新しく借りる予定の農地、刈り取った草が枯れ萎んで、高土手の大きな崩れがあらわになってきた。おそらく最初は猪が掘ったものであろう。そこへ雨水が溜まり、やがて集まって法面を崩した。上面圃場にも陥没が見られ、放置すると崩壊する恐れがある。下の田んぼに流れ込めば補償問題に発展する。
一方、背後の山は樹木の管理がなされておらず、雑木の中幹以上が圃場に覆いかぶさる勢いである。しかしこの山は太陽光発電所建設事業の予定地になっていて、その事業者が保有していて、周辺との間で樹木に関するトラブルが複数あり、いずれも解決されていない。来シーズンからのスタートが、かなり厳しくなってきた。
https://www.city.kobe.lg.jp/documents/17274/mat02-167th.pdf
圃場整備は国民の皆様の税金が投入されておりますので、荒地にしてはいけないことになっており、その保全には公的機関が介入することになっている。ここを使用するには、地主との貸借契約の他に、開発許可が必要になり、その手続きが複雑になる。私の場合、あと二ヶ月で現在の農地の利用権が消失する。来シーズンの作付けができないとなると、私の「農家資格」は取り消され、あらためて新規就農研修から始めなければならなくなる。しかし、私が新規就農した10年前と異なり、今は指定の研修機関へ2年間通わなければならず、そんなことをやっていたらさらに作付けが遅れる。制度としては年齢制限はないが、民間の研修機関の多くは営利企業なので、技能実習生としての受け入れを兼ねているので、戦力として事実上の年齢制限がある。私は「農家資格」を維持するために、最低下限面積を満たす農地を別に確保しなければならなくなる。問題が複雑になってきてしまった。
が・・・乗り越えなければ明日がない。まず高土手の崩落について、これを人力で修復するには、おそらく柵網 (「しがらあみ」と読むが、これが縮まって「しがらみ」となった) を撃ち込んでそこへ土を入れ、踏み固めて更に上に柵網を打ち込み・・・ということを繰り返していく方法が考えられる。山林については先方との交渉が前提となるが、境界線から5メートルほど奥まですべての木を伐採する必要があるだろう。いずれも私一人ではどうにもならないので、皆様のお知恵をお借りしたいと思います。
農地保全プロジェクトの試み。斜面の荒れた農地を蘇らせ、自然農を実践する田畑にする。現状では土砂の崩落の激しい高土手の法面を、柵網や蛇籠という伝統的な土木技術をもって人力で修復し、圃場を整えて無農薬・無肥料・不耕起栽培による「自然農」の実践の場とします。また、隣接する山林による日照問題があるため、これを伐採する必要があります。私一人ではとてもできません。ご興味のある方、ノウハウのある方、専門技術のある方のお助けを、何卒よろしくお願いします。
とは言ったものの・・・実は、私は「自然農」という言葉をあまり好まない。しかし説明する時に便利なので止むを得ず使う。好まない理由は、「自然」と「農」を直結することによって、あまりに大雑把な意味の広がりと、強い矛盾を感じるからだ。知らない人がこの言葉を聞いた時に受ける印象は、全く自然に手を加えずに農業をやることだいうことだろう。しかし、そんなことはあり得ない。なぜなら「農」が人間の営みである以上、人間が「自然」に手を加えることに違いはなく、手が加えられた「自然」は自然ではあり得ないからだ。人間も自然の一部だと見ることもできるが、それならわざわざ「自然農」と断らなくても、全ての農業は自然の一部たる人間の営みということになる。適当な言葉が見当たらないから、私も自分のことを人に説明する時に、この言葉を使うことはある。
また、「自然農法」という言葉も好まない。これも両者の直結による意味の曖昧さが原因である。なぜなら、自然環境は多様であって、土の状態も一枚の畑のあらゆる部分で多様であり、一年の気候も、地域やその年によって全く異なる。これを一つの方法論で説明しうるわけがないからである。そもそも方法論というものは再現と反復が可能でなければならない。自然の多様性に目を向けず、再現と反復の可能性を追及した結果、農薬・化学肥料・機械の使用という、いわゆる「慣行農法」(この言葉も好まないが) が始まった。土を単なるスポンジと考え、そこに人工的に合成された肥料を流し込み、競合する他の生物を選別的に殺し、均一な環境を整えて人的労力を省くことによって、一定で安定した結果を大量に得ようとする。つまり自然の多様性を手懐けようとする方法論である。これによって農業は合理化されたが、農産物から自然の多様性が消え、化学物質の弊害が人間に取り込まれた結果、不都合な真実が明らかになった。方法論的にこれを克服しようとするならば、自然の多様性を研究する科学者の姿勢が要求されるはずである。しかし巷の「自然農法」は、科学というにはあまりにもお粗末であり、悪しき精神論に頼り過ぎている。だから好まないのである。
「自然農」は、方法論ではなく一種の精神論である。自然の多様性に驚き、畏怖と敬意の念を抱き、そこに種を蒔いて育てることによって幾ばくかの糧を得られれば幸いである、という感謝の気持ちの現れである。だから、それを行う人や場所、時と場合によって、やり方も結果も全く異なる。正しい答えというものも、おそらく存在しない。現実に直面して、とっさの判断で対応して結果が出る。それを受け入れるのが自然農であろうと思う。市場流通には乗らないので、これを軸に国民の食料の安定供給を考えることは現実的でない。これを現実に近づけるには、これを実践する人が増える以外にない。
さて、私の志は「自然農」に近いけれども、元々そうだったわけではない。「自然農」という考え方が先にあって、私がそれに従ったわけではない。何も知らずに、ただ憧れの気持ちだけで百姓の真似事を続けているうちに、様々に考えた結果が「自然農」に近かっただけのことである。
たとえばトマトの種を買うと、袋の裏に、種まきは早春に行い、なるべく暖かくして春先には定植し、柵を立てて主幹を誘引して脇芽を降り取って、五段くらいになるまで云々と書いてある。しかしその通りにやってもたいてい失敗する。失敗を重ねている間に草が茫々になって、ほんの猫の額ほどの畑に忙殺されている自分を発見する。これで田んぼや農場経営なんて気が遠くなる話だ。気を取り直して発見を繰り返しているうちに、除草の合間に見覚えのある双葉を発見する。トマトである。三月に種まきして定植したトマトは遅霜に中って枯れてしまったので、その跡にこの双葉を移植してみる。すると、苦労して育苗した他のトマトを追い抜いて、このこぼれ種トマトの方がぐんぐん成長して多くの実をつけた。そのかわり市場がトマトを欲する「旬」の頃には間に合わず、秋茄子よりちょっと早い晩夏から本格化する。これによって、その場所その土その気候における、本来トマトのあるべき生態を知るのである。
植物がいつどのように芽を吹いて成長していくかは、その場の土がすべて教えてくれるのである。その土に人間が手を加えるということは、その土よりも自分の方が優っていると考える傲慢である。ここに、土をはじめ、植物を成長させるすべてのもの、すなわち自然に対する敬意と恐れ、服従の気持ちが生まれる。すべては土が教えてくれる。失敗するのは、土が教えてくれていることをよく観察しなかったからである。従って、すべて土から生まれてくるものを丁重に扱わねばならない。従って、土の今ある状態を破壊してはならない。ここに至って、私は「耕さず、肥料・農薬を用いず、草や虫を敵とせず」という川口先生の有名な言葉に出会った。「自然農」は方法論ではない。