2016年07月14日

20160714 共生への扉

 安倍ソーリダイジンがいろいろ面白い提案をぶっ続けてくれたおかげで、日本にもいろんな考えの人がいるんだなあと感心させられる毎日を送らせていただいており、また生まれて初めて投票とやらへ参加させていただく機会も与えられ、ご厚意に心から感謝しております。

 私は厳しい独裁的空気に満ちた家庭に生まれ育ち、幼少期には一軒だけ地区から離れた家だったために地域の友達コミュニティから壮絶ないじめを受け、小学校でも教師に脅かされる日々を過ごしたので、圧力に屈すること、生き存らえるためにコミュニティを抜けること、越境した先には別の世界が広がっていることを、子供心に体験した。今では幾分社会との折り合いのつけ方も心得、いろいろあっても命ばかりは取られる心配のない生活をしているが、ふとしたきっかけで、このような幼少期の刷り込みが表面化することがある。平時では何事もないのだが、世の中が窮屈になってくると、ある程度ガス抜きをしないと苦しくなってくる。しかしやり方をよく考えなければ逆により苦しい立場に追い込まれたり、思考が過激に走ったりする。

 私の思想的傾向が十分左翼的であるのは、以上のような原因からだと思う。本来、思想というものは個人ーによって自由に客観的に選び取られるべきものだが、そういうものが刷り込まれる時期というものは一生に一度しかないので、今となっては他の思想についてじっくりと比較検討することができない。手遅れである。たとえば朝鮮半島では、彼らにとって身に覚えのない、突然決められた境界線を隔てて思想を押し付けられたわけで、彼らは地域という、思想とは何の関係もない要素を根拠に、それぞれの陣営に勢力として取り込まれ、それぞれの思想を刷り込まれたのである。生い立ちや環境に影響されずに、思想というものが、それそのものの純粋な論理的対決として議論されることがいかに困難であるかがよくわかる。

 つまり多くの場合、対立しているように見えても実は同じことを言っていて、案外解決策は別のところにあったりする。ただ、お互いに対立し合うことによってアイデンティティを確立しているような場合、問題の解決は双方にとってアイデンティティの喪失につながるので、双方共に解決されることを阻害する傾向がある。その場合、そこにいる部外者が最も大きな被害を被る。

 さて、この一年間いろんな考えの人と話をしたりやり取りをしたりご高見を拝読させていただいたりしたのだが、私のように反自民・反安倍政権・反原発・改憲反対・反アベノミクスを、議論の余地なく当然と考えている人間にとって、これらに賛成する人々の存在を一年前にはほとんど想像できなかった。しかし最近ではそういう人たちが身近にもだいたい3割程度いることがわかったので、なるべく彼らとコミュニケーションを取るよう努力してきた。あくまで印象だが、その結果を順不同で羅列してみる。もちろんこれは相手の落ち度を詮索して罵倒するのが目的ではない。どちら側の主張にも落ち度はある。それをほじくり返して罵倒し合うのはやめたい。相手を理解するための拙い努力の一歩だと思って、不適切な表現などあればご容赦いただきたい。

 論理的思考が苦手で共感を重視する・社会的に成功して地位を確立している・社会に絶望している・よそものが嫌い・人権が嫌い・共産主義が嫌い・外国語が苦手・組織への忠誠心が強い・帰属意識が強い・変化に直面したとき保身に走る・統一動作が好き・団結力が強い・・・まあもっとあるけど、ネガティブな表現が多くなったのは、自分と異なる考え方には違和感が先に来て、その良さには気づきにくいからだと思う。できれば相手側からの分析を聞いてみたいものだ。裏返せば、上に挙げた要素の反対が私に当てはまる。

 さて、私は理解しにくいものに出会ったときにはそれを理解しようとして論理的にアプローチするのだが、それをここでやっちまうと相手に疎んじられる。なぜなら相手は論理が苦手で共感してくれることを望んでいるからだ。しかしこっちは無条件に共感することができないので、何らかの足がかりを求め、その手法としてますます論理を使う。すると相手はますます遠ざかり、やがて相互不信に陥る。運悪く対立してしまったとき、論理的に相手を批判してしまうと、相手は振り上げた拳を降ろす場所がなくなり、ますます態度を硬化させることによってこちらを弱体化しようとする。場合によっては力づくで排除する。相手にとっては、こちらへの憎しみはたいそうなものだと推察されるのだが、こっちはわからないことを率直に訊いただけである。従って論理的には対立しておらず、一方的な反感が原因で不幸が起こっている。解決するには、お互いの思考パターンの不備を改善するしかない。

 社会的に成功して地位を確立している人は既得権益を守ろうとするので、それが脅かされる恐れのあるものを本能的に排除する。また逆に、社会に絶望している者のうち、論理的に物事を解決することの苦手な人は、大樹に擦り寄っておこぼれを期待する傾向があって、その大樹の権益を守ろうとする。世の常として、富を得たものが積極的にそれを分かち合おうとすることは少なく、擦り寄って分配を望んでも叶えられないことの方が多い。自分の努力で財を成した人ならなおさらである。それを富の偏在だ不平等だ再分配だ革命だと叫ぶのは、たいてい持たざる者である。持てる者と持たざる者の対立は固定化されることが多く、世論が分断され、往々にしてその対立は為政者の思惑に利用される。中立で信頼できる政治権力によって、社会奉仕の一環としての富の再分配がストレスなく制度化されるようコーディネイトされれば、対立は解消に向かう。逆に言うと独裁者がつけいるチャンスでもある。

 よそ者が嫌いである。理解しにくいものに出会ったときに、反射的に警戒する傾向がある。おそらく保身の裏返しと思われるが、相手を理解しようとする気のなさ、興味のなさは相当に強い。逆に言うと、相手から理解されようとする気持ちや、理解を得て行動しようとする配慮にも欠ける。極端な場合、自分の行動に周囲の理解は必要ないとさえ考える。例えば自動車の運転でウィンカーを出したことがない、つまり右へ曲がろうが左へ曲がろうが自分勝手で、止まるべきは相手であると本気で思ってる。運転免許など、自分が自動車を自由に使うための手形程度にしか認識しておらず、交通ルールなど忘れて久しい。程度の差こそあれ、排他的傾向を持つ人とのコミュニケーションは難しい。いつどんなタイミングでどの程度の破壊力を持つ地雷を踏むかわからないからだ。これといった対処の仕方が思い浮かばない。

 人権が嫌いというか、「お前には人権の匂いがする」と言われたことが何度かある。意味がわからないのだが、たぶん全体で何かの行動を取ろうとするときに、個人としてその行動の是非を論じてしまう傾向に対する反感ではないかと思う。何度も経験したことだが、クラスで特定のやつをいじめようということになって、私にもそれに加担するよう迫られる、私がそれに与しない場合、同じような言葉を吐きかけられることがある。人権は民主主義の根幹であって、これを認めてしまうといろんなやつが自由に入ってくる。特に共産主義者が入ってくることに、非常な警戒感があるようだ。表向きは国民主権・基本的人権・平和主義を堅持する精神を支持しているふりをしているけれども、本音の部分ではこれらに対する反感、特にこれらを認めてしまった場合に自分に降りかかってくるかもしれない事態に対する不安があって、それに対処するくらいなら、自分を守ってくれる大きな力に依存した方がマシだという価値判断となる。この心情について理解する必要がある。

 共産主義は、富の再分配を論理的に体系化したイデオロギーであるので、その利権から恩恵を得ている、得ようとするすべての人から敵視される。現代社会では、非常に多くの人を敵に回している。逆に言うと、これを支持するのはどこからも恩恵を得ていない、得ようと思わない人たちである。ところが現実の共産主義政権は、富の再分配にはある程度成功したが、指導力という権力の再分配を行わなかったため世界中で崩壊した。従ってマルクス・レーニン主義を原理的に実行に移すことはありえない。日本共産党でさえマルクス・レーニン主義と決別して久しい。しかし反共を掲げる人たちはそれを認めず、攻撃対象を維持して自己のアイデンティティの確立と集団の結束を図るため、架空の共産主義者をでっち上げて攻撃している。頭を冷やせばわかることである。

 これ以上はきりがないからやめておこう。要するに、彼らは何か大きな力があって、それが自分を守ってくれることを期待しているのではないか。それが国であり政府であり、だから国が決めてみんなで団結しようとして気分が高揚しているときに、それに異を唱えたり、理解できない理屈を並べられたりすると、興ざめになり鬱陶しくもあり、腹立たしくもあって排除したくなるのではないか。だとすれば、その大きな力とやらが、本当にあなたを守ってくれるのだろうかということを、きちんと説明するのが最も良い方法だと思っていろいろ試すんだが、気分の高揚しているところへ水を差すと反撃されるんでね、難しいんよね。でも私はあなた方を理解しようと努力するよ。だからいろいろ書いてきてくれた方が助けになる。



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20160713 独裁への扉

 多分、これは私の推測だが、日本の社会や経済もこの先あまり明るくなくて、国際情勢も緊迫してて、何事もこれまでのんびりと平和だったような状態はではなくなりつつある、という現状認識は大方の人が共通して持っていると思う。そこをどう切り抜けるか、様々な階層で意見が分かれて、複雑な対立構造になっているのが、今の日本の世論だと思う。問題の整理が必要だ。伊丹のくせに偉そうなこと言うな、なんて言うな、みんながやればいいんだ。

 世界は多様な方が良い。モノカルチャーは破滅する。特定のイデオロギーや信条が強すぎる社会では生きていけない人が出る。だから政治体制は寛容な方が良い。国内的にも国際的にも厳しい世の中になったことは認める。武力をもって武力を抑止するという考え方も、一定の厳しい制限の元で認めた方が良い場合もあることは理解する。しかし人間は弱い。力を手にすると暴走することがある。武力を持った人間が暴走すると無辜の市民を巻き添えにする。だから戦争反対というスローガンができる。私は軍事的な抑止力を、国際紛争の解決方法として用いる考え方を全否定するつもりはない。ただ現状において、世界中の武力を軍事的に抑止できるだけの中立的で信頼できる統制力を持った文民組織がないから、この考え方に反対しているのである。したがって、日本の集団的自衛権の行使容認や、軍事力の拡大へと向かう憲法改正には反対する。

 もう少し説明したい。世界中の国家を中立的に統制できるような組織がこの世にあるなら、その文民統制の許での集団的自衛権の行使は認められるべきだと思う。しかし国連にしても、その他の国家連合にしても、その主要なグループの利権を温存するための組織であるので、そんな役割を果たしていない。だから現状としては、すべての国の集団的自衛権の行使は、実情として紛争を解決する手段になっていない。その段階で、軍事力の拡大へと向かう憲法改正について議論することは、特定の利権を温存するための行動であり、国民の側から見た国益に反しているので、私はこれに反対する。

 問題は、愛国心や国防という切り口で国民の心情を味方につけ、実は特定の利権の温存を図ろうとする別の動きに、それが利用されようとしていることである。このようなトリックは安倍政権になってから多く見られるようになった。例えば原子力発電所の安全性をいくら議論しても核物質を自然に戻すことなどできないにもかかわらず、原子力発電の全行程の一部にすぎない発電所の安全性の議論を以って、原発再稼働の論拠とするなど枚挙にいとまはない。つまり、普遍的な一般論で国民の合意を取り付け、そのうち政権に都合の良い部分だけをつなぎ合わせて自分たちの有利な向き、すなわち独裁に向かって政治を進めている。

 独裁が始まってしまうと永年にわたってそれは維持される。国民の多くは自由の制限された状態に置かれ、思考停止し、独裁体制によって利益を得る人は保身に走り、自分の有利な方へ駒を進めることによって生き延びようとする。ごくわずかな恩賞をありがたがり、結局、社会全体としては小さなコストで大きな労力を動員できるようになる。それは実に巧妙に、徐々に、洗練された方法で行われるので、気付かれにくい。しかし、文化の多様性は確実に失われるので、より大きな変動に耐えられるかどうかはわからず、社会としては極めて脆弱なものになる。

 独裁の過程で、国民の団結を維持するために、しばしば共通の敵が設定される。外国であったり、国内のマイノリティであったり様々だ。独裁者は、何度もなんども執拗に新たな線引きをして、体制に忠実な者を選りすぐり、より効率的に体制を安定化させようとする。その陰で多くの命が犠牲になり、才能が流出したり消えて無くなったりする。これらの損失も、社会を次第に脆弱にしていく。こうしたことは、歴史上イヤと言うほど繰り返されてきたことであり、その都度破滅を招いてきたのである。安倍政権が、これと全く同じ轍を踏んでいることは、その口から実際に吐き出された欺瞞に満ちた受け答えを聞くだけで十分だと思う。要するに、厳しい状況を切り抜けるために本能的に身を軽くして、身内だけに利益を集中して生き残りを図っているとしか思われない。つまり多くの国民は、いざとなれば切り捨てられる。右も左もない。国のために命を捧げるという模範的国民の本望通りになる。

 だからこそ、そうならないために、全く別の世界観が必要ではないのか。厳しい状態は、要するに経済発展の余地がなくなってきたことに起因する。好むと好まざるとにかかわらず、不都合な真実を認めなければならない。経済発展どころではない。いかに痛みを和らげつつ縮小していけるかだ。究極的には、ほぼ原始的な生活にまで帰着することを想定して、人類の英知の全てを結集し、人類そのものがめでたく自然界に帰ることができるようにロードラインを模索するべきだ。それはできるだけ緩やかであってほしいが、地球環境の状態と、人類が製造したすべての人工物を自然に戻すことのできる速さとの関係を、全く利権に左右されることなく、純粋に科学的に割り出さなければならない。あるいはもう間に合わないのかもしれないし、全人類が合意することなど、これも不可能に近い。しかし、何世代か後の我々の子孫が、人類と地球環境の悲劇的な破滅を味わうことを思えば、少なくとも議論を始める勇気だけでも持つべきだ。

 私は現在、一切の動力やケミカルを使わずに営農し、自給生活をしているが、日本経済の30分の1程度の経済規模しかないので、社会生活が破綻寸前である。残念ながら、あと一年余りで破産する見込みなので、一旦農業から撤退し、資金を作り直してから再挑戦する。本来、こんな目に会うこと自体、間違った社会だということを痛いほど感じている。しかしそれが現実だ。

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20160711 大阪兵庫護憲派全敗の謎

 参議院選挙の結果は、全国的には想定内だったが、兵庫と大阪で護憲派が全敗したことには大変驚いた。これが民意なのか。「維新」にあれほど撹乱されてもなお、彼らに期待をつなごうとする人がこんなにも多いということが、まず理解できない。しかしこれが民意なのだ。何を望んでいるのだろう。やはり力か、強い日本か、苦しみから解き放ってくれる誰かなのか・・・この事実をどう理解して良いのかわからないままに、時は過ぎていく。改憲の最後のハードルは国民投票だが、願わくば自由な議論が深まることを期待する。

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20160710 参議院議員選挙

 投票日になってしまった。投票の制度がいまいちよくわかってないんやが、諸般の状況を考えると、選挙区も比例代表も共産党でいこうと思ってる。

 自分なりに、ないアタマを絞って考えたんやが、まずほぼ間違いなく自民党は初志を貫徹するだろう。なぜなら私より上の世代は、上へ行けば行くほど、また一票の比重の重い地方へ行けば行くほど、「これまで世話になったから」自民党に投票するし、世代に関係なく生活の苦しさは景気の悪さが原因だと思い込まされている大多数の国民は、景気対策を期待して自民党に投票するからだ。いかに別の価値観を謳ったところで、これまでの価値観を変えまいとする人の方がはるかに多い。

 「これまで世話になったから」人も、「これからもお願いします」と思ってる人も、要するに今の生活から転落することを極度に恐れてる。原発に反対でも、戦争に反対でも、貧富の格差の広がりに不満を持っていても、現在のところ景気対策と称してカネを動かせるのは自民党以外にないからだ。しかし残念ながら、これらはセットになっている。原発に反対で戦争に反対で貧富の格差の広がりに不満を持っているが、景気は良くなってほしいというのはないものねだりだ。景気をよくしようと思えば、このセットを丸ごと受け入れる以外にない。それが嫌なら景気回復は諦めることだ。実際、身の回りを見渡せばすぐにわかる。もうどこにも景気を回復できそうな余地はない。余地を作るには、何かを破壊せざるをえない。最も効果的なものは戦争だ。戦争は、経済的な動機で行われるものだ。

 もちろん野党はこれに反対しているが、どれもこれも第一に自己保身があって、そこからの反対でしかない。あるいは論拠に厳密性を欠く。民進党とやらは呉越同舟どころか、もうなにがなんだかわけがわからんし、生活の党の三宅洋平氏の情熱には共感するが、細かいところで論拠が脆弱で、自分に都合の良いものを繋ぎ合わせて論陣を張っているように見える。山本太郎氏の言うことはもっともだが普遍性を欠き、もと役者だから致し方ないにしてもパフォーマンスが強すぎる。それに第一、その隣でじっと様子をうかがってる古狸が一番信用できない。だからどうしても私の一票 (厳密には2票) ・・・選挙区が違うから無理だけれども・・・を投じる、あるいは人に勧める気持ちにならないのだ。

 その点では、共産党は主張が首尾一貫していて最も体系的である。しかしながら理詰めで考える癖が強すぎて人心の動きに添いきれない。共産主義から出発しているから、既得権益を再分配することがイデオロギーの柱なのは理解するが、その達成を目指すベクトルと、景気回復を目指すベクトルが、最終的には衝突せざるをえない矛盾について論理的な整合性が見られない。

 要するに野党はいずれも、原発に反対で戦争に反対で貧富の格差の広がりを是正し終えた後の世界について描ききれていないから、人心は不安に煽られて、今の生活が壊されるくらいなら自民党に入れておこうとなるのだ。かくして、原発は再稼動し、戦争はいつかどこかで起こり、経済的弱者は切り捨てられる。そうしないと日本社会がこのままのギリギリのところを維持することさえ難しいということを、生活実感として共有しているからだ。

 原発を止め、戦争を放棄し、人々が平等になるには、経済発展を諦めなければならない。これは自明のことだ。しかし、私を含め大多数の日本人に、その勇気がない。国際情勢は、勝ち組か負け組か、どちらかに属することを強いられる。中立は極めて困難だ。ましてや、日本は長年勝ち組のさらにトップ・エリートだったのだ。勝ち続けることがいかに困難か、負けるとどうなるか、識閾下に日本人はよく知っている。電気もガスも水道もない生活に戻る勇気はないのだ。

 自民党が勝つのは、そういう国民の意識の表れであって、これも民主主義の帰結である。様々な陰謀があるかもしれないが、詰まるところ、国民は客観的に自分のできることとできないことを認識していると思う。不都合な真実は封印されて自分の身に降りかかって来ない楽園に住むことを、国民は望んでいるというわけだ。

 自民党を打ち負かすには、原始的な生活も悪くないということを国民の意識に浸透させる必要がある。原発を止めたら、日本は国際的なエネルギー利権のネットワークから除外されることになり、全てを人力で動かす必要に迫られる。戦争を放棄したら、日本は国際的な外交ネットワークから除外されることになり、もしかしたら鎖国を迫られるかもしれない。人々が平等になったら、ごく普通の一般的日本人が途方に暮れて社会秩序が崩壊するかもしれない。

 しかし、自民党を打ち負かすには、そこから出発することが、持続可能な社会の始まりであり、そこへ軟着陸するためのロード・ラインを示し、その着地点から一つずつ積み上げる社会を、明確なビジョンとして提示できなければならない。そのためには、お互いに到底受け入れがたい主張であっても、一つの国に共に暮らしているという意識を共有することを、寛容に友好的に忍耐強く話し合った上で、やはり持続的な社会に導くためには他に方法がないことが合意される必要がある。それは政治家の仕事ではない。安全な食品や安心な生活に気づいた人たちの草の根の運動になる。それができて初めて、我々は、我々の反対する根拠と、その反対の先にあるものを、明確に提示し、既存の政治的価値観を乗り越えることができるだろう。

 国際貢献のために武力を行使するのだと自民党は言っている。では武力を使わずに同じ国際貢献ができるという、明確で落ち度のないビジョンを提示することができれば、彼らはその論拠を失うことになる。その明確なビジョンがまだ誰にも提示できていないので、自民党は勝つのである。

 兵庫県では、改選議席のうちの一つを自民党に渡さないためには、野党第一党である民進党に入れることが有効とされている。しかしその一票が、その後に分裂するであろうわけのわからない魑魅魍魎の肥やしになることをも考慮せざるをえない。したがって私はこの歳になって生まれて初めての一票は、共産党に投じることにする。わかっとるやろな。

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20160707 全滅街道

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 ジャガイモの収穫、ある程度実っていた株は写真のほか数株で、あとはほぼ全滅状態。ちょっと原因がわからんが、とりあえず先に進むしかない。


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 ポット巻きした豆類もほぼ全滅。これは多雨と高温による過湿であろう。軒下の日陰でやるべきだったかな。

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20160706 サリークイーン補植

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 「サリー・クイーン」・・・発育が遅れていたために、苗代を再度代掻きしてトロトロ状態にしといて植え直したのだが、ここへきてなかなか良い状態に育ってきた。


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 全部苗取りしたら結構な数があるので、一部は苗代を三たび整えてそこへ田植えした。


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 その他大多数は、ちょっと過酷な環境だが、田んぼの脇で今シーズン減反する部分に植え込んだ。枯れ草を積み込んだままの畑状態だが、右の田んぼからの染み出しと地下水位で結構水分があるので、まあ育つやろ。


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 とすると、もしかして「サリー・クイーン」は「極晩稲」・・・こんな言い方があるのなら・・・なのではないか、いままで苗の成長が遅い遅いと思っていたのは、実は浸水が早すぎ、おまけに催芽処理までするのが早すぎただけで、7月中旬の田植えを目指して逆算すれば、もしかしたらうまくいくのかもしれない。その方が作業の集中が防げて良い。熱帯仕様のインディカ種の「パスマティ」と寒冷地仕様の「日本晴」の合いの子なので、ちょっと難しいんやな。

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20160705 泥だんご

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 福岡正信大先生のやり方を真似て、みなもすなる泥だんご農法といふものをわれもせんとてすなり。


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 おいおい、ちょっと気が早えんぢゃないのか・・・


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20160704 丹波黒大豆

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 丹波黒大豆、発芽したものとしてないものを仕分け、してないもののうち食われた形跡や腐ったらしきもものを除外して再度蒔き足す。同時に「七夕豆」と「ガルバンゾ」・「オクラ」・「花オクラ」・「고추」の種まき。梅雨後半の雨を期待する。


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 ところが、またヤラレた !! 今度はドームに覆って裾を固めた不織布を破って鳥が中に入った形跡・・・穴の手前に食い残しの発芽した種が落ちていた。スズメやな、とすると水を含んで膨らんだ大豆は全滅の可能性がある。とりあえず不織布を二重にして、他の作業を優先。


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20160714 WARABE is over

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 安倍ソーリダイジンがいろいろ面白い提案をぶっ続けてくれたおかげで、日本にもいろんな考えの人がいるんだなあと感心させられる毎日を送らせていただいており、また生まれて初めて投票とやらへ参加させていただく機会も与えられ、ご厚意に心から感謝しております。

 私は厳しい独裁的空気に満ちた家庭に生まれ育ち、幼少期には一軒だけ地区から離れた家だったために地域の友達コミュニティから壮絶ないじめを受け、小学校でも教師に脅かされる日々を過ごしたので、圧力に屈すること、生き存らえるためにコミュニティを抜けること、越境した先には別の世界が広がっていることを、子供心に体験した。今では幾分社会との折り合いのつけ方も心得、いろいろあっても命ばかりは取られる心配のない生活をしているが、ふとしたきっかけで、このような幼少期の刷り込みが表面化することがある。平時では何事もないのだが、世の中が窮屈になってくると、ある程度ガス抜きをしないと苦しくなってくる。しかしやり方をよく考えなければ逆により苦しい立場に追い込まれたり、思考が過激に走ったりする。

 私の思想的傾向が十分左翼的であるのは、以上のような原因からだと思う。本来、思想というものは個人によって自由に客観的に選び取られるべきものだが、そういうものが刷り込まれる時期というものは一生に一度しかないので、今となっては他の思想についてじっくりと比較検討することができない。手遅れである。たとえば朝鮮半島では、彼らにとって身に覚えのない、突然決められた境界線を隔てて思想を押し付けられたわけで、彼らは地域という、思想とは何の関係もない要素を根拠に、それぞれの陣営に勢力として取り込まれ、それぞれの思想を刷り込まれたのである。生い立ちや環境に影響されずに、思想というものが、それそのものの純粋な論理的対決として議論されることがいかに困難であるかがよくわかる。

 つまり多くの場合、対立しているように見えても実は同じことを言っていて、案外解決策は別のところにあったりする。ただ、お互いに対立し合うことによってアイデンティティを確立しているような場合、問題の解決は双方にとってアイデンティティの喪失につながるので、双方共に解決されることを阻害する傾向がある。その場合、そこにいる部外者が最も大きな被害を被る。

 さて、この一年間いろんな考えの人と話をしたりやり取りをしたりご高見を拝読させていただいたりしたのだが、私のように反自民・反安倍政権・反原発・反改憲・反アベノミクスを、議論の余地なく当然と考えている人間にとって、これらに賛成する人々の存在を一年前にはほとんど想像できなかった。しかし最近ではそういう人たちが身近にもだいたい3割程度いることがわかったので、なるべく彼らとコミュニケーションを取るよう努力してきた。あくまで印象だが、その結果を順不同で羅列してみる。もちろんこれは相手の落ち度を詮索して罵倒するのが目的ではない。どちら側の主張にも落ち度はある。それをほじくり返して罵倒し合うのはやめたい。相手を理解するための拙い努力の一歩だと思って、不適切な表現などあればご容赦いただきたい。

 私が感じる彼らの一般的傾向とは、概ね次のようなものだ。論理的思考が苦手で共感を重視する・社会的に成功して地位を確立している・社会に絶望している・よそものが嫌い・人権が嫌い・共産主義が嫌い・外国語が苦手・組織への忠誠心が強い・帰属意識が強い・変化に直面したとき保身に走る・統一動作が好き・団結力が強い・・・まあもっとあるけど、もちろん、それぞれの主張をしている個人が、同時にその他の主張をも是認しているとは限らないので、これらを一括りに一般化することは危険である。しかし、率直にそう感じられることは事実だ。ネガティブな表現が多くなったのは、自分と異なる考え方には違和感が先に来て、その良さには気づきにくいからだと思う。できれば相手側からの分析を聞いてみたいものだ。裏返せば、上に挙げた要素の反対が私に当てはまる。

 さて、私は理解しにくいものに出会ったときにはそれを理解しようとして論理的にアプローチするのだが、それをここでやっちまうと相手に疎んじられる。なぜなら相手は論理が苦手で、論理を越えて共感してくれることを望んでいるからだ。しかしこっちは無条件に共感することができないので、何らかの足がかりを求め、その手法としてますます論理を使う。すると相手はますます遠ざかり、やがて相互不信に陥る。運悪く対立してしまったとき、論理的に相手を批判してしまうと、相手は振り上げた拳を降ろす場所がなくなり、ますます態度を硬化させてしまう。場合によっては力づくで排除する。相手にとっては、こちらへの憎しみはたいそうなものだと推察されるのだが、こっちはわからないことを率直に訊いただけである。従って論理的には対立しておらず、一方的な反感が原因で不幸が起こっている。解決するには、お互いの思考パターンの不備を改善するしかない。

 社会的に成功して地位を確立している人は既得権益を守ろうとするので、それが脅かされる恐れのあるものを本能的に排除する。また逆に、社会に絶望している者のうち、論理的に物事を解決することの苦手な人は、大樹に擦り寄っておこぼれを期待する傾向があって、その大樹の権益を守ろうとする。世の常として、富を得たものが積極的にそれを分かち合おうとすることは少なく、擦り寄って分配を望んでも叶えられないことの方が多い。自分の努力で財を成した人ならなおさらである。それを富の偏在だ不平等だ再分配だ革命だと叫ぶのは、たいてい持たざる者である。持てる者と持たざる者の対立は固定化されることが多く、世論が分断され、往々にしてその対立は為政者の思惑に利用される。中立で信頼できる政治権力によって、社会奉仕の一環としての富の再分配がストレスなく制度化されるようコーディネイトされれば、対立は解消に向かう。逆に言うと独裁者がつけいるチャンスでもある。

 よそ者が嫌いである。理解しにくいものに出会ったときに、反射的に警戒する傾向がある。おそらく保身の裏返しと思われるが、相手を理解しようとする気のなさ、興味のなさは相当に強い。逆に言うと、相手から理解されようとする気持ちや、理解を得て行動しようとする配慮にも欠ける。極端な場合、自分の行動に周囲の理解は必要ないとさえ考える。例えば自動車の運転でウィンカーを出したことがない、つまり右へ曲がろうが左へ曲がろうが自分勝手で、止まるべきは相手であると本気で思ってる。運転免許など、自分が自動車を自由に使うための手形程度にしか認識しておらず、交通ルールなど忘れて久しい。程度の差こそあれ、排他的傾向を持つ人とのコミュニケーションは難しい。いつどんなタイミングでどの程度の破壊力を持つ地雷を踏むかわからないからだ。これといった対処の仕方が思い浮かばない。

 人権が嫌いというか、「お前には人権の匂いがする」と言われたことが何度かある。意味がわからないのだが、たぶん全体で何かの行動を取ろうとするときに、個人としてその行動の是非を論じてしまう傾向に対する反感ではないかと思う。何度も経験したことだが、クラスで特定のやつをいじめようということになって、私にもそれに加担するよう迫られる、私がそれに与しない場合、同じような言葉を吐きかけられることがある。人権は民主主義の根幹であって、これを認めてしまうといろんなやつが自由に入ってくる。特に共産主義者が入ってくることに、非常な警戒感があるようだ。表向きは国民主権・基本的人権・平和主義を堅持する精神を支持しているふりをしているけれども、本音の部分ではこれらに対する反感、特にこれらを認めてしまった場合に自分に降りかかってくるかもしれない事態に対する不安があって、それに対処するくらいなら、自分を守ってくれる大きな力に依存した方がマシだという価値判断となる。この心情について理解する必要がある。

 共産主義は、富の再分配を論理的に体系化したイデオロギーであるので、その利権から恩恵を得ている、得ようとするすべての人から敵視される。現代社会では、非常に多くの人を敵に回している。逆に言うと、これを支持するのはどこからも恩恵を得ていない、得ようと思わない人たちである。ところが現実の共産主義政権は、富の再分配にはある程度成功したが、指導力という権力の再分配を行わなかったため世界中で崩壊した。従ってマルクス・レーニン主義を原理的に実行に移すことはありえない。日本共産党でさえマルクス・レーニン主義と決別して久しい。しかし反共を掲げる人たちはそれを認めず、攻撃対象を維持して自己のアイデンティティの確立と集団の結束を図るため、架空の共産主義者をでっち上げてそれを攻撃する始末だ。頭を冷やせばわかることである。

 これ以上はきりがないからやめておこう。要するに、彼らは何か大きな力があって、それが自分を守ってくれることを期待しているのではないか。それが国であり政府であり、だから国が決めてみんなで団結しようとして気分が高揚しているときに、それに異を唱えたり、理解できない理屈を並べられたりすると、興ざめになり鬱陶しくもあり、腹立たしくもあって排除したくなるのではないか。だとすれば、その大きな力とやらが、本当にあなたを守ってくれるのだろうかということを、きちんと説明するのが最も良い方法だと思っていろいろ試すんだが、気分の高揚しているところへ水を差すと反撃されるんでね、難しいんよね。でも私はあなた方を理解しようと努力するよ。だからいろいろ書いてきてくれた方が助けになる。


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