台風も過ぎて大きな被害もなかったので、出荷のあと姫路へ祭を見に行く。第二神明なんて乗んの何年ぶりやろ ?? 名谷から大蔵谷にかけてのアップ・ダウンや。はははは懐かしいのう。関西に住んでてなにがおもろいちゅうてそら、播州と泉州の派っ手゛ェな祭をハシゴ出来るこってすがなほんまに。とくにこの姫路の灘のけんか祭と岸和田のだんじり祭と、どっちがエエかちゅうて、姫路の人と岸和田の人が祭の自慢話始めたらそんなもん自慢話で終るはずがのうて素手でやってるうちはええけんども刃物が出たりしたら・・・
もうすぐ土山や。ははははは、懐かしいのう。姫路のもんにしたら岸和田のだんじりなんてクルマにヒモつけて走り回ってなんどいやてな感じやけど、岸和田のもんにしたら姫路の屋台なんてわざわざ仰々し飾り立てた金ピカ担いでなんぼのもんぢゃちゅうてね、まあヨソもんからしたらどっちもどっちやねんけど、そのどっちでもええことを真剣にやる、それも怪我人や死者が出るほど真剣にやるところが祭の祭たる所以であって、そこにリクツもなんもないんですな。
加古川バイパス・・・これまた懐かしいのう・・・でもなんか知らん新しい道やジャンクション出来ててちょっと困乱。岸和田のだんじり祭は、やはりあの疾走感がたまらなく良い。「ソーリャッ、ソーリャッ、ソーリャッ、ソーリャッ」という掛け声とともにうわぁぁぁぁっちゅてヤリまわす豪快さ不安定さ、屋根に乗った大工方の捌き、おんどりゃいてもたろかいわれってな血の気が多くて気の短い気性がもっともよく出てる。だいたい掛け声が2拍子やもんね、2拍子は音楽でもどつきまわすような単純で乾いたつっぱしる感じ・・・問答無用やね。
姫路バイパスもただなんで、姫路東で降りて市川沿いを南下、勝手知ったる白浜の工業地帯の公園の駐車場に一台空きがあったんでシレっと止めて・・・それに対して播州の祭の掛け声の代表的なものは「ヨーイヤサー、ヨーイヤサー」で、これは明らかに4拍子。2拍子よりもうちょっとタメというかコシというか、なんとも知れぬ味わいがあって、そのぶん破壊的なスピード感は薄れる。しかし私は、サンバの2拍子よりもルンバの4拍子の方が性に合うてて、そのためか播州の祭の方が体感的には好きだ。でもときどき泉州の祭も懐かしくなる。
おお・・・やっとるやんけ・・・泉州が「だんじり」であるのに対して、播州のこれは「屋台」といって、テキヤの屋台と違って後の「イ」にアクセントがある。もちろん祭全体としては壇尻も神輿もあるし、幟や提灯や獅子舞もある。屋台練りは祭の一部である。けんか祭といわれるが、ぶつけ合うのは屋台ではなくて神輿である。屋台の方は、練り合わせというて仲良く調子を合わせてひっついて練る。今日訪れたのは姫路の松原八幡神社の秋祭であって、今は本社から出た屋台が写真前方の広畑 (ひろばたけ) という練り場へ入ってゆくところであろう。スタジアムのようになった広大な桟敷席から湧き上がる群衆のどよめきがすさまじく、ここが日本とは思えないほどである。ここがいわば祭最大の見せ場なのだが、あまりに混雑するので、先回りして山に登る。
山とは、前の写真のスタジアムの尾根に当たる部分であってお旅山とう。練り場でひとしきり練り合わせた屋台がその尾根を登っていくのを、観客はぞろぞろとついていくのであるが、なにがおもろいかというて急坂である。広畑で練り疲れた担ぎ手がこの坂をまともに上れるはずがなく、しょっちゅう「うわぁぁぁぁぁっ」ガシャッちゅうて屋台を落としてしまう。そのたんびにドーンドーンドーン「ヤァァァァァッ、ショイッ」ドーンドーンドーン「ヤァァァァァッ、ショイッ」ドーンドーン「ヨイヤサアヨイヤサア、ヨイヤアーサアァッ、オッショイ」ちゅうて担ぎ直すのであるが、そのさい屋台を激しくガシャンガシャンとシーソーのように揺らせて、その反動で担ぐのである。それを見るのが面白い。担ぎ直すと太鼓のテンポも上がり、ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」はははは・・・「うわぁぁぁぁぁっ」ガシャッ・・・ドーンドーンドーン「ヤァァァァァッ、ショイッ」ドーンドーンドーン「ヤァァァァァッ、ショイッ」ドーンドーン「ヨイヤサアヨイヤサア、ヨイヤアーサアァッ、オッショイ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」はははは・・・「うわぁぁぁぁぁっ」はははは・・・これを山の頂上まで繰り返す。
祭に生きるというか、一年を祭で過ごすというか、つまり村のしきたりにどっぷり頭の先まで潜り込んで、その中でなんの疑いもなく暮らすというか、外の世界がどうなってとか全然関係ない人が、実は非常にたくさんいるのであって、そういうもんなのである。この祭も、播州の祭として有名ではあるけれども、その村の散在する範囲は、山陽電鉄の白浜の宮駅の両隣くらいの狭いもので、しかも旧の浜街道の沿道沿いの漁村であって、互いにほんの目と鼻の先である。それが祭のために屋台その他を飾り立て、参加者の衣装や設備やその他もろもろの費用たるや莫大なものであって、おそらく一年の稼ぎを祭のために使い果たす、文字通り祭に生きて祭に死ぬる人生、それを誇りに思い、疑いもしない人生というものが、現実にここにはある。
この群衆、この熱気、たしかにこいつら命がけで祭やってる。全体がクレイジーだ。祭だから当たり前なんだが、しかしそれにしてもすごすぎる。この人の人生を思う。そしてあの人の人生も思い巡らしてみる。ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」ドンドコドン「ヨーイヤサァァッ」はははは・・・そうそう、祝祭である。祭礼である。無礼講である。問答無用である。思い巡らす事など野暮である。電車道を突っ走ってこそ男である。ますらおぶることこそ男らしさの最たるものである。
ふと我が身を思う。私は集落に裏口から入り込んで居着き、ために集落のしきたりによって苦しめられ、それを改革しようともがき、その結果村人と対立する事にもなった。それが、しきたりの中にどっぷりと浸かって疑いも持たない人々の作り出す祭を観て楽しんでいる。これは一体どうしたことであろうか。
ふりかえって思うに、どうせ人生なんてまあ生きててもそんなにたいしたことないんだよ、村からたたき出されたからといって、いまんとこ治安の良い日本であるからして、命まで取られる事にはならんでしょうよ、そんなことより今ヤルべきことちゃんとヤッて楽しもう・・・
屋台を降ろしてリラックスしてる逞しい担ぎ手を片ッ端゜からナンパして回る厚化粧のJKのようにね・・・楽〜〜〜〜にイコうぜ==Э.:・'゜☆。
雑踏を抜けてスタジアムを見下ろせる高台に出る。前方は白浜の埋め立て地とその向こうは播磨灘。
桟敷は村のしきたりで関係者しか入れないのだが、急斜面の通路を歩くのは自由である。進み出ると興奮の坩堝を目の当たりに見る事が出来る。谷がうなっている。谷底が沸き返っているかのようである。これこそ狂喜乱舞、祝祭の喧騒、問答無用の突込み合い、この祭の醍醐味である。
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