一昨日までにシーズン前半の農作業をほぼ終え、あとは土手などの草刈りを残すだけとなったので、猛暑でもあるし昨日は休養と決め込んで、夕方からのバイトまで昼寝をしていた。15時から平成の玉音放送があったので、それを最初から最後までネットで見た。「お言葉」の後、解説が延々と続いたのだが、話題は生前退位の法的手続きや天皇陛下の公務の実態や、皇室に関わる制度についてがほとんどであった。もちろん、それが主要なテーマだったから当然のことではあるのだが、私は一種の違和感・・・最も重要な要素が、その議論から抜け落ちている・・・を禁じえなかった。
私は、今回の「お言葉」は、天皇陛下ご自身による皇国史観の否定、といって言い過ぎならば、少なくとも国のあり方としてその見方を国民に強制すべきでないことの意思表明であったと思う。言葉は慎重に選ばれているので、直接的な表現は避けられているが、天皇が象徴であることの意味、つまり日本の長い歴史を通じて天皇が存在し続けてきたことを尊重しつつも、現代においてはそれは国民が統合できる最後の精神的支柱 (政治的ではなく) であることを、寛容の精神で国民に受け入れられることを望む、という天皇陛下の希望の表明であり、それが「お気持ち」であったと思う。
それは、「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」という言葉に短く表現されている。日本全国を隅々まで、折あるごとに訪問されたり、時宜を得た海外への旅のほとんどすべてが、その言葉の実践であったと思う。私は唯物史観をとる者だが、その天皇陛下の行動を、心から尊敬する。よどみないお志が、論理を越えて心に刺さるのである。その内容、時々に発せられたお言葉を見るにつけ、全体を分け隔てなく包み込む寛容の精神に支えられているのがわかるからである。だから特別な敬語も使う。相対立する様々な考え方、たとえそれが皇国史観であっても、また唯物史観であっても、日本という国に生きる以上、日本は一つしかなく、この国の文化を継承する当事者としてこの国に生きる我々を、寛容の精神でまとめる制度として、象徴としての天皇制というものがあり、これを維持継続していくことが日本にとって良いことだと、それを理解してほしいという気持ちがにじみ出ているからである。
だから、日本という国の平和と安定のために、象徴としての天皇制の安定が不可欠であって、それは代理であってはならず、天皇自身が象徴して立たなければ意味がない、だから職務を全うできているうちにそれを皇太子に引き継ぐ必要があるが、現在その制度がないので、そのためにかかる諸問題について国民全体として考えてもらいたいということを、天皇陛下は述べられていたのだと思う。なぜ天皇が象徴的存在となったのか、なぜそこまでして天皇が象徴であることを守らなければならないのか、なぜそれが日本の安定と平和に寄与するのか、制度論ではなく、寛容の精神を受け入れることの困難さを理解しようとする気持ちが抜けていては、ただの形式論に落ちてしまう。そこに違和感を感じたのである。偉そうに言うてごめんよ。