2018年12月31日
2018年12月30日
2018年12月29日
20181229 キムチ作りのご案内
田畑での農作業が終わりましたので、食品の保存と加工に生活の重点が移ります。年が明けても私は1/17までは喪に服することにしておりますので、1/19 (土)以降の近い日にちでキムチ作りをやりたいと思います。鶴橋の神戸商会というところで長年ご指導をいただいた本格的な朝鮮半島のやり方でキムチ作りをします。ご覧になりたい方はメッセージをどうぞ。見学のみであれば無料です。ご自分でもその場でなさりたい方は、以下に大体の手順を説明しますので、ご自身で調達されるか、ご相談いただければ個別にご案内いたします。実費をいただくことがあります。台所が狭いので、5名程度先着順とさせていただきます。日程はメッセージをいただいた順に個別のご相談とさせていただきます。また、交通費程度いただければ出張もいたしますのでご連絡ください。
白菜のキムチ漬けを例にとってご説明申し上げます。白菜キムチは、数日塩漬けした白菜を塩抜きして、予め用意しておいた「薬念醤」というペーストで漬け込みます。
「薬念醤」は一年寝かしたものを使います。従って、当日仕込んだ薬念醤を使うのは翌年になります。当日は一年前に仕込んだ薬念醤で白菜を漬けます。薬念醤をお持ちでない方で、漬ける作業を当日やりたい人のために、神戸商会の薬念醤をご案内します。
当日は、薬念醤を作る作業、白菜の塩漬け、塩漬け白菜の塩抜き、薬念醤を使った白菜の本漬け、という段取りになります。もちろん、これらの作業は、実際には1日でできませんので、それぞれ個別に用意したものを使ってご説明申し上げますので、早めに参加表明をお願いします。
薬念醤を作るために必要なものは、大体次の通りです。イワシの塩漬け・韓国乾燥唐辛子の粗挽きと粉末・糯米・塩・アミエビの塩辛・ニンニク・ショウガ・松の実・その他旨味材料・・・
今からご用意いただきたいものを先に説明します。イワシの塩漬けは、カタクチイワシの生が手に入れば最も良いのですが、非常に困難なので、イワシの丸干しを、ちょうど被る程度の水に浸して数日戻し、その重さと同じ重さの塩で一ヶ月程度漬け込みます。これを当日使いますので、最初からやりたい人は、今からこれをご用意ください。あるいは、今は小ぶりなマイワシが出回る季節ですので、これを同量の塩で漬けておいても構いません。ただ、この場合、若干水っぽくなります。やはりカタクチイワシが最良です。
そのほかは当日までにご用意いただければ結構です。アミエビの塩辛も高価なので、私は乾物で間に合わせています。これで十分だと思います。
だいたい10時から15時までを予定しております。昼食は持ち寄っていただけると助かります。個別にご案内申し上げますが、自力でお越しいただけると助かります。3名様までならJR道場駅・神鉄道場南口駅まで送迎可能です。
写真は1枚目から、生のマイワシの塩漬けの様子・乾物のイワシの丸干しの浸水・昨年用意した材料・イワシの塩漬けをミキサーにかける様子・材料を混ぜ合わせる様子・粉末唐辛子で練り上げる様子・計量と袋詰め・・・です。
2018年12月24日
20181224 Karly mini set
Karly Chockers at Corner Stone Bar ものすごく良いライブでした。この場をお借りして、メンバーを代表して、心から感謝の気持ちを伝えたい。ピリピリも降りて来てました。当日の朝、私のアンプが昇天しました。他の複数の出演者の機材もトラブルを起こしていたそうです。また我々の演奏の本番中に何度もギター・アンプの電源が入らなくなりました。ピリピリが舞い降りて泥酔していた証拠です。彼は電気系統にいたずらするのが大好きなのです。彼の10回目の命日に演奏するチャンスを与えてくださった皆様、特に、今回フル・セットでの演奏ではなく、諸般の事情を鑑みてミニマム・セットでやってみてはどうかと提案してくれたHiro Equalizer氏、この困難を乗り越えて、柔軟に受け入れてくれたメンバーに、心からの敬意を表します。そしてその場を本当に心から楽しんでくれていた皆様、10年経つのに彼を忘れるどころか、10年経ったからこそできたとさえ思えるような様々な演奏や、観客としてその場にいてくださった皆様の反応、特にただの酔っ払いの鼻歌でしかない彼の歌を、そのヨレまくった節回しまで覚えていて一緒に歌える皆様に驚きました。こうした全てがピリピリのなせる業、来年以降も彼の命日に、みんなが集えるようになりたいと思います。そしてできれば、みなさんがみなさんなりにアレンジした彼の歌を持ち寄って、一つのアルバムができれば面白いかとも思いました。当日は色々あってその場で飲むことができず、先ほどまで溜まった仕事を片付けておりましたので、ようやく祝杯をあげたところです。カーリーの今年のライブはこれで終わりです。来年のことはまだ未定ですが、いくつかの打診がありますので、次はフル・セットでの演奏を楽しんでいただけると思います。みなさまほんとうにありがとうございました。
2018年12月22日
20181222 これで復活ピリピリナイト !!
12/22 Saturday❣️
関西、日本でリンガラと言えばPILI PILIさん❣️
十回忌だそうで、そのパーティーがCorner Stone Barで開催されるんですが、光栄な事にそこにDJとしてお招き頂きました😊🎉💖
ありがとうございます🔥
PILI PILIさんが率いてた伝説のリンガラバンド "CURLY CHOCKERS (カーリー・ショッケール)" も最近再結成され、この日もスペシャルライブを繰り広げてくれます👍🎉🔥
つながらーとのアサヒトくんのマリンバライブや、Aloha FamiliaのAkkoさん、お馴染み大先輩のHAVさんにNAMBA MANさん、そして今回オーガナイズされているHiro Equalizerさんと言う分厚い出演者陣です❣️
ほんでまたCorner Stone Barのお酒が美味しいんですわ👍❣️
私も十回忌、忘年会、クリスマス、年末、平成最後、アフリカンパーティー、バンザイ、大好き、全部ひっくるめて兼ねて兼ねてで禁酒解禁🎊しよかと思てますんで、是非ぜひ遊びに来て下さいです❣️🎉🎉😆
#Lingala #Lingalamusic #africanmusic #congo #afro #afrobeat #afrobeats #african #africandance #dance #dancer #dj #band #pilipili #osaka #japan
ちゅーわけで音づくりとリハやっとこか、とアンプに電源入れたら飛んだ。やるやんけおっさん、丸腰で来いちゅう意味やな、ほな丸腰で行ったるさかい早よ降りて来んかい何が起こっても知らんぞ !! (クソまたカネが出て行く;_;)
ピリピリの10回目の命日に彼の曲を演奏できることは、このうえない光栄である。バンド名であるKarly Chockers (1987-95)「カーリー・ショッケール」とは、男性の陰茎のカリ首でショックを与える奴らという意味の捏造語である。我々の演奏した音楽の題材は、アフリカ中部の、旧ザイール共和国(現コンゴ民主共和国)の「リンガラ・ポップス」と呼ばれるアフリカのダンス・ミュージックから採られている。日本の巷にあふれるワールド・ミュージック系の物まねグループと根本的に違ったところは、その「リンガラ・ポップス」をやりたくてやっていたのではなく、「リンガラ・ポップス」がかっこいいと思ったから、そんな音楽を自分たちの手で作って演奏したいと思ってやっていたという点である。
この一点は、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。我々は自分たちのライブ本番で、「リンガラ・ポップス」の曲を演奏したことは一度もない。もっともパパ・ウェンバが来日したときに、彼を歓迎する意味合いで彼の持ち歌を演奏したことはある。しかしそれとて、パパ・ウェンバを歌手に迎えて彼が歌ったのであり、我々がリンガラ語を勉強して自分たちで歌うことなど、思いもよらぬことだった。なぜなら、それは我々の言葉ではないからである。
この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。我々が活動していた同じ時期、千葉県市川市を拠点とした「ヨカ・ショック」というバンドが存在した。それは、当時の日本でたったふたつしかなかったこのスタイルのバンドのもうひとつだった。彼らのほとんどはリンガラ語を習得しており、オリジナル曲もリンガラ語で作られている。なぜなら、「リンガラ・ポップス」はリンガラ語で歌うものであり、そうでなければ、音楽のリズムや抑揚その他、その音楽の根幹部分が変質してしまうと考えているからである。それはそれとして正しい。我々は彼らにその点で大きな敬意を表していたし、実際、両者の関係は非常に良かった。しかし我々の観点とは根本的に異なっていたのも事実だ。すなわち彼らは、自分たちが「リンガラ・ポップス」に依って立つことを良しとしたが、我々は、「リンガラ・ポップス」をあくまで自分たちの素材としてしか見ていなかった。つまり、わかりやすく言えば、彼らは本物の「リンガラ・ポップス」を演奏しようとしたのであり、我々は自分たちの音楽を「リンガラ・ポップス」の形を借りて演奏しようとしたのである。これは、全く似て非なるものである。
この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。既存の音楽形式と自分自身との関係を明確化しておくこと、それはどんな音楽を演奏する場合にあってもきわめて厳粛に受け取られなければならない。これをうやむやにしたままで音楽活動を続けた場合、必然的に既存の音楽形式と自分との間の矛盾を吸収しきれなくなって崩壊するか、低俗な物まねで終わる危険がある。何故矛盾を来たすのかというと、既存の音楽形式を極めれば極めるほど、自分の音楽的ルーツとの決定的な断絶を思い知らされるからである。問題は、その矛盾をどのようにして乗り越えるかであるが、彼岸に乗り切ってしまうか、此岸に留まって自己を見つめ直すかという二者択一でしかない。前者の生き残る道は、神業的な技術を習得して観客を圧倒するのみ。しかしそれでさえ、単なる自己満足か、よくてせいぜい業界やファンたちの連帯満足でしかないのが実際である。音楽留学などとやらを果たして、すっかり向こうの人になった気でいる愚か者はごまんといるが、我々はそんなことで満足するようなオナニストではなかった。音楽は、特定の技術者集団のメシの種ではないし、どんな音楽でも自分の表現として生かす事が出来なければ、何の意味もないと考えていたからである。音楽は、どんな人にも楽しめる開かれたものでなければならない。人を圧倒するものではない。わかりやすく、自分の言葉で、自分自身を表現したものでしか成し得ない筈である。我々はその一点を信じて、というか、特に疑いを容れず、ありていにいえば他の言葉を覚えたり演奏技術を向上させたりなどという、健気な性根と忍耐を持ち合わせていなかったため、極めてガキんちょロック・バンド的に、自分たちの解釈で演奏を押し通したのである。
この一点も、ややもすると見過ごされてしまいがちであるが、非常に重要なことである。音楽の楽しみは、誰にでも解放されている筈である。しかし、楽器の操作や歌唱には、自ずから習熟するための技術が要求される。才能も技術も金もないただの音楽バカが採りうるただ一つの道は、集まってひたすら練習する事である。音楽への情熱と衝動・・・それは、自分たちにない物への強いあこがれである。なければないほど手に入れたくなるし、手に入れようとすればするほど、それは遠ざかってゆく。我々は偶然にも、同じ時期に同じ場所に居て、同じ音楽、すなわち「リンガラ・ポップス」に触れて、その強烈な魅力に度肝ときんたまを持って行かれた。そこには、一応バンドひとそろい出来るだけのメンツがあった。これは全く持って幸運な事だった。「よし、やろか」これしかなかったのである。それ以後、ひたすらレコードを聴き、押し入れで練習し、川原で音あわせし、スタジオで実験して試行錯誤する日々が続いた。お手本も教科書も参考書もない。あるのはただ、あるべき姿のイメージと、自分たちの現実だけだった。そのあるべき姿のイメージですら、往々にしてすり切れて行く。ひたすら繰り返すコード展開とフレーズ、それにランダムに付けて行くバリエーション、鼻歌をこね混ぜて歌にして往く作業、切りのない言葉遊び・・・繰り返し繰り返し演奏し、実験を重ねて行く気が遠くなるような作業だった。ひと続きの演奏が曲としてまとまる頃には、その演奏のひとつひとつの音が、まるで自分の肉体のパーツのように明確に意識された。曲は「カーリー・ショッケール」という、ひとつの生き物となって生命を吹き込まれ、我々が演奏する事によって、意志を持っているかのように動き出す。その喜びは何物にも代え難かった。そのような、ひとつの有機体としての音楽がひとつのステージを築き上げ、観客がそれを楽しむ・・・ミュージシャンとして、これほどの悦楽が他にあるだろうか。それこそが本物の音楽だと思う。我々は、専門の音楽教育を受けた訳でもなく、特定の師匠についた訳でもない。ただ、自分たちのやり方で、自分たちの納得がいくように、誰の指図も受けずにやって来たのである。そうして最盛期には、関西ではかなり知られたバンドになっていた。しかし、生き物には寿命があって、形式に頼らずに良い状態を維持する事はなかなか難しい。各自が音楽的研鑽を積めば積むほど、自己の美学を独自に打ち立てて行くから、当然グループとしてのまとまりが弱まる方向に働く。成長する個性と、それを纏める努力のせめぎ合いの中で、阪神淡路大震災という巨大災害が、物理的にバンド運営を不可能にしてしまった。
アルバムを聴いていただければわかるように、曲はほとんど日本語で歌われている。それはまず、外国語では自分たちが物事をストレートに表現できないからであり、客の大多数は日本人だからである。しかし、リンガラ語の持つ特性が曲をよりよくする部分、すなわち「リンガラ・ポップス」の独特のノリを取り入れることができる部分には、簡単なリンガラ語も使われている。例えば、ダンス・パートに於けるアニマシオンと呼ばれるかけ声などである。演奏されている曲は全てオリジナルで、作曲者が大雑把な曲の構成と歌詞を作ってきたあと、バンド全体で、そのテーマについて自由なインプロヴィゼーションを何度も繰り返していった。その際に、気に入った曲で使われているニュアンスや学びとったアイディアを演奏の中で表現してゆき、ライブで実験的に演奏されながら細かいアレンジやダンスが決められていった。「カーリー・ショッケール」は、誰ひとりとして楽譜の読み書きができないので、インプロヴィゼーションという遊びの中で、自然に曲が完成されていったというのが特長である。これは、もちろん自分たちが楽しみでやっていたのだが、それが結果的に客を楽しませることになり、音を楽しむという、音楽の本来の姿を自然に実現することになったと思う。「リンガラ・ポップス」に影響を受けながら、あくまでも自分たちの作品づくりにこだわったこの姿勢は、「カーリー・ショッケール」の音楽を、日本製の「リンガラ・ポップス」ではなく、カーリー・ミュージックとしか言いようのない、摩訶不思議な混血音楽として性格づけていくことになった。こういうバンドのあり方や遊び心を、そしてこのバンドが何をやろうとしていたのかを、ここから感じ取っていただければ幸いです。「カーリー・ショッケール」は、私にとっては一生のうちに二度とあり得ない、かけがえのない経験をさせてくれたバンドだった。音楽の本質の、一面を見たように思った。これによって、私は音楽について、また演奏について、しっかりとした経験と考えを持つに至ったからである。
2018年12月20日
2018年12月19日
2018年12月17日
20181217 カリーナちゃんのワイパー
私の愛車、1986年型の60系カリーナ。32年走り続け累積走行距離65万キロ超、満身創痍でなおも実走燃費はハイブリッドなど「いまごろなにゆーとんぢゃ」驚異の25km/ℓ !! しかし現在最も深刻な障害はワイパー。これが壊れると他は大丈夫でも車検が通らぬ。しかもこれを修理するには構造的な欠点で、フロント全部バラしての大手術となるため、カリーナちゃん初のDIY修理を検討中。しかも部品の入手も絶望的。写真は左ワイパーの付け根部分。真ん中のシャフトが回転してワイパーが動くのだが、このシャフトを支えている台座が摩耗して破断。ワイパーがグラグラして全壊するとその時点で愛車を私の手で葬らねばならなくなる事態。これをなんとか直したい。良いアイディアお持ちの方おられませんか ??
2018年12月15日
2018年12月02日
20181202 緑糯
「緑糯」・・・天気予報では木曜日まで雨続きですが、来週の晴れ間を見計らって脱穀したいと思います。量が少ないので短時間で脱穀・籾摺りの工程をご覧いただけます。ご覧になりたい方は直接メッセージをくだされば、個別にご案内いたします。ただし仕事などの都合で、必ずしもご希望に添えない場合がございます。これにて今シーズンの農作業終了、以後は食品の保存と加工をイベント化してご案内申し上げますので、ご興味のある方はどうぞ。干し芋・味噌・醤油・米糀・麦麹・キムチ・ジャム・乾物各種などなどです。JR道場駅ほぼ送迎可能。だいたい5人くらいまで、見学のみ無料、原料持ち込みOK、こちらで調達する場合実費割勘明朗会計。たぶん10-15時目安。ランチ持ち寄りでお願いします。