2011年01月26日

20110109 せやからいうてるやんか

  この夏のつらい体験のおかげで、私は自分自身のことについて深く知りたいと思うようになった。私のことをよく知る古い友人たちとの対話によると、私の子供の頃の体験が今の私の性格に大きな影響を及ぼしているという。今まであまりそのような考え方をしたことがなかったので少し意外な感じがしたが、専門家にいわせると、どうもそのようなことがあるらしい。というか、その影響はたいへん大きいものだという。しかし子供の頃の記憶を思い出して今の自分像を想像しようとすると、今の自分に都合の良いように脚色されたプロフィール作り上げてしまう可能性がある。だから、この文章ですら、私が今書いているこの時点で、既に脚色されたものであるだろう。しかしなるべく正しく客観的に思い出したことを再構成してみると、確かに今の自分が物事に対してどう向き合う傾向があるか、つまりどのような人格であるのかを推測することができる。おそらく私は幼少の頃から、周りとはかなり異なる性格を行動に表していた。というか、周りと同じことはしたくない、周りと違うことを好んでする子供だったようだ。幼稚園の頃からエピソードがある。母が迎えにきても、周りの友達はうれしそうに甘えているのに、私だけは知らんぷりをして一人で帰り道を急ぐのが常だった。エレクトーン教室に通わされたのだが、ちっとも先生の言うことを聞かない上に、リズムを取るためのシェイカーで友達の邪魔ばかりするので、教室の方から月謝を返金するからやめてくれといわれたらしい。お絵描きの時間に友達の顔を描きましょうと言われたのに、電車の駅の線路の配線図ばかり書いていた・・・もっとも、それはお絵描きの時間に限らずずっと書いていたのだが・・・。学芸会 (?) で、どうしても賛美歌を歌うのが嫌で、その場面だけどこかへ消えた。給食の時間に、出されたホット・ミルクに浮いた膜が怖くて毎日泣いた。幼稚園の頃に初恋をして「美」について考えた。美女というものは、明らかにその「美」を所有している筈なのだが、それをリアル・タイムに鑑賞できないのは不条理であると・・・これに気がついたとたん、気も狂わんばかりになった。以後、「美女」に異常なまでの執着を持つようになり、いわゆる「面食い」傾向、垢抜けたもの、エキゾチックなもの、現実離れしたもの、この世のものとは思えぬもの、とらえどころのないものに対する興味が強くなった。小学校に上がると、毎日大量に鼻血を出すようになり、洗面器では足りずにバケツを溢れさせることもあって、周囲を怖がらせた。鼻の粘膜が敏感すぎて、ちょっと笑っただけでも血を噴くので、極力表情を顔に出さないようにしていた。小学校2年のときに、近所に新設校ができて校区が変わり、そちらへ転校することになった。しかし、そこは管理教育に異常なまでの意気込みを示し、生徒の行動を徹底的に把握、規制しようという方針だった。集団登校のグループ単位で放課後も遊ぶように指導されたのだが、私の家は、三棟並んだある会社の社宅アパートに隣接する一軒家だったので、私はそのグループに組み込まれた。しかし、当然なことに私以外は全員団地っ子であったから、すべてにおいて強烈な差別といじめを受けた。登下校するときも、遊ぶときも、ひたすら蔑まれ、ときによっては暴行された。それは陰湿というより、残酷なものだった。残酷といえば、大人たちから受けた暴行も残酷だった。私は元々「さし腕」といって腕がひどく湾曲しているが、当初からそのために教師による体罰を受けていた。整列したときにする「前へならえ」が正しくできないといっては、体育館の裏へ引きずっていかれて、竹刀で血だらけになるまで殴られた。この体罰は、体育の担当教諭の間で引き継がれて何年も続いた。鎖骨骨折と鼓膜が破れるほどの負傷をしたことがあるが、学校側により不慮の事故として処理された。この暴力に対して私の味方になってくれたのは、当時「同和」教室という名の「別棟」のプレハブで授業を受けていた、被差別部落の生徒と先生だけだった。以後、学校の教育方針に逆らって、私は彼らの住む地域へ繁く出入りするようになる。家庭においては、父親はきわめて強権的であった。日本で一番賢い大学を一番の成績で卒業したが出世はままならず、その怒りが家庭内で火を噴いた。学校の体罰に関しても、精神を鍛え直すという観点から好意的だった。母親も、強権的な父親に押されて同調した。小学校高学年にもなると毎日のように言葉と腕力による暴行を受け、自分を守るためにひたすら部屋に閉じこもった。父の帰宅時に門扉を閉める音が聞こえると、恐怖で体が動かなくなった。居間で両親が話している内容に聞き耳をたて、次に何がおこるかを常に予測して、被害を最小限に食い止めなければならなかった。両親への根強い不信感は現在になっても解消されておらず、特に父親に人間性を認めることができない。しかし私の地獄耳はこのときに育成され、それは音楽の探求には役立った。音楽には幼少の頃から興味が強かったが、エレクトーン教室をクビになったコンプレックスからか、アカデミックなにおいのするものには猛烈な反感を持っていた。しかし家でポピュラー音楽を聴くなどもってのほかであったので、自分でゲルマ・ラジオを作ってベッドの下に隠し、深夜放送を聴いていたが、それがバレて大変なことになった。今考えてみると、それまでは、学校・地域・家庭ともに敵ばかりだったように思われる。自分の息つける場所は自分自身以外にはあり得ず、自分を守るための隔壁を築き上げていった。私は、素質として自己主張が強すぎる傾向にあったとは思う。しかし少年期を過ぎるまでの閉ざされた社会環境において、周囲の大人たちからの働きかけは、私の意識を外に向けて解放し緊張を緩和していく導きよりも、私の意識を否応なく内にこもらせ頑に凝り固まらせる方向に、強く働いていたことは事実である。小学校の高学年にさしかかる頃には、既に「大人とはこういうもの」、「社会とはこういうもの」という固定観念が出来上がっていて、それは襲いかかってきて自分に危害を加えるものであったので、自分を守るものは自分しかいないという強い自己防衛の意識を持つようになった。だから、持論を論破されそうになると猛然と反論し、相手を攻撃しすぎるところがある。論破されないように、常に自分の考えや行動を理論武装し、大人からとやかく言われても理詰めで黙らるために自分の論理体系を研ぎすませる事に精を出した。これは、子供らしい純朴さからはおよそかけ離れた、不幸なものだった。しかし、自分で自分を守るためには、そうするより仕方がなかった。そのために嘘もたくさんついた。嘘に嘘を重ねるために、つじつま合わせの迷路をいかにくぐり抜けるかを考えること、詭弁やこじつけの論理展開にも長けるようになった。小学校までの友達関係には、社会性も何もあったもんではなかったが、さすがに中学生にもなると、いろいろな個性が芽生えはじめる。地元の中学へ行かずに越境したことも幸いして、様々な価値観を持った友達ができて、その積み重ねとして社会性が身に付きはじめた。中学にあがってからは、親に向ける顔と本当の自分を使い分けることを覚えはじめたので、幾分締め付けはましになった。当時の私にとって「社会性」とは、自分の外にあってルールさえ守っていれば自分でも生きながらえる事のできる枠組み、というほどの意味だった。したがって私は論理やルール、システムや枠組みなどを異常に重んじるようになった。こうして、明確に自分の社会的な存在場所を理論的に定義づける事ができるようになると、かえって安心して外と内を使い分け、自分の内側は幼いままに温存されるようになってしまったように思われる。親や教師や大人に対しては、ちゃんということをきいているふりをして、自分は自分の殻の中で、自分の好きなように振る舞った。外に向けた顔と自分自身の顔の境界線が明確になり、それは壁のように高く分厚いものになっていった。大学に入るとアルバイトができるようになり、大人たちの社会に継続的に接触した。自分の自由になる金ができたことから、行動範囲も広がった。せっかく自由になったのに、偏狭で煽動的な思想に埋没するくせに、性に対して淫らな友人たちの気が知れず、学友とやらのつきあいを絶って必要最小限しか登校しなかった。社会を知ったおかげで、今までの自分の育ってきた環境がいかに異常なものだったかに気づいたので、就職して初任給を得ると、即座に一人暮らしを始めた。閉塞された家の圧力から解放されて、とにかく他人に迷惑さえかけなければ良いと思って、やりたいことはやれるだけやった。ビジネスライクに仕事を進めれば、きちんと評価されることを知って、仕事の世界に生き甲斐を見いだすようになった。中学や高校の頃の同級生が目を疑うほど社交的になり、営業に出て実績を上げることが喜びになった。そして、さらに自分の能力を高めるために独立し、フリーランスの営業仕事人のようなグループを立ち上げて、主に大手食品メーカーから、販促企画と営業落とし込みの仕事を請け負う専門家として20年近く仕事は途切れることがなかった。しかし弱点もあった。仕事を任されれば一定以上の実績を上げられたが、それは結果オーライのクライアントに対してだけだった。強迫神経症的な傾向のある疑り深い相手とはほとんど必ず対立した。対外的にも、得意先の望む仕事もいやがる仕事も率先してやるので重宝され、一定の信頼を得て一定以上の実績はあがるのだが、キーマンに取り入って裏で取引することができなかった。つまり、営業活動につきものの接待に代表されるような、ビジネスライクには割り切れない人間関係による取引の拡大は大の苦手だった。交友関係は問題なかった。対外的な社交性は十分鍛えられていたので、約束は必ず守り、仲間の意見のとりまとめやリーダーシップもそれなりにあった。もちろん友達であるから、プライバシーの奥深くには入ってこない。しかも長い付き合いのある友人たちからは、折に触れて適切なアドバイスがもらえる。適度な距離のある穏やかな人間関係は、私の最も安心できるものだった。これは、何物にも代え難い私の財産である。しかし女性関係には問題が多かった。女性とつきあうということは、友達以上にプライバシーの内側に踏み込んで来られるものだが、おそらく私の「心の壁」が厚くて高すぎるため、彼女たちはその中に入ることをあきらめてしまうようである。もちろん私自身に自覚はない。つまり幼少の頃から徐々に築き上げられてきたものなので、私にとってはあって当然のものであって、意識したことがないのだ。しかし一般的には、これほど頑強な壁というものはないものなのかもしれない。私としては、適度な距離を保って壁の外側で楽しくつきあう事ができればそれでいいのだ。壁に必要以上に近づいてくる相手に対しては、恋人だろうがなんだろうが容赦なく扉を閉ざす。彼女は、かわいそうな事に、入り口をいくら探しても見当たらず、中の私に語りかけても返事がないものだから、あきらめて去っていくのだろう。それは、私が無意識に、私自身の内側が、幼稚なままに温存されている事を知っているからかもしれない。この壁を取り払うことができなければ、おそらく愛というものを知ることはできないと思われる。しかし、その方法が私にはわからない。壁は厳然としてあるのだが、私にはどこにあるのかがわからない。「それが壁だ」と言われても、たぶんなんのことかもわからないだろう。私には解決方法が見えないのだが、それはこれから起こる一つ一つの出来事に対して私が対処するときに、私自身がどれだけその壁の存在を意識したうえで広い視野であたれるかにかかっているのかもしれない。ひとつひとつ、起こった事について、注意深くいく通りもの角度から見つめ直す事が、解決に導いてくれるかもしれない。でもやっぱりあの人が好きだ。どうしても好きだ。50にもなってこんなことを書き綴るなんて、なんと子供じみたことだろうとは思う。思うけれども、やっぱりあの人が好きだ。なぜ好きなのか自分でも全くわからない。何かを共有できているからとか、ともに進める夢があるからとか、そんなことはまるっきりない。それどころか、趣味も価値観も、生い立ちも・・・要するに何もかもが違っていて、二人で時を過ごすなど、全く考えられないほどだ。たぶんデートすら一度も出来ないだろう。ましてや、あの人の暮らしを僕が支えきれる筈がないことは火を見るより明らかなのに、好きだという気持ちだけが一人先走って、それは手に負えないものになっている。それほどめちゃくちゃに、あの人のことが好きだ。ただひたすら好きだ。むやみやたらに好きだ。全く馬鹿げてる。でもこれは別に悪いことじゃない。誰に恥じることでもない。むしろ誇って良いことだ。しかしあの人は別の人が好きだ。いくら僕が努力しても、いくら優しくしても、どんなに気を遣っても、決してこっちを向いてはくれない。それは仕方がない。僕があの人のことを好きなのと同じように、あの人は別の人を好きなのだから。それは別に悪いことじゃないし、誰に恥じることでもないし、むしろ自然なことだ。だから、そんなあの人を好きになれた自分を、僕は好きになろう。別の人を好きなあの人を僕が好きでいるこの状況を、精一杯楽しもう。でも、正直な気持ちを言うと、やっぱり僕はあの人に好かれたい。愛されたい。甘えたいし甘えられたいし、一緒に寝たい。しかしそれは叶わない。叶わないけれども、燃え上がったこの気持ちを押し殺すことは出来ない。長い長い苦しい夜を過ごしたけれども、その間、なぜ僕があの人に好かれないのか、あの人に好かれるためにはどうすれば良いのか、ためつすがめつ考えた。しかし結論なんか出ない。あの人がどんな人が好きなのかを想像して、何度も何度も自分を否定して、否定しすぎて自分が何者なのか、さっぱりわからなくなるくらいぼろぼろになったけれども、そんなこと出来る筈がない。僕は僕なのだから。ではどうするか、あの人の邪魔にならない範囲で、精一杯の愛を表現するしかないだろう。苦しい日々をやり過ごしたおかげで、していいことと悪いことの分別くらいは身に付いた。だから、精一杯好きな人が喜ぶことをしてあげれば、それは決して迷惑にはならない。迷惑になっているかどうかは、注意深く接していれば、自ずとわかることだ。なぜなら、僕は心からあの人が好きなのだから。僕の心の中だけのことだが、僕はあの人を深く愛していると言い切れるから。今の僕なら、あの人がどう思っているのか、手に取るようにわかる。僕はあの人に会ったときは、心から親切にするし、優しくするし、精一杯の力を注ごう。そしてあの人が好きな人が来たら、悪びれるでもなく、卑屈になるでもなく、さっと道を譲る。あの人にとって、今その人と一緒に居ることが、この上なく大切なことなのだから。あの人のために、それが大切なことなのだから。あの人は心に病を持っている。それは大変困難な種類の病だが、未だ日常生活が崩れるほどではない。僕は、あの人の置かれている状況を理解し、様々な局面について、どうすればあの人をそこから救い出せるか、法律・経済・医療のさまざまな場面について猛烈に勉強した。そして心配する必要のないことを伝え、段階的で具体的な解決策を提示した。それでもあの人はこっちを向いてはくれなかった。僕は、心の病に苛まれているあの人に向かって、残酷なことに正論を吐いてしまったのだ。それは、してはいけないことだった。これに対して、その人はあの人の言葉をただひたすらに受け止めた。優しく全てを聞き入れた。あの人はその人に全身で寄りかかり、その人は文字通り全身で受け止めた。しかしこれも危険なことだった。なぜならあの人の心は、穴の開いたバケツのようなもので、心のエネルギーを他者が注ぎ続けなければ安定できないからだ。しかしエネルギーには自ずと限りがある。本当にあの人を救うためには、その穴を徐々に小さくして、最後には塞ぐ方向へ向かわせなければならない。しかも塞ぐのは自分自身の手だ。それはすなわち、自分の病の一切を、自分で認めて治療に踏み出す決心をしなければならないという、厳しい選択を意味する。しかし今その人がしていることは、あの人の心にどんどんエネルギーを注ぎ込んで、自立するための感覚を麻痺させている。それは、結果的に穴を広げることに他ならない。僕はそれを止めようとした。あの人が好きだから、あの人に地獄を味わってもらいたくなくて、やむにやまれずにそうした。しかし二人は僕を無視して去って行った。僕の苦しみが始まった頃だ。僕は、そのときになってようやく、あの人の心の病に気がついた。そして多くのことを学んだ。あの人を心の病から救い出し自立を促すには、あの人と一定の距離を置かねばならず、あの人に巻き込まれてしまっては共倒れに陥ることを知った。心の病とのつきあい方を学ぶにつれて、僕は、僕があの人を好きでいることと、あの人を心の病から救い出したいと思う気持ちが、両立しないことに気がついた。つまり、あの人を心の病から本当に救い出そうと思うのなら、あの人に恋をしていてはいけないのだ。逆に言えば、あの人が本当に好きならば、救い出そうなんて考えるなということだ。身を引き裂かれるような想いだった。しかし、その苦しみの時期を通ったおかげで、僕は自分をいろんな角度から見直すことが出来た。その結果、僕はあの人を好きでいつづけることの方を選んだ。これは同時に、その人があの人を好きでいつづけることをも認めなければならないということを意味する。それでいい。その人も男だ。身分や職業や人徳などは関係ない。男はいくつになっても男だ。それは何がどうあっても、世の中に厳然として存在するものだから、これを認めないわけにはいかない。許そう。やがて二人は親密さを増し、あの人は僕からずっと遠いものになった。しかし今でも、ほんの細い一本の糸で、僕とあの人は繋がっている。時々僕は通信を送る。しばらくすると、短い返事が来る。それだけだ。その一本の糸だけをたよりに、僕はあの人の心のありようを理解し、手を差し伸べ、極めて限定された聴覚であの人を理解しようとしている。二人は地獄への坂道を転がり落ちている。ともに家庭があり、コミュニティがあり、しかもそれは濃密で狭い。その人の心のエネルギーが枯れ果てて、完全に落ちるところまで落ち切るか、全てが明るみに出て一大スキャンダルになるまで、決して手を差し伸べることは出来ないのだ。僕はその姿を見よう。勇気を持って、目をそらさずに見届ける。でも僕は最後まで君を見捨てないよ。なぜなら僕には揺るぎない愛があるからだ。この愛は、君が未だ一度も手を付けなかったから、出来立ての新品のまま、100%無垢で残っているよ。

posted by jakiswede at 23:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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