ちょうど良い機会だから、兼ねてから手をつけたいと思っていた足踏みミシンの習得に挑戦しようかと思う。私がここに引っ越してきたときにあったもので、家主さんが邪魔になるから叩き壊そうとしていたのを待ってもらって廊下の隅に置いた。何年か後に試してみようと思って開けてみたらあちこち外れていたので、機械の連動だけは繋げることができたので、動きはわかった。しかし「ミシン」というものがいかなるものかを知らない私は、各部の調整ができずに投げ出したままになっていたのである。家主さんによると、これは家主さんのご両親が結婚されたときに送られたものらしいのだが、おそらく一度も使われていないという。たしかに椅子のビニルもそのままだし、本体にも傷らしい傷はない。図解ばかりでできた説明書はあるのだが、そもそも「ミシン」というものがいかなるものかを知らないので、そこに書かれてあるパーツが何なのかがわからない。あと二ヶ月少々で私は還暦である。これまで努力を重ねてきたにも関わらずお婿になることができなかったので、ひとつ「ミシン」を体得してお嫁さんになることを目指してみやうと思う。
やっとありついた昼の仕事で何かまたミスをやらかしたらしく、毎日来るはずの翌日の指示が来ていない。食品業界での長年の営業経験を生かした継続的な仕事を探していたものののほとんど門前払いだったので、仕方なく単発の件数仕事の業務請負を始めたのだが、雇用されているわけでもないので依頼がなければ仕事も報酬も発生しない。担当者に電話しても出ない。仕方なくまたあてどない仕事探しをやりかけて、ふと手を置いた。また半年前と同じことを始めている。世の中には求人情報が溢れかえっている。しかし画面の通り、ほとんど全ては同じ求人の繰り返しなのである。どれかにエントリーしても、全く返事がないか、忘れた頃に「お祈りメール」が来るだけだ。職務経歴書の書き方に問題があるのかなと思って、考えうる改善措置は尽くした。ハローワークに支援も仰いだ。しかしキャリアを生かせる仕事にはヒットせず、残された可能性は最低賃金程度の単純労働ばかりだ。私は労働を蔑視していない。むしろ百姓という仕事柄、現金収入は労働によって得られるべきで、それが私自身の社会性の維持にも寄与するとさえ思っている。しかし穀物や野菜が自給でき、炊事を含めた家事の全てが自己完結できるからこそ、今の生活が成り立っている。労働に時間を取られれば、当然これらができなくなる。その損失はおそらく月額で6万円程度と推算できる。したがって、これをはるかに上回る収入がなければ、これを犠牲にしてまで昼間の時間を労働に充てる価値はない。そんなものに時間を取られるくらいなら、これまで溜め込んでしまったもの、豊かな音源、音楽や写真の可能性、道半ばの研究・・・死ぬまでにやっておきたいことは山ほどある。生活の維持は、夜の仕事だけでなんとかなる。借金もない。こんな自由を手にしうるのも、考え方を変えれば幸運なことなのかもしれない。
仕方がないので、先日古道具屋で見つけた懐中電灯を自転車に取り付けて可愛さを増して喜んでみたり、
別に難しい話じゃない。AとBが混在したグループがあって、それをAとBに選別しようとしている。Aは時間とともにBに変化する。選別の篩は一方通行である。たぶん中学二年生くらいで習う集合論だ。選別の篩を通ったAをもとの混在したグループに入れて良いと思う中学生はいない。なぜならAは時間とともにBに変化するからだ。しかし横浜港ではこれをやってしまった。そこで大人は反省の弁を口にしたが、選別をやり直すことはなく、混在したグループに戻されたAがBに変化しているかもしれないのに野に放ってしまった。大人は篩にかけたから大丈夫だと言った。しかしその篩の精度はあまり良くない上に小さいので選別に時間がかかることがわかった。だからこそ丁寧に選別するべきなのだが、そうはなっていない。社会は紙の上での集合論とは違うから理不尽である。しかし、その理不尽をできるだけ少なくしようと努力するのが論理である。論理を他の力で曲げ続けていると、AがBに変化する力に対抗できなくなる可能性がある。たぶん中学生にもわかる話だ。これがわからない日本社会にむけて、私は全国的なゼネストを呼びかける。自発的に個人の判断で社会活動から離脱すべき。
白とも黒ともつかない混沌とした集団があって、白か黒かを判定しようとしている。しかも、白は段階的に黒になる可能性があるので、なるべくそれを少なくしようとしている。そこで一人ずつ検査を始める。検査の門を通った人は白か黒かに分けられて二つのグループに分けられる。門を通った人と未だ通っていない人は、門を隔てて厳密に分けられていなければならない。したがって、門を通過した白の人が安心して門をくぐって元に戻ることはできない。
私は日本政府の回し者でもなんでもないが、政府の新型コロナ・ウィルスへの対処法は、これまでのところはやむを得なかったものと理解しているが、今後は中国に見習って最低限の社会的なインフラを維持した上で、社会活動の全面停止に踏み切るべきだと思う。大相撲やセンバツ高校野球などもってのほか、場合によってはオリンビックやバラリンピックも含めて、どうすれば開催できるかではなく、どうすれば被害を最小限にして中止できるかを真剣に考えるべきだ。当然、市街地の徹底的な封鎖を、早い段階で全国民に告知して具体的な段取りを示す。もしそれがなされないのなら、全国民が自分の命を守るために、包括的で広範囲なゼネストに突入するべきだと思う。政府がやらないのなら自分たちでやるしかない。たぶん政府は検討すらしていないだろう。個人が自衛できるには限度があるが、それしかない。状況の深刻さの理解が人によって異なるのはやむを得ないが、理解の甘い人が多ければ多いほど、個人的な自衛の有効性は低くなってしまう。日本人は、政府や社会や仕組みに従順で、首をすくめていれば災難は去るものだと考える傾向が強いように思うが、後手に回れば回るほど被害は拡大する。中国ほど徹底したやり方をしてもこれだけ手こずっている。「感染拡大が止まらない中国」と報道されるが、感染拡大がまだ始まっていない今のうちにやるべきだとは報道されない。「水に流す」のも時と場合による。
私は専門家でも医者でもないので、複数の情報から判断するしかないのだが、だいたい次のように理解している。新型コロナ・ウィルスによる肺炎は、その初期にはありふれた風邪と誤認されやすく、症状の全く出ない人がほとんどなので、重症化した患者を見るまではその存在が気づかれなかった。その間にウィルスそのものはかなり広がった可能性がある。武漢市での異変が報道された当初は、まだ楽観視されていて中国国内で解決されるものと思われていた。人類にとって未経験のウィルスだったから、そこまでは仕方がなかったと思う。しかし「ダイヤモンド・クルーズ」客船から香港で下船した男性の感染が確認された頃から様相が変わる。この感染が公表されなかったら問題はもっと複雑になっていたはずだ。客船の横浜への入港を認めて以降は、世界の目が横浜に集まるようになったが、日本政府はあまり世界の目を意識していなかったように思う。当時としては、横浜で食い止めることができると思われていたが、泥沼化した。批判や非難の応酬があったが、つまるところ、日本にはアメリカのCDCに相当するような、行政上の強制力を行使できる感染症対策の専門組織がないことが全ての原因だというところで結論は一致している。最大の愚策は、PCR検査で陰性になった人も船内に戻したことだ。本来、検査というものは、実施した人としていない人を分けるのが前提である。実施した人のうち、陽性の人と陰性の人をさらに分けて別々に隔離する。未実施の人は全て別に隔離して留める。つまり隔離は3グループになるはずだ。しかし検査で陰性になった人を船内に戻せば、そこで感染する可能性があるのに、「やむを得なかった」で済ませている。この時点で全てをやり直すべきだったが、そうはならなかった。結果的に、下船後に陰性から陽性に変わった人が続出し、日本の検疫に対する姿勢が問われた。それでも抜本的な対策は取られていない。未だ封じ込める段階なのに、出し惜しみして徹底的な対処をしない。このことが、科学的にみても国際的にみても理不尽であることから、日本は信用を落としかけている。
私は国民に広がる不安は別問題と考えている。この肺炎には治療法が未だない。従って、まだ症状のない大多数の国民にできることは、自発的な社会活動からの離脱以外にない。これを中国並みに徹底的にやれば中国並みに終息に向かうかもしれないが、緩ければ緩いほどリスクは広がる。社会問題化する前に、全ての個人が徹底的にやることが必要だ。検査をして白黒つけてほしいという気持ちに理解を示す声もある。しかし現状のPCR検査では、その精度上白黒がつかないという理解が正しいと思う。なぜなら検査というものは検体の中に対象が存在するかしか見ることができないので、この場合、その時の検査で陰性になったとしても白とは言い切れないからである。しかも、検査キットの増産はできるが、検査そのものにマン・パワーが必要であって、その能力が限られているから、現在のところ全体としての検査能力に限界があり、医療の重点配分という観点から、検査対象が絞りこまれていることは理解できる。これは感染症なのである。仮に希望者全員を検査できたとして、陰性とされた人を世間に戻しては検査の意味がない。「ダイヤモンド・クルーズ」と同じことである。検査を希望する人を全て隔離することは物理的に不可能。しかも検査の容量を上げるには熟練者が必要なので、すぐには望めない。あとは、そのボトル・ネックになっている「帰国者接触者相談センター」の処理能力がどれだけ上がるかという問題になる。
そういう点で、私は日本政府の回し者でもなんでもないが、日常的な注意点として政府が上げている対処法は正しいと思う。これを徹底的にやることで不安は解消されるはずだが、人は往々にして、やらずに不安を訴えるものである。身近にも何人か症状を訴えて不安になったので、医療機関に検査を依頼したところ断られたという実話を聞くようになった。しかしよく話を聞いてみると、「帰国者接触者相談センター」には連絡していない。それを案内されたはずだが、あわててしまって聞いていない。検査妨害は利権がらみか政府の陰謀か、という話も聞くのだが、当然、感染症対策はカネになるので利権は絡んでるし政府の思惑もある。しかし、それを是正せよと政府を追及して何になる ?? 政治家というものは、公共に奉仕したくてなるのではない。政治的圧力を行使して利権を獲得し、自分が有利に生きるためになるのである。彼らに頼む方が間違っている。だから本当にこれを克服したかったら、強制力をもってこれを排除できる方法を考えるしかない。具体的には破壊活動か外圧である。破壊活動は戦争と同じで採用できない。であれば、利権構造に対抗できる国際的な圧力機関に期待するしかないが、残念ながら現在のところそのような救世主はいない。だから、私は自発的に社会活動から離脱するしかない。同時に呼びかける。日常的な対処法の徹底と、可能な限り社会活動からの離脱、すなわち広範囲で包括的なゼネストである。