2015年02月23日

20120521 Kompa d'Haiti

 さて、カリブ海の音楽を紹介するのに、順序としてはジャマイカ島を出たら北のキューバ島へ向かうのが普通であろうが、それをやっちゃうと音楽性の関係で、極めて大きなひと括りの音楽的潮流であるところのラテン音楽、すなわちずっと東のプエルト・リコとニューヨークのサルサ等のスペイン語圏の音楽を合わせて紹介せねばならず、そうするとジャズへの言及が不可欠となって、地理的により広範囲で一般的なカリブ音楽の潮流であるところの、フレンチ・カリビアンの国々の音楽の紹介が遅れる。もちろん前者の方が日本ではよりメジャーなのであるが、変態的音楽遍歴を旨とするこのシリーズにおいては、日本では稀少でありながら極めてアクの強い音楽であるところのハイチのコンパを先に紹介したいのである。したがって先ずはジャマイカから東隣のイスパニョーラ島へ渡って、島の西1/3を占めるハイチの音楽を紹介した後、島の東2/3のドミニカ共和国をちょっとだけ浚って、小アンティル諸島を経巡って行こうと思う。しかるのちにキューバ、プエルト・リコヘ戻ってニューヨーク・サルサを皮切りに、アメリカ合衆国とカナダを放浪した後、翻って南米大陸へ赴こうと存ずる。長い年月がかかるであろう。
 カリブ海の音楽を紹介するとはいっても、地理的歴史的経緯に準じて体系的にやる気などさらさらない。そんなことをしても退屈なだけだし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。しかしそれにしても大雑把にカリブの島々の歴史は知っておいた方が良いと思う。非常に古くは18世紀後半にフランスからハイチへもたらされた舞踏用の音楽「Contredance」があるのだが、それはさておき、現代においてカリブ海を席巻した音楽の代表といえば「Calypso」であろう。しかし、これの黄金時代は1940年代であるので、音源も少なく録音状態も良くない。また機材や技術、電源の関係から録音時間が概して短く、長時間楽しむためのダンス・ミュージックとしての魅力を伝えている例がほとんどない。1970年代頃からは、廃棄されたドラム缶をリサイクルした楽器「スティール・パン」を取り入れて、特にトリニダード・トバゴを中心に大流行し、日本でも多く紹介されたが、私は良い音源を持っていないので省略する。ここでは、この「Calypso」が、例えばジャマイカではメント〜スカ〜レゲエへと、ハイチやドミニカ共和国 (「ドミニカ」の名を冠する国はふたつある) では300年近く前にフランスから伝わっていた「Contredance」に刺激を与えて「Kompa」や「Merengue」の成立を促し、マルティニークでは「Beguine」の、キューバでは「Son」の、プエルト・リコでは「Salsa」の、また島国ではないがカリブ海西岸のベリーズの「Garifuna」の成立に多かれ少なかれ影響を及ぼしたことを指摘するに留めたい。これを知っておくと、これらの国々の音楽のかなりの部分に同じ傾向が認められ、それを観賞の軸にすることで、これらの音楽の違いや良さを感じる手助けになるからだ。
 もうひとつ大切なことは、この地域は1492年コロンブスによるイスパニョーラ島上陸、いわゆる「地理上の発見」のあと僅かな年月で、ドミニカ国 (上記のドミニカ共和国とは別) の一部に「保護」された数千人の「カリブ人」を除いて、先住民が絶滅していることである。その後のヨーロッパ各国の植民地争奪戦・労働挑発・搾取・疫病などで、中米と南米大陸では先住民が絶滅またはそれに近い状態に追いやられた。失われた労働力を補給するために、アフリカから膨大な数の奴隷が送り込まれたが、インディヘナにおいて失われた命と文化は回復されなかった。これは「キリストの名において」行われたものではなかったが、先住民からすればキリスト教徒による蛮行と映ったことに間違いはない。いずれにせよ、カリブ海に於ける先住民の伝統音楽というものは現存しない。この点は自分たちの伝統音楽の上に形成されたアフリカン・ポップスとは全く異質な点である。南米大陸に僅かに生き残った先住民と白人や黒人との混血諸民族による、いわゆる「フォルクローレ」は存在するものの、純粋な先住民の伝統音楽が変容してモダン・ポップスに影響を与えた例はなく、主に黒人奴隷がもたらしたアフリカ音楽と、スペインやフランスを主とするヨーロッパからの植民がもたらした西洋音楽との融合が、中南米音楽の主流となる。しかも、一方の要素である黒人音楽は、奴隷として連行される際にコミュニティを破壊されているので、その伝統音楽の連関も破壊されている。したがって、その要素は確かに黒人のものだけれども、切り刻まれた断片同士が異様な繋がり方をして他の音楽と融合して行った。このことについては長くなるので割愛するが、要するにここで言いたいことは、何事につけ正統や純潔を重んじる日本人が、例えばブラジル音楽についてさえ、「純粋なブラジル音楽」ではああだこうだと論議することはナンセンスだということである。
 現在、ハイチとドミニカに二分されているイスパニョーラ島は、1787年に始まったフランス革命に触発されたハイチ人の、近来稀に見る指導者と民衆の英知と実力によって、1804年に全島が統一された。これを「ハイチ革命」とよぶ。この間、内政では民主主義を装いつつも植民地では奴隷制を堅持しようとしたナポレオンの軍を撃破し、ハイチは先進国に初めて決定的な打撃を与えた。ハイチの植民地支配からの独立は、なんとアメリカ合衆国に次いで世界2番目、しかも黒人による共和制国家としては世界初であった。しかしその後のハイチは現在まで混乱を極め、200年以上にわたって同朋による内戦や独裁による恐怖政治、スペインやフランス、更にアメリカによる植民地支配と争奪、その経緯で産まれた島の東のドミニカ共和国との戦争、更にはキューバと共産化を警戒するアメリカによる東西の代理戦争などによって、独立しては占領され、占領されては独立することを繰り返し、そこへ頻繁に自然災害が重なるなど壮絶な歴史を経験することになる。しかしそれでも大衆音楽はいつの時代にも存在し、古くは18世紀後半、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」はカリブ海地方の音楽に絶大な影響を及ぼした。特にこれはジャマイカを挟んで東北隣のキューバ島の「Habanera」の成立に直接的に寄与し、キューバ音楽の歴史がここに始まることになる。それ以降も、19世紀にイスパニョーラ島に発生した「Merengue」(メレンゲ = スペイン語) または「Meringue」(メラング = フランス語) は、その後カリブ海を席巻する「Calypso」など様々な音楽と影響しあいながらも独自のスタイルを醸成、継承し、やがて1950年代に「Kompa」を産む。これが現在のハイチ音楽の基礎となっている。
 ハイチは、ある意味ではアフリカ以上にアフリカ的な国である。ハイチの苦悩の歴史を振り返ってみると、創造性・革新性・芸術的感性など、国民性の高さに驚かされるが、ことあるごとに時の政治的圧力などの歴史的不幸が重なって、彼等の才能は発揮されてこなかった。その国民性はカーニバルに良く現れている。イスパニョーラ島は、アフリカのなかでも奴隷海岸を中心としたヨルバ系の黒人奴隷の中継貿易の拠点だったことが関係し、現在でも中南米諸国のうち最も黒人比率が高い国であるばかりでなく、黒人たちのほとんどがヨルバの伝統を受け継いでいるのである。ヨルバ系が多かったということで、ハイチの祝祭に現れるアフリカ的要素は、他の南米大陸の黒人奴隷たちが伝えた「アフリカ的」なそれに比べて、極めて有機的に核心的にまとまっている。これには「ヴードゥー」というハイチならではの独特の進化を遂げた西アフリカ起源の民間信仰が重要な役割を果たすのだが、これはブラジルのカンドンブレ・トリニダードのシャンゴ・キューバのサンテリアなどの基礎を成すものであった。彼等は「ヴードゥー」を精神的支柱にして、執拗にしかも壊滅的に降りかかる災難を乗り越えた。他の国々でも、多かれ少なかれ地下に潜伏した民間信仰というものは、往々にして伝統文化を保持する役割を果たす。これらの宗教音楽をひとまとめにして聴くことは、アフリカやブラジルやラテン音楽に共在するもののうち、特に黒人による要素のエッセンスを耳で感得するのに非常に役に立つ。

 

 コンパ・・・これだけをとってみても歴史を追うのは大変である。そんなことをしても退屈になるし、そもそもそんな集め方をしていない。好きな物を好きなようにつまみ食いしてきた程度であるので、おおきく穴が空いていることもあると思う。繰り返しになるが、良い音源をご存知の方、また事実誤認などお気付きの節にはどうかご教示願いたい。ハイチのコンパは、1970年代終りになってから日本に紹介されるようになった。しかし一握りの熱狂的ファンを確保したものの、これを紹介した著名な音楽評論家やプロデューサーの期待に反して、日本ではほとんど売れなかった。日本で売れないワールド・ミュージックとしては、いわゆる「リンガラ・ポップス」やナイジェリアの「ジュジュ」・「アパラ」・「フジ」などと順位を争うであろう。問屋の不良在庫と思われる未開封のLP盤が、大量に捨て値で流出したことが、更に悪名を高める結果になった。全てのコンパのアルバムを寄せ集めてもそうたいした数にはならないのだが、それでも個人が収集するにはそこそこの数になる。しかも誰にも良く解らない音楽であるのでジャケ買いに走る。と、かなり高い確率で駄作にぶち当たる。まあそういうもんだった。しかも、端正で簡潔をもって美とする日本人的美意識は、ここではまったく裏切られるのだ。なにしろ、アフリカ音楽といいコンパといい、要するに長ければ長いほど良いからだ。これは真実である。しかも、大抵の場合、それは同じフレーズが延々と繰り返される。どんなことが歌われているか、どんな思想が込められているか、そんなことは二の次であって、音楽として楽しめる時間が長いということは、それだけその曲の価値が高いということになる。これは全く価値観の違いであって、カーニバルや夜のコンサートでは一晩中演奏されているのが当たり前の世界、楽しみ・好意・善意というものの程度が、日本人のわきまえを無視して桁違いに大きい。ここは、なんとしてでも慣れていただかないと、世界の音楽のうちのかなりの大きな楽しみを知らずに死んでしまうことになる。
 ハイチのコンパは1950年代にNemours Jean-BaptisteとWebert Sicotという2人の音楽家によって始められた。前者の音楽は、その後発展して「コンパ・ディレクト」として開花する。これは当初「メラング」の発展形として新しかった演奏に、幅広い即興性を持たせたものであって、それはある意味で形式美の破棄であったのだが、メロディとリズムの危険なまでの即興性、更にアレンジの意外性を含むもので、これはその後のコンパの発展の感性的基礎になった。これらの音源も発掘、復刻されているので興味のある方は聴いてみられるが良い。即興性として重要なのはジャズの要素である。ハイチは1915年から20年ちかくアメリカに占領され、その時期にビッグ・バンド・ジャズが流入した。これによって様々に醸成されたコンパのうち、大掛かりなオーケストレイションを脱して、それよりは小編成のコンボによるコンパ・ディレクトを演奏する試みがもてはやされ、これは「ミニ・ジャズ・ムーブメント」と名付けられて1970年代に絶頂期を迎える。日本に紹介されるのはこの頃からであって、ここで紹介したいのも1970年代末から80年代初頭にかけての絶頂期の作品である。もともとハイチの音楽は、フランスの舞曲を取り入れた「Contredance」すなわち社交ダンスが基礎であって、これは滑らかなムード音楽の要素を大切にする。コンパも当初は楽園音楽のようなものだったのだが、やがて様々に変容するにつれ、それを打ち破る傾向に発展する。そしてこれから紹介する作品の多くについては、滑らかなダンス・ミュージックとしての気品を保ちつつも、メロディ・ハーモニー・リズムの極めてアグレッシブな阿鼻叫喚、それだけでなく、流れる演奏の土台さえもひっくり返してしまうような、全く奇想天外なアレンジを、大掛かりなオーケストレイションに裏付けられた卓越した演奏技術でもって、あたかも眉ひとつ動かさずにさらっと演奏してしまう、その醍醐味を味わっていただきたいのである。演奏している大半は黒人である。その濃厚な味は、先述したように日本人の常軌を桁違いに逸している。200年以上に及ぶ破壊的な混乱を耐え忍んできた人々の音楽である。外では砲弾が飛び交い、兵士が吹っ飛んでいる真下で夜会は催され、演奏は続けられたであろう。銃声を聞きながらリハーサルは重ねられたであろう。音楽の現場とはそういうものだ。ハイチの音楽は、アフリカ音楽以上にアフリカ的である。私がハイチの音楽に惚れ込むのは、まさに銃声の中から響き渡るような、あまりにも破天荒なエネルギーの炸裂をそこに感じるからである。コンゴの音楽とは全く異質な、しかし同等かそれ以上の電圧と熱量を、そこに感じるからである。そこに、いかなる苦境にあっても音楽によって救われる自分の魂を感じるからである。そしてなんといっても、美しく面白いからである。総論を終って、次回より各論へ行きましょか・・・

 
 
posted by jakiswede at 14:50| Comment(0) | 変態的音楽遍歴 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: