2010年07月03日

20100630大祓

 「さなぶり」というのは、田植えを終えて農作業が一段落したのを祝う行事のことをいう。先日水利組合から「さなぶり」を6/20に決めたという旨の紙切れが回って来た。5/23の初湯堰に始まって、川から農業用水を確保しているこの辺りでは、川の水が確保できるかどうかが田植えを終えるまでの心配事なのである。区画整理され、水路もコンクリートで固められた今ではとりたてて祝うというほどのことではないが、忙しい時期を乗り切ったという意味で、心に区切りを付けて一休みし、次への策を練る良い機会なのであろう。今日は昨夜から降り続いた雨がなお勢いを増す気配で、田畑も水浸しでどうにも手が出せないので、私にとっても「さなぶり」には良い一日である。

 さて、あんなどでかい旅行で散財してしまったもんだから、ぼちぼち金策を練らねばならぬのであるが、ここんとこ毎日田んぼの泥を練ってるばっかりでさして良いアイディアも浮かばぬ。農業を軸として生きて行くとは決めたものの、専業で暮らしを立て得ると考えるのは容易でない。もちろん大規模に農地を借りて機械やハウスを導入し、花や換金作物を厳選して農薬と化学肥料をふんだんに使えば、やり方次第ではある程度儲けることは出来る。しかし都会人が転向して農業を志す動機とは、すなわち安全で安心して食べられる食べ物を自分の手で作りたいということであって、その時点でそのような選択肢は外されるのである。なんでもいいから農業をしたいというものではない。転身したからには、シンプルな暮らしが最も良い。

 しかし実際に作物を育てようとすると、どうしても複雑な問題に関わらざるを得なくなる。一般に入手しうる種や苗は、農薬と化学肥料、さらにはハウスや機械を使って栽培するのに適した状態に品種改良されている場合が多く、すなわちプロ仕様の商業用農産物の原料であって、それを「小分け」してホームセンターなどが売り、素人が買い求めるという構図になっている。これをいきなり自然に近い条件下で路地栽培しようとすれば、たちまちのうちに自然の猛牙が襲いかかるのは当然であって、それを指をくわえて見ている訳にも行かないので、なんとかこれを救済しようとするのだが、哀しいかな都会人から転向して農業を志したスーパーシロウトは、これをほとんど素手で救済しなければならず、多くの場合失敗するのである。失敗するから勉強し、勉強するから様々な「農法」の迷路にはまり込む。ある者は、定年退職してふんだんに使えるカネと時間を「安全な」代替農薬と肥料につぎ込んで、北京ダックのような巨大作物を収穫して悦に入る。またある者は、自然にはいっさい手を加えてはならぬと洗脳されて、草ぼうぼうの畑の中で全滅していく野菜たちを飽きもせずに何年も眺め続ける有様である。代々農業を営み、自分自身も、農夫である父の背中を見て育った者であれば、ある程度の予測もつこうものだが、鍬はおろか鎌さえ持ったことのない私ごとき蒲柳のモヤシがこれに丸腰で立ち向かうということは、これまさに無謀を越えて自暴自棄、自殺行為であることを去年は骨身が崩壊するほどに思い知らされた。

 安全な作物を栽培しようとするのなら、まずは安全な種苗が広く一般に供給されるべきである。しかし現実は、プロが商業用に出荷するために改良された種苗を小分けして頒布しているのが実態であって、これは農薬と化学肥料を使うことがほぼ前提にあり、さらにはハウスや機械を使って効率化することによって均一安定的大量に生産されることを目指している。平たくいえば虚弱体質。市販されている種の多くは「F-1」といって、おもに生産性や均一性や安定性を得るという観点から、その目的に合った性質を持つ複数の種を掛け合わせた最初の雑種が最も強い性質を示すという特性を利用した「一代交配」である。繰り返すが、これは生産性や均一性や安定性を得るという観点から開発された技術であって、安全で安心して食べられる食べ物を自分の手で作りたいという観点から改良されたものではない。種に関しては正しい認識が必要なのであるが、近隣の農家の人たちも実は良くわかってなくて、とにかく「農協の先生」のいわれた通りにやれば買ってくれるの一点である。その先生は、必ず毎年種を更新するようにと、要するにウチから買えと言っている。植物は花が咲けば必ず種が出来る。その種を使わずにウチから買えというのはおかしいではないかという素朴な疑問が誰しも生まれるのであるが、従順な百姓はそうではない。「自家採種しても栽培は出来ない」とか、「結果は保証できない」と言われれば、プロの農家はあえて危険を冒さない。科学的な知見に支えられていた筈の元教職員でさえ、「どんな化け物が出てくるかわからん」と言って気味悪がるのである。実際「F-1」に限らず現行売られている種の多くは、交配や化学処理などによって、原種からほど遠いものになりつつある。原種の良さが失われていく代わりに、耐病性が高くなり大きさや品質にムラがなくなり、機械化や均一価格という商業ベースにのせやすい。野菜本来のうまみも何もなくなった代わりに、マニュアルさえ守っていれば大きな失敗もない。しかしそのことは、自家消費者にとっては、例えば一度にたくさん実ってしまって食べきれない、などという事態を招く。しかし本来、野菜の生長には個体差があって、何事も一斉ということはない。「蒔き時」前後数週間にわたって段階的な種蒔きしていけば、長期間にわたって何らかの収穫が得られるはずである。

 さて、「自家採種しても栽培は出来ない」といわれるこれらの野菜は、本当に次の年から栽培できないかというと、そんなことはない。確かに発芽率は低下し、姿形は掛け合わされた複数のものに戻っていくようであるので、ムラが出来るし能率は悪くなる。しかし所詮自家消費であるので、それは大きな問題ではない。逆にムラがある分長く収穫できるし、野生化していくと見えて、旨いものもあれば、固くてまずくて食えないものもある。「自家採種しても栽培は出来ない」というのは、事実を偽って種を売りつけようとする業界の戦略であり、これに対しては徹底的な情報公開が求められる。まだまだ「安全な野菜」を手に入れようとして無謀な試みに身を投げる人が少ないので、それに特化した種苗を別ラインで供給することは、事実上難しい。日本は資本主義国家であるので、すべての物資の生産と流通は市場原理の支配を受けている。たとえば、5月になれば初夏の陽気となりトマトを食べたがる人が増えるので、「市場」から生産現場へ5月にトマトを出荷することが求められる。そのためには4月の初頭には既に苗が花をつけようとしている必要があって、遅くとも3月の初旬には発芽していなければならない。ところが日本の気候は、その頃はトマトの発芽適温にはほど遠いから、これらは温室栽培が大前提になる。しかし一度トマトを栽培してみるとわかることだが、前年に作ったトマトの実が腐って落ちたところに、毎年5月頃こぼれ種が発芽する。これが通常市販されている苗の大きさになるのは6月の中旬である。これを育てて行くと8月に入ってから実が穫れはじめ、最盛期はお盆過ぎとなる。その頃のトマトが一番うまい。しかし「市場」では既に「秋の味覚」が出回っていて、そんなとこへトマトを持っていっても買いたたかれるだけである。だから、トマトの種の袋の裏には3月に種蒔きするように書かれてあり、ホームセンターで苗が出回るのは4月なのである。ホームセンターもホームセンターで、5月になれば初夏の陽気となりトマトを食べたがる人が増えると見れば、4月にはトマトの苗を大量に仕入れてガーデニング・コーナーに並べる。いくらか注意書きがあるとはいえ、スーパーシロウトは、これを育てれば自家製の安全なトマトが食べられると思い込んでしまっているから、書いてある通りにやってみて失敗する。そこで、マニュアルに忠実な日本人は勉強して、様々な道具や設備や代替農薬や「有機」肥料を購入するので、ガーデニング・コーナーの売り上げが上がる。またガーデニング売り場がにぎわえば、隣接するアウトドア・コーナーが活況を呈し、本来の観光シーズンである5月以降にレジャー用品を売る起爆剤になる。トマトの苗を4月から並べておくことは企業戦略のひとつであって、トマトの生育とは何の関係もない。で、この事態をどう考えるか。正しい理念を持った誇り高い農夫であれば、たちどころにこのホームセンターを一喝し、店長を引きずり出して本来のトマト栽培のあり方を啓蒙し、直ちに売り場から撤去を要求するか・・・というと、もちろんそうではなくて、「農協の先生」のいわれた通りにハウスでしかるべきマニュアルに従ってトマトを早期出荷してカネをもらったヘタレビャクショウは、内心では「まだまだ早すぎるのに」と知っていながら素通りして軍足の予備を買いにいくのである。問題は「まだまだ早すぎるのに」と知っている百姓がどんどん減っているということである。

 このような事例は枚挙にいとまがない。先日、低迷する外食産業界でひとり気を吐く「サイゼリヤ」の好業績の謎に迫るニュースがあった。つまり、厨房に包丁すら置かないプリザーブド・システムを導入して、原則厨房一人体制、ひとりで6分間で11品目ものメニューを調理できるほどの徹底的なコスト削減などが功を奏して、全国どの「サイゼリヤ」へ行っても、同じメニューに同じサービス、徹底的に均一化され低価格を実現した結果、すべてのお客さんに喜んでいただける会社になったともてはやされていた。勿論発注管理や企業体質など、これまでにない合理性が追求されていて、それは農産物の供給体制にも徹底され、企業として生き残るためにやるべき施策をやり尽くしたという評価であったのだが、一方でこの取材では、「サイゼリヤ」は人に人として食事を提供する会社ではないのかという、その「本業」のあり方の根幹に関わる視点が完全に抜け落ちているのが気になった。こうまでしないと企業は生き残ることが出来ない。それはすなわち、ここまですれば生き残ることが出来るかもしれないという期待を経営者に暗示する。とすれば、やってみる企業が当然増える。やがてここまで出来ない会社は淘汰されてなくなってしまう・・・とすると、外食しようと思えばすべて「サイゼリヤ」のような店へ行って、パックの塩化ビニル臭に顔をしかめながらとろんとろんの水ぶくれハンバーグを旨いと思わなければならなくなる。さらに、すべての外食店がそれに倣えば、そのレベルが新たなスタンダードとなるから、さらにそこからのコスト削減が出来なければ新たな生存競争に生き残れなくなって、もっとべちょべちょのハンバーグを食わされるはめになる。これが極度にグローバライズされた資本主義市場経済の成れの果ての姿であって、その最前線にいた私は、舌癌で舌を切除するという禍を以てその堕ちていく地獄を見たのである。これらはすべて、安全で安心して食べられる食べ物を自分の手で作りたいという、都会人が農業を志す動機とは真っ向から対立するものである。すべてを変える必要がある。

 ではこの事態にどう対処するのか。私はこの問題に関して非常に悲観的に考えているのだが、このグローバル・キャピタリズムの「負の連鎖」は、歯止めが利かないばかりか、今までよりも加速度をどんどん増していくように思われる。単に平和な一般庶民のささやかな幸せを求めるだけの行動が企業戦略に取り込まれ、生き残りをかけた企業間の生存競争は巨大な岩石となって奈落の底へ転がり落ちるのである。しかも落ちれば落ちるほどその岩石は磁力によって周辺の岩を吸着し、さらに大きく重くなっていく。誠に残念なことに歴史が我々に教えるところによると、「負の連鎖」を始めてしまったシステムを改革する唯一の方法は実力行使である。これはまったく受け入れがたいことなのであるが、例えばごく幸運な事例を除くと、血の流されなかった革命などほとんどないし、しかも流された血の主は、まぎれもない生身の人間であって、為政者や指導者とは無関係に戦闘という実力行使に巻き込まれた最前線の兵士や一般市民である。理想の実現のために暴力を使うことは、どんな理由があっても許されてはならない。しかしそれでは改革は出来ないのであって、さらに厄介なことに、もはや世界規模で始まってしまったこの「危機」は、利権関係が複雑に絡み合いすぎて、雌雄を分けることが出来ない。このグローバル・キャピタリズムの「負の連鎖」は、なんとしても止めなければならないが、残念なことに、私にはこれを粉砕するための世界的で広範囲で徹底的で全面的な闘争に身を捧げるだけの体力や経済力や気力や時間がない。そもそも先進国と途上国とでは、まさにグローバルに状況が異なるので、タイムラグがありすぎて革命に必要不可欠な大衆的支持を得られない。私が今出来ることは、こぼれ種から自然発芽したトマトの生長を注意深く観察することくらいである。

 グローバライズされた資本主義社会に生きている私は、完全に世を拗ねて隠棲してしまわない限り社会との関係を保たざるを得ない。現在のものの価値すなわち物価は、要するに地球の化石燃料に国際市場がどの程度の値をつけるかによって決まっているから、ここ農村部においてさえ、決められた最低賃金と平均年収の中間くらいの安定的な現金収入がないと、健康で文化的な社会生活を送れない。つまりカネはどうしても必要である。まずは年収100万円程度を目指す必要がある。そのライフ・プランをどうするか・・・

 専業農家で自立する道を果敢にも模索する。農薬不使用とは言いながら、近隣の農家では農薬も化学肥料も使われており、稲の出穂期には空中散布もある。従って自分で使ってはいなくても、農薬の影響が皆無とは言い切れない。JAS認定を受けられるほど規模も大きくないので、「特別栽培米」として出荷するのが限界であろうが、例えば米ならば、仮に\1,000/kgで直販できれば、1tで年収100万円をクリアできる。昨シーズンのアキタコマチは、試行錯誤の末70%程度の出来、5畝で約200kgの収穫であったので、1反に拡張してもいいとこ600kg程度の収入、あとを野菜で補うとしても、旬のものは、巷の旬に間に合わないことが多いから、常用野菜や際物の季節野菜、珍しいもので売り先の決まっているもので年間40万円を確保するには、相当な段取りと知恵が必要になる。冬の間に大豆を味噌や醤油に加工する。白菜や大根を漬け物にする。そのような手作り加工食品を積み上げて生活設計が出来るか・・・このような考え方で農産物を作ることは、現実問題として致し方ないとはいえ、私が農業を始めようと思った動機からは外れるのである。なぜなら、私は農産物を売りたいのではなく、農産物を生産できる人を回りに増やして、農業が基軸にある健康な暮らし方を実践していきたいと思っているからである。しかしカネがなくては何も出来ない。カネを得るためには、次善の策として売ることも考えざるを得ない。この道は厳しい。規模は今の2倍、田んぼと畑を1反ずつ作る必要があるので、今の2倍の労働量が要求されるし、自然の猛威を相手の賭けのリスクも倍になるからである。しかし専業であるということは、ひとつ事に専念できるという強みもある。

 いまひとつは阪神間に近い地の利を生かして、都市生活から農業に転向しようと志すスーパーシロウトの架け橋となることである。農業を基軸とした、可能な限り自給に近いライフ・スタイルは、化石燃料が枯渇し、それを基軸としたグローバル・キャピタリズムが崩壊する近い将来には、人類が避けることの出来ない生活様式である。しかし、いきなり農業とはいっても、これに順応するには大変な時間と労力がかかる。無理のない持続可能な形で、徐々にそのような生活に軟着陸させていく方法を模索するためにも、宿泊や滞在が可能で、人力による農産物の栽培と加工の出来る設備が一通り揃っている今の環境は理想的である。まずは友人関係から始めて、「自然食レストラン」などに集まる客を中心に、小規模で緩やかなネットワークを形成して、この古くて巨大な農家を体験型宿泊施設として、少しずつカネが動かせるようになれば、その先に結果が出てくるのではないか・・・この集落も、10年後には農業後継者が少なくなる。今のままの農地法で行けば、耕作放棄地は増える一方となる。農地法が今一度改正され、こうしたネットワークが広がって、農業で自立できる友人が何人かでも定住することが出来れば、この集落は、都市生活者が農業に身近に触れることが出来、都市近郊に安全な農産物を供給するひとつのモデル・ケースとして成功することになるのではないか・・・。しかし問題点としては、仲間が自立するまでの過渡期において、共同で農作業をした場合の管理責任や、結果の分配をどうするか、そもそも農産物を生産するにあたって、どのような考え方で望むのが良いかという点で、かならずしも全員の持続的な賛同が得られないという事があげられる。すでに私を手伝ってくれていた何人かの仲間は、「農法」を巡る考え方の違いからグルーブを去っていった。

 そこで、ある程度どんな考え方で農業を志しているかを明らかにしておく必要はあると思う。私は特定の「農法」にこだわるつもりはない。かといって、世にある様々な「農法」から自分に都合の良いパーツだけを選び出してつなぎ合わせれば良いとも思っていない。まず第一義に、安全で安心して食べられる食べ物を自分の手で作りたいということであって、これに反対する考え方というものは存在すまい。で、どうやってそれを実現するのかというと、まず田畑にあるものを出来るだけ持ち出さず、ないものを出来るだけ持ち込まない、という事が基本である。そういう点では、故福岡正信氏の「自然農法」に近い。しかし、農業は人間の都合の良いように、人間の都合の良い植物を依怙贔屓して育てておいて、人間の都合の良いときに盗って食おうというものであるから、そもそもが自然破壊の最前線であって、「自然農法」などという用語は形容矛盾であると考えている。私は、特定の「農法」に従ってさえいればなにもかもがうまくいく、として盲目的に特定の考え方や方法論を信じるつもりはない。ましてや、それで「自然に帰る」ことができるなど、読者を誤解に導く最たるものだと思っている。私は「自然農法」の個々の方法論を批判するつもりはないが、個々の方法論の集大成を「自然農法」と名付けたセンスは欺瞞に満ちていると思う。「自然農法の実践者」のところで修行した、あるいは修行しにいく人に共通する傾向として、強くて個性的な考え方を妄信しやすく、自分で判断して行動しないという共通点を感じる事を指摘しておきたい。中には、何年も収穫がないから自分は修行が足りないと真剣に悩んでいる人がある。こうなると方法論を越えて一種のカルト宗教であって、そういう人たちとは絶対に組する事が出来ない。なぜここに言葉を荒げて力説するかというと、私の周囲にさえ、このような狂信的なんちゃら「農法」主義者が多く、時を選ばずに非論理的議論を挑みかかるからである。私は、ある程度柔軟で、しかし理にかなった考え方で栽培するなら、方法論などどうでも良いと思っている。農業は、その土地の土や気候によって大きくやり方が異なるので、すべては対症療法だからである。目の前で枯れていく作物を見れば、なんとかこれを救済したいと思うのは当然であり、何らかの手を打てば、全滅という事はあり得ない。その次は前の教訓を生かすのであって、その積み重ねが農業であると思う。にも拘らずそれを何年にもわたって、すべての作物を全滅させたという事は、余程特殊な方法論か、あるいは根本的に人として生き物を見つめる「目」が狂っていると思わざるを得ない。

 私は長らく加工食品を扱う仕事をしていたので、食品添加物の効罪については熟知しているつもりだ。現在、一般的な消費者が、市販されている加工食品を、日常的な常識の範囲内で使用している限りにおいては、人体に危険の及ぶ事はまず考えられない。加工食品メーカーや食品添加物メーカーは、あらゆるリスク・ファクターを検討し、実験や試験を繰り返し、データを集積して商品を開発している。その基準や検証のプロセスは、実に厳しいものであって、数十年前のグルタミン酸ソーダ万能時代とは全く状況が異なる。しかし、一歩プロの世界、あるいはメーカー側に立ってこれを専門的に扱う立場になると、これらに触れる機会が桁違いに増加するし、検証されていない組み合わせで味覚試験を重ねる事も非常に多いので、リスクは高まる。癌の原因というものは複合的なものなので、その原因について軽々しく断定する事は出来ないけれども、私の舌癌は私の長年の仕事の結果である可能性は極めて高い。私が農業を志してみたいと思ったきっかけは、このような添加物がもしなかったとしたら、日常生活はどうなるのかという事を知りたかったからである。食品添加物に対する考えと同様に、私は農薬や化学肥料についても、日本で使われているものは、適正に使われている限り、極めて安全性は高いと考えている。私はその安全性については、何の考え方も持っていない。私がこれらを使わないのは、それらの安全性に疑問を持っているからではなくて、それらがなければどうなるのかを知りたいからである。化学肥料で結球させたキャベツに、ラベル表示に食品添加物の名前がぎっしり詰まったマヨネーズをかけて食べながらそう思ったのである。化学肥料がなければキャベツはどうなるのか、卵と酢と油だけで、私にマヨネーズが果たして作れるのか、そういうことを知りたかったし、いまでもすべての野菜と、私が口にするすべての食品を加工するすべての段階において、それを検証したいと思っている。その探求は、おそらく終わる事がないであろう。日々実践である。葉もの野菜が生長すれば、一枚一枚虫がついていないか、卵が産みつけられていないか、ひっくり返して毎日調べるのである。二週間に一度は、田んぼのすべての株の間にガンジキを通して除草するのである。すべての畑にある野菜について、すべて個別のやり方で世話をするのである。農薬がなければ当たり前の事である。それに自分が果たしていつまで耐えられるのか、それが最も大切な問題であると思う。

 すべては対症療法である。だから特定の方法論の集大成に概念を規定する事には慎重であるべきだと私は考えている。基本的には、「蒔き時」を見極めたら、その前後数週間にわたって、少しずつ種を蒔く。あるいは定植をする。水やりや除草管理なども、作物や雑草の種類によるが、基本的にはその作物の原種の気候をイメージして手入れをする。除草は、作物の生長を阻害すると思われる場合にのみ、ときによっては抜く事もあるが、だいたいは刈り込んでマルチングに使う。肥料は、作物によって元肥が多い方が良いものについては、抜いた雑草を積み上げて米ぬかと水で醗酵させた堆肥や、土手の草刈りをしたときに出た草や樹木の剪定くずを燃やした灰を鋤き込む事はある。追肥は米のとぎ汁がほとんど。稲わらやもみ殻、刈り取った雑草などは、整地の際に短く切り刻んで鋤き込んでいる。整地も土が堅くて扱いづらくなったときに、年に一回程度しかしない。基本的には表層の雑草をめくって種蒔きや定植をしている。このやり方を始めて、少なくとも野菜に関しては5年以上同じ結果を出せている。「肥料食い」と言われているタマネギやトマトは小さく不揃いで、イチゴは酸っぱく収量は少ないが、白菜は結球するし、大根は見事におばちゃんの太ももを凌ぐ。いずれも食えば大変旨く、ここへ移住してからの5年間、風邪ひとつ引かず、体調はきわめて良い。力が漲っている。農業は自然破壊であるが、人間がその手足で破壊できる程度など、たかが知れていて、大型機械や化学薬品を使ったり、大規模な焼き畑でも行わない限り、いわゆる「自然のサイクル」を大きく狂わせるという事は、まずあり得ない。個々の作物に対する対応の仕方は多様であり、様々な条件下でその対処法は異なる。だからこれに名前を付ける事などあり得ない。本来、自然や宇宙というものは混沌としたものであって、すべてを司る原理というものなど存在しない・・・というか、科学がそれを究明しようとしている途上である筈である。それを、一介の農法家とやらが解明し得たかのように標榜する事は、欺瞞以外のなにものでもない。なにごとも、不確定なものに携わる人は不安を感じる。その不安を一刀両断してくれる人は頼もしく見える。その心情は否定しない。しかし、それは大変危険な考え方であって、自然や宇宙というものは、そんなに簡単ではない。農業もまた同じであろうと思われる。ごく優しい落ち着いた気持ちを持って、生れ出てくる生命に敬意を表しつつ、成長を喜びながらそれを手助けしていれば、作物は答えてくれる・・・たぶん。

 

posted by jakiswede at 22:40| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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