2019年10月31日
2019年10月27日
20191027 旅博
友達が「ええぞ」て言うから「旅博」行ってみた。各国の「やる気格差」が実に激しいのが面白かった。情報は新鮮なものに限る。
なんとトルコ航空関空便来春より三年ぶりに復活 !! これは大きいよ。
今私が最も関心ある中国は、流石に広いだけあって、主要な名所だけでも一国並みの情報量で、観光客誘致の熱意も凄まじい。
アトラクションもたくさんあって、エジプト・ブースでは、なかなか良い演奏も聞かれた。
一方、10年前に訪れようとしたもののビザすら降りず、今日ここへ来る大きな目的の一つだったアンゴラのブースは、まさかの空き家・・・いやあヤラレました。やりにくさもここまでくるとお見事と言わざるを得ない。
やれやれという思いで会場を後にしようとして、アフリカ・コーナーをぐるっと回ったら、なんと、20年近く前に知り合った日本在住のウガンダ人とシエラ・レオーネ人の旧友とばったり出会って大いに盛り上がる。最後に大笑いして別れたよ。
2019年10月25日
20191025 Felabrations
自分たちが出演するはずだったイベント「Felabration Osaka」へ行ってきた。全く素晴らしいイベントだったし、出演バンドAfrobeat Eat Osakaの演奏も素晴らしかった。よくあそこまで、あの黒くて重たいニュアンスを演奏できたものだと感心した。そしてなにより、アフリカ音楽に関心のある人や関わる人の層の厚さが、自分たちの現役時代と比べ物にならないほど大きくなっていたことに驚かされた。文化として着実に定着している。そしてこれらの演物の中に自分たちが出演できていたら、Afrobeatとは全く異なるRumbaの音世界を提示することができただろうに、このお客さんの前で、自分たちの演奏は行われるべきだった。このイベントは、出るべきイベントだった。初めての本格的ライブハウスでのフルセットでの演奏となった十三Fandangoでのライブは、ステージ感が戻りきっていなかったことによるミスの連発と、かなり無理して突貫工事したステージングにボロが出て、痛恨のライブとなってしまった。これらの修正と、新たな挑戦の雛形が出来上がりつつあったときに、その初めてのステージ・リハを打ち合わせている最中にあいつが死んだ。我々のやっている音楽はギター・ミュージックである。我々のこの感覚、ルンバ・コンゴレーズの持つあの感覚に惚れ込み、自ら音を紡ぎ出していくギタリストに出会えるチャンスなど、ほぼ皆無に等しい。それを待っている間に我々は年を取り過ぎてしまうだろう。イベントを見た後、我々は決意した。メンバーが欠けても、片手片足がちぎられても、何かが足りなくても、妥協するのではなく、我々はやり切る。そんな決意に至るとは思わなかったが、残されたメンバーでやるしかないのだ。せっかくここまで作り上げてきたものが、風雨に蝕まれてしまうよりは、それがたとえどんなに不完全で取るに足りないものであっても、やることの方に意義がある。よし、やろう。
2019年10月24日
2019年10月22日
2019年10月20日
20191020 決断の時がきた
決断の時がきた。結論。私は農作を中止するが、この地にはとどまる。これは非常に矛盾した結論であるが、現状を精査すれば致し方ない。諸般の状況を考え合わせると、現時点で私が今のやり方で農作を続けることはさらなる軋轢を生む。しかし全てを捨てて都会に戻るには解決しなければならない課題が多すぎる。他に新天地を求めて農業を再開するには資本が足りなさすぎる。そこで、私は農作を中止し、この地にとどまって、昼も夜も仕事をして金を蓄え、その先は後で考えるという、全く日和見主義的な結論に至った。
唯物論者というものは自己批判と総括なしには一歩も先へ進めないものなのだが、農村社会というものは全くままならないものだ。なにか問題が起こったときに、それが解決されていく過程において、全く自己批判や総括などなされずに進む。少なくとも私は見たことがない。したがって、常に同じような問題があちこちから持ち上がり、同じようにもめて、同じような犠牲が出て、いつの間にか忘れ去られる。少なくとも私はそれを何度も見た。だからここで自己批判や総括などしてみたところで、所詮独りよがりなマスターベーションに過ぎないと思う。
さて決断の時がきたのである。それは思わぬきっかけだった。この町内では、各集落回り持ちで毎週それぞれの自治会館で「ふれあい喫茶」なるものが催されていて、要するに高齢化する村人の互いの生存確認のようなものなのだが、集落内でも各家が回り持ちで「喫茶」を提供することになっている。たいていはインスタント・コーヒーに、緑茶や紅茶のティー・バッグと魔法瓶が用意されるだけなのだが、私の番の時は違う。きちんとしたレギュラー・コーヒーにエスプレッソ、カフェ・モカ、カプチーノ、カフェ・ラテに続き、紅茶も旅先で買い求めた様々な茶葉を取り揃えてポット・サービス、さらに地元産の高級煎茶を使って玉露も提供するので大変好評である。しかも一杯100えんだから聞きつけた他所の集落からも人が来る。来る、とはいっても、このような催しに男が参加することはない。提供する側も大抵女性である。しかし各戸で担当しなければならないので、単身者である私は黒一点ということになる。つまり、村のおばちゃんやばあちゃん連中の格好の餌食となり、ケツの穴までむしられるのだ。話題は、例の、田んぼに差し掛かった立木を切らなかった隣家の主人が、私と口論した直後に亡くなり、そのことをめぐって親族が私を「人殺し」呼ばわりした噂の件である。
少なくともその場に居合わせた全てのおばちゃんおばあちゃんが、この状態に心を痛めていた。もちろん亡くなった隣家の主人が持病で死んだことは誰もが知っている。だからこの噂には根も葉もなく、ただ私を傷つけるためだけにあることもわかっている。しかし、懇意にしてくれている別の農夫が言ったように、これには遺恨があって、この噂を流すことによって、半世紀以上も前に起こった第二名神高速道路開発で削られた山の利権配分で得をした側の一家に、私が巻き込まれたとはいえ加勢することになったことを利用し、得をしなかった側が自分たちの存在を誇示して村内での影響力を高めようとする材料とした経緯がある。従って両者の鍔競合いの位置関係が変わるだけで、雌雄が決するわけではない。むしろどっちが雄でどっちが雌かという議論を長引かせる方が派閥内の引き締めに役立つという観点から、このような紛争は往往にして解決されずに互いに互いを攻撃する礫に使われるのである。そこに自己批判だ総括だと持ち込んでもナンセンスである。そこで私は提案した。実現できるかどうかはわからないが、とにかく当事者と会って話がしたいと・・・
全く期待していなかったのだが、その会合が実現した。場所は自治会舘、私と懇意にしている例の農夫が仲裁役として入ることになり、二間ある部屋を仕切って、一方に私が入り、時間をずらして他方に複数の関係者が入った。彼らは私のことを知っているが、私には彼らが誰かはわからない。私はこの日のために、私は今回の事態に対して望むことを箇条書きにまとめて手渡しておいた。しかしそんなものは何の意味もなさなかったばかりか、彼らの怒りを買う結果となった。論点整理も何もない。彼らは仲裁者を通じて私に村から出て行くように要求した。問答無用である。私は「話し合い」を求めたのだが、彼らは声を立てずに仲裁者に意思を伝え、それに対して私が答えるという形になった。しかし全ては既定路線、議論は時間の無駄であった。私はこの誠意のなさを断固粉砕したい激情に駆られたが、仲裁者の顔を立てる都合上、甘んじて受けた。
私が言いたかったことは、要するに私には悪意も敵意もなく、ただ安全な食を得るために百姓を志したということだけだった。それがなぜ、このような排斥を受けるのか、その気持ちを知りたいと思っているし、それがわかれば和解できるのではないかと伝えた。しかし彼らは和解など望んでいなかった。全く議論はかみ合わなかった。彼らが言うには、自分たちは国の指導による方法で農業を営んでいるのであって、そこにいかなる問題があったとしても、それをしなければ生活が成り立たないのである。農産物が安全かどうかは国が決めることであって、そこに奇妙な考え方を持ち込んで、全く異なるやり方をされては迷惑だ。ままごとをやっているのではない。自分たちの圃場に悪影響が出た場合、誰が責任を取るのか。損害を賠償できるのか。できるはずがない。被害が出てからでは遅い。合法的に農家になったというが、だからといって何をやっても良いというわけではない。それを正す法律がないのなら、自分たちで正す以外にない。これは死活問題だ。考え方を変えないことは明らかなので、出て行ってもらう以外にないということだ。これは脅しではない。実際、新規就農を目指してここに移り住んできた家族が、三軒相次いで追い出された実績がある。残る二軒のうち一軒は百姓ではなく、もう一軒は自然農を目指しながら村人の脅しに屈してクスリに手を出した。
結局話し合いは一方的に彼らが退出して終わった。全体としては十数分のごく短い時間だった。仲裁者の落胆は申し訳ないほどだった。私は、法理論上の善悪とは関係なく、このように、彼らが直接対話すらできないほどに、私が信用されていない現実を味わった。私は出て行こうにも金がない。来シーズン作付けをすれば、おそらく彼らは農業委員会に陳情するであろう。場合によっては農地法を厳密に適用され、適切な肥培管理ができていないと判定されれば、私は農地利用の資格を失う可能性がある。あれほど苦労して正面突破を果たしたのだが、正式登録三年目にして脇腹に横槍を突っ込まれた形だ。ヘタすると農家生命を絶たれるかもしれない。稲刈りが終わったら農業委員会に事情を説明に行く。農地の利用権を留保したまま、とりあえず来シーズンの作付けを中止し、土作りと称して休耕することができるか、あるいはそのような相談を持ち込むことが藪蛇にならないか、今は考えている時間がない。とりあえず職探しをしなければ・・・
20191020 安全な食を求めて
安全な食を求めて農業を志し、農村に移住しようとしている都会人たちの参考になればと思う。あなたは何かを変えたいと思っている。しかし都会でそう思った感性のまま、農村へ来た時は注意しなければならない。例えば広い農家の敷地に入って、全く無駄な空間をたくさん見つけたとする。あそこをああすればもっと良くなるのに、とつい思ってしまう。それが積み重なって、ある時ふとそんな考えを口にする。それを村人が聞いている。村人は平静を装っているが、実は痛くプライドを傷つけられていることがある。あなたは良かれと思って言ったかもしれないが、彼らにとっては、自分たちの最も突かれたくないところを突かれたのかも知れない。
都会人は村人を上から目線で見がちだ。逆に村人は都会人に対してへりくだった態度をとる。しかし内心のプライドは、都会人が想像しているよりはるかに高い。都会人がムラ社会を上から目線で見ることができるのは、自分が理路整然たる現代社会の担い手であり、ムラ社会もそうなるべきであって、そのためのお手伝いをすることは善行だと、頭から思い込んでしまっているからである。しかし農村というものは長い歴史を背負っていて、その間に理不尽な扱いも受けたであろうし、自然災害にも多く見舞われたに違いない。社会が自分たちを守ってくれるとは限らない。そこを切り抜けるには、制度ではなく力である。力とは団結である。団結するには信頼関係が前提になる。信頼できるかどうかは論理ではなく気持ちの問題である。全人的に信頼できる人間同士で次第に徒党を組み、社会的な勢力となる。構成員に問われるのは忠誠心だ。忠誠心とは、何世代にもわたって歴史的に積み上げられてきた人と人との無条件な心の繋がりである。だから、歴史を背負わない論理的思考をもつ都会人が、歴史の重みにあえぎつつ忠誠を誓う村人の社会に入ることには、土台から無理がある。この無理を努力で解消しようとすれば、当然のごとく応力が働く。したがって無理を押す人はそこにいる限り無理を押し続けなければならない。自分が変わるか、村を変えるか、互いに妥協するしか解決策はない。安全な食を求める人は現状を変えようとしているのだから、そういう意味では自分を変えることは敗北に直結する。村を変えるには、村が現状になったのと同じくらいの歴史が必要になるので、我々の世代にそれが実現される可能性は低い。
我々は岐路に立たされているのだと思う。現状の社会には自動車が走っているが、その結果、人が走るよりも膨大なエネルギーを消費していて、これが地球の死活問題になっている。この生活を続けるのか、後世に持続的な社会を残すためにこれを捨てるのか、という選択の岐路である。社会が自動車の利用をやめて、足で歩ける範囲でしか行動しないことになれば、問題は解決に向かう。しかしそれには膨大な歴史的時間が必要になり、当然私たちの世代で解決するとは考えにくい。だから、そこに向けて軟着陸できるような方法を、科学的データに基づいた知見から模索することから始めなければならない。安全な食を求めて農業を志し、農村に移住しようとしている都会人が農村社会に受け入れられるには、そんな歴史が積み上げられる必要があるのであって、いま、彼らのすべてに平和的な生活は約束されていない。これは理の当然といえる。だから、私は自分のできる範囲でしか、物事を考えて実行することが、できない。それは、残念なことに、ほんのわずかなことでしかない。
2019年10月19日
2019年10月18日
2019年10月16日
20191016 宍粟市伊和神社秋祭
播州は秋祭りの季節も大詰め。泉州のだんじりの掛け声が「ソーリャ、ソーリャ」と二拍子なのに対して、播州の屋台の掛け声の基本は「ヨーォイヤサアー」であって、これは四拍子に聞こえる。二拍子の音楽よりも四拍子の音楽の好きな私には、この播州の祭りのゆるやかさが肌に合う。(写真は全て宍粟市の伊和神社秋祭)
地域や神社、またそこに出る屋台によって、担ぎ方や掛け声などに微妙な違いがあって、そこに音楽的な変化が聞こえるので面白い。最も有名なのは「灘のけんか祭り」といわれる松原八幡神社の秋祭りだが、これは屋台を担ぐ時にシーソーのように搔き棒を跳ね上げた勢いで担ぐ。最も有名なだけあって、山の下の「練り場」の喧騒は漁師町の荒々しさを最高潮にまで沸騰させて、ここが日本かと恐れるほどの凄まじい熱気となる。
その東隣の高砂の曽根天満宮の秋祭りでは、屋台のかき棒の上に乗った若者が、さながらDJのように様々に節をつけて即興話芸を披露する。三木の大宮八幡神社は屋根に大きな布団を頂いた屋台が神社の境内に至る長い階段を登る。これが壮絶である。
播州の祭りの形式の東の端は、その隣の神戸市北区淡河町までで、その東の八多町や道場町にはない。
むしろ道場町の南に隣接する西宮市山口町の公智神社になると、西宮の越木岩神社の形式になる。そこから東へ塩瀬・名塩から宝塚にかけては同じ形式で、かけごえも「ヨォォイソージャ、ドッコイソージャ」と四拍子二連の掛け合いになる。そこがまた良い。
この「ヨォォイソージャ、ドッコイソージャ」という掛け声は、姫路の西の網干の魚吹八幡神社の秋祭りの屋台にも出てくる。
この祭りは別名を「提灯祭り」といって、宵宮に提灯行列があって、最後にそれを叩き壊して回るのが有名なのだが、ここの屋台は、あの重量屋台を担ぎながら走る。その直後、地面すれすれに下ろした勢いで肩を通り越して一気に腕いっぱいまで差し上げる。
その後、「チョーサ」といってこれを勢いよく宙に投げる。なんといってもこれが魅力でよく見に行く。
ここのまつりは他にも壇尻の上で演芸があったり、夜店も華やかで祭りの風情としては格段に楽しい。
「チョーサ」があるのは西隣の今はたつの市、昔の御津町富嶋神社や春日神社の秋祭り、なかでもその末社で夏祭りにも屋台が出る蛭子神社に奉納される岩見浜は「チョーサ」のタイミングが他とは異なる。それがまたなんとも風情があって良い。
北へ目を転じると、姫路の北西の山間部にある今の宍粟市、昔の神崎郡一宮町の伊和神社の秋祭りでは、なんと屋台を引きずらんばかりの低位置で維持しながら、「カイタデショ、カイタデショ、カイタデカイタデカイタデショ」と叫びながら回転する。
そのあと直接連続「チョーサ」に入ってこれを数セット続ける。播州型の祭りの西の果てまでは探索していないが、きくところによると岡山県東部の大原にも伝わるらしい。山三つほど超えた西である。山崎より西へ行くと、山容もぐっと険しくなり、森の中に響く祭り太鼓の音が、農村生活の厳しさを感じさせてくれる。
伊和神社の秋祭りは、ほとんど情報がないのでここに乗せておきましょう。日程は曜日に関係なく10/15-16。
宍粟市といってわかりにくければ、昔の神崎郡山崎町の北隣が一宮町。中国道山崎ICから国道29号を北上。
その中心にある伊和神社の秋祭りで、式の次第は、午前中に各村を出た4台の屋台が、御旅所になっている「道の駅」駐車場に集まるのが昼頃、そこで練り合わせをしたのちに順次宮入りをして行く時にこの回転する屋台が見られる。その後練り合わせをしたり神事があったりして、宮出しを始める時にも見られる。
その後、屋台は御旅所とは反対の西側に流れる揖保川の河川敷に並んで神事を行い、15時ごろ再び境内に戻って宮入、このとき新規参入の屋台がもう一台加わって練り合わせ、餅まき、宮出しと続き、御旅所に一旦集まって練り合わせしたあと、18時ごろ国道を止めて各村に戻っていく。
付近に駐車場はなく、外から見物に来る客は「スポニックパーク」駐車場に停めて歩いて見物に行くようである。公共交通機関を利用するようにと触れが出ているが、バスは本数が少ない。しかし祭りは18時はほぼ終わってしまうので使えなくはない。
2019年10月13日
2019年10月07日
20191007 丹波黒大豆枝豆
丹波黒大豆枝豆が旬を迎えました。\500/ 200gで販売します。枝付きをご希望の方はご相談に応じます。バラ売りと枝付きとでは、それぞれ一長一短があります。バラ売りの長所は、外す手間がかからない・量目が正確なこと、短所は、日持ちがしない (三日程度) ことなど。枝付きの長所は、日持ちする (一週間程度)、短所は、外すのが手間・量目が不正確 (割高になる可能性もある)・嵩張るので送料が高くつくなど・・・生産者にとっても、枝付きで出すとなると、良い株を選ばなければならず、切ってみて葉を落としたらもひとつだったということで無駄になる可能性が高い。間に虫食いや腐れがあると出せないこともある。葉を落とす手間で実をパラせるので、結局バラ売りにした方が楽・・・という事情があります。枝付きの方が割安ということにはなりません。というわけで、枝豆繁忙期に入ります。いつもご好評をいただいているので、ご入金いただいてから数日いただくかもしれませんが、枝豆は早朝に採り終えるのが身上ですので、作業時間が限られます。どうかご理解ください。兵庫発チルドゆうパックでお送りします。なお、現在availableなのは、バジル・ペースト\800・キムチ\500・醤油\800・醪\500です。なお、近日中に醪の粉末と豆豉醤を作る予定ですので、それまで待って合わせてご注文いただいてもOKです。枝豆は10月末で終了し、残りは年末の黒豆、味噌醤油の原料に回します。11月からは稲刈りを始めますので、ご興味おありの方はどうぞ。だいたい毎日10-15時、各線道場駅送迎可能、参加無料。たぶん粗食ランチ付き、持ち込み歓迎。
2019年10月04日
2019年10月03日
20191003 Pearl Speed Pedal
40年も使い込んだ古いフット・ペダルのフープ・クランプのネジがアンダー・シャフトを食いちぎってしまったので交換を試みる。もちろん純正パーツなどないので、ホーム・センターで売られている金物で代用する。材料費\100 (^^)。
まずは現物あわせで独特の曲げをなぞる。元のパーツは、近接した位置で、二度、直角に曲げられている。これを再現するのだが、厚さ3mmの鉄板であるので容易に曲げることはできない。曲げる部分をケガキして金属鋸で少し切れ目を入れる。反対にも曲げるので、裏も同様にする。
頑丈な万力を適当な板に固定し、材料を固定する。直角の確認を忘れずに。平面を崩さないように当て木をして、ハンマーで一気に叩く。
裏も同様にセットしたあと、直角なので万力を立てて、材料を上から叩けるようにする。
誤差の範囲で収まった。
叩くとずれるので微妙な歪みやねじれを金床の上で成形する。
金物が元のパーツよりほんの僅かに幅広だったので、グラインダーで削って調整する。
元の状態では携帯に便利なように、この部分で畳めるようになっていたが、それが却って早い動作でフット・ボードが浮いてビーターがもたつく原因になっていたので、ボルトを本体に貫通させてこれを固定しようとした。ちょっとエイ・ヤア・タアでやったので雑になったがボルトで隠れるのでよしとしよう。
フット・ボードのかかとにあたる部分も、長さの調整ができるように穴を追加。
クランプのねじの先端が尖っていて、これがシャフトを破断させる原因になっていたので、この部分を削って平坦にした。
完成 !! このペダルはダイレクト・ドライブで、なんのタネも仕掛けもないのだが、これで足が慣れてしまっているのでこれが最も使いやすいのである。ますます愛用。