2011年02月12日

20100223 ميدان التحرير

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 Kinshasa3/22 13:35定刻に離陸したSouth African Airways SA50便 (Airbus A319-117) は、4時間ほどのフライトで現地時間の18:35、Johannesburg O.R. Tambo International Airportに到着した。時差は+1時間である。機内食は、アフリカ風ラム・シチューと極甘プリンにコーヒーが出た。まあまあやった。乗り継ぎ便は約3時間後、21:45 である。JNBの空港内のショッピング・モールはすごい。たぶん世界一ではなかろうか・・・こんなこと書くから「知ったかぶりすんな」言われんねやろけどね・・・とにかくそれほどすごい。免税品やブランドもんにはなぁんも興味ないんで、ひたすらエスニック雑貨コーナーを物色。いやあやっぱりエエもんはエエ。彫刻も仮面も布地もテキスタイルもスバラシイ。しっかり目の保養。しかし楽器はこういうとこではあきまへんな・・・それにしても高い (;_;)・・・ビンボー旅行者の私は、完全に冷やかしであちこちの店のお土産なんかを手に取っては品定めし、ぶつぶつ首を傾げながら訳知り顔にもとに戻すのであった。ひさびさの先進国的ショッピング・モール時間のおかげで、遂にこの旅を生き延びてしまったことを実感した。それは、実にしみじみとした実感であった。今回の旅の生還率はおよそ50%と踏んでいたので、コンゴから先のことはほとんど考えていなかった。これからは観光旅行に徹するぞ !! という楽しみと、緊張感が抜けてしまった頼りなさと、帰国してからの生活のことなどが、一気に頭をよぎった。なにより日本へ帰るのが嫌だった。まだまだ帰りたくはない。ずっと旅を続けていたい。でも、いつかは帰らなければならない。そんな思いを抱きながらトランジットの時間を過ごし、ファスト・フードのコーナーで当店自慢のビーフ・シチューにカステル・ビールで夕食とした。Egyptairの待ち合いヘ行く。さすがアラブの国、白くて全身を覆うガラベーヤを着た彫りの深い顔立ちの男性、黒いブルカを目深に纏った女性、厳粛な面持ちはコンゴ人とは全く異なる・・・別にコンゴ人が厳粛じゃないという意味ぢゃないよ、念のため・・・

 Egyptair MS840便は定刻通りに離陸した。機体はAirbus A330-200。客室乗務員が全て男性なのはイスラムのためか。コンゴを脱出して気が緩んだのか腹も緩んで、何度かリラックスしに行ったらトイレの自動照明がフェイド・イン、フェイド・アウトすることに気がついた。Egyptairのこだわりか。私の座席付近の客室乗務員は、ものごっついいかつい体躯に童顔を乗っけた気のいいおっさんと、眼鏡をかけた博識そうな初老の人であった。夜遅い出発であったので、機内食は深夜になった。メニューは、魚のピカタ・サラダ・パンという軽い内容だったが、ついに出た !! やっぱり出た !! デザートにアラブご自慢の強烈に甘いココナッツ・ケーキと砂糖粒が溶け切ってないプリンの二連発・・・食後に「コヒ」「コヒ」と言ってコーヒーを・・・早よ持って来んかい口ん中ベタベタやんけ。夜行便であるので朝が早い。未だ暗い3時半頃明かりが点いて朝食が始まった。ちょっとうとうとしただけや。これも内容は軽く、クロワッサンにサラダと果物・・・ううむ、イスラムにとって屈辱の象徴であるクロワッサンを食事に出すとは・・・。食後の「コヒ」「コヒ」が済むと機体は高度を下げはじめ、未だ暗い5:40ほぼ定刻にCairo国際空港に到着した。パイロットの腕は今までで最高。離陸の時もすっと滑らかに飛び立って感動したが、着陸の時も全くふらつきがなく、衝撃もほとんどなかった。こんな丁寧な仕事をする人もいるのだ。

 機内預けの荷物が最も心配だったが、無事到着していた。あの喧噪と混乱と無能なコンゴねーちゃんの嘲笑をものともせず、落ち着いて手続きしてくれたSouth African Airwaysの職員に感謝。さて、入国審査待ちのときに、現地在住の日本人と知り合いになり、向かう方面が同じだったので一緒に路線バスに乗ることにした。Cairoの空港も、わりとタクシー勧誘が五月蝿かったが、そこは訳知り顔でパッシン・スルー。彼は途中で下車し、私はそのバスの終点「ميدان التحرير ( = Tahrir Square = Liberation Square = 自由広場 ) 」で降りた。

 

 http://www.backboneltd.com

 

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 Cairo滞在はたった3日間の予定である。しかも3日目は朝9:00の飛行機で発つので実質2日。泥沼のコンゴから脱出した体を十分休めたいと思って、Tahrir 広場に面した7階にある安宿のなかでも、おそらく最も良い部屋を取った。バルコニーつきの角部屋で、窓を全開にするとナイル河から有名な考古学博物館までが見渡せる。最初の写真は部屋のバルコニーから撮ったものだ。トイレ・シャワーは共同だが、なんとお湯が出る。これは天国だ。早速荷を解いて湯の出るシャワーを浴び、午前中は一眠りと決め込んだ。

 Vive la Révolution Blanche !! これを書いている間にエジプトで政変が起こった。たった2日間の滞在だったとはいえ、自分の旅したところで流血が起こるのは心が痛む。しかも毎日見おろして親しんだ風景がそのまま出て来るとなおのことだ。2011年1月25日に始まった民衆蜂起は2月11日ムバラク大統領の辞任を勝ち取った。故サダート前大統領が、1981年に第4次中東戦争の戦勝8周年記念パレードのクライマックスの最中に暗殺されてから、もう30年にもなるのだ。今よりも人の命が軽んじられていた、殺戮に明け暮れた時代だった。日本は平和だったが、今ほどのほほんとはしていなかった。自分が生きるために人を殺さなければならない彼らのことを、ぬるま湯の中から思いやっていた。そうするしかなかった。時代は変わって、私に何が出来るというわけではないが、今回の旅を計画しているときに「世界一周チケット」を組んでいる過程で、ここを訪れることが出来ると知ったので、来てみた。

 アフリカ大陸全体から独裁者が去ろうとしている。南スーダンには新しい国家が生まれようとしている。これまでのように、先進国が隠れ蓑を纏ったまま一方的にアフリカから資源を収奪できる時代は終わる。同時に、先進国の傘のもとで独裁を恣に出来た時代も終わった。力を背景にした安定の時代は過ぎた。私は旅をしていて痛感するのだが、最も高くつくものは「自由」である。カネもないくせに自由旅行なんて、カネがなければ貧乏旅行に堕するだけのことなのに、わざわざ苦労の多い茨の旅路を行こうとする。そして藻掻く。「自由」には高い代償がかかることは百も承知の上で藻掻くのである。

 「自由」を標榜して、アメリカがまた触手を伸ばして来るのか、中国か、ロシアか・・・イランのアフマディネジャド大統領は早々とエジプトに反米国家が出現すると述べた。「アメリカとイスラエルのない中東」が出現するとまで言った。それは恣威行為に過ぎないとは思うけれども、アラブの大国の政変は、否応無しにイスラム革命の連鎖を誘発させずには置かないだろう。それはコーカサスからトルコへ、そしてバルカン半島にまで波及するかもしれない。さまざまな勢力が介入することが予想されるが、エジプトの将来は、エジプト人たちの幸福のためにあってほしい。イスラムも、人の幸福のためにある筈なのだから。

 今回の革命は「白い革命」と呼ばれている。報道というものは異変や事件を追うものだが、異変や事件が連綿と続いていたわけではなかろう。反体制派と体制派が対峙している場面などが強調されているが、たしかにそういう緊張もあっただろうし、動員された勢力も介入していただろうけれども、もしそれで運動が転覆するようならば、とっくに結果が出ていたような気がする。むしろ、そういった「ニュースになる」場面というものは、深夜早朝などにゲリラ的に発生していたに過ぎず、デモがこれほど長期間続いたこと、その割には激しい衝突が起こらなかったこと、集会が行われている広場に入る市民に身体検査が行われていたことなどを見ると、確かに流血はあったのだけれども、何十万人と集まったこの広場が、いわば自由にモノが言えるサロンのような状態になっていたのではないかと想像される。そこから生まれた彼らの力と、脅しにひるまなかった勇気と、諦めなかった忍耐が、実際に革命を引き起こしてしまった。大半の市民にとっては、そこヘ行けば自分の国の将来について様々な人と意見を交換できる、思想的解放区のような雰囲気、文字通りの「自由」の広場になっていたのではないか。その積み重ねが、平和的にエジプトという豊かな国を幸せに導いてくれることを期待する。

 チュニジアで始まった独裁体制に対する民衆蜂起は、イスラム圏ではおそらく世界で初めての「民衆による」蜂起であって、これは同じ問題を抱えている近隣諸国の国民を鼓舞しないわけにはいかない。今回の旅の最後の訪問国となるトルコでも、おそらく状況は同じであろう。彼ら自身が、彼ら自身の手によって問題を解決していける状況が担保されることを切に望む。いかなる外部勢力もこれを利用すべきではなく、超大国も実力を行使するのであれば、今までの彼らの忍耐の上に自分たちの繁栄が築かれたことを深く顧慮して、イスラムだからではなく、中国だからでもなく、外部からの圧力団体であればそれを排除することにこそ、実力を行使するべきである。

 

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 腹が減ったので外へ出る。廃墟のような建物の裏手に手動で柵を開け閉めするエレベーター、というか昇降式の籠があって、それを操作して出たり入ったりするのである。大きな建物に2機しかないので、階下の待合室には運行を整理するおっさんがいてて、客と茶を飲んでいる。出入りするときには、必ず彼らと茶を飲むので、すぐに顔を覚えてくれる。建物の裏手はスラム化していて一見するとヤバそうであるが、おっさんに訊くと「大丈夫や」というので多くの人がたむろして飯を食っているスタンドに入ってサンドイッチを食べてから、行動開始 !!

 

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 Tahrir広場から歴史的建造物保全地区まで、電気屋街などを巡りつつぶらぶら歩く。途中、楽器屋街にさしかかったので最近仲良くしてもらっている古楽演奏家のためにルバーブを捜す。写真のようにウードを制作している工房兼店舗が軒を連ねている。一軒ずつ入ってみたが、押し売りするような気配はなく、多くの場合作業に熱中しているか、ミュージシャンと音の調子について真剣に話し合っているかで、一般の客に対しては素っ気ないか穏やかである。主にウードを扱っていて、ルバーブや打楽器などは少なかった。そのうち、ルバーブを専門に扱っていた小さな店の若者が、何種類ものルバーブを出して来て弾き比べ、熱心に説明してくれたにも関わらず、「他の店でも訊いて良いか」と言っても嫌な顔ひとつしなかったので、翌日そこでプロ仕様のものを買うことにした。初めて接したエジプトの人たちの印象は、職人気質で仕事熱心で温和で親切で解りやすいというものだった。もちろん違う人もいるだろう。しかし大半は勤勉な人たちに見える。コンゴから出て来てすぐからそう感じるのかもしれないが、少しおとなしすぎる、ぐっと物事に耐えるような印象を持ったことは事実だ。このような人たちがゼネストを起こしてまで民衆蜂起したというのは、よくよくのことであろう。

 

 http://www4.kcn.ne.jp/~ortiz/

 

 更に進んでスーク「خان الخليلي (Khan El-Khalili) 」ヘ行く。私は「スーク」なるものを見るのは初めてであったが、もっと市場のようなものを想像していたがここは観光地であった。価格も明らかに観光客用であり、なおかつ店員の態度が横柄だ。しかも押し売りが五月蝿い。たしかに品物は豊富なので冷やかすには面白いが、別にこれといってほしいものはない。ガラベーヤと白いキャップをお土産に買って来た。楽器も見たが、さきの楽器屋街で土産物として安く売られていたものが、プロ用の値段以上を言うので笑って取り合わずにいると、いつまでもいつまでもついて来て五月蝿かったので、街頭で警備に当たっているミリタリー・ポリスに目配せしたら追い払ってくれた。ついでに裏通りの寺町を教えてもらったが、バクシーシはとらなかった。バクシーシに関しては、一種の社会習慣のようなものなので、初めて訪れる国では注意深く様子を見る必要があるのだが、Cairoではこれを要求する人は、主に観光客が集まる空港とか観光地などに多いようである。普通の商店街でものを訊ねたり品定めしたりする分には全く必要を感じないし、コンゴでは必須であったポリスなどの官憲に対しても不要と感じた。エジプトではみだりにこれを使うということは、自分が彼らを見下している、哀れんでいるという態度を表明すること、逆にいえば彼らのプライドを傷つけていることになるのかもしれない。

 

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 ひとつ裏通りへ入れば静かな街である。大抵の寺院は開放されているので、礼拝の邪魔さえしなければ見学は無料、しかも安全である。じっと夕暮れを待っているとアザーンが聞こえ、人々が集まって来て礼拝を始めたので、邪魔にならないように後ろで見守った。

 

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 暗くなってから戻り、裏通りでラム肉のシチューを食べた後、ビールとポテト・チップスを買ってバルコニーで一服・・・イスラムの国なので、基本的に酒は御法度なのだが、食料品店ヘ行くとカーテンの向こうの冷蔵庫にビールが冷えているものである。このように、建前と本音を上手く使い分け、それが通用している社会がエジプトの社会というものかもしれない。来てすぐに知ったかぶりすんなよな・・・

 

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posted by jakiswede at 19:41| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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