TashkentとBukharaの間は、夜行列車と昼行列車の便が毎日2本ある。Bukharaへ向かう路線は、途中のNavoyでUrgench方面へ向かう路線と分岐して南へ伸びるので、ほかにもこの区間を利用出来る列車がある。詳しくはこのサイトがわかりやすい。
http://www.advantour.com/uzbekistan/uzbekistan_railways.htm
さて列車の外観は上下の写真の通りであって、実に質実剛健、鉄道ファンの涎をくすぐるに充分なお釣があります !! 内装には重厚な木材が使われており、床には絨毯が敷き詰められていて非常に静か。我々の乗ったのは「Kupe」という中級クラスの2段ベッドが向かい合わせになって1室に区切られているもので、きちんとドアも閉まるし、必要なら施錠出来る。各車両に乗務員が就いていて常に車内を見回り、いろいろチャイを出してくれたり談笑したりしているのは穏やかであった。
2012/03/07 20:45をやや遅れて発車した662列車は、途中いくつかの駅に停車しながら南を目指した。外が暗いので、風景は列車の光に照らし出される限りでしか見えないが、白壁の平が続いて時折民家、牧畜で生計を立てている農家と見えた。途中のSamarkandに到着したのは深夜の2時過ぎで、そこで長い停車時間を取った。「ナン、ナン、サマルカンド、ナン」と言いながらできたてのナンを売りにくる少年が何人か乗り込んで来た。土井ちゃんもたまらず買う。乗務員も彼らからナンを買っていたので、おそらく無銭乗車を黙認されているのだろう。そんなこんなで楽しく時間は過ぎて、やがて定刻の7時過ぎに列車はBukharaに到着した。
ウズベキスタンの国章も誇らしげにみえる。「ブハラ」はБохара・Бухоро・・Bukhara・Bokhara・Buxoroなど様々に表記される。人々の発音も、「ブクホロ」・「ボハラア」などいろいろだ。おそらく標準語と方言、あるいはウズベク語とタジク語などで異なることや、もともとの言語を古くはアラビア文字で音写したものを、19世紀後半からロシア帝国の影響下に入ったためにキリル文字で表記されるようになり、最近になってローマン・アルファベットで表記しなおすという変遷をたどる中で、もともとの微妙な発音が文字に書かれたために統一性がなくなったためだろう。ウズベキスタンは他民族国家であるが、Bukharaにはイラン系のタジク人が多い事も影響しているのかもしれない。
ともあれ今日はBukharaに立ち寄る事が目的ではなく、今日中にBoysunに辿り着くための苦肉のトランジットであるので、ともかく先を急がなければならない。Bukahaの駅は「ブハラ」とはいいながら東へ15kmほどのKagan (Kogon・Каган・Когонなど) という街にあって、Bukhara中心部へは車を必要とする。写真は、これだけ離れていれば良かろう、Bukharaの駅である。ここも、ご覧のように広い芝生に囲まれていて、遠巻きに柵がある。柵の一カ所の検問所から一人ずつ出入りする。Boysunへ向かうには、まずはKarshiという街へ行き、そこからアクセスする。Karshiへ行くにはSharqというバス・ターミナルでなんとかするのである。例によってしつこいタクシー勧誘を振り切ったあと、前方にミニ・バスが何台か止まっていたので、「Sharq !! 」と叫んでみると「乗れ乗れ」と何台かが合図したので、そのうち一番混んでいるものを選んで乗車した。こういうときは現地の人の発音を出来るだけ注意深く聞いておいて、なるべくそれに近い発音を、腹の底から大きく怒鳴るのがコツ、旅の恥はかき捨てである。ミニ・バスはすぐに発車した。
そのミニ・バスがどこ行きだったかは知らない。「ここだ」といって降ろされたのがここである。またしても、バス・ターミナルの私のイメージとはかけ離れているが、今更仕方がないので、今度は「Karshi (カルシィィィッ) 」と叫んでみると、やはり何台ものタクシーの運転手が手を挙げた。「2人」という意味でVサインを送ると、ひとりを残して手を下げた。見ると、その車には既に2人乗っている。これをシェア・タクシーといって、公共交通機関の未発達な場所での、庶民の通常の移動手段である。相場は国や場所や状況によって異なるだろうが、現地人が乗り合わせているのなら、現地人に訊くか、支払う額をよく見ておいて同額を払えば良い。車はすぐに発車した。幸先の良いトランジットであった。
車はひた走る。しばらくは荒涼とした砂漠のハイウェイを突っ走り、時折、大規模な油田かガス田と、それに接続する鉄道や貨物列車の超大編成などが見られた。やがて道は細くなり、前方に雪を頂いた山脈が見えた。その手前のなだらかな丘をいくつか回り込んで、3時間ほどで車はKarshiに到着した。料金は2人でUSD20であったが、これは安かった。
ここがKarshiからTermez方面へ行く車のターミナルである。シェア・タクシーを利用する利点は、たとえばKarshiから更に乗り換えてBoysunへ向かうと運転手に伝えておけば、そっち方面行きのターミナルまで送り届けてくれる点にある。路線バスだと、そのバスが到着するターミナルと、自分が望む方面へ出発するターミナルが異なる場合、その間の移動手段を考えなければならない。ここはTermezおよび南方面行きのターミナルであって、BoysunへはTermezへの幹線を、途中で離れて赴くことになる。「Boysun !! 」と叫んだらひとりの運転手が合図して来た。見ると一人先客がある。あと一人待ちである。このように、シェア・タクシーは4人集まらないと発車しない。あるいは4人分の運賃を支払わないと発車してくれない。
ターミナルで「プロフ」という一種の炒飯を売る店ではしゃぐ土井ちゃん。
ラードの固まりが入っているので非常に脂っこい。
とにかく食卓にはナンが出る。炒飯をオカズにパンを食べているようなものである。とりたてて美味いというものではない。付け合わせは大根と株のピクルスだが、はっきりいって日本の漬物と同じ味がする。
ここであとひとりの乗客を待っている間ターミナル内を冷やかし歩いていると、偶然ナンの工房を見つけた。土井ちゃんのテンションが上がったのは言うまでもない。
粉の配合はわからなかったものの、生地は先ず団子に捏ねて一時醗酵させたあと、薄く伸ばして重ねて伸ばして重ねることを繰り返し、最後に真ん中をくぼませてオーブンで焼いていた。オーブンは炭火の古風なもので、おそらく壁の向こうが窯になっていて、手前に数段ある。出来上がったナンは、このようにクロワッサンやデニッシュを思わせる平たいものであった。食事のときに出て来たものはバゲット風の生地であったので、ここでは何種類かのナンを焼いているらしい。
やがて奥の方から賑やかな音楽が聞こえて来たのでいってみると、なんと結婚式であった。外国人が見物に来ているというので大いに盛り上がり、主役そっちのけで楽士たちが即興で演奏してくれた。集会所のようなところから新郎新婦と親族とおぼしき一団が現れ、これからどんちゃん騒ぎの様相であった。「お前らも一緒に来い」と身振りで誘われたが、流石に今は急ぎの身であるので丁重にお断りすると、楽士たちが出発ギリギリまで演奏してくれた。やがて一団は車に分乗して出発して行った。その車列は結婚式の華やぎを秘めてなかなかに豪勢なものだった。
さてそうこうするうちに4人目のBoysun行きの客が現れたので車は出発した。車は雪を頂いた山を越え、谷をくぐり、それまでの砂漠の平野とは全く異なる光景の中を進んだ。山といっても木がほとんどない、日本の採石場のような風景が延々と続き、時折深い積雪がそれを覆っている。わずかな草を求めて羊の群れや羊飼いが呆然と立ち尽くしているのを見かける。村も稀にある。本当はTermezへ行きたかったのだ。そこからシル・ダリア越しにアフガニスタン領を望み、はるかなるアフガンを垣間みたかった。しかし大切な旅程を現地で組めるとタカを括った私はその旅程を手配せずに出発した。後悔先に立たず。この荒涼たる山岳風景を垣間みただけでも、その地への憧憬が胸を苛む。途中、そのTermezへ行く街道と別れて、車は細い道へ入って行った。ああTermez・・・
車はでこぼこ道を蛇行しながらいくつもの山を越え、最後に大きく峠を巻いて越えたときに運転手が知らせた。「Boysunだ」みると谷底にへばりつくように小さな街が広がっている。道は戸惑うように迂回するかのようにカーブを描きつつBoysunの街に近づいて行った。写真は運転手と2人の乗客。ここまで来ると流石に最果ての地を思わせる。
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