2014年06月05日

20140512 初蝉

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 相生市内で「ど根性大根」が話題になったのは確か私が最後の食品ウラ業界ビジネスから足を洗った2005年の終り頃だったと思うが、その大根は傍らに新幹線の高架が走るもと田んぼだったところを開発して出来たなんの計画性も感じられない中途半端な住宅街のそこだけがとってつけたように整然とした国道と市の中心部とをバイパスするような形で取り付けられた直線道路脇の歩道の植え込みと植え込みの間に顔を出していた。私は赤穂と相生での商談を終えて姫路へ急いでいた。私はその道を良く使った。バイパス道路の役割も果たしていたから早く抜けたい車が集まって結構渋滞したものだった。その日も、いくつかの信号で引っかかって信号と信号の間が車で埋め尽くされ、じりじりしながら待っていた記憶がある。ふと右を見ると、なんの前触れもなく植え込みの間に伸びた大根の白が目に飛び込んできた。誰もなんの注意も払っていないらしかった。何人かの歩行者がそばを通り過ぎて行ったが気がつかない様子だった。ちょっと歩道からは見えにくい位置にあったためだろう。しかし車道側からはよく見えた。珍しい光景ではあったが私はそんなこともあるだろうとふと思っただけで特になんの感慨もなく渋滞の列が進むとそれに追随した。その日で播州方面の全ての得意先と穏便に上首尾に関係を終わらせる必要があった。この地方の商売人の気性を知り尽くしていたのでそのことで胃が痛かったことも覚えている。大根のことはそれきり忘れてしまった。数日後に報道されているのを見たがなんだか秘密が暴れたような気がした。更に数日後、予想通り何者かがその大根を切ったという報道に接した。

 交野市傍示の伊丹家の集落で最も古い民家が取り壊されて、ほんの申し訳程度の家屋と不必要に大きな倉庫に生まれ変わったのは昨年のことだったが、それらの建物はいつでも壊せるように軽量鉄骨に樹脂製の板を貼り付けただけの全く簡易なものだった。家主の話では、ここ数年交野市も市内の文化財の調査に力を入れはじめ、傍示の集落でも伊丹家の隠れ里という歴史的遺産としての価値に注目し、毎年12月6日に縁の者が一同揃って行われる法要が取り上げられもした。この集落で最も古かったその家屋は築造された時期も明らかでなく、細かい造作の様式がどこにも当てはまるものがないことが知られていたので、ひょっとしたら文化財としての価値があるのかもという期待と、そうなったらどうなるんだろうという不安の両方が親族にはあって、いろいろ相談したようだが、結局、市に目をつけられる前に壊してしまえということになった。その家屋は使われておらず、ただ家主の親族の発祥の家というだけで、筆頭者たる家主が別宅として維持管理しているだけだからである。取り壊される前に、簡単にゆかりを聞き細かいところを許可を得て写真に撮らせていただいたが、私には専門知識がないのでいかんともしがたかった。また専門知識のある人に写真を撮らせたかどうかもわからない。いずれにせよ、少なくとも百数十年前の建物がひとつ消えた。このことを惜しいと思うか、ある程度肯定的に見るか、その樹脂板の壁に印刷された、周期的に反復する木目模様を眺めながら、ふと考え込んだ。

 このジャガイモが生きているのを見たのが5月4日、引っこ抜かれているのを見たのが12日である。月曜日だったので、私は生ゴミを出すためにゴミステーションの前に行ってこれを見た。ジャガイモがこんなところに生えてくるのは、畑の管理者たる農民にとってはあるまじき事態である。したがってこれを抜くということは当然の行為であってなんの不思議も不自然もない。しかし、都市生活者の記憶がまだかなり残っている私の目からすれば、なんとももったいないというか惜しいことをしたというか、残念な気持に駆られるのである。なぜならそこは近隣の小学校の集団登校の集合場所にもなっていて、教育的見地からしてこれをありのままに育てて生育を見守るということは、非常に大きな価値を持つのではないか、農村とはいえほとんど都市生活に染まっている現代の小学生にとって、それは貴重な体験となるのではなかろうかなどと、いらぬことに思いを巡らしてしまうからである。翌週、ゴミステーションに隣接する公民館の清掃の際に、一緒になった隣保の人たちにその話を向けてみたが、やはりいらぬことであり、そんなことをして話題にでもなったら、そのジャガイモを抜くことが出来なくなり、それでは次の清掃班に迷惑がかかるというのが大半の意見であった。あるべきでないところに様々な植物が顔を出すことは別に珍しくもない。それらは田畑や水路を管理するという大切な業務上の障害になるので撤去されて当然であり、そのことに特別の感慨を抱かないのが普通である。しかし、そこに「なんとかならなかったのか」と思う心というものは、都市という、公共のインフラのために日常的に慣れ親しんだ様々の物や景観が消えて行く空間の住民の持つ、一種のノスタルジーなのかもしれない。全国に遊休農地が溢れていて、それらを継ぐ者がないと聞くと「なんとかならないのか」と思い、過疎の村の古い木造校舎が老朽化で解体されると聞くと、やはり「なんとかならないのか」と思う。それならば、農地が放棄されるまでの様々な苦難の歴史や、村が過疎に追い込まれるまでのどうにもならない時代の流れというものを引き受けるかと、逆に問われれば尻込みしてしまうのもまた都市生活者の常である。結果、遊休農地は放棄され、木造校舎は壊される。そこに、都市生活者は農村に対して、閉鎖的であるとか暗いという印象を持つ。都市や農村や山林に対する人間の関わりのバランスが崩れている。都市が郊外に拡大して行くことによってのみ、人間の生きる糧が確保される仕組みを変える必要がある。ひとりの人間が、人力でこれらを維持することの出来る規模は、そんなに小さくない。たとえば私は現在、ほぼ人力で2反程度の農地を管理出来る能力があるが、その面積は、都市部で一人のビジネスマンが一生かかって維持管理する土地、すなわちその人の住居となる宅地の面積の何十倍にも相当する。もちろん愚鈍な計算だが、これがアンバランスであることは疑いを容れない。この事態に「なんとかならないのか」と思う人が増えてくれることを期待する。

posted by jakiswede at 23:51| Comment(0) | 農作業食品加工日誌2014 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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