2020年11月22日

20201122 小麦播了

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新しく借りる農地も事情があってすぐに使えないことがわかり、来年のパン用小麦を蒔く場所が確定しないので、年末で返すと表明した畑の一部を半年だけ借りることにした。色々葛藤があり紆余曲折があり、迷ったり揉めたりしたが背に腹は替えられず、不本意ながら全体を耕し、除草して土を露出させ、溝を切って種をすじまきにして覆土鎮圧した。「やりゃできるやん」と遠巻きに眺める村人の視線に耐えつつ、心の中で舌打ちをする。「アホか、できひんからやらんのとちゃうわい、やるべきやないからやらんまでや。」
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2020年11月21日

20201121 ツキノワボロボロ

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なんにちか姿を見ないので、やっと独り立ちしたかと思っていたら、ボロボロになって帰ってきよった。こいつのことやから相手の見境なしに喧嘩ふっかけて返り討ちに遭うたか、罠に引っかかって強引に正面突破したか・・・
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20201121 私は性懲りも無く

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 人間関係もそうだが、何かを始めるときは勢いもあるし弾みもついて、うまくいくことが多い。しかし終わらせるとなると厄介だ。別れ話がどうにかまとまって、やれやれせいせいしたと独り祝杯をあげながら夕食を作る・・・しかし、つい、いつものように、二人分作っている自分に気がついて・・・ジワーーーッと涙が溢れて止まらなくなったことも一度や二度ではない。百姓も始めるときは意気揚々として希望に燃えて怖いもの無しである。根性さえあればプロの百姓でさえ怖がってできないことも難なくやってのける。制度や法律を熟知し、ムラ社会のシガラミなんてブッチ切゛って正面突破する。百姓の始めかた続け方、苦労話は枚挙にいとまがない。しかし百姓の辞め方となると殆ど情報がないので書いておくことにしよう。通常、ここで百姓を始める辞めるというのは、農家でない人が新規就農したが続けられずに辞める場合を想定しているので、つまるところ借りた農地の返し方ということになる。

 これは地方自治体によって異なるだろうが、神戸市の場合、写真のような三つの書類を揃えて、農地の登記簿とともに提出しなければならない。今回の乗っ取りの場合、本来ならばその不当性を訴えて損害賠償を請求するのが筋であるが、そうしたところでトラブル続きの元の木阿弥。ここは争わず、極めて事務的に、契約期間の途中解約に双方が合意して、私が借りていた農地を地主に返却しますという届けを出すことにした・・・事務手続きは、このようにさほど問題はない。しかし、農地という、歴史的に様々な謂れもあり、持ち主の農家に先祖代々受け継がれてきた産物を、新規参入者が使わせてもらっていること、そのありかた、地主の想い、借りている間に蓄積されていく、地主や周辺農家、すなわちムラ社会の葛藤を、どのように精算するかが最も困難な問題である。これは、法律や事務手続きでは割り切れない立場や考え方、汲み取れない想いが交錯し、平穏無事に明け渡すということが、大変困難なのである。

 結論から言うと、借りたものは原状回復して返さなければならない。では「原状回復」とは何か。「もとの状態」とはどういうことか。食の安全を求めて新しく農家になることを志す人は、できるだけ農薬や化学肥料、動力機械を使わずに出来る方法を模索するであろう。それは正しい。しかし、おそらくほとんどの農地は、その人が借りる直前までは、そのようには使われていなかった。つまり農薬で雑草を抑え、化学肥料で増産し、動力機械で耕すための、無機的なスポンジのような地面だったはずである。そこを「地力の回復」などとほざいて草だらけにし、刈り取った草を積み上げて害虫の卵を量産し、不耕起とやらで田んぼをじゃじゃ漏れにされてしまっては地主は堪ったもんじゃない。しかし法律は地主を守ってくれないのである。使用者は正式な手続きを経て、合法的になんの落ち度もなくそこを使用している。耕作放棄したわけでも、捨て作りしたわけでもなく、水路や共同部分の管理も行き届いている。しかし、地主にとっては、先祖代々の農地が、まったく違うものに変えられてしまうのである。黙って見ていては取り返しがつかなくなる。法律が裁かないのであれば自ら手を下すしかない。ムラ人同士であればすぐにわかるこの感情の機微が、都会から来た空気の読めない原理主義者には全く通じないのである。「耕さず、草や虫を敵とせず」土の中の循環によって少しずつ恵みをもたらしはじめた農地は、地主にとってはもはや「原状回復」の不可能な土地になりつつある。このようにして私の借りていた農地は乗っ取られたわけである。

 従って、その農地の「現状」を「原状」に戻すために掛かる労力と費用と時間は、借主が補償すべきであるというのが、地主の尤もな考えである。しかし法律はそこまで規定していない。ここに深刻な問題が生じる。私から見れば、家賃を取って部屋を貸しておいて、留守中に家財道具を勝手に処分されたようなものである。しかし地主にとっては、居住目的で貸した部屋を勝手にライブハウスに改造されてしまったくらいの怒りである。双方の見え方が全くかけ離れている。お互いに、こうなるまでになぜ気がつかなかったのかと思う。地主は、ことあるごとにサインを送っていたようである。私は全く気がつかなかった。たしかに、ビニール・マルチの代わりに稲藁でマルチングしたときに、風で飛ぶから抑えときやと言われた。代掻きをせずに溝を切って田んぼを始めたときに、耕運機ならいつでも貸すでと言われた。炎天下に茹で蛸みたいな顔をして田んぼの草と戦っているときに、そっと「白い粉」を差し出してくれたことも覚えている。私はそれらを全て無視して作り続けてきた。そして一定の成果とノウハウを得た。しかし地主との信頼関係は、完全に失われた。

 おたがいの立場の違い、考え方や感じ方の違いをすり合わせて共生していくことは非常に難しい。物事を始めるとき、困難を乗り越えて進もうとしているときは、意識は目的に集中している。つまり周りをよく見ていないことがある。しかし周りの人は、実によく私を見ていたのである。私が進む方向や、目的を、彼らが理解していないのではない。それどころか、そうしていけば、私が予想していないどんなことが起こるかを、克明に知っている。知っていて言わないのではない。彼らにとっては、相手を傷つけないギリギリの線で、相手が察するであろう明確さを持って、私にその都度伝えてくれていたのである。私もそのいくつかの記憶はある。しかし私はそういう意味にとらなかったばかりか、往往にしてそれに敵意を感じ、対抗姿勢をとったのである。その積み重ねが今の私である。これを解きほぐすことは、おそらく不可能に近い。できたことは、なんとか双方に他意のないことを僅かに確認し得たことくらいである。これが、私がここに住んだ13年の結果である。

 ちなみに、私は性懲りも無く百姓を続ける決意であることに変わりはない。

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2020年11月12日

20201111 季節は巡り、なにもかも小規模

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 干し柿が程よく凝縮して参りましたので、厚さ3cmに収まる目処が立ちましたら、順次安い方法での発送も承ります。たとえば三色玄米 (単色も可) \500/ 200g・薬念醬 (匂いがうつる可能性もありますが) \1,000/ 100g・干し柿\200/ 1個のうち2点までなら定形郵便でお送りできます。それ以上の場合、組み合わせによっては6点までならクリックポストなどが使えます。バジル・ペースト\1000/ 160gが入ると、残念ながら瓶の大きさの関係でゆうパックになります。干し柿はここ二週間ほどが食べごろです。それを過ぎますと、順次解凍品に切り替えて参りますので、今のうちにどうぞ。
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 季節はめぐりサツマイモの収穫、例によって割れ多く、痛みやすいものから順次切り取って干し芋に・・・
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 こちらは今年の田んぼ・・・猫の額ほどで瞬時に終了し、軒下に干す・・・トホホ
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 早速きてますね、途中解約したのうちの現状視認。常に監視されてる。
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 乗っ取られた農地の現状、肥料は入れられたにしても、この地力はなかなかのもの、ここまで地力を蘇らせたことはかえって自信になった。しかしこのペースで植えつけていくと、やがてバランスが崩れていく。まあ、またとない観察の機会だから、ゆっくり高みの見物と行こうか・・・
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 ソラマメの植え付け。
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タマネギの苗はまだ小さめだが、そろそろ季節が変わるので、ニンニクと同時に植え付け。
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こうするとよくわかる。


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2020年11月05日

20201103 農地保全プロジェクト

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 新しく借りる予定の農地、刈り取った草が枯れ萎んで、高土手の大きな崩れがあらわになってきた。おそらく最初は猪が掘ったものであろう。そこへ雨水が溜まり、やがて集まって法面を崩した。上面圃場にも陥没が見られ、放置すると崩壊する恐れがある。下の田んぼに流れ込めば補償問題に発展する。

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 一方、背後の山は樹木の管理がなされておらず、雑木の中幹以上が圃場に覆いかぶさる勢いである。しかしこの山は太陽光発電所建設事業の予定地になっていて、その事業者が保有していて、周辺との間で樹木に関するトラブルが複数あり、いずれも解決されていない。来シーズンからのスタートが、かなり厳しくなってきた。

https://www.city.kobe.lg.jp/documents/17274/mat02-167th.pdf

 圃場整備は国民の皆様の税金が投入されておりますので、荒地にしてはいけないことになっており、その保全には公的機関が介入することになっている。ここを使用するには、地主との貸借契約の他に、開発許可が必要になり、その手続きが複雑になる。私の場合、あと二ヶ月で現在の農地の利用権が消失する。来シーズンの作付けができないとなると、私の「農家資格」は取り消され、あらためて新規就農研修から始めなければならなくなる。しかし、私が新規就農した10年前と異なり、今は指定の研修機関へ2年間通わなければならず、そんなことをやっていたらさらに作付けが遅れる。制度としては年齢制限はないが、民間の研修機関の多くは営利企業なので、技能実習生としての受け入れを兼ねているので、戦力として事実上の年齢制限がある。私は「農家資格」を維持するために、最低下限面積を満たす農地を別に確保しなければならなくなる。問題が複雑になってきてしまった。

 が・・・乗り越えなければ明日がない。まず高土手の崩落について、これを人力で修復するには、おそらく柵網 (「しがらあみ」と読むが、これが縮まって「しがらみ」となった) を撃ち込んでそこへ土を入れ、踏み固めて更に上に柵網を打ち込み・・・ということを繰り返していく方法が考えられる。山林については先方との交渉が前提となるが、境界線から5メートルほど奥まですべての木を伐採する必要があるだろう。いずれも私一人ではどうにもならないので、皆様のお知恵をお借りしたいと思います。

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 農地保全プロジェクトの試み。斜面の荒れた農地を蘇らせ、自然農を実践する田畑にする。現状では土砂の崩落の激しい高土手の法面を、柵網や蛇籠という伝統的な土木技術をもって人力で修復し、圃場を整えて無農薬・無肥料・不耕起栽培による「自然農」の実践の場とします。また、隣接する山林による日照問題があるため、これを伐採する必要があります。私一人ではとてもできません。ご興味のある方、ノウハウのある方、専門技術のある方のお助けを、何卒よろしくお願いします。

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 とは言ったものの・・・実は、私は「自然農」という言葉をあまり好まない。しかし説明する時に便利なので止むを得ず使う。好まない理由は、「自然」と「農」を直結することによって、あまりに大雑把な意味の広がりと、強い矛盾を感じるからだ。知らない人がこの言葉を聞いた時に受ける印象は、全く自然に手を加えずに農業をやることだいうことだろう。しかし、そんなことはあり得ない。なぜなら「農」が人間の営みである以上、人間が「自然」に手を加えることに違いはなく、手が加えられた「自然」は自然ではあり得ないからだ。人間も自然の一部だと見ることもできるが、それならわざわざ「自然農」と断らなくても、全ての農業は自然の一部たる人間の営みということになる。適当な言葉が見当たらないから、私も自分のことを人に説明する時に、この言葉を使うことはある。

 また、「自然農法」という言葉も好まない。これも両者の直結による意味の曖昧さが原因である。なぜなら、自然環境は多様であって、土の状態も一枚の畑のあらゆる部分で多様であり、一年の気候も、地域やその年によって全く異なる。これを一つの方法論で説明しうるわけがないからである。そもそも方法論というものは再現と反復が可能でなければならない。自然の多様性に目を向けず、再現と反復の可能性を追及した結果、農薬・化学肥料・機械の使用という、いわゆる「慣行農法」(この言葉も好まないが) が始まった。土を単なるスポンジと考え、そこに人工的に合成された肥料を流し込み、競合する他の生物を選別的に殺し、均一な環境を整えて人的労力を省くことによって、一定で安定した結果を大量に得ようとする。つまり自然の多様性を手懐けようとする方法論である。これによって農業は合理化されたが、農産物から自然の多様性が消え、化学物質の弊害が人間に取り込まれた結果、不都合な真実が明らかになった。方法論的にこれを克服しようとするならば、自然の多様性を研究する科学者の姿勢が要求されるはずである。しかし巷の「自然農法」は、科学というにはあまりにもお粗末であり、悪しき精神論に頼り過ぎている。だから好まないのである。

 「自然農」は、方法論ではなく一種の精神論である。自然の多様性に驚き、畏怖と敬意の念を抱き、そこに種を蒔いて育てることによって幾ばくかの糧を得られれば幸いである、という感謝の気持ちの現れである。だから、それを行う人や場所、時と場合によって、やり方も結果も全く異なる。正しい答えというものも、おそらく存在しない。現実に直面して、とっさの判断で対応して結果が出る。それを受け入れるのが自然農であろうと思う。市場流通には乗らないので、これを軸に国民の食料の安定供給を考えることは現実的でない。これを現実に近づけるには、これを実践する人が増える以外にない。

 さて、私の志は「自然農」に近いけれども、元々そうだったわけではない。「自然農」という考え方が先にあって、私がそれに従ったわけではない。何も知らずに、ただ憧れの気持ちだけで百姓の真似事を続けているうちに、様々に考えた結果が「自然農」に近かっただけのことである。

 たとえばトマトの種を買うと、袋の裏に、種まきは早春に行い、なるべく暖かくして春先には定植し、柵を立てて主幹を誘引して脇芽を降り取って、五段くらいになるまで云々と書いてある。しかしその通りにやってもたいてい失敗する。失敗を重ねている間に草が茫々になって、ほんの猫の額ほどの畑に忙殺されている自分を発見する。これで田んぼや農場経営なんて気が遠くなる話だ。気を取り直して発見を繰り返しているうちに、除草の合間に見覚えのある双葉を発見する。トマトである。三月に種まきして定植したトマトは遅霜に中って枯れてしまったので、その跡にこの双葉を移植してみる。すると、苦労して育苗した他のトマトを追い抜いて、このこぼれ種トマトの方がぐんぐん成長して多くの実をつけた。そのかわり市場がトマトを欲する「旬」の頃には間に合わず、秋茄子よりちょっと早い晩夏から本格化する。これによって、その場所その土その気候における、本来トマトのあるべき生態を知るのである。

 植物がいつどのように芽を吹いて成長していくかは、その場の土がすべて教えてくれるのである。その土に人間が手を加えるということは、その土よりも自分の方が優っていると考える傲慢である。ここに、土をはじめ、植物を成長させるすべてのもの、すなわち自然に対する敬意と恐れ、服従の気持ちが生まれる。すべては土が教えてくれる。失敗するのは、土が教えてくれていることをよく観察しなかったからである。従って、すべて土から生まれてくるものを丁重に扱わねばならない。従って、土の今ある状態を破壊してはならない。ここに至って、私は「耕さず、肥料・農薬を用いず、草や虫を敵とせず」という川口先生の有名な言葉に出会った。「自然農」は方法論ではない。


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