今日は、昨年ご自宅で転倒されて以来、介護付のグループ・ホームで生活しておられる三味線のお師匠様をお見舞いすることにした。
救急搬送された病院に入院された当初は、顔中青あざだらけでとても見られたものでなかったが、今日お会いするとすっかりお元気になっておられて表情も明るく、とても快活に笑っておられたので安心した。
表面的には、なんのお変わりもないのだが、10年も通って手こずらせた石頭で不肖のこの弟子のことがご記憶にないのである。
「あんた、そんなとこ座っとらんと、はよ私の三味線持って来んかいな、あんた胡弓ひいてや、なんやったっけな、黒髪か??、小簾の戸か??」「ほらもうすぐ出番やでなにぼやぼやしてんねんな」「屋島ぁ??・・・そんな難しいもんがあんたにひけますかいな、かんたんなんにしといたるからさっさとひきなさいんか」
こんな調子である。私が誰なのか、何故ご自分がここにいるのか、そんなつながりのことは全くどっかへ行ってしまっているのだが、三味線の曲や歌の細部のことは、実に克明に覚えておられ、私がどこまで習得したかもわかるらしい。しかし私が誰なのかは、ついに思い出していただけなかった。
お師匠様のお隣には、これまた快活な声の大きいおばあちゃんがいて、なんでも「ワシはなあ、カーネギー・ホールをいっぱいにしたんやで、あんた音楽の先生やろ?? ワシにはわかるねん」「いえ、私は弟子でお師匠様はこちら・・・」「この人が師匠 ?? なんの ??」「はい、お三味線で・・・」「このひとが三味線なんかひけますかいな、ワシはなあ、カーネギー・ホールをいっぱいにしたんやで、あんた音楽の先生やろ?? ワシにはわかるねん」「いえ、私は弟子で・・・」「ほななあ、今度ワシと一緒に出よか、あんた三味線ひくか、ほなあんたなにする ?? 」「太鼓やったら幾許か人にもお教え・・・」「ほらみてみいな、やっぱりあんた音楽の先生やろ?? ワシにはわかるねん」「いえ、私は弟子でお師匠様はこちら・・・」「この人が師匠 ?? なんの ??」「はい、お三味線で・・・」「このひとが三味線なんかひけますかいな、ワシはなあ、カーネギー・ホールをいっぱいにしたんやで、あんた音楽の先生やろ?? ワシにはわかるねん」ということを延々と繰り返すのである。何回かすると、さすがのお師匠様も「あんた、それはもう聞いたて・・・」「いやいやなにを言う。私はこのことはずっと秘密にしてきたんや、あのなワシはなあ、カーネギー・ホールをいっぱいにしたんやで、あんた音楽の先生やろ?? ワシにはわかるねん」「いえ、私は・・・」
このような平和で楽しい一時を過ごした後、一抹の心の痛みをいやすために、海を見に出た。そこには、私が物心ついた頃から建っている二つの建物が今でも健在で、そこには、本物の古き良き神戸のエキゾチシズムがある。
日ごろ土と作物ばかり見ているので、このように広い空間を見ると、頭が引き伸ばされてぱちんと切れる。
塩屋の住宅街は、まさに時に置き忘れられた神戸のリゾートの始まりである。
地中海に面したイタリアの小さな漁村を思わせる、小粋な素っ気なさに満ちている。気がつけばもう夕暮れ・・・
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