さてと。二週間も放置したんで田畑はどないなっとるかいなあと心配しとったんやが・・・まあ俺なんかおらんでも作物はほぼ元気に育っとるし、ソラマメとエンドウあたりから出荷して行きましょか・・・苗代の方も、セルトレイ押し当て捲種は大成功で、なーなかええ間隔を保って苗が生え揃っとる。とーろが良う見てみたら、なんと品種を変えて種もみを購入した「紫黒苑」という黒米だけが、まったく発芽してない。ううむ・・・三年連続で黒米に縁がないか・・・これはちょっとマズイんで、どなたかお願い、もう種まきは間に合わんやろから、苗の余ってる人、余りそうな人、分けてください。1,000株ほどあれば嬉しいです。黒米やったらなんでもいいです。
2017年05月29日
2017年05月27日
20170527 Uyghur-Pamir
旅を振り返る。中国へは、以前からとても行きたいと思っていた。なぜなら、隣国でありながら社会体制が異なり、理解しがたい情報ばかりが目につくからである。私は1960年生まれなので、リアルタイムに毛沢東が生きていた。物心ついた頃に聞き知る中国・・・当時は「中共」といった・・・は、破壊と暴力と殺戮と、けたたましい論争に明け暮れている印象だった。世界中が西と東に分かれて罵り合っていた。西でもちょっと東のことを口にすると咎められるので、東に関しては清廉潔白であると演じなければならなかった。なにがどうだからそうなのか、子供には全く分からなかった。万博でソ連館へ行ったと言っただけで職員室に呼び出され、長時間の詰問を受けた。光り輝くソ連のパゴリオンと、光り輝く白人のねーちゃんの美しさが強く印象に残っている。
それは、いい大人になった今も、実は変わらない。事実上社会体制が変わった今でも、やはり中国という国はわからない。わからないけれども隣国なのだ。いや、それ以上にわからないのは、なぜ多くの日本人が中国を嫌うのか、個人的に恨みを持ったことのない人までが、なぜ中国を悪し様に言うのか、中国製品は粗製濫造の産物だというが本当か、中国人は平気で往来で用を足すというが本当か、そんな国民・・・中国風に人民といおうか・・・が支えている国は、社会は、街は、農村は、一体どうなっているのか、それを是非見てみたかった。
中国人民の名誉のために、先にこの部分だけに答えておく。決して彼らのほとんどはそんな人たちではない。短い旅ではあったが、公の場所で用をたす人を私は一人も見なかった。中国製の子供のズボンの股は排便のためにあらかじめ開けてあるというのは嘘だ。それより、そんなものを目ざとく見つけてネットに載せる日本人、それを格好の攻撃材料にする日本のネット難民の性根の方が情けないと思う。むしろ中国人民の個人個人はとても親切で、右も左も言葉もわからないこの旅人の手を取ってわざわざ目的地へ向かうバスを探して運転手に伝言してくれ、周りの人たちもそれを聞いていて降りるべき場所が来たら、まるでお輿にでも乗せるかのように降ろしてくれ、行くべき方向を念入りに指し示して教えてくれるほどの人たちだった。物を落としたら拾って手渡してくれるのも日本人と変わらない。危険があれば注意を促してくれるのも普通だ。つまりどこの国とも変わらない。
しかしそれは例えばバスや建物の中という、閉鎖的な空間の場合である。往来のように、誰が見ているかわからないような場所では、確かに彼らは極端に無表情になり、できるだけ人と関わらないようにする。そのギャップに当初は戸惑うのだ。何事においても几帳面な傾向のある日本人とは違って、まあいろいろと大雑把ではあるが、街も社会も秩序立っていて整然としているし、平時においては特に混乱はなく治安は良く保たれている印象だ。もっとも、これは、もういやというほど書いたが、極めて強力に管理され、監視されている社会だからそうなのであって、公共の場所では声を潜めてそそくさと通り過ぎるのが彼らの法であるようだ。それはある意味、致し方のないことなのかもしれない。そう、そのへんが中国のわからないところだ。
初めての中国旅行にしてはディープな旅程であることは承知している。私の初めての海外旅行がザイールであったのだから、これはどうしようもない。新疆ウイグル自治区・・・要するにシルクロードへの憧れである。もちろん私がこれに興味を持つ直接のきっかけとなった「NHKシルクロード」の時代から40年近くが経とうとしているので、そこに映し出されたバザールや人々が、そのままの姿でそこにあるとは思っていない。しかし、やはりそこが古のシルクロードであり、その残滓でも伺えるのではないかと期待したことが、この旅の重要な動機となったことは事実である。この部分の結論も一言で片付く。それはまさに残滓であった。詳しくは、これも、もういやというほど書いた。
日本人にとっての憧れのシルクロードは、中国にとっては民族問題を抱えるナイーブな地区である。同じひとつの新疆ウイグル自治区が、両者にとって全く正反対の意味を持つ。それが、この旅を極めて困難にする要因になった。ここも結論だけを先に書いておこう。私の訪問したカシュガル以外の西域南道に関しては、ここを安全に旅するには、現地の旅行代理店のツアーに参加するか、少なくとも現地人、できれば漢人のガイドをつけた方が良い。しかし、そうすれば莫大な費用がかかり、おまけにこちらの意図とは無関係に、現地地方政府お抱えの観光施設を巡って散財させられる。それが嫌だといって単独で行動すると、絶え間ない検問と身柄拘束の面倒を被り、短距離の移動すらままならず、旅そのものが困難になる。おそらく自治区の他の地区でも同じようなものだろう。
中国政府や地方政府は、自治区の民族問題が外国人に知られることを嫌う。外国人が政府のコントロールのない状態で、一般のウイグル人と接触することを嫌う。一般のウイグル人も、そのような状態で見知らぬ外国人と接触することを恐れる。どこで誰が監視しているかわからないからである。同様のことは、当然チベットにも当てはまる。チベットは、現在単独での入境すらできない。全てツアーという管理旅行でなければ不可能だ。そこでは宿泊するホテルから食事、アトラクションに至るまで、すべて管理されている。しかも高額だ。歴史的にモンゴルを失ってしまった痛手があってか、中国は国内の民族問題に極めて神経質だ。そのことは、情報として聞き知ってはいたが、実際どのように管理されるのかまではわからなかった。それを痛いほど経験できたことは、今回の旅の収穫であったと言えるだろう。
つまり、それが中国の実態であり現状であり、要するに中国はロシアと同じく、多数の被支配民族を抱え込んだ、事実上の帝国主義国家だからだ。イデオロギーが共産主義であろうが、被支配者にとっては帝国主義のなかで生きており、支配者はそう振る舞わざるを得ない。それは、まったくイデオロギーとしての共産主義の価値観と相容れないものだが、そうしないと国家体制が立ち行かないのだ。だからかつては鉄のカーテンで遮断して自分たちの裏庭を作り、既成事実作りに汲々とした。その結果、今があるわけだ。奇しくもそれを目の当たりにできたのは貴重な体験だったと言えるだろう。しかし普通の観光旅行としては、決して楽しいものではない。
新疆ウイグル自治区に関していえば、そこはすでに憧れの対象たるシルクロードではなく、中国の将来の食い扶持を賭けたあらゆる資源、すなわち観光・物流・工業生産の拠点としての実に広大で不毛な開発現場である。それは、未だ市場開拓が十分に進んでいない、西に隣接する広大な中央アジアやロシアを向いている。極めて大規模に、急ピッチで開発されており、そのための労働力は中国内陸部の開発途上のエリアから次々と送り込まれている。私の搭乗した国内航空便は、そんな労働者たちで満席だった。新疆ウイグル自治区は辺境にあるため、出稼ぎ労働者の賃金が最も高いのである。中国は、開発主体に対しては気前よく資本主義を適用するが、開発される側すなわち現地の農民など土地所有者 (??) に対しては共産主義を適用して・・・いやいや、もともと中国政府としては私有財産を認めていないのだから、これを没収して開発に供与するのは当然である。実際に農地をブルドーザーで潰すのは、遠方から送り込まれて来た漢人労働者であって、当然のことながら現地のウイグル人との間で衝突が起こる。それを防止するために膨大な数の警官・・・というか、これも遠方からリクルートして来た貧困な人民に制服を着せ武装させて、町の辻ごとに配置してこれにあたらせる。その光景の異常さについては、これももういやというほど書いたが、騒然・緊迫・異様・異常・恐怖・威圧・・・要するに厳戒態勢であった。
そんななかでなぜウイグル人が結果的に黙っているかというと、これは私も全く考えが及ばなかったことだが、ウイグル人は中国国籍を持っていながら、漢字の読み書きがほとんどできないからである。漢人との間で簡単な会話はできるが、書かれた文書は、ほとんどこれを理解できない。従って極めて単純な労働にしか就くことができず、いかに誇り高い羊飼いであっても、いかに有能な農夫であっても、経験豊かな職人であっても、牧地を奪われ農地を壊され、家を潰されて財産も没収されて、極めて単純な労働という生活手段だけを与えられ、粗末な集合住宅に押し込められたり、縁もゆかりもない遠方へ送られたりして、社会から浮浪してしまう。私が見たものは、開発の手が伸びてこないエリアで牧畜と農業にしがみつくウイグル人の怯えた目、それらが奪われ、その日の仕事にもあぶれて路上にたむろするウイグル人の死んだ目、運良くありついた警官の仕事で同胞を取り締まらなければならない、あるいは取り締まられなければならないウイグル人たちの麻痺した目、であった。
西に向かっては以上のようにして、中国は己が生き延びる可能性を探っている。そして南や東に向かっては海洋進出、すなわち南沙諸島や尖閣諸島の問題も、これと全く同根にある。中国人民自身が言っている。尖閣諸島の領有権なんて、後になって言い出したことだと。彼らは百も承知だ。だが撤回はしない。できないのだ。なぜなら国の存立、人民の存立がかかっているのだから。いまや世界の人口の5人に一人は中国人である。つまりこれは地球全体の問題であって、二国間の領有権の問題では済まされない。中国をどう「解決」するのか。世界全体で真剣に取り組まないと、本当に地球が壊滅してしまうだろう。彼らはフェアな取引などしない。すでにケツに火がついているので死に物狂いだ。それほどの勢いで、もう回りはじめている。いや、とっくにそうなっていたのだろう。目の当たりにするのが遅すぎたのかもしれない。
日本とは、日本人とは全く異なるのだ。同じような顔をしていながら・・・言い方は悪いが、極端に言って、彼らはほんの30年ほど前までは、普通に人民同士、些細なことで殺し合いをしていた。そこへ改革開放政策が持ち上がって、イデオロギー論争よりも経済発展に集中するようになった。歴史的に、集中するとやりまくるのが中国人の特質であって、一方へ振れはじめたら、レッド・ゾーンを振り切るまで止まらない。しかも、今は資源が豊富にあって、人力をはるかに超えた規模で破壊が進んでいる。戦後70年の長きにわたって、安定して成熟した社会を営々と築き上げることのできた、ほぼ単一民族国家の日本とは全く異なるのだ。ある程度共通の常識を持ち、社会が手に届くほどの適当な規模である日本とは違って、中国では、国家は遥か雲の上の存在だ。もはや概念でしかなく、現実のものではない。「有 (ヨウ = あるぜ) !! 」と言って商品を出してくるときの誇らしげな顔、「没有 (メイヨウ = ないよ) 」・・・だってしょうがないだろ、という、きまってやるせない感じと、開き直った、ちょっと怒りのこもった目でそう言う彼らの表情が、なんとなく全てを物語っているような気がするのだ。そうだ、しょうがないんだ、本当に、だって、国家はずっと雲の上にあるんだから、俺にどうしろっていうんだ・・・だから、すくなくとも、私には中国人民を悪し様に言うことはできない。
そして中国製品を、経済効率を優先して安く買い叩こうとするから、彼らは粗製乱造に走るのであって、ちゃんとしたところへ行けばちゃんとしたものがある。なぜなら、彼らと共に食事をしてみるとわかるのだが、安飯屋でさえ極めて豊かで民族色が濃く、実にバラエティに飛んだ美味しい料理が出てくる。日本のように加工食品の組み合わせでお茶を濁したようなものはない。それに、なにより彼らは我々が常用する漢字だけで会話をしているのである。文字数は二千文字強で、日本語で使う常用漢字とあまり変わらないらしいが、とにかく純度100%、仮名文字のようなツナギが一切入ってない十割そばを常食しているようなものである。膨大な漢字に囲まれた街で過ごしてみると良い。思考回路の層の厚さを実感する。これだけの文字を一つの論理体系の中に落とし込んで文法化されている言語は他になく、それを日々操って生活している民族も、おそらく中国人を於いて他にあるまい。ことだけを見ても、中国人民の頭脳の洗練さを示す証左であると私は思う。
それにひきかえ日本人は、この中国の漢字を借りて来て、一部は漢語として、それに収まりきらないものは音写して、さらにつなぎにひらがなやカタカナを交え、なんとか「日本語」を形成している。まるで補助輪をつけなければ自転車にも乗れない子供みたいなもんだ。これほど混乱した文法体系を持つ言語も世界にまたとなく、それを理解して日々会話している民族もまた特異な存在であろう。そんな借り物文化で自己のアイデンティティを如何の斯うの言う民族の末裔が、この大陸の超大国で数千年を生き存えてきた民族の末裔に対して、何を物言えるだろうか・・・
彼らの一人とでも友達になってみればわかる。日本人同士の中で醸し出される平和で平板な単純思考と、彼らとの間で交わされる、さまざまに重層化された思慮深さと慎重さの決定的な違い。複雑な思考の同時進行。彼らは数千年の歴史の中で、支配したりされたりする立場の変遷が血に刷り込まれている。単一民族でそのような歴史の激変の経験に乏しい島国の日本人とはワケが違う。彼らが日本人 (リーベンレン) を「小さい」と感じるのは当たり前のことである。国土といい人口といい、日本は中国よりもはるかに小さいではないか。それを「小さい」と言われて腹を立てているようでは、まだまだ子供だ。補助輪をつけなければ自転車にも乗れない子供だ。その子供が、乏しい自分の経験をもとにちょっとひらめいたアイディアを、不器用に中国人に押し付けて物を作らせ、買い叩いたら粗悪品しか出てこないのは当たり前のことである。彼らは日本人のように一本気に努力すれば必ず報われるなどとおめでたいことは考えない。叩かれれば叩かれてもやっていけるように手を替え品を替えて生き延びるだけである。その手心を積み重ねてノウハウを蓄積し、その宝を集めて今、大きな勢力になっている。それを盗まれたなどとほざくのは寝言である。破れても破れても動かぬ勝者、それが中国であるとすれば、勝っても勝っても走り続けねばならない敗者が日本の姿のように思われてならない。
さて、とはいっても中国は複雑怪奇で、体良くウイグル人を支配下に置いているのは紛れもない事実である。新疆ウイグル自治区は、果たして「中国」なのか・・・私は表通りから外れて、まだ取り壊されていない、「老城区」と呼ばれるウイグル人の旧市街居住区をさまよい歩いた。それらの多くは、すでに取り壊し予定のために柵で囲われていたが、その中に入ると別世界であった。光も音も、街外れにある麦畑から渡ってくる風の匂いも、羊やロバの糞の匂い、ポプラ並木が延々と続く情景、三輪バイクトラックやロバ車を扱うウイグル人たちの様子・・・それは全く中央アジアの風景であって、そこは明らかに中国の風景ではない。ここは中国ではない。しかし、では歴史的にこの辺り、そして今ウイグル人と呼ばれている人々、さらに彼らの居住するエリア、要するに東西トルキスタンは、歴史的にどういう民族分布をなしてきていたのか・・・私は学者ではないので、俗説に基づいた結論しか出せない。要するに混沌である。
中国歴代王朝は、周囲の遊牧民の勢力を利用して、敵対する遊牧民や異民族の征服王朝と戦った。シルクロードを往来する商業利権を争った歴史である。中国は漢の時代の昔から、すでにこの地区を支配しては破られ、また支配してきた。そういう意味で、ウイグル人が歴史的に居住してきた東西トルキスタンは時々中国領であった。「誇り高きウイグル人」、「国なき民」などというが、現在のウイグル人と、古代遊牧帝国であった東突厥を滅ぼしたウイグル帝国とは直接的な民族的連続性はなく、「ウイグル」を冠する民族国家は、ごく小規模短命ないくつかの勢力は別として、その後歴史に登場しなかった。現在「ウイグル人」と呼ばれている人たちは、第二次世界大戦末期に共産主義的再編がこの地でも行われたときに、中ソの民族別支配の枠組みを作るために復活した名称であって、実際、同じ「ウイグル人」でも、明らかにモンゴル系の顔をした人から、縮毛のコーカソイド、碧眼の白人までおり、彼らに生物学的な基準における統一性はないといえる。あるとすれば、漠然と「トルコ系」というくくりになるが、それとても、彼らの風習や伝承つまり民俗学的分類からすると、むしろイラン系のソグド人の血を受け継いだと考えられるグループも存在する。
つまり、「ウイグルの復興」という言葉があるが、実体として何を復興しようとしているのかが、素朴にわからないのである。まあ、部外者である日本人が「ウイグル人」の民族性に関してモノを言うことは差し控えるべきと考えるが、ありもしない民族的アイデンティティを、さもあるかのように仮定して、そこへ特別な感情を注ぎ込むのもどうかと思う。「ここは中国ではない」などと言って中国の支配する現状を批判するのはお門違いだ。「漢人」と「ウイグル人」という二極の対立があると考えると事実を見誤る。ここにあるのは、数千年にわたる民族興亡がもたらした混沌の結果であって、表現は適当でないかもしれないが、現状「ウイグル人」が「漢人」に事実上支配されているのは、歴史的な帰結と考えるべきである。もちろん私は「ウイグル人」を卑下しているのではない。支配されていろと思っているわけでもない。彼らに古くから伝わる多くの音楽をこよなく愛するからこそ旅に出たのである。しかしそれを現状の「ウイグル人」の音楽という枠の中で捉えると、それぞれの伝承のルーツを見誤る。今回の旅でも多くの旋律に触れることができたが、尚一層「ウイグル人」という概念の曖昧さを実感したので、このようなことを書いたまでである。
「ウイグル人」が、その名のもとに独立するのではなく、もっと普遍的なレベルでの中国からの分離独立が実現しないと、結局のところ新たに細分化された民族紛争をこの地に持ち込むだけのことになるのではないかと危惧するからである。だからといって中国が支配し続ければ良いというわけでもなく、全くわからないというのが本音であって、実に大陸的で巨大な混沌を前にして、それに恐れおののいたというのが正直なところである。中国は混沌。
2017年05月26日
20170526 Lahore-KIX
Uyghur-Pamir 2017.05.26 Lahore-KIX
Lahore発Bangkok行タイ国際航空TG346便、機材はAirbus A330-300型、23:45 (5.25) 定刻に出発し翌日 (5.26) 早朝6:00定刻に到着した。時差が+2時間あるので、4時間のフライトである。上がってすぐに機内食が出され、すぐにおやすみモードになった。到着時刻が近づくとシートのモニタに地球儀を模したイメージが映し出されて、ご来光を受けて機影が空港に到着する趣向はなかなか凝った作りだった。到着後、乗り継ぎ客はクリアであるにも関わらず再び保安検査があり、これがウルムチ並みの手際の悪い厳しさ、しかも態度の横柄な係員のために、せっかくの旅気分がぶち壊しになった。「ほほえみの国・タイ」・・・。気を取り直して、いよいよ最後の行程、関空行きを待つ。乗り継ぎ時間が1:40で保安検査にだいぶかかったのでそんなに待たなかった。ゲート付近には何もなく、米ドル処分のために免税店でタバコのカートン売りを買ったらバーツの小銭が残った。良い記念だ。これで手持ちの現金は、予備の日本円を除いてほぼ使い切った。
バンコク発関空行タイ国際航空TG672便、機材はAirbus A380-800型、帰途は、旅のうちで最もつらい時間だ。目の前のモニタには、全く無慈悲にも、刻一刻と日本に近づく機体が映し出されている。四国上空、もうええて・・・明石海峡大橋、いらんちゅうに・・・あああ、帰ってきてしもた。15:55定刻到着。
相変わらずルーズな入国審査をすっぱ抜いて急ぐ。なぜならこれからバイトだからである。そうなのだ。私はバイトの当日に帰国する無茶な計画を立てて飛び出したのだ。関空快速乗って丹波路快速乗って普通電車に乗り換えて、自転車乗って帰宅してそのままバイト先へGo !! 待っていたのは、改装研修で疲れ切ったアルバイト・スタッフとケツに火ィのついた本社社員の罵声のみだれとぶ、壮絶なまでの日本のブラック企業の修羅場なのでした。現実とは、かくも・・・
2017年05月25日
20170525 Lahore
Uyghur-Pamir 2017.05.25.1 Lahore
旅の最終日である。泣いても笑っても今日で終わりである。しかしLahoreからの帰国便のフライトは23時である。楽しもう。というわけで、ホテルの朝食バイキングをゆっくり楽しんで排便をし、帰国に備えて髭を剃った後、歩きなれた目抜き通りを北上して城壁の中に入り、もう何度か通りかかって声までかかるようになった店先で手を振りながら宮廷を目指す。この風景はまさしくインドである。
Lahore Fort・・・素晴らしい、美しい、広大な宮廷である。下界の喧騒とは打って変わって、イスラムの信仰の空気に満ちた、荘厳な静けさがある。早朝なので余計そう感じるのかもしれないが、感じるままに、園内に設えられたあらゆる空間を楽しむ。柱・床・壁の細部に施された繊細な装飾、イスラム風のアーチのついた窓、その形に切り取られた風景、そぞろ歩く信者たち・・・どれをどうとっても美しい。私がイスラムを愛するのは、このように世界が美しいからだと思う。このような美しさは、おそらく昔の日本にもあったのだろうと思うが、今では日本人の多くが忘れ、手の届かないところへ行ってしまった。この美、この安息、神をこれほど近くに感じられることは、モスクの中を置いて他にない。トルコでも、エジプトでも、ウズベキスタンでも感じられたことだが、イスラムの世界は寛容、そこに真髄があると思う。見ず知らずの信者たちに混じって、モスクの中のさまざまな床でくつろぎ、寝そべり、彼らと共に神を感じる時を共有する。
やがて観光バスが何台か到着し、団体様のご到着となってあたりが騒々しくなる。学生の修学旅行か、たちまちのうちに珍しい日本人は取り囲まれて「セルフィー」攻撃に見舞われる。早々に退散して宮廷の外に広がる庭園を散策する。こちらも建築美、様式美に満ちていて、それらは外界を様々な角度から、様々な切り取り方で見せてくれる。幾何学的な遊び心に満ちていて、歩き回るだけで全く飽きがこない。しかし陽が昇るにつれて暑さは厳しくなり、手持ちの水も尽きたので一旦ホテルに戻った。
チェック・アウトの時刻が近づいていたので手続きをお願いし、帰国便が深夜であることを伝えると、快く荷物を預かってくれ、おまけに空港への車まで出してくれると言う。なんと、そこまでしていただかなくてもと恐縮していたのだが、私が終始このホテルを快適だと褒めたものだから嬉しいらしい。パキスタン人、気持ちで動きますね。その気持ちにお答えして、外で食べるより随分割高になるのは承知の上で、ホテルのレストランでランチにしたのでした。
さて、Lahoreから東へ30km、隣国インドとのWagah国境で、毎日行われているセレモニーがある。ランチの後は昨日道に迷った時に見つけた古本屋街を散策してからそのセレモニーに向かうことにした。古本屋街は、目抜き通りの一本西にあって、文房具や紙問屋、新聞関係などの印刷物を売る商店街の先にある。そこから道路を隔てるとパンジャブ大学や博物館があって、いわば文教エリアである。その周辺に露店を含めてたくさんの古本屋がある。特に目的があるわけでないのだが、アラビア文字で埋め尽くされた書物を何冊かほしかったので行ってみたら、これが骨董市などもやっていて大変面白く、ちょっとした大道芸なども見られて、つい時間を使ってしまった。
おまけに百姓の性で、種屋を見つけてしまって野菜の種などを数種類買い、そこの親父にバスマティの種籾か、せめて玄米だけでも手に入らぬかと交渉して見たのだが、結果的にダメ。政府の食料政策がきちんと徹底されていて、稲の種籾は許可がないと購入できず、しかもパキスタンでは、年中何処かで米が穫れるため、これを一年間貯蔵するという考え方がなく、籾から直接白米に精米するため、玄米というものがほぼ存在しない。まことに親切なことに、種屋の親父はわざわざ知り合いの米屋や農家にまで電話して尋ねてくれたのだが、結局外国人旅行者がこれを手に入れることはほぼ不可能なようであった。
セレモニーへ行くには駅前からバスに乗る。そこから駅へ行く交通機関を探す手間がないので歩いて行くうちに、急に暑さにやられた。間際に色々と盛り込む悪い癖が出たのだ。駅までたどり着いたはいいが、どうも頭痛がする。数ヶ月前には近所で自爆テロもあり、この界隈は危険だ。駅前のバス・ターミナルも常に混沌としていて、この雑踏の中でAgah行きのバスを探すと考えただけで、いつもならな立ち向かってゆく気力が、この時は全く出なかった。暑い、ものすごく暑いのだ。どうやら体力の限界がきたようだ。かといって休めるような場所はない。弱音は命取りだ。すぐさまタクシーを見つけて乗り込んだ。幸い、運転手はホテルの場所を知っていたので、すぐに車を出してくれた。汗びっしょりでホテルに着くと、レセブショニストは様子を察して、ロビーのソファに私を導き、冷たい飲み物を持ってきてくれた。いやもう、なにからなにまで・・・
結局そのソファで小一時間ほど休んでいると回復したので、無理をせずその周辺の散策で旅を締めくくることにした。後は帰るだけなので屋台料理を解禁、チャパティに羊の挽肉などの具材をたっぷりのせたピザ風のスナックやポテトフライ、サトウキビの押しつぶした甘い飲み物とアイスクリームなど、目抜き通りの屋台で最後の夜を楽しんだ。しかし、衛生状態は目に余るものだった。サトウキビ・ジュースの売り子はコップをろくに洗いもせず、ハエがどんどん機械の中に入り込むのも平気で、暑いからみんなそれをどんどん買うので、私もそれをわかっていながら買って飲んだら・・・あとで当然の報いを受けました。
その帰り道、いつも閉まっているシャッターの脇に固まる人影があって、さっと身を引いたのだが、そいつが腕に注射器を射し込んだまま崩折れていった。あの様子では、おそらくそのまま・・・そんなパキスタンの一面も最後に見て、ホテルのロビーに戻ると、ちょっと早いが運転手が到着していたので、深々とお礼を述べてホテルを後にした。車は一路空港を目指し、郊外の住宅街などの風景を見ながら快調に飛ばした。途中、大きなショッピング・モールをの前を通った。しまった・・・こういうところも見ておきたかったのだが、もうさすがに遅かった。車は空港連絡道路の手前で保安検査を受け、21時に空港に到着した。Lahoreの空港ターミナルは、こじんまりとしたロビーとカウンター、検査場と免税店がいくつかあるだけの、国際空港の割には小規模なものだった。結局Soustで人民元から両替した現金だけでここまで来れてしまったが、手持ちも1,000PKRを切っていた。際両替するのもなんだし、地元に落としていこうと思って、有り金叩いてパコールを買った。外で買うより3倍高くついたが、それでもお釣りが来たので、待合室にあった募金箱に残りを入れて、旅を終了した。
2017年05月24日
20170524 Lahore
Uyghur-Pamir 2017.05.24.2 Lahore
旅の友もLahoreで降りた。姉の家に行くついでに友達にも会うと言う。約束の時間までに間があるので、一緒に宿探しを手伝ってくれた。Lahore駅の周辺には安宿がいくつかあるので探すには困らない。いくつか回ってみたが気に入ったものがなかったので、事前に調べておいた「Hotel Tourist Inn Lahore」へ行く。
このホテルは駅からも旧市街からも遠く、交通の便は良くない。しかも中途半端な下町にあって、環境も眺望も良くない。しかも私の部屋はビルの谷間で窓の外はすぐ隣の壁だったので、これも全く良くない。しかし、玄関を出て右手に一本通りをまたぐと旧市街の真ん中へ突き抜ける目抜き通りの一本道に出られるし、その通りはほぼ夜通し賑わっている。食べることは言うに及ばず、日中ならば衣料品、雑貨、書籍その他あらゆるものが手に入る。部屋もなぜか非常にゆったりしていて熟睡できたので、結局ここはおすすめである。しかしパキスタンにしては3,800KPRと高額で、Tourist Innといいながら、宿泊客のほとんどは商人であった。フロントの対応や設備などは全く申し分ない。旅の最後に安心できるホテルであった。
シャワーを浴びて一休みした後、風のまま匂いの来るままに散策に出た。暑い !! 猛烈に暑いのである。実は、私はまだこの時点では、自分がもうインド亜大陸にいるということを自覚していなかった。出て右の角を曲がったところにうまそうなチャパティを焼いている店があったので、久しぶりにチキン・カレーが食いたいと思って尋ねると、店員が済まなさそうな顔をして首を横に振る。じゃあチャイとチャパティでいいと言うと、手を止めて私を引っ張って次の路地の奥に連れて行った。看板も何もない店だったが、中では大鍋にチキン・カレーが煮込まれていて、どんと背中を押して笑って去って行った。いやあこのチキン・カレーはうまかった。
そのまま商店街を冷やかしながら北上し、旧市街の城壁の中へ入った。いやまたこれがすごかった。人がすれ違えるかどうかと言う細い道にもバイクが突っ込んで来るし、そこらに売り子が声をあげてるし、生活排水の匂いやそこらで繰り広げられる喧嘩・・・設えられた現代のバザールなどではなく、中世の迷宮に迷い込んだ感じで、とにかくめまいがするほど迫力があった。ざあっとぬけてLahore Fortまでを確認した後、あまりにも暑いので土産物を買い込みながらホテルに戻った。
冷房を入れてしばらく横になると、二時間ほど熟睡したとみえて、陽が傾いている。そこで二周目として別ルートでLahore Fortを目指す。宮廷内の散策は明日にして、その北にある公園でくつろぎたかったのだが、この公園、地図や衛星写真で見たのと随分違ってて、森も林もなく、あるのは芝生とベンチに囲まれた、整備された広場だった。日陰を期待して裏切られたので、再び旧市街の雑踏に身をまかせる。楽器屋街があってたくさんの楽器を見かけたが、やはりここは音楽文化的にはインドである。全ての楽器はインド音楽のもので、実は私はこれがあまり好きではない。そこをぬけて雑踏の中の小綺麗な飯屋で夕食にした後、入り組んだ迷路をさまよって現地の人の中に没し続けていた。これがなかなか心地よく、果物屋の店先でスイカを食べたり、哲学者のような堀の深い老人と相席してチャイを飲んだりした。そろそろ疲れたので宿へ戻ろうとして、城壁を頼りに南を目指したのだが、これがどうしても同じエリアを堂々巡りするばかりで、ちっとも外へ出られない。道は入り組んで曲がっており、南を目指したはずがすぐに方角を見失ってしまう。仕方なく現地の人に地図を見せて案内を請うものの、訊く人によって指差す方角がバラバラで、言われた通りに歩いても歩いても、一向に入って来た門に行き当たらず、仕方なくオート・リクシャーを頼んで帰って来た。
一休みしたが宵の口なので、また懲りもせずに外出して、目抜き通りでフレッシュ・ジュースやデザートなどを食べながら、喧騒に満ちた下町の更け行く夜を楽しんだ。
20170524 Pindi-Lahore
Uyghur-Pamir 2017.05.24.1 Pindi-Lahore
オート・リクシャーは、まだ暗いRawal-Pindiの街を、裏道伝いに走り出した。全く煤けた、酸えた匂いのする、明らかに下町の、どぶ板を踏んで出てくるような裏道ばかり走るので、どこをどう走っているのか全く知り得なかったが、やがて大きな公園のような広場に着いた。運転手が目で合図するので、そこで降りた。広場はまだ暗く、先の方に屋台と思しき明かりが見えたので、そっちへ歩いて行った。そこで飲み物とクッキーを買うと、先客の若者が「どこまで行くんだ ?? 」と声をかけてきた。「Lahoreだ」と言うと「じゃあ一緒に行こう」と言うので新しい旅の友となった。駅の切符売り場が開いたので訊くと、Lahore行きは7時の発車である。まだ2時間以上あるので、駅の入り口や、改札が始まってからはホームなどで時間を潰したので、Rawal-Pindiは、オート・リクシャーの通った裏道しか見ていない。
オート・リクシャーがインドなら、ホームに並んでる列車や機関車もまたインド風情たっぷりだ。色がグリーン系かブルー系か違うだけだ。この車両を見ると、どうしてもバングラデシュで乗客が窓に捕まり屋根にもひしめき合って走る強烈な映像をイメージしてしまうが、運良くそのような目には合わなかった。鉄道少年として全く不覚なことに、行き当たりばったりで切符を買ったので、自分の乗った列車の種別や名称を知らない。おそらく急行列車以上のものだったと思われる。入って来た機関車は、ウズベキスタンでも見たことのあるタイプだ。日本でもよくある三段式寝台客車と同じ形式で、中段を下ろして下段に三人座り、上段に荷物が置いてあったり人が寝ていたりする。座席指定なので、混雑するということはない。乗ってしまえば気楽な列車の旅だ。しかも中国のようにうるさく行動を監視する車掌もいない。車窓を眺めていれば良い。昨日までとは全く違う世界に、また足を踏み入れてしまった。外の風景はパンジャーブの平原だ。何もかもが違う。そして今回の旅の最終目的地Lahoreへ11時に到着した。4時間の鉄道の旅、今回の旅は本当に多彩だ。
2017年05月23日
20170523 Gilgit-Pindi
Uyghur-Pamir 2017.05.23 Gilgit-Pindi
早朝、万一キャンセルが出た場合に備えて、6時半に空港へ行ってみた。空港はホテルからほど近く、鉄柵で囲われただけの簡易なものだった。「キャンセル待ちだ」と伝えると、警備員が通してくれたので中に入り、玄関の前のベンチに座って待った。まだ職員は出勤しておらず、客も来ていなかった。7時頃になってようやく、客がちらほら集まりはじめ、やがて乗務員が到着した。警備員が私を紹介してくれたので、キャンセル待ちを伝えたが、今日の便は全て団体客で一杯なのでキャンセルはないと告げられた。せっかく待ってもらったのに申し訳ないね、とパイロットや警備員に言われたのには驚いた。心が暖かいのだこの国の人は・・・
というわけで、のんびり朝食を済ませ、屋上で日向ぼっこなどをし、飛び立って行く飛行機を眺めたりして時間を潰した。HunzaからRawal-Pindiへ早く到達したい人は、Ariabadを8時ごろタクシーで出られれば10時のRawal-Pindi行きのバスに乗るのは十分可能である。もし9時の飛行機の予約が取れているのであれば、6時半くらいに出てぶっ飛ばせばこれもできるかもしれない。タクシーにしろといったのは、Gilgitへ至るK.K.H.がHunza川の右岸を走ってくるのに対して、Gilgitの街は左岸にあり、スズキやバンが街に入る橋はぐっと遠回りな位置にあって、空港やバス・ターミナルとは逆向きになるからである。タクシーであれば脇道に入って手前の橋を渡って直接乗り入れることができ、これは市内渋滞を避けて大いに時間の節約になる。旅を計画されている方はどうぞご参考までに・・・
いよいよPunjabに向けて出発である。バス・ターミナルというものは、どこも興奮と活気にあふれていて無国籍な治外法権的な匂いがする。荷物を屋根に放りあげると、係員が受け取って整理してくれる。チケットを運転手に見せると「お前は俺の後ろに座れ」とぐいっと掴まれて座席に押し込まれた。運転手のすぐ後ろの通路側だ。どこにでも見られる喧騒とヤジと怒号が飛び交って、座席の争奪も落ち着いて、控えの運転手と武装した兵士を乗せて、バスは発車した。これで山岳地帯ともお別れだ。
バスは、陽のあるうちは渓谷の川沿いを走った。急峻で樹木の少ない、見るからに脆い岩の谷間を縫うように道は続く。川は泥水。いたるところに崩れがある。時折、その崩れと崩れの間の、ちょっとマシな斜面に張り付くように、小さな集落が現れる。周囲にほんのわずかな畑があったりするが、すぐ上は崩れ、すぐ下は濁流、どこへ逃げる ?? どのようにして暮らす ?? 全く想像のつかない環境で、ここの人は暮らしている。K.K.H.の交通量はかなり多い。途中で何度か羊飼いの群れを見た。決して美しい風景ではない。殺風景の連続だ。殺風景すぎて、荒涼とし過ぎていて、自然環境の厳しさ、非常に脆くて儚い微妙なバランスの上に翻弄される人の生活を見た。それすらできないほど厳しく切り立った回廊も延々と続く。延々と無人の、茶色く染まった、埃っぽい渓谷が続く。
発車して7時間後、小規模な土砂崩れに行く手を阻まれた。待機車両がずらりと列をなす。その向こうに小さな土煙が上がっているのを見ると、まだ発生から時間が経っていないという感じだ。車が止まって、乗客は腰を伸ばすために降りた。様子を見に行く奴らもいる。中には川に降りて用を足す奴らもいる。別に焦る様子はない。車中で隣席になった顔見知りの何人かと話していても、よくあることだと落ち着いている。周りの状況から、別に心配もなさそうなので、私も様子を見に行くグループとともにあたりをうろついてみた。気のいい運転手が笑ってポーズを取るデコトラは日本からきたもので、しかも大阪府の排ガス規制をパスしている。つまり私のカリーナちゃんより新しくて環境に優しい車というわけだ。これが良い気分転換になり、乗客とも仲良くなって、小一時間後に出発した頃には、かなり打ち解けていた。
途中、昼食と夕食に、地元の食堂に立ち寄ってたが、豆のカレーしかなかった。結構食べ飽きた。日のある間に数回、夜中に数回程度検問があったが、これは外国人の通過をチェックするためのもので、そのうち2回は直接降りて接見しなければならなかったものの、ほかはパスポートのコピーを出しただけで済んだ。運転手が私を自分の後ろに座らせたのは、「コピーを用意しろ」とすぐに声をかけられるようにするためだった。私一人のために検問で止められるのは心苦しかったが、まあその度にみんな休憩していたのでよしとしよう。座席は通路側でもたれるものもなく、シートはリクライニングしないものだったので、流石に日が暮れる頃になると疲れてきた。乗客の大部分は埋没していたが、私は熟睡できなかった。うつらうつらしては「コピー !!」と言って叩き起こされ、その度に乗客から失笑やうめき声が聞こえた。一度だけ、真夜中に検問で私だけ降ろされたことがある。運転手が「大丈夫だ。行け。」というので兵士と共に詰所に通されてパスポートの写しを取られた。彼らの対応は威圧的なところは微塵もなく、終始紳士的で穏やかだった。その詰所は、地域でもかなり大きな部署らしく、前庭のついた立派なコテージで、別荘風の外構が設えられていた。近くで川の音がしていたが、真っ暗で兵士の一人が懐中電灯で足元を照らしてくれるほどだったので、あたりはほとんど見えなかった。そこでバスはしばらく休憩時間をとった。運転手によると、「もうこの先から平野に入る」とのことだった。
乗客で私の隣の窓側にいたのは、だいぶちゃらけた感じの若者だった。パキスタン訛りというか、ほとんど日本語のカタカナをインド人が棒読みしたような英語で大変わかりやすかったが、まあつまらん話を延々とするものである。通路の反対側には年配の商人二人がいて、その後ろに二人組で見るからに敬虔なムスリムがいた。白いシャルワール・カミースに身を包み、パコールではなくツバの無い白いイスラム帽に、柄のない白いシュマグをまとっていた。二人とも動作が控えめで物静かだったが、眼光が鋭く、外国人である私を見るからに警戒していた。のみならず、日中は小休止のたびに時計を確認しながら地面にひれ伏して礼拝を捧げていた。そこまで敬虔なムスリムは、数十人いた乗客の中でも彼ら二人だけだった。あとは、どこにでもいるごく普通の人たちだ。
何度かの休憩で行動を共にすることがあって、やがて彼らから話しかけてきた。こういう人たちが、見たところ異教徒である外国人に対して切り出す第一声は「あなたはムスリムですか」という質問に共通する。ムスリムであるか、イスラムを信じるか・・・無神論者である私には当初きつい質問だったのだが、これは文字通りを意味しないことが多い。あなたは神を信じるか、という問いをかけられて、YesかNoで答えなければならないと考えるのは律儀すぎる日本人の癖である。別に二者択一を迫っているのではない。イスラム世界はそのような風土なので、そのような表現になるだけだ。ここでNoと答えれば、次に来るのは「なぜだ ?? 」という質問になり、雰囲気が険悪にな方向へ向かう。かといってYesと答えれば嘘をつくことになる。このように、日本は世俗国家であり、一応仏教国ということにはなっているらしいが、国民のほとんどは不信心者の集まりなので、この問いを極めて重く受け止めがちである。しかし多くのムスリムと話をすると、この質問にはそんなに重い宗教的な疑念を含んでいない、ということがわかる。ムスリムは同朋意識が非常に強く、見知らぬ人がどんな出自を持っているかがはっきりしないと安心できない、そこまでいかなくても、何か共通の地平を持つことができれば安心するようなのだ。私が日本人であることはすでに知られている。まあここんとこいろいろあったので、日本がアメリカの手先であることも、よく知られるようになった。ではお前は何をするためにここにいるんだ ?? という、誰もが抱く半分の疑問と、半分の好奇心がないまぜになって、しかし一般論として仏教の話を持ち出されても困るので、手短に、わりと気楽に「あなたはムスリムですか」という質問を発するのである。これに当たり障りなく答えるには、「ムスリムではないが、大変興味があってやってきた。ここは素晴らしいところだ。」などと言って、YesかNoかには答えずに友好関係を築こうとする。すると先方も、その二者択一は置いといて、互いの友好の方に興味が移って、会話の地平が開かれるのである。彼らにとって、この慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御心を知らぬ異教徒を正しく導くのはムスリムの務めだという意識では共通する。しかもこのバスは、北部辺境のイスマイール派のエリアから、南部平原のPunjabへ向かっている。自ずと、両者の信者がそこに混在し、それが議論の的になっていくことはやむを得ない。要するに長距離バスで夜の帳も降りて、することがなくなった退屈しのぎにすぎないので、私を含めて途中で眠りこける奴もいたり、目が覚めて議論に加わる奴もいたり、はじめは私にも聞かせようと英語で頑張ってた奴らも、いつしかウルドゥ語に変わってしまったりして、話は夢か現か、とりとめもなく時間は過ぎて行った。
パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原には、イスラム教の中でもシーア派の分派であるイスマイール派の信者が多い。古くは「暗殺教団」などと呼ばれ、それを意味する英語assassin、アラビア語でHashishi、転じて「大麻」の語源となり、若者を扇動するに楽園に拉致して大麻に溺れさせ、そこを追放しておいて「いうことを聞けばまた楽園に戻してやる」と甘言を弄して若者を操る老人の話が出て来るが、その説話の元となったのがイスマイール派だといわれている。イスラム教の中でも戒律に対して懐疑的、生き様が宗教的というよりむしろ哲学的、外の世界に対して開放的で合理的な考えを有するとして知られている。私がこれに興味を持ったのは、その寛容な思想であって、近寄りがたく閉じられた印象の強いイスラム世界にあって、その開放感をこの目で見て見たかったのである。つまり現代の桃源郷と言われるフンザのあの華やかさを育んだパキスタン北部の山岳地帯、暗殺されたアフガニスタンのマスード司令官が命がけで守ろうとしたパンシールに連なる山並み、近年まで中央政府の統治が及ばず藩王国として独立を保っていた地域、そして今なおインドとの国境が確定していない係争地でもあるこの地一帯に、心情的に惹きつけられる何かがあった。しかも前回2012年のウズベキスタンの旅において、ブハラの街で世話になった夫婦がタジク人であったこと、そのタジク人は中国語では「大食」と記され、もともとイラン系の民族であること、イランという国はイスラムでありながらアラブとは一線を画していて、もともとはゾロアスター教という、火を崇める独特の宗教を持っていたこと、その音楽は「ムカーム」といって広くトルコからアゼルバイジャン、東トルキスタンにかけての西アジアの広い地域に渡る音楽の一大潮流であること、そのイランは、歴代シーア派を奉じており、イスマイール派はその分派であることなど・・・まあ所詮、聞きかじりの雑学が支離滅裂に頭の中でつながりあっただけなのだが、とにかく旅情を掻き立てられる要素に溢れかえっているのである。そこへ中国の新疆ウイグル自治区から越境して入るという旅の実現が、私を有頂天にさせたのだ。そのトライバル・エリア的な治外法権性、彼らがこの地を愛する核となるものは一体何なのか、小麦をこねて、チャパティでなく、パンの原型のようなものを焼く食文化も、イスラム的というよりヨーロッパに通じるのは、太古のアレキサンダー大王の東方遠征の際に取り残されたギリシャ人の末裔のなせる業か、まさに世界の文化の混沌の坩堝の中核を行く旅が実現するとは、思ってもみなかったのである。いきなり飛び込んでどうなるものでもないということは、もう散々の旅行経験から事前に理解してはいたのだが・・・
そのイスマイール派の現代のイマームはAga Khanといい、スイスに本拠を置く。世界中に信者がいて、そのうちの大きなコミュニティが、パキスタンの北部辺境から中国・タジキスタン・アフガニスタンの北部一帯のパミール高原にあり、そのうちHunzaより北のUpper Hunzaと呼ばれるGojar地方のイマームはHazil Imamという。Aga Khanは、宗教家というより思想家・哲学者・実業家であって、その慈善事業は国境の枠を越えて、それぞれの中央政府とは別に影響力を及ぼしている。その点で、彼はトルコのFethullah Güllenと似ているところがある。そしてイスラム教徒であると同時に、宗教が世界平和に貢献しうる道を探るとして、ローマ法王や異教徒の指導者と会談したことが伝えられることもよく似ている。つまり私は、イスラムという宗教が国是として実践されている国で、イスラムにとって「異教」となるあらゆる宗教や、無神論をはじめ世俗的なものも含めた思想・哲学が、人々にどのように受け入れられているかを知りたいとかねてから思っていた。そういう意味では、パキスタンの北部辺境山岳地帯は別世界であった。
Aga Khan自身は、実際にはセレブリティの家系にある。実業家としてあげられた収入を、慈善事業としてコミュニティのインフラ整備に当てている。パキスタンの場合、北部辺境地帯もその例だが、もちろんこれが中央政府との間に微妙な見解の相違をもたらしていることは、トルコの例と似ている。またこの地は、莫大な資本を背景に「一帶一路」政策を掲げる中国とも利害を共有する。例のAttaabad Tunnelsが良い例である。ここはもはや現代の秘境ではなく、Aga Khan・パキスタン中央政府・中国が触手の伸ばすターゲットになりつつある。地元の住民がムスリムであることは間違い無いのだが、それは日本人が、あるいは世俗主義者が宗教的と考える信仰心とはかなり違うように思う。彼らがAga Khanの名を唱える時、それは我々に利益をもたらしてくれた、常に我々のことを考えてくれている、だから信仰するという、宗教的信仰と、世俗的支持が混同した姿勢を感じるのである。突き詰めれば、「日本列島改造論」を唱えて新潟への新幹線乗り入れを強く主張した田中角栄 (呼び捨てにしたりしてすみません、善悪について評価しているわけでは無いので、ご不快の点はお許しください) とどこが違うのかわからなくなる。田中角栄を支持することはあっても信仰することはほぼなかろうと思う。しかし、ここではそれが一体になっている。それは無分別なのだろうか、彼らが近代的思考から取り残されているからだろうか・・・
イスラム世界を旅していると、時々このような短絡ともみえる行動が見られる。ところが私は思う。これを短絡だと思うのは、世俗主義に立っている私のものの見方であって、彼らにはごく自然で普通のことなのだ。世俗主義の立場に立つと、宗教というものを自分の枠の外に置き、自分と宗教を切り離して日常を生きる。したがって宗教的な生き方をみようとすると、自分は一旦そこから出て信仰心というものを持ち、さまざまな戒律を守って世俗を脱し、宗教的な存在になるまで自分を高めて、そこから世俗を救済しなければならない、と考えがちである。だから宗教指導者たるイマームは遠い存在であり、それを信仰するという行為まではなかなか行き着けないと考える。ところが現実は違う。イスラム世界においては、例えば金融市場とは別に、ムスリム社会のコミュニティだけで通用する金銭の流れがあって、相互扶助の考え方のもとに、宗教的実践の一環として、極めて直接的に貧者を助け合う仕組みが出来上がっている。神の思し召しだと言って、実は裏で利ざやを稼ぐ組織があるのだが、それでも現実に救われている人たちがいる。これを短絡と見るのは、世俗と宗教を対立させて見ているからであって、子供の頃から政教分離と民主主義と資本主義を一体のものであり善であると刷り込まれてきた我々の、一つの視点であるに過ぎない。
そのような視点でいろいろなものを見ていくと、イスラム社会というものが、極めて合理的にできていることがわかる。とにかく神 (アッラー) の存在が近い。偶像化されていないので神が祭り上げられることがない。教会に階級制度がなく、信者は直接神に信仰告白する。モスクへ行って「私はムスリムではないのだが、あなたがたと共にいて良いだろうか」と言えば、たいてい喜んで通してくれる。私もよく断食をするが、それは飽食を戒める最も有効な手段である・・・数え上げればきりがない。クルアーンの解釈やファトゥワの法理論的要素の議論は別として、イスラム世界に何日神をおいて彼らと共にいると、逆にわざわざ聖と俗を分離して人から心を取り上げ、社会をシステムで増殖させて、その中に心を失った人間を放り込むことが果たして幸せか、社会の安定に個人の幸せを求めるあまり、社会の安定を維持するために個人から心を奪い取ることが、果たして善であろうか・・・つまり、民主主義は本当に善なのか、または我々にとってそれは可能なのか・・・そんなことを考え込んでしまった。
目が覚めたとき、バスは片側二車線の高架道路を高速で走っていた。まだあたりは真っ暗で、オレンジ色のナトリウム灯が延々と続いていた。砂けむりか、窓ガラスが汚れているのか、風景は茶色くよどんで見える。・・・・ バスは4時ごろRawal-Pindiに到着した。所要18時間少々だった。あたりはようやく明け初めたばかりだった。乗客は大抵寝ぼけながらもバスを降りて、命名の目的地に去って行った。私も周囲の乗客と別れを惜しみつつ、「どこへ行く ?? 」との問いに「鉄道駅だ」と答えると、さっきの経験な若者が、すぐ近くにいたオート・リクシャーを捕まえて行き先を伝えると、私をどんとそれに押し込んで手を振った。旅である。オート・リクシャー、これにも初めて乗るが、つまりもうここは広義にはインドなのだと実感した。地域や文化としてはインド、それが宗教の違いで、ヒンドゥー教であればインド、イスラムであればパキスタンとバングラデシュ・・・ヒンディー語とウルドゥー語も、表記する文字が異なるだけで殆ど同じ言葉なのだ。そうか、私はインドへ来たのか・・・計画しておいてよく認識していなかった。バイト先の休みで、インドまで来てしまったのか・・・
2017年05月22日
20170522 Gilgit
Uyghur-Pamir 2017.05.22.4 Gilgit
バンの運転手の言った通り、14時にはGilgitへ到着した。NATCOのバスに乗ると言うと、これまた親切に追加料金なしで送ってくれて、もうほんまに、交通関係の人たちには世界中どこへいってもお世話になります。
NATCOの事務所では、全くなんの問題もなく切符が買えて、運行状況に問題のないことも教えられた。だいたい20時間足らずでRawal-Pindiには到着するであろうとのこと。バスは7時と10時の2便あったが、心配しすぎることはなさそうなので、10時の方を予約。1,500PKR。「ただし外国人はパスポートのコピーを10枚用意しといてくれ」と言われたので辺りを見回すと、近所にいた奴らが口々に通りの向こう側を指差して、あっちにある、行けばわかると教えてくれた。フレンドリーだな・・・道中に都合10箇所程度チェック・ポイントがあるということだ。夢の国から出て、再び緊張感あふれる現実の旅に戻るわけだ。
で、そこから市内中心部に戻って、今日の宿Gilgit Hunza Innを探してチェック・イン。まあ事前の調査よりも汚いが、1,000PKRなのでよしとしよう。屋上にも上がれて、そこからは今過ぎ去ってきたカラコルムの山々が遠望できたし、あたりは下町で、ちょっとした買い物ならすぐに済ませられるし、いざとなれば空港にも近いから良い宿だと思います。とはいえ、まだまだここはパキスタン山岳地帯、Gilgit-Baltistanの中心部なのだ。中央平原まで降りるには、さらに一日の陸路行程を要する。
https://www.facebook.com/HunzaInn/
一服した後、夕刻までの数時間、Gilgitの街を散策することにした。Passuからヒッチした車の同乗者が言っていたように、ここは確かに世界が違う。まず女性の姿を見ない。男性はほとんどがあごひげを濃く蓄え、民族服であるシャルワール・カミースを着て、フンザ・スタイルとは異なる大きくていかついパコール (アフガン帽) に、チェックのシュマグ (スカーフ) を纏っている。銃を持たせたら、そのままテレビに現れるイスラム戦士だ。街の喧騒も凄まじい。車もバイクも常にクラクションを鳴らし続け、互いに鼻先を突っ込みあって譲ることを知らない。歩行者は敏捷でなければ道を渡ることもできない。重苦しくも活気ある、イスラム世界の空気だ。風景は、山に挟まれた狭い土地にへばりつくように街が広がる姿で、より下流へ来たという実感以外、本質的には変わりない。夕暮れまで散策した後、安飯屋でチキン・カレーを食って宿に戻って寝た。
20170522 Karimabad (Hunza)
Uyghur-Pamir 2017.05.22.3 Karimabad_Hunza
Zero Pointから土産物など買い集めながらホテルに向かう。印象に残った買い物は、この街で手作業で実用的なシャツを作っている仕立て屋の男に出会ったことだ。たまたま土産物のスカーフを選んでいるところへ店の用事で現れて、私が彼の来ているシャツを褒めた。カミースほど丈が長くなく、貫頭衣のように質素でありながら適度にオシャレだった。すると彼は「これは自分の作品だ。もしよかったら店に来てくれ、すぐそこだ。」土産物屋の主人も、それはいいとうなずくのでついて行ってみた。そこは通りからちょっと奥まった手狭な作業場で、彼はそこらを手早く片付けると、目で私のサイズを見極めると、棚から何枚か同じ柄のシャツを出して来た。適当に肩を合わせて、「これを着てみろ」というので着てみたら、見事に寸法が合っていて、腕の太さといい肩の収まりといい、実に快適なのだ。二つ返事の言い値で買ったが1,000PKRだった。いやあ彼の人柄といい、良い買い物をしました。
そんなこんなで楽しく時は過ぎて、部屋に戻るとバルコニーからの眺めに一服して、そこらで適当に買い集めたもので軽くランチにして、荷造りとチェック・アウトを済ませる。Passuを発った時ほどの感慨はないが、これでもうすぐ旅の終わりだということをしみじみと実感する。
さて出発である。荷物を背負って、足掛け三日色々と楽しませてくれた店の人たちの写真など取らせてもらってお別れをしつつ、ちょうどスズキが一台降りてきたので捕まえてAriabadまで降りる。Gilgitまで行くというと、バス・ターミナルまで送ってくれた。バスといってもワンボックスのバンを改装したもので、190PKR、2時間ほどのドライブである。
20170522 Karimabad (Hunza)
Uyghur-Pamir 2017.05.22.1 Karimabad_Hunza
今日はKarimabad最終日である。宿泊したホテルは観光客の多いメイン・ストリートからBaltit Fortへ少し入ったところにあり、いわば「聖域」に属しているためか、とても静かな佇まいである。街の夜は結構早いが、ここは静かに向かいのピザ屋がナイト営業するので、それも珍しい光景ではある。ホテルは斜面に凭れるように建ち、背面には村が広がっていて、裏道伝いにBaltit Fortの前庭に出ることができるのも良い。また、Zero Pointから遠く離れているので、観光地の喧騒を経ずに高みに到達できる。そこで早朝散歩に、Baltit Fortからさらに南側の斜面へ行ってみることにした。これは、昨日散策した美しい小道と緩やかに並行する。観光区域を外れると、急に生活感が現れるのは世界中どこも同じで、ごくごく普通の雑貨屋や食料品店、肉屋、八百屋がまばらにあって、山の最果て感が抜群の景観を楽しむことができた。
2017年05月21日
20170521 Altit (Hunza)
Uyghur-Pamir 2017.05.21.2 Altit_Hunza
さてKarimabad中心部はほぼ把握したので、坂の途中から東へ分岐してAltitへ行ってみた。尾根を越えると、遥か眼下にAltitの別宮が見える。そこへ至る谷あいの細道は、なかなか風情があって良い。KarimabadからAltitまでは徒歩でも30分程度だ。村に入るとKarimabadよりもぐっと鄙びていて親しみやすい。古い石造りの集落が雑然と繰り広げられていて、壁で仕切られた迷路のような路地と、時折現れる門、その先にも複雑に路地が入り組んでいて、西アジア一帯によくある迷路のような集落を見ることができる。それを見下ろすようにAltit Fort、Hunza藩王がBaltit Fortを建てる前の居城が建っている。入り口で入場するが、すべてガイド・ツアー付きで、ひとグループ10人くらいまとまって入場する。城だけでなく村の住居や外構に特徴があって、チベット仏教の様式が残されているということで、それを研究しに来たという建築学専攻の学生が多かった。また、前庭が綺麗に整備されており、ツアーが終わったら自由に散策できるし、希望すれば何度でも場内に入ったくつろげる。もちろん県木兎にも歴史にも詳しくないのだが、このたたずまいや、園内の客、集落の人々の様子が物凄く良かった。午後から夕暮れまでの半日にも満たない時間だったが、十分楽しめた。Altitの村、おすすめです。
20170521 Karimabad (Hunza)
Uyghur-Pamir 2017.05.21.1 Karimabad_Hunza
「フンザ」は、「風の谷のナウシカ」のモデルともいわれ、「現代の桃源郷」ともいわれ、パキスタン北部の山岳地帯という「秘境」として、その名を馳せている。ガイドブックにもそう書いてある。しかし、私はあえて結論から言おう。現在のフンザにはそんな面影はない。観光客で混雑し、そこへ整備の行き届かない「スズキ」が割り込み、排気ガスと黒煙と土埃を撒き散らし、道はぬかるみ、ゴミが多く、そんな状況に不釣り合いなほど豪華なリゾートホテルが敷地を占領し、一日数時間しか通電しない電力供給のため、ほとんどの商店や宿泊施設などに設置された発電機が猛烈な唸りを上げている。その轟音と排気ガスは夜になっても止まらず、遠望する風光の明媚さとは全く裏腹に、音と悪臭が谷間に充満して休まる暇もない。もしこの地方を訪れるなら、杏の花の咲き誇る4月のベスト・シーズンに、空調の効いたリゾート・ホテルでくつろいで、さっさとPassu村へ行ってしまうのが良い。その方がずっと良い時間が過ごせるはずだ。もし時間があるなら、一週間単位でここに滞在すれば、観光バブルに湧くKarimabadの喧騒から逃れて、谷の対岸や山の裏手の素朴な村を訪ねたり、そこへ宿泊したりすることができる。その方が、ずっとフンザの良さを体験できるだろう。残念なことに私の旅には日限があり、ここにゆっくり滞在できるのは今日一日限り、明朝にはカラコルム山脈を越えてパキスタン中央平原Punjab地方を目指す、この旅の締めくくりに取り掛からねばならない。
Karimabadの朝は、山頂に射す光で明け初める。早朝には、流石に夜通し続いた発電機の音も静まって、観光客が押し寄せる前のひとときを味わえる。Zero PointからBaltit Fortへ上がるメインの坂道と、斜面の中腹を南へショートカットする道の間に、自動車が入れない未舗装の小道がある。早速嗅ぎつけてこの道を散策すると、朝の支度をする地元の一般住民の生活の音に満たされている。石造りの質素な家ばかりなのはPassu村と変わらない。小道の脇を流れる小川のような、多分用水路に沿って、美しい花が植えられてあったり、静かな林が音を遮ってくれる。途中、何本か上下に交差する路地があって、民家の台所の脇をすれすれに通って上や下の道に通じている。おそらくここには、Karimabadの昔ながらの暮らしがあるのだろう。程なく道は、Baltit Fortの麓を通って村を周回する道路に合流して終わる。手始めにこの道の散策をするのが正解だ。そこからさらに山肌を伝って行ったり、谷の対岸に渡ったりできる。その先にも宿泊できる場所があることが看板で案内されている。
朝食後、さらに散策を続ける。まずはBaltit Fortへ上がる。これはフンザ藩王国の旧王宮であって、ほんの数十年前までは、実際に王家が生活し、村人とともにあった場所だ。中は今では博物館のようになっていて、そこへ至る坂道は、いわば観光地の土産物商店街の参道状態である。確かに見ごたえはある。王宮の接見の間で往時をしのぶのも悪くはない。さらに散策を続け、疲れ戻ってランチにする。すぐわきにCafe de Hunzaという小洒落た今風のカフェがあったので入ってみた。メニューを見ると、なんとエスプレッソがあるではないか。旅に出てからまともなコーヒーにありついてないので、コーヒー一杯に350PKRと、現地の物価感覚からすると信じられないほど高額なそのエスプレッソをいただいた。味は、確かに高圧で抽出されたものだが、水分量が多すぎて薄いのは仕方ないか。それにしても結構若者で賑わっていて、都市生活者はここへ観光に来て、それだけの支出をする余裕があるのである。
さて、ランチから戻って宿替えを決めた。Haider Innも別に悪くはない。しかしせっかくの絶景を心ゆくまで楽しむために、多少高くついても、部屋に居ながらにして眺望が楽しめるホテルをとってみようと思ったのである。散策中に目星はつけておいた。メインルートからBaltit Fortに上がる途中にあるピザ屋の隣だ。これは全くホテルとは気づかないが、眼前に広大なバルコニーがあって、そこから存分に谷間の景色を堪能できる。この環境では5,000PKRはくだらないはずだが、ここは穴場的存在で、その半額だった。電気もシャワーも完備していて、階下のレセプション等を通らなければ上がってこられないのでセキュリティも十分だ。ここで荷を解いて、階下へ土産物調達とGilgitからRawal-Pindiへの空路の空席が確保できるか試しに行く。結局、私も観光バブルに加担したわけだ。
GilgitからRawal-Pindiへどうやって出るか、それがまだ確定できていない。これは結構重大な問題である。パキスタン北部辺境Gilgit-Baltistan地方と、パキスタン中央平原Punjab地方との間に横たわるカラコラム山岳地帯の治安が実に不安定なことと、フンザ川からつながるギルギット川と、そこから先のインダス川の渓谷が急峻で、しばしば災害により通行できなくなるからである。できれば事前に空路を確保しておきたかったが、情報によるとこのPIA国内線は天候に左右されやすく、しかも有視界飛行なので出発直前でないと飛ぶかどうかもわからない。だから、そもそも予約は受け付けておらず、現地GilgitのPIA事務所で直接切符を買い、当日並ぶよりほかはないということだった。Zero PointのHaider Innのならびに銀行のATMとならんでZEB Travelsという旅行代理店がある。ここでそのチケットを手配できる。もちろんインターネット決済にも対応しているので、海外からの予約もできる。しかし実際には、ツアー客のために優先的に座席が割り振られるのと、天候による欠航率が大変高いので、個人での空席の確保はかなり難しい。事実、向こう数日は好天に恵まれるのだが、一ヶ月以上先まで満席の状態だという。仕方がない。では危険を推して陸路に挑戦するとしよう。そこで良いアドバイスをもらえた。外国人はテロリストの格好のターゲットになりうるので、運転席か警備の兵士のすぐ近くに席を取るように、ここ数年ほどはテロ事件は起きておらず、ルートはかなり安全になっている。天候も良いので、おそらく所要20時間程度であろう・・・と。この区間のバス移動に関しては、私も事前にかなり調べたのだが、良くて20時間、下手すると丸二日、ヤラレちゃうとあの世行き、とまあ結構な前評判だったので、せいぜいここでのんびりこの世の楽園を堪能しておくことにしよう。ZEB Travelsのホームページは閉鎖されているようだがFacebookはここにあるので参考までに・・・良い代理店だと思います。
https://www.facebook.com/zebtravels/
2017年05月20日
20170520 Karimabad (Hunza)
Uyghur-Pamir 2017.05.20.2 Karimabad_Hunza
PassuからHunzaへ分岐する起点Ariabadまでは所要一時間程度、ヒッチ相場は200PKR (2017年現在) である。私は250PKRを提示したが運転手は200PKRしか取らなかった。出発して程なく、地すべりで寸断されていたK.K.H.の区間を通過した。それはGulmitの手前から旧道と別れ、地すべりでせき止められてダム湖になった川を飛び石状態でいくつも橋で飛び越え、あるいはトンネルで抜けるものだった。それまでの素朴な風景は一変し、日本でよく見かける高架橋による高規格道路になっていた。トンネルの出口には「中巴友谊万岁」の大きな文字が見られ、ここにも中国の影響とそれを誇示する姿勢が色濃く見られた。
乗客は3人いずれも男性で、Passuの北の村からAriabadへの買物客でり、道中いろんな話をした。私がこれからKarimabadへ数日滞在した後、GilgitからRawal-Pindiを経てLahoreへ出ると言うと、彼らは口々に、Hunza北方の、ここGojar地方の良さとイスマイール派の穏健な慣習について触れた。特にパキスタン北部辺境地域は、同国他地域とは文化的にも経済的にも、もちろん歴史的にも隔絶された形になっていて、それが彼らのアイデンティティとして息づいていること、彼らが言うその南限はGilgitで、そこでは半数近くがすでにスンニ派になるという。言葉の感触からして、K.K.H.が整備されて中国からパキスタンの首都への交通が便利になり、Gojarが栄えることは喜ばしい反面、北から中国、南から絶大な多数派のスンニ派による影響で、自分たちの故郷が変えられてしまうのではないかという警戒感が感じられた。その辺りのニュアンスは、Gulmitの高校生の話にもあった。しかし彼は若いだけあって、より一層、中国からの影響を敏感に感じ取っていた。なぜならトンネルだけでなく、Gulmitの村の周りの道路のガードレールのあちこちに「中巴友谊/ Pak-China Friendship」の文字が踊っていたからである。小一時間ほどのドライブでAriabadに到着。運転手は親切にもKarimabadへ上がる「スズキ」を見つけて私をそこへ降ろしてくれた。
さて、パキスタンへ来たら「スズキ」、どこへ行くにも庶民の足は「スズキ」である。しかし私はここで初めて「スズキ」にお目にかかったのだ。もちろん「スズキ」は日本の自動車メーカーの名前であるが、軽トラの荷台を改造して幌をつけ、人が10人ほど乗れるようにした簡易乗合バスのことを総称して「スズキ」と呼ぶ。生粋のスズキの自動車から外したと思しきエンブレムがそこらで売られていて、どう見ても「Acty」や「Hi-Jet」なのに、正面中央に「SUZUKI」のエンブレムが誇らしげに取り付けられているのをみると、どうやらパキスタン人にとっては、ホンダ製であろうがダイハツ製であろうが、断固としてそれは「スズキ」なのである。そして、いくら小さくても幌や車体に過剰な装飾が施されていることは当然のことである。これは彼ら運送業者のプライドであり誇りであるからだ。たとえ人や荷物で重量オーバーになったとしても、それで燃費がかさんだとしても、その負担に耐えきれずにパンクが頻発し、坂道でエンジンがオーバー・ヒートが頻発したとしてもだ。
Ariabadは、この「スズキ」の存在に象徴されるように「街」である。SustoもPassuも「村」だったが、ここは「都会」ではないものの、少なくとも「街」である。混沌と喧騒、商売と物流、通りにあふれる人、クラクションの音・・・「街」だ。私の乗った「スズキ」は坂を登りはじめると、私の期待を裏切らずにパンクしたり、エンジンの連動が外れて立ち往生したりした。そのたびに乗客は全員降りて修理を待った。運転手も慣れっこで、助手席の下にある工具箱を取ってすぐに車体の下に潜り込み、なぜか私を助手に指名してあれこれと指図した。「なぜだ ?? 」と訊くと、「これは日本製だろ ?? 」というアフリカでもブラジルでも聞き慣れた言葉が返ってきた。以後、私は膝の上に彼の工具箱を置いて、故障と同時に飛び降りた。乗客の女たちがゲラゲラ笑っていた。
Karimabadは、Hunza川沿いに走るK.K.H.から急な山道を30分ほど上がったところにある比較的なだらかな斜面にひらけた街である。その入口、町の最も下の拠点は「Zero Point」と呼ばれている。そこに古くからあるバック・パッカー用の安宿「Haider Inn」(400PKR) があり、とりあえずそこに荷を下ろした。宿は斜面に張り付いたように立っていて、通された部屋はレセプションのある階のひとつ下でありながら、その下の道を見下ろす形になっている。大きな共用バルコニーに面していて、常に誰かがいる。宿泊客に旅行者はむしろ少なく、どちらかというと、住んでいる者や近くへ働きにきた労働者の方が多い印象だ。部屋は質素でそう悪くない。到着したのが昼過ぎだったので、とりあえず陽のあるうちに一回り。渓谷を取り囲む山々、藩王国時代の王宮「Baltit Fort」を遠望し、街のおおよそを把握するのに一時間とかからなかったが、あまり舗装の行き届いていない坂道を「スズキ」が頻繁に行き交い、人並みをかき分けるようにして歩かなくてはならない状態に、これまでのゆったり感が消し飛んで、少し疲れが出た。
20170520 Passu
Uyghur-Pamir 2017.05.20.1 Passu
きょうはPassuを発ってHunzaの中心地Karimabadへ行く。Naseerさんが「氷河を見ていけ」と言うので、簡単に道を教えてもらって山に入る。照りつける太陽と石ころだらけの斜面・・・遠くから「山」として見ていただけではわからないこの実体感。足元から転がり落ちる石ころの音が、鉱物の谷間に響き渡る・・・それ以外には、自分の呼吸以外、何も聞こえない。レコード盤の音溝の縁を歩いているように、V字型の谷がずっと前方に続く。それらはいつしか眼前に鎮座する巨大な山塊に続いているのだろう。しかし、この一歩一歩は、とてもそこまで到達するものではない。ただ、V地肩の石ころだらけの地面と、その上に広がる青をもっと青くしたような空と、耳を圧するばかりの静寂が、ここにあるだけだ。生物の気配のない、無機的な世界・・・だったが、非常に遠くの高みから、「ホーーウ、ホーーウ」と声が聞こえた。はじめは動物か鳥の声かと思ったが、なんとなく人間臭い。斜面を石が転がり落ちてくる音が聞こえた。その方向へ目をこらすと、はるか彼方にうごめく塊がある。羊の群れだ。それは石の明暗に紛れてわからない。しかし、一旦見出すとよく見える。声は羊飼いのものだったのだ。群れ全体でさえ、ほんの木の葉程度の大きさにしか見えなかったので、人影を識別するのは至難の技だったが、彼が大きく両手を振っているのでそれとわかった。「ホーーウ、ホーーウ」・・・その急峻で脆く崩れやすい斜面を、羊の群れは長いことかかって少しずつよじ登りながら、積み重なった頭上の尾根の一つに消えた。
また静寂に戻った。私は歩みを進めた。巨大な谷の右岸の斜面を細々と踏み跡が続いているので迷うことはない。しかし自分はそのV時型の斜面に刻まれた無数のひだの隙間に入り込んで、見通しがきかないのだ。谷底は見えない。二時間ほど歩いて、ようやく踏み跡が山肌を上っていくのを遠望できる程度に前方の開けた場所に出た。のみならず、かすかに水の流れる音が聞こえた。右手の石垣のようになった襞のひとつに這い上がってみると視界がひらけ、遠い対岸との間に土にまみれた分厚く長くテロっとした巨大な舌のような地形を見た。その下はえぐれてつらら状のものが無数に垂れ下がっており、中は泥水のようだ。これが氷河か・・・私は白い氷の塊をイメージしていたし、タシュクルガンから峠を越える手前で、バスの窓越しに幾つかの氷河は見た。目の前の巨大な風景は土をかぶってはいるが、しかしまさしく氷河であった。それを確信したのは、その先端が崩れる時に鳴き声が上がったからである。気圧が低いせいか、静寂が深すぎるせいか、日射が強すぎるせいか、ともかく、頭がぼうっとして、巨大で荘厳なものを前にしているというより、透明な無感情に心が洗い流された感じがした。
短いトレッキングから戻ると前庭に地元の人が集まっていた。誘われてチャイをご馳走になった。促されるままに旅のことなどをとりとめもなく話すと、そのうちの一人がジープで南下するから便乗しないかと誘ってくれたのだが、なんだかもうちょいぎりぎりまでここに留まっていたかったので、感謝を述べて丁重にお断りした。Karimabadまでは一時間程度である。緊張の連続だった中国から出て、平安の時の中へ私を放置してくれたPassu InnとNaseerさんともお別れだ。
今いる場所のはるか北方に世界に冠する山々があり、そのまた向こうに広大な砂漠があって、そこは中国なのである。自分自身そこから出てきたくせに、なんだか想像しづらいものがある。中国ではここの5倍程度の物価で世の中が動いていて、インフラは整備されており、道路やホテルは立派で清潔である。停電もないし、おそらく世界でもトップランクのネット社会が実現されている。しかし、今回の旅では、人と親しく話す機会も、別れを惜しむこともなかった。私はPassu村を去るのが惜しい。パキスタンの物価は、感覚的に中国の1/5程度である。頻繁に停電する、というか、通電するのは夕方の数時間程度である。だから飲み物もそんなに冷たくない。そのかわり、ここには厳しい自然環境の中でごく普通に生きる普通の人の姿があったし、彼らは特に私を外国人旅行者だからと言って特別扱いしなかった。むしろ、私が何を考えて何を感じてここにいるのかを知りたがった。私はそれをうまく説明できていない。しかし話すことによって徐々に明らかになりつつある。そろそろチェック・アウトの時間だ。「どうせ満室にはならないから夕方までゆっくりしてろ。部屋は使っていいから。Karimabadはすぐそこだ」と言うNaseerさんの好意だけをありがたく受け取って、次の目的地へ向かうことにした。
宿は出たものの、少し放心状態のまま、荷物を持って村の中の道を下流へ降りてしばらく行くと、昨日、目をつけてあった丘の上のカフェが見えたので、それも一興と思って長い階段を上った。そこはあんずのケーキがオススメのようだったので、コーヒーとともに注文し、絶景の中で、音楽を聴きながら旅日記でもつけようとしてテラスに座った。mp3プレイヤーは、都合よく静かな曲を奏ではじめ、数曲目にCaetano VelosoのSamba e Amorがかかった。もう、なんといいますか、ただただ感無量。こんな透き通るような、視覚を貫通する風景の中で、こんなタイミングでこんな曲を聴くことになるとは・・・朝のトレッキング経験と、この寛ぎ・・・本当に生きててよかったと実感する時間であった。テラスは私一人だった。そこからもう一つの氷河へ一時間半程度で行けると案内されたが、活動するより、ここで絶景の変化をのんびり眺めつつ、好きな曲を聴くなんて最高の贅沢だと思って辞退した。店の人は私を放置してくれた。・・・・ ・・・・どれほど時間が経っただろう、少し日が傾きかけたかなと思ったが、小一時間ほどだった。私の心は満たされ、次の目的地へ向かう呼吸も整った。私は旅人に戻った。K.K.H.へ降りて、「Karimabad, I can pay 250 PKR !!」と大書きした紙を広げて待つと程なく一台の車が止まり、Karimabadへの拠点の街Aliabadへ向かった。
2017年05月19日
20170519 Passu-Gulmit
Uyghur-Pamir 2017.05.19.2 Passu
Passu Innの主Nasserさんは、地元のガイドも引き受け、トレッキングのインストラクターも務める。料理の腕も良い。また、このPassu Innは村の中心・・・といってもPassu Innと数軒の食料品店があるだけだが・・・にあり、K.K.H.を通過する車が立ち寄ったり、スクールバスの停留所があったりして、いわば地域のコミュニティ・センターの様相を呈している。朝夕には子供たちが、昼時には仕事などで往来を通過するドライバーが、それ以外にも地元の村人たちが三々五々、集まってくる。居ながらにして現地の人と触れ合うことができるのがとても良い。
朝食後、前庭でくつろいで居たら客があり、ともにミルクティーを飲む。彼らがGulmitへ向かうというので便乗させてもらい、足を伸ばしてみることにする。K.K.H.沿いでは、北はSoustから南はGilgitまで頻繁に車の往来があり、ほぼ全ての車に便乗可能である。車のない人には便利な足、車を持っている人には良い小遣い稼ぎになっているようだ。道路も整備されていて問題なくこの区間を数時間で通過できる。
Gulmitの村に通じる橋のたもとの検問所で簡単に村への訪問の意向を告げると、近所を歩いていた高校生をガイドにつけてくれた。彼は英語が堪能で、彼の家に帰るまでの道すがら、村の中を道道案内してくれた。Gulmitの村は、K.K.H.がHunza川を渡った対岸にあり、2010年1月の大規模な地滑りの後、2年前までは陸の孤島だった。地すべりは5kmほど下流のAtta-abadで起こり、Hunza川がせき止められて、春から夏にかけて雪解け水が流れ込んで増水し、広大な湖ができた。Sarrat・Atta-abad・Ainabad・Shishkatの一部が水没し、Gulmitは水没を免れたが、ちょうど村のすぐ北の橋が流され、上下をアクセスするK.K.H.がGulmitとSaratの間で不通になった。果樹園や農地も水没し、住民は高台に避難した。その後、村人は新しい村を建てたり疎開したりしたが、平地が少なく、農耕にも適さないので、多くは観光業に就いた。2年ほど前に中国の資本でこの区間を跨いだりトンネルを通したりしてK.K.H.が再建されたが、その間は今いる場所のすぐ北に船着場があって、そこからSaratまでは小舟で一時間以上かかった。その頃からGulmitかPassuのGojar地方 (Upper Hunza) の観光開発が盛んになって、中国からの観光客が増えた。開通してからは南部からも観光客が来るようになった・・・と、こんな説明をしてくれた。
村は斜面のゆるやかになった部分にできた森に抱かれるようにあって、山から流れる水を各家庭の敷地や畑にうまく分散して流している。これは生活用水、農業用水になるのだろう。家庭は石塀で区切られていて、そんなに高くはない。背伸びすれば覗ける程度だ。道は舗装されておらず、集落の中までは車では入れない。ほとんどすべてが上下の狭い石道で、塀と塀の間や塀の中を村人が横切る姿が見られる。彼によると、この村は居住用で、多くの人はHunzaなどの観光地やGulmitから北の観光客用ホテルやレストランに働きに出たり、トレッキングのガイドやシェルパなどをする人もあるという。村のはずれの別の斜面から連なる扇状地に村の農地があって、主に女性や老人が農業に従事している。山が脆くて時々崖崩れがあるが、それ以外は静かだという。寡黙で口数の少ない子だったので、あまり対話は弾まなかったが、共に歩いて心地よい時間を過ごせた。
Gulmitから徒歩でPassuへ戻りがてら、辺りを散策することにする。乾燥した天候、植物の少ない鉱物の世界、フンザ川の雪解け水の激しい流れ、脆い岩石の斜面・・・非常に危ういバランスの中で、この景観と人々の生活が長年守られてきた。今でこそ舗装道路が首都から中国まで貫通しているが、ほんの数十年前までは、ジープはおろか、徒歩かラクダでないと入れなかった地域である。斜面に細々と続く、道とも言えぬほどの人の踏み跡がそれを物語る。それが、所々の斜面の崩れによって寸断されている。いまでも断崖絶壁を伝っていかないと渡れない橋がある。道路が寸断されていた頃のの船着場と思しき場所へ降りてみた。小さな船しか使えまい。人も物流も、一度に運べる量はわずかだっただろう。その苦境の中でも、細々と人と物の往来は続いたのである。振り返ると反対側の斜面が大きく崩れた痕跡が目前に迫っている。足で触ると非常に脆い。そう、あたり一帯、どこもかしこも脆いのだ。それにもかかわらずというべきか、それだからこそというべきか、この風景、この人情、この空気が守られたのである。私はそこに浸りながら、自分がそれに耐えられるだろうかという疑念から逃れられなかった。
そんなことを考えながら数時間をかけてPassu村まで歩いて戻った。Gulmitのひとつ上流の隣村Husainiの段々畑は、どこか日本の棚田を思い起こさせる。村の中は生活道路、村を通り抜けると自動車道一本道を歩いたので、途中何度も「乗らないか」と誘いを受け、同じ車が用事が済んで引き返して来るのに出会ったり、ヘアピンの坂道の途中でに掘っ建て小屋でチャイハネを営んでいる哲学者に引きずり込まれたり・・・そこには先客が三人いて、いずれも大学教授だった。私が入ると皆英語に切り替えてくれ、この辺りで信仰されているイスラムの一つの宗派「イスマイール」のことについて語ってくれた。Passu村の対岸の壁面に「Hazir Imaam」と大書されているのを見たが、彼がその宗派のGojarを代表する指導者だという。Gojarは、イスマイール派の慈善活動によって多くの恩恵を受けている、と彼らは言う。この山岳地帯が、どこか異郷の地のように感じられるのは、そのためかもしれない。さらに行くと、ボロボロのジープで「氷河を見に行こうぜ」と誘ってくれたじいさんがいたり、申し訳ないが私は歩きながら沈思黙考したかったので自分の道を歩んだのだが、それに対しても深追いせず・・・イスラムの人の善意は時として限りなくおせっかいになりがちだが・・・しかしなんとなく見守られているような安心感のある数時間であった。
20170519 Passu
Uyghur-Pamir 2017.05.19.1 Passu
Passuで早朝散歩。もう、ただただ絶景の連続。どこを見ても絶景、ここを見ても絶景。村を一望できる丘に上がると文字通り心が洗われるような絶景と涼風。この世の天国。岩でできた質素な村と雪をいただいた山々と、青空に雲、もう言葉もない。山の頂を見るに、日本の場合とはその仰角が違う。渓谷の美を見るにその規模が違う。時間が経つと光の角度が変わり、風景もそれにつれて変わる。いつまでも眺めていたい。申し訳ないことに、目の前の山の名前なんてひとつも知らない。山の好きな人なら飛び上がって喜ぶだろうに、誠に申し訳ないことに、何も知らない私がこの山を見ている。村を通り抜けて川原へ降りてみる。村の少女たちが洗濯をしていて、男性である私を認めると姿を隠す。仕事の邪魔をしてはいけないので、私の方からも姿を隠す。小麦畑に規則的に掘られた水路に水が通っている。細い鍬で水路を直している農夫と話す。その小麦は4月に種まきされたもので、今入れている水は二度目の水だという。彼を含め、村の老人たちもが普通に英語を話す。外国人旅行者である私に、特別に高揚したりすることもなく、ごく普通に接してくれる。何もかも、自然も人も普通で静かで美しい。穏やかだ。風景をよく見ると、もろい岩山の崩れがあちこちにある。水に侵食された段丘もある。厳しい自然と災害の痕跡がいたるところにある。そのなかにあってのこの穏やかさ。この空気に包まれて二日間ひたすら埋没する。
2017年05月18日
20170518 Passu
Uyghur-Pamir 2017.05.18.2 Passu
旅は一変した。なんという素晴らしい風景、雄大な、心研ぎ澄まされる、空に吸い込まれるような、山・山・山・・・筆舌に尽くしがたい感動、片時も目が離せない興奮・・・山登りにも、山岳写真にも、何の興味もない私だったが、ただ暇つぶしに、中国とパキスタンの陸路国境越を興味本位でやってみようと思い立っただけなのだが、途中フンザも通るし、パキスタンを半分縦断できるなんて・・・と面白半分の思いつきだったのだが・・・なんという風景、なんという人々の笑顔が私を出迎えてくれたのだろう・・・それまでの予備知識や、一夜漬けの旅情報なんて、一瞬にして消し飛んだ。中国の複雑な現状や、印パ両国の事実上の紛争地であることなど、この自然の前に、一体どんな意味があるというのだ。私のような、不純で取るに足りない旅行者を、こんな天国が迎えてくれるなんて・・・大げさではない。かつて、なぜこの地に、カシミール・カラコルム・パミール・ヒンドゥークシからアフガニスタン北部にかけて紛争が絶えないのかわからなかったが、いまはっきりとわかった。あまりにも素晴らしい場所だからだ。パワー・スポットなんて、聖地なんて、所詮人が考えたことだ。この自然、地球に生まれて本当に良かった。何もかもが報われた。感謝の感動に包み込まれた。この地のためになら死んでも良いとさえ思った。
20170518 Tashkurgan-Passu
Uyghur-Pamir 2017.05.18.1 Tashkurgan-Passu
いよいよタシュクルガンから中パ国境を越えてスストへ行く。今回の旅のハイライトである。カラコルム・ハイウェイ (K.K.H.) で最高標高4,600メートルなにがし。舗装道路による国境越えとしては世界最高の峠を越える。当然、万年雪の白銀の世界。凍てつく峠越えのために、すでにダウン・ジャケットを着込んである。場合によっては酸素吸入も必要と聞かされたが、周囲のパキスタン人によれば、そんなものは全く必要ないとのことだった。さて荷物を背負って息急き切ってバス・ターミナルに着く。切符を買うのは問題なくノー・チェック、で、バスはどこから出るのかなとキョロキョロしていると「custom !!」と声がかかった。「税関 ?? 」・・・きょとんとしていると、近くにいた職員が腕をとって私を外に連れ出し、近くにいたバイク・タクシーに何か耳打ちすると、その荷台に私を押し込んだ。バイク・タクシーは「塔什库尔干路」を西へ向かい、三叉路を左折して「中巴友谊公路」を全速力で南下しはじめた。おいおい、これでクンジェラブ峠を越えるのか ?? と真剣に疑ったほどかなりの距離を走って、バイクは大通りの右手にある「紅其拉甫口岸」に到着した。
「紅其拉甫口岸」は、すなわちクンジェラブ峠の中国側の税関・出入境検査所である。つまり私がバス・ターミナルと思っていた場所は単なる切符売り場で、バスはこの「口岸」から出るのである。つまり、有効なパスポート・パキスタンのビザ・中国から出国するための切符の三点の必要書類を揃えて、ここで出国手続きをするというわけだ。「口岸」は、大通り側の門から敷地に入ると中に建物があり、そこで税関検査と出国手続きをする。それが済めば建物の裏手に出てそこにバスが来る。それに乗って出国するという段取りだ。したがって、建物の裏手に出てしまえばもう中国にはいないことになる。敷地は全体が管理されていて、表と裏は直通できないし、外からの侵入もできない・・・はずなのだが、まあ、広大な敷地を短絡するために、物売りやいろんな人が近道として通過してた。建前としては、このバスに乗った以上、パキスタンの入国手続きが済むまでは、勝手な行動は許されないことになる。
さて、そこに着いた時は数人が開門を待っていた。朝日に照らされ、南に広がるパミールの山並みを遠くに見渡しながら、先客といろいろ話をしているうちに時は過ぎ、やがて数十人のパキスタン人が集まってきた。私を日本人と見て、訛りのきつい英語で色々と話しかけて来る。フレンドリーなことは、中国新疆における人民の硬い表情とは全く対照的だ。ここにいる人たちがみんな中国を後にするパキスタン人であるからかもしれない。解放感漂う笑みを浮かべている。10時過ぎに門は開かれ、高圧的な職員に促されて一列縦隊で建物に導かれる。ほんまに交通機関の職員はなぜいらんとこまで偉そうなんかねこの国は。まあ忘れよう。もう俺もここから出て行くのだ。どうでもいい。お前ら死ぬまでやっとれ。中国は初めてやしこんぐらいにしといたろ。
出国手続き、静まり返った館内で、空港によくあるものと同じパスポート・チェックの窓口があって、順に並んで審査を受ける。カウンターではカメラが作動していて、おそらく電子的にパスポートの顔写真との照合や、入国時のデータとの照会そのた、体温なども測定されているのかもしれない。審査官は女性で愛想よく、全く威圧的なところはなかった。「中国の旅はどうでしたか」「パキスタンから帰国の便は」「どうぞお気をつけて」と、流暢な英語で友好的に接してもらい、こちらも型通りに紳士的に受け答えをして終了。旅が旅だっただけに、国境越えという緊張する場面ながら心和むひと時であった。パスポートにスタンプをもらってその場を離れようとすると、手元のモニタが光り、「出国審査官の仕事を評価してくれ」と出たので、正直に「大変良い」というのを押したら、なんと日本語で「どうぞ、よい旅を」と音声が帰ってきたのにはびっくりした。さよなら中国、もし今度また来るようなことがあれば、そのときは中国語ちゃんと勉強してからにするよ。
建物の裏手に出ると、青い大型バスが停まっていた。結局、私以外は全てパキスタン人だった。バスのドアが開いて乗車を許された。おお・・・こんなバスは初めてだ。座席ではなく三列二段式の寝台になっている。びっくりしながらも、最後部で見晴らしの良い特等席を確保して、早くも寛ぎ体勢。いやあ、なんか楽しいね旅。結局バスは昼過ぎに発車。カラコルム・ハイウェイを快調に飛ばし、途中何度か検問所で全員降ろされたりしながらも、明るいパキスタン人に囲まれながらワイワイガヤガヤと楽しい旅、英語が普通に通じる奴らなので、全く問題なく友情が育まれる。途中の村で乗客がトイレに走ったりして缶詰の鉄則が崩れそうになるのを、ウイグル人の運転手がやきもきしてたりして、そこへ別の男がちょっと買い物してくるとか、俺も俺も・・・と相次いで降りて行くので「もーやってらんねえよ」とお手上げ状態になったり、そこかしこに現れる真っ赤な服のメーテルのようなタジク女性に見とれながら、気がつくと周囲は銀世界。気圧と気温の低下から物音が遠くなり、一人二人と寝台に没する奴らが出てきたが、私は絶好調で、車窓風景を見ながらはしゃぎまくっとった。
やがてバスは巨大な楼門のような国境で停車、係官が乗り込んできて車内を一瞥した後、問題なくスタート、門をくぐった途端、乗客全員が大きな歓声を挙げ、拍手喝采とともに大合唱が始まった。多分パキスタンの国歌だろう、イスラム的で勇ましいメロディが何度も繰り返されるので、私も調子に乗って口真似で歌ってたらみんな喜んだ。私と同じように、中国ではみんな色々あったのだろう、故郷に帰れたという以外にも、解放されたという喜びがひしひしと伝わってきたものだ。それほどまでに、中国はきつい空気に満ちていた。
しかし今から考えてみると、車内を一瞥して降りていった兵士が、私を不審者と見ていたら厄介なことになっていたはずだ。私以外乗客全員がパキスタン人、もちろん運転手が乗客名簿を出していて、そこには国籍も明記されているはずだから、日本人一人が乗り込んでいることを知らないはずがない。「口岸」と違って国境検問所は国防に関する最後の関門で、担当する人物によっていかようにも判断されうるので、ここは微妙なところだった。まあ入ってくるものは警戒するが、出て行く分にはお咎めなしなのかもしれないが・・・とりあえずラッキーだったということで・・・
さあ、新しい旅が始まる。道路の状態は中国ほど良くないが、舗装はされていた。しかし時々穴があって、その度に車体は大きくバウンドする。特に私の座席は頭上が低いので、うっかりしていると天井に頭をぶつける。その鈍い音を聞いて乗客のパキスタン人が一斉に振り向いて大笑いした。濃い顔の髭面の男たちが目を輝かせて笑う。そこに、無表情な極東アジア人とは全く異なる反応を見て、遠くまで来たことを実感した。道はどんどん下って行く。やがて沿道から雪が消え、石と草原の世界になる。羊を放牧している家族を車窓から見る。男たちは民族服であるシャルワール・カミースを着ていて・・・もちろん乗客もそれが多いのだが・・・ゆったりとした服地が石の崖に映える姿が美しい。ここはパキスタン、つい数十年前までは中央政府の力が及ばず、古来からの藩王国が支配していた北部辺境、厳密にはインドと帰属をめぐって係争中の地域である。途中、外国人のみクンジェラブ国立公園の通行料を取られたりしながら、バスは5時間ほどでスストに到着。
バスはパキスタン側の入国管理局の広場に横付けされ、乗客は順次建物に入って行く。まずは健康チェックと言いつつ、通過する客のモニタを誰も見ていない。次は入国手続きね、と並んだものの私以外は全員帰国者なので、検査そっちのけでみんな塊になって係員と笑顔で握手しあったり抱擁を交わしたり、実に和やかな雰囲気で、私はそれをにこやかに眺めながら自分の順番を待っていたが、その節度ある態度が気に入られたのか、「おいパスポートを貸せ」ガチャッ、「良い旅を !! 」て感じであっけなく入国。係員は次のパキスタン人グループと笑顔で・・・だいじょうぶかねこの国は・・・
パキスタンは、北京時間よりも3時間遅いので時差を調整、つまりまだ昼過ぎでなんか得した気分。スストは国境連絡のみの小さな村で、K.K.H.沿いに数百メートル町があるだけである。バスの止まった場所にほど近いカレー屋にみんなで入ってチキンカレーとチャパティをいただく。これが大当たりで、今回の旅で食べたチキン・カレーで最高に美味かった。その数軒先の食料品店で飲み物を買うついでに、余っていた中国人民元 (1CNY ≒ 18JPY) をパキスタン・ルピー (1PKR ≒ 1JPY) に両替。レートはかなり良かった。パスーへ行くというと、その隣に止まってるワゴンが行くというので運転手に運賃を払って周囲を散策、「クラクション鳴らして拾ってやるから散歩でもしてろ」というので果物屋やチャパティ屋などで保存食をちょっと買っておいて、川を眺めたり山を眺めたりして、果てしない風景にため息をついていると、さっきのワゴンがクラクション鳴らしながら迎えにきたので、それに乗ってパスー村へGo !! あまりにもスムースなので逆に恐縮する。さあ、新しい旅が始まった。
2017年05月17日
20170517 Tashkurgan
Uyghur-Pamir 2017.05.17 Tashkurgan
タシュクルガン、ウイグル語で「يېنگىيېزىق」、タジク語で「Тошкйрғон」、発音は、ほぼ同じで「タシュクルガン」、中国語で「塔什库尔干 (Tăshìkù'ĕrgàn)」と音写されているが、ペルシア語およびテュルク系言語で、ほぼ同じ「石の城」を意味し、町の象徴である「石头城 (shítóuchéng)」を指したものである。東西トルキスタンには、同じ語頭や語尾を持つ地名があり、かつてのウズベキスタンの旅で最初に降り立った首都の「タシュケント (Tashkent) 」はテュルク語ですなわち「石の町」、その第二の都市「サマルカンド (Samarkand) 」、今回の旅で捕まった「ヤルカンド (Yerkent) 」の、これら三つの語尾は、すべて「町」を意味している。新疆ウイグル自治区の南西の最果ての地、「タシュクルガン・タジク自治県」という名のごとく、ここはもうタジク人の世界。しかし歴史を紐解くと、中国西域の入り口から西はギリシヤにまたがる広大な、二千数百年にわたる多数の民族の興亡の結果、その末裔があちこちに置き去りにされた証である。
タシュクルガンは、ほぼ東西に「塔什库尔干路」、南北に短く「紅其拉甫路」という道路が交差していて、その周囲に東西に長く一本ずつの通りが周回しているだけの、ごく小さな町である。ちなみに「紅其拉甫」とは、中国とパキスタンの国境がある峠の名前「Khunjerab Pass」の音写である。まったくわからんねここまでくると。ちなみにカシュガルを発してその紅其拉甫路峠に至る国境街道は「国道314号」、通称「中巴友谊公路」といい、「巴」は「パキスタン (巴基斯坦) 」を指す。これを含み中国のカシュガルからパキスタンのラワルピンディを結ぶ街道を「カラコルム・ハイウェイ (K.K.H.) 」という。ここへきてようやく、町の道路名が「団結路」・「人民路」・「体育路」・「文化路」・「建設路」などという、中国特有の共産党的スローガンから解放され、国境の町であることが実感された。ウザいねんこんな名前。バス・ターミナルは、その交差点の少し東にあり、パキスタンへの国際バスに乗るためには翌朝9時に来いと言う。まだ北京時間の午後3時、つまり現地感覚では昼過ぎなので、ゆっくりこの小さな街を観光すべく、「塔什库尔干路」の東の果ての絶壁に綺麗なホテルがあったので入ってみた。タシュクルガンでも、外国人に対する監視の目はほとんど感じなかった。おそらく安ホテルにも泊まれただろうし、中心部の広場にはY.H.もあった。しかし、なんとなくこの町、寂れているというだけでない独特の情緒があって、中国最後の宿泊でもあるし、気に入ったところに泊まってみようと思ったのである。フロントのねーちゃんもごっつい別嬪やったし、部屋からの眺めも最高だったので、ここに決めた。常に崖ッ縁゜走り続けてるんでね、絶壁好きなんよね。
早速「石头城」へ行ってみた。ところが、もうこれさすが中国、ラサの「ポタラ宮」は言うに及ばず、今回の旅で目にしただけでも、成都の「黄龙溪」、ケリヤの「库尔班小鎮」、カシュガルの「高台民居」が観光テーマ・パーク化され、そしてこの「石头城」も目下鋭意大改造建設工事中のため閉鎖されていた。外壁から窺い知るに、観光バスを多数収容できる広大な駐車場を備え、数々のモニュメントに彩られた遊歩道が巡らされ、おそらくその内部にも周囲にもみやげもの店や遊園地などが建設されて、この独特の情緒ある寂れた街も大いに活気づくであろう。固く閉ざされた入口から延々と連なる高い防音壁に沿って通りを歩きながら、私は旅の不毛、人類の欲望、経済の不条理を痛感するのであった。「塔什库尔干路」は坂道を下り、東に広がる低地湿原へ解放されている。事前の調べでは、町は断崖を隔てて湿原に降りられるようになっていたはずだが、今ではこれも整備されて、街を取り囲むように立派な周回道路ができている。横断歩道を渡ると、ウッド・デッキの設えられた湿原展望ご休憩コーナーがあり、その先には、なんとフリーマーケットやコンサートが開けるほどの巨大ステージがあった。いやあこんなところで京劇の公演なんか大音響でやったらすごいでしょうね・・・ああ ??
湿原の彼方には、タジク人遊牧民のユルタ (フェルトのテント) が見え、あちこちに放牧された羊の群れがある。湿原の中は小川が流れ、晴れていれば草原の緑と空の青、山の雪の白さが際立つ絶景が広がっていたことだろう。しかし、微妙に曇り時々雪交じりの霧雨あるいは砂嵐、でもまあこれはこれで光の具合が様々に変化するので貴重な体験とはいえる。やがて放牧の群れの一つがこちらへ近づいてきた。羊飼いは、朴訥な表情の、いかにもタジクというプライド感溢れる精悍な男であった。前回ウズベキスタンの旅の中にあって、ブハラのキャラバンサライで大変世話になったタジク人夫婦を思い出す。姿形でホレますねえ、この簡素にして剛健な姿。十分散策して、寒くもなってきたし、中国での最後の晩餐は敢えて辺境に於ける中国料理で、と考えて、鳩 !!
翌朝、寝過ごしてしまった。とはいっても9時には余裕はあったが、7時半からの朝食サービスは断ってチェック・アウトせざるを得ず、フロントの別嬪のねーちゃんが申し訳なさそうにしていた。いやあ、一日伸ばそうかなあ・・・とりあえず駆け足で昨日の湿原を一回りして、急いでバスターミナルへ・・・毎日走り続けてるんでね、絶壁好きなんよ。
20170517 Kashgar-Tashkurgan
Uyghur-Pamir 2017.05.17 Kashgar-Tashkurgan
タシュクルガンへ発つために、朝9時に「晨光伊甸園 (zhěng kuǎng yī tièn yuěn)」へバスで行く。そこは、なんの変哲もない集合住宅の入り口で、車道から隔てられた歩道側の車止め付近に、何台かのワゴン車が停まっている。ここがタシュクルガンへ行くバスのターミナルだ。教えられなければ全くわからないだろう。情報サイトにも出ていない。バスを降りると仲介人らしき男からすぐ「タシュクルガン ?? 」と声がかかった。うなずくと白い一台のワゴン車を指して「あれに乗れ」と顎でしゃくってみせた。乗客はまだ集まってはいない。満員にならないと発車しない民間バスによくあるやつだ。しばらくすると、付近に物売りや旅行者や、わけもなく絡んでくる不審な男たちが集まって来て、ちょっとした賑わいになった。いろんな国で民間バスに乗るときによくある空気だ。漢人、ウイグル人も見られるが、明らかに顔立ちの異なる、赤ら顔で彫りが深く、眼窩が落ち窪んで碧眼、ハンチングを被った、おそらくイラン系と思われる男たちが目についた。そのうちのひとりが英語で話しかけて来たので、しばし旅の友として二人で揚げドーナッツと紅茶を買ってきて、冷たい縁石に座って通行人や乗客を眺めながら、成り行きを見守る。こういうひとときが旅の味わいだ。かれこれ小一時間ほどで人数が定員になったのか、さっきの男が手を叩いてワゴンへ手招きした。ぞろぞろとみんな乗り込んで出発。この時点では誰も金を払っておらず、外国人旅行者には必要とされているパスポート・チェックもない。むろん路上なので保安検査もない。なんか拍子抜けした感じだ。
バスは出発し、やがて郊外に開発された物流センターのようなエリアに入って行った。広大な駐車場を持つガラス張りの建物の前に横付けになり、全員降りてその建物に入っていく。ここが、カシュガル近郊から移転した国際バスターミナル (国际汽车客运站) で、近くの商業施設の看板に「廣州新城」とあったので、このエリア一帯をこう呼ぶのだろう。このバスターミナルには、カシュガル市内から20路のバスが来ていて、同じ路線は、このワゴンの出発点であった「晨光伊甸園」を経由してカシュガル老城の近くの「中國郵政」と「四小」、さらに郊外の観光名所「香妃墓」を経てカシュガルの鉄道駅「火車站」に至る。老城地区から鉄道駅へは、私が乗ってきた28路も連絡しているので、観光客にはこの2本がわかれば、たいていの用は足りることになる。
さて、ここではじめて切符を買うのである。私はワゴンはここが終点で、ここから大型国際バスに乗り換えるものと思っていたのだが、切符を買って同じワゴン車でタシュクルガンへ向かうという。さきほどもちらっとふれたが、外国人観光客がタシュクルガンへ行くには、パキスタンのビザか許可を得た旅行業者による通行証が必要である。なぜならタシュクルガンは国境の町であり、その先はパキスタンなので、外国人は正当な渡航許可を得た者しか通さない。そのチェックをここで受けることになり、不備のあった場合は切符を売ってもらえない。タクシーを雇うなどチャーターされた移動手段であっても、一旦このバスターミナルに立ち寄って、同じ手続きを踏むことになる。また民間の旅行会社で個人的に契約した場合、つまり公共の移動手段でなく、旅行会社のお抱えの車両で移動する場合も、検問で同じチェックを受けるので、通行証に関しては事前によく調査する必要がある。中国、特に新疆では、バスでもタクシーでも、長距離移動の場合は、このような正規の切符売り場で切符を買って移動する仕組みが出来上がっており、旅行者にはボラレなくて良いが、規則をいちいち踏む面倒があり、特に外国人の移動の際の規則は頻繁に変更されるので注意が必要になる。公共交通機関で問題なく移動できるのは中国の国籍を持つ者だけである。また、路線バスで「廣州新城」まで直接来て、このターミナルで切符を買うことは、おそらく難しい。というのは、ここを起点としてバスが運行されているのではなく、「晨光伊甸園」など、いくつかの起点で集めた客を一括して連れて来て、ここで検査して切符を売る仕組みになっているので、ここに来た時点でおそらくその車両に空席はないからである。
切符を手に入れてふと気がついた。カシュガルより前、新疆へ来てからのすべての移動に際して、必ずあったボディ・チェックとライター没収がない。もちろん空港や鉄道駅は言うに及ばず、都市間移動のバスやタクシーの切符売り場のゲートで、ライターは引っかかる。ボディ・チェックだけでなく荷物に入れてあるものもX線検査で必ず見つけ出す。無駄な抵抗だとわかってからは、素直にゲート脇のライター回収箱に入れるのだが、それを見ながらボディ・チェックしているウイグル人の警備員がタバコ吸ってやがる。私はどうしても「朝の儀式」のためにタバコが必要で、1日2本しか吸わないのだが、ライターは必需品なのだ。だから、中国へ来てから、ほぼ毎日のようにライターを買っては没収されている。今日Y.H.を発つ時も、どうせ没収されるのだからとカウンターに置いて来たのだが、バス・ターミナルでは保安検査もなかった。ライターひとつ損した気分。まあいい。全員が切符を買い終えるまですることがないので、敷地内をぶらついてみたが広大すぎて何もない。隣の商業施設まで足を延ばす時間もなさそうなので、さきほどの英語を喋る男と世間話になった。彼はタジク人であった。「タジク」は古代中国で「大食」と書き、色黒で肉食のイラン系遊牧民である。カシュガルへ出稼ぎに来ていて、これから故郷のタジキスタンへ帰るのだという。彼も羊飼いで、冬の間家族の羊を任せ、これからの季節太らせるのに男手が必要だと言っていた。ほどなく手続きが完了したと見えて、運転手が客を集め、再び出発となった。
バスは出発した。「廣州新城」は実に広大なエリアであった。途中、明らかに楽器のテーマパークと思われるところを通った。あああっ・・・何を措いてもここへ来るべきだったと、いまさら悔やんでみても始まらない。事前調査不足の最たるもんだ。まあしかし帰国後に色々調べたが、ここについては情報が得られなかったので、やむなしとしよう。出発して一時間ほど、「乌帕尔镇 (ウパール村)」で昼食休憩になった。国道沿いの旅行者御用逹という風情の繁盛したレストランである。みんなが注文するので私もつられてラグメンとポロフのセット、スープに見えるのは、実はハーブ・チャイ。いやいやなかなか、このセットは中国新疆の旅を締めくくるに足る味でした。で、店の人とも乗客ともわからぬ男が来て言うには、この村の名前は鉱物で宝石の原料になるオパールの語源とのことで、例によって「俺の家に素晴らしいオパールがあって、特にお前のために安く売ってやるから見にこい」というお誘いを軽く受け流してGo !!
さて車は走り出してカシュガルともお別れ。しばらくは砂の大地にポプラ並木や胡杨の林など、ウイグル的風景が続いていたが、やがて木が乏しくなり砂が石に変わって殺伐とした風景に変わっていく。標高も上がるので気圧が下がっていく。不毛な山岳地帯に入って間も無く舗装も途切れ、地道となって速度が落ちた。谷あいの崩れそうな砂利道を行く。時々斜面に頼りなく切り込まれたノコギリ目のような細い径を、離合に難儀しながらのろのろと進む。傍らでは大掛かりな道路改良工事、高架化された高規格道路が建設中である。その現場の一つで軍の検問か、あるいは工事の都合かで、かなりの間止められた。見る物もないところで待たされても全く無意味で、ただただ英語のわかる乗客と愚痴るしかなかった。
そこを脱出して悪路急坂を登りきると風景が一変した。進路右側になんと見事な、水墨画のような、淡く白い砂とも雪ともつかぬ山肌の色と、灰色とも水色ともつかぬ湖面の色が、ぼんやりと微妙に、憂鬱に内省的に、詩的に幻想的に溶け合っている。曇っていたのが幸い、なだらかな色のグラデーションに酔う暇もなく、ワゴンは湖岸を通過。そこは「恰克拉克(チャクラク)湖」、通称「白沙湖」というダム湖で、止められたのはそのダムの下、高架工事が大掛かりだったのは、悪路急坂をなだらかにのぼるための工事だったのだ。「白沙湖」の美しさに感動するあまり、10分程度で進路左側に現れた「克州喀拉库勒湖」、すなわち中国の「カラクリ湖」にほとんど気付かなかった。カシュガルからここを訪れるのにさえ、外国人には通行証が要る。カシュガルからのツアーに参加しなければたどり着けない場所だ。実は「カラクリ」は、ウイグル語あるいはキルギス語で、「黒い水」という意味で、ちなみにリンガラ語では「Maï Ndombe」であり、その名を冠する湖もあって、私もその湖畔に長く滞在したこともある。で、「カラクリ湖」は、実は隣のキルギス共和国のものの方が大きく有名であって、それゆえに中国のカラクリ湖は、その所属州「克孜勒蘇柯爾克孜自治州 (クズルス・キルギス自治州)」の略称である「克州」の名を冠している。気づいたのはもう湖の端で、浅いところだったのか、車窓から見える湖水はそう黒くは見えなかった。
ワゴンはさらに不毛の大地を登る。途中、いくつかの集落を過ぎ、「卡拉苏 (カラス)」というところで例のキルギス人の男が降りて行った。そこはキルギスとの国境に近く、両国の往来ができる「口岸」がもうけられている。ただし彼が言うには、中国人とキルギス人の往来はできるが、第三国の人間は通行できないとのこと。降りたのは彼一人であった。道路から人の踏み跡程度の細道が西へ伸びていて、その先に白い壁が見えていた。ここで彼は故郷に帰る。短い間だったが、重苦しくも優しい心の滲み出た、ダンディな男であった。ワゴンは15時過ぎにタシュクルガンの町に到着した。
2017年05月16日
20170516 Kashgar
Uyghur-Pamir 2017.05.16.2 Kashgar
カシュガルは自由に歩ける。ウイグル人居住区が柵で囲まれているわけでもなく、交差点ごとに列を作って検問を待つ必要もない。行きたいところへ行きたいように行ける。しかも街には街らしい混乱と活気があり、奔放な喧騒がある。警察官は比較的穏やかである。大都市なので人口に比べて少ないのかも知れず、警察車両が車列を組んで示威活動をする場面も見なかった。
ようやく旅らしくなってきた。市の中心部を流れる吐曼河の東側に大きなバザールがあり、喧騒に引き込まれるようにそこへ入ってみた。そこは、おそらくこの世にあるもの全てが売られているのではないかと思うほど、ありとあらゆるものがあって、賑わい、豊かさ、狡猾さ・・・中国における中央アジアの国際バザールの面目躍如たるもの、実に旅の醍醐味を満喫できる。布地・楽器・茶など、旅の土産はここで揃う。しかも安い。値切ればびっくりするほど安い。日本では絶対に手に入らないものを買い込んで、郵便局から日本へ発送した。
身軽になったので、中国最大のイスラム寺院「エイティガール・モスク」 (ウイグル人は 「ヘイトガー」というくらいに発音していた) へ行ってみると、たまたま午後の礼拝が終わったらしく、沢山の信者の方が出てきた。一気にウイグル気分が盛り上がり、ウイグル帽を被った渋い爺さんグループが仲良くしてくれたので、言葉もわからないのに一緒について行く。その一人は仕立屋さんで、聖地の参道に店を構えており、私を招き入れてチャイをご馳走してくれた。そして、ラジカセにスイッチを入れた。なんと、「ウイグルの魂の叫び」の異名をとる古いムカームのひとつ、「Dilu-Kuyi」のメロディがかかりはじめた。これは「NHK新シルクロード」という番組で、「ディラクエ」あるいは「提勒库依」として紹介される。ヤルカンドの12ムカームのひとつとされているが、調べたところそうではなく、系譜は別物と思われる。しかしウイグルの音楽の中では珍しく歌のない楽曲で、スタンダードな民俗音楽であることは間違いない。その悲痛なメロディ、張り詰めた弦楽器の音色が十二分に生かされた素晴らしい楽曲で、忘れることができなかった。それが目の前のラジカセから、偶然にかかったのである。私は驚いてそれに聞き入り、仕立て屋の爺さんがその曲名の正しい発音を教えてくれた。のみならず、それをアラビア文字で書いてくれたので、私はすぐさまCDショップへ行って、「Dilu-Kuyi」のおさめられたCDを数枚手に入れることができた。爺さんも、自分たちの古い民謡を知っている日本人が来たことがたいそう嬉しかったらしく、店の前を知り合いが通るたびに呼び止め招き入れて、チャイをご馳走しながら私のことを紹介した。そのうちの何人かは英語を話せたので、私がここへきた目的やこれから見たいものなどを話した。それに呼応して、彼らの知り合いの音楽家や、その集まりなどが、次々と知りうるところとなった。しかし時すでに遅し。今日はカシュガル最後の日で、すでに夕闇が迫りつつあった。明日は早朝出発である。かえすがえすも惜しいことをした。しかし日限のある旅である以上、致し方のないことである。次くるときは、まずカシュガルで情報収集。これから行く人も、まずカシュガルで情報収集。
店じまいの時が来たので、居合わせた人たちに礼を述べてY.H.に戻った。明日はタシュクルガンに発つ。そこはもうパミールを越えるためのベース・キャンプのようなもので、非常に小さな街である。事実上、今夜が中国最後の夜ということになる。中国に来てから旅をするなかで、中国人がこのカップラーメンをうまそうに食っているのを何度も見かけたので、最後に食ってみた。味は・・・旅の味。
暗くなったので、夜の旧市街を散策に出た。赤煉瓦色の壁にタングステン・ランプの暖かい光が、ウイグルらしい情緒を醸し出している。街区はそう広くないので、ひと辻ごとにゆっくり歩いてみた。地元の人が夕涼みに出ている。多くは道に縁台を出して、チャイを飲みながらしゃべっている。穏やかで平和で、特に私に注意を向ける人もない。とある角でウイグルの音楽が聞こえた。音を頼りに探してみると、なかなか小洒落たカフェがあった。「古麗茶坊」といって、英語の話せるウイグル人の若者が経営している小さなカフェだ。そこでもいくつかの作品やミュージシャンの名を教えてもらい、屋上のテラスでチャイを飲み、風に吹かれながら中国最果ての地、カシュガルの風情を楽しんだ。程よく和んだところで階下へ降りると、Y.H.で一緒になった中国・香港・シンガポール混成若者グループが入って来た。一気に場は賑やかになり、私も誘われて同席し、旅前半最後の夜は楽しく更けて行った。
20170516 Kashgar
Uyghur-Pamir 2017.05.16.1 Kashgar
私の好きな早朝散歩。カシュガルは北京と実質的に2時間ほど時差がある。交通機関や公的施設は北京時間で動いているが、個人商店や一般庶民は新疆時間で動いていることが多い。だからかどうかはわからないが、全体に時間にはルーズで、新疆時間でもとっくに9時を過ぎているのに、町は眠ったままのことが多い。観光客である私も時間感覚が狂う。朝食のナンや飲み物は、前夜のうちに買い込んでおかないと、朝食が遅くなり、行動開始も遅れることになる。
しかし、街が眠っている間に観光してしまえるのは良い。名所旧跡ならばなおさらだ。私の滞在している職人街もウイグルの伝統的な街区にあり、そこから東へ歩けば、「高台民居」という歴史的街並保全地区がある。観光客が押し寄せる前に、静かな旧市街を散策する。ウイグルという民族により作り上げられた様々な造形、イスラムがこの地にもたらした深い歴史の遺産・・・極めて美しく、心がしみじみと風景に溶け込んで行く。
しかし、これらは今、中国によって周囲から侵食され、彼らが認めた区画以外は徹底的に破壊されて更地になっている。残された区画も、中国のための観光資源として存続させられようとしている。つまり見世物である。旧市街の内部は、これから改造されるであろう。外部の擁壁の一部が、すでに整えられているように。まだ整備されていない部分の手前で散策道は途切れている。その先を見ようとすると、柵を越えて大回りしなければならない。しかし、隣接する池の端から入り得た空き地から、旧市街と、新市街にある観覧車が、対照的に映り込む場所を見つけた。ウイグル人は、中国の強大な政治力の前に、なんとか望みを見いだしつつ生き延びねばならない。顕著に反抗すれば、人知れず潰される。ここは国際社会の目の行き届きにくい中国の裏庭だ。ウイグル人は、恐らくそれを自覚している。なんとか折り合いをつけて、自分たちの身を守るしか、生き残る道はない。
2017年05月15日
20170515 Kashgar
Uyghur-Pamir 2017.05.15.2 Kashgar
昼寝が済むとじっとしていられなくて、早速外出して色々と調べまくる。カシュガル滞在は三泊だが、明後日の早朝にはタシュクルガンへ向けて発つので、実質今日と明日のみ。しかももう夕刻だから、中国新疆の旅を総括できるのは明日1日ということになる。
まず急いで郵便局へ行き、ここで楽器を買ってEMSなどの国際郵便で送れるかどうか。宿泊しているY.H.は職人街を少し外れたところにあり、南下して人民公園の北を東西に走る大通り「人民東路・人民西路」へ出ると大きな郵便局がある。その二階のカウンターの反対側 (ドアに何も書いてないのでわかりにくい) に国際郵便を扱う部署があって、担当の女性は流暢な英語を話し、大変親切に教えてくれる。事前に調べたところでは、中国で楽器を日本へ送ることについて問題になる情報には当たらなかったのだが、基本的に楽器などの文化的産物を輸出するには政府の許可がいる。製造者や販売店が代行して発送する場合が多いが、個人では難しいし、お金を渡して後日の発送を待つことになる。これは信頼問題に関係するのでちょっと困難だなと思いつつ、国際郵便を発送できるギリギリの持ち込み刻限が19時であることを確認してそこを出た。
次に楽器屋に立ち寄り、買う楽器を選ぶことにする。詳細は省略して結論だけを書こう。私が欲しいと思っていたのは、擦弦楽器の「ギジェック」と撥弦楽器の「ドタール」であった。いずれも、そこそこ良い状態のものは、ハードケース付きで3-5万円程度で手に入る。しかし、職人街に店を並べている楽器屋は、正直言って音楽のことをあまりわかっていない。あくまで観光客目当ての土産物屋だ。きちんと名刺をくれたところは数件、しかも国際郵便で発送するにあたって政府の許可が必要なことを知っていた店はなく、手続きを含めて後日の発送を確約 (つまり信用も含めて) してくれたところもなかった。他店はあしらわれた。だいぶ迷ったが断念した。まだ前途は長く、しかも険しいのである。
次に旅行会社を訪ねた。これからホータン方面へ観光に行くので情報が欲しいと申し出た。もちろん偽りであるが、一般的な情報サービスの範囲なので問題なかろう。訊きたかったのは、個人旅行者である私が、なぜ何度も身柄を拘束されたかだ。ホータンでも数軒旅行会社に当たっているが、ほとんど使えなかった。カシュガルは、それよりずっとしっかりしていた。しかし彼らが口をそろえるのは、個人で交通手段だけを確保して単独行動をするのは危険だということである。つまり要約すると、新疆ウイグル自治区で人をコントロールする方法として、中国籍を持つ者は、そのIDカードによる。外国人は、基本的に政府に公認された旅行会社が管理する者と、個人で勝手に入国した者とに分かれる。中国籍を持つ者には行動の自由があるが、あくまでIDチェックによる検問を受ける。外国籍を持つ者は、中国政府が許可した範囲でしか行動できず、逸脱すれば拘束される。旅行会社が管理する外国人は、地方政府に提出された旅程に従って行動するので、多少の逸脱があっても多くの場合問題はない。しかし個人で勝手にうろつき廻っている外国人旅行者は、常に現場の警察組織が監視するので危険である。その運用は現場に任され、統一された基準がない。鉄道に乗って途中の駅で降りることは可能だが、おそらく現地警察に捕まってカシュガルへ送還されるだろう。あるいは、ホータンからウルムチなどへ脱出する有効な交通手段を持っていれば、ホータンへ送られる。いずれにせよ、ヤルカンドを含め、途中の街での滞在は不可能に近い。私が経験したのはまさにこれだったのである。
さて旅の前半を総括する。今回の旅は、バイト先が改装のため2週間以上閉店することがきっかけであった。当初それは10月に予定されていたが、急遽5月に前倒しされ、準備不足のまま見切り発車した。この準備不足が全てに祟った。中国語やウイグル語の旅行会話すら習得できなかったことをはじめ、音楽に接するための周到な準備ができなかった。個人の力量では間に合わないと悟って日本で旅行代理店に相談したが、結局のところ、シルクロードの夢を遍歴する古代遺跡探訪の旅か、あるいは観光客用に村人が演じてみせる民謡鑑賞ツアーに参加するしか、事実上、選択の余地はない。それは国内手配で数十万円、カシュガルの旅行代理店でも1日1-2万円程度の出費を迫られる。
仮に古代遺跡を個人で回るとするならば、公共交通機関の通っているところはほとんどないので専用車をチャーターするしかないが、彼らはまず外国人を国道より外へ連れ出せないだろう。トランクに潜むか、物流トラックの荷物に隠れるか・・・何れにせよ砂に埋もれた道を行くには専用の車が必要であって、それをチャーターするとなると、どうしても足がついてしまい、結局のところ十万円規模の出費となる。当初予定していた・・・それは夢想でしかなかったが・・・ダリヤブイへの旅なぞ、砂の沼を乗り切るための大型専用車を二台 (つまり一方が埋まってしまった場合の救援用) とドライバー、ガイドと食糧その他一式を装備したキャラバンとして出動しなければならず、軽く見積もって百万仕事、運良く客が集まってもせいぜい数十万という、まあ私には手の出ない旅になる。その手でせんずりこきながら寝てる方が余ッ程゜良い。
新疆で音楽の旅というと必ず出てくるのが、カシュガル郊外の「芸術の村」として名の通る「麦盖提县 (メルケト) 」で行われている古い「刀郎木卡姆 (ドラン・ムカーム) 」である。これはツアーで2万円程度、個人で村を訪ねようとしても、「麦盖提县」という漢字が出てこなければお手上げである。困難を越えても行き着くところは、結局「刀郎木卡姆組合」であって、大枚な出演料を払って演奏会を催してもらい、経費と報酬を観客の頭数で分配する強固な仕組みが出来上がっていて、それ以上の音楽的触れ合いは、よっぽどの個人レベルのつながりがない限り不可能だ。その準備なしに闇雲に現地を歩き回ると、頻繁な検問と身柄拘束が待っている。アフリカやブラジルのように、行き当たりばったりに出歩いて素晴らしい音楽体験ができるなど、中国ではまず期待しない方が良い。
準備不足と、最近の中国政府が推し進める開発がもたらす混乱、それを制圧するための体制・・・これを現場で思い知ったことが、旅の前半の総括といったところか・・・苦しい旅だったが、望んでできるものでないことは確かだ。中国という、複雑で巨大な国を実感する。これが58回目の誕生日を迎えた感想である。
2017年05月14日
20170514 Yerkent-Kashgar
Uyghur-Pamir 2017.05.14.2 Yerkent-Kashgar
莎车 (Yerkent) ー喀什 (Kashgar) 間は「空調特別快速」という最高ランクの列車に乗った。それでも運賃は28.5元 (約530円) と格安である。時間にして3-4時間の旅。確かに空調が効いていて気密性も高かったので、砂嵐の中でも砂が入って来ることはなかった。しかし陽射しが強く、また混雑もしていたので、息苦しくて快適とはいえなかった。混雑の原因は、人民解放軍の一団が乗り合わせていたからである。軍服を脱いだ彼らは、見たところごく普通の青年たちで、ほとんどすべてがスマホ・ゲーム中、おそらく座席に関係なく気に入った連中とゲームしているのであろう、入れ替わり立ち替わりスマホを持ちながら機嫌よく盛り上がっていた。彼らは、周囲のウイグル人にも、付近で唯一の外国人旅行者である私にも、ほとんど関心を示さなかった。私の隣の席が空いていたが、手持ち無沙汰の誰かが座るということもなかった。
私は車窓に流れる風景に見入っていた。ヤルカンドを過ぎると、タクラマカン砂漠とはいえ緑地が多くなる。それに従って、農地や果樹園は言うに及ばず、工場や物流施設なども多くなり、それらを結ぶ道路が砂に埋没しないよう高架化されていたり、さらには高速道路までもが現れる。自然の形成である砂漠、その中に点在する人間の歴史的風景たるオアシス集落、それに挑みかかる現代の人工建造物・・・特に「英吉沙 (イェンギサール)」・・・ちょっと読めんよね・・・周辺は、風景の崩れ方が著しい。ここに私のイメージしてきたシルクロードやタクラマカン砂漠がものの見事に打ち砕かれる。シルクロードが日本に鮮明な映像付きで紹介されたのは、NHKの取材班がもたらした映像が初めてのことで、それは1980年のことだった。今は2017年、あれから37年も経っていて世界は大きく様変わりした。いくらそれをアタマでわかっていても、やはり当時の映像がもたらした印象は鮮烈で、悠久の時の流れの中で歩みを進めるラクダ隊商のイメージから逃れきれていない。そのアタマで目の前に展開される物流センターや高速道路の橋脚群、さらに建設中の新幹線の橋脚の間に在来線が入っていくところなど、自分がどこにいて何を求めているのか、まったく戸惑いを禁じえないのであった。列車はカシュガルに到着し、ここで向きを変えてウルムチを目指す。私はここで降りて市内を目指す。乗ってきた列車を外から見ると、外観はほとんど日本のブルー・トレイン24系客車と同じであって、クーラーの配置や形状までよく似ている。
さて、カシュガルの駅から外に出てまず感じたのは、ここは開かれた街だということだ。これまで巡ってきた他の町で常に感じた緊張感をほとんど感じない。旅人に開かれている。駅を降りてすぐにバス停の案内標識が出ている。こういう当たり前の設備があるかどうかで、その町が滞在しやすいかどうかがすぐわかる。案内に従って、駅前のロータリーを右から左に巻いて28路のバスを探していると、隣接する大通りの向こうのターミナルに「28」と表示のあるバスが入っていくのが見えた。いつの間にか集まってきた周囲のバックパッカーたちと「あれだあれだ」と指差しながら、そのターミナルの出口にほど近いバス停へ行って待つことにした。程なくそのバスがやってきて、問題なくカシュガルの老城区へGo !! やっと旅らしくなってきた。
この町を訪れるバック・パッカーならば大抵宿泊を検討するであろう旅情報の宝庫「喀什老城青年旅舎」へ、ほぼ団体御一行様状態で到着。大抵はドミトリーへ流れたが、私は長旅でもないし、ここでちょっと土産を買い込んで日本へ送るつもりでいたので、個室三泊をお願いした。ホータンへ着いてから、ずっと緊張のしっぱなしであったので、ここへきて疲れが出たことだし、出発前から不安のあった鼻と喉の状態が、砂のために悪化し続けていたことだし、今度の旅の中間地点にも到達したことだし、この先はタシュクルガンを経ていよいよパミールを越えんならんことだし、パキスタンへの国境越えをひかえて準備もせんなんことだし、明日は私の57回目の誕生日でもあることだし、まあ今夜はゆっくりしよかと、そこらでラグ麺を食べて、ビールとポテチ買ってきて飲んで良い気分で爆睡した。ああ平安。
20170514 Yerkent
Uyghur-Pamir 2017.05.14.1 Yerkent
朝起きて階下に降りると昨日のねーちゃんが頑張っていて、笑顔で挨拶した。親しみついでに、漢字をつなぎ合わせ、身振り手振りを交えて、「今日夕方に列車でカシュガルへ発つのだが、いまチェック・アウトして荷物だけ預かってもらえるか」という意味のことをアピールしてみたら難なく通じた。全く問題ないという風で、むしろそのほうが部屋を早く掃除できるし、別に超過料金とったところで自分のポケットに入るわけじゃなし・・・とまあ、そんな暗黙の合意の笑みをかわして快く朝食をいただいた。まったく気持ちの良い対応だ。荷物を預けて外に出る。
ヤルカンドの景観区以外の街中は、都会的で単調だ。歩道や車道が柵で取り囲まれ、大通りのほとんど全ての角に検問所があることはホータンと変わりない。ホータンでは、警察車両や軍の装甲車などの大掛かりな車列を組んでのけたたましい行進が頻繁に見られたが、ここはいたって静かだ。しかしそれは平穏を意味しているのではなく、より一層のアンダー・グラウンドな緊張感、殺気ともいえる程の何かを感じさせられるものだった。ケリヤの町では、国道の南北に広がる老城区を取り壊して開発が進められていたが、ここヤルカンドは町がそのような形になっておらず、町のはるか南方に位置する鉄道駅と市街地の間の田園地帯が開発されていた。町の北東部にある老城区は依然としてウイグル人たちのものであり、そこは非常に活気に満ちていた。これは、ケリヤやホータンのウイグル人居住区とその景観が、概ね漢人の開発の許に屈してしまったのとは対称的に、ヤルカンドのそれは、漢人の側から見れば未だ開発の途上、ウイグル人とのせめぎ合いの最中にあることを表しているようだった。昨日の漢人ガイドの「警察は外国人旅行者を見ると町から退去させる方針である」という言葉を思い出す。そう思うと、ケリヤやホータンの喧騒が、いわば漢人の凱旋歌のように思われてならない。
・・・などと考え事をしているうちに検問所に近づいた。「老城路」を東へ取ろうとしていた私は、ふと交差点の手前に地下歩道らしき入口があるのを見つけた。南疆にあっては、商業施設や交通ターミナルへの入口では保安検査がある。しかしそこで誰何されて身柄を拘束されることはない。そこはあくまで保安検査であり、検問とは異なるようだ。これを利用しない手はない。入口をよく見ると、どうやらその下は地下街である。「なるほどな・・・」とばかりに保安検査を受けてそこへ降りたのは正解だった。ヤルカンドには、「新城路」の一部と「老城路」の大部分を貫通する長い地下街が存在する。中は地上より賑わっていて、大阪の船場センタービルのような感じである。しかも重要なことに、地下街へ入ると、出るまでは、警察の検問を文字通り潜り抜けることができるのだ。賑わいはそのためだった。土産物はカシュガルで、と考えていたのだが、目の保養を兼ねて見物しがてら景観区への数ブロックをノーチェックで通過した。
景観区へ出ると、その内部は十分見たので、東の縁の路地に沿って北上し、バザールの本筋に合流する形で歩いて行った。ほとんどが生鮮食品と生活必需品ばかりなので、旅人に用のあるものはなかったのだが、楽器屋もいくつか見た。そこで値段も把握した。郊外から来るロバ車、土道から立ち上る砂ぼこり、機関銃のように飛び交うウイグル語、あちこちで展開される小競り合い、鼻をつく肉脂の匂い、整備不良車のエンジンオイルの焼ける匂い・・・ウイグルらしい活気に、やっと身を置くことができた。
どこをどう歩き回ったかよく覚えていないが、だいたい縦横に大通りで区切られているので迷うことはない。どうしてもわからなくなれば、拘束覚悟で検問所行きだ。そこで道を尋ねるくらいの度胸はできた。彼らは命までは取らない。昨日目星をつけた羊肉屋へ入ってみた。これがまったくの大当たり。麺の弾力は、おそらく讃岐うどんを凌ごうかというほど、太さは稲庭うどんより少し細め、玉ねぎ・ししとう・中国白菜・羊肉の炒めたものをトマトソースで絡めてある。おそらくパプリカのペーストも使われている。スパイスは黒胡椒・山椒・赤唐辛子・八角・クミン・ニンニクといったところか・・・ラグメンは、今のところほぼ全て10~15元 (約180~270円) 、いやこれは絶品でした。
途中小さなモスクをいくつか見つけたので、礼拝の時刻に合わせてその前で佇んでみたが、やはりアザーンは聞かれず、信者が入って行き、中からクルアーンの漏洩が聞こえるばかり、「アルトゥン・マザール」とその周辺へも何度も行ってみたが同じ。そのかわり老城区の中を散策している限り一度も検問には出会わず、ナンを買ったり羊挽肉の包子を食べたり、スイカで喉を潤したりしながら散策を楽しむことができた。ここは一種の治外法権状態で野放しされていた。
昨日より早く時間は過ぎて、17:57発のカシュガル行きの列車に乗るべく、16時ごろホテルに戻ったら、なんとまだ同じねーちゃんが頑張っていた。「疲れはないのか」と身振り手振りで聞いてみたがこれは通じなかった。そう、特に開発途上国といわれる国では、緊張して生きることは当然なので、弱音を吐くという場面をあまりみたことがない。そこでアプローチを変えて、ガッツ・ポーズで荷物を受け取り、別れを告げた。全くいいねーちゃんだった。9番のバスで鉄道駅へ向かった。私を連行して外出禁止を申し渡したのがウイグル人の警官、そしてそれを見逃して便宜を図ってくれたのが漢人のねーちゃん・・・旅は本当に色々あって、救われたり救われたりしながら少しずつ進む。時刻は夕方だが、ここでは昼過ぎといってよい。乾燥した灼熱の地、砂漠の中に忽然と都市が形成されているので、感覚が狂う。無駄に広大な敷地の真ん中に建つ、無駄に荘重な建物に、二回の厳重な保安検査を経て、なんとか無事にホームに這い上がった。慣れたとはいえ疲れる。もちろんライターは没収だ。
2017年05月13日
20170513 Yerkent
Uyghur-Pamir 2017.05.13.4 Yerkent
日本人ツアーの添乗員とガイドに礼を述べて別れる。ツアー客は我々の会話を聞いても特に反応を示さなかった。典型的な「遺跡巡り玉石拾いツアー」のお客様なのだろう。しかし、それが最も安全で楽しい新疆の旅ということになりそうだ。さて、景観区を出て北方面へ歩きはじめる。表通りを避けて、なるべく裏路地を行く。アルトゥン王墓に入ると、美しく整備された庭の片隅から外に出られるようになっていて、当然私は出た。狭い路地を隔てて広大な墓地が広がっている。その傍らに、明らかに開発から取り残された老城区が路地から見下ろす形に広がっていて、周囲を高い壁に取り囲まれていた。その内部では、煮炊きをする家庭の気配、物音が立ち上っていてた。こういう緊張の町にあって、一種置き去りにされた楽園のような風情であった。
老城区は明らかによそ者を寄せ付けない風情であったので路地から眺める程度として、墓地に入った。中ではウイグル人のホームレスたちが穏やかに自活していた。廃墟となったモスクに住み着き、バザールで施しを受けて、それらを持ち寄って食いつないでいるようである。異国の闖入者である私を特に警戒するでもなく、虚ろで穏やかな目、中には視力の大半を失っていると思われる老人もいたが、特に話しかけられることもなく、こちらがにこやかであれば彼らもにこやかであった。お互いに何も持たないもの同士、私が廃墟となったモスクや廟の美しさに見とれていると、傍の木陰で私の姿をじっと見守っていた。互いに言葉がわからないので、黙って木陰の長椅子に腰掛け、ともに暮れかかる夕陽を浴びていた。
墓地を北東へ抜けるとバザールの真ん中だった。その通りの北詰めまで行った角に、実に美味そうな羊肉の匂いを漂わせたラグメン屋があったが、まだ腹が減ってなかったので、目星をつけただけで通過した。踵を返して、バザールのメイン・ストリートに沿って道なりに南下、一時間近く冷やかしながらそぞろ歩きをすると、団結路の東の端に出た。おそらくこれでヤルカンドの見所はほぼ把握し、使えるバス路線も見届けた。明日は集中的にこのエリアを歩くことにしよう・・・と決まると急に疲れが出て、軽い熱中症のような感じがあったので、人民公園の脇で休憩し、6番のバスが西の角を左折北上するのを見つけたので、その対向車線に来たバスに乗ってホテルに戻った。
20170513 Yerkent
Uyghur-Pamir 2017.05.13.3 Yerkent
今回も殺気は全く感じなかった。むしろ彼らは片言の英語を話し、終始和やかだった。しかも、前回と違って、私を拘束した警官が一緒についてきた。検問ではなく、巡回中に外国人を見つけて拘束したからであろう。いろんな役割分担があるようだ。荷物の開封は要求されなかったし、一切の手荒な扱いも受けなかった。ただ今回は前回と違って、私の方が猛烈に不機嫌だった。なぜなら、わざわざホータンを早朝に出発して昼過ぎに着いたのは、「アルトゥン・マザール」でナクシュバーディというトルコ系スーフィズムの肉声のアザーンを聞くためだったからだ。その礼拝の時刻がせまっていた。身分は明かしてある。中国を尊重している。私は観光しているだけだ。だから早く解放してくれ。彼らは終始にこやかだったが、どうあってもその場では解放してくれなかった。護送車は、景観区の前を東西に走る「老城路」を西に走りはじめた。ほんの数分で警察署の敷地に入った。そこで二階に通され、前回同様の会議室のようなところで取り調べを受けた。それは、まったく意味のない型通りのものだった。路上で、ほんの数分で終わるものだ。なぜなら、パスポートの写真と私の顔を見比べ、リストに番号を書き写しただけだからである。そこで怒っても時間の無駄なので、私は急いで階下に降りようとした。すると、私を連行した三人の警官が、なんと私を拘束した場所まで送ると言う。・・・まあ当然でしょ・・・
・・・で、14時前には私は元の場所にいた・・・そして礼拝が始まるのを待った。あるいは、もうアザーンは終わって、信者は中にいるのかもしれない。いずれにせよ、昼前後・午後・夕方と、あと三回アザーンは唱えられるはずだった。今日がダメなら、明日のカシュガル行きの列車が出る夕方までなら、早朝を含めて何度か聴くチャンスはあるはずだ。広場は閑散としている。よく晴れていて空気が焼け付くようだ。非常に静かで心は落ち着く・・・だが動きがない。人の気配とか、聖地ならどこにでもある喧騒が、全くないのだ。露店はおろか、広場を囲むアーケード街もほとんど営業していない。所々にある木陰に座り込んでいるウイグル人の老人がちらほら見えるだけだ。私はモスクの前に近づいて中をうかがった。やはり人の気配がなく、普通なら礼拝の時刻が記されているはずの掲示板もない。なんかおかしい。そこで、木陰で休んでいる老人たちのところへ行って、身振り手振りで礼拝はいつ始まるのか、と訊いてみた。彼らは怪訝な顔をした。私はモスクの屋上を指差し、そこから町中に呼びかけられるであろうアザーンの手真似をしてみた。すると、やっとこの異国の旅行者の意図を察したとみえたが、彼らは一斉に人差し指を口の前に立ててそれを横に振った。それは「そのことは喋るな」という意味にも、「アザーンは、ない」という意味にも取れた。私は訳が分からず、大きなモスクを指差して、どうなってるのか、というジェスチャをした。すると彼らは大きく腕で「X」印をしたのである。なんと、いずれにせよここにいても「アザーン」は聴けないらしい。落胆している私の心を察したのか、彼らは木立の脇にある小さなモスクへ私を導いてくれた。門をくぐってすぐにある長椅子に私を座らせると、中からイマームを呼んで来て、そこにいた信者とともに簡単な説法のようなものを聞かせてくれた。お互いに言葉がわからないので、十分に意図を探ることはできなかったが、おそらく入信あるいは導きの儀式の簡略なもの、あるいは祝福や道中の安全祈願のようなものをしてくれたようである。ともかく、儀式は終わって、和やかな空気の中でそこを後にした。
外は灼熱だった。午後の日差しはより勢いを増していた。腹が減ったので、涼を求めて噴水の奥にあるレストランで昼食をとることにした。入口を入ると、階下と階上を分ける大仰な階段のあるホールになっていて、私には場違いなほど豪華な雰囲気だったが、中のねーちゃんが気さくに手招きするので、入って案内されたテーブルに着いた。メニューには英語も表記されていた。わりとこってりしたラグメンをいただいて、なんと珍しくコーヒーがあったのでストレートで頼んだら、そのまま飲むのがそんなに珍しいのか、出勤しているねーちゃんがほとんど全員出て来て珍しそうに眺めていた。コーヒー一杯が15元とラグメンと同じくらいの値段だ。味は・・・まあいわぬもがなだがインスタントではなかった。何人かは英語が話せたので、雑談などをしながら、さっきの「アザーン」のことを訊いてみた。彼女が言うには、最近になって、ここでの礼拝はなくなって商売も上がったりになった、このままでは私たちもクビになりそうなので、いま別の仕事を探している・・・ううむ、ここまで来て・・・そこで尋ねてみた。「この店でもいい、どこかでウイグルの音楽は聴けないのか ?? 」・・・すると彼女は首をすくめて、何もないという仕草をして見せた。・・・ううむ・・・確かに事前調査が足りなかったのは事実だが、ここまでなにもないとは・・・
とりあえず外へ出て、荷物を下ろすべく宿探しをする。事前調査で外国人宿泊可能なホテルは「喀什王后大饭店」だけだったが、それもポータルサイトにページがあるものの、なぜか予約ができなかった。とりあえずそれを目指して「老城路」を西へ歩きはじめた。景観区の広場の向かい側に、立派な「阿勒屯宾馆」というのがあった。目的とするエリアに隣接しているので、ここに泊まれれば万々歳なので大分ねばったのだが、頑として外国人は泊めてくれなかった。仕方なくさらに西へ大通りで1ブロック行くと「王后大饭店」があったのだが、なんと、玄関は閉鎖されており、中は荒れていて、つまり終わってた。こうなったら、あんまり気が進まんけど「莎车青年旅舎」しかないので、とりあえずそちらを目指しながら、沿道の「酒店」・「饭店」・「宾馆」と名のつくもの片っ端から交渉した。「青年旅舎」との中間あたりに位置する、庭付きの広大な「莎车宾馆」もダメだった。あとは「青年旅舎」だけかと諦めつつそこへ辿り着いたら、なんとそこは先ほどお世話になった警察署の敷地内である。いややなあ・・・景観区まで遠いし、でもここしかないから尋ねるだけ尋ねてみよか・・・と入って行って訊いたら、なんとまさかの外国人お断り・・・お前らユースホステルちゃうのんか ?? 英語のわかるスタッフだったし、内にも外にも英語で「Welcome」て書いてあるのに、外国人お断り ?? なんども問いただしたが、相手は済まなさそうな顔をするばかりで全く埒があかない。仕方がないので、荷物を背負ったまま来た道を戻った。当て所なくぶらついても消耗するだけだし、列車の時刻は把握してるから、いざとなったら今夜中にカシュガルへ発つ覚悟で、ギリギリまで景観区周辺を散策することにした・・・しかし、どうにもやりにくい。
景観区はヤルカンドの町の北東側にあり、その南を東西に伸びる道を「老城路」といい、その大通りは、町の中心を境に西側を「新城路」といって名前が変わる。その道をとって返し、宿泊を断られたホテル群を横目に見つつあと1ブロックで景観区というところで、またしても検問に引っかかってしまった。しかも同じ「特警」である。私は「さっき捕まってお前らのボスに会って来たところだ」などと身振り手振りで説明しようとしたが、今度の警官は英語も漢字も全くダメで、上司に携帯電話で問い合わせているようだった。やはりお迎えが来るようで、またしても俺の時間を無駄にするつもりらしい。なんでそう邪魔ばっかりするかねアンタらは・・・ところが今度は護送車が到着してから、私の身柄をどうするかをめぐってかなりの時間やりとりが行われ、やがて出発した頃には陽が傾きはじめていた。やれやれ・・・しかしこれ以上時間を浪費しないためには、彼らに従う以外にない。これでこの町を叩き出されたとしても、まあ駅まで行く時間と労力が省かれたと思えばよかろう。ところが、警察署へ連行されるとの予想に反して、護送車は「老城路」を外れて南下し、大通りで一本南の「団結路」を西へ向かった。そして、なんと「速8酒店」という、ビジネス・ホテルのチェーン店の前で止まり、一人の警官がご親切にも私を案内して中に入った。そして私に代わって宿泊手続きをし、さらに携帯電話で上司とやりとりしてから、肩をポンと叩いて握手を求め、快活な笑顔で去って行った。レセプションのねーちゃんに訊くと、「こいつを外へ出すな」と言われたらしい。でもこうなってしまった以上しかたがない。またしても大枚280元 (約5,000円) を支払って荷物を部屋に入れた。しばらく横になって休んだが、こんなところでじっとしていたも、本当に仕方がないので、ダメもとで階下に降りてみた。レセプションへ行ってため息をついて見せると、さっきのねーちゃんはにこやかに手振りで「鍵を渡しなさい」という仕草をした。代わりにホテルの名刺と簡単な周辺地図を書いたカードを渡してくれた。またしても話のわかる漢人のねーちゃんに救われた。しかし遠いのだ。しかも無駄に高い。
時間は無駄にできない。とにかく景観区へ戻り、「アザーン」が聴けるかどうか、ダメでもその北東側に広がるウイグル人居住区の散策を少しでもやっておきたいと思って道を急いだ。景観区は依然として静かだった。少し涼しくなったからと見え、何軒かの食料品店が開いていたので水を買うついでに、モスクを指さして、身振りでどうなってるのかと訊いてみたが、やはり彼らは首をすくめるばかり。どうやらここでいくら頑張ってみても「アザーン」は聴けないようである。そこへ、なんと日本人観光客のグループが通りかかった。日本人の添乗員に引率され、日本語の話せる漢人のガイドがついていた。チャンスとばかり、許しを得てガイドに訊いてみると、悪い予感が的中した。彼が言うには、なんと数ヶ月前に政府からお達しがあって、中国国内のすべてのイスラム寺院における「アザーン」、すなわち礼拝を知らせる呼びかけが禁止されたと言うのである。なぜなら、信仰は個人の問題であって、それを他人に知らせることは信仰の自由の中立性が損なわれるからだそうだ。怒りを抑えてさらに訊いてみた。ここヤルカンドの町で外国人が宿泊できるところはなく、警察は外国人旅行者を見ると町から退去させる方針である、と・・・私が「速8酒店」に宿泊できたのは、その警官の特別な計らいでできたことであって、非常にラッキーなことだと・・・事実、それが故に彼らも今夜はホータンまで行って宿泊するとのことだった。で、さらに音楽のことについて尋ねてみたのだが、結局、中国政府はウイグル人がなんらかの機会に団結することを非常に恐れているので、基本的に彼らが集まることを許可しない。すなわち個人的なもの以外は、集まって音楽に興じるなどの会合はできない。音楽を聴きたければ、個人的に手を回してミュージシャンを呼ぶか、ツアーに参加して、許可を得た会合の場に出席するしかない、と・・・ダメだこりゃ。
20170513 Yerkent
Uyghur-Pamir 2017.05.13.2 Yerkent
シルクロードの歴史の好きな人には「ヤルカンド」という日本語が定着しているが、現地では中国語で「莎车」(Shāchē、シャーチェーと聞こえる) 、ウイグル語で「يەكەن」(Yerkent、人によって発音は異なり、主にイェケン・イェルケントゥ・ヤーケンなどと聞こえる)。「莎车」は、漢の時代にこの付近に存在したオアシス都市国家の名前で、漢に服属したり背いたりしていたが、やがて西方の疏勒 (現在のカシュガルを中心としたオアシス都市国家) に服属するようになる。以後、この国名は歴史に浮上しない。漢人は、いまもこの街をイスラム以前の名称で呼んでおり、たとえば鉄道の切符を買う際などには、この名前を使わないと通じない。一方、「ヤルカンド」は、主に16-17世紀にこの地に存在したハン国の名称で、トルキスタンに於けるスーフィズムの発生と展開に大きな役割を果たしている。この街もケリヤと並んで、中国人とウイグル人の間で呼び名も意味するものも全く異なる街であるが、特にこの街は、イスラムの歴史を避けて通ろうとする漢人的感覚と、尊重するウイグル人的感覚の対立が顕著に表れている。中国政府は日本に対して「歴史を直視しろ」と言うが、おのれの裏庭では、直視どころか歴史も文化も破壊し葬り去る暴挙を繰り返している。現在進行形のその有様を、短いこの街の滞在中に垣間見ることになった。
南疆では、私は地区の大都市であるホータンよりもケリヤとヤルカンドを重視していた。ケリヤへの訪問は幻のダリアブイに少しでも近づきたいがために、そしてヤルカンドはウイグル人の音楽的ルーツである「ムカーム」に少しでも近づきたいがためだった。ホータンを早朝の一番列車で発ったのは、ヤルカンドの最も大きなモスクでの午後の礼拝に間にあわせるためであった。礼拝の前には必ず「アザーン」という呼びかけの声が聞かれる。これは宗派によって、また流派によって異なり、特にヤルカンドの「アルトゥン・マザール」では、他ではあまり聞けないナクシュバーディというトルコ系スーフィズムの流れを汲む流派の肉声のアザーンを聞くことができる。それを主眼に、ムカームの都といわしめるこの街で、そんな一風景にでも出会えたらと期待したのであった。
駅を降りてすぐ前の広場にいくつかの系統のバスが止まっていたが、アルトゥン・マザールへ行くにはどれに乗るべきかわからなかったので、声をかけて来たタクシーの運ちゃんに頼んだ。するとこいつが非常によくわかってくれて、まさにどんぴしゃの場所で私を降ろしてくれたのである。交差点の北側に公園が広がっていて、そこは歩行者天国になっていた。実に美しく整備された観光名所である。見事なイスラム建築に囲まれた一角は、規模こそ違え、ウズベキスタンのレギスタン広場を彷彿とさせる。サタールを弾く女性の彫像のたもとに英語で説明があったので、「Welcome…」から読みはじめたところで、肩をポンポンと叩く者があった。振り返ると、黒い制服姿の「特警」三人に取り囲まれて御用となった。ケリヤのテーマパークと全く同じパターンである。あんたらウェルカムなのかそうじゃないのか・・・まあそんなこと言うてもしゃーないんで、おとなしく護送車に乗せられて警察署へ Go !! (;_;)
20170513 Hotan-Yerkent
Uyghur-Pamir 2017.05.13.1 Hotan_Yerkent
朝8:30の列車に乗るため7:30には駅に着いておきたいので、6:30には起きてホテルを出た。北京時間の6:30なので真っ暗で、タクシーを見つけるまでは焦った。ドライバーは漢字が読めないので、トルコ語で「エスタシォニ」と言ってみたが通じない。列車・鉄道・線路など、思いつく限りの単語を並べてみたがよくわからないみたいなので、地図を出してとにかくここへ行けと言ったらようやく車を出した。距離的には20分もあれば着くはずだったが、旅人の私からみても明らかに不案内で、通行人に訊きながら小一時間近く遠回りして、ようやく駅に着いた。まあその間朝まだきの街を観光できたと思えばいいか・・・時間がかかったのはお前が道に迷っていたせいなのに、長い距離を走ったからと多めに請求された。早朝だし選択の余地なかったんで、まあええか、と、なんか弱気になっとる。とにかく生きて返してくれたらええ・・・
駅の敷地に入った頃に夜が明けはじめた。ホータン駅の保安検査はウルムチ空港並みに厳しく、しかも手際が悪かった。下ッ端゜のウイグル人が流れ作業的に荷物をと身体を検査していくのだが、後ろで見ている漢人の上役らしき職員が、なんの脈絡もなく作業に割り込んで来て荷物を引っ掻き回し、イライラして罵詈雑言をウイグル人職員に浴びせ倒して立ち去る。私はあまりの振る舞いに肩をすくめて見せると、職員のウイグルねーちゃんが目をソーメンみたいに細めて「処置なし」という仕草をしてお互いに笑い合った。あんたらも大変やねえ・・・
保安検査そのものは、乗客同士の友好関係、つまり検査のために入り混じってしまった客の持ち物を、自発的に元の所有者に戻す根気のいる作業を協力してやったおかげで問題なく終了したのだが、その頃には発車時刻が迫っていた。しかし待合室に動きはなく、乗客はそれからかなり待たされることになる。
中国の鉄道職員はほとんど漢人が就いているが、例外なく極めて高圧的で、乗客に対して軍隊的に上から怒鳴り散らし、行列を作らせ、号令までかけて一糸乱れぬ行動を要求する。ウイグル人でなくても行列が苦手、特に私は幼少の頃からそのような行為に対してムラムラと反感が湧いてくるタチなので、ことあるごとに持ち場から離れて熱湯を汲みに行ったり、用を足しに行ったり、列車の写真を撮ったりして奴らに仕事を与えてやった。どうせ奴らには何もできないのだ。切符はあるし目の前に列車は止まってる。待合室の外は保安検査でごった返してる。
そんなわけで、鉄道に乗れば車両から車両へ、どんな等級のどんな設備か冷やかして歩きたいのに、一両ごとに鍵がかかっていて一人ずつ車掌が頑張ってるから、連結部へ行くことすらままならない。仕方がないので言葉の通じないウイグル人たちに混じって、過ぎ行く単調な風景を眺めていた。しかし一時間もしないうちに目や喉に異変を感じた。砂である。強烈な砂だ。暑くてたまらないが、窓を開けるなんてとんでもない。窓の密閉が不十分なのと、空調車両ではないので送風系が開放されているのであろう、天井のダクトからも砂が舞ってくる。ただでさえ人いきれで暑いところへ、目も開けていられないほどの砂埃、マスクなど到底役に立たず、水で濡らしたタオルをあてがってようやく息をつける状態である。乗客の多くも布やスカーフを口に当てている。初めての中国鉄道の旅は、こうして目や喉をやられながらの苦難の旅路となった。
皮山を過ぎたあたりから、砂嵐の深い砂漠を乗り越えたと見えて、風景に緑が広がり、客も一息つき、やがて窓を開けられるほどに外気も澄んできた。子供達は忍耐強く座っていたが、周りの気が緩みはじめるのをみて一斉に駄々をこねはじめた。たった一人言葉もなく座っている外国人の私に興味津々で、お菓子やおもちゃを持ってアプローチしてくる。なかでも丸坊主になったウイグル人の女の子は、どうしても私の膝に乗りたくて、でも恥ずかしくて出来ないようで、お母さんとともにその仕草を見て大笑いした。ウイグル人の女の子は、子供の頃に一旦丸坊主にされる。そうすると、新しく美しい髪の毛が生えてくるからだという。そんな風にして、ホータンからヤルカンドまでの4時間ほどの鉄道の旅の後半は、なんとか楽しいものとなった。
2017年05月12日
20170512 Hotan
Uyghur-Pamir 2017.05.12.3 Hotan
ホータンでの宿泊は、かねて調べておいた「和田塔西那宾馆 (Taxina Hotel) 」である。これまた外国人用の無駄にゴージャスなホテルなのだが、スタッフが英語の話せるウイグル人とのことだったので候補に挙げてあった。ホータンの町は、ケリヤより明らかに緊張度が高く、ザックを背負ったまま再び御用は御免被りたかったので、とっととチェック・インした。ここはおそらくウイグル人の家族経営なのだろうが、実際にレセプションを仕切っている息子たちは皆英語を話せる。しかも、そろって久しぶりにケツのアナが疼くほど美形なのだ。もうそれだけで、わざわざホータンまで飛んで来てここに宿泊する価値がありまっせ。顔立ちは明らかにトルコ系、色白に切れ長の目と彫りの深い顔立ちは最低限のスペックとして、不思議によく光る瞳・・・も、やめとこ。ぜひ見に行ってください後悔しませんから・・・
明日早朝にはホータン駅から列車で出発するので、実質ホータン観光は半日である。なんかねえ、もうほぼ見当がついたというか、見えたというか、興が冷めてしまったというか・・・どうせ中国政府の圧政を見せつけられるんでしょ、そのなかで自分の旅をどうするかってことよね・・・くらいに考えてたら、ホータンの街では、もっとえげつない警察車両のデモンストレーション走行とか、各交差点の検問所に待機する装甲車が発し続けるサイレンの音とか、横断歩道があるのに柵で遮られた交差点とか、さらにきつい、何人といえども一歩たりとも自由には歩かせまいとするかのような、四角四面の行動規制が現実のものとして目の前に文字通り立ちふさがってくる。そのなかで自分の旅をどうするかってことは、要するにそれらの関門をいかにすり抜けて先へ進むかという、極めて現実的で具体的な行動とならざるを得ない。ゆきずりの旅人である私でさえ、道を進むために地下に潜らざるを得ないようなこの街で、そこに住むウイグル人たちが地下に潜伏しようとするのは、あまりにも当然のことではないだろうか。そうせざるを得ないのに、その暗闇の袋小路にまで中国の警察は、それも同朋であるウイグル人たちを使って、殴りこみにかかってくるのだ。ここでも検問所で拘束されているウイグル人を多く見た。連行されるためにワゴン車に乗せられる際に激しく抵抗する者、それを棍棒で叩きのめすウイグル人警官、血まみれのシャツ・・・日常的にこのような光景が路上で繰り広げられ、市民の感覚は麻痺しているに違いない。その脇を、まるで何事も起こっていないかのように平然と人々は通行しているからだ。治安は保たれている。
ホータンでもウイグル人居住区は囲い込まれており、いくつか外界へ通じるゲートがあって、そこには自動改札機のような装置が設置されていて、飛び越え防止用の鉄柵で覆われている。中国人民のIDカードがないと、ここを通過することはできない。おそらくは、そのICチップに民族識別データが記録されていて、特定の民族のコードを持つ者しか通過できないのであろう。ゲートには検問所もあって、改札口を通過した者は保安検査を受けるようになっている。もちろん私のパスポートではここを通過することはできないし、そもそも、いくらウイグル帽などかぶっていても、彼らの目には明らかに日本人なので、ゲートに近づいただけて追い払われる。カメラなど取り出そうものなら・・・
しかたなく壁の周りを回ってみることにした。主に納瓦格路の北側に広がる煉瓦色の老城区だ。大通りに面しては路面店が連なっていて、ウイグル人の商店が軒を連ねている。その裏にたいてい細い路地があって、その内側に壁が続いており、所々にゲートがある。路地は石畳であることが多く、ロバ車や三輪トラックなどが繁く行き交っている。もしそこが無人なら、世界の路地裏安全旅行者の常識としては、絶対に立ち入ってはならぬ通りである。表通りから裏路地へ通じる通路はいくつかあって、その中には警備の手薄なところもあり、中にはその奥の居住区へ通じている屋台の軒下などもある。角でナンを焼いている竃があったので、そこで焼きたてを一つ買って、歩きながら何食わぬ顔でその区画へ入り込んでみた。そこは小さなマーケットになっていて、表通りでは賄えない、日常の野菜や肉などが売られていて、非常に混み合ってにぎやかであった。しかし、その奥を見ると、やはりそこには壁があって、黒い制服がチラホラしていたので、迷惑がかかることを懸念して早々にそこを出た。やはり手強い街だ。ここではウイグル人たちが、その居住区を出て、外側で商売をしている店やバザールを冷やかして歩くか、大枚な代金を支払って、現地旅行社が企画する遺跡巡り玉石拾いツアーに参加するのが吉であろう。団体に属している限り、検問も身柄拘束もない。
いくつか下調べをしておいたレストランが全てなくなっていたので、まあそこそこ手頃で繁盛していそうな店でプロフを食べてホテルに戻ることにした。納瓦格路を東にとって文化路まで行き、そこから国際バザールを経てホテルに戻るつもりで歩きはじめたが、早くも検問中の交差点が間近にある。ちょっと考えて傍にいたバイク・タクシーに「バザール ?? 」と声をかけてみると頭を傾げて「乗れ」と合図するのでそれに乗って複数の検問をワープした。抜け道はいくらでもある。文化路と国際バザールの間に、暗くなってきたのでちょっと分かりにくかったが、肉を焼く煙の立ち上るにぎやかな老城区が広がっていた。そこのゲートは無人であり自動改札機も開いていた。苦もなくそこに入り込んで、様々な屋台を見て歩いたが、残念なことに先ほど脂っこくて重いプロフを食べたところなので、食指が動かなかった・・・
・・・と、そこを出たあたりから、なんだか下腹の調子がおかしくなってきた。さっきの脂か・・・ウズベキスタンでもプロフを食べて下した経験がある。そのときは屋台で食べたので、それ以後、日程のタイトな旅では屋台には手を出さないようにしている。レストランなら大丈夫だろうと思ったが甘かったか・・・目測でホテルまで5分ほど、二、三の辻を越えれば到達できるので、通常なら我慢できない距離ではない。腹具合もさほど切羽詰まってはいなかった。ただこういう時に検問の列に並ばせられると厄介である。幸い夜になると人通りが減り、北京時間の5時 (新疆時間では昼過ぎ) を過ぎると検問も少なくなるので、二つの交差点は無事に通過できたが、そこらあたりでおかしくなってきた。やばい。辺りを見回し、グローブトロッターの第六感をフル稼働して、便所、あるいは排便できる暗がりを探した。角にある元映画館のような崩れかけた建物と建物の間に路地がある。そこから男が出てきたのを見て、その奥に公衆便所があると睨んだ。今から思うと、こんなところに公衆便所があるなどと睨んだ自分もおめでたいが、とにかくその奥の真っ暗闇に導かれるように、立て込んだ危険な暗がりの軒下を伝って、なんと地元の市場の共同便所のような代物を見つけたのである。ライトで照らしてみると、それはもう照らさないほうがよく、ここに書くこともはばかられるような状態だったのだが、それでも切羽詰まった自分には花園に見えたものだ。下腹を解放すると何事もなかったかのように体調が回復するのは、全くおめでたいかぎりであって、ここにまことにめでたくチリほどの粗相もなく用を済ませた。私が心からの感謝を込めて、汚物には直接手を触れない程度に、日本人のたしなみとして、そこを清掃させていただいたのはいうまでもない。建物から出る途中で、やはり切羽詰まったと思われる男一人とすれ違った。互いに苦笑みを交わして私はそこを出た。
こうして夕刻から日が暮れるまで、より強固な鉄条網で隔離されたウイグル人居住区を中心に・・・なんというか、楽しい観光旅行とは相反する現実ばかりを見せつけられて、とても音楽を求める気分とか料理を味わうゆとりとか、そんな旅気分などふっとんでしまってはいたが、出歩いては捕まり、捕まっては続きを歩くということを繰り返しながら、町の概ね東半分を歩き回った。
20170512 Kerya-Hotan
Uyghur-Pamir 2017.05.12.2 Kerya_Hotan
ケリヤからホータンへのドライブは、今回の旅において核心的な経験になった。同乗者は二人の中国人だった。ウルムチ在住の青年実業家で、年齢は30代と思われ、一人は英語を流暢に話した。二人とも、元々は中国内陸部の出身で、新疆ウイグル自治区へ来たのは、御多分に洩れず西部開拓事業の旨味を知って一旗あげようとしたのである。初めは労働者として、そして機会をうかがい人間関係を広げて手配師に、そして元締めとなり、いまでは数百人規模で内陸の中国人労働者を工事現場に送り込み、それをベースにして、そこで開発されていく商業施設や工場などの従業員の人材派遣の可能性を伺っているという。今回もケリヤで建設されている大規模な集合住宅の管理・・・実は、彼の専門が建築であるので、元々は建築管理の業務委託を狙っていたのだがチャンスを逃してしまい、それなら住民の管理を引き受けるサービスを始めようと提案したら、意外とデベロッパーが乗って来たという・・・そういう意味での不動産管理サービスは、まだ中国では浸透しておらず、新しいビジネス・チャンスに繋げようとしているとのことだった。そして彼は言った。「この手法は日本の人材派遣業者のノウハウを参考にした。」そのとおりだ。私も20年ほど前まではその世界にいたからよく知っている。そこで話は大いに盛り上がり、彼のビジネス手法の詳細について、かなり突っ込んだ意見交換となった。彼の父上と私が同じ年だということも話題に花を添えた。同じ年の中国人と、私は心から話をしてみたい。
ところで、中国では個人事業者が業務を請け負う場合の法的要件が日本ほど整備されていないらしく、法人格で受注しているか個人の資格で委託されているかの区別が曖昧である。したがって、日本ではキャリアを積めば積むほど、個人の資格での仕事の受注がやりにくくなる。なぜならそれは「職歴」に分類されてしまうので、組織人間を重視する日本社会では、逆に評価が下がってしまうからだ。しかし中国ではその区別が曖昧なので、仕事を受注すればするほど、しかも成功裏に納めれば納めるほど評価が上がる。これは欧米的な個人評価と通じるものがある。彼も非常に身軽に「事業」を起こし、それを発展させてキャリアを積み上げている。タクラマカン砂漠周辺の景気は落ち着いて来ているので、次はウルムチから西北へ、つまりカザフスタンから天山北路への進出を狙っているという。そこからアゼルバイジャンを通じて東欧へのルートは比較的安定しているし、万博が実現すれば、さらに大きなビジネス・チャンスになると夢を膨らませていた。
30年前の私を思い出す。日本も当時、まだバブルが弾けたかどうか、まだ可能性を残した雰囲気の中で私は3年勤めた会社を退職してフリーになった。以来、食品業界の市場開拓と販売促進企画、人材派遣をセットにした新しいビジネスのあり方を、広告業界の中で試していくことになる。しかしそれは市場が拡大し続けることを前提としていたので、景気の悪化とともにあちこちで手詰まりとなり、やがてリーマン・ショックで壊滅的な打撃を受け、起死回生の努力もむなしく、業界の専門家集団を自負していた我々は、労働者派遣業界との間で繰り広げられた猛烈な価格競争に惨敗した苦い経験を持っている。それはまるで、匕首で互いの喉元を斬り合うようなものだった。いまではかつての同業者は、もはや時給に換算すれば最低賃金にも遠く及ばないような低価格で仕事を切り売りせざるを得ない状態だ。
それはさておき、小日本がビジネスの上で飽和することは想像に容易い。しかし、彼はタクラマカン砂漠の果てしない広がりを前にして、中国がビジネスの上で飽和することを全く想像できないようだった。「想像したくもないよな」これは同時に口をついて出た言葉である。ビジネスが手詰まりになったときどうするか・・・これについては彼はあまり考えていなかった。30年前の私がそうであったように・・・そしていまやモバイルの時代、タクラマカン砂漠の真ん中でもインターネットが通じる。もちろん彼は信用できるVPN接続業者と契約していて、安定したネット環境を手に入れている。Facebookはもちろん、ビジネス上のやりとり、決済に至るまで、すべてiPhoneで賄う。日常的な買い物の支払いも、なんと友人同士のちょっとした金のやり取りまでもが、iPhoneを軽く触れ合わせるだけでできてしまう。インターネット決済の世界では、中国は日本よりはるかに先を行っている。インターネットに対して非常に慎重で、スマホはおろかガラケーもプリペイド、今回の旅でも端末は持参しているもののSIMは買ってないという状態で旅を続ける私を、ドライバーのウイグル人までが奇異の目で見ていた。そう、彼らから見れば、私はなにも知らずに旅をしているようなものである。例えばある中国人が、親切に私に道を教えてくれようとする。スマホで検索して道順を出し、それを日本語に翻訳して「はい、あなたのモバイル出して」と訊かれて初めて戸惑う。慌ててメモを出して書き写す私に呆れかえる彼らの目・・・いま、中国は、便利さのためならリスクを顧みない風潮があって、それが何十億と積み重なり巨大なバブルとなって中国全土を切り開いているのではないかと見える。少なくとも新疆においては・・・
「ここは好きか」と彼に尋ねてみた。「大嫌いだ」と言う。なぜというに、暑いし砂埃がひどいし、(声を潜めて) ウイグル人は使えないし・・・「しかしビジネスは良い」・・・この後、ドライバーのウイグル人に配慮して、対話はモバイル筆談になった。要約すると、ウルムチと違って、南疆のウイグル人は、中国語を必要最小限しか話せないし聞き取れない。ましてや漢字の読み書きはほとんど不可能・・・ここで初めて私は、これまで出会ったウイグル人に漢字で筆談を求めた時の彼らの反応を理解した・・・したがって作業の指示を出してもほとんど理解されない。そのくせプライドが高く過ちを認めない。漢人はウイグル人を差別しているのではなく、ビジネスの場面においてパートナーになり得ないから組まないだけだというのだ。彼にとって、ここはただの仕事場だ。
もちろん、これには歴史的にも政治的にも経済的にも、非常に複雑な問題があって、当然それを彼も理解していた。しかし彼にもどうしようもない。彼はビジネスマンなのだ。この地は、漢の時代から、中国やそのほかの主に遊牧騎馬民族勢力の攻防の場であり、即ちそれは商業の利をめぐるものだった。現在もその一局面に過ぎず、この地に暮らす少数民族は歴史的事実として、絶え間無く入れ替わる他民族の支配を受け続けて来た。歴代の中国王朝はその一つだったに過ぎない。と、彼はこういう歴史認識を持っている。それについては、ほぼ大筋で私の認識と共通する。
しかし意見が分かれるのはそこからだ。つまり、彼は彼自身のビジネスのために、新疆が開発されることは善悪の問題ではなく前提条件なのだ。したがって、新彊のウイグル人の音楽や文化を体験するために来た私の立場とは大きく異なる。彼に言わせれば、ウイグルの文化は一定のショウケースとして保存されざるを得ず、観光客はそこを訪れれば良い、ということになり、一人で街をうろちょろする外国人の存在を理解できない。しかし・・・と、彼も日本人と直接話すのは初めてで、日本人の友人もない。中国と日本は政治体制も異なるし、ふたりの立場も歩んで来た人生も何もかも違うことは理解していた。ほんの一時間ほど前に同じ車に乗り合わせただけなのだ。しかし、我々は友人同士になれる。なぜならお互いよくわからないことが多すぎるし、まったく相反する常識を持っていたりするが、それを認め合って互いを尊重することは、ビジネスであれ旅行であれ互いの利益になるはずだから・・・と。
いや、いいやつですよ。中国人については私もよくわからなかったのだが、個人レベルでは、ほとんどが良い人たちだと思う。そうでないと、戦争で孤児になった日本人を中国人が助けて育ててくれたりするはずがない。私はそう信じたい。そのうえで、私たちは非常に微妙な問題にまで立ち入ってかなりの間話し込んだ。聞かれてまずい場合は筆談で、しかし多くの問題で互いの意見の一致を見、我々が直接知らない、報道などで間接的に知る事柄の不確実さについて認識を共有した。
例えば、日本でいう尖閣諸島の問題も、世間が騒ぎはじめるまでは誰も気にしてもいなかったし、騒いだところで相手にもされなかっただろう、それは数年前に「一帯一路」と称して政府が経済連携構想を打ち出してからの話だ、すくなくとも人の口の端に登るようになったのはその頃だという。では、おたがいつっこんで、尖閣諸島はどちらの領土だと思うか・・・と、この際だから恨みっこなしで訊いてみた。「わからない」と彼は答えた。正直な人だ。わたしにも「わからない」ことだ。
もう一つ、お互いが対話の中で避けて通って来た話題がある。これも恨みっこなしだ。今度は私から本音を言ってみた。「南京大虐殺はあったと思うか、なかったと思うか・・・これも私にはわからない」と・・・つまり、私はこう述べた。あったかも知れないし、なかったかも知れない。歴史学的に議論のある問題について、その場に居合わせなかった者同士が、あったかなかったかについて対立することはナンセンスだ。あったとする人間は、日本人の残虐性を主張してその証拠を並べる。なかったとする人間は、日本軍の規律正しさを主張してその証拠を並べる。私はどちらも真実だと思う。規律正しく心優しい日本軍は現地人に感謝され尊敬されただろうが、戦争という非常事態にあって、心の平静を失い残虐行為に落ちて行った日本の軍人もあったはずだ。私は、この問題は、あったか、なかったか、という議論ではなく、あったという人間が、または、なかったという人間が、そう主張することで何を企んでいるのか、ということのほうが問題だ・・・と。うまく英語で伝えられたかどうかは微妙だったが、彼は考え込んでしまった。でも、初めに「ありがとう。よく言ってくれた」と言ってくれたことにはホッとした。彼は教育の中で、南京大虐殺を歴史的事実として教え込まれていたし、なにより中国が日本軍に占領されていたことは事実だからだ。そこで何が起こっていたかなど、当時の一般的な日本国民が知らなかったとはいえ、戦争という状況で何事もなかったと考える方が不自然だ。それを思うとき、日本人の子孫として、中国人の子孫に対して、申し訳ないという気持ちが起こるのは当然だと私は言い、彼もそれを受け入れてくれた。そして、戦争という状態は、どんな国民であっても、人間を勝者と敗者に分けざるを得ず、そうすると必ず不幸な事態を招く、と私は言ったが、ふと漢人とウイグル人の関係に思い至って、二人とも口をつぐんだ。おそらく彼も同じことに気がついたのだろう。
タクシー・ドライバーは若くて快活な男だった。ケリヤからホータンまでの180kmほどの道のりを、休憩もせずに2時間半ほどでぶっ飛ばし、我々は北京時間では夕刻に近い真昼間の15時過ぎにホータンの東郊客运站に到着した。彼との対話はそこで途切れた。私は日本円を人民元に両替する必要があった。彼は熟知しているホータンの街で私を導き、顔なじみの中国銀行のセキュリティをフリーパスで通り抜けて、重役室から中国元の札束を持って来て直接両替した。そして、私があたりをつけておいたウイグル人経営の大きなホテルまでわざわざ道案内してくれ、夕刻のウルムチ行きのフライトに乗るべくタクシーを捕まえて空港へ去って行った。
20170512 Kerya
Uyghur-Pamir 2017.05.12.1 Kerya
いろいろあったが望みの街でとりあえず一泊、中国のホテルのシステムはちょっと変わっていて、宿泊料の数倍程度のデポジットを「押金」といってチェック・インの際に支払わなければならない。これはチェック・アウト時に、ホテル側が部屋を点検して、粗相やミニバーなどから消費したものがあれば差し引く仕組みだ。したがって、一様にチェック・アウトに時間がかかる。中国のホテルには必ずといってよいほど部屋に湯沸しポットがあって、いつでも熱い茶を飲むことができる。ホテルだけでなく、駅や列車、バスターミナルなど、旅行者が必要とする場所に大抵熱湯を供給してくれる設備があって、しかも無料である。これは世界的にも珍しい。私は夜のうちに近所のスーパーへ行って、なかなかしっかりした保温ボトルを買った。これには、取り外しのできる茶漉しがついていて、店のねーちゃんが言うには、これは中国では当たり前のことで、中に茶葉を入れて、そこらで湯を注ぐと、大変旅行は楽しいものになるといって、店にある茶葉をいろいろ勧めてくれた。そこで薄荷茶 (ミントティー) と砂糖を買って部屋でじんわりと温まってみた。ねーちゃんの言う通り、これは、その後の中国の旅で何度も繰り返された職務質問や身柄拘束に耐える心の杖となった。
さて早朝にケリヤの街を散歩してみる。昨日拘束された一角に行ってみると、なにやら人だかりがあって、何台かのワンボックスのワゴン車にウイグル人が群がっている。日雇人夫の寄せ場とみた。漢人の手配師と思われる人相の悪い男たちがたむろしていて、私を認めると手で追い払う仕草をする。やがて警官が数人駆け寄ってきたので、私はそれを避けて手前の路地へ入った。そこは、テーマパークのようになったエリアの内部へ通じており、なんと検問所は無人だった。その後わかったことだが、検問所は、北京時間の9時前は無人であることが多い。こうして、昨日時間切れで彷徨い損ねたケリヤ北側のウイグル人旧市街を、存分に散策することができた。この風情は、全く涙の出るほど貴重な体験だった。そこは「库尔班小鎮 (Kurban Town) 」という名の区画であった。むろん「库尔班」とは、ホータンの団結広場にあった、例の毛沢東と握手をしている像の主である。彼がケリヤ出身であるため、この街にウイグル人居住区の風情をテーマ・パーク化するにあたって、その象徴しとして名付けられたものと見える。
中国政府がケリアにおいて、伝統的な旧市街である「老城区」のどの区画を保存し、どの区画を再開発するのかは明確にされていて、現地のウイグル人たちはそれに従うしかないようだった。そのまま自分たちの勝手にはさせてはくれないのだ。「平安家庭」と題された表札が入口に掲げられた家があって、おそらく主人の顔写真とともに、政府からの許可証と思われる銘板や文書が掲示されている。いわば文化財として保護するという名目で、ケリアの場合、却ってこれらを過剰装飾し、テーマパークのように美しく設えて、「景観区」のような観光資源にしようとしているかのようだった。その有様は、チベットのラサのポタラ宮の前に派手に遊園地を建設した中国的なセンスに通じるものが感じられる。しかし、それでもなお、ここにはウイグルの「血」がひしひしと感じられたのである。整備された景観区においても様式の中に彼らの美的感覚が詰め込まれていたし、そこから外れた村の佇まいにも、もちろんポプラや胡杨の並木道を行くロバの荷車の軋む音にさえ、つまり麦畑から土壁、天空を舞う細かい砂塵、要するにそこにある全てがウイグルだった。私はその中に埋もれていた。その匂いや音や光は、全く私の感性と共鳴して揺さぶった。羊の皮下脂肪のようにこってりと分厚く濃厚なものだった。これほど確かで確固として変えがたいものでも、中国という力は、これを侵食し尽くして飼いならすのであろうか。長い歴史の中でもアイデンティティを失わなかったウイグルは、これだけの残り香を持ちながらも、中国と慣れ親しんで取り込まれていくのであろうか。それが歴史的必然という大きな流れなのだろうか、それは幸せなことなのだろうか・・・私一人の胸の内を語ったところでどうしようもない、非力な自分が、蚊の泣くよりもか細い声で、「時よとまれ、美しい」と叫んでみたところで何にらなる ?? あまりのことに、ただただ戸惑うばかりであった。
ホテルに戻って朝食バイキングをいただいた後、今度はケリヤ川へ行くことにした。通りを東へ向かうバイク・タクシーに頼んでみたが、誰も乗せてくれないので、仕方なく歩くことにした。町外れに検問所があったがノーチェックで通れた。だだっ広い車道を一人徒歩で行く姿はあまりにも奇異に映ったのであろう、沿道や車からの視線を感じざるを得なかった。公安警察のパトカーが数台、減速しては通り過ぎ、やがてUターンしては戻ってきた。明らかに監視されている。しかしそんなことを気にしても仕方がない、私はケリヤ川を目指して歩き、ようやくその畔に立った。川は大掛かりな造成工事が行われていて、この地方の風光の目玉ともいえる胡杨の森は全く見ることができなかった。あまりにも監視がきつくて、そこから脇道へ私を乗せて行ってくれそうな車を探すことなど、全く不可能だった。仕方なく、元来た道を戻り、フリーパスで出してくれたウイグル人の警官の導きで街に入った。
今日は、この街で週一回の農民バザールが開かれる。街に戻って、おそらく旧市街の中心であろうと思われる辺りを伺っていると、事実、次から次へと、農産物を積んだ三輪バイクがやってくる。それらが吸い込まれていく鉄門の検問所で、私はバザールを見たいから通してくれと掛け合ってみたが警官は首を横に振るばかりだった。その脇でナンを売る爺さんがいたので、柵越しにそのナンを売ってくれと身振りで示したが、爺さんはすまなさそうに両手をこちらに向けて私を制止する仕草をした。どうもやりにくい。
ホータンに戻ることにし、チェック・アウトのためにホテルに戻った。ホテルには、門とロビーに数人ずつ警官が配置されていたのだが、昨日と同じ顔ぶれで、お互いにこやかに会釈を交わし合う程度にはなっていた。早朝散歩に出たときは、彼らはその場に突っ伏して寝ていた。ある者はパイプ椅子で、ある者は縁石で、ロビーのソファを使えるのは、おそらく上役の者だろう。様子から見て大してもらってないと思われる。仮眠続きの疲労感と苛立ちが表情に表れている。チェック・アウト後、バス・ターミナルへ向かう前に、門の詰所にいる警官とタバコのやり取りをして別れを告げた。砂漠を走る高規格道路、巨大物流センターに取り囲まれた街、破壊された伝統的旧市街、管理される農民、日雇仕事にあぶれて縁石に座り込む労働者、疲れ切った警官・・・甘い香りのするミントティー・・・しかし、まさに、たしかに蠢き起き上がろうとするウイグルの魂・・・それが私がこの街で体験した全てだった。この街で起こったことを、どう解釈してよいかわからないまま混沌とした気持ちで、バス・ターミナルに入った。もちろん交通機関の停留する建物の入り口では保安検査がある。身柄は通ったが、荷物の中のライターは目ざとく見つけられた。思えばウルムチの空港でライターを見つけ出されて以来、ライターを持ったままでの保安検査は初めてだ。飛行機を降りて以来、初めての宿泊地がケリヤだったからである。朝食後にどうしてもタバコを吸わなければ排便できない私にとっては、ライターは必需品だった。ライターはこの街で昨日買い、今朝一回使っただけで没収された。中国の法律がそうなっているのだから、それは仕方がない。守ろう。それに配慮してか、ライターは1元 (約18円) と格安だ。許そう。しかしね、「らいたー !! らいたー !! 」と、ニホンゴまくしたてて他人の購入したライター没収しといてやね、そのライターで、あろうことかバス・ターミナルの施設内でスパスパとうまそうにタバコ吸うとんのはね、おいこらお前ら、どーゆーシンケイしとんかねお前ら答えんかいこら !! ゲート脇の段ボール箱にはうず高くライターが投げ捨ててあって、どうせこれらは転売されて奴らの余禄になるのであろう。叱られなければ何やってもOKなんだこの国は。
2017年05月11日
20170511 Kerya
Uyghur-Pamir 2017.05.11.4 Kerya
身の危険は全く感じなかった。私は1991年に当時のザイール奥地Ileboの街で賄賂欲しさに入境料をとるイミグレに五日間ほど投獄されたことがある。あの時と比べたら、まず命まで取る気は無いなと感じた。なにも悪いことはしていないので、おとなしく逆らわずについて行くしかないのだこういう場合。車は5分ほど走って警察本部と思しき割と立派な建物に入ってゆき、正面玄関から通された。そこで他のウイグル人とは別の小さな会議室のような部屋に連れて行かれ、護送車に乗っていたウイグル人警官のひとりとともに椅子に座って待った。やがて荒々しくドアを開けて入ってきた漢人の警官に、ウイグル人警官がなにかを説明しようとしたが、漢人は彼を押しのけて直接私にまくし立ててきた。私は例の紙片を取り出して中国語がわからないと身振りで示したのだが、彼はあくまでも中国語で激しく怒鳴る。なにかにイラついているのは明らかで、こういう場合、恐れたり怯んだり、相手の調子に飲まれたりしない方が良い。だってわかんないんだもん。私は落ち着き払ってその紙をテーブルに置き、指で「わからない」という部分をトントンと叩いた。彼の怒りは頂点に達し、テーブルを激しく叩いて叫びはじめたが、どうしようもないので、私は彼の目をじっと見て、ただ座っていた。無表情に。彼もお手上げだという身振りをして黙ったときを見計らって、「English, OK ??」と尋ねてみた。すると彼はしばらく考え込んでから、どこかへ電話をかけた。10分ほど沈黙の時が流れ、やがて、もう少しマシな感じの警官が現れ、なんとにこやかに私に握手を求めてきた。私は立ち上がって敬意を評し、一部始終を手短に英語で説明した。彼は私のパスポートを持っていた。それをしばらく眺めてから、「OK, we are sorry, you can go out.」とわかりやすく言った。別室に案内され、テーブルに広げられてあった荷物をまとめ、私は解放された。
・・・が・・・おい・・・ここで解放かよ !? もとの場所まで連れてけやお前ら、と抗議しようにも扉は閉められて広々としたロビーに誰もおらず、仕方なく通りに出た。まあ小さな街なので、すぐにアーケード街を見つけてその反対側から中に入れたが・・・とりあえずこの中でしばらく休憩しようと思って、休める場所を探したのだが、そんな店も設備もないのだ。そう、少なくとも今回の旅で訪れた中国の街には、食べるとか買い物をするとか宿泊するとか、なにかをする場所はあるのだが、何もせずにぼんやりできる場所というものがなかった。美しい公園はいたるところで見かけたが、それらは高い柵に囲まれて施錠されていた。仕方なく、店で飲み物を買って、縁石に座って休んだ。
街に着いていきなり身柄拘束・・・この事態を冷静に考えてみた。ホータンでも垣間見たのだが、検問は頻繁に行われている。街路の歩道は柵で仕切られていて、一辻ごとにテントを張った検問所へ誘導されるようになっている。柵の周辺には等間隔で警官が銃を持って立っているので、柵を乗り越えて検問を避けることはできない。そこで男女別にボディチェックがある。検問している警官のほとんどはウイグル人である。したがってウイグル人がウイグル人を誰何していることになる。拘束されている人を見ることも珍しくない。通行人は、何事もないかのようにその脇を通り抜けていく。拘束された人が抵抗したり、警官と口論になっているのを見たことはない。検問所に詰めている警官と、護送する警官は、明らかに役割が分担されている。拘束されるとパスポートを取り上げられるが、その前に詰所でノートに名前と番号を控えられる。しかし、彼らのほとんどはおそらく外国人のパスポートというものを見たことがないか、あるいはローマ字を読めないらしく、私の場合、きまって前回旅行したブラジルのビザ (顔写真付きなので) の番号を書き写しはじめるのがほとんどだった。そのたびに私はパスポートの2ページ目を開いて、彼 (女) の書き写すべき番号を指し示してやらねばならなかった。そんなわけで、初めて、そして最も頻繁にコミュニケーションをとったウイグル人は、皮肉なことに、頻繁に私を拘束する警官たちということになった。
まあだいたいわかった。一ブロックごとに検問があって、運が悪けりゃ拘束される。しかし無実なので解放されるが、その時間が勿体無いし気分も悪い。この街に一泊すべきか、とっととホータンに戻るべきか・・・とりあえずアーケードを出て、南の老城区のあるはずのあたりを散策することから始めることにした。中心部の南側に広がっているはずの旧市街は、その多くが取り壊されて廃墟となり、順次更地にされて、高層マンションが建設される途上にあった。旧居住区に隣接していたと思しき農地も宅地造成され、その遠方に未開発の農地が望まれ、小麦が花を咲かせていた。そこで踵を返し、街の北側を見ることにした。
旧市街の状態としては、街の北側の方が良く保存されていた。しかし、居住区は頑強な鉄門で閉ざされ、そこに検問所があって、外国人は通してくれない・・・と・・・表通りに面した商店の裏の路地から人がしげく出入りしているので行って見ると、なんと、開いた鉄門があったので、素早く中に入ってみた。寂れた感じだったが、まごうことなきウイグル的風景がそこに広がっていた。老城区の内側というべきか、市街地の外側というべきか、要するに鉄柵の向こう側にはブロックごとの検問所はない。私はウイグル帽をかぶり、ただブラブラと歩いた。やがて農地が始まり、道は延々と深みにはまっていく様子になった。日が傾きはじめていたので戻ることにした。同じ門から何食わぬ顔で街に入ると急に腹が減ったので、早速ウイグル料理のラグメンを食べてみることにした。要するに、手打ちうどんに具沢山のトマトソースがかけてある、あるいはスパゲティ・マルゲリータ、日本でいうナポリタンの原型と思えば良い。大変うまかった。
散策を続ける。西側へ行くと、やがて村の風情になり、農地が広がっている。門で閉ざされていないウイグル人居住区があって、そこへ入って行くと、水路やブドウの柵の連なる美しい街角に出た。家の軒先に縁側を出して涼んでいる家族があって、軽く会釈すると心が通じるようだったので、近づいて身振り手振りで「ここは美しいところですね」と伝えようとした。彼らは喜んでくれたが、明らかに私を警戒しているそぶりだった。邪魔してもなんだからと思って側を離れ、しばらく行ってから振り返ると、彼らは警官に取り囲まれていた・・・ううむ・・・やりにくい。
大通りへ戻ってそれを越えると、一部が美しくリノベーションされ、まるでテーマパークの様になった一角に出た。その入口に案内板があり、英語で解説が書かれていたので、私は近づいて文面を読もうとしたのだが、そのときに二度目の拘束を受けた。おいおい、まだ「Welcome…」から始まる文を読み始めたとこやで。もうちょいぼちぼちやってえな。今回は詰所で解放されたが、前回私を拘束した警察官とは服装が異なっていた。注意深く観察すると、「特警」・「武警」・「公安」とそれぞれ書かれた制服を着た警察官が街じゅうに展開しており、それらは別々に行動しているようだった。前回は「特警」、今回は「武警」である。英語は通じない。漢字も読んでくれない。今回は、警官がパスポート・ナンバーを本署 (??) に伝えただけで解放された。つまり、外国人の動向を把握しているようである。
そんなことに怯むような私ではない。テーマパークとはいえ、ウイグル人の居宅を丁寧に保存した空間は見所である。しかも、まだケリヤ川も見ていないのだ。私はこの街に宿泊することにし、宿探しを始めた。しかし大通りに面した安宿のおおくは、すでに開発のために大量に投入されている漢人労働者の宿泊所としてほぼ満室の状態だったが、空いている「宾馆」や「招待所」などは、どこも外国人を泊めてくれない。泊めるか泊めないかを簡単に区別できるように、外国人のパスポート番号は宿帳に記入できないようにしてある。つまり中国人民のIDカードの番号とは桁数が異なるため、これを記入すれば一目瞭然で違反がわかるようになっている。違反を厳しく捜査されるというよりも、わずかな利益のために面倒ごとに巻き込まれては叶わないという、賢明な事なかれ主義が蔓延することによって、外国人を一定の宿泊施設に集約して監視しやすくしている。中国政府の狡猾なやり方を垣間見る思いがした。仕方なく、街で唯一の外国人宿泊可能な、「于田天萌コ隆酒店」という、無駄にゴージャスなビジネス・ホテルに、289元 (約5300円) も払って宿泊することになった。
20170511 Hotan-Kerya
Uyghur-Pamir 2017.05.11.3 Kerya
于田、30年ほど前までは「于闐 (uten) 」、中国語でYútián、ウイグル語ではكېرىيەと書いてケリヤといい、同じ街でありながら、中国語とウイグル語では呼び方も指しているものも全く違う。「于闐」は、古代中国の漢の時代から西域諸国のひとつとして出てくる国名で、歴史の好きな人にはこの方が通りが良い。しかし、その于闐国は現在のホータンを首都としており、なぜ180kmも東にあるこの小さな街がこの名を戴くようになったのかはわからない。一方、ウイグル語である「ケリヤ」は川の名前で、これを音写した「克里雅」という中国語もあるのでややこしい。
ホータンからケリヤまで4時間程度のドライブであったが、初めて実地に見るタクラマカン砂漠は、驚きの連続だった。もちろん西域南道を東に走っているのだから、大部分は砂漠の中なのだが、点在する小さな村の周辺には大規模に開発された住宅地や物流センター、工場群が並んでいる。「砂漠の道」・「シルクロード」といって懐かしむ気持ちはものの見事に破壊されてしまう。道路は高架にはなっていないものの、ほぼ片側二車線の高速道路に近い高規格道路であった。しかし、シルクロードを走っていることには間違いない。自分の先入観が粉砕されただけのことだ。途中、数回の検問があったが、パスポートを見せただけで特に問題なく通過できた。運良くタクシー組に回されたおかげで、乗客が多くて検問に時間のかかる先発のバス数台を追い越すことができた。喀拉克尔乡という村で休憩して田舎情緒を楽しんだ後は、ケリヤまでノンストップだった。
日本を出てから、かなりアクロバティックな旅の急展開でここまで来てしまって、このタクシーの数時間で少し疲れが出たようだ。私は百姓のくせにイネ科の花粉にアレルギーがあって、栽培品種の稲は大丈夫なのだが、いずれかの稗の花粉に感じるらしく、4月の終わりから5月にかけて、世間の人の花粉症が治る頃に発症する。しかしまあ空気が変われば治るだろうぐらいに軽く考えて出発したのだが、ここへ来て砂にやられたようだ。砂といっても日本でイメージするようなものではなく、もっと細かいチリのような、たとえば小麦粉をふるいにかけた時に舞い上がる粉塵のようなものが空間を漂っている。それは霧のように視界を閉ざし、数百メートル先が砂塵に消えているのである。それを直接吸い込んでいるのだから、日本の花粉症より厳しい状態だ。しかも、今朝のフライトで天山山脈を越えたり、砂嵐に翻弄されながらホータンへ降下したりしたときに、気圧の変化から耳をやられてしまい、それ以来ずっと平衡感覚がおかしいのである。右耳の聞こえがガンガンしていて、周囲の物事に現実感がない。疲れるとよく出る症状で休めば治るとはいえ、ここは異国である。喉が腫れ上がり、感覚の浮いた状態で、ケリヤのバスターミナルへ到着した。
ケリヤに来た理由は、ひとつには地球最後の秘境と言われるダリヤブイを一目見たいと思ったことと、崑崙山脈から流れ出て砂に消えるケリヤ川の河岸の風景が格別にシュールだったので、それを一目見たいと思ったことだった。もちろん前者は事前の調査で到底実現不可能なことがわかっていたのだが、少しでもその匂いが感じられればと思って諦めきれなかった。そして車をチャーターしてでも街から川筋に沿って、少しでも周辺の村を訪ね歩いて、その風情を楽しみたいと思っていた。しかし、結果から言って、それらの希望はことごとく打ち砕かれた。なぜなら、中国政府は、外国人が幹線道路を外れて周辺の村を単独で訪問することを事実上禁じており、それは検問という手段を通じて蟻の這い出る隙間もないほど厳しく取り締まられており、その禁を犯してまでこの外国人を車に乗せて連れ回そうというドライバーは一人もいなかったからである。
ここでもご多分にもれず観光開発のために膨大な労働者が投入されており、現地のウイグル人との間で緊張が高まっている。私は出発前に最新の航空写真を調べて、概ねウイグル人たちの住む旧市街、いわゆる「老城区」のあたりをつけておいたのだが、それらはすでに見渡す限りの更地となっており、おそらく立ち退きを食らったウイグル人浮浪家族がそこら中で絶望している様を目の当たりにした。それらを見られたくないので、当局は外国人を常に監視し、なるべく団体旅行の遺跡巡りと玉石拾いにカネとヒマをつぶして早々にお引き取りいただくか、さもなくば厳しい検問を繰り返して一定の範囲にとどめておこうとする。なぜなら、ここはタクラマカン砂漠最後の秘境への入り口であり、それはシルクロードの歴史遺産をサラミのように薄く切って高く売りつけたい中国政府にとってはドル箱だからである。
私はバスターミナルを出て東に歩いてアーケード街を見出した。事前調査でそのなかほどに外国人が泊まれるわりと安いホテルがあるはずだった。その入口に立ち止まって写真を撮っていたとき、警官の吹く笛が高らかに響き渡った。またたくまにあちこちから黒い制服を着て武装した警官が飛び出して私めがけて突進して来た。身構える隙もなく、刺股で私は首根っこを押さえられ、立木の幹に引きずり上げられて身柄を拘束された。その付け根が喉に食い込んで痛かったので、私は身振りでこれを緩めてくれと要求したが、彼らは口々に何やら叫ぶばかりで一向に緩めようとしない。やがて一人が駆け寄って来て銃の台尻で私のザックを小突いたので、荷物を置けと言っていると想像はついたのだが、首を抑えられて身動きが取れず、そのことをどうアピールして良いかわからないところへ、そいつが横から無理矢理にザックをむしり取って、中身を歩道にぶちまけようとした。しかし開け方がわからないので引きちぎろうとするから、私は激しくそれに抗議した。言葉が全く通じないので、とにかく「自分で開ける」ということを身振りで示し、「我是日本人游客。我不能说中文。配合调查。请调查行李。」と書いて用意してあった紙片をようやくポケットから取り出して示してアピールしていると、漢人の通行人がそれを見て助け舟を出してくれた。このときもまだ私は、彼らウイグル人が中国語の文字を解さないことに気がついていなかった。彼の取りなしで、私は刺股から解放され、自分で荷物を解いて全てを示し、危険物を所持していないことをアピールした。彼らは協議するために詰所の中に入った。私は背中に銃を押し当てられ、両手を挙げたまま、その場で待つしかなかった。助け舟を出してくれた漢人は姿を消していた。しばらくして黒い警察車両が横付けされ、別件か何かで詰所に拘束されていた数人のウイグル人とともに、私はそれに乗せられ連行された。
20170511 和田 (Hotan)
Uyghur-Pamir 2017.05.11.2 Hotan
ホータンは中国語で「和田」と書いてHétiánと読む。ウイグル語では「خوتەن」と書いて「ホーテン」というくらいに読む。もちろん「玉」を産出することで有名で、巨大な滑らかな白い玉は一億円くらいするというので見せてもらったことがある。ただの石にしか見えなかったが・・・
ホータン空港は一日数便しか発着がなく、乗降客は目の届く人数なので、出発も到着もひとつの建物でさばいている。到着後資料収集でもしようと思って建物の中を見回してみたが、本当に何もない。ボヤボヤしてたら出口の鍵を締められてしまって、鍵を持った兵士に開けてもらわねばならなかった。
ホータン空港から市街へのアクセスはタクシーによるしかない。台数も限られているので選択の余地はない。かなりふっかけてくるが、目測10km程度なので交渉して40元で手を打った。それでも高いくらいだ。ホータンのタクシーはメーター制ではなく、大雑把に行き先が決まっていて、客の行きたい方角や乗客の降りたい場所とが折り合えば乗せてもらえる。世界中によくある乗合白タクである。乗客は私を含めて3人であった。私は今日中に次の目的地である于田 (Kerya) へ移動してしまいたかったのと、明後日の目的地である莎车 (Yerkent) と、その翌日の移動となる喀什 (Kashgar) への鉄道切符を購入しておきたかったのとで、乗客と筆談しながらこの運転手に40元で全部回らせようと企んだ。ところが、なんか様子がおかしい。「客运站」・「火车票」・「団結広場」など、ごくごく基本的な中国語を書いて示しても反応が悪いのである。仕方がないので、これらを英語からいろいろに崩した発音で試してみたり、あるいはトルコを旅行中に聞き覚えた言葉に置き換えてみたりしたがなかなか通じず、結局市の中心部である「団結広場」でほぼ強制的に降ろされた。このとき私は気付くべきだった。多くのウイグル人は漢字が読めないということを・・・しかしそれはもはや手遅れだ。私は中国語で会話ができないし、アラビア文字の読み書きができない。ウイグル人は、中国語の会話はできても、漢字とローマ字の読み書きができない。盲点だった。これは今回の旅の準備不足のなかでも最も深刻なものだった。
ホータンの街は殺気立っていた。柵で封鎖され立ち入ることもできない広大な団結広場の中心には、ウイグル人の老人と故毛沢東主席が握手している像が小さく見える。この老人は库尔班 (Kurban) おじさんとして知られていて、いわば中国共産党による民族宥和政策の象徴である。その周囲をパトカーや装甲車などの警察車両が取り囲み、それらは常にサイレンや、時折アジテイションを鳴らし続けていた。どうやらこの象徴は、ただの象徴にすぎないようだ。
事前に調べておいた旅行代理店は全て存在しないか開店休業状態で全く要領が得られなかった。のみならず多くのビルは封鎖されていた。なぜ代理店を頼んだかというと、中国では鉄道や長距離バスの切符が取りにくく、事務の不手際から長時間待たされると聞いていたから、多少の手数料を払ってでも時間を節約したかったのである。しかしどうやら現状はそんな穏やかなものではなさそあーうだ。仕方なく通りへ出てタクシーを捕まえ、「和田站 (ホータン駅) 」と紙に書いて見せると運転手は大きく頷いたのでそれに乗り、まずは明後日以降の移動手段の確保にかかった。
ホータン駅は、無駄に広い駅前広場があって、敷地に入る時と広場に入る時、さらに建物に入る時の三回も保安検査がある。駅舎は立派なのに一日数本しか発着がない。建物の中ほどに、左上に上がる階段を上がってすぐに入口があるが、これは第一次改札のようなもので、切符売り場は階段の反対側の別室にある。何も表示がないので、誰かに訊かなければわからない。
窓口での中国語のやりとりに不安があったので、出発日・便名・目的地・座席の種類・購入数を書いたメモをあらかじめ用意して窓口に出した。すると、窓口の漢人のねーちゃんはとっても親切な子で、私の書いたメモに最近の改正で変更になった部分を訂正し、料金を計算した上で、目で「これでいい ? 」と合図してくれた。そのメモの下部には、「発車30分前に駅に来れば良いか ? 」と中国語で書いておいたのだが、それを「60分」に訂正して目配せしてくれる気の利かせようだった。大変気持ちの良い対応で感動した。こうして、結構難関と言われる中国での鉄道切符の購入は簡単に終わった。中国の鉄道運賃は強烈に安い。和田ー莎车が普通列車でたったの18.5元 (約340円) 、莎车ー喀什が特別快速で28.5元 (約530円) いずれも3~4時間もの長距離移動である。
駅の敷地から出て、外にたむろしているタクシーに「東郊客运站」と書いたメモを見せて回ると、そのうちの一人が「わかった」と手を挙げたのでそれに乗り、バスターミナルへ向かった。「東郊客运站」は、ホータンから東方面へ向かう長距離バスのターミナルである。そこはウイグル人でごった返していた。切符売り場「售票処」は長蛇の列・・・というか、ずいずいと腕っ節で窓口に詰め寄っていくのだが、こういうときは荷物の軽い貧乏旅行者に若干の分がある。65元でチケット入手・・・と思いきや、保安検査を通過して引っ張っていかれた先に待っていたのはタクシーだった。しかも4人集まるのを待って発車、あーもすーもなく私が4人目で、押し込まれて出発。まあ良い。とりあえず計画通りに事は進んでいるのだから・・・あわただしくホータンを後にし、今回の旅の第一目的地のケリヤへ向かう。いよいよ旅の本番。
20170511 乌鲁木齐ー和田
Uyghur-Pamir 2017.05.11.1 乌鲁木齐ー和田
夜が長いだけに朝の明けるのも遅い。夜明けはだいたい北京時間で9時過ぎだ。しかしそんな時間には、まだ街は眠っている。生活実感としての現地時間のことを、「ウルムチ時間」または「新疆時間」というらしく、個人商店や市民生活は、だいたいそっちで動いてる。北京時間より2時間遅い。しかし、銀行や交通機関など公共施設は北京時間で動いているので、常に2時間のギャップを感じる。ウルムチ発ホータン行きの出発は9:30だが、大事をとって7:30に到着するべく、ホテルの朝食は断って6時過ぎには荷物を担いで通りへ出た。もちろんまっ暗だ。51路のバス停を探し、バスが来たらそれに乗り、タクシーが来たらそれに乗ろうと思っていたが、何も来ないので大きな交差点まで歩いてタクシーをやっと捕まえた。運転手は漢人の若者で、メーターが外れて接続がむき出しになっているのを、自分でつないでなんとか持たしていた。途中で外れて慌ててたけど・・・
ウルムチ空港の保安検査は厳格をきわめていた・・・というか、無作法なまでに保安にこだわっていた。今回は往路最後のフライトになるので荷物は預けた。持ち込み手荷物でライターはご法度なのは世界共通だが、中国では受託手荷物の中にライターが入っていてもひっかかる。それを知らなかった私は、通常通りチェック・インの後すぐに保安検査に進んだ。ウルムチの保安検査は、検査官にとって目の前の物品が危険かどうかを判断して分類するのが仕事であって、それがどの乗客のものかを考慮しない。したがって疑わしき物品は順次専用のケースに投げ込まれてゆき、そこには他の乗客のものも混じっている。一方、検査を受ける乗客は、ほぼ下着になるまで脱衣させられ、靴の中敷や靴下の裏まで検査されるので、私のように腹巻きや靴に現金を分散して持っている場合は時間がかかる。問題なく通れたとしても、服を着ている間に他の乗客が先に進んでしまって、無造作に投げ込まれた検査済みのケースの中から、自分の所有物を一つずつ引っ張り出すことになる。そこへ割り込んで自分のものを探すのが大変で、当然乗客同士で揉めることがある。すると公安警察が飛んで来てその場にいる者を全員取り押さえるので、進むのにさらに時間がかかる。そこをすり抜けてやっとの事で出発ゲートに入ろうとすると、受託手荷物検査で私の荷物が止まっているのでチェックイン・カウンターまで戻れと言う。しかし保安検査を通過した客が戻るルートというものはないので、また公安に付き添われて外へ出て、一からやり直しになる。つまり、あの保安検査をもう一度やり直すのである。そんなこんなで、2時間以上も前に着いていたのに、出発ゲートに着いた時には、もう搭乗が始まっていた。やれやれ、でもとりあえず出発。いよいよ旅の本番だ。
中国南方航空CZ6853ウルムチ発ホータン行きは定刻通り出発した。機材はBoeing B313-7、これも国内線用で小さな飛行機だった。飛行機は飛び立つとすぐに天山山脈の東の端を飛び越えた。赤土のむき出しになった襞深い山並、雪をいただいた山脈が、打ち寄せる波のように彼方まで連なる。果てしない世界。タクラマカン砂漠の北、モンゴル高原と世界を隔てる広大な地の壁を見下ろしているのだ。中国の西の辺境、中央アジアへと続く世界のほんの一部を、今見下ろしている。旅の実感がいきなり吹き出すように湧いてきた。
機内食はスナック程度の簡単なもので、フライト時間は2時間弱。定刻にホータン空港に到着した。砂で曇っており、南に見えるはずの崑崙山脈どころか、視界は数百メートルほどしかない。ホータン空港は軍民両用空港であり、乗客はひとまとめにされて、兵士が護送する形で建物の外に出る。微妙な地区に来たんだなあ、との実感が湧く。
2017年05月10日
20170510 成都ー乌鲁木齐
Uyghur-Pamir 2017.05.10 成都ー乌鲁木齐
ウルムチへのフライトが18時なので17時には空港へ着いておくべく、大事をとって15時には黄龙溪を出た。渋滞もなく成都には16時前に到着し、歩いて空港シャトルバスの出る岷山饭店へ向かう。途中、川沿いに人だかりがあったので何かとのぞいてみると、小学校の正門、なるほど子供をお迎えに来た親たちか・・・過保護と言われる一人っ子政策の中国の名残を垣間見た思いがする。シャトルバスは、岷山饭店の北側の路地の奥から発車するので、表通りからは見えにくい。16:20発17時空港着。チェック・イン後、初めて中国の保安検査を受ける。あと一回乗り継ぎがあるので、今回もザック一つで機内持ち込みである。荷造り段階で、液体や金属など、検査に引っかかりそうなものはそれぞれまとめて別に出せるようにしておいたのだが、意外に検査は厳しく、乾電池は没収された。
四川航空3U8841便、成都発ウルムチ行きは定刻18時に出発した。機材はAirbus A319、もろに国内線で、窓側は頭がつかえるほど狭い。機内食は軽食で、ご飯にチリソース、牛肉の唐辛子炒めと、なぜかソラマメの揚げ菓子。ウルムチへは定刻21:40到着。いよいよ新疆へ来た実感がある。なぜなら22時前だというのにまだ陽があるからだ。北京とウルムチでは、実質的には2時間程度の時差がある。
ウルムチの宿泊も四川航空のフライト・チェンジが原因だが、どうせ宿泊するなら夜のウルムチを楽しもうと思って、繁華街に近い二道橋に突玛丽斯大饭店 (Tumaris Hotel) を予約しておいた。国際大バザール (新疆国际大巴扎) にも近いし、少々高いが翌日の出発が早朝なので、交通の要所にあることで妥協した。場所は、ウルムチ市内中心部の南西側にあり、北東側郊外にある空港側から見ると街を縦断する形になる。事前に調べた結果、路線バス51番 (51路) が1時間ほどで到達すること、空港発の最終が23時であることから、アクセスについては全く心配していなかった。
ところが、ウルムチの空港を出て右手の駐車場入り口を渡った向こうにバス停はあったのだが、51路は21時で終わっている。まだ明るいというのに。そこへ別方向へ行く27路のバスが来たので、運転手に「新疆国际大巴扎へ行けるか ? 」と筆談で訊いてみると、なんとこの運転手、メモを取り出してサラサラと、4つの路線を乗り継いで行く方法を走り書きし、「乗れ」と手招きした。その達筆なメモは、残念ながら旅のゴタゴタで紛失しまったのだが、今でも、その人柄と共によく覚えている。どの国へ行っても運転手という職業の人に嫌な思いをさせられたことがない。今回の一瞬の出会いも長く心に残るだろう。
二道橋へは問題なく到着した。しかし、なんと3時間近くを要したのである。運転手の言う通り、4つの路線を乗り継いで、空港から二道橋まで、たった4元で移動したのだから文句はない。道中、まずはその運転手に27路のバスから降りて前方の二つ目の角を・・・という風に教えられ探して見つけたバス停でバスを待ち、その運転手にそのメモを見せたら、また親切かつ快活に降りるときに大声で案内してくれて、一緒に降りたウイグル人のお母さんが、たまたま同じバスに乗るからと行って一緒に歩き、それが普通の道路を走る路線バスではなくて駅のような停留所で保安検査まであって、来たバスはトラムのように隔離された専用道を走るのにびっくりし、ウイグル人のお母さんは周囲の人にメモを見せて私の降りる場所を私に教えてくれるように段取りしてバスを降りてゆき、周囲の人は私に大声で「降りろ降りろ」と伝え、一緒に降りた人が次に乗り継ぐバス停まで私を連れて行ってくれ、そこへ来たバスの運転手にメモを見せて・・・という具合に、まことに至れり尽くせりの珍道中だったのだが、ホテルに着いた頃にはもうくたくたに疲れていて、もはや夜の繁華街なんてどうでもよくなっていた。しかし珍道中の間にバスがあちこち回ってくれたおかげでウルムチの夜の風景は堪能した。それは、バブルの頃の大阪心斎橋の風情で、今の日本とは比べるべくもないほど街からエネルギーが発散されていた。大都会、しかも非常に立派な路面店が軒を連ね、それらが生き生きと光り輝いていた。ウルムチ、是非次回は何日か滞在したいものだ。結局晩飯食いそびれて、近くのコンビニのような店・・・中国では「超市」といって文字通り「スーパーマーケット」なのだが、まあ日本でいう食品と日用雑貨が置いてある個人商店の総称のようなもの・・・で硬いナンと茶を買って、寂しく部屋で食べて寝た。ホテルの部屋も無駄にゴージャスなのに・・・
20170510 黄龙溪
Uyghur-Pamir 2017.05.10 黄龙溪
ホテルに隣接する新南門バスターミナル (新南门车站旅游客运中心) は二階が切符売り場、一回が待合と発着場になっている。中国へ来て初めて中国人たちを観察する。印象としては、皆非常に規律正しい。声は大きいが、騒がしいとか乱れた様子はない。ターミナルも、今まで旅した国々では、たいてい混沌の中に放り込まれて、表示もなく、人に訊かなければ目的とする切符やバスにたどり着けないことが多いのだが、ここではきちんと案内が出ている。しかも感じなので、中国語でどうかくかを一定量覚えれば、難なく手続きは済ませられる。電光掲示板にバスの行き先と発車時刻が出ている。それをメモして窓口に出すと、難なく切符が得られた。成都から16元、1時間程度のバスの旅である。
切符にはプラットホーム番号と号車、座席番号まできちんと表示されているので、何ら迷うことはない。こんなに私の感性に合う旅は初めてだと言いたいくらいだ。とてもわかりやすい。促されるままにバスに乗り込み座席を確保し、周囲の中国人とにこやかに会釈を交わす。彼らは瞬時にして私が中国人でないことを感じ取り、あまり言葉をかけて困らせないように気遣いまでしてくれる。バスは定刻に発車。
まっすぐ南へ伸びる片側二車線の高規格道路の両側は、高層マンションの開発ラッシュだった。それを過ぎると線で引いたように田園地帯に変わり、小高い丘や草原の畑の中を進んでいく。川沿いの少しコンパクトで美しい景観に沿ってしばらくいくと、対面する山の坂の途中にあるバスターミナルでバスが停まった。
乗客とともに降りると、そのまま向かいで待っていた路線バスに自動的に導かれる。フロントガラスの表示には運賃は1元、運転手に払えと読める。乗客の誰かが細かいのがないと言い出したので、別の誰かが10人集めて10元まとめて払った。私もその中に連れ込まれた。この10人はこの瞬間から黄龙溪の友となり、この言葉の不自由な異国の旅人を案内することがこの日の彼らのイベントとなった。何人かは私が日本人であることに気がつかなかった・・・というか、誰も気にしなかったという感じだった。そんなことより、他国の旅より、一般の人々が合理的にテキパキしているという印象、そして当座の目的に向かって、細かいことに拘泥せずに割り切ってすんなり乗り越えようとする気風のようなものが感じられた。
歴史的建造物群を保存した、日本でいわゆる美観地区なるもののことを、中国語では景観区という。その入口の門でバスを降り、バスの乗客が一団となってどやどやと景観区に入って行った。入り口には花輪の売り子がたくさんいて、それを買って頭にかぶり、満面の笑顔で写真を撮らせている人も多い。楽しんでる空気満々。さて、古い聚落ということだったので、もっと鄙びた街並みを予想していたのだが、内部は料理店と土産物屋のオンパレード、要するにテーマパークであった。遊園地まで隣接しており、平日にも関わらず満員の大盛況で、騒がしいことこの上ない。一団となっていたバスの乗客達も、土産物の物色に散ってゆき、何人か残った塊も手持ち無沙汰の感が漂ったので、私はそのうちの一人に、身振りで「一人であちこち見て歩きたい」と伝えて別れた。いや、成都の人たちとても親切、私たいへん好きになりました。
黄龙溪は川沿いの集落であるので、雑踏から逃れて対岸へ渡ってみた。川沿いに農地が広がっていて、大型のコンバインで何か作業をしている。大根の種の収穫である。この農場では、大根を野菜として収穫せずに、あるいは出荷調整して残したものを、開花結実するまで置いて種を出荷しているようである。抜き取った大根をそのままコンバインにかけている。傍らにはパンパンになった籾袋が山積みになっている。強烈な大量生産、これが日本へ輸入されて小袋に分けられて数百円で売られるのであろう。せっかくなので黄龙溪でのおみやげに、道に散らばった種をいただいて来た。夏に撒いてみよう。
農地の向こうに集落が続いていたので、田舎道をたどっていく。ああ、なんとなく、なんの変哲も無い中国の田舎の長屋という感じの建物があって、そのなかには、おそらく対岸の観光地へ仕出しする業者だったり、そこで働く従業員の宿舎と思しき建物があって、生活の匂いがする。こういう状況では、ザックを背負った私は、明らかに日本人とわかるのか、ときどきちょっとした日本語で声がかかる。ニコニコしながら手招きするので行ってみると、地元の食堂である。ちょうど昼時で、何人かの客がすでに食事をしているので、これもなにかの縁だろうと思って入って行った。地元の人たちは、こんな風にして麻婆豆腐をガツガツ食っていた。唐辛子というより、山椒の効いた刺激的な味で、荒くちぎられたような豆腐が絶品、「うまいか ?? 」と訊かれたようなので「うまいうまい」と身振りで示したら、客一同えらい喜んだはった。実際とてもうまかった。成都、ええとこやね。
で、食事の後、茶と菓子が出て、これはサービスだというので、感謝の身振りをして支払いをすませると、おばちゃんが奥へ来いという。路地を挟んだ蔵のような建物があって発酵臭がするのでピンと来た。それをおばちゃん見逃さなかった。豆板醤は好きかねとでも言ったのだろう。おばちゃんを押しのけるようにして木の樽の中を覗き込むと、真っ黒な味噌が匂い立っている。無造作に長い木杓子を突っ込んで少し取り出し、舐めてみろという。まごうことなきソラマメ味噌だ。唐辛子が入っていないようなので、筆談で訊いてみると、たぶん、どうやら豆板醤というものは、すくなくともこの家では、唐辛子を入れずに仕込み、調理するときに加えるものだと見える。それは確かに理にかなっている。唐辛子は鋭い辛味と香気があるので、新鮮な状態の方がうまい。しかし熟成された辛味というものもまた捨てがたいので、別の仕込み方もあるのだろう。カメラを取り出すと、ちょっとそれは勘弁してくれという仕草をされたので、丁寧にお礼の気持ちを表してそこを後にした。店の周りで暇そうにしていたねーちゃんが景観区まで道案内してくれて、いやなかなか心温まる半日観光でした。
20170510 成都
Uyghur-Pamir 2017.05.10 成都
成都の朝、初めて見る中国の朝である。なんとも感慨深い。ホテルからあちこち眺めてみる。高層ビルもよし、崩れかけた集合住宅もまたよし。早朝散歩。静かに走る電動二輪車、行き交う人々の表情は穏やかに見える。平和である。とても平和である。ホテルに戻って朝食をとる。出されたものは、白粥に蒸しパンにゆで卵・・・味というものがない。朝食に刺激物を取らないと調子の出ない私にとってはちょっと苦痛である。周囲の中国人達は、違和感なくこれを食べているので、中国の一般的な朝食というものはこういうものなんだろう。
四川航空が今日の早朝のフライトをキャンセルして夕方の便に振り替えてしまったので、通過するだけが目的だった成都で一日観光することになった。街を見て歩くのも良いが、せっかくだから中国の景勝地というものを訪ねてみようと思い立ち、新南門バスターミナルから南へ一時間ほど走ったところにある黄龙溪という古い集落へ行ってみようと思う。成都は四川省の省都だし、四川省といえば麻婆豆腐、麻婆豆腐といえば豆板醤、豆板醤といえばソラマメ味噌なので、俄然興味が湧いてくる。
2017年05月09日
20170509 関空ー成都
Uyghur-Pamir 2017.05.09 関空ー成都
いざ出発。困難な旅を祝福するかのように朝から土砂降りである。荷物は中国の空港でのトラブルを極力避けるために、受託手荷物なし機内持ち込みのみで5kg未満のザック一つに削ぎ落とした。こいつ背負って雨具着て、自転車にまたがっての旅立ちである。
自宅から関空まで2時間半、ちょっと時間を読み間違えて余裕こいたんと福知山線おきまりの列車遅延が重なり、途中で腕時計忘れてきたのに気づいて、梅田でヨドバシカメラをうろつく羽目に・・・その最中にデジカメのSDカードの予備を持ち忘れてるのに気がついて、しかも古いデジカメなので、旧タイプのSDHCでないやつの2GBを探すのに大いに手間取り、結局空港に着いたのが4時間半後の19:21、ボーディングまで残り30分というタイミングで、ATMで10万円おろして約半分ずつ中国元とUSDに両替して、四川航空にチェック・イン。ここでもかなりしつこく帰国の手段について問い糾されたが、旅程表その他あらかじめ準備した書類を見せて説明して、なんとか搭乗手続きは完了したのはゲートの閉まる直前だった。旅の達人のはずが・・・
四川航空3U8088便、機材はAirbus A320、中央の通路の両側3列ずつである。定刻に離陸、機内食はコンビニ弁当のようなもので、白飯に四川味噌をつけたもの、魚のフライに牛肉のピカタ、亀田のあられにヨーグルト、パン、ケーキというなんとも言い知れぬ取り合わせであった。乗客のほとんどは中国人で女性が大半、中国のバラエティ番組を楽しみながら4時間ほどのフライトであった。定刻に成都空港に到着。ウィングには止まらずタラップで降りてバスでターミナルまで移動。
入国審査である。乗客のほとんどが中国への帰国者で、外国人は数えるほどしかいない。しかも外国人用の窓口はひとつしかないので、審査官の様子を見て選ぶこともできない。しかたなく一列に並んで待つ。前に並んだ人が色々訊かれてるので、私も緊張して用意してあった資料を整理し直して重要な部分は暗記する。入れてくれなければ旅も始まらない。私の番になり、英語で滞在目的と日数を訊かれ、やはり帰国便についても訊かれたので、旅程表とラホールから日本へのe-ticketを示したら、意外にすんなりと通してくれた。やれやれ。
成都空港は小さな建物である。入国ゲートを出るとすぐ建物の出口がある。対面の通りにバス・ターミナルが並んでいて、右手の端の方に空港バスの切符売り場と停留所がある。タクシーの運転手やその手配師らしき男達が群がって来て、「バスはもうない」などと言って服を引っ張るがそれは嘘だ。成都の空港バスは深夜便が終了するまで運行されている。ただ、まさにシャトル運行なので、当着・発車時刻は一定していないようだ。切符売り場のキョーレツに不機嫌な短髪ねーちゃんから切符を買って10分ほどでバスが来た。
予約した成都交通饭店は新南門バスターミナルに隣接しているので、空港シャトルバスの1号線、岷山饭店行きに乗り、そこから歩く。
湿度が高く暖かい。どこか大阪と似た雰囲気の街だ。ちょうど中之島の川岸を歩いているような感じだ。深夜にもかかわらず、川沿いで人が散歩してたりする。いたって平和な雰囲気で、身の危険は全く感じない。10分ほど歩いて成都市交通饭店を見つけた。フロントは無人だったが、なんと不用心な事に開放されていて、通りかかった警備員が携帯電話でねーちゃんをたたき起してくれた。熟睡顔のまま、まあ精一杯愛想よく、なんとかチェック・インの手続きをしてくれた。160元の室料に対して推金は100元。無機質だが質素で清潔な部屋にたどり着く。面白いことに、サイドテーブルにデリヘルのチラシが綺麗に揃えて置いてあった。
20170509 出発
最も楽しいのは、旅を準備している段階である。何が起こるかわからない。どんでん返しに一喜一憂する。
実際にこの旅を実行するきっかけとなったのは、バイト先が改装のため二週間も閉店することが決まったからである。それを知ったのは2月のことだった。当初それは10月に予定されていた。10月ならば十分に時間があるから、中国語とウイグル語を勉強して、ゆっくり旅の計画を練るつもりだった。ところが3月の半ばになって急に改装が5月に前倒しされた。1ヶ月半では、とても準備が間に合わない。言葉の習得は諦めた。電子辞書は高過ぎて手が出ない。間に合わない部分は現地ツアーを手配するか、ガイドを雇うか、ルート作りと並行しながら計画を練った。ところがさすがブラック企業である。1ヶ月半しかないというのに詳細な日程が決まらないのである。誰に訊いても「まだ決まっていない」の一点張り。改装を口にすることすら禁忌とされる空気になった。そんな中で、いち早く日程を教えてくれたのは、なんと顔見知りの出入り業者だった。納品計画に支障が出るためだろう。センター便のドライバーにも確認した。当事者である我々は何も知らされず、出入り業者には通知している。ともに文書を見せてもらったから間違いない。日程は5/11-25とわかった。そこから具体的な手配が始まった。
日本の労働者にとって二週間もまとまった休みが取れることは滅多にない。もっと短ければ単純な旅行で終わっただろうが、二週間ということで欲が出た。かねてから思い描いていた、中国の西の辺境からパキスタンへ陸路境越、その先は「ナウシカ」のモデルともなったという秘境フンザ渓谷だ。こんな夢のような旅が実現するなど、人生のうちにそうあるものではない。人生は一度きりだ。会社に義理立てしてなんになる ?? 改装など俺の知ったことか、俺は人生を楽しむために生きている。
運の良いことに改装期間は木曜日に始まって木曜日に終わる。私の公休日は水・木である。ということは、一日休みをゴリ押しすれば火曜日に出て翌々週の金曜日に戻り、その夜から勤務というアクロバットもできるわけだ。旅程18日。なぜ火曜日かというと、四川航空の関空発成都行きが火曜日だからである。もうそれで大枠は決まった。その時点でも店の従業員には改装日程は知らされていなかった。そんな会社である。結局私がそれを聞いたのは、改装の数日前のことで、もちろんそのころには全ての手配を終えて出発を待つばかりになっていた。
四川航空・・・これを使えば、なんと中国の西の果ての主要都市カシュガルまで往復でも2万円台、これを片道だけ購入して、あとは陸路でパキスタンへ、帰路はイスラマバードから飛ぶより、さらに南のラホールから飛んだ方が2万円ほど安く上がることがわかったので、大枠はこれで決定。
ところが中国は、個人の自由旅行者に対して少々手強い国だ。まず、四川航空の片道航空券を発注する段階で手こずった。なぜなら、日本の旅券を持つ者は、中国国内では原則15日以内の観光目的の滞在ならば無査証で滞在できる特例がある。ところが、これは中国から15日以内に出国する手段が確保されていることが確約されていなければならないという、言外の条件を含んでいる。私の旅程では、中国から出国するのは陸路で、現地の交通手段によるから、事前に予約することができない。これが帰国手段の確約という条件に抵触し、四川航空は片道航空券の販売に難色を示した。ビザを取るか往復航空券を購入するかしてほしいという。なぜ四川航空が難色を示すかというと、なんらかの原因で私が15日以内に中国から出国できなかった場合、無査証である私は強制送還されることになるが、その費用は四川航空が負担しなければならないからである。しかし復路便に予告なく搭乗しなければ罰則規定があり、私の旅の場合、パキスタンに出国できるかどうかは、まさに出国間際までわからないから、ほぼ確実に事前連絡できない。無駄な出費は避けたい。しかも中国のビザは高く、15日以内の旅程では申請しても却下される。いろいろ調べたり問い合わせたり、ほとんど答えてくれない中国当局の出先機関にイライラしつつ、結局出国先であるパキスタンのビザと宿泊予定地の予約表その他を提示することによって、なんとかゴリ押しで四川航空の片道航空券を購入することができた。
さて、次なる不安要素は中国の入国審査をパスできるかどうかであった。予約した四川航空のフライトは関空発成都行きと、成都初ウルムチ行きである。中国の法律では、乗り継ぎのみであっても最初の寄港地で入国審査を受ける。情報によると、成都の入国審査は厳しく、特に片道航空券で入国しようとする者に対しては別室で取り調べを受けるという。その対策として、航空券e-ticketのダミーや中国旅行会社のツアー日程表のダミーを用意することも考えたが、中国は国家機関のネットワークが日本以上に進んでいるので、もし嘘がバレた場合にどうなるか予測がつかなかった。したがって、すべての旅程を中国語と英語で併記し、求められればいつでも提示して説明できるようにまとめて準備した。要は、中国から直接日本には帰国しないが、パキスタンから帰国する便は確約されているという旨を要点として説明した書類である。これで正面突破しかない。
その次なる不安要素は、成都での宿泊をどうするかであった。関空発成都行きは出発翌日の午前1時到着、審査に時間がかかった場合、入国できるのは午前2時ごろと考えなければならない。成都発ウルムチ行きは、その朝の8時出発である。野宿するには長くホテルを取るには短すぎる乗り継ぎ時間である。とりあえず中国の代理店で空港至近の安いホテルをネットで予約したのだが、到着が深夜というか、翌日未明になることを伝えるべくメールを送っても返事がない。しかも他のポータル・サイトを当たると、そのホテルの位置は空港から遠く離れていて、ピックアップサービスもあるらしいが、ユーザーのコメントが最悪だったのでこれをキャンセル、近隣のホテルを検索したが、成都空港に隣接すると称するホテルのほとんどは、地図に表示された位置にはないことがわかったので、バックパッカーの原点に立ち戻って、最悪空港建屋の軒先で野宿を覚悟した。空港至近をうたうホテルの多くは、空港建物の写真とホテルの写真を合成して、いかにも空港の近くにあるように見せているが、よく見ると同じ素材を使いまわしているので虚偽とわかる。省都の表玄関で、こんな商売がまかりとおるなんて、嗚呼これから中国へ行くんだなあという実感をしみじみと味わった。
ところが、出発一週間ほど前に、自分の手配した予約に漏れがないかと、旅程を再点検していたところ、四川航空の自分の予約ステータスで、成都発ウルムチ行きのフライトが変更されていることに気がついた。予約した朝8時発ではなく、その日の夕方18時発になっている。なんの連絡もなかった。四川航空に問い合わせると、予約状況は常にサイト上で確認してほしいとのことで、私の予約した8時成都発ウルムチ行きのフライトはないというのである。慌ててそれ以下の予定をすべて変更しなければならなかった。その時点で、私は最初の目的地をカシュガルではなくホータンに変更していたので、中国南方航空のウルムチ発ホータン行きを予約してあったのだが、これをキャンセルして翌日の便に変更、成都での宿泊先とウルムチでの宿泊先を別途手配しなければならなくなった。日本のLCCをはるかに下回る激安航空会社である。なにがあってもおかしくはない。
ホータンからパキスタンのラホールまでは基本的に陸路移動なので、ほぼ現地の成り行きであるから予約に関するトラブルはなく、パキスタンのビザも、大使館の指示に従って書類を作成すれば難なく得られた。それより五月蝿かったのは外野である。冬の間に田畑に積み込む予定だった古茅が、現場の都合で春先になり、遅れを取り戻そうとトラックを借りて一気に田畑に積み上げたため、それを見た近隣農家が深夜に怒鳴り込んできて、即刻撤去しなければ「集落から出て行け」大合唱が再び始まりそうになったり、忙しさのあまり冬用タイヤのまま菜種梅雨の時期に走行していたら、水溜りにタイヤが浮いて危うく多重事故を引き起こすところだったり、車検の代車を運転してたらあり得ないタイミングで路地から飛び出した車と接触しそうになったり、最後の仕上げに土手の草刈りをしていたらいきなり目の前に落雷、たぶん高圧鉄塔に落ちたと思われるが、その瞬間視界が真っ白になって草刈機のハンドルが強い衝撃を受けたり、出発間際になって、なんかもう嫌なことばかり続いていた矢先、ママからメールが来て「そんな危ないとこへ行っちゃいけない」・・・うちは厳しい家庭だったからねえ・・・というわけで全てブッチ切って出発 !!
旅というものは、自分の心の呼び声に従って行動するものだと思う。一切の無駄を省き、旅程に必要なものを全て背負い、なおかつ軽快に、淀みなく、しかも警戒を怠らずに楽しむ。私には流れ者の血が混じっているらしく、あまり長いことひとところにとどまっていると、血が濁るような気がする。だからこうして何年かに一度は、チャンスを見計らって自分を極限状態に置きたくなる。命の洗濯だ。旅を思い立ってから約2ヶ月、準備に集中できたかというと決してそうではない。これはまあ、書ききれないくらいのどんでん返しや厄落としがあって、実は心身ともにボロボロなのだが、おかげで気持ちは落ち着いて、感覚は研ぎ澄まされ、体力気力ともに充実し、何事をも寄せ付けない力が体内から発散されている。体調はすこぶる良い。私は旅にガイドブックを持たない。拠点から拠点へ、移動する手段ややるべきことを調べ倒した情報を、全て一冊のノートに書き込んでまとめる。大抵巻末は、その国や地方で使われている言葉の抜書きだ。真ん中の空白のページは旅日記で埋まる。当然、脱ネット状態、連泊する場所でなら、多分インターネットに接続できるから、ちょっとくらいは経過報告くらい書くかもしれないが、まあそんな時間もないだろう。特に中国では、自前のネットワーク環境を持参しない限りFacebookにも繋げないので、再登場はパキスタンに入ってから。中国では私の古いブログにアクセスできるか、試しては見るつもりだ。乗り継ぎの手間を省くために、手荷物は持ち込み制限の5kgに収めた。これひとつを背負って旅に出る。最後の厄落としか、外は土砂降りである。カッパを着込んで自転車乗って、そろそろ行くか・・・
2017年05月08日
20170508 Uyghur-Pamir
出発直前、取り急ぎ2週間は放置できる程度に手を入れておく。
圃場全体に下地のできたところは全て茅を敷いた。越冬作物が生育中の畝は、全て端にスタンバイした。
タマネギやニンニクは色よく成長中、メイクインはようやく発芽、
越冬ガルバンゾは生育が極端に遅く、やはり日本では無理なのかも。
ソラマメとエンドウは実がつきはじめ、小麦は出穂している。
育苗中の野菜は、特にウリ科の成長著しいので、出発当日に植え込みするかも。
畝間の除草、周囲の草刈も全て終えのたで、これで二週間くらい放置しても問題なかろ。
2017年05月06日
20170506 稲の種おろし
「神丹穂」に続いて「緑糯」・「紫黒苑」・「豊里」・「サリークイーン」と相次いで発根。
鳥よけの不織布を張って、ほどなく苗代完成。旅立ちの日も近く、野菜の苗の水やりもできないので、苗代にて底面潅水の策。帰ってきてどうなってるか・・・
2017年05月03日
20170503 神丹穂発根
さすが神丹穂はやくも発芽発根。
このように平畝を作っておいて水加減をする。
今回たねまきは、セルトレイを型押しにして、窪みに一粒ずつピンセットで撒種。
昨年より老眼がさらに進んで、眼鏡をかけていては手元があかん。
2017年05月01日
20170501 稲籾塩水選温湯消毒
間も無く旅に出るので、今年は苗代へ種まきをして二週間放置するのである。春夏野菜の種もポット撒きして苗代で底面潅水、一か八かの賭けですな。種籾の塩水選。
そして温熱消毒。60℃ 10分。風呂の湯をそれよりちょっと高いくらいにして、スチロール箱内に同じ湯を入れ、温度低下に注意しながら種もみを浸す。よく撹拌して熱が素早く全体に行き渡るよう、網袋をよく揉む。規定時間が経ったら素早く冷水にとって、これも揉みながら流水冷却する。
水に浸しておいて、1日の平均水温 x 日数≒ 100℃を目安に発根を促し、よく観察する。
その間に苗代を用意しておく。
綺麗に女装・・・失礼。除草して水を張り、代掻きをして慣行農法の一般的な田んぼの状態にしておく。