2010年07月15日

The Cove

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20100706 舌癌の手術より5年が経過し、所定の観察期間を終えた。これからの通院は、年に一回程度となる。なによりなにより。せっかく電車で大阪へ出たのだから、ひとりでぶらぶら街を歩く。いいよなあ、気楽でいい。ほんまに大阪の下街をほっつき歩いてると、心が落ち着いてくる。ここは十三、自転車のおばちゃんのちょっと向こう右奥がFandango。陽のある時間帯、まだ目の覚めやらぬ風俗街というのも、なかなかこれはこれで風情のあるもんやな。

 さて、十三へ来たのには目的があって、お気にのホテヘルねーちゃんが出勤してるからではなくて、話題の映画「The Cove」を見に来たのである。いろいろと前戯が八釜しくて大変みたいやけど、ここはやってくれると信じとった。

 

http://www.nanagei.com/

 

 上映するやせんやで伐った貼ったした最近の記憶に新しいんは「靖国」でしょうかな。あんときも反対運動が盛んで、右翼の街宣車はポリ公が張ってて止められへんからのろのろぐるぐる回っとった。ほいで地上部隊はこの映画館へ通じるアーケードの入り口で、「映画をご覧になる方はおられませんかぁぁぁぁあ??」なんてアンケートを装って、ひとりずつ客をどっかへ連れて行きよった。まあ風俗店の客引きと見間違うて誰も怪訝に思わなんだんやろけど、ちょっと感じがちゃうからピンと来た。遊んだっても良かったんやが、上映時刻が迫っとったんで知らんふりして通り過ぎたんや。でも何人か追いかけてきよったな。映画自体は、あんなけ騒いどったにも関わらず、出来としてはそんなに良くなかった。まあ、センセーション巻き起こしとけば、名前は出るし却って駄作に埋もれるより実績が上がるんかもしれん。上映中止織り込み済みの、日本狙い撃ちプロパガンダ映画や。ドキュメンタリーとは言いがたい素人ビデオに毛の生えたような内容やった。

 

http://thecove-2010.com/

 

 そこへいくと、今回はわりと静かやった。長蛇の列かと思うたらそうでもなく、間際に着いたのに普通に入れた。内容はね、映画として面白いと思った。よく出来てる。和歌山県太地町でイルカ漁が行われていて、イルカはクジラの仲間であるから、捕鯨に反対する立場の出演者が、様々な技術を駆使して、「立ち入り禁止」区域内にあるイルカ追い込み漁の最終屠殺現場である隠れた入り江に夜中に潜入して、隠しカメラと遠隔操作で映像をモノにする。カムフラージュのプロ、ダイバー、サーモカメラ・・・隠し撮りへのプロセスが刻々と映し出され、やっては行けない事をする子供のようにわくわくする。これもドキュメンタリーというより、プロパガンダ色のえげつないスパイ映画みたいなもんやな。

 で、その主張するところについてどう思ったかというと、こういう所謂つきのドキュメンタリー映画を見ていつも思うのだが、そこに提示されている主張の根拠となるデータの信憑性がどうなのかということだ。仮に、映画のすべてのデータが正しいとしたら、彼らの主張は疑いの余地なく正しい。あたりまえか・・・太地町でイルカ漁をしている漁師たちは悪者で、イルカ漁を見に来た外国人の女性サーファーを銛で突こうとするほど野蛮で、年間2万頭ものイルカを捕獲 (しているような話の流れになっている) しては、ごくわずかの美しいイルカを法外な値段で水族館やイルカ・ショーに売り、残りは一頭残らず銛で惨殺して「クジラ肉」と偽装して売り、その水銀のいっぱい入ったイルカ肉の売り上げをもっと伸ばすために学校給食にまで取り入れた。その事実を大半の日本人は知らない。それを彼らは日本の伝統文化というが、誰に訊いてもイルカの肉を食べるものとは思っていない。そればかりか、イルカは人間よりも、もしかしたら高い知能を備えているのかもしれず、ダイバーが海の中で彼らと接した体験は実に神秘的なものだった。そんな特別な生き物を殺して食べるなど野蛮きわまりなく、世界のイルカ・ショーの供給基地となっている太地町のイルカ漁は、何が何でも止めなければならない。巧妙な演出と映像技術に支えられて、上手くデータや論理がこのストーリーに沿って見せられる。見終わった後、大抵の人は「そうだそうだ。もっともだ。」と思ってしまう。そのように巧妙に作られているから賞をもらえたのだ。

 では、日本で非難されているように、「靖国」でも同じ事が言われたが、現場に嘘をついて隠し撮りされたから良くないのか、というと、これは寝言や。彼等は告発しようと思っている。たとえばミャンマーの民主化運動のドキュメンタリーを撮影するのに軍事政権の言う通りに撮って作品が出来ますか。ドキュメンタリーとは、隠された物事に切り込むのだから、隠し撮りは当然である。それよりも、隠し撮りが初めてではない筈の太地町が、英語の看板を掲げてまんまと「隠し場所」を見破られ、潜入を許したその迂闊さを自己批判すべきであろう。「落石注意」として「立ち入り禁止」にされているが、実はその先に「隠し場所」があるという事を、警察もグルになって主張する欺瞞が、なぜこの法治国家でまかり通っているのかが糾弾されるべきであろう。「不審人物」を見たら尾行する専門の警官に費やされるカネと時間は我々の税金から捻出されている事を、日本人は知るべきだ・・・ワシ無職やけん払うてないけど。それよりもなによりも、無防備な外国人女性を銛で突く蛮行を撮影されてしまったのは、あまりにも危機意識がなさすぎるんとちゃうか。「女性を銛で突くのが日本の伝統文化」・・・昔、欧米のマスコミに似たようなツッコミ方された外交官がおったな・・・これではプロパガンダ映画の餌食にされて当然である。先方にしてはしてやったり、筋書き通りの演出にエキストラのおまけまで付けてくれたようなものだ。この映画は、別に日本の伝統文化を批判している訳でも、太地町の漁師を攻撃している訳でもない。それは見ればわかる。反日映画などでは到底ない。にもかかわらず、これほど激しい抗議活動が起こるのは、どこかに実利的な何かが動いているからであろうか・・・しかし、そんな事に首を突っ込んでいる余裕は私にはない。

 私自身は、クジラ肉をおいしいと思ったことがない。小学生だった1970年頃には学校給食に頻繁にクジラ肉が出て来た。いずれも甘辛く濃い味付けで、実のところとても食えたもんではなかった。おいしいクジラ肉を食った事がないだけの事かもしれんし、高いらしいから目に入らんのであろう。だから、「クジラを食べるのは日本の食文化」と言われても、まったくピンと来ない。「それは捕鯨が禁止されてクジラ肉が供給されてないからだ」と捕鯨推進派から指摘され、1960年代のクジラの消費量のデータを突きつけられても私には検証する手段がない。「クジラを食うなというなら、牛を食うな」という理屈も乱れ飛んでいるが、世界中の食文化の「負」の部分をいちいちほじくりだして喧嘩してたんでは身が持つまい。牛の食われ方については、かつて「いのちの食べ方」というドキュメンタリーがあって、なかなか鮮烈な内容だった。

 

http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/

 

 この映画は、牛に限らずあらゆる肉・魚・野菜・果物・穀物・・・が「食材」としてどのように生まれ・育てられ・処理されて我々の台所までやってくるかを、実に多数の事例を積み上げてグローバルな視点から見せつけた示唆に富んだ作品だった。事実を撮影した積み上げがあるからこそ、ふくれあがる地球上の人類を食わせていくために、どうやって食材が生産されて行くかを考えさせられる。それに対して「The Cove」は、太地町のイルカ漁に絞り込んで、それがどのように行われているかを見せたというよりも、見せるための様々なプロセスを「反捕鯨」という軸に従って面白く見せたもののように思われる。たしかにあの入り江が殺されたイルカの血で真っ赤に染まるのは事実であろう。それを見て衝撃を受ける。しかし映画の力点は、その映像を得るためにどのような手段をとったのかを事細かく見せた時点で、既に「捕鯨に反対する」というイデオロギーを観衆に押し付けることにおかれている。一般の人は、太地町のイルカ漁と、イルカの肉の食べられ方についてほとんど知らない。しかしそれを指摘して何かを知らせるならば、そのイデオロギーに反対する立場の人も含めて、丹念に取材を重ねて証言を重ねていくべきだった。そういう丁寧さと公平なものの見方、多文化に対する敬意が感じられなかった事は、映画を見ていて残念に思った。受賞は短絡的であると言わざるを得ない。

 しかしながら、この映画を見ていて考えさせられた事も多い。人間、食わな生きていかれんから、なにがしかの命を頂戴して糊口をしのがねばならぬ。これはどうしようもない。例えば私は思うところあって、今その「食材」を自ら生産する事の苦しみと歓びと可能性と限界を日々体感しておるのであるが、このことで地球上の人類を食わせていくための一翼を担う事が出来るとは到底思えない。地球上どころか、日本の、阪神間の都市生活者が「安全な米や野菜が欲しい」という気持ちと、農村の代々の百姓が米や野菜を作っている現状との橋渡しさえ出来ない有様である。都市生活者の「安全な米や野菜が欲しい」という気持ちは、「無農薬有機栽培」・「オーガニック」・「自然農法」・・・という特定の概念に直結し、それを崇拝するほどに希求するばかりで、その裏を見ようとしない。農薬を使わないとすれば、それに替わる方法が必要である。つまり毎日すべてのキャベツの葉の裏を全部めくって虫や卵を取り除くのである。田んぼのむせ返る湿気と臭いに耐えながら、顔を突き刺す稲の葉をかいくぐるようにして、その下の雑草を取り除くのである。化学肥料を使わないとすれば、それに替わる方法が必要である。つまり腐敗と醗酵の境界線を熟知して、雑草や食品残滓を丹念に分別し、腐食して堆肥化できるものを無駄なく利用するのである。それをだれがやるのか、健康な男が一日どのくらいの仕事量をこなせるのか。「無農薬」や「オーガニック」という言葉は、自分が農薬を使わないという意味ではない。農薬の影響が定められた厳格な基準以下に抑えられている事が必要であって、隣接する圃場や用水、風による影響もほぼ皆無でなければならぬ。それを実現するためには集落全体での取り組みが必要であって、ところが日本の農業の現状は、機械化された近代農業が始まったその世代が高齢化して、一代限りでいままさに絶えようとしている。彼等は、大型機械と農薬と化学肥料なしには、自分たちが日々生きながらえる現金収入を得ることさえ到底できない。だから彼等は、都会から農業体験をしにくる若者と対立してしまう。

 米や野菜の安全性について、生産者や流通や農協などを批判する事は容易い。しかし、男一匹農薬も化学肥料も使わずに切り盛りできる農地は、せいぜい一反強。それで日本を救おうと思えば、機械化される以前の比率にまで就農者が増える必要がある。そうでなければ「安全な米や野菜」などいきわたるはずがない。だから、都市生活者は「裏」を見て理解して行動する必要があるし、農家は現状を良くわきまえてどうすれば先祖代々の農地をきちんと使えるかを本気で考えなければならない。そのために、私は田畑にあっては草や虫と格闘し、風を読み、世話をし、語りかける。百姓と話すときには、言葉を選びつつちょっと変わった農法をとっているが他意はなく迷惑もかけない事を伝え、実践する姿を見せて理解を積み重ね、都市生活者の友達を誘って、農作業のある暮らし方の提案をする。日本人は、太地町のイルカ漁についてもっと知る必要があるのと同時に、農村のこの現状についても、もっと良く知るべきだ。どちらも明日の食材に関する事だから。

posted by jakiswede at 02:02| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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