日本大使館のK氏の休みを利用して、Kinshasa Golf ClubでMaguyちゃんを交えてお食事・・・いわばコンゴの社交界である。正常不安な国なので、私のような下々の者が住む世界とは隔離された形で、外国人専用のエリア、専用の店が存在する。プールがあってビュッフェがあって、楽しんでいるのはほとんどがヨーロッパの外交官とその家族たち。全くの別世界に落ち着かなかったのは私の方で、Maguyちゃんは場慣れしてましたね・・・やっぱりこの人、タダモンやない・・・話の中で、6月30日のコンゴの独立記念日は、コンゴと独立を承認した世界各国との国交樹立50周年の節目でもある。日本も記念行事を企画していて、K氏によるとその内容が現在検討されていると言う。Maguyちゃんはそれに一役買いたい、大使館としても民間人とのつながりを深めたい、両者の思惑が一致してとてもよかった。会食後、K氏はカメルーン大使と約束があり、Maguyちゃんと私は、昨日の彼の待つMatongeへと向かう。La Creshの裏手のカフェで彼を待つことしばし、彼はにこやかに、昨日埋めたコピーを正式な書類にタイプ・アップして持って来た。私はそれにサインして、申請書は有効なものとなった。「明日9時にDHLで会おう」申請手数料はUSD160であった。運を天に任せよう。
彼らは今日はデートのようなので、私はひとりMateteへ向かった。私はもう一人、どうしてもここで会っておきたい人があった。それは、第一の旅と第二の旅の様々な局面で私を救ってくれた命の恩人、旧Hotel DiakandaのレセプショニストのNzuziさんである。Diakandaなき今、20年ぶりにこの街へ来たのだから、一目だけでも彼に会っておきたかった。彼が住んでいたMateteの住所は解っている。何度も通い慣れた道である。Victoireから「Matete, Wenze Matete」と叫んでいるタクシー・ビスに乗り込む。終点は市場 (wenze) 、それをまっすぐに抜けて伸びる道Kinzaziの31番である。懐かしい通りに、鉄の門扉の家は残っていた。しかし、そこにNzuziさん一家はいなかった。近所の人に話を聞いてみたが、そこは住民の入れ替わりの激しい地区で、誰も彼を知っている者はなかった。話を聞いて、一人の老女が「わざわざ日本から訪ねて来たの」と声をかけてくれた。「まあお入り」と言ってくれたので、子供たちの遊ぶ中庭に入った。ちょうど昼時で、焼き魚とコンゴ風のみそ汁を作っていた。何故かそこでお昼をよばれ、なんかしみじみと20年前の思い出話などをして帰って来た。今思い出しても、不思議な時だった。
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