
私がここへ移り住んできたのは2007年の9月のことだった。それまでは、同じ家主が小さく分けて希望者に貸していた畑を一区画借りて、五年ほど西宮の都市部から通っていた。相前後して家主の祖母様が亡くなって屋敷が空き家になった。家主様は別のところに住んでおられるので、その空き家の管理人として移住してこないかというお誘いがあって、これに乗ったのである。その時借りていた畑は、放棄した人の分を含めて3畝ほどになっていて、通いでありながら上首尾に管理できていたので、「どうせやるんなら田んぼもせんかい」という話になって、別に一反を借りることになった。一反というのは1,000uのことで、正方形にすると約33m四方である。私はここへ移り住む5年ほど前から、当時の自分の仕事であった加工食品そのもののあり方に疑問を抱いていて、舌癌を患ったことで決定的に農業への関心を固めた。で、これについて勉強するうちに、もしこれをやるなら命懸けで一生かかることを覚悟し、移住を視野に入れ、その準備やその後の資金も考慮して、一千万円の貯蓄を作ることから始めた。同時に、たまたま縁があって知り合った今の家主様の畑を借りることができ、少しずつ勉強の結果を実地に試して見ることが出来るようになり、5年の間に一千万円を作ることにも成功した。

移住してきてからは、とにかく三年は仕事や金のことを気にせず、ひたすら農作業の実際について学び実践することに専念した。実はこの時、私には数年前から交際していたパートナーがあって、ともに古民家を活用して農家民宿を開業するという夢を抱いていた。その全体の構想は主にパートナーに任せ、私は作物を作ることを一から始めることになった。まったく夢と希望に溢れた新生活の始まりだった。農作業を覚えるためならなんでもやった。家主様の農地の稲刈りから始まり、知り合った農家友達の山中の稲刈りを手伝ったり、近隣農家がコンバインで刈り残した四隅の稲の手刈りを手伝ったり、とにかく目につくもの折に触れるもの全てを貪欲に体験していった。特に近隣農家は高齢化している上に、大抵は三反五反という広大な田んぼを何枚も所有しておられ、これらを維持管理しておられる。稲刈り後の冬の施肥ひとつとってもとんでもない重労働である。あるとき稲刈りの済んだ田んぼに牛糞を撒こうとして一輪車を持ったまま倒れ込んでいる老農夫をみかねて手伝った。そこは三反田でだいたい30x100 (u) で、その四隅に1トンずつの牛糞がダンプ・カーで降ろしてある。それを40kg入りの土嚢袋に詰めて一輪車に乗せて30x100 (u) 四方の田んぼに満遍なく撒くのである。とてもじいさん一人の仕事とは思われなかったが、彼らは普通にこれをやる。田んぼは乾いているとはいえ、稲の切り株もあり土に足がめり込む。一輪車に二袋も乗せれば、たちまち車輪が沈む。それを押すのである。じいさんより先に私がへたばったのはいうまでもない。しかし何事もやるしかない。とにかく仕事とあれば駆けつけて、貪欲に体験した。

夜はインターネットを活用して勉強を重ねた。秋から種まきする冬越しの作物、タマネギ・ニンニク・ソラマメ・エンドウ・・・その蒔き時や撒き方を調べ、この場所の気候と照らし合わせて判断した。私は新規参入である。ベテランと同じようにやっていたのでは、彼らにわかっていても自分にわからないことが見えない。彼らのやることを注意深く観察しながら、自分で試行錯誤を重ねなければならない。農業は一年に一度ずつであるが、一度では経験が足りない。一度の試行で三度の結果が得られるように、蒔き時を前後二週間に分けて畝を区切って三度蒔き、それらがどのように育っていくかを記録した。それを積み重ね、周りの農家のやることを見ているうちに、その違いが徐々に明らかになり、それが農薬や化学肥料を使うことを前提とした栽培方法であることを知り、例えばトマトなら、教科書に書かれているように春先から苗づくりをするのではなく、自然発芽を見るように、初夏の係りに彼らが発芽し始めることが観察できると、その自然の生育過程を知ることができるようになる。やがて、人や教科書から教えられることよりも、自分で土を観察して、そこから生えてくる作物の零れ種からの発芽が、私に蒔き時や栽培方法を教えてくれることになる。よく観察するためには、農薬や化学肥料は邪魔になる。除草さえも、極めて慎重にやらざるを得なくなる。こうして私は徐々に自然農に近づいた。というより、自分の考えに従うにつれ、自ずから自然農に似てきていることを後で知ることになった。

一年で自給体制は確立できた。五年の貸し農園でのノウハウがあり、その上に田作りを載せることに成功したのである。ビギナーズ・ラックであった。そのプロセスを、自分の備忘録を兼ねてブログに記録してゆき、それを多くの友達が読んでくれた。パートナーの友達とも繋がり、米や野菜の自給体制の確立は彼女の夢の実現とも合致した。ふたりで緩やかな参加型農作業体験グループのようなものを作って、頻繁に集まって農作業や食事会やフリーマーケットのようなイベントを催した。案内を送る参加者のリストは、ゆうに百人を超えていた。農家民宿の実現が形を成して見えてきた。家主様も、空き家の有効な活用方法が固まりつつあることを喜んでくれた。絶頂の日々であった。全てが順風満帆で、私たちは幸せを掴んだかのように見えた。

移住してきてから三年目の春に、私はどうしても今のままのやり方では、つまり手作りによる生産にこだわる限り、稼業としての農家民宿の経営は困難ではないかという疑問を抱き始めていた。我々の間で意見が分かれた。つまり、仮に健康な男が一人で人力で経営出来る農地は約一反である。そこから得られる収穫を米に換算すると、農薬や化学肥料を使わず、機械にも頼らないとすれば、うまくいって400kgそこそこである。これが全収入だとすると、米の市場価格がプレミア付きで高く見積もったとしても1kgあたり\1,000、だいたい普通にはこの半額である。ということは、400kgで年収20万から40万、パートナーは、二人で年収300万円台でもきついと言った。たしかにそうだ。しかし仮に年収400万円を目指すなら1kgの米が1万円で売れなければならない。それだけの付加価値を、万障繰り合わせてつけることができるだろうか、最大20倍の格差を人力で埋めることができるだろうか、そこで意見が分かれてしまった。私は手作りによるモノづくりにこだわりが強く、増産することには消極的だ。しかも三年間の百姓生活を経て、自分の目指す道は、作物を利用して生きていくことではなく、作物を作る人を増やしていくことにあると考えるようになっていた。しかしパートナーは違った。私の作る作物をブランド化してネット・ショップを立ち上げ、自然農と農家民宿をリンクさせて二人の稼業として安定させることを望んだ。もちろんそれはまちがいではない。しかし実現の可能性が桁外れに低いのだ。その現実をどう認識するかという根本的な問題で、二人の意見は全く合わなくなった。結局、私たちは別れ、私は一人ここに残った。その時点で、私はほぼ自分の求める自然農のあり方を確立していた。同時に、資金の底もおぼろげに見えるようになっていた。私は兼ねてから計画していた世界一周の旅を実行に移した。2010年1月に出発して、そのシーズンのジャガイモの植え付けに間に合うように、4月には戻ってきた。それでほぼ貯金は尽きた。退路を自ら断った私は、田作りが一段落した後、現在も続けている夜のアルバイトで生活資金を賄うようになった。夢から現実へ、そして奈落の底への入り口だった。2010年9月のことである。

そういうわけで、移住してきてからの三年間は、今から振り返ると全く幸せの絶頂期にあり、私の田舎暮らしと農業への転身は成功したかのように思われた。パートナーと別れたことさえ、当時の私としては、より純粋に自分の追い求める生き方に徹した結果であり、全く後悔していなかった。しかし、それが成功しているかのように見えれば見えるほど、周囲の農家からは浮いた存在になっているということに、私は全く気がついていなかった。おまけに私には、訊かれもしないことをペラペラ喋る悪い癖があった。農業に寄せる思いや、これまでの経験などを面白おかしく脚色して、周りとの話題作りに努めたつもりだった。しかしそれは逆効果だった。 都会から地方へ行った者は、地方を上から目線で見がちだ。本人にその気がなくても、周囲はそう感じる。

最初に異変を感じたのは、帰国直後 (2010年) 、稲の種下ろしが終わって苗取りの時期を測っていた頃のことである。突然、苗代の苗が真っ黄色になって枯れた。全く予想外の事態だった。さきにも書いたように、私は同じ作業を前後三回は時期をずらして行うので、苗代も三つ作っていた。近くにあった別の一つも枯れていた。三つ目は自然農関係で知り合った友達の田んぼで苗代を作っていたので手元になく、すぐに電話して苗を見に行った。そちらは無事だったが、生育が少し遅れていたので全体の作業も遅らせた。これは後になってわかったことだが、何者かが、おそらく除草剤の原液を苗代に撒いたに違いなかった。苗代の畔側の草まで茶色く枯れてしまったからだ。

田植えが終わった直後、見知らぬ老人から、「あんた誰に断ってこの田んぼ作っとんや ??」と強い調子で訊かれた。なにがなんだかわからず、地主の名前と、この田んぼと共に家も賃借していることを答えたが、「こんなんしたらあかん」と言ったきり、「とにかく原状に戻せ、さもないと水を切るぞ」と言うばかりで、その理由や根拠などをいくら訊いても教えてもらえなかった。そのことを地主に相談したら急に口が重くなって、「とにかく元に戻してくれ」と言われた。戻せと言われても、もう田植えも済んでしまったし、戻すには苗を全部抜いて、田んぼの表面に積んだ草を取り除き、表面を作り直さなければならない。なんとか今年はこのままでやることをお願いし、来年以降については追って考えるとその場を濁した。最終的に水が切られることはなかった。私はここへ移り住んで以来、なぜか水利組合とは仲が良かった。洪水の恐れがあるたびに、真っ先に堰に駆けつけていたからだ。

このときから私と地主との関係が急に悪くなった。さらに別の問題が起こり、関係は決定的に悪化した。相前後して、地主が重い病気にかかっていることが判明し、農地の大部分の管理がままならぬことになった。私は、もし私に任せてくれるのなら、あと二反くらいなら引き受ける用意があると提案した。ちょうど私の行動に興味があって、農業に携わってみたいと言う友達がかなりいたからである。それに対する地主の言葉に私は耳を疑った。「おまえらの好きにさせるくらいやったら草ぼうぼうになった方がましや」・・・これは農家の本音である。自分たちだけでは立ち行かないことはわかっている。しかし主導権を奪われることには反対だ。これで私と地主の信頼関係は崩れた。私は他へ移住することを検討して行動した。しかし結論から言って、どんなに過疎に苦しんでいる村も、本音は同じだった。私と地主との関係が修復されるまでには五年以上かかった。

これを皮切りに次々と問題が発生した。「農会長」と称する別の人から、他所の人と共同で田植えなどをするのは農地の又貸しにあたるからすぐに中止せよと言われ、仕方なくイベントを中止した。「農業委員会」と称する人たちがやってきて、「農地法3条違反」で行政指導するということになった。指導が三度重なると行政処分となり、刑事告発されて裁判の結果、現状では必ず敗訴し三年以下の懲役または300万円以下の罰金に処せられると告げられた。私はこの農地を使用するに悪意はなく、なぜ違反になるのか説明を求めたのだが、全く要領が得られなかった。「あなたは農家ではないから」ということだけはわかったが、では法を守るにはどうすれば良いかということについては全く教えられなかった。

その間にも、トルコから持ち帰った種から育てた白いズッキーニが全て抜き捨てられたり、車のすべてのタイヤに釘を刺されたり、試験的に栽培して干してあった小麦の束に火をつけられたりした。その後も不可解な事件が続いたので警察にも相談したが、「農地の件は農業者同士でやってもらうことになっている」の一点張りで、被害届も受理されなかった。秋になって稲が実り始めた頃、品種を分けて植えていた全ての田んぼから数株ずつが何者かによって刈り取られた。当時栽培していた稲の中に、インディカ米と掛け合わせたものがあって、これについて農協の営農指導部から問い合わせがあった。それは「サリー・クイーン」という品種で、日本で認可登録されていることと、出穂期が隣接する田んぼの品種と二週間程度離れていることを説明して理解された。その冬、差出人不明の投書があり、それは私に対して村人が不安を抱いていることが数十項目箇条書きにされてあり、それらを改善するか村を出て行くよう、暗に脅迫するような内容だった。これは警察署に受理された。
翌年 (2011年) も、私は栽培方法や栽培品種などは一切変えなかった。ただ、人を集めてのイベントや、農作業記録としてのブログの更新は控えた。これにはもうひとつ理由があって、自然農でアプローチする以上、肥料や農薬を使う慣行農法とは収穫量に格段の差があることだ。この農地を借りて三年が過ぎ、それまで土に残っていた成分の効能が切れてきたようだった。ここから循環の過程に入るまでは不安定である。つまり、生えているものの一本一草に生活がかかってきたのだ。イベントの参加者が間違って抜いてしまう作物を、黙って見ていることが死活問題になってきた。あるとき、イベントの夕食にみんなで鍋をすることになった。子供達に「一番長い大根抜いてきて」と頼んだがなかなか戻ってこない。見に行ってみると、なんと全ての大根を抜いて道路に並べて、どれが一番長いかを巡って喧嘩になっていた。その年の大根は諦めるよりほかはなかった。イベントをやる限り、お客様には満足して帰っていただかなければならない。私にはそんな実力はなかった。昼は農作業、夕方からバイトの毎日で、自分が生きていく以外のことに割く時間もゆとりもなかったからだ。その隙をついて、細かい嫌がらせは頻発した。
そのころ隣家の息子が、家業を継ぐために帰ってきた。彼は、親の所有する農地を利用して、大きな施設園芸を始める計画を持ってきた。詳しいことは割愛するが、結果的に村じゅうがそれに反対して計画を潰しにかかった。しかも、着工する事前の説明では誰も反対せず、着工して骨組があらわになった頃になって反対運動を起こした。私にも共に反対するように働きかけがあったが、私はそれを一喝して応じなかった。これで村社会との決裂は決定的なものとなり、自治会に委託された行政サービスを受けるにも支障が出るほどになった。
私は、借りている屋敷の母屋ではなく、離れに住んでいる。母屋はとある宗教団体の施設である。私自身は信者ではないが、母屋には神殿がある。この年、その母屋に別の4人家族が引っ越してくることになった。病気の発覚した地主家の経済状態が悪く、たびたびこの屋敷を処分する話が出ていた。これ以前にも、福祉施設が視察に来たり、NPO法人が合鍵を使って私の住んでいる離れに勝手に上がり込んでいたこともある。そして、今回移り住んできた家族の嫁は地主の教会の親教会の娘であった。突然引っ越してきたので、私はそれを知らなかった。荷物を運び込んでいる何人もの人たちに混じって子供達がおり、そのうちの一人から「早よ出て行けや」と声をかけられた。それで私は今回の引っ越しの意味を理解した。
別棟とはいえ、全く知らぬ4人家族と共生することは、ただでさえ難しい。しかも、宗教者という、私にとっては最も苦手な種類の人たちである。ほぼ言葉が通じないも同然だった。その彼らが、私の生活空間に当然のような顔をして乱入した。私はそこの主人と境界を決めて、お互い侵入しないことを固く約束させたが、子供達が大人の言うことなど聞くはずがない。彼らは、私の作りかけの苗をぶちまけたり、天日に干している乾物に土をかけたり、私の車のフェンダー・ミラーが珍しいのか、それを捻じ曲げたりなどして遊んだ。そもそも彼らは、自分の子分の教会施設を救済するために来たのである。その奥に住んでいる私は邪魔者以外の何物でもない。
この時点では、まだ私は移住計画を持っていた。しかし、単に農家から田畑を借りて耕作しているだけでは、農地法違反であると同時に、農用地にある空き農家を単独で借りることはできないことがわかってきた。これらを借りるには自治体による移住プロセスに従って農家登録が代行されるか、自力でこれを獲得する必要がある。さもなければ私は単なるヤミ農家として、移住して農業を再開することもできなければ、現時点で収穫された農作物を販売することもできない。自治体を通して田舎暮らしをするメリットは、それが早く実現することである。しかしデメリットは、自治体の意向に沿う必要があるということだ。移住計画を進めるうちに、地元の担当者や貸し手候補と話をする中で、結局このことが後々自分の手かせ足かせになることが十分予測されたので、結論として私は移住計画を捨てた。また、その時点では毎月2回程度イベントに出店していたが、たまたまあるとき地元に近いイベントに出ていたところを村の者が見に来ていて、彼等にとっては法外な値段で農作物を売っていることが村中に噂されることになった。すぐに農協が来た。農地利用が認められていない状態で農作物を販売していること、しかも流通価格を大きく超える価格設定であったことの確認と、地元農家からこの不平等に関する苦情が出ているという通告だった。私は手足を縛られ、顔を地面に押し付けられているような感じだった。これを一つ一つ切り崩していくために、まずは「違法状態」からの脱却を図った。
その翌年 (2012年) 、私はようやく農業委員会の指摘する違法状態を解消する具体的な解決方法を見出した。その経緯については長くなるので、興味のある方は下のリンクを参照されたい。ごく手短に書くと、正しくは、農地は誰に対しても開放されており、地主・農業委員会・農会・自治会の承認があって、営農計画がまともでありさえすれば、所定の手続きと契約を踏むことにより、誰でもこれを利用できる。非農家だから農作をしてはいけないなどという解釈は成立しない。何者も農地を利用しようとする者を妨げることはできない。しかし私はこれを農水省と兵庫県農政局に度々問い合わせて、ようやく知ることとなったのである。逆に言うと、現場の農民・農会・農業委員はおろか、市の農業委員会事務局ですら、間違った判断と運用で新規就農者を罰したり追い出したり諦めさせたりしている。しかも農政に関しては、警察も弁護士も手が出せないのが実態である。だからこれを志す者は、信念を持って正面を突破せよ。
http://jakiswede.seesaa.net/article/396028073.html
当初は農会の承認が得られなかったが、農会長が交代するという情報を得、その間隙をついて新任農会長にハンコを押させることに成功した。私は2014年に新規就農の申請をし、経過観察を経てその3年後に「農家」として登録された。これによって誰も私に文句を言うことができなくなった。しかし・・・というか、したがって、尚更村人の一部は、私に対して裏へ回って嫌がらせをするしかなくなった。と同時に私に対する理解者も出てきた。それから二年ほどの間に、強硬な排他主義者である長老たちの何人かは鬼籍に入り、何人かは手足や口が不自由になった。その最後は、今年 (2019年) に入ってからの、例の立木問題であった。その主人が亡くなったことで、集落内の親族が感情的になって私に対する「すごい噂」を流しているらしいが、私は一時的なものと捉えている。悪臭の問題も未解決のままだが、このようなことは、一つが収束しても、また次々と現れ、私に限らず、常に村中が村中の誰かを血祭りにあげているような状態である。これは村の理解者が教えてくれたことである。この村は「ある問題」をきっかけに互いに反目し合うようになり、以来、延々と諍いを見つけ出しては繰り返しているそうだ。それは今後も続くだろうと言う。私のケースはそのうちの一つにすぎないと言うのである。
それは、近くに開通した新名神高速道路の開発利権に絡んでいて、それまで共同管理だった村の山を公団に売却するときに、公団が事業を早く進めるために特定の個人を優遇し、それに連なる者とそうでない者との間に確執ができて、以来その亀裂が複雑に広がったと言うのである。しかも億単位の金が動いたとのことで、その確執の度合いが半端ではないと言うのだ。それが何十年も経つうちに不平等に分配されたり闇取引されたりして、村の中が全く複雑な愛憎のるつぼになってしまって、おそらくこれはどうにもならないと言う。例の悪臭の発生源も、実はその恩恵を受けた家で、その周りとの間の遺恨が今回の反対運動に直結していた。そこを私が論理的な正論で加担することになったので、村中が一斉に火を噴いた。しかも今回、その火を噴いた側の顔役の一人が、私と言い争いをした直後に亡くなった。これらは本来別々の問題だか、一連の問題とすることによって相手を揺さぶり、村内の力関係を自分たちの有利に導こうとする意向が働いている。だから、これを個人の問題として、正論をもって片付けることはできないと言うのだ。
で、その人の話や私の経験をもとに、私がここへ移住してきてから被ったことを総括してみると、だいたい次のようになるかと思う。私がここに移住してきたきっかけは、空き家になった地主の屋敷の管理人としてである。したがって今も正式には自治会の構成員として認められていない、あくまで自治会員であった地主家の代理である。これは、この集落の排他性を考慮した地主の配慮であったのだが、結果的にそれは裏目に出た。長老の筋の人たちは、あくまで私を村人と認めず、改めて私が自治会に加入することも不必要だと考えている。私は特に村に対してなんの「礼」も尽くさなかった。それは都会ではごく当たり前のことだったので想像もしなかったことだが、これが村人には「上から目線」に映った。ちなみに地主は離れた別の村の人であるが、私は村の誰の承認も得ずに地主から直接農地を借りて、しかも周囲とは全く異なる方法で栽培を始めた。・・・それは「自然農」というものらしい、「自然農」とは、いろいろな作物の種を泥団子に丸めてそこら中にばらまき、あとはなんにもしないことだという・・・これが百姓魂に火をつけてしまった。「ふざけるな」ということである。しかも、それを反省するどころか、仲間を呼んで賑やかにイベントをやる。獲れた作物を法外な値段で売っている。そこらじゅうに車を止める (これは母屋に引っ越してきた家族の関係者の車だったが)、しかも世界一周旅行をしてきただと ??・・・とにかくけしからんという、全く感情的なボタンの掛け違いによって12年もの歳月が過ぎてしまった。これを今更解きほぐすことは恐らく無理だろう、なぜなら、みんなが振り上げた拳を、それぞれが納得するおろし場所を用意することなど、およそ不可能に思われるからだ、という。
で、とにかく、と彼は続けた。どんなに正しい農法を実践したり安全な作物を作ろうと考えたとしても、周りはそうではない。そうではないところへそれを単独で持ち込んでも存続は難しい。君のやってることは、国が主導して、正しい農法や安全な作物とは何かということを、国が農民に提示すべきことだ。個人がやるべきことではない。つまり、農村で絶対的な権威である農協がお墨付きを与えて、それを普及させるということならば、農民はそれに従うであろう。しかしそれを、突然やって来た都会ものが、いきなり周囲のことも考えずにやってしまったのでは、潰されるのが当たり前だ。要するに、君は国が考えるべき食糧生産のあるべき姿を、ボランティアで世の中に普及させようとしているようなものだ、そんなことは君が思い知った通り、今の日本の経済にとって全く無力である以上、君自身はその知見を別なステージで活かすことを考えて、このテーマは国に預けてはどうかな ?? ・・・なるほど・・・極めて冷静で筋が通っている。
この夏、私は何度目かのダウンを取られて熱に臥せっていた間、ふと自分がここまでやってきたことを振り返ってみた。12年もの間、楽しいことも辛いこともあったが、今となっては自分自身の身が経済的に生きていけるかどうかの淵に立たされている。さきにも書いたように、手作りでいくら頑張っても、報いられる収穫は、国民が健康で文化的な社会生活を営むに必要な収入の20分の一程度である。しかも、ちょっとしたアクシデントで、その20分の一でさえ簡単に崩壊する。いくら性能の良い自転車で走ってみても、所詮人力で自動車に追いつけるはずはない。日本経済は自動車で走っているからである。手作り農業で生きていこうなどと考えるのは、自転車で自動車と張り合おうとするようなものであり、このような理想主義を実践するのは、一生食うに困らない蓄えを持った人に限られる。私のような安価な人間が試すべきことではない。私は農作業に夢中になっていて、このことに気づくのがまったく遅すぎた。気がついたときには、毎日汗と泥にまみれ、夕方にそれを掻き落として深夜までバイトするという、体力の限界スレスレを低空飛行する生活に陥った。農家民宿やイベントどころではない。あんなに威勢の良かった自分が、たった数年でその日に糊口をしのぐのがやっとという極貧生活に追いやられた。
親や友人にも相談した。客観的に私を見ていて、やはり大筋では全員の意見は一致していた。政府か農協か、公的な政治勢力なりがやるべきことを個人でやっている、しかも金にもならないことに命まで懸けている、その間、他の人は懸命に働いて、それでも貧困に苦しんでいるのが今の世の中だ、働かずに遊んでいれば金がなくなるのは当たり前だ・・・厳しいが、これが私に対する常識的な評価である。受け入れよう。了解だ。では、自分はどう動くのか・・・あくまで理想を追求して野垂れ死ぬか、人の言うように、この知見を提要として、いずれかの政治勢力に託すか・・・具体的には、ここに踏みとどまるか、立ち退くか・・・踏みとどまった場合、難局の打開は非常に難しい。立ち退いた場合、農業を捨てて一介の都市生活者に戻ることになる。なぜなら、もはや体力と経済力の限界で、別の土地で農業を軌道に乗せることは、それこそ自殺行為に近いと思われるからである。では、これまで蓄積してきた全てを諦めるのか、諦めずに頑張って死ぬのか・・・いまのところ結論は出せていない。10月の後半から黒大豆枝豆の収穫と稲刈り、引き続いてそれらの脱穀と冬じまいが始まる。それまでに結論を出さなければ農地契約に影響する。難しい判断を迫られている。