2014年05月01日

20140413 河口正紀著『喜望放浪』

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 河口正紀著『喜望放浪』という本を読んだ。ピリピリ・コレクションにあったものだが、タイトルからして南アフリカか世界一周探検旅行記だろうと思って、読まずに放置してあった。しかし、ウズベキスタンの旅から2年余りが経ち、無性に旅に駆り立てられる衝動を感じて、手近にあったのを読んでみたというわけだ。アジアを旅行してエジプトからケニアに至り当時のザイールに入国、キサンガニまでは陸路、そこからカヌーを漕いでキンシャサへ至った青年旅行者の手記である。彼はそのまま南アフリカへ赴き、喜望峰を目前にマラリアに斃れて帰らぬ人となった。1989年のことで、享年23歳。

 読みはじめてすぐ、彼の観察力・洞察力・文章力・博識に驚かされた。文がまとまっていて読みやすいのである。とても23歳とは、しかも「あの国」を旅行中に書かれたものとは思えない。私の場合、そもそも文が長く、簡潔に書くことが苦手である上に、旅の最中は旅そのものに夢中で、体力と時間の限界まで動き回るから、とても日記など書いていられない。書いたとしても、大学ノートに日付と走り書き程度で、そこに出会った人の連絡先や、彼等との会話で使った図などが混在して、後から見て支離滅裂なものが多い。旅行記としてまとめるのは帰国してからで、帰国後も実生活の建て直しに忙殺されて書く時間などとれず、かなり年月が経ってから漸く全体像が浮かび上がるということになる。旅をしながらリアル・タイムにブログをアップする人もあるが、つくづくすごいなと思う。

 さてこの本には、著者と「カニ」君という2人連れで、ザイール河を2ヶ月近くかけてカヌーで下った話がメイン・イベントとして出てくる。河の旅の終着地キンシャサでは1989/02/24 - 03/09の間滞在していたとある。同じ頃、実は初めての海外旅行で私もキンシャサに滞在していたのだが、私の記憶ではキンシャサでは日本人には一人も会わなかった。しかし当時の日記を読み返すと、なんと2/27日付で「夜、日本人あり遠方より来たる2人。ザイール河を下りキンに至る」と走り書きがあった。その「2人」が著者と「カニ」君なのかはわからない。走り書きはそれだけで、すぐ別の話題に移っているし、当時の日記は阪神淡路大震災で一旦地中に埋もれ、何度かの雨に遭って切れ切れになっている。また日付の繋がらない頁や切れっぱしが挟まっていたりして、正確な事実が分からないからである。読み進めると、おそらくその翌々日に「山本」・「三重野」、一ヶ月後には「宮沢」という日本人旅行者の名前が出てきた。結構遭っているようである。また、「キリマンジャロでドラムを叩くような真似だけはしたくない」とか、「音楽を格闘技と勘違いしてる奴がいる」などという走り書きもあって、これは知る人ぞ知るフリージャズのドラマーで、「のなか悟空」・「弁慶」の2人と知れた。

 著書ではキンシャサで当時のリンガラ・ポップスを広めた日本人として、「ピリピリ」という名前とともに、その本名までが記されている。この著書は河口氏の旅日記をそのまま本にしたはずだから、彼がピリピリの本名を知り得たのはそのときということになる。彼の本名を知る人はそう多くはないので、河口氏が本名を知っていたとすれば、それはかなり高い確率で私が教えた、つまり私は彼等と会っていたということになる。これは私の日記を見返してみても判然としない。

 著書ではさらに、何人かの日本人の名前とともに「木村さん」という人が、コミュニケーションの研究者として登場する。この人は、ごく数年前になって交際が始まった、京大「サル学」研究所の教授だが、25年も前のこのときキンシャサで会っていたようだ。木村氏の証言によると、その全員がほぼ同じ時期にキンシャサにいて、京大筋の学者がよく使う「ゲストハウス」に滞在していたという。そこはNdoloという地区で、空港から都心へアクセスする幹線道路沿い、都心の少し手前でザイール河沿いの倉庫などが建ち並ぶあたりである。空港と都心の両方へのアクセスが良く、またNdoloには国内便が発着する空港があり、学術研究者はここで飛行機をチャーターしたりもするので、そういう向きには便利なところである。しかしエンターテインメントは皆無に近く、他の場所へ繰り出すにはタクシーを雇うか、いったん都心へ出てアプローチせざるを得ない。私には無用の場所だ。同じ街に滞在していても、都心で鉢合わせしない限り出会うチャンスは皆無に近い。

 私が滞在していたのは、ぐっと奥に入った下街のマトンゲであって、しかも私は当時音楽修業中。師匠と崇めたパーカッショニストに直々に弟子入りが許され、毎日朝早くから師匠宅で特訓、昼過ぎに帰って食事をした後、すぐにRumba Rayというバンドのレコーディングに向けたリハーサルに赴き、夜遅くまでセッションした後、週の後半はライブ・バーをはしごして朝帰り・・・という状態で殆どホテルにはいなかった。いたとしても疲れ果てて熟睡しており、レセプシオンのズジさんが全ての客を門前払いしていたはずだ。そんななかをわざわざ噂を聞きつけてか、訊ねてきてくれたと見える。

 Ndoloにいた日本人旅行者たちは、全員ナイロビ発陸路ザイール入国、フェリーやカヌーでザイール河を漕ぎ下ってキンシャサに至るバックパッカー地獄の定番ルート。しかもナイロビでは、日本人バック・パッカーの宿として有名な「リバーハウス」にたむろしていた面々だった。当時の私はそのようなツーリストの流れを、一括して「きたないなりをした」奴らと切り捨てていたので、所詮水と油、交わりようもなく、記憶からもきれいに消え去っていたものとみえる。しかし、この本を読んだおかげで、そうしたツーリストの旅の実際に触れることが出来た。と同時に、忘れてしまって旅行記に収録しなかったエピソードが、まだまだたくさんあることに驚いた。

 特に、その「きたないなりをした」奴らが根城にしていたナイロビの日本人共同宿「リバーハウス」には、私もキンシャサからの帰途に宿泊していたはずだ。なぜそこに泊まったのかは良く覚えていない。もしかしたらキンシャサで遭った日本人旅行者に聞いたのかもしれない。ホームページにある旅行記はキンシャサを発つところで終っているし、当時の日記も、ナイロビの空港を出て「タクシーを捕まえて50kgの荷物ともども200KSで走らせてRiver Sideへ入る」というところで旅全体の記録が終っている。もちろん「River Side」とは「リバーハウス」のことであろう。しかしナイロビで何をしていたか、そこからカラチ経由で成田へ戻ったはずだが、そのプロセスは全く記憶にない。

 ただ覚えているのは、私は行きしなと同じくコム・デ・ギャルソンのスーツに身を固めていた。50kgの荷物とあるように、荷物は倍に増えてスーツ・ケース2個に大きなズタ袋も持っていただろう。「宿」の入口で「レセプションはどこですか ?? 」と居合わせた人に訊ねて怪訝な目つきで睨み返されたことは覚えている。この事実を以てしても、私が如何に当時アフリカを旅するツーリストとはかけ離れた存在であったかがよく分かる。当然、私はそこでの共同生活に嫌悪したが、どうせ数日のトランジットだからと宿替えもしなかった。多分、あまりに濃厚なキンシャサでの体験に疲れ切っていて、一刻も早く帰国したかったに違いない。唯一、大阪から来た同い歳の女性とは話が合って、これからあの地獄の定番ルートへ乗り込むという彼女に、自作のリンガラ語辞書と会話集を貸したことを覚えている。かわりにちゃっかり彼女の余分な荷物を大阪まで運ばさせられたが、そんなことがあった縁で、今でも仲良くつき合っていただいている。

 著者と「カニ」君はここから出発したのだ。そしてケニアからウガンダ経由でキサンガニへ直行している。かなり危ういルートだが最短距離だ。途中、Rwenzoriを頂きとするアフリカの屋根の壮大な景観を見たはずだ。さらに西進すると、道なき道は鬱蒼とした熱帯雨林のなかでどろどろに溶け、やがてそのぬかるみごと「全てを飲み込む河」ザイールに押し出される。私はこの国を愛し音楽を好む。言葉も喋ることが出来る。人も食事も大好きだ。しかしつくづく後悔する事は、この国の自然を見なかったことだ。「あそこだけは別格だ」と、海千山千の旅の強者達が口を揃えて言う。どう別格かは両極端であって、とにかくそれほど自然も人もスケールがでかい。旅をするには、おそらく世界中で最も困難で危険、二度と行きたくない国のひとつといえるだろう。現地の旅行代理店でさえ、そのホームページのトップに「寛ぎを求めるのなら他の国へ行け」と書いてある。しかし、一旦入り込むことに成功すれば、そこは世界にも全く稀に見る地上の楽園である。それは自然の中だけではない。大都会であり巨大な村でもあるキンシャサに於ても同じこと。私が愛した彼等の音楽は、全く以て世界中のどんな音楽ともその在り方が違う。誰がなんと言おうと、彼等の音楽は世界で一番とんでもなくてスケールがでかくて素晴らしい。つまり、それは彼等の「人となり」が世界でも稀に見るほど、群を抜いてとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいからだ。それし、とりもなおさず彼等を育んだあの国の自然が、とんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいということの現れである。しかし、私は2010年の旅でさえ、ピローグで川を遡上し、黒い水の源流を徒歩で山越えしたとはいうものの、そのとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいエッセンスの根源たる「全てを飲み込む」ザイール河を見た瞬間に、飛行機でキンシャサへ舞い戻ってしまったのだ。その旅で私は確かにひとつを掴んだ。しかしひとつを掴み損ねた。あの国、あの人たち、あの音楽、あの言葉、あの味は、著者と「カニ」君がやったような、そんな旅を通して初めて分かるものなのではなかっただろうか。

 私の旅は一点集中し過ぎる。1989年の第一の旅ではキンシャサから一歩も出なかったし、1991年の第二の旅では、南部の余りの渾沌に触れたものの、音楽にこだわって地獄を見、命からがら飛んで帰ってきたものだ。ひとえに音楽の探究・・・それはそれで悔いはない。しかし同じ国を旅しながら、もっと別な旅も可能であったはずだ。しかも、それはとんでもなくてスケールがでかくて素晴らしいなものだったのではないかということが、この本を読めばよく分かる。私はいながらにしてそれらに気付かず、訊ねてきた日本人の話さえまともに覚えていないほど、いや、訊ねてきた事実さえきれいに忘れてしまっているほど、周りを見ていなかったのだ。反省する。いまから彼等と同じ旅をするには、少々私は歳をとり過ぎた。残念である。とにかくそれほど、あの国は在り方が違うのだ。

 さて不幸なことにこの本を読んだのは、世の中がゴーストライターや科学の信憑性の問題で揺れているさなかであった。もちろん河口氏の手記がそのまま本になったわけではないだろう。それにしては、あまりにも文章が整い過ぎているし、現地で聞いたはずの発音とは全く異なる書き言葉の音写が散見されるからだ。編集がどの程度手を加えたのか、彼の文体と編集との整合性など、合理的な疑問点はいくつか残る。しかし、彼はこれを書いていた旅の途上で斃れたのだ。自分の書いたものが書物になっていることはおろか、自分が死んだことさえ、マラリアの強烈な熱と悪寒と頭痛と痙攣で分からなかっただろう。25年も経っていることだ。それをここへ引きずり出すのは死者に対する礼節をわきまえないことだ。枝葉末節はどうでも良い。彼の旅が私の旅とは全く異なる在り方であったからこそ、この著書は今まで私が読んだ旅行記の中で、最も身近に親しみを感じ、気付かなかった多くのことに気付かせてくれた作品である。全く正反対の旅をしながら、両方とも事実である。それがすなわち、あの国でありあの国の人たちであり、あの国の音楽であり食事であり文化であり自然であり・・・それを教えてくれた作品である。あの国に引き寄せられた俺達の直感は、間違っていなかったのだ。







posted by jakiswede at 23:40| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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