2015年10月16日

20151010 せやからいうてるやんか

 日本は、少なくともあの日までは、まだアメリカにもロシアにも、シリアに関係する全ての国や勢力に対しても、「とにかく武器を捨てろ、その爆弾一発が無駄にする金で、どれだけのシリア人が救われると思ってるんだ」と言い得る世界で唯一の国だったと思う (それが仮に中東の人たちの日本に対する認識の不充分さが原因だったとしても) 。日本は、そんなかけがえのない可能性を、自ら好き好んでドブに捨ててしまった。
 爆撃される街の一般市民の身になって想像してほしい。私はキンシャサの中心街で突発的に発生した市街戦の下をかいくぐったことがあるが、どこから撃ってくるのかわからない。機銃掃射の音はカタカタカタカタと乾いていて軽い。おもちゃか花火の音のようだ。しかし物陰からごろっと血を噴きながら男が転がり出てくると、空気は一変して地獄の様相になる。ずしっと腹に響く爆発音がすると、コンクリートのベランダが崩れ落ちてくる。どこへ逃げれば良いのかも解らない。頭を手で覆うのがやっとで、路地の角の鉄扉の中から差し招く手に向かって走って良いのかも解らない。数メートル先のコンクリート片が砕け散る。幸いにして、そのときはものの数分で銃声は止んだが、いまでもその恐怖は身にこびりついている。日本も第二次世界大戦で無差別な空襲を受けた。爆撃される街の一般市民にとっては、戦争の大義名分など関係ない。戦争は恐怖でしかない。その実態は膨大な資料として残されていて、それらはいつでも誰でも閲覧可能である。少しだけ想像力を働かせれば、その恐怖は想像出来るはずだ。
 シリアの人たちは、「なぜここでやるんだ、やるならだだっ広い砂漠でやってくれ」と叫びたい気分だろう。しかし絶対そんなことにはならない。街を占領した勢力は市民を盾にして身を守り、市民が犠牲になれば相手を非難する宣伝材料になるからだ。爆撃する側も、動くものはとりあえず撃つ。たとえ協力者であっても戦闘員が紛れ込んでいる可能性がある以上、撃てと命令されているからだ。市民が巻き添えになったとしても、せいぜい「誤爆」で片づけられ、撃った側から「遺憾の意」が伝えられるくらいだ。見切りをつけてカネのある奴は安全な国を目指すが、ない者はせいぜい頭を低くするしかない。血気にはやればテロリストだ。
 権力の空白が生まれた時に、そこへ進出してくる「ならずもの勢力」を排除することは国際貢献であるとされている。これを「抑止力」というのだが、実際に世界中で起っている紛争は、二元論的に善悪を決められるものではない。一方に集団的自衛権があるとすれば、当然他方にもある。それぞれは、より強い武力を提供してくれるスポンサーを頼んで、小競り合いをエスカレートさせる。ひとつの紛争地に多くの勢力が巻き込まれ、紛争にかこつけて漁夫の利を得る勢力も暗躍する。状況は混沌とし、収拾をつけることがより困難になる。つまり「抑止力」という考え方ではこれを抑止出来ない。
 こういうことになるから、日本は戦争を放棄した筈だと、私は理解している。憲法9条に「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という一文があるのは明らかにそのためだ。これほど明確に書かれてあることが、集団的自衛権の行使と矛盾しないという有識者のアタマが全く私には想像出来ないのだが、南スーダンでは、確実に上のような状況が起る。日本は、紛争当事者の片方に立ったのである。南スーダンの一般市民は、それまで信じていた日本の「自衛隊」に、これからは撃たれるかも知れないということを考慮しなければならなくなった。しかも日本が拠って立つのは中国が絡んだ石油利権を守るための行動に繋がる。もはや、その先を考えることは憂鬱だ。
 国際紛争は必ず起る。それを武力で解決したいと思う人々は、自分たちが先ず汗水垂らしてカネを造り、その金で地球以外のどこかへ行ってチャンバラでもやって雌雄を決してくれ。二度と帰ってくるな。一生やっとれ。一般的地球人の税金を使うな。それがイヤなら黙っとれ。先ずこいつらを排除してからでないと、紛争は解決しないと思うんだがね・・・
posted by jakiswede at 12:09| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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