Fandangoに向けて、当日販売するカーリー・ショッケールのライブ音源を収録したCDRを、せっせと焼き増ししながらふと思ったことがある。私にとってこのバンドは、本当に掛け替えのない、人生の全てを引き換えに差し出しても畏れ多いほどあまりあるバンドだった。CDRに収録したうちの一曲をここに添付しよう。非常に長くて聞き苦しい音源だが、最後まで聞いてほしい。ちょっとだけ我慢して耳をすませてほしい。歌詞をよく聞いてほしい。これをアフリカ音楽を模倣した日本人の演奏だと思うだろうか・・・そんなことは絶対にあり得ないはずだ。確かに全体の形式はコンゴのルンバに則っているが、この混沌、暗黒、得体の知れなさ、のたうちまわり、悶え苦しみ、出口を求めて猛り狂うエネルギー・・・これはロックであり、パンクであり、我々が通過してきた闇のようなノイズ・ミュージックの結晶体であり、プログレッシヴ・ロック、これこそまさに宇宙である。カーリー・ショッケールは、アフリカ音楽を題材に自分たちの混沌とした宇宙を表現しようとしてきたバンドであった。弾け飛ぶ個性、それゆえになしえた破壊的なエネルギーの放出、しかしそれは非常に不安定で危うい。世の中には一芸に秀でた人がいて、そんな人は往々にして実生活が破綻しているものである。コンゴの本国においても、身の毛のよだつほど美しい曲を作る歌手が、廃人寸前の生活破綻者であることは珍しくない。カーリーにもそんなメンバーがかなりいて、現役時代であった20年以上前は皆まだ若かったから、ほうぼうに弾け飛ぶ個性も、丸ごと許容できる柔軟性があった。だからバンドは成立した。しかしメンバーのほとんどが還暦を迎えようかという今、その過激性ゆえに現実の肉体が滅びてしまった人もあり、その刹那性ゆえに現実の精神が滅びてしまった人もあって、もはや往年の身・技・体すべてに充実した演奏は望みうべくもないが、自分たちの若かった頃の姿の後塵を拝するほど老いぼれてもおらず、情熱を持続させてきたがゆえに身についた多くの経験が演奏の中に生かされて、カーリーという宇宙の別な局面を見せてくれた。そして演奏の底から湧き上がる混沌のドス黒い煙はまたもやスタジオに充満したのである。カーリーでなければなし得ない音世界、カーリーの他には誰にも表現できない宇宙である。老いぼれの大多数は、生きていくために現実に妥協して、さまざまに姿形を変えてはいるが、なかには往年のゴロツキっぷりを十全に残した奴もいて・・・しかし彼がいなかったら今回のライブは成立しなかったはずだし、こうして自分の立ち位置を振り返り、進むべき道を見直す機会もなかったであろう。音楽は、心地よい快楽の時間を与えるばかりが能ではない。生活と生命を賭けた、命がけのドロドロの、なりふりかまわぬ「もがき」だからである。