私が「西域」に興味を抱いたのは、まだ中学生のころだった。1970年代前半である。そのきっかけは、おそらく世界史で習った「ゲルマン民族の大移動」、特にその原因になったとされる中国北方騎馬民族「匈奴」の分裂と西進であっただろう。学問的に両者の関係については未だ解明されていないが、子供の幻想をかき立てるには十分だ。なぜなら、当時の中学生の、いやおそらく当時の日本の世界観というものは、圧倒的にアメリカ中心で、中国なんて「東側」のよくわからない国のひとつに過ぎず、ましてやその向こうの事なんて、全く思いもよらない事だった。なんだかよくわからない広大な砂漠の向こうに、忽然とヨーロッパが在る。今から考えればずいぶん滑稽なことだが、当時の日本人の多くは、おそらく世界の半分が空白のままの地球上に暮らし、それを不自然ともなんとも思わなかった。そんなことより日本の経済発展、目の前のカネ儲けが先だった。なんといっても「日本列島改造論」の時代だったのだから。そんな世界観だった。
「兼高かおる世界の旅」というすばらしい番組があった。あるとき、アフガニスタンか中央アジアの国が紹介された回があって、砂埃の中で男たちが憩っている。カメラはその顔を映し出す。目が青い。つまり彼らは、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」のときのマケドニア人の末裔だという。そのときの台詞を良く覚えている。「なんと、ブルー・アイズでございますのよ」これは日本人が、「青い目」は白人の証であって、それが欧米ではなくアジアの人たちにみられたのを意外に感じていたこと、その「意外」は、白人への劣等感の現れであった事を如実に示すものである。しかし、当時のインド、アフガニスタンやイランに興味を持つことは、すなわちヒッピー文化に対する憧れと受け取られ、これに子供が興味を持つなど、全くもって困った事なのであった。しかし、ユーラシア大陸という広大な舞台に繰り広げられた民族の歴史に目が開いたのはこの頃だったと思う。
子供が興味を持ってはいけなかった国々の北には、もっと興味を持ってはいけない国があった。日本からみて中国の向こう側で、ヨーロッパよりもこっち側、世界地図を広げてみても、そこには「ソ連」という広大な「空白域」が広がっているだけで、それを含む「東側」のことなんて、話題にすること自体まだまだタブー視されていた。しかし小学校の頃、「大阪万博」で「ソ連館」に入ったとき、赤と白のコントラスト、前衛的な建物の形、入館が夜になった事によるきらびやかな光、そしてウソみたいに真っ白な美しいおねーちゃん・・・すべてが力に満ちあふれていて圧倒された事、そして学校ではソ連館など「東側」のパビリオンへ行ったかどうかの調査が行われていたことを思い出す。なぜオトナというものは、普通に興味を持つことについてとやかく口出しするのだろうか、それをダイレクトに表現すれば、激烈な暴力で報いられる事は、幼少の頃より骨身に沁みているので、あえて口にはしなかったけれども、そこにはなにかがある・・・こんなことも、「空白域」について漠然とした興味を持つ事に影響していたのかもしれない。
高校へ進学すると理科と社会は選択制となり、受験対策をかねて、興味のあった哲学と外国の歴史を学ぶべく、選択は「倫理・社会」と「世界史」に絞り込んだ。そこで、古代「アレクサンダー大王の東方遠征」に始まり、「匈奴」の分裂と西進・「突厥」に代表されるトルコ系遊牧騎馬民族の活躍・「セルチューク」に代表されるトルコ系イスラームの時代・「チンギス・ハーン」の侵略とモンゴル帝国の時代・ティムールとオスマンの相次ぐトルコ帝国の時代・ロシアによる征服と革命・「清」による侵略・「ソ連」のアフガン侵攻・・・と続く苦難と激動の歴史を食い入るように学んだ。この偏重のおかげで受験には見事に失敗したが・・・
その後、世の中もいくらかマシになって、私も少しはオトナになったころに「シルクロード」が脚光を浴びるブームがやってきた。1980年から始まった「NHK特集シルクロード」だ。NHK取材班は、西側世界で初めて中国とソ連にカメラを持ち込んだ。実にそれまでは、西側世界にとって本当の秘境だった。映し出される人々の様子、街や村の建物や景色、食べ物や音楽、そしてイスラーム・・・すべてが目新しく、惹きつけられて止まないものだった。大学の4年間は、単位が重複する事を承知で、毎年この地域の歴史の講義を受講した。
主に興味を持ったのは、イスラーム化される前後の中世の歴史であったが、時を同じくして韓国で発生した「光州事件」をきっかけに、我々と同時代の民族差別にも関心が向かい、チベットやウイグルの状態を知ったのもこの頃である。スリーマイル島で原発事故が発生し、成田空港は開港したが「三里塚闘争」は続いていた。その頃には当然、世界を二分するもう一つの勢力について、かなり客観的に、人によっては狂信的に知られるようにもなっていた。そんな時代だった。NHKが演出するロマンティックなイメージ戦略に嘘臭さを感じながらも、中世のユーラシアへの憧憬は止む事なく、「千夜一夜物語」や「ルバイヤート」を読みふけったりしていた。そうした一切のものが、私にとっては基本的に「謎」だった。まさしくヴァーミリオンの砂に覆い尽くされていた感がある。全てを取り巻いて覆い尽くしてしまうものは、ただ「砂」だけだ・・・それは理論や知識としてではなく、直感として、広大なタクラマカン砂漠の向こうに沈む夕陽を、ラクダの背にまたがっていつまでも眺めている自分を夢想する事によって、なおもいっそうかき立てられるのだった。
その中央アジアへ、あこがれのシルクロードへ、世界で初めて西側のテレビが入った秘境中の秘境へ、まさか旅が出来るとは思わなかった。旅立ち前の期待は、40年近くのあこがれの蓄積が沸き立ってとどまるところを知らず、旅行情報を調べ尽くした。Tashkentはまあしゃあないとして、段取り不足でアフガニスタンとの国境の町Termezへ行けなかった残念の気を取り直して訪れたBoysunそしてSamarkand二日目にして、ほぼ私の期待はかなえられない事を悟った。まずTashkentで最初に食べたナンに強烈なドライ・イーストの匂いがした事で、もはや現実の「ナン」は、ガイドブックに書かれてあるように、イーストを使わずに醗酵させたものでない事がわかった。つまり、「ナン」とは本来そういうものだという一般論を、読む側が勝手に希望的解釈をするわけである。ウズベキスタンの全てとはいわないが、かなりの部分は、おそらくロシアに征服されて以降、共産主義革命を経て社会主義的生産体制のパーツとしてモノカルチャーに陥れられて以降、二千年に亘る歴史の積み重ねによる文化の多様性は失われてしまったようだ。食文化しかり、音楽しかり、イスラームとて例外ではない。結局のところ、残された遺跡を観光資源として守る事、せいぜいあと数十年が寿命の化石燃料を、今のうちに高く売り捌いておく事で延命したい・・・独裁政権が考える事なんて、どの国もだいたい似たようなもんだ。
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