http://web.mac.com/jakiswede/iWeb/3e_mobembo/Gallipoli.html
Gallipoliは英語名で、トルコ語ではGeliboluという。Istanbulよりトルコの領土のヨーロッパ側をエーゲ海まで伸びるGelibolu岬の先の方にEceabatという港町があり、それを渡ると対岸のÇanakkaleを経て、観光地として有名なTroiaに至る。そのEceabatから少し内陸に入ったところにKocadereという村があって、私はかねてよりここを訪れたいと思っていた。村から望むと西に穏やかな丘陵地が広がっていて、ここは、1299年に興り第一次世界大戦に敗れて1922年に滅亡するOttman's Empire (Osmanlı İmparatorluğu = 私の高校時代は「オスマン・トルコ」といった) にとってその滅亡の端緒となり、代って興ったトルコ共和国 (Türkiye Cumhuriyeti) の独立のきっかけを作った、歴史的に大変重要な場所だからである。
オスマン・トルコ、オスマン帝国、トルコ帝国・・・これはモンゴル帝国とともに、東洋史の中でも最も興味深い国家あるいは民族勢力のひとつである。もともと周 (B.C.1046 - B.C.256) の時代に中国の北方に勢力を持っていた「狄 (てき) 」という民族が起源であって、これがTürkiyeの音写の最初とされている。もともと遊牧民族であり、他の遊牧民族にも見られるように、狼から祖先が生まれた伝説や、若きを尊び老を卑しむ価値観、夫に先立たれた妻は夫の兄弟の妻になるなどの風習を持つ。「狄」はたびたび中国の北方辺境を脅かした為に、中国人によってこの字が「蛮族」を意味するところとなり、中国語に倣った日本語にも「夷狄」などといってその意味が転化したことは、トルコ民族の起源に対してきわめて失礼な事態と言わざるを得ない。
さてそのTürk民族が歴史上重要な役割を果たす最初は、古代トルコ帝国「突厥」であって、6世紀から8世紀に渡って中央ユーラシアを中心とした広大な地域の覇者となったのだが、この地は古くアレクサンドロス大王の東方遠征によって建設された大帝国、次いで紀元前4世紀頃から勃興し370年頃ヨーロッパを深く蹂躙して「民族大移動」を招く切っ掛けとなった (ともされる) 匈奴 (Hu-Na?) が本拠を置いて以来、突厥・セルチューク・ルムセルチューク・モンゴル・オスマン・・・と、この地に大帝国の勃興する歴史をパターン化した。また、イスラーム勢力の拡大とその受容などによる、ウイグル・キルギス・マムルーク・パシュミールなどの数多くのTürk系諸民族が分布して、やがてここは「トルキスタン」と呼ばれるようになった。また、往々にして彼らの勢力範囲はヨーロッパに及び、「小アジア」とも呼ばれるアナトリア半島はその最前線であったことから、歴史的に何度も何度も波状的に繰り返された西への民族大移動によって、現在のトルコ共和国の大部分を占めるアナトリアは、重層的に様々なTürk系諸民族が凝縮されることになる。
互いにそれぞれが独自の文化や言語や民族的アイデンティティーを持っていると思われるので、全てを合わせればおそらくは世界有数の人口を誇るであろうTürk系諸民族といえども、一括りに考えることは無意味と思われる。しかしアジアの東の端に勃興した彼らが、現在西の端に国民国家を持っていることは誠に興味深い。この場所が歴史上東西文化の重要な交差点となり、有史以来様々な勢力による争奪の舞台となって、ギリシア・ローマ・アルメニアの時代を基礎にして、モンゴル・セルチューク・オスマン・・・と、重層的に重なり行くオリエント・ヘレニズム・ビザンティン・イスラームの様々な文化が凝縮したのは、まさに彼らの活動の結果であって、また翻って彼ら自身の多様性を培うことにもなったように思われる。俗に「世界三大料理」のひとつはトルコ料理とされていて、それはアジアもヨーロッパも飲み込んだ複雑な歴史の産物であって、これこそが彼らの文化的多様性を良く表しているであろう。音楽に於いてもしかり、楽器に於いても然りである。私はそういう混沌とした多様性故に彼らに深く魅かれるのであって、傍らの美女と深く情を通じることは、私にとっては誠に自然な姿であった。もっと早くに気づくべきであった・・・(`へ'っ
さて、その彼らの歴史は常に近隣勢力に翻弄され、あるいは翻弄し、移動し、同化し、数多くの大帝国を建設したものの、晩年には「瀕死の病人」と蔑まれつつアナトリアに踏みとどまってTürkの名を守り抜いた歴史である。純然たるイスラーム国家というよりも、ヨーロッパに近いその地理的条件か、または民族の存続を最優先した英断なのか、「タンジマート」などの改革をもって西欧化を試みるなど、生き残りの為にはイスラームをも手段とするその打たれ強くなりふり構わぬ満身創痍の三千年の歴史に私はいい知れぬ親近感と尊敬の念を覚える。
現在のトルコ共和国の基礎を築いたのは、Istanbul国際空港の名前にもなっているMustafa Kemal Atatürk (1881 - 1938) であり、私は高校生の頃から個人的にこの人物に非常に親近感を覚えていた。私が今回の旅行の訪問先のひとつにここGallipoliを選んだのも、Istanbulから近いという条件もあったし、せめてエーゲ海を見てから死にたいという望みもあったし、それがトルコ人美女と一緒ならなおさら悔いはないという色気ゆえであったとはいうものの、Mustafa Kemalがその名声を勝ち得てその後革命を起こし、現在のトルコ共和国の初代大統領にまで登り詰める端緒となった「Gallipoliの戦い (1915) 」の場をこの目で見る為であった・・・ほんまほんま。
それは、エーゲ海を望む緩やかな斜面だった。ここがかつての激戦地とは思われぬ程、のどかで美しい風景である。「瀕死の病人」とまでいわれた当時のオスマン帝国は、20世紀に入っても古代からの大帝国の名残を残した広大な版図を持つ多民族国家という性質が災いして、多正面外交に敗れた結果、第一次世界大戦の頃までにはバルカン半島と北アフリカを失い、アナトリアに踏みとどまって、辛うじてペルシァ湾へのアクセス (メソポタミアすなわちイラク) とアラビア半島の紅海沿岸 (パレスティナからイェメン) を死守するのみとなっていた。バルカン半島からはじりじりとヨーロッパ側の領土を圧迫され、北からはロシアが圧力を強めていた。そこで帝国はこれを打開する為にドイツと手を組んで第一次世界大戦に「中央同盟国」側に立って参戦したが、結果的に強国のイギリス・フランス・ロシアを敵に回して惨敗することになる。
しかしイギリスがIstanbul陥落を狙って企図した「Gallipoli上陸作戦 (イギリス名Dardanelles作戦 )」では、それを迎え撃ったMustafa Kemalの指揮するトルコ帝国軍がこれを阻んでIstanbulを防衛した事で、敗戦国にはなったものの結果的にトルコは植民地化や分割統治を免れた。しかし帝国が死に瀕していた事は変わりなく、それを憂いた「青年トルコ党」の抵抗運動によりAnkalaを首都とする臨時政府が宣言され、帝国側であったMustafa Kemalがクーデターにより初代大統領に就任する。大戦の英雄は、ギリシャを駆逐し、連合国側の干渉を退け、古来からのスルタン・カリフ制を廃止して共和制に移行し、政教分離・憲法の制定・太陽暦の採用・法制度の近代化・婦人参政権・アラビア文字の廃止・ローマ字を採用などの改革を断行して、オスマン一族を追放してトルコの独立を守った。Mustafa Kemal大統領は「Atatürk (トルコの父 )」と呼ばれるようになる。
この「Gallipoli上陸作戦」には、イギリス王への忠誠という訳の分からん理由のために、オーストラリア・ニュージーランドから多数の兵士が送り込まれていた。ちなみに、その輸送に日本海軍が関与している。この兵士たちは「ANZAC (Australian and New Zealand Army Corps) 」と呼ばれ、激戦の末大多数が病死または戦死した。彼らの上陸地点近くにあるKabatepe Museumには、両軍が発射した銃弾どうしが空中で互いに互いを貫いた状態のものが多数展示されている。オーストラリアとニュージーランドは戦勝国の植民地であったが、この戦いでの多大な犠牲を被ったことと、その後敗戦国であるオスマン帝国に革命が起こってトルコ共和国という独立国家が誕生したことに触発されて、忠誠などという訳の分からん理由のために殺されることのないよう、イギリスからの完全独立の気運が高まった。戦争敵国ではあったが、革命後のトルコ共和国とは友好的な関係となり、戦いのあった毎年4月25日「ANZAC DAY」は両国では祝日、トルコでも記念行事が行われている。歴史の不思議である。戦場となった斜面に散在するいくつもの墓地や広場に花が飾られ、式典の準備が進められているのを目にした。しかし歴史は美談ばかりを語らない。その前日4月24日は、アナトリアの東方辺境に居住するアルメニア人にとっては歴史上最悪の日だった。「アルメニア大虐殺」として伝えられる事件は、200万人が犠牲になったともいわれ、その蛮行にオスマン帝国下の青年トルコ党が関わったとされているが、現在のトルコ共和国政府はこれを歴史的事実としては認めていない。
私は、朝食を済ませると昨夜からの小雨が露となって残る草原を歩きはじめた。まったくのどかである。道はトラックの轍を残して遠く続いている。道端の畑では、タマネギやソラマメが育っている。ときおり農夫を見かける。胸に右手を当てて挨拶すると、にこやかに厳かに、同じ仕草で挨拶を返してくれる。しかし、穏やかに見える表情を浮かべる顔の彫りは深い。羊飼いにも出会う。草原はやがて山腹に取り付き、轍から外れて尾根を目指してショート・カットする。尾根とはいえなだらかな丘陵で、遥か彼方に憧れのエーゲ海が光っている。この戦場は国立公園に指定されていて、観光バスが時折通う自動車道が整備されている。その所々に展望台や歴史的モニュメントや公園が散在している。そんな公園のひとつで軽い昼食をとり、地図を手に入れたので、それを見ながら戦いの経過に想いを馳せつつ、草原をエーゲ海に向かっ降りていった。Kabatepeの博物館を見学したあと、ANZACの兵士たちが上陸したという港ヘ行ってみた。そこは公園に整備され、戦争を想起させるものはなにもなかった。記念式典もここでは行われないのか、準備がされているような雰囲気もなかった。静かな浜辺でしばらく寛いだあと、地図を頼りにKocadereへ戻った。
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