2020年10月30日

20201030 そして三人で・・・

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 還暦とは、生まれ変わることを意味するらしい。人生が一区切りして、新たな一歩を踏み出す時。今年はその通りになりそうである。13年前にここへ移住してきたときも私の人生にとって大きな転換であったが、今はそれをさらに一歩深めるチャンスと捉えたい。

 さて、実は夏場に母が体調を崩し、運ばれた病院で大脳動脈瘤が見つかった。ごく小さなもので、体調不良との直接の因果関係はなく、血圧に注意しながら日常生活は送れるようだ。しかし今後のサポートは必要になる。一方、同居する妹も、事情があって一部の仕事を辞めたらしく、家族三人とも人生に一区切りがついた形になった。そこで私から「三人で一緒に住まないか」と提案したところ、合意ができたので、三人で住める家探しを始めることになった。7月のことである。

 三人で暮らす、と言っても、今まで何度も却下されてきたのだが、それには理由がある。私を含め、我が家の家族は、全員にごく軽微な適応障害がある。父は東大卒のキョーレツな選民主義者であって、自分以外は全て愚か者、自分を重く用いない世間はクソだといって、会社や国からカネを毟り取ることにしか生きがいを持ち得ないまま死んでいった。母は、紆余曲折のある複雑なストーリーを理解することが極端に苦手で、頭脳明晰で論理展開の早い父の話には全くついていけず、思考停止状態になって久しい。妹は父の影響を色濃く受け、私は母の影響を引き継いで、それぞれに長所と短所を交互に持ち合う形になった。

 我々に一家団欒の空気があったのは、私が小学校二年生の頃までだから、妹にはその記憶はない。その頃までは、父母はまだ二人の子育ての難関を乗り切った頃だが、その後昇進するはずだった父は、持ち前の我の強さから社内で全く使えない存在となり、その鬱憤が家庭内で爆発した。家族に対する絶え間のない暴力と諍いに明け暮れ、私や妹が暴行されている真横で母は炊事や洗濯をし、妹や私は宿題をしていた。家庭内の法律は事細かに父が定め、ほとんどの楽しみや自由は封圧されていた。したがって私は就職と同時に家を出、何年も音信を通じなかった。

 妹は残った。その頃から日本はバブル経済に沸いた。父は自分の鬱憤を不動産投資に賭け、結果的に大きな損害を出してしまった。その穴埋めのために父と妹はかなりの苦労をしたが、母は社会に出ることができなかった。人の話がよく理解できないのだ。一度だけ、とうとう金策の尽きた父に頼まれて、私は幾ばくかの金を渡した。以前から私は父の無謀を何度も忠告していたが、当然聞き入れられることはなく、私は家族との関係を断ち、家族の苦しみを共有することはなかった。父の死後、借金が残っていたが、近所に住宅開発がかかったのを機に、持ち家を結構な値段で売り抜けて完済し、母と妹は必要最低限のものだけを持って、狭いマンションに落ち着いた。そんな苦労をよそに、私は何度も海外旅行をし、趣味に明け暮れ、自由奔放に暮らしてきた。だから母と妹の、私に対する気持ちには複雑なものがある。

 マンションに閉じこもってからの母の日常は、ただテレビを見て家事をするだけである。見る見る老いさらばえてしまって、体は樽型に太り、目は寝ているのか起きているのかわからないほど生気がなくなった。このまま適当な時期が来たら施設に入るなどと、そこが終着駅のような思っている母は、もはや自分を見つめ直すことすらできないでいる。私は息子として、自分にできる精一杯のことをして、この状況から生みの親を救い出せないものかと考えていた。

 そこへ三人ともに人生の転機が同時に起こったので、これまでの経緯はとにかくさて置いて、まずは母の人生が実りある最後を迎えられるよう、そして妹の健康が増進されるよう、そして私の夢が実現されるよう、バラバラの生活インフラを統合してコスト削減し、同居について模索することにした。幸か不幸か、私も妹も独身である。誰に気兼ねすることも要らず、力を合わせれば、母の人生を充実したものにできるだろう。土に触れ、植物を育てれば、生命の喜びに触れることができるはずだし、死へ向かって衰えていくのではなく、生き切って死ぬことができるだろう。私も人の子、息子として母にできることはそんなことくらいしかない。三人三様の人生だったが、再びここに集い、過去は一旦リセットして、前を向いて生きたい。母のみならず、私や妹も、そう若くはないからだ。先のことを考えるだけで精一杯だ。進もう。



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2020年10月28日

20201028 新たな農地

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 ようやく、来シーズンから使わせてもらえそうな農地が見つかった。村の東の山の中腹に一段高く広がる荒れ地である。

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先日草刈りを終えてその上に立ってみた。ここから見ると村の様子がよくわかる。

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2枚目の写真真ん中の大きな施設の脇が私の使っていた農地のひとつだ。その周りに集中する家々は、この村の中心地の一つで、古くからの家柄である。一方、手前の道路から私の立っているあたり、すなわち村の外縁は、戦後の農地解放の頃に入植してきた人たちが開拓した農地で、彼らの家は村外れの斜面や川向こうの町筋にあって、家から農地まで通って農業をしている。私がここへ引っ越してきてから毎年のように農閑期になるとゴタゴタ揉めるのは、村の中心を牛耳る旧家の人たちであって、村全体から見れば少数ではあるものの、本来、村の入会であるべき山林や、水利その他の村のインフラの利権を握っていたり、それを争っていたりする。私は、そんな事情を全く知らずに、実にフラットな心構えでその真ん中に入ってしまったわけだ。そこでは、乗っ取り、裏切り、騙し討ち、居直りなどが日常的に起こり、要するに根性がカネに穢い。その最中に迷い込んで翻弄されてきた私を見るにみかねて、時々助けてくれたり仲裁してくれたりした人たちは、開拓者の家である。いまでは、その違いがはっきりと目で見てわかる。ここに立って村を眺めるとなおさらよくわかる。私が村に拘ったのは、このような人間模様と農業の現実が表裏一体であって、村の生活を考えることなくして次世代の農業を考えることはできないと思ったからだが、さすがにここは身を引こう。とりあえずこの農地であれば、誰も文句を言わないどころか、ここから村に侵入して荒らし回る獣たちによる被害を防ぎ、村の農地の保全に一躍買うことになる。しかも見ての通り、村のどこからでも見える場所にありインパクトは大きい。圃場整備以来ほぼ使われることなく、年一回の草刈り以外は人が立ち入らずに放置されてきた荒れ地で、村の誰もが手を出さなかった場所である。自然農には最適の状態だ。私はアカデミズムによる権威づけとはできるだけ距離をおきたい考えだが、ここまで理想的な環境が与えられるのであれば、せっかくなので徹頭徹尾完全な不耕起・無農薬・無肥料の考え方を実践できるかもしれない。やってみよう。

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2020年10月20日

20201017 自然界は着実に進む

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迷走停滞の人間界をよそに自然界は着実に進む。ソラマメの蒔きどきは今時分である。

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タマネギは春まで貯蔵できる品種であっても今時分に腐りはじめるものがある。吊るした下に汁が垂れるので分かりやすくしておくと発見が早い。

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渋柿は青味のあるうちに収穫して早めに干す。豊作の年は廊下がこういうことになる。富有柿は来週以降で、早く干し終えないと足の踏み場がなくなる。

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