2014年09月21日

20140920 Mt.Maya acoustic picnic

KIF_2934.JPG


 「摩耶山リュックサック・マーケット」と同時開催の「アコースティック・ピクニック」という、音楽の好きな人たちがユルーく集う催しに行ってきた。ペダル・カホンにハイハットとシンバルをセットして待つ事しばし、これは目を引くようで、何人かのミュージシャンたちが集まってきて、とりあえず持ち歌を披露し合いつつ音合わせ、やがてそれを聞きつけたミュージシャンが集まってきて輪が広がり、気がつけば様々な楽器を持った様々なジャンルの音楽をやる人たち、しかも全員ほとんど初対面、互いに顔を見合わせ、「次どーすんねん」と不安と緊張感に包まれながらも演奏を止めるわけには行かず、歌なのか即興なのか、ルールがあるのかないのか、曲が始まったときに何人いて終ったときに何人残っていたのかも、よくわからない、しかし非常に幸せなセッション大会になったのでありました。もちろん失敗もある。コケた演奏もある。脱線したソロもある。しかし稀には全員の呼吸がぴったり合って、ぐぐぐぐっとギアが噛みあってシフトする悦び、それぞれの反応の違いを探り合う面白さ、なにがおこるかわからない恐怖、互いの音を聞きあい、尊敬し、サポートし、引っ張っていく、音楽を奏でるという根源的な悦びを分かち合い、聴衆と溶け合う感覚・・・実に素晴らしい時間でありました。

 バンドを初めて組んだ頃、演奏というものがこんなにも困難であやふやなものとは知らず、生演奏というものを初めて聞いた頃、完成された作品を見るのではなく、生きて蠢く生き物に触れるがごとく音楽はあるものだと知り、また発せられた瞬間に消滅する儚さにおののいたことを思い出す。初めて文化の異なる外国人の演奏を聴いたのはボブ・マーリーの来日公演であったのだが、レゲエなんてほとんど知られていない頃、一体何が始まるのか解らない聴衆の不安と期待、こいつらにホンマにこれ聞かせるん ?? というウェイラーズの戸惑い・・・どうなるか誰にも解らん混沌とした人の群れの中で、音は発せられて響きあってエネルギーとなって発散されたり、逆に誰にも解らずに沈んで消えてしまう事もあった。だれにもどうなるかわからないものだったはずだ。だから面白かったし、わくわくしたし、夢中になれた。いま、私が音楽に感動しにくくなっているのは、おそらく大抵の事を知ってしまったからという事もあるかも知れないが、演る側も聞く側も、予め結果についての予測がついてしまっているからではないか。演る側は失敗する事を怖れるあまり、失敗しないマニュアルを熟知して演奏に望んでくるし、聞く側も聞き所や感動のツボを予め予習してくるので、決まったところで決まった反応が出るのではないか。もう演り飽きたし聞き飽きたしどうでもよくなった。それに慣らされてきたのではないか。

 上手い下手ではない。いや下手な方が、互いの音を聞き合おうとする、つまり音に対して真摯に向き合うので、合奏したときに様々な変化と融合が生まれる。聴衆も、音楽を聴いているのではなく、演奏者を見ているのだから、演奏がどう展開するのか、目の前で起っている事態にハラハラドキドキする。芸術的価値なんてどうでも良い。そこに演奏があって、それが自分たちのものであるという実感があって、しかも聴衆とともに共有される時間があれば、そんな贅沢な事はない。それがコラボレイションではないだろうか。集まった人、上の写真の白髪の人はブルース、バイオリン弾いてる人は英国に留学中のクラシック演奏家、下の写真左から登山と演奏を強引に合体させた音楽活動をしているシンガー・ソングライター、沖縄の三線奏者、モンゴルなどアジア音楽を趣味にする人、そして手前にラテンの人・・・まったくパラパラ・・・それでもとりあえず一曲を決めて演奏する。全くやった事のないジャンルの音楽の進行に、耳だけで音を合わせていく・・・初めはうまくいかないが、やがて溶け合ってくる。聴衆が引き込まれる。そして乗ってくる・・・気がつけば、クラシックしか知らなかった英才教育中のバイオリニストが、泥臭いブルースの歌の間の手に実に美しく艶やかなソロを響かせる。これが音楽というものだ。応援します。このイベント・・・


KIF_2935.JPG

posted by jakiswede at 01:52| Comment(0) | 音楽活動 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。