2011年04月21日

20100410 Panorama 1453

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 先日Gallipoliから戻ったときに見かけた楽器屋街ヘ行ってみた。場所はGalata橋の隣のUnkapani橋を西南へ渡って、Attatürk大通り水道橋の手前に広がる問屋街「I.M.Ç」である。6つばかりのセクションに別れたビルに楽器屋が散在している。大量販売で値段は安く、ものを見る目のある人ならお買い得商品がずらり並んでるといった印象だ。しかしシンバルにかけては、ほとんど得るものがなく、店員も知識なく、置いてあるものも通り一遍で扱いも雑であった。

 

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 さて私はシンバルを捜しに来たのであるが、Istanbulの街をあちこち歩いてみて思い知った事がある。私のこの街に対する印象というのは、実は藤原新也氏の写真集『全東洋街道』に収録されていたものによって形作られていたと言って良い。この作品は1980年頃に出版されたものだから、今から30年も前の事になる。私はIstanbulでシンバルを捜すという事を、なにか下街にたくさんのシンバル工房が並んでいて、そこには名も知れぬ様々なシンバルが作られ売られていて、あるいは客の注文に応じて特注シンバルを作ってくれたり、バザールのような雑然とした金物街や楽器屋街があって、そこには膨大なシンバルが黄金色に光り輝いているのではないかと、30年も前の写真から勝手に想像して、胸を弾ませていたのである。そんなエキゾチックな街を、エキゾチックな未だ見ぬ美女と・・・なんて想像しながら胸を弾ませ、股間を熱くして熱帯の旅路に耐えたのであったが、実際は日本の楽器屋と何ら変わるところのない、そういう点では、ブラジルでもカイロでも変わるところはなかったのだが、管理された企画商品が高い値段で売られていて、想像していたような風景にはお目にかからなかったのである。これは失望であったが、しかし今回の旅を通じて、私がいかに世界というものを、それに対して初めて憧れを持って夢想した時代、すなわち1980年代のままのイメージでとらえていたかを悟った。今は、まごう事なく、この地球上の全ての土地が、2010年なのであった。あたりまえのことだが・・・

 

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 さて気を取り直して、もうシンバルの探索は諦め、水道橋の裏手から問屋街の雑踏へ分け入り、数々の有名なモスクの壁を伝いつつ自分の心の迷いや思い込みを断ち切るように、ただひたすらに街を眺めつつ歩きまくった。そして腹が減ったら、町中のじいさんたちが出入りしている安メシ屋へ潜り込んで、ひたすら食いまくった。

 

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 雑貨屋で土産物になりそうなものを買いあさり、古本屋の脇で開いていた蚤の市で猫の昼寝を邪魔し、とある狭い路地で見かけた風景に、束の間の80年代を感じたような気がしたが、それも携帯電話の電子音でかき消されてしまった。しかしそんなことにひるんでいる時間はない。あと一日半で私の旅は終わるのである。自由奔放な管理されない時間は、これで最後なのである。これからの私の人生では、このような旅を敢行するほどの経済的な余裕など、生まれる筈もないのである。私の人生で最後の旅らしい旅なのである。今日は行きたいところがある。

 

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 Eminönüのバス・ターミナルからTheodosius 2世 (在位408-450) 時代の城跡が残るTopkapi方面へ向かう。Theodosius 2世の祖父さんは、分裂していた西ローマ帝国と東ローマ帝国を統一した最後の皇帝であり、キリスト教を国教とした最初の皇帝であった。その孫のTheodosius 2世は、首都の防衛の為に強固な城跡を建造するなど東ローマ帝国の基礎を築いた皇帝である。さてどんな国でも、バス・ターミナルというところは、どことなく管理されない土地の自由と無秩序が感じられるものだ。パン売りがやって来る。チャイ売りのじいさんがしわがれた声を張り上げている。多文化融合の国らしく、アメリカナイズされたトルコ人もいれば、真っ黒なブルカを纏った女性もいる。ひげ面の私は、微笑みを持って彼らの仲間に入れられた。

 

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 1453年、Mehmet 2世率いるオスマン帝国軍は、当時のConstantinopleを包囲し、これを陥落させた。これによって古代から連綿と存続して来た「ローマ帝国」の名は歴史から消えた。最後の「ローマ帝国」であった東ローマ帝国 (ビザンティン帝国) の首都はIstanbulと改められ、西のローマン・カトリック教会と分立した「(東方)正教会」の象徴であった聖ソフィア大聖堂の周囲にはイスラムの象徴たる4本もの尖塔が建てられ、名前もAyasfya寺院と改められた。主に東方に勢力を保っていた「正教会」の中心はロシアに移り、その流れは日本にも及んで、函館に美しいハリストス正教会を遺した。ロシアでは永らくモンゴルやトルコに悩まされて来たが、この頃ようやく「タタールのくびき」から解放された。ここには、こうした東ヨーロッパ辺境部の複雑な歴史が刻み込まれている。「1453」は、そんな中でも最も衝撃的な出来事だった筈だ。大学生の頃、ビザンティン帝国の歴史の専門家が、正教会の側からトルコの歴史をひもとくユニークな講義を開いておられた。単位も加算されないのに、私は4年間も彼の講義を連続して受けた。だからメトロの車内でポスターを見たとき、そのままバス乗り場へ急いだのである。城跡の周囲は公園化され、一部は産業道路やメトロの側道になっている。

 

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 http://www.panoramikmuze.com

 http://www.yerebatan.com/

 

 会場は巨大なプラネタリウムのようなものだった。中央の暗い螺旋階段を上がると、様々な展示物をへて、最後には巨大なドームの下に出る。それは戦場のまっただ中であった。迫り来るMehmet 2世率いるトルコ軍が、かのTheodosius 2世が一千年前に建造した強固な城跡を乗り越えて攻め込んで来る。迎え撃つConstantinus 11世率いるローマ軍との戦いが、きわめて精密で立体的な絵によって、ドーム一杯に描かれていた。「なんだ、絵か」と言ってしまえばそれまでだ。大半の客はそんな反応だった。しかし私にとっては、4年間も講義を受け、アナトリアからコーカサスを経てウクライナへ、そして東へ広くトルキスタンへ至るこの地域の歴史について学んだ内容が、明確なイメージを持って繰り広げられていた。展示会のタイトルは「Panorama 1453」・・・たかが絵である。しかしこの絵は、私が4年間かけて学んで来た事を、一発で射止めるほどの説得力を持っていた。トルキスタンこそは、死ぬまでに一度は訪れて、この目で見てみたい憧憬の地である。

 

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 さて、その夜は正統なMevlevi教団の旋回舞踏を見に行き、その脚でPaco de Luciaのコンサートに滑り込んだ。さらに宿泊しているAs Hotelのコネクションで、近所のバールで行われた彼のプライベートなアフター・パーティーにも呼ばれ、フラメンコに合わせて下手なカホンを叩いて喜ばれた。しかし一日中走り回った結果、カメラのバッテリーは切れ、私の精神力や記憶力も切れてしまって、実のところ何をどうしたんだか、よく覚えていない。気がつけば翌日の昼前だった。

posted by jakiswede at 00:47| Comment(0) | ザイール・ヤ・バココ第三の旅2010 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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