2013年01月20日

20130110 せやからいうてるやんか

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 天は吾に試練を与えたもうた。落胆は大きく、悲しみは深い。「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画は、ご家族の同意が得られないまま無駄に年月が流れ、私の住まいしておりますお屋敷の管理主体も変わる事となり、そのためにお借りしていた部屋もお返ししなければならなくなりました。残されていた荷物を運び出してご実家へお送りする事になりましたが、現在ご実家には、既にあるピリピリの遺品に混じって、計画に賛同してお寄せ頂いた資料や、共同購入してまだまだ使える機材などが残されており、計画が頓挫してしまった今、これらの返却をご家族に求めていく事になります。そこまでが、私がピリピリに出来る供養の限界です。彼の遺志とは逆の展開に至ってしまった事は、全く不徳の致す処と痛感しております。まことに残念な事です。全く無意味な事です。何故このような事になってしまったのか、そのいきさつについて忘れないうちに書き留めておくとしましょう。


 ピリピリ (1951-2008) が亡くなったとき、彼の住んでいたアパートの部屋には膨大な遺品が残されていた。それはあまりにも膨大で足の踏み場もないほどであり、全く整理整頓されていない状態だったが、その中身はわれわれ彼とともに行動してきたものにとっては分身のようなものだった。レコードやCD、書籍や雑誌のコレクションは言うに及ばず、カセットや写真、書き溜められたノートや散財する資料など、これらの全てはピリピリを、つまりは関西のアフリカ・ポピュラー音楽探究の歴史の証人であるばかりか、彼の音楽活動の中でつながってきた人脈、すなわち関西のサブ・カルチャーの歴史の記録である。より専門的には、バントゥー系アフリカ中部の音楽の、これほどまとまったコレクションは国内において例がなく、少なくともこれらを分かりやすいように整理して展示し、これに興味を持つ人がいつでも閲覧して鑑賞できる環境を整える事は、音楽芸術に大きく寄与するはずである。また、よりサブ・カルチャー的には、「ウルフルズ」を今のプロデューサーに紹介したのは実は彼であり、この事は関西のサブ・カルチャーのみならず、日本のJ-POPシーンに与えた最も大きな功績のひとつであろう。もちろん彼らは才能のあるバンドであったので、ピリピリがやらなくても成功を収めたに違いない。しかし、まだわれわれとともに互いに対バンでライブを打っていた頃、いち早く彼らの将来性に気付き、こちらが鬱陶しくなるほど彼らの可能性を力説したのは、ピリピリであった。その声はついに今のプロデューサーの耳に届いたのである。彼の残した遺品に中には、それにまつわる資料も多く含まれている。


 死因は喉頭癌であった。2008年4月に声を失ってからは、筆談でのやり取りであった。最後の入院生活は11/29にはじまり、1ヶ月足らずで終わったが、毎日のようにメモが飛んできてこき使われたものである。彼は、声を失う直前に録音された2枚目のアルバムの発売を待ちきれずに旅立ってしまった。厳密に言うならば、私が最終原稿をそろえて出稿したまさにその時、彼は入院先で亡くなったのである。12/22の午後の事だった。もちろん駆けずり回っていた関係者は誰一人それを知らず、結局、全ての仕事が完了した事を告げに病院に戻った私が、今度は彼の死を知らせるために方々へ連絡を取らなければならなかった。受領書にサインをもらうために、冥土への道を追いかけて行こうとする私を、CDジャケットをデザインした友人が身を挺して止めた。


 私は、彼の部屋の合鍵を託され、彼の手足のような状態で奔走していた。で、上に書いたような「価値ある資料」を、死後どう処分したらよいかということも相談していた。われわれの気持としては、これらがゴミとして廃棄されてしまうことは堪え難く、何らかの形で社会的存在になる事を望んだ。それがもし可能になるならばという一縷の望みを託す形で、私は家主に部屋のひとつを貸してくれるように頼んだ。それが上の写真の部屋である。ピリピリのお母様は、彼の部屋の有り様を見て、そのガラクタの山に値打ちがあるとはとても思わなかったが、それでも「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画によって、息子がいつでも好きなときに甦るのだと言って喜んでいた。


 部屋は早急に明け渡す必要があったので、私はとりあえず片っ端から部屋の中身を段ボールに詰め込み、何往復もして今住んでいる空き農家の広間へ運び込んだ。そして、「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画の実現に向けて、これらの整理をしはじめた。賛同者から、多くの文物資料が寄せられた。これらは、順次ジャンル分けされたそれぞれの収まるべき流れの中に収まって、連続的な資料の一部となるはずだった。先ず手始めに、彼が撮りためた膨大な写真から着手した。これらはネガと突き合わせ、ひとつひとつに番号を振って、ほぼ全体を時系列に並べて記録した上で、それらをテーマごとに分けて見ごたえのあるアルバムに編集した。当時、悲嘆に暮れていたお母様の心の慰めになればと思って、先ずはこれらの写真をご実家へお持ちした。このときお母様からは感謝の言葉と同時に、いかにご自分が息子の事を知らなかったかについて切々と訴えられた。そこで私は、現在整理中の遺品は、整理できたものから順番に、先ずはお母様にご覧頂いた上で、いろいろと彼についてのお話をさせていただく事が供養になると思いついた。


 一方、彼の膨大なレコード・コレクションは、事情があって生前彼が懇意にしていたレコード店に預けられていた。これもまた別の事情があって回収に大変手間取ったのだが、どうにかそのレコード店との間で精算の道筋をつけ、残ったものはお母様の許へ運んでいただいた。レコードが戻ってくると、彼の位牌の安置してある仏間はどんと狭くなった。しかし、まだ未整理の文書や資料の山がその何倍もあるのだ。整理すればある程度の嵩には収まるだろうが、お母様の慰めになればと思って始めた事も、度が過ぎれば迷惑であるので、そのあたりの事を訊いてみた。「もう野ざらしにするよりほかにないですね。」確かに仏間に置き場所はなかった。


 次に着手したのはカセットなどの録音である。これには大変多くの現地録音や、われわれの演奏、友人たちの練習風景なども録音されている。これらの音源資料に、賛同者から寄せられたものなどを合わせ、これもテーマに分けて整理した上でご実家へお持ちした。翌年の9月の事である。整理をしはじめてから9ヶ月も経っていた。持参したカセット・プレイヤーで、彼の往年の声などをお聞き頂き、お母様には喜んでいただけたと思う。


 実は、ピリピリは事情があって30年ほど実家とは連絡を絶っていた。お母様と再会したのは病状がかなり進んでからの事である。従って、お母様の中で、30年もの間、息子に何もしてやれず、再会してほどなく亡くなってしまったことへの後悔の念が高まってきた。亡くなった当初、かなり頻繁に私に電話をかけてきた。どうしようもない繰り言ばかりだが、ご心情を察してこれにつき合った。夏の間しばらくはそれも収まっていたが、カセットをお持ちした秋以降、再び頻繁にかかってくるようになった。


 「息子のものは全部一旦お返しください。」あるときお母様は仰った。カセットの整理を終え、膨大な文書の整理が進行中だった。私は驚いて、何度も聞き返したのだが、お母様は、頑として全部返すようにと仰った。心情は察して余りある。しかし全部という事になると、仏間が彼のアパートのように足の踏み場もないほどの状態になってしまう量である。しかも、お母様には到底扱えない楽器や音響機材なども多く含まれているし、ピリピリの部屋の後片づけ、遺品の保全と整理、運搬にかかるレンタカーや燃料代などの費用は、賛同者からの寄付で賄われてしまっているし、賛同者から寄せられた資料は、既に一部はピリピリの資料と混在してしまっている。それをもう一度仕分けして戻す事など、およそ無理というものだった。彼の命日が近づくにつれ、電話は三日と開けずにかかってくるようになり、次第には毎日、早朝深夜時を選ばずに鳴り続ける状態になった。長い繰り言につき合った揚句、その電話を切ったと思ったらまた鳴った。


 そもそも私がやっている整理は、「ピリピリ・メモリアム・ルーム」計画を実現する、すなわち彼の遺品を社会的存在にするためであって、お母様が仏間でため息をつくためではない。もともとはお母様も「ゴミの山」だと言い、計画の実現に賛同し、部屋も見に来られた程である。そもそもお母様が自分のために残したいと思っていたのなら、それはお母様が段取りなさる事であり、私がわざわざ動く事ではない。廃棄すると決まっていたから、それならば引き取らせてくださいと申し上げてスタートした事である。その辺の事情をお忘れになっている。私は事情を説明して、何とか思いとどまってくれるようにと頼んだが、聞き入れられず、電話は鳴り続けた。私は、お母様が息子の命日が近づいて情緒が不安定になっていると思い、とりあえず楽器や音響機材を除いた資料だけを、段ボールに詰めてお返しする事にした。「一旦」だから、そのうち邪魔になって、また引き取ってくれと言い出すだろうと思っていた。それでもこれらの荷物は軽トラック2台分となり、仏間の中央に通路のような空間を残しただけで、その両側にうずたかく積み上げられる事になった。


 その後、「一旦」は「しばらく」となり「当分」に延長されて「私の目の黒いうちは返さん」となって、いまでは「こちらで処分させていただきます」と言い出す始末である。まったくなんの意味もない行動としか思われないのだが、現物が向こうにある以上、手が出せない。全く無明であった。働かせるだけ働かされて、成果は全部巻き上げられたようなものである。しかし事がそれだけなら「目の黒い」状態でなくなれば取り戻す算段をすれば良いのだが、そこへ降って沸いたように、去年の秋になって、この空き農家と農地全体の管理が、某NPO法人に委託される事が決まり、場合によっては私がここを退去せざるを得ない可能性が出てきた。そうなると、少なくとも賛同者から寄せられた資料や、私の現地録音や研究資料だけを選り出して、残りはお母様にお返しする事になる。「メモリアム・ルーム」どころではない。とにかく仕分けできる場所があるうちに何とかしなければと思っているところへ、追い討ちをかけるように母屋からの完全退去を求められ、私は離れの狭い空間に、膨大な機材類と同居せざるを得ない状況に追いやられてしまった。とにかく今の私に出来る事は、一旦仏間にあるものを全てこちらへ引き取り、寄贈されたものをとり出して、必要があれば賛同者にお返しすることである。これらはお母様の負担によって為されるべきだが、交渉は難航するだろう。

posted by jakiswede at 22:30| Comment(0) | 音楽活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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