2019年02月28日

20190228 三角錐は三次元だから3で割る

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この記事のこと覚えてますか ?? 頭脳明晰な小学生の家庭教師を頼まれて、あるとき「三角形の面積は底辺と高さの積を2で割るが、では三角錐の体積は底面と高さの積を3で割るのはなぜか」という雑談になったときに、こやつが「三角形は二次元やから2で割る、三角錐は三次元やから3で割る」と抜かしやがったのを数学的に証明しようとして私の方が逆にやり込められた話。

 図解から、一つの三角柱は底面積と高さの積を同じくする三つの三角錐に分割できるが、その三つの体積が等しいことが証明できれば、「三角錐の体積は底面と高さの積を3で割る」ことが証明できるというもの。で、推論は「底面と高さの積の等しい二つの三角錐の体積は等しい」ことが証明できれば全体が証明できるところまできて止まってしまっていた。

 解決しました。つまり、三角形は底辺から垂直に伸びる無数の直線の集合体が面を形成していると考えられることから、三角錐も底面から垂直に立つ無数の三角形の集合体と考えることができる。ならば、面積の同じ三角形を底辺に持つ三角錐は、その三角形を構成する無数の垂直線を底辺とする無数の三角形の集合体であるから、その体積は等しいことになる。極めて文系的な数学へのアプローチであって、理系の人ならさっさと積分法を持ち出して5分で片付けるところであろうが、いやずっと耳たぶの下あたりに引っかかってて気持ち悪かったのがやっと取れた。

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20190228 EXPO '70

私は1960年生まれなので、1964年の東京オリンピックの頃は物心がつかず、ただ毎日見ていた白黒テレビから流れるファンファーレと競技の実況の音声と、浮かれる世間の人々やその空気を覚えているに過ぎない。しかし1970年の大阪万博の時は小学校4年生、当時の文部省が、万博へ行くために学校を休んでも出席とみなすと発表したおかげで、何度か学校をサボって、親に無断で千里万博公園まで見にいった覚えがある。たしか、阪急電車も万博へ行くといえばタダ、入場料や各パビリオンの入館料をどうしたのか、今となっては全く記憶にないが、おそらく大人に混じって潜り込んだものに違いない。当時の私の家庭は壮絶な家庭内暴力、家の周囲は団地で、同学年の子供といえばその団地の子しかおらず、必然的に村八分状態、さらに学校では生意気で理屈っぽい性格が災いして教師から殴る蹴るの暴行を受け続け、周囲は敵ばかり、自分の心身とアイデンティティを守るためにコミュニティから脱出せざるを得ず、家出を繰り返しては匿ってくれた被差別部落のあばら家に入り浸るという少年時代を過ごしていた。外へ出たいという願望が吹き上がる頃、万博がやってきた。「世界は一つ」「世界の国からこんにちは」・・・1970年の日本は、まだまだ木と土の世界、夜は暗く、木造民家の土壁や柱の根から饐えた匂いがプンプンしていた。そこにあらわれた、あまりにもきらびやかに光り輝くクリスタルな世界・・・夢としか言いようのない・・・ああ、もうやめとこう。私はそれを知っている。知っているからこそ、2020年のオリンピックは混乱の続くイスタンブールで開催してもらいたかったし、2025年の万博はアゼルバイジャンのバクーで開催してもらいたかった。それがどれほど彼らを勇気付けるか知れなかったし、2025年には私は65歳となってバイト先を定年退職する。それを記念して中国からカザフスタン・タジキスタン・キルギス・アフガニスタンを経て、イラン・アゼルバイジャン・トルコへと、人生最後の放浪に出るのも悪くないとさえ計画していたくらいだ。しかし、ともに開催国は日本と決まった。しかも、ともに前回と同じく東京・大阪の組み合わせ、しかも5年ほど間隔が空いている。1960年代に戦後の好景気に拍車をかけた二つのイベントの再来を、日本政府が夢見たことは想像に難くない。そんな金があれば、もっと他に使い道があるだろうという意見も理解する。東京のことはわからんが、大阪については、むしろ私は全く個人的な事情から、この開催を積極的に利用したいと思うのだ。まずなによりも、いながらにして世界中の国々と直接接触できるのだ。こんなチャンスは一生に二度とない。それまでに調べ上げるだけ調べ上げて、万博が始まったら何度も乗り込んで片っ端から人間関係を作って、それを元に旅に出てやる。


https://www.youtube.com/watch?v=iMxrL7pQEu0&feature=share&fbclid=IwAR2d-vAmh6zLvxBAoUcAX5HBqUUka6bA8LebbJZQZT2Uo1TYMn2EGQkHLkI

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20190228 Japan's Secret Shame

https://www.facebook.com/masazumi.sugimoto/posts/1603374509761928

この記事もノー・コメントでシェアしたものだが、やはり気になって仕方がないので、再びシェアするとともに私の思うことを書いておきたいと思う。この動画は、なぜか日本ではFacebook上でしか視聴できず、人づてにシェアするしか方法がないようだ。内容は伊藤詩織さんがジャーナリストの山口敬之氏にレイプされた事件についてBBCが制作したドキュメンタリー作品「Japan's Secret Shame」日本語字幕版である。ぜひ見て欲しい。

 今日あらためて全編視聴したのだが、つくづく人類には男性と女性しかなく、私は男性に違いないので、まったくここでこのような言葉は不謹慎なのだが、彼女に性的魅力を感じざるを得ないというのが本音である。そんなことは絶対にありえないことなのだが、もし私が山口敬之氏と同じ立場であったなら、同じことをしただろう。この事件について社会的に何らかのコミットメントをするとなると、この衝動を抑えつつ抑えつつ言葉を選ばなければならないというのが正直なところである。

 はじめに告白しておくと、私は男の欲望をきちんと制御して、女性に嫌な思いをさせずに、社会人として立派に生きてこられたかというと、実はそうではない。これ以上、具体的なことはお許し願いたいが、取り返しのつかない心の傷を負わせてしまったことは複数回ある。今となっては言い訳に過ぎないが、当時はそのことがそんなに深刻なものとは考えていなかった。では、今は深く反省してことの深刻さを痛感し、きちんと制御できるかというと、これも心もとない。心では反省しているのだが、様々な状況の中で、つい欲望を抑えきれずに行動してしまうことはありうる。この問題は性差を越えて本当に理解し合うことが難しい。アタマでは解っていてもカラダが言うことを聞かないからである。幸いにして私には金も地位も権力もなく、ありがたいことに性欲も減退しているので、最終的に取り返しのつかない段階にまで到達したり、繰り返し罪を重ねることが、そもそもできないだけのことだ。私が性犯罪に手を染めずに済んでいるのは、理性が強かったり人徳が高いからではなく、精力が弱いからに過ぎない。

 この問題については、発表以来、様々な側面で語られて来たように思う。しかし誰も現場に居合わせていないので、全ての論評は憶測の域を出ない。男性から見た印象、女性から見た印象。セクシャル・ハラスメントの諸問題、日本社会の後進性、山口敬之氏が安倍首相に近い人物であることから、政権に対する立場の違い、それにとどまらずイデオロギー論争や人種差別、国籍問題にまで発展して炎上状態になり、現在彼女はイギリスに亡命を余儀なくされた状態になっている。

 人類に中性という存在があれば、物事はもう少し穏やかに解決するのではないかと期待するが、それができない以上、どんな結論に至っても必ず違和感が残る。しかし真実は一つしかない。

 ヤッたのか、ヤラなかったのか。ヤッたのである。もうこの時点で大多数の男性は冷静でいられなくなり、あのような絶世の美女が自分の手の届くところにいて、なにもしないなんてことは絶対にありえないことを直感し、手を出してしまったことにうなづき、それがためにジャーナリスト人生を棒に振りかけた山口敬之氏の危機感を理解するのである。それが良いといっているのではなく、男の生理としてありえないといっているのだ。こんなことをSNSに書くこと自体、既に私は社会的信用を棒に振っている。まあこないだのアンテナ・プラグくらいの短い棒に過ぎないが・・・

 で、どのようにヤッたのか、ヤッた後どうなったのか、その先が問題になっている。で、この動画はもっぱら伊藤詩織さん側に立ったドキュメンタリーであるので、ここではその立場からの印象しか語ることができない。全く公平な視点で山口敬之氏に取材したドキュメンタリーがあれば、かなり議論は整理されると思う。

 事実が密室に封印されている以上、全ては状況証拠の積み重ねと、映像を見た印象から判断するしかない。結論だけ言うと、この動画を見れば、誰でも伊藤詩織さんが正しいと思うにちがいない。女性であれば男性中心の社会に対する不満の代弁者を応援する意味合いで、男性であれば本能的に美女に肩入れしたくなる衝動的な意味合いで、くりかえしになるが私はそれで良いといってるのではなく、男なんてそういう生き物だと言っているのである。そのくらいこのドキュメンタリーは、女性からも男性からも、等しく支持を得られるように、慎重に効果的に作られている。特に冒頭に挿入された、彼女が着替えるシーン・・・もちろん裁判に向かうために身なりを整えているのだが、あのシーンを冒頭に持ってくることで、世の中のほとんど全ての男性を味方につけることに成功している。

 ひとつ、動画の中で不可解な発言があるのは、彼女が意識を取り戻した時に、山口氏が「合格だ」と言ったというエピソードである。これはほぼ唯一、双方がその発言の存在を認めている部分で、彼女には意味不明とされているが、山口氏の側からすると、合意が事前にあった唯一の証拠となるものである。なぜなら、山口氏にとってみれば、彼の欲望に彼女が十分応え得たという意味で、それは彼女が同意していたという前提の上に成り立つからである。しかし彼女によれば、これは抵抗している最中に意味不明に語られたことになっており、この部分だけが、唯一このドキュメンタリーの中で違和感のある箇所といえる。

 男の側から見ると、山口敬之氏の主張は一貫している。自分は社会的にも地位の確立した著名なジャーナリストである。そこへジャーナリスト志望の若い美女が接触してくる。誘いをかけたら簡単に乗ってきた。引き摺り込もうとしても抵抗されなかった。ウブやネンネじゃあるまいし、そうしてまでなりたいのであれば望み通りにしてやる。絶世の美女とともに取材活動をする明日の自分がイメージされる。さらに自分のステータスは上がるだろう。彼女は全てに応じた。だから「合格だ」と・・・

 この時点で山口敬之氏に違和感はなかったはずだ。全ては密室で滞りなく行われ、首尾よく終了し、次のステップに進むはずだったのだ。まさか、ことが公けにされるとは思ってもみなかったに違いない。それは言いっこなしでしょ・・・と言ってみても始まらない。明日の自分どころか、人生が崩壊するかも知れないのだ。自分は社会の慣例に従ってヤッたまでだ。こういうときはヤルもんだ。据え膳食わぬは男の恥という諺もある。その社会的な暗黙の了解の責任を、なぜ自分一人が負わなきゃならないんだ ??

 私にも似た様な状況でヤッたことも、ヤラなかったことも経験がある。ヤレばヤッたでもめたし、ヤラなければヤラなかったで「女に恥をかかせた」と、あらぬ噂を撒き散らされた。どっちみちトラブルになるのならヤッといた方が良いのである。こういう状況でヤラなかった男性を紳士と思う女性など、私の経験や見聞上、皆無だ。そんな情けない男を誰が慕うであろう。そんな男からはヤラズにボッタクるのが相応だ。それが社会の暗黙の了解というものだ。

 ああ、人類に中性というものがもし存在するのであれば、物事は少し違った展開をするかも知れない。ドキュメンタリーは、この様な常識が蔓延るオトコ社会のなかで生きる女性から見て、社会がどう見えるかを見せてくれる。合意があったかなかったか、日本の法律には規定がない。合意などなかったのである。自分は何かを飲まされて意識不明になり、気がついたらホテルの部屋にいて、山口敬之氏がのしかかっていた。強姦である。ドキュメンタリーで語られる彼女のストーリーも一貫していて、全く違和感はない。雲の上の人と思っていた人が、自分の志望を受け入れてくれ、時間を取ってくれた。しかし、仕事の話にはならずやがて酒の場に導かれた。ヤバイとは思ったが遅かった。その時には何かを飲まされていた・・・「合格だ」??・・・なにが ?? しかし、唯一の汚点と指摘できる、薬物混入について、現場を取材したかどうかについては、全く触れられていない。

 この言葉と、もう一つ私が不自然に感じたのは、ことが起こった後、彼女がどのようにホテルを出たか、その後山口氏と連絡を取り合ったか、取り合ったとして、どのようなやり取りをしたのか、その辺が全く語られていないことである。前後不覚になる程傷ついたのか、そうかも知れないが、そこは記録として言及されるべきだったと思う。それが彼女の身の潔白を補強することになるからだ。

 警察の捜査手法についても女性の視点から問題提起されている。警察署に女性が圧倒的に少ないこと、全国的にこのような被害を届け出る窓口も圧倒的に少ないこと、そして、現場検証にあたり、捜査員である男たちの前で、等身大の人形を使って、あの瞬間をつぶさに再現しなければならないこと・・・しかも、どちらがどう体を動かして、どちらがどう反応したかまで・・・これは「セカンド・レイプ」とまで言われるほど、女性にとっては辛い体験なのである。

 このように一般に知り得ない事実を検証しようとする試みの場合、提出された限られた情報の中で判断する以外になく、その信憑性を問うことが非常に難しい。このような場合、事実を語る当事者の顔の表情を見るとか、語られている内容が論理的に矛盾していないかとか、そもそも正しい言葉で語られているかなどという、本質に付随した要素で判断するくらいしか方法がない。

 それでいくと、よほどの芸達者でないかぎり、伊藤詩織さんの表情に嘘はなく、全体として不自然さが見られないのに対して、山口敬之氏のが出てくる映像からは苦しい弁解が垣間見られる。そもそも身の証を立てるならばもっと露出されてしかるべきなのに、ほとんど顔が見えないのである。民事裁判の初審を欠席した事実も不利に働く。

 しかし降りかかる火の粉を払うのは当然のこと、あらゆる手段を尽くして戦いに応じるのは当たり前のことだ。その点で、山口敬之氏の主張は一貫しており、男の目から見て当然の成り行きである。その後の推移を見る限り、これは力を持ってしまった男の精子・・・失礼、生死を賭けた戦いであり、絶対に負けるわけにいかないのである。勝つためにはどんなことでもやる。社会から抹殺してやる。思い知らせてやる。それがオトコ社会というものである。安倍フレンズの団結の中で司法をも巻き込んで事実を隠蔽し、彼女を日本から叩き出すことには成功した。しかし、彼女も黙ってはいなかった。現在もまだ係争中である。彼女は相手が潰れるまで徹底的にやるだろう。当然、露出すればするほど相手は不利になる。人口の約半分は女性である。それに対して、何の対策も打たなかった、では当然済まされない。少しずつかも知れないが、世の中の認識は変化していくはずだ。そこから国が開かれていくのだと思う。

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20190228 安倍首相は独裁者にあらず ??

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Facebookというものは、なにがしかの記事をそのまま「シェア」することによって、多くのコミュニケーションが成り立っている現状があるが、その連鎖によって、一つの小さな意思表明が、多大な勢力を形成することもある。その善悪や功罪の議論は別として、そのままシェアされることによって、シェアした人はその内容を正しく理解しているか、どのような考えを持っているかにかかわらず、元の記事を是認した形で、シェアした人の名前をも纏って拡散されていく。これは、「社会的」なネットワーク・サービスのあり方にとって良いことだろうか。

 いまや個人の「ホームページ」というものは鳴りを潜め、作成ソフトすら適当なものが見当たらないので、私のホームページは長年更新できないままである。かわって短文投稿「つぶやき」や、写真のみで言葉すらない「インスタ」へと、情報発信手段は多様化しているのに、ますます考えない風潮が助長され、考えて作り上げるものは疎まれる傾向にあると感じざるを得ない。

 私は、それがどれだけ稚拙なものであっても、自分で考えたことを書くべきだと思っている。考えずに行動する風潮は、危うい。物の弾みに対処できなくなるからである。無批判に拡散することは、やがて考えずに大勢に流される風潮を生み、より早い情報処理能力を個人に迫る社会を作っていく。裏返せば、考える時間を与えない仕組みを助長する。だから、私は「たとえ文章が長くなっても」自分の考えたことを書くようにしている。
 もちろん、長いことを持って良しとしているわけではない。俳句のように、考え抜かれ、研ぎ澄まされた17音の中に、全てを言い当てて説得力のある言葉を選ぶ能力があれば、私もそのようにするだろう。しかし稚拙な頭脳しか持ち合わせない私には、なかなか努力してもそのような結果は得られない。
 この記事は9月末ごろに私が自分のタイムラインにシェアしたものである。季節的に多忙を極めていて、ノー・コメントで記事だけ載せた。しかし、どうもこれがひっかかっていて、いつかきちんと自分の考えを添えたいと思っていた。
 これは17歳の高校生が書いたものとされている。その真偽はともかく、要点は二つあって、ひとつは、日本は民主主義を国是とする法治国家であって、その手続きが守られて現政権が行政を行なっている以上、巷に流れる「現政権は独裁的」という批評は不当とする評価、もうひとつは、この仕組みさえわからないような国民が大多数を占めるのであれば、自分は日本が独裁国家になっても構わないという評価である。そしてこれをシェアした元の投稿者のページには、400件近いコメントが寄せられ、ほとんどがこの高校生の意見に拍手喝采を送っている。
 仮に彼が高校生だとすれば、学校で習う世界史が、現実の世界でどのように動いているかをつぶさに見聞する機会はほとんどなかったであろうから、このように広辞苑から解いた言葉を受け売りするのもやむを得ないことである。しかし願わくば、民主主義がどのように発生し、それを実行するためにどのような事実が起こって、それを排除しようとする勢力との間にどのような歴史が展開されてきたか、それが現在の我々の世界にどのように影響を及ぼしているか、これをつぶさに学んでいってほしいものである。そうすれば、独裁というものが、どのように発生して成長し、国家体制を樹立して、やがて崩壊していくかを知ることになるだろう。それを知れば、最後の文言すなわち、「私は独裁政治でも一向にかまわない」という言葉は出て来ず、かわりに「そのように流される国民に、今一度立ち戻って、民主主義を守るためにはどうすれば良いかということを、あらためて考え直す良い機会にしたいものである」とでもいうような結論が導き出されたのではないか。
 そして、彼のこの投稿に対して、無批判に拍手喝采を送るいい歳を重ねたおとなたちの馬鹿さ加減に唖然とする気を取り直し、いまからでも遅くないから歴史をもう一度素直に見つめ直さなければ、自分たちの子供の世代に、また悪しき歴史の繰り返しの尻拭いをさせてしまうのではないかと危惧するのである。
 経験と判断は人それぞれである。しかし、自分の目で見てものを聞き、頭で考えて出した結論と、古今東西の多くの膨大な知見とを総合的に比較検討する努力があれば、そこに豊かな創造性が育まれ、必ず正しい方向に導かれるものである。ただしこの道は険しく、即答できることが少ないため、理解されるのに時間がかかる。なにより自分自身が自分に負けてしまうことも多い。それでも気を取り直して進むしかないのではないか。

 さらに立ち入っていうならば、彼は前段において、自分の言論の自由は民主主義によって保証されているとしておきながら、結論では独裁政治でも構わないという矛盾した答えを導き出している。それに対して多くの読者が拍手喝采を送っていて、誰もがこの矛盾に気がついていないように見える。

 論理的思考というものがきちんと徹底されていて、社会的なネットワークに対して自分の意思を表明することが、出版にも等しい公的なものであるという自覚と節度があれば、このような行動には至らないと思う。しかし、現実のネット社会では、このような言論とも言えぬレベルの言葉の嵐が吹き荒れている。これそのものが、民主主義によって保証された言論の自由のなせる事なのであるが、では彼らは一体何を望んでいるのだろう。

 民主主義を望んでいるのであれば、独裁政治は否定されるべきである。しかし、内心では独裁政治を望んでいるらしい風が感じられるということは、つまり民主主義によって論じられる「なにか」が彼らを苛立たせるのではないかと思う。

 独裁者が好むものは、往往にして武力に代表される実力であるから、要するに彼らは、日本が、その実力にふさわしい国際的な影響力を行使できていないので、それを強化するべきだ考えているように想像できる。そして民主主義というものは往往にして、こうした実力の行使に何らかのコントロールを加えようとする。それが鬱陶しいのではないか。
 クラスの一人をみんなでいじめようとしているときに、「そんなことはやめろ」などと言う奴が出てくれば、まずそいつから抹殺するのが子供社会、いや未成熟なムラ社会でもよくあることで、そのような感情の集中と発散のはけ口が、民主主義によって閉ざされている閉塞感を打破したいという熱い想いが、この投稿やコメントを読むと伝わってくるのである。
 つまるところ、彼らが望んでいるのは、上のような自分たちの閉塞感を共有できる人間だけで日本という国家を自分たちの思う姿に改革して行きたい、それに異を唱える者は排除すべきである、というイデオロギーで国家ビジョンを描いているというしか、落ち着くべき結論が見当たらない。すなわちそれは、そのまま全体主義国家であり、かれらがゴキブリのように嫌う共産主義国家の現実の姿と変わらないのである。それにすら気がつかないほど、彼らの思考は鈍化していると言わざるを得ず、物事を感情でしか判断できなくなることの危うさを如実に示していると思う。

https://www.facebook.com/minoru.osugi/posts/1916624755111198

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