格が暴れん坊将軍の心を掌で遊ばせるくらい百戦に錬磨されているからだろう。アカデミズムだけでは絶対に出せない、音楽とその躍動を知り尽くした者たちだけが奏で得る、まるでひとつの生き物のような演奏。全編に凝縮された音の洪水、絶品の一枚。
で、この新しいiMacを使いはじめてみて感じる事を順不同で書き連ねてみますと、まず立ち上がりも動作も遅い !! 遅いです。デスクトップだから重たいのか、1TBというディスク容量を振り回すにはCPUが力不足なのか、MacOSX El Capitanがどんくさいのか知りませんが、「えっ ?? ・・・まだ ?? 」ちゅうくらい遅い。MacBook 1.1 + MacOS 10.6.8では何のストレスもなくサクサクと作業できていた事が、とにかく遅い。でもこの上のモデルを買ったりメモリを増設する余裕はないので我慢するしかない。我慢は我慢するのだが、10.6.8の環境でできていた事が、できなくなっている事が多いのはたいへん困る。ユーザ切り捨ては得意技のMacなので今さらごねる気もないが、愚痴くらいは聞いてくれ。なんぼでもある。
まずOS同梱のアプリケイションで、機能は同じで名前の変わったものは今まで通りには使えないと思った方が良い。例を挙げると、「アドレスブック」→「連絡先」メールアドレスなどを管理するものだが、vCardに書き出しても読み込まない。おとなしくMacのいうとおりにOSをバージョン・アップしていれば問題なかったのだが、古いOSで作成したvCardは読み込めない。全部手で打ちましたがな。おまけに苦労して作った「連絡先」が「メール」画面上に表示されない。かつては送信ボタン横に「アドレス帳」ボタンがあって、リストから選択すれば簡単に送信先に入力されたのに、「連絡先」は、わざわざアプリケイションを開いてカードを呼び出し、ドラッグしてこなくてはならない。非常に不便だが、最近の子らはメールなんか使わず、Facebookの「メッセージ」でやりとりするから機能が省略されたんかな。
「ことえり」→「日本語」で「ユーザ辞書」が読み込めないので、長年の蓄積が反映されない。しかも私は長文変換が多いのだが (笑うな) 、変換文字を修正する際にカーソルで文字を指定すると、長文全体がひらがなで確定されてしまう。再変換からやり直しで二度手間。
極め付けは「iPhoto」→「写真」、これなんか読み込んだ写真はファイルとしてではなく「ライブラリ」として保存されるので、個々に持ち出す事ができない。いちいちデスクトップに保存して名前をつけ、ファインダー上で分類していかなければならないので邪魔なだけ。自分で撮った写真を簡単に持ち出せないのには腹がたつ。かつてMacはiPhotoについて、「一生分の写真を一か所にまとめておきたいなら、iPhotoが理想的です」などと豪語していたはずだ。みだりに使い勝手を変えるな。だからすべてのファイル管理を手作業でやらざるをえない。まあこんなことをいうユーザは彼らにとってはとっとと消えてくれ、Macという会社は、自分らは完璧な製品を世に出しとる、使い方がわからなければユーザ同士で情報交換しろ、わしゃ知らん、という姿勢なので、おかげで自力解決の実力がついて結構なこっちゃ。
まだまだこれから出てくるでしょうが、MacOSX El Capitanの仕様と思われる点で使いにくいところは、なにしろ画面のウィンドウがよく揺れる、あるいは誇張するためかアイコンが膨らんだり動いたりして、あらぬところへドラッグし損ねて、あわてて落としたファイルを捜しに行かねばならない。iPhoneに倣ったのか、マウス上をタップしたリスワイプしたりするとウィンドウの動きに反映される。ところがマウスを握る手は微妙に動くものなので、その動きまでが画面を揺らして目が疲れる。まだまだ出るだろうが、これらのものは仕様としてあって、環境設定で止めたくても止められない。あまり不必要に目的地が動いたり、一定のルールで整理してきたものを変えられたりするのは嫌だ。キーボードとマウスがワイヤレスになってケーブルから解放されたのだが、キーボードのCapsが左下の角に来ているので、手首が当たってロックされてしまう。かつては下から2段目だったのでこんなことはなかったのだが、これも鬱陶しい。
さあ悪口ばかり先に書いたが、もちろん良いこともある。それは画面が大きくて距離が取れることから、目に対するストレスはかなり減ったということだ。特に老眼の進行著しい昨今にあっては、ラップトップからデスクトップの価値を再発見した思いがする。おまけに、ラップトップでは至近距離に立つモニタを境に、その向こうに未整理のゴミの山が築かれてしまうのであるが、手元が広いと片付けざるをえないので、文字通りデスクトップの整理整頓が徹底できる。そんなわけでだいぶ使い慣れてきた。
実際何を作業していたかというと、要するに音源の整理であって、リハやライブの録音、それにFM放送のエアチェック音源など、特に後者は、タイマー録音でUSBにベタ取りしてきたものを、上のように波形分析にかけて曲を確定して分類、取捨選択、整理保存ということで、60GBくらいあったから、曲数や時間数にしたら想像もつかん。大半はNHKの「古楽の楽しみ」で、この番組はかつての「バロックの森」から変わったものだが、「古楽」とは言いながら内容はほとんどバロックであって、中世やルネサンスものはほとんどかからないので、大半は破棄された。ほかは日本の伝統芸能で、地唄箏曲・浄瑠璃・浪曲・能や狂言などである。世界のポピュラー・ミュージックの王道を全く知らずに裏街道をひたすら這って歩いてきたような私にとっては、ピーター・バラカン氏の「Weekend Sunshine」は毎回新しい発見があってよろしおまんな・・・とまあそんなわけで年末年始の引きこもり生活は幸せな時間でした。ほなバイトいこか・・・
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