2017年05月11日

20170511 Hotan-Kerya

Uyghur-Pamir 2017.05.11.3 Kerya

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于田、30年ほど前までは「于闐 (uten) 」、中国語でYútián、ウイグル語ではكېرىيەと書いてケリヤといい、同じ街でありながら、中国語とウイグル語では呼び方も指しているものも全く違う。于闐」は、古代中国の漢の時代から西域諸国のひとつとして出てくる国名で、歴史の好きな人にはこの方が通りが良い。しかし、その于闐国は現在のホータンを首都としており、なぜ180kmも東にあるこの小さな街がこの名を戴くようになったのかはわからない。一方、ウイグル語である「ケリヤ」は川の名前で、これを音写した「克里雅」という中国語もあるのでややこしい。

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 ホータンからケリヤまで4時間程度のドライブであったが、初めて実地に見るタクラマカン砂漠は、驚きの連続だった。もちろん西域南道を東に走っているのだから、大部分は砂漠の中なのだが、点在する小さな村の周辺には大規模に開発された住宅地や物流センター、工場群が並んでいる。「砂漠の道」・「シルクロード」といって懐かしむ気持ちはものの見事に破壊されてしまう。道路は高架にはなっていないものの、ほぼ片側二車線の高速道路に近い高規格道路であった。しかし、シルクロードを走っていることには間違いない。自分の先入観が粉砕されただけのことだ。途中、数回の検問があったが、パスポートを見せただけで特に問題なく通過できた。運良くタクシー組に回されたおかげで、乗客が多くて検問に時間のかかる先発のバス数台を追い越すことができた。喀拉克尔という村で休憩して田舎情緒を楽しんだ後は、ケリヤまでノンストップだった。

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 日本を出てから、かなりアクロバティックな旅の急展開でここまで来てしまって、このタクシーの数時間で少し疲れが出たようだ。私は百姓のくせにイネ科の花粉にアレルギーがあって、栽培品種の稲は大丈夫なのだが、いずれかの稗の花粉に感じるらしく、4月の終わりから5月にかけて、世間の人の花粉症が治る頃に発症する。しかしまあ空気が変われば治るだろうぐらいに軽く考えて出発したのだが、ここへ来て砂にやられたようだ。砂といっても日本でイメージするようなものではなく、もっと細かいチリのような、たとえば小麦粉をふるいにかけた時に舞い上がる粉塵のようなものが空間を漂っている。それは霧のように視界を閉ざし、数百メートル先が砂塵に消えているのである。それを直接吸い込んでいるのだから、日本の花粉症より厳しい状態だ。しかも、今朝のフライトで天山山脈を越えたり、砂嵐に翻弄されながらホータンへ降下したりしたときに、気圧の変化から耳をやられてしまい、それ以来ずっと平衡感覚がおかしいのである。右耳の聞こえがガンガンしていて、周囲の物事に現実感がない。疲れるとよく出る症状で休めば治るとはいえ、ここは異国である。喉が腫れ上がり、感覚の浮いた状態で、ケリヤのバスターミナルへ到着した。

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 ケリヤに来た理由は、ひとつには地球最後の秘境と言われるダリヤブイを一目見たいと思ったことと、崑崙山脈から流れ出て砂に消えるケリヤ川の河岸の風景が格別にシュールだったので、それを一目見たいと思ったことだった。もちろん前者は事前の調査で到底実現不可能なことがわかっていたのだが、少しでもその匂いが感じられればと思って諦めきれなかった。そして車をチャーターしてでも街から川筋に沿って、少しでも周辺の村を訪ね歩いて、その風情を楽しみたいと思っていた。しかし、結果から言って、それらの希望はことごとく打ち砕かれた。なぜなら、中国政府は、外国人が幹線道路を外れて周辺の村を単独で訪問することを事実上禁じており、それは検問という手段を通じて蟻の這い出る隙間もないほど厳しく取り締まられており、その禁を犯してまでこの外国人を車に乗せて連れ回そうというドライバーは一人もいなかったからである。

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 ここでもご多分にもれず観光開発のために膨大な労働者が投入されており、現地のウイグル人との間で緊張が高まっている。私は出発前に最新の航空写真を調べて、概ねウイグル人たちの住む旧市街、いわゆる「老城区」のあたりをつけておいたのだが、それらはすでに見渡す限りの更地となっており、おそらく立ち退きを食らったウイグル人浮浪家族がそこら中で絶望している様を目の当たりにした。それらを見られたくないので、当局は外国人を常に監視し、なるべく団体旅行の遺跡巡りと玉石拾いにカネとヒマをつぶして早々にお引き取りいただくか、さもなくば厳しい検問を繰り返して一定の範囲にとどめておこうとする。なぜなら、ここはタクラマカン砂漠最後の秘境への入り口であり、それはシルクロードの歴史遺産をサラミのように薄く切って高く売りつけたい中国政府にとってはドル箱だからである。

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 私はバスターミナルを出て東に歩いてアーケード街を見出した。事前調査でそのなかほどに外国人が泊まれるわりと安いホテルがあるはずだった。その入口に立ち止まって写真を撮っていたとき、警官の吹く笛が高らかに響き渡った。またたくまにあちこちから黒い制服を着て武装した警官が飛び出して私めがけて突進して来た。身構える隙もなく、刺股で私は首根っこを押さえられ、立木の幹に引きずり上げられて身柄を拘束された。その付け根が喉に食い込んで痛かったので、私は身振りでこれを緩めてくれと要求したが、彼らは口々に何やら叫ぶばかりで一向に緩めようとしない。やがて一人が駆け寄って来て銃の台尻で私のザックを小突いたので、荷物を置けと言っていると想像はついたのだが、首を抑えられて身動きが取れず、そのことをどうアピールして良いかわからないところへ、そいつが横から無理矢理にザックをむしり取って、中身を歩道にぶちまけようとした。しかし開け方がわからないので引きちぎろうとするから、私は激しくそれに抗議した。言葉が全く通じないので、とにかく「自分で開ける」ということを身振りで示し、「我是日本人游客。我不能中文。配合调查请调查行李。」と書いて用意してあった紙片をようやくポケットから取り出して示してアピールしていると、漢人の通行人がそれを見て助け舟を出してくれた。このときもまだ私は、彼らウイグル人が中国語の文字を解さないことに気がついていなかった。彼の取りなしで、私は刺股から解放され、自分で荷物を解いて全てを示し、危険物を所持していないことをアピールした。彼らは協議するために詰所の中に入った。私は背中に銃を押し当てられ、両手を挙げたまま、その場で待つしかなかった。助け舟を出してくれた漢人は姿を消していた。しばらくして黒い警察車両が横付けされ、別件か何かで詰所に拘束されていた数人のウイグル人とともに、私はそれに乗せられ連行された。

posted by jakiswede at 00:00| Comment(0) | Uyghur-Pamir 2017 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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