2013年01月20日

20121209 せやからいうてるやんか

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、憤りは激しい。サツマイモというものは、ここらでは11月に入ってから収穫するのだが、収穫して良く乾かして、保存しはじめるとすぐに厳しい冷え込みがやって来る。サツマイモは、10℃くらいが保存に適した温度の下限で、5℃以下になると腐りはじめる。私は、納屋の大きな貯米庫の裏が適当な条件だったので、ずっとそこで保管してきたのだが、先日、そこを明け渡すように言われた。大きな納屋なので、なにもそこだけを明け渡せもないとは思うのだが、衝突を避けるために、仕方なく台所へ持ち込んだ。しかしそれから連日氷点下の冷え込みが続き、室内でも-3℃の朝が数日続いた。はっと思って芋を調べてみたらこれである。既に凍結して全体がふにゃふにゃになったものもあり、半分ほどを捨てた。白サツマイモは割れたものが多いので、状態はより深刻であった。まあ、いろいろな形でプレッシャーをかけてきますな。


 さて「農地法第3条第2項」により、土地利用の下限面積が満たされていないことと、農地利用集積円滑化団体が農地を集約的に利用することの妨げになること、権原が地主・某NPO法人を経てのまた貸しにあたり中間搾取を禁じた法の理念に反することなどによって、私は単独では合法的にはここの田畑を使う事が出来なくなったわけだが、話し合いの結果、その団体の職員という身分となり、その団体の活動とは別に15aの田畑を自由にするという事で取りあえず合意されたのである。それまでには「市民」の「苦情」とやらによる農業委員会の行政指導、私の住居部分への勝手な踏み込みや居座り、更に見知らぬ者の畑への侵入など、さまざまな嫌がらせが相次いだのであった。そういう事をすれば私が音を上げるだろうと思ったのかも知れないが、なかなか私はそれほどヤワではない。


 すると今度は、彼らは自分たちが「JAS有機」の認定業者だから、農産物の生産と出荷を一緒にやらんかと持ちかけてきた。しかし彼らがこれから使う農地は、昨シーズン限りで前の農家から家主に返還されたもので、ごく最近まで農薬や化学肥料がふんだんに使われていた土壌である。そこから採れた作物は検査にかければ当然失格するのだが、これらに「JAS有機」の認定業者のシールを貼る事は、現行の「農林物資の規格化及び品質表示の 適正化に関する法律」では制度的に検証する仕組みがない。農家の中にはこれを積極的に活用して、慣行農法で生産した作物のうち、規格外のものを「有機で出す」事が横行している。これに加担しないかというのである。「個人で販売ルートもなしでどないすんねや」要するにヤやこしい人たちである。彼らと否応なしに共存を強いられる。しかも日常的に彼らはやってくる。彼らの目的は、屋敷ごと自分たちの拠点にする事だ。彼らは先見の明がある。なぜなら、これからは近郊農業が発展するからだ。大規模に経営しようと思えば、まとまった農地と広い空き農家が必要になる。それを取得するには、各種法令による複雑な規制があって、事実上個人で手作りで好きな事をして百姓になりたいという者は手が出せない。のみならず、それらをクリアしてきた法人が土地所有者と契約した場合、それを妨げる事になる要件、つまり私のような者は合法的に排除できる。


 しかしまだ、彼らはその権利を行使するつもりはないようだ。私も、それを先取りして移住先を探すという事には消極的である。なぜなら、さきに「赤目自然農塾」へ行ったのだが、そこで川口氏と話しをしていて自分の心が既に挫けている事に気がついたからだ。土は、私がここに来るはるか以前からここに存在し、私が死んだ後も未来永劫ここに存在し続ける。人は移り行くものである。人に動かされるのか、土を信じるのか、と問われて気がついた。いかに法的根拠があっても、私の生存権までは脅かされない。また、新天地を求めに出たところで、ここ以上の好条件が得られる可能性は極めて低い。更に、家主にはまだ他にも農地があって、彼らがそれを全て管理できるかどうかは全く未知数、言い換えれば私が存続する余地があるからである。ここには、永年かけて集めてきた手作業で収穫物を加工できる道具が残っている。どれも私が手入れしてきたものばかりだ。これらを捨てて出るとなると、また7年ほど全てをやり直さなければならなくなる。以上の事を総合的に判断すると、消極的かつ緊張状態を孕んだ共存の可能性を模索する事が得策と判断したわけである。


 何度かこのブログでも書いた事だが、「田舎暮らし」といって都会人が田舎に住んで農業をしようとする。総論とすればそれは正しいし夢のある事だし、いろいろな束縛から解放されるかも知れないし、地球に優しいのかも知れないと、まあ普通は期待するわけであるが、いざ各論となると非常に困難だ。「ぜひいらっしゃい」などと言われて農村に移り住もうとしても、たいてい具体的な話になった時点で頓挫する。市町村を上げて新規就農者誘致作戦を展開しているところなどは特に要注意で、よくよく話を聞いてみると、田舎で暮らせるからといって自分の好きなようにやって良いという事にはなっていない。どの農村も、たいていその地域の産物というものがあって、新規就農ということは、欠けた生産者に代わってその産物を生産する担い手になるという事を意味している。全ては農協が取り仕切っていて、就農計画・生産計画・栽培方法・買取価格・機械や農薬などのローン・・・と、全てパックされた「商品」を買わされる事になる。あとはひたすら歯車。これが夢だといえますか。貸農園を借りるとしても、公共団体や法人がやってるバカ高いものなら、それを収益の柱と位置づけているから「お客様」に滅多な事はしないだろうが、個人の農家が親切に貸してくれるという話は気をつけた方が良い。私自身何度も経験している事だが、たいていそうやって貸してくれるところは条件の悪いところである。しかし貸してもらった方は、それでもないよりはましなのでそこで一生懸命にがんばる。土というものは健気なもので、手をかければかけるほど良い結果を出してくれるから、数年で稔りの良い畑になるのである。すると、それを見ていた地主が突然「返せ」と言う。あーもすーもないうちに重機が入って更地になり、やがて田んぼになるだろう。そんな例は、この近所でも枚挙に暇がない。


 それに比べれば、ここは安穏なものであった。空き農家の古屋敷とはいえ、補修する必要のない状態であったし、家主は別に家を構えているから、ここに住む事は出来ない。かつて家主の祖父母が住んでいたというが、お亡くなりになってから何年も放置されたままであった。家屋敷というものは、人が住まなければ荒れる。荒れる前にという事で、当時貸農園に通って来ていた私に話があったのである。農業をやってみたいという私と、屋敷が荒れる前に手を打っておきたい家主の思惑が一致して、私はここに住む事になった。


 当初の数年は楽しく過ぎた。家主は、別に子供たち相手のNPO法人もやっているから、野外活動なども多く、それを手伝ったり、収穫期には知り合いのミュージシャンを招いて小さなコンサートをやったりもした。しかし、ある事が原因で蜜月状態は破綻する。家主が、倫理的にいかがなものかという状態になったのを私が諌めた。決定的な状態に陥る前だったので、家庭の崩壊は免れた。しかし私は飼い主の手を噛んだ事には間違いなく、それ以後はほぼ完全にコミュニケーションの途絶えた状態になった。以来数年、私は自分なりの農法を確立し、ひとりで全てを段取りできるようになった。しかしそれは、家主のやり方とはずいぶん違ったものだった。家主が肥料を堆く積み上げて、「野菜を作るにはこれだけのものが必要です」と説明している真横で、肥料など一切使わない自然農法を実践しはじめた。田んぼの「初期一発除草剤は農薬ではない」などという詭弁を弄する真横で、私は死にそうな顔をして田んぼに屈みこんでいた。そして収穫は、家主と遜色ないか、むしろ良いくらいだったのである。つまり、家主は私が彼の仕事を手伝ってくれると期待した。しかし私は自分の好きなようにやりはじめ、まかり間違えばその手を噛むのである。アレアレ。家主にとって私は鬱陶しい存在になった。出来ればなきものにしたいが、そうなったらなったで農地の管理や、屋敷の保安に不安が残る。痛し痒し。目の上のたんこぶだが致し方がない、という状態が続いてきたといえる。


 母屋は、ときおりNPO活動で子供たちが使う以外は、ほとんど使われない状態だった。以前は、雨さえ降っていなければ、必ず窓やガラス戸を全開にして空気を通していたものだが、アレ以来、特に用のない限りは立ち入らないようにした。その母屋の活用については何度か話があった。とあるアーティスト団体がアトリエとして使いたいとか、老人ホームにしたいとか、いろいろ話があっては立ち消えた。東日本大震災の後、放射能の営業を恐れた人が、人づてに訪ねてきてしばらく滞在した事もあるが、家主の難色で退去する羽目になった。そのくせ、東北へ送るための物資を集めたり、実際自分でキャラバンを仕立てて訪問はするのだった。その翌年の暮れ、家主に重い病気が発覚した。それがために野外活動などの一切にドクター・ストップがかかった。くわえて、隣の農家へ小作に出していた農地が、高齢化で返却される事になり、まずは3反程度の農地をどうするかという、現実的な悩みがそれに加わった。そこへ、某NPO法人が登場した。隣接する町で、既に農業法人として実績を上げている。事業の拡大を目指して、農地と空き農家を探している過程で、家主と出会った。家主にとっては願ってもない話だった。返却されてくる農地、屋敷の管理、狂犬の始末、病身の自分には出来ない事を全て片づけてくれる上に、金まで払ってくれるのだ。こんな話に飛びつかない人はない。


 その団体が、先ず手始めに、この屋敷の旧管理人として居座り続けている私に揺さぶりをかけた。冒頭に書いたような顛末である。私は当初、行く末を儚んで移住を考えた。それに応じて、友人達から多数の候補地が寄せられた。本当にありがたい限りである。しかしながら、この場所の立地の良さ、土地に対する愛着、実家に近い事など上のような理由で、実力行使でも行われない限り、移住計画は情報収集の範囲にとどめておく事にした。田舎暮らしを検討している人たちに告ぐ。農地法を良く検討されたし。かなりの農作業労働力を供給できるのでなければ、農家と農地を問題なく確保して好きなようにやる事は、必ずしも保障されてはいない。

posted by jakiswede at 22:27| Comment(0) | farminhos | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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