2020年01月31日

20200131 The Roots: Things Fall Apart

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The Roots: Things Fall Apart (CD, MCA Records, MCAD-11830/ Limited Edition, Ace Cover, 1999, US)


Act Won (Things Fall Apart)

Table Of Contents (Parts 1 & 2)

The Next Movement

Step Into The Realm

The Spark

Dynamite!

Without A Doubt

Double Trouble

Act Too (The Love Of My Life)

100% Dundee

Diedre Vs. Dice

Adrenaline!

3rd Acts: ? Vs. Scratch 2... Electric Boogaloo

You Got Me

Don't See Us

The Return To Innocence Lost

Untitled (blank)


https://www.youtube.com/watch?v=MJCHeEQV454


D'Angelo、Erykah Baduと聞いて、その周辺のNew Classic Soul、Hip HopやRapをたどるなかで、The Rootsという「バンド」に惹きつけられることになった。「バンド」と「」付きにしたのは、実は彼らはRapグループなのだが、おそらく世界唯一、サンプリングやプログラミングに頼らず、楽器演奏をするバンドだからである。Hip HopやRapが、なぜ既存の音源をサンプリングしてベース・トラックにするようになったかというと、要するに貧乏だったからであるが、その貧乏を生み出した状況について、社会や仕組みの不当性から、自分自身が変えられない要素、例えば肌の色や故郷の喪失などによって、苦しい状況に置かれることを余儀なくされていること、それを言葉にするには、個人的でストレートなメッセージ性を得る必要があると認識されたからである。状況の変化が早く、バンド演奏を醸成している時間がないことと、バンド演奏だと、それぞれの情感に応じた音が空間的に出せるかどうかが不透明で、ミュージシャンの肉体的整合性に依拠せざるをえなくなる、つまりメッセージの切っ先が鈍るからである。Hip HopやRapというのはそういう「音楽」である。これも「」付きにしたのは、私は未だ、そういう意味では純粋に奏でられたものでないと音楽として認めたくない気持ちがどこかに残っているからである。だから例えばReggaeがRoots Rockの時代からDance Hallへと進化し、バック・バンドが「奏でる」ことよりもDJのバック・トラックの役割しか果たさなくなったこと、ひいてはサンプリングやスクラッチ、あるいはプログラミングによるバック・トラックが主流になっていったこと、要するに日本で言うところの「クラブ・シーン」に、一抹の寂しさを覚える。なぜかというと、私はヴォーカルであれ器楽合奏であれ、全ての演唱が有機的に結合して一つの音楽が成立している状態に、より一層感動するからである。いわゆる打ち込みやループなど、その場で合わされたものでないバック・トラック上での演唱は、どうしても両者の間にタイム・ラグが生じる。それがいかに微々たるものであっても違和感が出る。楽曲が良ければ良いほど、それを最大限に表現しようとして、コンポーザーは不確定要素を排除したい気持ちは理解できるのだが、それだけにこの違和感があると失望が大きいのである。だから文化としては理解しているものの、私個人の趣味としては、これらのジャンルには深入りしなかった。それだけに、The Rootsの演奏を最初に聞いたときは衝撃だった。1993年のデビュー・アルバムからトラックに通し番号か振られており、私はアルバム3作目から数枚持っている。ここに紹介するのは、そのなかで最もメロディアスなトラックの多い、音楽的に聴きやすいものである。オリジナルが出た直後に並行して発売された5種類のジャケット違いのうちの一つである。おそらくは銃撃された人の手に握られたスペードのエース、衝撃的な写真である。インナー・スリーブにはメンバーの表情とともに、各トラックの来歴やコンセプトが延々と綴られている。内容は、かなり難解な英語で意味するところのわからない部分が多いが、拾い読みでも十分伝わってくる。どうにもかける言葉の見当たらない絶望的な気分になる。その気分を共有することによって、明日を生き抜こうという気持ちになる。ちなみに最後のトラックは無音。

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20200131 Erykah Badu: Baduizm

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Erykah Badu: Baduizm (CD, Universal, UD 53027, 1996, US)


Rimshot (Intro)

On & On

Appletree

Otherside Of The Game

Sometimes

Next Lifetime

Afro (Freestyle Skit)

Certainly

4 Leaf Clover

No Love

Drama

Sometimes...

Certainly (Flipped It)

Rimshot (Outro)


https://www.youtube.com/watch?v=HEPo3DEBtUI

https://www.youtube.com/watch?v=73aLNB0pPuQ


これはD’Angeloの翌年に買った。尼崎市内の強烈にエキゾチックなアパートに仮住まいを始め、バイトで食いつなぎ、ぶり返す悪夢と戦っていた。枕許に東海道本線が走り、夜通し数分おきに貨物列車が通過する。凄まじい轟音と振動で、とても眠れたものではない。それは「あの瞬間」を思い出させるに十分すぎる刺激だった。選りに選ってこんなところに仮住まいを始めてしまったのには訳があるが、それは措くとして・・・しかしここに長年暮らす人もいる。慣れとは恐ろしいもので、午前2時ごろ數十分ほど列車の往来が途絶える時がある。そこを狙って眠りに落ちる。そんな状況の中で、どうやってこのアルバムに出会ったか全く覚えていないのだが、パッと見てすぐ買った。イントロから、独特の歯切れの良いリム・ショットの音とソウル・ミュージックに特有の、甘くて丸くて暗い、粘りつくようなグルーヴを持つベース・ライン・・・たちまちこの世界に引きずり込まれる。オーソドックスなソウル・ミュージックである。しかし1970年代とは何もかも異なる。レーベルのオール・スター・バンドがあって、そのバッキングに乗せて歌手が量産された時代ではない。あらゆる指向性は細分化されて、大きなシーンでも、一つのコンセプトをバンド演奏で練り上げることが困難になっている。Hip HopやRapは、個人のメッセージ性がモノを言う「音楽」である。「」付きにしたのは、これらが純粋に「奏でられたもの」ではないので、私としては音楽と呼ぶのに若干の戸惑いがあるからである。しかしそれらの影響を受けて、さらにデジタル技術が洗練、蓄積されて、多くのトラックが容易に (「安易に」ではなく) 完成できたことも事実である。都会的な現代ゴスペルの中で蓄積された才能、プロデューサー・シンガー・ソングライターのMadukwu Chinwahが関わった作品群と、ほぼ世界唯一と言って良いバンド演奏によるHip Hopグループの ≫The Roots ≫が関わった作品群があり、彼らがバック・トラックを制作して、コーラスを含めた全てのヴォイスをErykah Baduが務めている。トラックの多くの部分が、そうしたプログラミングや多重録音で構成されているが、それによる違和感は全く感じない。それどころか、その一貫性が、バンド・サウンドよりも強固な個性を打ち出すことに成功している。全体として見事に統一されたアルバムの空気を持っていて、イントロから徐々に、ソウルフルでアフリカ的な、つまり呪術的で反復を基調とした、そこに私は色濃いバントゥーのニオイを感じるのだが、さらに硬質で社会的な緊張感を孕んだ世界に降りてゆく。特に、転調してもベースが安易に追随しないのが良い。転調されたコードと共通の音程を慎重に選んで変わっていく曲想に、むしろ動かしがたい凄みを感じる。初めは、愛について、男と女の気持ちのすれ違いについて・・・彼女の、低いが真の強い、見事な歌い回しに導かれ、そして事実上のラストを飾る ≫Drama ≫で、このコンセプトが見事に提示される。なんと、この曲だけRon Carterがベースを弾いている。「この世界はとてもドラマチック・・・こんな世界に私たちが生きているなんて、とても信じられない。なんという、狂いに狂った世界に、それでも私はまだ生きている。」そう、生きることそのものに苦しむ人が世界中にいる。いや、苦しんでいる人の方が、はるかに多いに違いない。これは24年前に発表された作品である。あの頃に比べて、今はもっと切羽詰まっている。状況に苦しみ、心を痛めない人は、おそらく気がついていないだけに違いない。生きるか死ぬかの瀬戸際にいる人たちに比べて、私はなんと幸であろう・・・出自によって差別されたわけではない。不当に隔離されたわけでもない。仕事がないわけではない。貧富の差に落ちているわけでもない。デモに参加して拘束されたわけでもない。間違った教育を受けたわけでもない。そしてい命が狙われたわけでもない。「子供たちに知恵を、明日を生きられるように、本当の知恵を・・・」私は今でもこの曲を聴くと涙が出る。なんという安らかな、暗くて冷たい、厳しい、絶望的な、そして希望に満ち溢れた歌だろう・・・そしてアルバムは進行し、徐々に現実に戻っていく、独特の歯切れの良いリム・ショットに導かれて・・・

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20200131 D’Angelo: Brown Sugar

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D’Angelo: Brown Sugar (CD, EMI E2-32629/ EMI 7243 8 32629 2 2, 1995, US)


Brown Sugar

Alright

Jonz In My Bonz

Me And Those Dreamin' Eyes Of Mine

Sh*t, Damn, Motherf*cker

Smooth

Cruisin'

When We Get By

Lady

Higher


https://www.youtube.com/watch?v=H_WzjiTzZBA


 1995.01.17を境に全てが変わってしまった。なにもかも。もうそれ以前のようには戻れなくなった。心も体も。それまで集中していたこと、あれほどかけがえのなかったことにも、全く興味が湧かなくなった。空虚な心を、冷たい乾燥した風が吹き抜けた。感情、というものさえ、それがどんなものだったのか、人として一生懸命に思い出そうとしたのだが、全くダメだった。破壊と混乱と喧騒の一ヶ月が過ぎて、重機が街ぐるみ地上を引き剥がして行った後、私は全く何もない状態であてどなく彷徨った。居場所は遠いところにしかなく、そこは別世界だった。私の世界はここにあるはずだったが、ここには何もなかった。こんなことが起こるなんて、誰も全く予想していなかった。それまでは、周りのものは全て正常にそこにあり、社会には秩序が保たれていて、世界は、まだ、平和だった。要するに、概ね万事、順調だった。もちろんすべてに安心して満足していたわけではない。そもそもそんなことはあり得ない。しかし、明日のことを計画し、未来に希望を持つために踏ん張ることのできる足がかりくらいは、確かにしっかりと足元を支えていた。それが全て消えて無くなった。明日の屋根はおろか、今夜すがるべき軒下もなかった。要するにそれまで当たり前のようにあったすべてのものが、跡形もなく消えた。秩序も常識も、感覚も狂った。水平と垂直さえ、おぼつかなくなった。構造物など言うに及ばず、地面が最も恐ろしかった。ゲラゲラと笑いたい衝動をこらえて、狂っていく気持ちを抑えるのに必死だった。たしか、初めて街へ出た時にたまたま手にしたのがこのCDだった。もう一度自分の心を埋め戻していくように、CDショップの試聴コーナーに一日中かじりついていた。それまでのジャンルの音は、とても聞くに耐えなかった。この心の冷たさ、虚無感を真っ当に評価してくれるような音、その片鱗だけでも良いからと思って、心の拠り所を探し求めるように音を貪った。Hi Hopは1970年代後半頃から日本でも伝えられるようになったので、ロックからパンクへと興味が移るにつれて、やがてそれらを耳にすることが多くなった。音楽活動を続けるうち、周囲にも多くのバンドができて、一緒にギグを打つようにもなったので、常に身近にはあったが、自分から身を入れて聞こうとしたことはない。しかしこのことがきっかけで、一時的ではあったが、ぐっとこの世界にのめり込むようになった。にわか仕込みなので、このシンガー・ソング・ライターの来歴や活動、それを取り巻くシーンの流れなど詳しくは知らない。しかし、この独特の重さ、暗さ、彫りの深さは、紛れもなく黒人のものであり、それに惹きつけられ、アフリカとは全く異なる世界へ私を誘ってくれたことだけは確かである。D’Angeloの作品としてはアルバム次作の ≫Voodoo ≫の方が高く評価されている。しかし私にとっては、よりシンプルでメロディアスなこちらの方が心に馴染む。

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2020年01月30日

20200130 武汉挺住

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武漢 (武汉, Wuhan) といえば、ドラマーであればシンバルを思い浮かべる。銅鑼などの、真鍮を原材料とした体鳴楽器は中国が発祥の地であって、武漢は現在でもその中心的生産地である。銅鑼は古代より戦争で兵を集め、進軍する隊列を鼓舞するのに使われ、ユーラシア大陸を西に伝播した。音楽的には、中国でも古くから二枚合わせの铜钹 (シンバル) が使われ、ほぼ形を変えずにヨーロッパまで伝わった。その直接の生産元となった場所がトルコのイスタンブールであって、ここは現在でもシンバルの主要な生産地になっている。一方、武漢でも銅鑼やシンバルの生産は続いていて、原料の銅と錫の品質が良いことから、多くのドラマーや楽器メーカー、職人が、西洋風の「シンバル」の製造技術を伝授して製品化させたものが多くある。エッジが反り返った、いわゆる「チャイナ・シンバル」(ZildjianではSwishやPang) は従来から生産されていて、むしろPaisteなどはその形状を模倣したほどだが、中国からヨーロッパへ何世紀もかけて伝播する過程で変わっていった「音の好み」を中国で再現することと、一定の品質枠に収めることに最近になって成功し、トルコ製やカナダ製、スイス製やアメリカ製では到底考えられなかったほど安価で品質の良いシンバルが手に入るようになった。しかし日本人はブランド志向が強いので、こられのシンバルはほとんど売れない。写真の一番下になっているのは、その伝統的なチャイナ・シンバルで、まだK.M.K.が日本に輸入する前に苦労して入手したものである。その右に乗っているのは、たしかアメリカの有志が武漢の現地の職人に依頼してデザインしたジャズ志向の良質なシンバルである。日本にも輸入されたがほとんど売れず、先日処分するという連絡を受けたので格安で手に入れたものである。私は心の弱い人間である。良い道具を手に入れたからといって腕が上達するわけではないことは、もう数え切れないくらい経験して身に沁みているにもかかわらず、欲望に負けたのである。それにしてもこのシンバルは、粒立ち良く鋭いピング音と抜けるようなカップ音、低く荒くてオリエンタルなクラッシュ音のバランスが絶妙な一枚である。ハンド・ハンマーでしか出し得ない音の深みが素晴らしく、どうしてこれが売れなかったのか全く不思議なほどだ。これ以上を望むなら、おそらくはイタリアのMatt Bettisか、究極的にはSpizzinoか、どちらにしてもケタの違う世界になる。その左上に乗っかってるのは手持ち銅鑼で、中央をマレットで叩くと音の上がる「回音班鑼」である。厳かな曲のエンディングに打ち鳴らすと曲の情感を台無しにするので好んで使ったものである。ちなみに音の下がるものは「虎音鑼」という。右上に乗っかってるのは、10インチほどの合わせシンバルの铜钹である。これは合わせシンバルとして使うと、春節の獅子舞の時に打ち鳴らされるような、典型的な中国風のめでたい音がするのだが、一枚ずつ吊るしてマレットで叩くと、耳を疑うような深くて柔らかい音がする。まったく素晴らしい。このほかに22インチほどのウィンド・ゴングを持っているのだが、これなどは銅鑼としては勿論、ドラム・セットの右端に吊るしてライド専用として使うと絶品の鳴りである。いずれも、ハンド・ハンマーの仕上げが丁寧に施された、材質の柔らかい、鳴り音に広がりと幅のある、素晴らしい楽器である。その音質は、中国大陸的に雄大なばらつきがあって、中国伝統音楽は、それらを生かし続けたからこそ、その多様性が保たれたとみるべきである。これをこのままジャズに用いると大変な暴れ方をするので、そのばらつきを一定の範囲に収めようとする技術的努力が武漢の職人の間でも行われ、その多様なバック・ボーンから見事に現代風のシンバルを叩き出すことに成功している。このような雄大さ、多様性、歴史を持つ中国という土地を、私はこよなく愛する。武漢は、世界史の上においてもドラマーにとって重要な場所である。武漢を大切に思っている。どうか、武漢の伝統が失われることのないよう、職人の皆様も市民の皆様も含め、持ちこたえていただけるよう心からお祈り申し上げます。
武汉挺住
2020.01.29 新型コロナウィルス 武漢から日本へチャーター第一便帰国、この往路に支援物資積み込み、中国人民から感謝される一方、国内からは非難の声もあった。また、この便で帰国したうちの2人が検査を拒否し独自に帰途につくも、後日検査を願い出た。これについても大きな非難があった。中国全土で主要都市封鎖。
2020.01.31 新型コロナウィルスWHO緊急事態宣言、当時からWHOが中国寄りだとする意見があり、この宣言も遅すぎたという批判があった。
世界的に防疫体制が敷かれ、武漢市に対して各国民を帰還させるチャーター便が送られると共に中国以外の国では中国を経由しているクルーズ客船から下船できない乗客も現れた。SARS-CoVが流行した2003年時点よりもグローバル化が進み、SARS-CoV-2 (20200211命名)感染者に無症状の場合も多いという特徴もあって、防疫が難しく、SARS-CoV-2は急速に世界中に広まって行った。また、ネットとマスメディア双方が「コロナ」の話題で埋め尽くされ、不正確な情報が大量に飛び交う「インフォデミック」状態に陥った。困窮状態にある消費者心理に付け込んだ、生活必需品の高額転売なども起きた。(Wikipediaより)
(2020.04.20追記)
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2020年01月28日

20200128 宝塚マタギの道

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 正月によく散策するルートがある。これは私の実家 (すでに人手に渡った) の前の坂を見下ろしたものである。私の家は高台にあって、最寄りの駅から歩いて15分ほど急坂を登る。毎日この上がり下りをしなければ生活できないので、おかげで私の足腰は丈夫である。

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左を見上げれば、かつてはここに「うさぎ山」という小さな山があった。宝塚の平野部と西谷地区を隔てる「長尾連山」の最後の砦のようなものだ。昔は東の中山につながっていたはずだが、切り崩されて宅地造成された分譲住宅地に我が家はあった。1960年代前半、私が未だ子供の頃は、その斜面を伝って西へ行くと清荒神の参道に出られたもので、獣道に紛れ込んでは谷川に降りて沢蟹を捕まえたりして遊んだ。しかし「中国縦貫自動車道」が通るということになって、地元に説明会があった。その場所が知り合いの家で、そことは仲が良かったので、親に連れられた私も参加したことを覚えている。高速道路は、その丘陵の斜面の下をトンネルで貫通する。その取り付けのため、造成されたばかりの住宅地は、まるで胃がんの手術のように、不自然に斜め半分もぎ取られる形となり、地区の住民の半数近くが立ち退き対象になっていた。しかも、説明会の会場を提供した当の本人の家も立ち退き対象だったため、仲の良かった地区の住民たちはこぞって反対した。しかし、計画はすでに決定されており、巨大な力でそれはすぐそこまで押し寄せていた。場には投げやりな空気が漂った。説明しにきた役人たちは住民をなだめるしかなかった。ある人が排気ガスによる大気汚染を心配した。それに対する役人の答えを今でも覚えている。「なに車はすぐに走り去っていきますから・・・」私は幼友達の大半を失うことショックを受けていたが、そのときとっさに「でもまた走ってくるやん」と言ってしまった。役人がじろっとこっちを見た。親が私の太ももを叩いてたしなめた。「でも・・・走ってくるやん・・・」このやり取りは、私が大人に反抗した初めての経験として、よく覚えている。もちろんこの巨大公共事業が、一つの地区の反対で変更されることなどあり得ない。静かだった住宅地は連日のようにダンプ・カーが走り回る地獄と化した。そのなだらかな美しい丘陵は無残に切り崩された。しかし私にとって最も辛かったのは、仲の良かった友達のほとんどが立ち退いて、いなくなったことである。高速道路の開通と、山の住宅開発と、人口増加に対応した小学校の新設はセットになっていた。私はそれまで少し遠くて古い小学校に通っていたが、新しい学校ができたことで校区の分け方が変わった。

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私の家から右上を見上げると、そこに三棟続きの社宅がある。私の家は立ち退きを免れた代わりに、地区の分け方が変わって、その社宅と同じグループに編入されることになった。そのときから、私の幼少期の地獄が始まった。その地区には、当時まだ社宅以外に同じ小学校に通う子供のある家が少なく、私はその社宅の子供達と遊ぶようになった。しかし、きわめて残念なことに、一つの会社の社員の子供という、私にはどうすることもできない連帯感が、たった一人「遊んでもらいにくる」私を疎外する方向に働くのに時間はかからなかった。それまでの、誰彼となく山に集まって走り回っていた、刺激的な楽しい毎日は、ダンプ・カーに怯えながら、柵で囲まれた小さな公園での軟禁生活に取って代わられた。しかも、相手は多勢の「組」をなしていた。そのボスにあいさつし、ボスの言うことを聞き、ボスのために働くのが、そのグループの「掟」であり「遊び」だった。いじめはすぐにエスカレートした。私はもともと鼻っ柱゜の強い人間である。壮絶な喧嘩が始まったが、所詮多勢に無勢、群れに従うか、立ち去るかの選択を強いられた。無論私は立ち去ることを選んだ。しかし当時、教育熱の盛んな新設小学校は、異常なまでに管理が厳しかった。具体的には、子供達は放課後、自分の属する地区内で遊ばなければならなかったのである。地区を出ることは許されず、地区の境界線上の要所要所には、保護者のボランティアが「交通安全」の旗を持って監視に立っていた。私の放課後の毎日は、その監視の目をかいくぐって地区をいかに脱出するかのサバイバル・ゲームとなった。

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幸いにして、私の地区は校区の西北端にあったから、西北側へ脱出できれば自由の身になる。東と南は封鎖されている。しかも私の家は「うさぎ山」に隣接しているので、社宅の西の端に立つ大人の目さえ盗んで山に入ってしまえば、あとは獣道伝いに清荒神の参道へ脱出できる。そのルートは通い慣れた灌木の迷路だった。音も立てず見つかりもせず、石ころ一つ落とさずに、潅木や茂みに潜んで谷を渡ることができた。「うさぎ山」には私のサバイバル精神の源がある。しかし、しかし、この山が何十年か前に完全に潰されて宅地に造成されてしまったのだ。

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山のランド・マークである大きな鉄塔は、すでに住宅地の中に埋没している。

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山頂から見下ろした高速道路も、家と家の間から垣間見なければならない。

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急峻な崖になっているために、何度も転落した北側の斜面は、造成されて遊歩道のついた公園になっている。

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もはや辿る道も砂防ダムのコンクリートで埋められて見分けることもできないというのに、なぜか正月にはここにきて、楽しかった子供の頃を思い出し、辛かったその後のことを思い出し、理不尽な世に対する復讐の牙を研ぎながら山に潜んだ頃を思い出すのである。

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清荒神の参道に入ってしまえば、往来する人が多いので紛れ込むのはたやすい。しかも有馬街道を越えれば校区が変わるので監視がない。その境界は人混みの邪魔になるから監視はいないのである。ただ、駅前はその校区の先生や警察がよく見張っているので、これを避けるために川へ降りてその際を歩く。

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今では護岸が固められてしまっているが、そのころ車の通る道をくぐる水路を利用した細い路地がたくさんあったのである。今でも様子は変わっているものの、それらはほぼ残っている。その道を伝って当時の私はあちこちへ足を伸ばした。

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有馬街道を西へとって、本当に有馬温泉まで行ってしまって帰れなくなったこともある。

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最もよく遊んだのが川面 (かわも) 神社であった。なぜここだったのかはよく覚えていない。ただ、そこへ行けば仲良く遊んでくれる友達が集まっていた。彼らは私の校区や地区などを尋ねなかった。隣の学校の奴だなということはわかっていたようだ。しかし、よく遊んでくれた。

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彼らに連れられて神社の参道を武庫川まで突っ切って、葦の原でかくれんぼしたりした。その道には、もう大きな国道や駐車場に変わり、タワー・マンションが建っている。そこから先のことをつぶさに書くことは憚られる。なぜならその付近一帯は、学校から「行ってはいけない場所」と教えられていた場所だからだ。しかしそこの子供たちと私は遊んでいた。そのことは学校には絶対に秘密だった。何人かの子供の家にも行ったことがある。昼から酒を飲んでる父親がいた。しかし優しい人たちだった。

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暗くなると、思いっきり走って帰らなければ、しかるべき刻限に家に辿り着けない。しかも辿る道の後半は獣道だ。いまから考えると、よくあんな野生児のような毎日を暮らしていたものだと感心する。だから、正月にはその頃の記憶を新たにし、強く生きようと心に誓うのである。


2020.01.28 新型コロナウィルス武漢での死者100人超え中国全土で106人 (2020.04.20追記)

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2020年01月27日

20200127 私はBossa Novaが好き

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 私はBossa Novaが好きである。Bossa Novaを、当たり障りのないオシャレなカフェ・ミュージックだと思っている人も多いようだが、とんでもない。João Gilberto をよく聴くが良い。リズムと言葉の緊張感極まりない即興的なせめぎ合いである。しかもSambaの基本的なグルーヴが全体に通底していて、そのせめぎ合いを有機的に支えている。ここが大変重要なところだ。つまりそれはブラジルの音楽であって、ブラジルの国境を越えたからこそ得られた普遍性だと思うからである。だからこそ、世界中の様々なジャンルからのアプローチがあり得た。しかしオープン・マインドであるということは、好き勝手な解釈も可能なのであって、技術的に繊細で高度な演奏を求められることや地理的に近いことも影響して、ジャズからのアプローチがもっとも多くなった。しかしそれは往々にしてブラジル的なセンスを捨ててアメリカ風の合理的な解釈を生んだ。結果的に、ジャズ・メンによるBossa Novaの演奏は、Bossa Novaが超越しようとしたにも関わらず最も大切にしていたニュアンスを、ほぼ完全に無視する形で捨象され、安易に展開されることになった。つまり、もともと「ブラジルの音楽」でさえなかったかのように演奏されるようになった。それが良いかどうかは別として、「ブラジルの音楽であって、ブラジルという国境を越えた」ものでなければならなかったはずのものが、性質を変えて拡散してしまったことは否めない。かくてBossa Nova、当たり障りのないオシャレなカフェ・ミュージックになりやすかった。私が初めてBossa Novaを聞いたのは、たぶん小学生の頃だ。まだ実家には、母方の祖母とその子供たち、すなわち私にとってはおじやおぱが住んでいた。応接間にはステレオ・セットがあり、毎夜「軽音楽」が流れていて、そのなかにAstrud GilbertoやSergio Mendesがあった。そして映画のサントラ盤に混じってPierre Baroughもあった。1960年代のことなのでリアル・タイムだ。いまから考えると、よくあんなものが片田舎にあったものだと思う。子供だった私は、もちろんものの区別などわからないから、それらを一緒くたに聞いていた。したがって比較的大人になるまで、Bossa Novaはフランスの音楽だと思っていた。Pierre Baroughの ≫Ce n'est que de l'eau ≫すなわち ≫Aqua de Beber ≫の印象があまりにも強烈だったからだ。それ以後、ブラジル人の手によるものでないBossa Novaに興味を寄せるようになった。特にフランス人の感性とBossa Novaはよく合う。Bossa Novaは、やはりギター一本を軸にして、その音が届く範囲で演奏されるのが基本だと思う。みんなで輪になって演奏するようなものではない。本質的には内向的な音楽である。それがChansonとよく調和する。だからフランス的な、もっと言えばパリ的な、あの陰鬱な空気感とよく合う。ところがパリを出て南下し、地中海のほとりを東に向かってフランスからイタリアへ渡ると、Ventimigliaという国境の町を経て空気が変わる。幾分山を越えた感があるが、同じ晴れた景色でも、幾分くぐもった丸さを持つ陽射しが急にシャープになる。言葉も味覚も、音楽もシャープになる。ここに手にしているのは、たまたまネット上で見つけたBossa Novaの良い歌を調べて行ってたどり着いたNossa Alma CantaというイタリアのBossa Novaグループである。日本では手に入らないし、国外のAmazonなどでも売られてなかったので、彼らのホームページ上からメールを送ったら、なんと返事が来た。全5枚セットで安くしとくよ、てんでPayPalで送金したらすぐ送ってきた。内容は、半分くらいは既存のスタンダードなBossa Novaのカバーだが、半分近くオリジナル曲がある。全体を通して、当たり障りのないオシャレなカフェ・ミュージックとしての味に加えて、かなりエキセントリックなアレンジが施してある。ヨーロッパらしく、エレクトリック・ハウス的なものもある。おもわず昔訪れた南イタリアの古城で行われたフェスティバルで、夜通し暗い石壁の中でアンバー系のハウスに踊り狂うイタリア人と遊んだことを思い出した。ブラジルのものとは明らかに異なる、ヨーロッパ独特の暗さと彫りの深さに、イタリアの地質が持つラテン的なシャープさの加わった良質のBossa Novaである。私の好きな多くのフランスのBossa Novaの作品と同様に、彼らの演奏からも「ブラジルの音楽」対する敬意が感じられた。そしてそのうえで、彼らの文化や風土、彼ら自身のアプローチを込めて作品化した。良い買い物をさせてもらった。お礼に私が伴奏した唯一のBossa Nova作品をお送りしたら、先日お礼のメールが来た。こういう心の通じ合いがとても嬉しい。

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2020年01月24日

20200124 無法者の顛末

 24年前から私の正月は1/18に始まる。毎年年末から1月一杯にかけては精神的にどん底で、ほぼ廃人状態となり冬眠を決め込んでいる。まあひとことで言えば「冬鬱」というやつだ。去年は例の立木の問題と隣家の悪臭で惨々な目に遭った上にこの年末から更にメッタ打ちに遭って恰も産業道路で轢死したイヌの死骸が激しく往来する大型トラックに繰り返し繰り返し踏み散らかされてやがてボロ雑巾のようになり果てはアスファルトのシミと化してしまったくらい肉体感覚をすでに超越して軽やかな心持ちになってしまった。とりあえず来シーズンは農作をしないのでその準備がない分気楽なもので、ほんの子供の頃に全作品を読破した夏目漱石の、いわゆる「前期三部作」を読みかえしてみた。たしか小学校の推薦図書にもなっていたはずだが、そのオトナたちはこれらを読んでいなかったに違いない。よくもまあこんな三角関係のドロドロにエロ極まった複雑な話を子供に薦めたもんだ。読んだ当時は何やら艶っぽい話としかわからず内容など殆ど記憶していないのだが、いま読み返してみると明治という時代、急激な西洋化に対応する東京、それに引きずられるように経済が膨張して、やがて日本が帝国主義へと加速していく空気の中で、急に意識されはじめた「近代的自我」をもてあます主人公・・・ある意味、今の我々でさえ却って親しみやすい。全てが尻切れとんぼの結末で、その後どうなるかは読者の判断に委ねられているが、このような人たちがその後どうなるのかをあまた知っている我々からすると、筋立てそのものは非常にシンプルな、今から見るとありきたりなものと感じざるをえなかった。行間に詰め込まれた背景描写の凄まじい密度には手に汗が滲むほどだったが、しかし、それらが有機的に物語と結合していないどころか、その試みさえなく、むしろ投げやりな展開に堕ちていると思ってしまうのは私の傲慢かもしれない。なにしろ日本を代表する文学者・・・せっかくだから冬眠中は枕元に漱石の本を置いて年代順に読んでみることにした。そんなことをしている間にも日な夜な私はメッタ打ちにされ続けたのであるが、11月から昼の仕事を探しはじめ、運良く得意分野での契約仕事にありついた・・・はずだった。複数の転職エージェントで掲載されていたいくつかの求人に応募したところ、私のキャリアとうまくマッチして複数の応答があり、それぞれ別個に面接を受けて最終選考にまで残った。そのうち最も条件の良かった案件に返事して、初出勤の日を迎えた。ところが行ってみると先方と話がまったく合わない。最終選考までエージェントが行なったので、クライアントの担当者と会うのは初めてである。私の顔を見て怪訝な顔をする。その場でエージェントの担当者に連絡したが不在。とにかく私が採用されたわけではないことがわかって、しぶしぶそこを退場したのだが、時間が勿体無いので、即座に活動を再開するとともに、最終選考まで残っていた別の案件にもう一度トライしたものの、すでに別の人で決まった後だった。二週間ほど経ってエージェントから連絡があり、私が複数のエージェントから同じ案件に応募したために、募集先が私の常識を疑って採用を取り消したというのだ。ともにクライアントが非公開となっていて、エージェントによって表現や条件が異なったために、私は同じ案件とは気がつかずに応募したのである。その点について糾したが「転職市場の常識を知らない」と反論されてしまった。仕方なく一からやり直したが、そこから梨の礫となった。通常、求人情報に応募して不採用になった場合、「ご期待に沿えず申し訳ございませんが、あしからずご了承頂きたく存じます。〇〇様のより一層のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げます。」というメールが届くものである。この文末を略して転職市場では「お祈りメール」という。大抵の場合、私のような者は求人情報にエントリーしても年齢だけで振り落とされて、「慎重に検討」された結果、30分と経たないうちに夜中であっても自動的にこれが送られてくる。異なるエージェントに応募しても文面はまったく同じである。こいうい対応をされると、実に心が折れる。掲載された仕事内容を見て、それが手に取るように分かるものであればなおさらだ。その業務に私がいかに精通しているか、どれほど経験を積んできたか、すぐに動けるだけの準備も整えられていることを力説して応募しても、たった30分で「お祈りメール」がくると精神がかなりやられる。度重なると、いかに打たれ強い私でも心が荒んでくる。自分が全く社会から必要とされていないのではないかという思いにとらわれ、自分に何ができるかというポジティヴな発想ではなく、これだけのことができる自分をなぜ採用しないのかというネガティヴな発想に陥ってしまう。しかし序の口だった。この一件があって以降、別の求人にエントリーしても「お祈りメール」すら届かなくなった。おそらくエージェント間で情報の共有が行われたのであろう。そんなことを待っている時間はないので活動を続けていたら、別のエージェントから、身にあまる高条件のオファーがあった。そのエージェントは私のプロフィールを見て、「このままでは仕事の長続きしない人間が転職を繰り返しているとしか見えない。仕事の成果とともに報酬を明記した方が良い。」と助言されたので、それについて記載したら、すぐに10件ほどのオファーが来た。びっくりしたが、まったく畑違いのものを除いて、得意分野である加工食品業界に限って応募したところ、三社が残って直接の面談となった。私もこの業界が長いので、その会社は知っていた。おもに業務用ルートに乳製品を供給している会社だが、市販ルートに参入すべく新規事業を起こすにあたって、事業部長を募っているという。報酬は年俸制で4桁である。極端だ。最終選考に三人が残った。面接はその場で即興のプレゼンとなり、一人が落とされ、私ともう一人が残った。後日、一人ずつ呼ばれた。下町の商住混在地域にある、間口10メートルほどの4階建自社ビルだ。道に面した一階は駐車場で、バンが数台止まっている。その奥は倉庫兼仕訳場、2階が工場で3階が事務所、4階が社長室と役員室という、絵に描いたような中小企業だ。こんな会社が、私のような何処の馬の骨ともわからん男に、なぜ年俸4桁も出そうというのか、これは絶対何かある。社内を案内され、事業への関心を問われた。もちろん私は何をどんなところにどう売ればどう捌けるか、自分なりのノウハウと規模は予測できる。もう一人は、その筋では素人だ。社長にも会った。「是非、色の良いご返事を」とまで言われた。工場を見せてもらった。作業員の時給も聞いた。この仕事に就けば私はある程度やれるだろう。しかし、もはやその私は、今の私ではありえない。農作ができないとか、家事ができないなんて次元ではなく、わずかな睡眠を削っても、ひたすら仕事に打ち込むしか、生き残る道がないほど追い込まれるだろう。食生活なんてボロボロになる。この業界の空気も知っている。まったく別の人格、しかも魂を悪魔に売り渡し、今までの自分を全て葬り去らなければ務まるまい。これまでの主張は全て覆し、ひたすら金の亡者にならざるを得ない。環境問題 ?? 食の安全 ?? 原発問題 ?? 戦争反対 ?? ねぼけんじゃねえよ世の中そんな甘いもんじゃない。つまるところ世の中はカネで動いてる。カネは欲しい。私は心の弱い人間である。目と鼻の先に、輝かしい楽園が扉を開けて待っている。こんなチャンスは滅多にあるもんじゃない。降ろされた跳ね橋を渡れば済むことだ。渡りきったところで、良心のセンサーを切ってしまえば良いのだ。簡単なことだ。たったそれだけで、将来の経済的安定が約束される。私を取り巻く理不尽な状況も、金に物言わせて一気に解決することも可能だろう。いやそもそもこんな村に用はない。私は私自身を問われてしまった。三日間の猶予をもらって悩み抜いた末、私はこの話を断った。跳ね橋を渡る勇気がなかった。その下には奈落の底が口を開けていた。時給千円でこき使われる多くの作業員の苦痛の声が聞こえた。それを毎日聞きながら同じ建物に出勤する勇気が、私にはない。私は意気地なしである。負け犬である。しかも戦わずして負けたのだ。・・・・・・一連の活動は、履歴書を書き、職務経歴書をまとめ、相手が見やすいようにレイアウトして、自分を売り込む。自分を客観視して、採用したい人が興味を持つように編集する。自分のやってきたことを振り返るには良い刺激だ。振り回されたが良い経験になった。とりあえずどうするか、今は成り行きに任せよう。しかしその間にもメッタ打ちは続いた。年が明けてしばらくして、例の、村で仲良くしてもらっている「仲介者」が重い足取りで訪ねてきた。例の立木の件の遺族が、私を訴えたというのである。訴状は届いていない。おそらく裁判所で審査中なのであろう。年末に提訴したというから、遅くとも今月中には届くに違いない。訴えられて不利になる点といえば、隣家の立木を切ったのが私だという事実である。この事実のみが争点となるならば、私は敗訴する可能性がある。しかし法律上、立木は除去されなければならなかったのだ。では誰が切るべきだったのか ?? 争点はそこではなく、それに至った原因が考慮されなければならない。私からも、農会からも、農業委員会からも、公道に面している部分については警察からも、何年にもわたって繰り替えし繰り返し警告されてきたことなのだ。私が解決しなければ、さらに私が被害を被り続けていた筈だ。「知らなかった」では絶対に通らない。しかし「合意の上でヤッたのか」と問われれば弱い。絶対に合意しないんだから。これは緊急避難である。したがって提訴された場合、私は反訴することになる。全ての証拠は揃えてある。元々、私が穏便に協議して解決しようとして、また、農業委員会その他関係機関からの書類も含め蓄積してきたものだ。私は「仲介者」に、提訴されれば反訴する用意があると伝えた。これは彼らに伝えられるであろう。損害賠償をどの程度に算定したかは知る由もないし、そもそも相手が訴訟を起こして得をするとも思えない。あるいは、またぞろ私を揺さぶろうとして、そんな噂を流しているだけかもしれない。全ては訴状が届いてからだ。このようなことをいつまで続けなければならないのだろうか、ふと気がついて、窓の外、つまり隣家との境界、要するに悪臭の原因を確認してみた。また新たに残渣が積み込まれている。彼らは、私がいかに苦情を申し立てようと、その時は平身低頭して口約束をするが、決してそれを守るということがない。ムラというのはそういうところである。三代続かなければ人として認められない。それまでは彼らに隷属するか、鬼となって「無法に」振舞うしかない。「無法者」はムラ社会的に追放される。社会を変えるのか、自分を変えるのか、然らずんば死か・・・・追い詰められた状態で1月も終わりそうになった。本来、人はもっと楽に生きられるはずだと思う。それがなぜか、私が生きようとすると、その手足に様々なトラブルが纏わり付き、右足を一歩前に出すどころか、左腕をちょっと動かすことにさえ、膨大なエネルギーを消費する。道は、自然は、世界は、ごく普通にそこに存在する。私にも、他の人と同じ世界が見えている。しかし、そこへ降り立った途端、地面が急に泥沼に姿を変え、私はもがきながらそこへ沈んでいく。顔を地面に出し続けるだけのために、休むことなく泥の中で羽ばたいていなければならない。私は疲れた。そろそろギブ・アップか・・・

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2020年01月23日

20200123 Bu Gurur Hepimizin

文化や常識の異なる場所を旅することがなぜ良いかというと、困難に直面している人の顔が見えるようになるからである。人を排除しようとする目には、相手の顔が見えていないことが多いと思う。しかし、その場所に行ったことがあるなら、そこで助けてくれた人もあって、その人が苦しんでいるかもしれないと思うことが、文化や常識を越えて助け合おうという気持ちにつながる。その積み重ねと想像力が平和を作る。私はまた旅に出るだろう。旅は、自分の内面の呼び声に従って行動するものであるが、旅先では外からの刺激に従って行動するものであって、同時に自分の内面が理解されるよう、願ってやまないものであるから。

2020.01.16 新型コロナウィルス日本で初の陽性者 (2020.04.20追記)

2020.01.23 武漢封鎖 (2020.04.20追記)

 武漢のパニックが非公式に多く伝えられる。病院に市民が殺到して過密状態になり、そこで感染を広げた可能性、封鎖前に数十万単位で脱出した市民がいたこと、徒歩での脱出は前後して問題なかったこと、武漢市内から窮状を伝える動画多数、封鎖直前に潜入したジャーナリストもあり、彼はのちに行方不明。日本での受け止めは中国非難を含めて様々、しかしこの段階では対岸の火事という認識だった。

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20200123 キムチ漬け込み準備

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 今年は暖冬だ。まだ氷点下を経験していない。ストーブをつけない日さえある。こんな気候の時にあまりやりたくないのだが、私にとっては必需品なので、今年もキムチ作業始めます。朝鮮半島に伝わる伝統的な方法による白菜のキムチ漬けです。やってみたい人はご連絡ください。

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生の片口鰯があると最高なのですが、おそらく手に入らないので、干しイワシを一昼夜水につけて戻し、戻し身と同じ重さの塩で一ヶ月漬け込んで用意しておいてください。だいたい一ヶ月後をめどに漬け込み作業をします。必要なものその他ご連絡いただいた方に個別にご案内します。

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来月初旬に味噌の漬け込み、気温次第ですが春先に醤油絞りと漬け込みをやります。いずれもコウジを起こすところから始めますので、日程は確定できませんが、ご興味のある方のご都合にできるだけ合わせて作業したいと思っています。各線道場駅送迎可能、材料実費のみご負担お願いします。

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2020年01月22日

20200122 შქმერული

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ん ?? ・・・車で「松屋」の横を通った時、林立するのぼり旗を横目に見てしばし・・・カタカナで書かれていた文字を反芻してしばし・・・信じられない気持ちでUターンし、まさか・・・家でランチは段取りしてあったのに、「松屋」に突入・・・さつまいもの甘みがちょっと違和感あるので、これを白サツマイモの「イズミ」に変えればもっと合うと思うよ。美味い !! チーズ・フォンデュみたいに油がきついのと、思い切ったニンニク使用量で、営業や接客の仕事してる人には厳しいかもしれんが、美味い !! ほとんどの客がこれ注文してたな・・・
20200420追記 COVID-19
20200116 日本で初めての感染者確認
20200118 武漢の集合住宅地「百歩亭」には18万人が住むが、ここで4万世帯以上が料理を持ち寄る万家宴が実施されたが当局は放置した。この催事で感染拡大に拍車がかかったとみられる。

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2020年01月12日

20200112 いましばし冬眠・・・

 私が初めて海外旅行したのが1989年、以来、私は自分の内なる動機に従って行動してきたのだが、30年経った今思い返してみると、その時代の流れにきっちりと組み込まれてきたことがわかる。思えば、最も世界がグローバリゼイションを望んだ時期に社会に出て、海外旅行を何度となく経験し、自由を謳歌して、しかるべき帰着をした。これは自分のオリジナルな半生でありながら、振り返ってみると時代の流れにきっちり収まっている。考えてみれば当然のことで、この頃から「ワールド・ミュージック」という言葉が生まれて情報が飛び交った。それ以前は「民族音楽」であり学者の研究対象だった。音楽に限らず、ありとあらゆる文化で、世界が互いに手を差し伸べ愛、それは明るい未来を予感させた。折しも日本は、ちょうどバブル景気な真っ只中、有り余るカネに物言わせて世界中から物や文化を買い漁っていた時代だ。従って情報量も増え、それに触れる機会も増える。今から考えると、それは時代の流れであった。もちろんその流れは広大で、それに対して私の軌跡は蜘蛛の糸のように細い。しかし、その大きな流れは一つの方向、つまり川下に向かって突き進んでおり、おそらくそれを押しとどめることはできない。そこから離脱する力も私にはない。さらなる広大な海に流れ込むのか、あるいは灼熱の砂漠に消え果てるのか、流れの中のプランクトンのような存在には知る由もない。しかし、1989年の私がその後の自分の運命を知り得なかったのと同じように、自分たちの世界がどこへ向かっているのかを知り得ない2019年の人類を30年後の人類が見れば、あまりにも明らかな道筋を歩んでいたと見えるに違いない。もうすぐ1月17日、1995年から25年が経つ。光陰、矢の如し。いましばし冬眠・・・

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2020年01月10日

20200110 Pearl Modern Jazz Drumset

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 数年前にリサイクル・ショップで数千円で買ったドラム・セットをリペア。パールの「Modern Jazz」という、たぶん1960年代くらいのセットで、各種資料や私の記憶からいうと、かなり初期のものと思われる。パールがドラムを製造しはじめて間もない頃で、当時の最高ランクの「President」は輸出のみ、この「Modern Jazz」は国内向け中級モデルで、その下に「Valencia」というシリーズがあった。

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 タム・マウントがレールになっていて、もともと引っ掛けるだけだったのがネジで固定できるようになっている。このあとホルダーの形が直立タイプになるころまでは「Modern Jazz」の名は引き継がれるが、「President」のタム・ホルダーを簡略した六角棒タイプが採用された頃には消える。タム・ホルダーは、そののちグレードの別なく規格統一されて現在のものと互換性のある筒型パイプに変わる。

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 このレール・マウントというのは大変調整がやりにくく、今のように欲しい位置と角度にぴったり来ない。だいたい許容できる位置に近づけるにも手間ががるのである。尤も当時はそんなにシビアに位置決めするものではなかったので、これで十分用が足りた。それでねマウント・ベースの位置が左に寄り過ぎていて、最も右にセットしても、タムが若干左寄りになる。固定方法は引っ掛けるだけのものよりも確実で、しかも角度調節の固定方法にも工夫が見られる。位置決めさえ許容できれば、現在でも十分実用になる。

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 バス・ドラムには、ライド・シンバル用のホルダーがあって、そのブラケットの位置がかなり後方にあり、シンバルを欲しい位置に寄せようとすると、ホルダーをかなり前方へ引き出す必要がある。これにより、シンバルの揺れが大きくなり、またホルダー・ベースにかかるねじれの力が強くなってシェルを傷める可能性がある。

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 シェル自体は現在のものとは比べものにならず、単なるベニヤ板を加工したものであり、しかも工作が雑である。私の知る限り、「Modern Jazz」のセットのシェルに補強が入ったものを見なかったが、これにはエッジに補強が入っている。これは当時、我々が触れることのできた安物のドラムの特徴であった。逆にいうと、補強しなければならないほど本体が弱いのであろう。ラグの取り付け穴の位置精度も悪く、バリさえ落としてない。ラグそのものは現在のものと大差ないが、取り付けネジが全て錆び付いていたので汎用品のビスと交換した。タムヤフロア・タムそのものの構造やミュートなどの装備は現在と大差ない。

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 実際に叩いてみると、皮が恐ろしく古いので、懐かしのポワンポワンした音がする。しかし、これはこれでチープで良い。コンパクトにセットしても、タムやシンバルはかなり揺れる。しかし叩きづらいというほどではない。当時のフット・ペダルは、ほとんどがラディックの「Speed King」を真似しそこなったもので、ダイレクト・ドライブだが手入れと調整次第でなんら問題なく、いや軽くて小さい分、反応が鋭く素早く決まるので心地よい。このペダルは一生ものである。

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 外装は、ブルー・メタリックの樹脂製カバリングで、ドラマー位置から見て左側から光が当たる環境に長い間置かれていたためか、激しく色飛びしている。しかしカバリング自体はその後のものよりも強く、問題になるほどの浮きや剥がれはない。総合評価としては、あまり目立つところへ出すのは憚られるが、こじんまりとした店でジャズを演奏するには、しょぼくて渋くて趣深い、というくらいのセットである。できれば本番一発陽の目を見させてからヤフオクで売るとしようか・・・

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2020.04.20追記

 2019.12.31に中国湖北省武漢市で原因不明のウイルス性肺炎の発症が相次いで報告されている。多くは市内中心部の海鮮市場の店主らで、発熱や呼吸困難などの症状を訴えているとの報道。

 このころ、武漢市中心病院救急科主任の艾芬医師が原因不明の肺炎患者に気づき、その検査データとともに同僚医師のグループ・チャットに注意を喚起。これを見た眼科医の李文亮医師が、それをさらに医療関係者と情報共有した。これに関係した8名が地元公安当局から訓戒処分を受け、初期情報は隠蔽された。当時の認識は、まだ原因不明のSARSに似たコロナウィルスだった。のちに李文亮医師はこれに感染して死亡(20200206) 、艾芬医師は失踪 (20200415に健在を示すSNS投稿があったものの信憑性に疑問)。当時、彼らはマスクなど感染予防対策をしていなかった。

 当時この感染症について日本でも報道されていたものの、中国の衛生状態の良くない地域での風土病程度の扱いだった。人から人への感染は、まだ確認されていなかった。

 2020.01.07 新型コロナウィルスを検出

 2020.01.09 武漢で初めての死者

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2020年01月01日

20200101 毎月家賃を払うと

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家主に毎月家賃を払うと、お返しに毎月一つずつ餅をくれるのである。それを冷凍しておくと一年で12個たまるので、年が明けたら二つずつ焼いて食べる。畑の大根を間引くのを忘れていたのだが、それでもなんとか大きく育つので適当に抜いて食べる。農閑期に入ると体力を使わないので、たいてい一食減らして一日二食にする。朝は寒いのでゆっくり寝て、昼食を作る手間隙がないので、朝からぶっ通しで引きこもり生活に集中できるのが良い。腹が減ればビスケットと紅茶程度にしておく。時間の無駄なく読書や音楽鑑賞やドラムの練習に集中できる。夕方にはバイトに行かなくてはならないので、16時ごろからゆっくり食事を作る。百姓をしていると、こういう自由な時間が取れるので良い。その代わりシーズンが始まれば地獄である。朝早く起きなくてはならないし、季節に追い回される農作業に、手作り生活へのこだわりから家事にかかる時間と労力が半端ではなく、まだ明るいうちに夕方になるのでその前に慌ただしく早い夕食を掻き込んでバイトに走らなければならない。帰ってくると深夜なので、全く自由になる時間がない。ゆとりも楽しみもない。疲れと明日からの段取りによるプレッシャーと、後片付けと入浴と洗濯と睡眠・・・これが「スロウ・ライフ」の実態である。まあ1/17までは毎年どん底の冬眠生活なので今は何も考えたくないのだが。

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20200101 正月というものは

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正月というものは正月にしか出来ないことをやるのである。つまり平日では出来ない、やってはいけない、行ってはいけないことをやる。その一環として何年か前に旧国鉄福知山線の廃線跡のうち、入ってはいけないところへ入って散策したのだが・・・

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http://jakiswede.seesaa.net/article/463538835.html

やはりそんなところに入り込む輩が後を絶たぬと見え、そこへアプローチできる禁断の獣道が厳重に封鎖されてしまったので、来年装備を整えて再挑戦するやむなきに至った。正月早々の挫折である。しかし私の人生は、挫折から這い上がり、裏道どころか藪にまみれた獣の踏み跡を辿るようなもので、地面を這いずり回り山野を眺めること半日、イヌも歩けば棒にあたって、普段なら入れない某工場敷地内にてなかなかインダストリアルな絶景に触れた。

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