引き続きまして、「亦楽山荘 (えきらくさんそう) 」へ行ってみました。ここは武田尾駅から旧福知山線の廃線跡を生瀬へ向かって歩き、トンネル二つ越えたところから山に入ります。かつては、教えられなければわからないほど地味な場所でしたが、今では保存会もできて公園として整備されています。「亦楽山荘」は桜の隠れた名所で、特に山桜や奥手の品種が多く植えられてあり、周囲に自生する桜とともに、一体の斜面は桃源郷を思わせる風情になります。ここは日本の桜研究の草分け的存在である笹部新太郎が演習林として整備したもので、一時荒廃していたものを保存会が復活させたものです。笹部新太郎は、大阪造幣局・夙川公園・甲山・吉野山の桜を中心とした公園づくりに貢献した人物で、我々の心の糧といっても良い。で、その「亦楽山荘」、山桜は未だでしたが。モクレンは満開でした。
2018年03月28日
2018年03月26日
2018年03月25日
20180325 旧跡武田尾道場間西側
ジャガイモの植え付けなんて数分で終わっちまうので、貴重な残り時間、過ぎ行く冬の面影を追って散策に出た。新名神が開通して一週間、子供の頃からの私の庭であった野山を破壊して造成されたので複雑な思いはある。しかし世の中の流れは、おしとどめようもなくあらゆる物を潰して進んでいく。私にできることは、いっとき立ち止まってそれらを写真に収めることくらいか・・・「神戸セミナーハウス」の北数百メートルの位置に、名もない山の頂上から新名神を遠望できる場所がある。もちろんここはそんなものを遠望すべき場所だったのではなく、道場から生野にかけての山並みと谷筋、百丈岩などを眺める静かな絶景の場所であったのだが、もはやその風情はない。造成の始まった頃2013年、道路の敷設が始まった頃2016年、そして現在の様子を定点観測して見よう。また、道場町平田の集落の新名神高架下には、かつて小さな茅葺の民家があり、これは文化財的価値から同じ道場長内の旧街道筋に移築された。また、それに隣接して弥生時代の遺跡も発掘され、この一帯が古くから人の住むに適した場所であったこともうかがわれた。まあそんなことはどうでも良い。今日の主眼は、新名神を遠望した後、かねてより気になっていた国鉄福知山線の廃線跡地、といっても武田尾から生瀬にかけてのハイキング・コースではない。道場から武田尾にかけての、良い子は絶対に真似してはいけない禁断の区間である。道場側の入り口は工事現場、武田尾側の入り口は武庫川の激流に孤立している。従って到達するには水量の減った時に適当な場所を見極めて川を渡るしかない。「春に三日の晴れなし」というクセに、今年は晴れ続きである。打ち捨てられた本当の廃線跡を散策するには絶好の日和であった。蒸気機関車に石炭を補給したのであろうか、錆びた施設がそのまま放置されている。対岸の新線を電車が通過している。その上を新名神が飛んでいる。トンネルは当然真っ暗で足元も悪い。しかも水が落ちてくる。そのかわり枯れた荒廃の絵が姿を見せる。いつまでもここにとどまっていたい、非常に心の和む原風景である。
20180325 ジャガイモの植え付け
農作業シーズンのスタートは、ジャガイモの植え付けから始まる。当地方では3月の下旬が敵機だが、遅霜の心配があるので、例年4月に入ってから植え付けている。しかし私の畑はナス科との相性があまり良くなく、そんなに穫れるわけではない。今年は春の訪れが早く、しかも展開が急である。ジャガイモは、植え付け予定の二週間前には購入し、部屋の明るいところへ出しておく。とはいっても直射日光がスルドク当たったり温度が上がるところは良くない。すりガラスや障子越しの外光が柔らかく差し込むような窓辺が良い。暫く置くと発芽してくる。できれば左のような黒い芽が出るのが良い。白い芽が出るのは光が足りないからで、もう少し明るい場所を探すべきである。植え付け三日ほど前で、晴天が続くことが予想されるときに、芽の位置を確認しながら芋を縦に切って切り口を日光にさらして乾かす。三日も経てば、断面が黒ずんでコルクのようになる。これを植え付けるのである。植え方には色々の説がある。最も普通には、切り口を下にして、芽が上を向くように、深さ10cm程度に植え付ける。しかし考え方によっては切り口が上の方が良いとか、横向きが良いとか、切り方にも横に切るべしとか、いろいろある。例えば切り口を上に向け芽を下にするのは、どうせ茎が何本も出て芽かきをしなければならないのであれば、最初から発芽生長を抑制的に導いたほうが手間が省けるという考え方なのであるが、私の畑の土は結構痩せ気味であるので、これを実行して全滅したことがある。なにごとも試してみることである。で、株間は最低でも30cm、乾燥気味を好むので、水はけの悪いところでは高畝、弱酸性を好むので苦土石灰などでの中和は必要ない。芋は植え付けた親いもよりも高い位置にできる。従って、獣虫の害と緑化発毒を避けるには、開花後様子を見ながら土寄せしたほうが分がある。つまり一条植えを基本として、土寄せ用の土を確保するために広畝にして周囲を時々除草しておくと良い。また、発芽後日数が経って、葉が自立しはじめた頃に遅霜に当たると全滅することがある。発芽当初であれば、芋にまだ余力があるので、種族保存の本能から、さらに発芽してくることもある。「八十八夜の別れ霜」という言葉があって、遅霜の害はGW頃まで警戒が必要。さらに「九十九夜の泣き霜」という言葉もあって、芽かきの終わった後で霜にやられると全滅である。そのために不織布を畝横に用意して、いつでも被せられるように段取りしておくと良い。
2018年03月24日
20180424 私の須磨の風
今年は、冬仕事を早めに始めたので、味噌・醤油・キムチの漬け込みがほぼ終わり、桜の季節に余裕ができた。ちょっと早いが、大蔵海岸と須磨浦公園へ観光気分でちょい出。まずはJR朝霧駅で降りて海へ、再開発されて段丘上の住宅街からのアクセスは良くなったが、管理された海岸線はつまらん。再開発当初に不幸な事故が相次ぎ、さらに別の事情もあって砂浜も使えず、当初の目論見は全く外れて、いまや地元の人は近寄らない場所になってしまった。今日の目的の一つ目は、そこから東へ数百メートルにある古い二つの不思議な建物、西側の一つは、もうキューキョクテキにつんのめったエキゾティシズムの結晶体で、普段は開放されていないが、貸切パーティーなどでは運用されていた。しかし今日見てみると何やら改装中。工事が進行していたので外から伺うこともできず残念。しかし東側のもう一つはカフェとして通常営業、すっかり女子供の喜ぶ世界になってしまったが、古くからの調度も空気感もよく残っていて、時々ここへ来て気を抜くのが至福の時間。さてその後、山陽電鉄の西舞子駅まで、さながら神戸の湘南的風景を散策した後、電車に乗って須磨浦公園へ、桜には未だ早かったが梅には間に合い、山上から眺める瀬戸内の風景や淡路島の山並みを楽しみつつ、少し下ると、ああ、ここは大規模なコンサートとしての「須磨の風」最後の舞台となった場所・・・感慨を胸に、夕刻より行われたる瓜ちゃんの歌を聞きに急ぎ岡本へ、その場を中座して大急ぎバイトへ・・・これを充実した一日というべきか、楽しもうと思うたら現実こんなもんよというべきか、アクロバティックな一日であったことは間違いない。
2018年03月21日
20180321 Çaydanlık
20180321 Çaydanlık
3月も末というのに寒くて紅茶で体を温めながらパン用小麦のゴミ掃除をしております。やかんを二つ重ねているのは、トルコ風の紅茶を楽しむためです。茶の飲み方に関してはトルコ人は徹底していて、茶の最も重くて苦い風味をいかに持続的に熱く楽しむか、という事に素晴らしいこだわりを発揮しているように見えます。ポットだと、最もシャープな味の出るタイミングを見極めるのが難しいうえ、その瞬間はすぐに過ぎ去ってしまいますが、この方法だと、それが長く味わえるのです。正式には、二段式の専用のケトルがあって、「チャイダンルック」と呼ばれています。下の大きなやかんに水を入れて沸かし、同時に上の小さなやかんに多めの茶葉を入れて温めます。下のやかんの湯が沸いたら上のやかんに入れ、下のやかんに水を足してもとどおりに重ねてさらに温めます。約15分ほど蒸らしておいて、上のやかんの茶を茶器に注ぎます。このとき茶は非常に濃く出ているので、下のやかんの湯で好みに割って飲みます。実際には、トルコ人の美的感覚では、茶の色のことを「鶏の血の色」と表現し、かなりの苦み渋みを、多めの砂糖を溶かして飲みます。したがって、茶請けは甘いものではなく、ナッツや糖分のない焼き菓子などが好まれます。彼らと茶を共にしていると、あまりに濃厚な渋みと甘さのために、ちょっと頭が痛くなりますが、濃いめの茶を、常に熱く、決して濁らせることなく、長時間楽しんで温まるには、この方法が確かにベストです。他の地域でこれに値する特別な飲み方を見たことがないので、私は長い冬の楽しみとして、彼らの方法を見習っているのです。で、小麦の方は、風選や篩い分けで大体は選別できますが、これをそのまま粉にするので、少しでも砂や石などの異物が混じっていると食感が損なわれます。最終的には一粒ずつ手で選り分けて行かざるを得ず、結果、かなりの量の殼と石が除去されました。
2018年03月18日
20180318 蔵人からの助言
20180318 蔵人からの助言
杜氏のご助言の通り豆麹の手入れを豆がバラバラになるまでほぐしてさらに養生したところ、三日でキョーレツな状態になった。裏返しても板のように菌糸が蔓延って芳香を放っている。さらにこれをバラバラにして養生して五日麹にしようとしたのだが、気温の乱高下を読み切れず、品温を適正な状態に保てなかった。しかしバラバラにした方が麹菌の活性は促進されるようで、気温の高い昼はむしろ冷却が必要なほど自己発熱が盛んだった。バイトで長時間外出して夜に戻ると冷え込んでいて、水分がどっしりと重く、慌てて加熱したが表面が乾いてきて菌糸の成長が遮られた感じになった。霧吹きで水分を補給することも考えたが、かつて同じようにして異臭がしはじめたことがあったので、嫌な予感がしてここで出麹とした。三日目ほど万全な状態ではないが、なんとか対応して本日本仕込み。
2018年03月11日
20180311 醤油本仕込み
20180311 醤油本仕込み
醤油本仕込み。今回は鶴の子大豆と燕麦もを原料としてみた。冬の農閑期を杜氏として過ごされた武内女史のご参加を得て、麹の扱いについて教えを賜った。それによると、私は麹菌の成長が始まって菌糸が繁殖し、自己発熱が始まってから行う「手入れ」について、連鎖した菌糸をあまり切らないように、菌糸に覆われた表面から、それを内部に導くイメージで割り入れるように手入れをしていたのだが、もっと一粒一粒引き離してバラバラにするくらい徹底的に空気を入れるのが良いそうだ。燕麦と大豆の麹はすでに破生してしまったので、塩水で仕込む際にバラバラにして瓶詰めした。さて、前の投稿で出麹の体積を測る方法について説明を保留したのだが、今回は体積に近いボウルを使って、まずはそのボウルを満水にした時の容積を測っておき、それに出麹を詰めてどれだけ満たされるかを測ることにした。写真の二重バットは、こぼれ防止のためで特に意味はない。それによって例の計算式の定数を絵、演算の上、変数であった仕込み食塩水の水の量と塩の量を確定することができた。この日は同時に、翌週に本仕込みするための丹波黒大豆と自家製小麦の下処理をし、麹菌の種付けをした。24時間経過して自己発熱が始まった頃に様子を観察すると、非常に良い状態にカステラ化している。昼の気温が高かったためか、発酵は早く力強い。そこで「手入れ」の仕方について、各資料その他を当たってみると、確かに徹底的にバラして空気を送り込むのが良いという記述が複数確認できたので、今回はそれをやってみる。このぶんでは、もしかしたら来週の日曜日を待たずして出麹になるかもしれない。その場合、私の判断で本仕込みを前倒しして来週のワークショップを中止します。生き物が相手なのでやむを得ません。その場合、ご希望があれば、再仕込みか少量の漬け込みを日曜日にやりますので、参加を検討されていた方は水曜日中にご連絡ください。下処理がありますので、日曜日にやれるとすればそれが限界です。では、次回は3/25 (日) ジャガイモの植え付け10:00-15:00 神戸ノルデスチ道場付近参加無料。
https://www.facebook.com/ikuko.takeucci/posts/1667680920005854?pnref=story
2018年03月10日
20180310 醤油一番搾り
20180310 醤油一番搾り
醤油一番搾り「清醤」約2リットル。右の8リットル入りの瓶に詰まっていた醪を、自重で落ちた分だけ回収しつつ、残った醪を分離して左の5リットル入りの瓶に入れて、今度はこれを圧搾し、約1.5リットルの醤油を得た。これらは生貯蔵でいける。両者の色や香りや味を比べてみたが、違いは分からんかった。我ながら美味い。今年の醤油は大成功だ。ほかに袋の外で絞らざるを得なかった分は別途回収して「火入れ」する。並行して破生を待つ鶴の子大豆の麹も元気いっぱいなので、明日、予定通りこれの本仕込みやります。並行して、丹波黒大豆を使って豆麹の種付けをやります。この本仕込みは3/18 (日) になりますが、今回の絞りは全部落としてしまうので、3/18絞りはありません。また、醤油の仕込みはそれで終わりですので、種付けの実演もありません。その次、3/25 (日) からは、いよいよ農作業本番で、まずはジャガイモの植え付けをします。ご興味のある方、毎週日曜日は、何かしら作業を見ていただくように考えてますので、いつでもご連絡ください。10:00-15:00 神戸ノルデスチ道場付近参加無料。
2018年03月08日
2018年03月07日
20180307 米糀づくり最終その2
3/11 (日) 米糀仕込み追加開催
・・・とはいってみたものの、予報によると来週から気温がぐっと上がるみたいなんで、休まず続けて醤油の仕込みに入ります。来週もう一発やりますんで3/18 (日) のよていはそのまま、3/11 (日) 追加開催です。 10:00-15:00 神戸ノルデスチ道場付近参加無料。まずは、ざっと醤油の作り方について説明します。醤油と味噌は、基本的に原材料は同じ。異なるところは、味噌が仕込んだ豆を食するのに対して、醤油はその絞り汁を調味料として使う。味噌は蒸した米や麦に糀(麹)菌を撒いて培養してから大豆と合わせるのに対して、醤油は麦を媒体として麹菌を大豆に移して培養する。味噌は塩で仕込むのに対して、醤油は塩水で仕込んで後で絞る。醤油づくりで最も難儀な問題は、仕込む塩水の塩分濃度と分量の決定であるが、これについては後で述べる。大豆と麦の比率は、仕込む前の乾燥状態で同量である。
まず、麦を軽く煎ってから常温にもどし、粗く粉砕する。粉にする必要はないが、玄麦が手に入らない場合、小麦粉でも代用できる。大豆は冬場なら一昼夜水に浸けてから蒸す。米糀の場合のように水切りに神経を使う必要はない。蒸し加減は味噌より柔らかく、やっと潰れない程度とされ、条件にもよるが、丹波黒大豆の場合1時間、鶴の子大豆の場合2時間程度かかる。これを常温にまで戻し、煎って粉砕した麦に麹菌を撒いてから、蒸した大豆にまぶす。あとは米麹と同じように麹葢に入れて培養し、温度管理と手入れを重ねながら破生するのを待つ。麹が仕上がったら (これを「出麹」という) これを塩水で割って仕込む。仕込み水の考え方は、諸般の資料を総合すると、だいたい以下の通りである。
出麹を同量 (容積) の塩水で仕込む。
醪 (もろみ = 出麹を塩水で割ったもの) の塩分濃度は16% (重量比) 程度が良い。
どのくらいの濃度の塩水をどのくらい使えとは、どこにも書いてないのである。これは大工の初心者にかんなの使い方を教えるに、「こんなかんなくずが出るようになれば良い」と言ってるようなもので、全く非科学的この上ない。そこでこの命題を解くために、私は経験を重ねた上で次のような方程式を編み出した。なぜそのようなものが必要かというと、一つ目の命題で容積の話をしておいて、二つ目で重量の話に変わっているからである。両者の橋渡しが必要なのだ。まずは、次のように定数と変数を文字化しておく。私は決して数学が得意ではないことは、私の高校時代の連れなら誰もが知っていることである。しかし生きるために必要なのである。この考察が苦手な人は飛ばして読んでもらっても良いが、結論だけを流用すると、別の材料で試した時に失敗する確率が高い。苦手でもなんでも正面突破しなければならないことは、人生の上でままあるものだ。
定数
a・・・出麹の容積をaとする。これと同量の塩水で割るのだから、仕込む塩水の容積もaである。
b・・・出麹の重量をbとする。
変数
x・・・仕込む水の量 (水の比重は1なので重量=容積となる)
y・・・仕込む塩の重量
要するに、どのくらいの水 (x) に、どのくらいの塩 (y) を溶かしたものを用意するかがわかれば良いのである。
連立方程式
x + y/2 = a・・・実際のところ仕込む塩水はほぼ飽和食塩水である。常温において、飽和食塩水の容積は、もとの水に溶解した塩の重量値の半分程度の容積しか増えないという結果が、計測上得られている。たとえば1000ccの水に250gの塩を溶かした場合、その容積は概ね1125ccになることが計測上得られた数値である。この容量の塩水で同じ容量の麹を割ることを表した等式である。
y/(b + x + y) = 0.16・・・仕込む塩の重量を、出麹の重量と仕込む水の重量と仕込む塩の重量の和で割ったものが仕込み水の塩分濃度であるので、それが0.16に等しいことを表した等式である。
この連立方程式の設定には幾分の無理があるが、結果的にこの等式でほぼ正しい濃度が得られていることと、ほぼ美味しい醤油ができていることからよしとした。この連立方程式をxとyについて解くと、以下のようになる。
x = 0.91a - 0.09b
y = 0.18(a + b)
aとbは出麹の現物を計測すればわかるので定数となる。用意した原料の重さなどから算出できれば良いのだが、仕込む原料の大豆や麦の品種や状態によって吸水率が異なり、また蒸した時の蒸散率も大きくブレるので、仕込み水を入れる直前に計測する面倒が免れられないのである。数式は別に難しいものではない。たとえば出麹の容積aを計測したら4リットルで、その重さbが1.8kgであったとすると、
x = 0.91 x 4000 - 0.09 x 1800 = 3478
y = 0.18(4000 + 1800) = 1044
となって、3478ccの水に1044gの塩を溶かした塩水で仕込めば良いということになる。まあほぼ飽和食塩水なので、乱暴に水に三割程度の塩をぶち込んで混ぜ、溶けた上澄みのうち出麹と同じ容積を入れてかき回してしまえば、だいたい同じ結果にはなるんだが・・・ただしくれぐれも常温に戻してから混ぜることだけは忘れずに・・・それより問題は、如何にして出麹の容積を計測するか、なのだが、それは後日に譲るとしよう。
2018年03月04日
20180304 米糀づくり最終
20180304 米糀づくり最終
米糀づくりもこれで最終、気温が高くて品温がそれに影響されたのが幸いしたか、実に強烈な状態に仕上がった。多めに仕込んだので手持ちの鶴乃子大豆を使い切り、さらにソラマメ味噌を仕込む。ソラマメは殻が硬いので、一昼夜水に浸して1kgを4等分して、二段式蒸し器二台で蒸す。状態の残念なソラマメが中途半端に余ったので、これは塩だけを入れてディップに。オリーブ・オイルとレモン果汁で食べれば、もうサイコーッッッ !! しかし・・・硬いんだこれが・・・これにて今シーズン味噌すり終了。来週はちょっとゆっくり休ませてもらって、次回、三年もの騎乗位・・・失礼、生醤油絞りとその仕込みやります。3/18 (日) 10:00-15:00 神戸ノルデスチ道場付近参加無料。
2018年03月03日
20180303 メメント・モリ
「死」について想うことが多くなった。それを意識するようになったのは、9年前に亡くなった、関西が世界に誇る泥酔のアフリカ音楽伝道師「プロフェッサー・ピリピリ」こと奥田薫の死去に関わってからである。彼も自分の死期を悟って人生に悔いの残らないように精力的に活動したが、いよいよ緩和治療に入ってからは、メールや走り書きのメモで私に指示を出して身辺の整理に努めた。しかし病で死ぬということは、治療のために薬物が多く用いられるから正常な判断力が低下してしまい、最終的には彼の意向が全て汲み尽くされたわけではない。しかも、病状の進行は意外に早く、彼自身、自分の葬儀のことまでは気が回らなかった。彼は、生きている間は自分勝手に振舞い得たが、死んでから「仏」になってしまった。父の最期も似たようなものだった。私は父の血を受け継いだ正真正銘の息子であるので、父という人間のなんたるかを痛いほど良く思い知っている。父はその精神に深い闇を宿した、自分以外の何者をも信じられぬ孤独な男だった。だが、やはりいよいよ緩和治療かという間際になって、信心など心から憎んでいたはずの父が、全く周囲の都合だけで形式的にとある宗教に入信させられた。葬儀は家族葬でやると聞いていたが行ってみると実家は宗教関係者で埋め尽くされ、そこには本人のアイデンティティとは全く相容れぬ姿で盛装した父の姿があった。しかも、その前で「長男」として「参列者」に挨拶をしなければならなかったあの屈辱を、私は一生忘れない。父の不遇の人生の総決算が、あのような形で蹂躙されることを、私は絶対に受け入れない。葬式・・・これほど嫌なものはない。特に自分の友、しかも考えを共にして世の中に反発し、抵抗して自己を主張し続けた誇り高き友人の葬儀の場が、どこやらのなんちゃらメモリアルホールのきらびやかだが一見してハリボテとわかる祭壇の前に設えられた脱色して白木に見せかけた棺の中に盛装した姿で納まっている前で全くやる気のない若者の僧侶がバイトがてらに時々スマホをいじりながらお仕着せの経を読んでそそくさと立ち去ったりカラスのような黒い喪服に身を固めたご親戚連中とやらから矢のような冷たい視線を浴びせかけられながら焼香の列に並ばされる自分を省みて悲しくなるどころかその場にあろうことか同じバンドのメンバーが同じようなカラスの形をして現れたりするのを見て自分の形を恥ずかしく思わされたりすることの全体の成り行きを肯定しなければならないような場であることほど辛いものはない。彼の葬儀は、彼が創造の拠点としていたボロアパートの一室で、入れ替わり立ち替わり訪れる心の友たちとその功績を共有する場でこそあらなければならなかったはずだ。しかし、周囲は、特に親族がそれを許さない。なんとしても彼の亡骸を、そのどこやらのなんちゃらメモリアルホールのきらびやかだが一見してハリボテとわかる祭壇の前に設えられた脱色して白木に見せかけた棺の中に盛装した姿で押し込まなければ気が済まないのである。そしてその前で全くやる気のない若者の僧侶でいいからそいつがバイトがてらに時々スマホをいじりながらでいいからそいつがお仕着せの経を読んでそそくさと立ち去ったりしてもいいからとにかくそこへ祭り上げなけれけば、そして俺のような何処の馬の骨ともわからん輩が入って来たらみんなでカラスのような黒い喪服に身を固めて矢のような冷たい視線を浴びせかけて退散させなければ親族の気がすまない。したがってそれは社会のコンセンサスになる。だから三年前に十数人の友人たちが世の中に嫌気がさして相次いであの世へ旅立って行った時、実はいちいち香典を出していたらこっちからあの世へ飛び込まざるを得なくなりそうだったので、それ以来もう友人の葬式には出席すまいと心に決めた。とにかく、自分の死に方は自分で決める。そのときに全ての手はずは終えておく。葬式も墓もいらない。私は無に帰っていく。要するに、人しれずこの世から消えることだけが私の望みであり、私はそれを実行する。
20180303 力尽きて死ぬ
20180303 力尽きて死ぬ
先日のこと、バイトから帰ってみると封書が届いていた。大学時代の一年上の先輩で、私と同じ文学部哲学科、美術部に属していた女性からである。この人のことをうまく説明できないのだが、今までの私の人生で最高のインパクトを受けたことだけは間違いない。哲学科に学ぶような人は、処世術よりも真実の探求に惹かれるものである。仮に真実が不都合なものであっても、自分の利害を顧みずにそれを追求してしまう。その結果、往往にして見えるものはこの世の地獄ということになり、それについて語ることは、本人の存在をすら危うくしかねない。見てしまった奈落の底に真実が隠されている。突きつけられるのは、温かな希望の光ではなく、ドライアイスのように凍りつき、皮膚を貫いて内臓をえぐる冷徹な刃である。しかし人間は生きなければならぬ。何をして生きるかという探求は、生きるために何をするかという根元的な矛盾を越えなければならない。まだ世間というものをよく知らぬ若い頃、その生存の悩みにおいて、地獄の辛酸を嘗め尽くした者の穏やかな笑みと軽さが、彼女にはあった。その次元で互いに共感できるような人物には、その後二度と出会わなかった。二人とも大学を卒業後、社会に出るには出たが、ともに三年ほど石に捩りついた挙句、歯も爪も折れ尽くして開き直らざるを得なくなった。私は卑怯にも世間と部分的に馴れ合うことによって糊口をしのぎつつ音楽の道を目指した。彼女はガラス工芸一本勝負で正面突破を図った。世間から見て、斜に構えているといえばそうともいえるが、自分にとって素直といえば全く素直であった。互いの心の有り様の具体的な事柄に関しては全く知らなかったし、それについて話すようなこともなかったのだが、世俗と実用を超越した次元で、認識についての観照は、見事なまでに一致した。認識の透徹・・・その実感だけが全てであり、真実だった。しかし、こんなことを書いても、他の人には全くなんのことかわからないだろう。私も、これをどうすれば説明できるのか、全くわからないのだ。直観的真実としか、いいようがない。
封筒の外観はなんの変哲もなかったのだが、封は現金書留のように複雑に貼ってあった。大学時代から抽象的な立体やインスタレイションの制作をよくし、ガラス工芸作家となってからも、個展の折には凝ったDMをくれたものなので、そこに彼女特有のアイロニーを感じ取ったのだが、俗世間に疲弊し尽くした帰宅直後の私は開封に手間取った挙句、短気にもその封を破って開けたのだった。「お知らせとお詫び」と題された一枚の便箋には、だいたい次のような内容の文面があった。
このたび私の死去により工房を終わらせることになった、このような形でお知らせするのは、日常生活を変えることなく静かに人生の幕引きを迎えたかったからであり、一切の弔事はご遠慮願いたい、もし手許に私の作品が残っているようなら、時々使って思い出してくれれば幸いである、楽しい時間を与えてくれた友たちに感謝しつつ、ここに最期のご挨拶とさせていただきます、さようなら。
彼女は、なんらかの形で自分の死期を悟ったのであり、生前にこの文章を準備し、自宅や工房、おそらくは作品の全てを処分して無に帰し、つまり現実とのかかわり、生きた痕跡を全て消した上で、信頼できる友人に一切の手筈を託してこの世を去ったのである。そこには、他者をして自分の死に対する一切の感情移入の余地を残さず、自分の人生を自分で完結させ、残すべきものも、連続すべきものも何もない、つまり「空」にたどり着いたことを示しているのかもしれない。「空」とは、あらゆるものには実体がないという仏教の考え方であるが、「そら」と読めば彼女の工房の名でもある。思えば、まだ若かった頃、早熟なことに、生意気なことに、共感的に悟ったのは、この「空」という概念であり、彼女は死をもってその総仕上げをしたのかもしれない。
さまざまな想いが私の中で交錯し、極めて大きなショックを受けた。手紙を持ったまま、何時間も動けなかった。彼女は死んだのだ。どうあがいてみたところで、どうしようもない。いくら憶測を荒れ狂わせたところで、なんの意味もない。当時の友人たちと集まって慰め合うこともできない。彼女が、自分の死を、自分で片付けたのと同じように、私は、この悲しみを、自分で片付ける以外にない。慰めなどなんの足しにもならない。自分で対象と向き合い、正面突破するしかないのだ。彼女も私も、そうやって生きてきたのだし、彼女は、避けることのできない自分の死を、正面から受け入れることによって、自分の生を全うしたのである。私は、人がいつ死ぬか、どのように死ぬか、なぜ死ぬかなど、結局のところどうでも良いことだと思う。人は、死ぬべき時が来たら死ぬ。ただ願わくば、自分が死ぬ時を自分で掴み取って、自分で死にたいと思うだけである。そういう意味で、私は彼女の死に方は、実に立派だと思う。
2018年03月02日
20180302 茅が巡る
20180302 茅が巡る
茅葺の手伝いで新しい現場に来ています。神戸市というところは、市の経営に熱心なことで有名でもありますが、都市近郊からさらに郊外、農村へと広がる豊かな世界を持っいて、その複雑な環境の保全のために、なかなか良い仕事をしています。茅葺き屋根の保存もそのひとつで、市内の茅葺き屋根の保存に対する助成だけでなく、調査研究から持続的な環境づくりまで熱心に取り組んでおられるのを見て、いやまったく珍しく、ギョーセーがそこまでやるのかと驚きもし、頼もしくもあり、縁あって神戸市民のはしくれとなりこのような仕事の手伝いをさせていただいていることに、感謝と驚きの日々を過ごしております。で・・・今回の現場は私の借りている家から自転車で10分の至近距離にあって、なんと私の家主様の遠縁にあたり、同じOという名字を持つ。その屋根の葺き替えをするのに、できるだけ地元の材料の活用をという神戸市の意向もあって、隣町の旧家で以前は茅葺であった屋根を缶詰にしたために、長年刈り貯めてあった地元の茅の不要になったものが大量にあるというので、それを取りに行った。その家の表札を見てびっくりした。うちのバンドのベーシストと同じTという名字なのだ。両家とも分家であるので直接付き合いはないが、おそらくは本家は同じであろうという。この一帯には同じ名字がかなりある。で、そこのご主人が言うには、実はそのご主人はもともと私の住んでいる近くのH氏という家の出で、H氏からT氏に「捨て子」されて来たのだと言う。昔は、百姓が家を絶やさないために、縁のある家同士が三軒で協定を結んで「捨て子」のやり取りをする風習があった。そのH氏は、実は私の家主様の隣家のH氏と遠縁にあたり、やはりお互いに付き合いはないものの、元は同じ本家から出た分家であり、しかも隣家と家主の家は「捨て子」の関係にあったというのである。つまり、OとHとT氏それぞれ偶然にも遠縁ではありながら「捨て子」の関係としてつながっており、もともとなんの関係もない私がその一方の当事者との遠縁と友人関係、もう一方の当事者との遠縁と家主店子の関係、しかも、お互いの当事者は全く付き合いがないのに、T氏の屋根裏に蓄積されてあった茅をO氏の屋根の葺き替えに使う。しかもそれを、その三軒の家とは無関係とはいえ、その三件の遠縁とは知り合いである私が運んでいるという、なんとも言いようのない縁に繋がれた自分・・・これも神戸。
2018年03月01日
20180301 キムチ薬念醤づくり
20180301 キムチ薬念醤づくり
来年用キムチ薬念醤づくり。今年はアミエビのええのんが手に入らなかったので、やむなく釜揚げでいく。大体写真のような材料を使う。レシピはあってないようなもので、至ってテキトー。基本的な考え方は、糯米の粥を作って、そこに旨味材料を練りこんでゆき、最終的には粉唐辛子で耳たぶくらいの硬さまで練り上げていく。アミエビ の塩辛をたくさん入れるのが良く、なければ釜揚げや乾物でも代用できる。旨味の土台はイワシの塩漬けで、生のカタクチイワシを塩漬けするのが良いが、まず手に入らないので、乾物をギリギリの水で戻し、戻ったイワシと同じ重さの塩で一ヶ月漬けたもので代用する。写真ではタッパーに入っているものがそれで、私の場合は、ほかにニンニクとショウガ、タラのすき身と帆立貝柱の乾物、まつの実と実山椒、韓国原産の「コチュ」の粗挽きと粉唐辛子を基本に、畑で採れた様々な唐辛子、たくさんのアミエビを使う。2kgの白菜を漬けるのに約600g、調整用や冬の大根、夏のキュウリなどのほか、調味料にも使いたいので、だいたい1kgの薬念醤を2パック作るイメージで考えた場合、糯米5勺 (1合の半分) に1合5勺の水で炊いた硬めの粥がベースになる。材料をミキサーで粉砕していくのだが、まずは固形のタラのすき身と帆立貝柱の乾物を粉砕する。次にイワシを擂り身にする。餠粥もミキサーにかけてドロドロにし、そこへ風味材料その他、粉唐辛子以外を全て混ぜ込んで練ってゆく。全体が滑らかになったら、そこへ粉唐辛子を入れて、耳たぶくらいの固さになるまで練り上げてゆく。途中で味をみるのだが、辛さの感覚許容範囲を超えているので、あまり役に立たない。しかし、咳き込むほど辛くなければ、多分本漬けでやられると思う。ビニル袋に、なるべく空気を遮断して詰め、一年間冷蔵して、翌年の本漬けに使う。